March 22, 2014

続・STAP細胞論文騒動

 理研のSTAP細胞論文騒動について前回の記事を書き終えて、その後もしばらくこのことをぼおーと考えていたら、

 理研の理事長の未熟な研究者がすべて悪いかのような発言はどう考えておかしいとしか思えない。小保方さんは言うまでもなく「未熟な研究者」なのであろう。では、そうした未熟な研究者を持つ理研の長としての責任はどうなのであろうか。ワカイモンが未熟なのは当然であって、それを教育する側の責任はどうなのだろうか。

 実際のところ論文の体裁が良くないとしても、これほど小保方さんが非難されることなのだろうか。ことはペーパーの話であって、例えば小保方さんが危険な薬品を作って、それによって死者が何人も出たという話ではない。論文としての体裁が問題なのであって、そうであるのならば「正しい」体裁で再度、論文を出せばよいだけの話ではないのか。重要なのは論文としての体裁ではなく、その内容であるはずだ。

 かつて、東京大学の教養学部の教官として当時、東京外大の助手だった中沢新一が候補に挙げられ、ほぼ決まりかけていた時、中沢さんの論文は論文としての体裁に問題があるという指摘が東大の教授会議から出て、結局、教官就任の話が流れたことがあった。科学論文ではない中沢さんの論文の中の記述に「再現性がないことは科学ではない」というような指摘は今思ってもいちゃもん以外の何者でもなかった。

 STAP細胞論文騒動はまっとうな科学の論文のことだ。しかも、中沢新一さんの東大駒場騒動よりも遙かにレベルの低い「コピペやりました」であったわけであるが、これほど大騒ぎする話なのだろうかと思う。

 学術論文の体裁には決まり事がある。しかしながら、それは「決まり事」であるだけであって、その「決まり事」の通りにせよというのならば、再度その「決まり事」に従うように体裁を訂正すればいいだけのことであるはずだ。いわば事務的な手続きのことなのだ。重箱の隅をつついて若い研究者を潰して、なんの意味があるのか。

 こうしたことを書くと、オマエ、前の記事では今の教育では未熟な研究者が出るのは当然である、改善すべきだみたいに書いていたじゃないかと言われそうであるが、ワカイモンの未熟さは、大上段からその人個人を咎めても意味はなく、教育の現場で地道に正しくていくしかないではないかと言っているのだ。正しい体裁の論文を書くことは必要なことであるが、学問的に意味のある論文を書くことの方がもっと重要なはずだ。コピペをやっていいとは思わない。ただ、たかが論文の体裁のことでこれほど大騒ぎをして、一人の若い研究者の将来を潰すほどのことなのだろうかと言いたいのだ。

 研究者が完璧な論文を書こうとすることは当然のことであるが、完璧な論文であることを求めていては、いつまでたっても論文を発表することができない。論文を書き、世間に広く公表し、他人の誰かがそれに反論したり、その論文の不備を指定する。指摘された事項を検証し、正しい指摘である場合、自分の仮説を訂正する。科学の研究とはそうしたものだ。

 博士論文にコピペがあってけしからんというのならば、すべての博士論文審査では院生が提出してきた博士論文でコピペがあるかないか調べよというのだろうか。審査する側のコストは大きい。コピペ探しを徹底的にやって、それで研究全体、学問全体のレベルがあがるとでもいうのだろうか。

 欧米の大学の博士号は厳格な審査に基づき権威あるものになっている、日本もそうならなければならないという声があるが、日本の大学の博士号はこれで十分だと思う。そもそも学位というものは完全無欠なものではない。なにかを保証するものではない。博士号は目安であって、目安以外のなにものでもない。そんなものに完全無欠性を求めるというのはいかがなものであろうか。

 どうも今の世の中は、決まり事にあまりにも束縛されすぎる。決まり事さえ守っていればいいということが多すぎる。決まり事に従っているか、従っていないかのどちらかしかない。決まり事に従っていないと、どこぞからすぐ糾弾される。本来、決まり事とはどのように運用していくのかということであったはずだ。

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March 21, 2014

STAP細胞論文騒動

 理研の小保方晴子氏のSTAP細胞論文騒動について、もちろん自分にはSTAP細胞についての専門的な知識はなく、Nature誌の論文を読んでもなにが書いてあるのかさっぱり内容はわからないだろう。ここで私が論じることができるのは、いわゆる「コピペ疑惑」である。疑惑というより「コピペをやった」ということだ。

 この「コピペをやった」ということがよくわからない。学術論文はその文体にもよるが、コピペは引用であるとわかるように記述し、引用文献に載せればいいだけのことだ。こんなことは博士号取得者どころか大学の学部の学生でもできることであり、それだけのことがなぜできなかったのか。よくわからない。ようするに、それだけの話なのだ。論じるもなにもない。それだけの話だ。

 論文はそうした体裁を持っているということは、誰に教わることなく学術書をそれなりに読んでいればわかる。基本的には学部4年生になって卒業論文を書く頃には、そうした論文の書き方の常識なことはすでにわかっていることとし、卒論の内容そのものの方がウェイトが大きくなるものなのである。少なくとも1980年代を高校生から大学院生を過ごした私はそうだった。

