以下は、robitaさんのブログ「幸か不幸か専業主婦」での11月9日の「エネルギー、着火、発動」についての「相当なボリュームの反論」(笑)の続きである。まあ、反論というよりも、robitaさんのお考えをお借りして、自分の考えを述べているようなものである。そうした機会を与えてくれるrobitaさんには感謝します。
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robitaさん、
コダワルわけではありませんが(いや、コダワッている)(笑)
「子供もしっかり教育する」ということは、例えば、今、目の前に悪い子供がいて、その子供を「しっかり教育する」、愛国心や道徳を子供たちにたたき込む、ということではない(「ということではない」ということです)ことにコダワりたい(というか、強調したい)と思います。
ではなんなのかというと、「子供もしっかり教育する」とは、「子供を教育する」制度なり仕組みなり、(大人の)人々なりを変えていくということです(「大人の」がポイントです)。
その結果として、子供たちも自然に変わっていく、というわけです。このプロセスというか順番を強調したい、と思うわけです。子供が、ではなく、大人であり、重視すべきポイントは、大人なんですということを何度も申したいわけです。
では、教育を変えるのは、どこが主体になるのか。ここで、robitaさんが言われるように、僕は「国家主導はだめだめ」である(笑)と申しているわけです。なぜ、ダメダメなのか。それは、国家(役所)主導ではロクなものならない、と考えるからです。なぜ、お役所主導だとロクなものならないのか、ということについては、話が長くなるからはしょります。
あえて一言で言えば、役人には、この社会のことがわからないということです。明治の頃なら、社会のことをよくわかっているのは官僚だったかもしれません。しかし、今の時代は複雑になりましたから、官僚だけではとても把握しきれない、役人にはわからないこと、知らないことばかりである世の中になりました。さらに、役所の組織(官僚組織といいます)では、今の時代の変化のスピードに対応できないということも挙げられます。つまり、能力的にも組織的にもお役所主導ではダメダメになる世の中になった、ということです。国家はどうもアヤシイ、信用できない、から国家主導はダメダメと申しているのではなく、役人では能力的にも組織的にもダメダメなんです、と申しているわけです。
では、どうするのか。お役所主導はダメダメでどうするのか。お役所主導がダメということは、民間主導でいくということです。文部科学省以下、日本の教育行政や教育の内容を監視・指導する民間組織が必要だと思います。教育を行うのは国家が行う、でいいわけですが、(役所からの天下り一切なしの)民間組織がそれを指導するわけです。
でまあ、ここで突然、武道の話になるのですが(笑)、先日、極真館という空手の道場の全日本大会を見に行きました。この極真館というのは、極真会という、かつて地上最強の空手と言われた流派で、10年くらい前に創始者が亡くなったことに始まる騒動により分派した一派です。創始者が亡くなり二代目が極真会を継ぎますが、それがイベント興行をしたり、ビール会社とタイアップしたりするので、そんなものは先代の極真会本来の武道空手ではないと極真会から分派したのが極真館です。極真会から分派した流派は数多くありますが、極真館はその中で最も武道らしい空手の内容を持っていると言われています。
この極真館のもうひとつの特徴は、子供たちへの空手教育を重視していることです。非行少年の更正にも取り組んでいて、公的機関では対処できないようなケースについて、この道場は相談を受けることをしています。
先日の大会でも、子供たちの型の演武があり、見ていてほほえましかったのです。3歳ぐらいの子もいました。立っているのが、たどたどしいのに演武しているのがかわいかったです。
で、教育の話に戻りますが、例えば、「三尺下がって、師の影踏まず」という言葉があります。先生の影すら踏んではいけない、先生を敬いなさい、という意味です。僕は、この言葉を中学生だったか高校生の頃だったかに、この極真空手の本を読んで知りました。以来、「三尺下がって、師の影踏まず」という意識をもって、高校、大学と過ごしてきたつもりです。
なぜ、先生を敬うのか。それは、教える者と、教えを受ける者の間に「礼儀」という関係がなくては、伝わらない知識や技術がこの世にはある、ということだと思います。今の世の中は、教育はサービス産業で、生徒はカネを払うお客さん、そのカネに見合う教育をするのが教育のプロみたいな声がありますけど。ゼニカネの話ではないんです。教える者と、教えを受ける者の関係というのは、そういうものではないんです。礼をともなってこそ、初めて伝わる知識や技術があるんです。世の中がビジネスライクになっていくということは、この「礼をともなってこそ、初めて伝わる知識や技術」がどんどん失われていくということです。
この「三尺下がって、師の影踏まず」ということを、僕は武道に関心があったから知ることができたと思います。こうしたことは、今の学校でも教えません。仮に、学校の先生から「三尺下がって、師の影踏まずなんだぞ」と言われても、なんとも思わなかったと思います。学校とは違う世界、学校の先生とは違う人から、それを知ったから、僕はそのことを学んだのだと思います。
なんでそうなの。学校の先生が、そうしたこと教えて、生徒であるあなたは、学校の先生からそれを学べばいいではないかと思われるかもしれませんが、そうはならないのだからしかたありません。学校の先生が、学校という公権力の場で教えてくるのではダメなんです。受けつけません。
つまり、学校がどうこうではないんです。愛国心や道徳について言うのならば、学校が愛国心や道徳を教えるのではなく、学校以外のものから、そうしたものを学ぶ、そうした環境を作ることが必要なんだと思います。子供は、学ぶべき正しい知識を自分で発見して学んでいくと思うのです。もちろん、教えなくては学ぶことはありません。しかし、教える場とは学校だけではありません。ようは、そうした正しい知識と出会う(教える)環境を子供に与えることであって、そうした環境があれば、子供は自分で学んでいきます。
大切なことは、学校の勉強ではないものにも、学ぶべきものは数多くあるのだ、学校だけが学ぶべき場ではない、ということを知ることだと思います。そうした力を身につければ、学校を出た後、大人になっても、生涯にわたって「学び続ける」ということができます。
まことに失礼ながら、robitaさんの言われていることは、学校の教師が公権力をもって、曲がった針金をまっすぐにするように子供を教育せねばならない、それしかない、と言われているように読めます。まあ、学校としては、それしかない。学校というのは、公権力の行使の場である。他になにをするんですか、ということなのだと思いますが。つまり、学校側の立場としては、それしかない、学校は権力をもって強制的に教えるのである、従わない子供には罰則を与える。でいいと思います。その意味で、robitaさんの言われることは正しいと思います。
つまり、robitaさんの言われていることは、国家は国家としてどうあるべきかということなのだと思います。それ以上、それ以下のなにものでもないのではないかと思います。現実的な話として、今の日本国にそうしたことができるのかどうかということはありますが、国家には国家としての理念があるべきだと思います。robitaさんは、国家のあるべき理念を述べられているわけです。これはこれで正しいと思います。学校は公権力の行使の場である。文部科学省が定めた指導要領で教える場である。愛国心を教育するって、具体的にどうやっていいかわからないから、とりあえず国旗掲揚や国歌斉唱を強制的に行わさせる。従わない生徒は、内申書を悪くします。国家の側としては、それでいいのだと思います。
しかしながら、子供の側からすれば、それを受け入れるかというと、そうはなりません。そもそも、親や教師の言うことになんでも素直に従う子供が、果たして本当にいい子供なのかということもあります。ようは程度の問題だと思います。何度も申しますが、国が何を言おうと、教師が何を言おうと、親が何を言おうと、子供は子供で学ぶべきものを自分で選んで学んでいきます。それがある者は武道やスポーツだったり、ある者は音楽だったり、またある者はバイクだったりするわけです。学校というのは、あるひとつの「ものさし」でしかありません。必要なのは、学校以外にも「学ぶべきもの」「学ぶべき場」はあるということをわかっているのか、いないのかということです。
じゃあ、ゲーセンとかコンビニとかでダラダラしているを「自分で選んだ」者は、それはいいのですかというと、その程度のものを「自分で選んだ」んだからしかたありません。若い時期は二度とない、その時期にそれを選んだというのは、その本人の責任であって、誰のせいでも(学校のせいでも、親のせいでも)ありません。
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