 ただし、私がそうであったというだけで、大多数の大学生がそうであるわけではない。というか、日本の大学は学生はそうしたことは常識になっているという前提を持ち、論文の書き方という基本的なことをいちいち教える文化というか風土がない。

 このへん、そうしたことを徹底的に教えるアメリカの大学とは違う。論文の書き方など、大学生として日々本を読んでいれば自然に憶えるものだという意識が大学の教師にある。教師もまた自分が大学生の頃はそうだったわけであるし、その恩師の教師もまたそうであった。みんなそうやってきたのだ。戦前の旧制教育の時代から日本の大学はそういうものだった。自分の場合は日本の大学はそういうものであることを知っていたから、自分で知的生産の技術を身につけなくてならないと思っていた。

 日本の大学教育は昔からなぜそういうものなのであるのかというのは、そうカンタンには言えない。言えないが、あえてカンタンに言ってしまうと、この国における知識や技術の伝承は教わる側の主体性に大きく依存するということなのだろう。日本の大学は「教師が勉強しろと言わなくても学生が勝手に勉強していく」「論文の書き方など常識的なことは学生はすでにわかっている」「実利的なことよりも、もっと高度な理論や観念を学ぶ」といことがタテマエになっている。それがいいのか悪いのかはよくわからない。私個人にとっては、日本の大学の自由放任的な教育スタイルは良かったと思う。

 自由放任であるから許容範囲も広い。卒業論文に他人が書いた本の記述の丸写しの箇所があっても、まあまあで通すのが日本の大学である。そうでなくては卒業ができない大学生がごまんといる以上、細かいことは言っていられない。公的にバレれば「良い」とは言えないが、ケース・バイ・ケースで判断せざる得ない。よく言われているように、日本の大学はなにも学ばなくても卒業できる。実利的なことは卒業後に学ぶ。それが日本の大学だった。このへんの(良い意味でも悪い意味での)「ゆるさ」は大学院にもある。修士号にせよ博士号にせよ、完全な内容審査だけよる授与ではない場合もある。そこに様々な事情がからむ。

 今回のように30歳の研究者が「コピペすることが悪いこととは思っていませんでした」と堂々と言うということは、これまでなかったことだろう。今回の騒動で理研の理事長は「未熟な研究者がデータをずさん、無責任に扱った。徹底的に教育し直さないといけない」と言った。それは理研の理事長だけではなく、日本の大学教育の自由放任さの中で学ぶことを学んできたかつての大学生にとってのホンネの声だろう。何度も言うが、教わる側の主体性に大きく依存する日本の大学教育は教育する側の資質や教育の体制ではなく、教育される側の自己責任が大になるのである。

 しかしながら、今の大学や大学院の教育はそうした「未熟な研究者」を生み出す可能性があることはわかっていたはずだ。わかっていないのならば、今の大学教育の姿、研究の現場を知らないとしか言いようがない。

 いわば「コピペすることが悪いことだと教えてくれなかったじゃないですか」と糾弾してきた学生に、「オマエ、そんなことは常識だろ。オマエが悪い」と突っぱねるようなものである。もちろん、それは正しい。しかしながら、それで話を終わりにすれば、いつかまた「コピペすることが悪いことだと教えてくれなかったじゃないですか」と糾弾してくる学生が現れる。「コピペすることが悪いこととは思っていませんでした」という学生がいるのならば、「それは悪いことなのだ」と徹底的に教える教育の仕組みを考えなくてならないだろう。大学はそんな基本的なことをいちいち教えないでは世の中がやっていけない時代になったのだろう。

 こんなことは今に始まったことではない。今回たまたま、その「未熟な研究者」が国際的に有名な権威ある学術雑誌に掲載した論文の体裁がネットで指摘にされたことによって話が大きくなっただけのことだ。程度の違いをもって同様なことは数多くあるのだろう。こんなことはいつか起こると思っていた、というのが大学教育の現場にいる人たちの声なのではないだろうか。

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December 24, 2008

高校の学習指導要領の改定案をつらつらと眺める

 文部科学省の高校の学習指導要領の改定案をつらつらと眺める。

 つくづく、自分は高校生でなくてよかったなあ、と思う。なにしろ、英語の授業は英語でやれというのである。生徒の方もたいへんであろうが、教師の方もたいへんであろう。高校で英語の授業を英語でやることに意味があるのか、私はかなり疑問に思う。

 英語だけではなく、国語にせよ、理科にせよ、歴史にせよ、とにかく、あれもこれも「やれ」という。こんなたくさんの物事を教育せよというのは不可能ではないかと思う。今の高校生は、これらをやらされて、なおかつ、大学受験があるのだ。とてもではないが、オレにはできんなと思う。もちろん、文部科学省のこのお達しは、目標であり、指針である、タテマエであって、本当にこれらができると思っている人は誰もないのであるのかもしれないが。そうした、お上がタテマエをお達し、現場は現場でやっていくという構造そのものをもうやめにしてもらいたいものである。

 自分がもし、現場の高校教師であったのならば、この学習指導要領改定案を見て、ひたすらうんざりし、途方に暮れるだろう。

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April 15, 2007

学校はアレもコレもやりません

教育について、またもやrobitaさんへの返信です。返信というよりも、なんだかモノローグ(独り言)になっているのですが・・・・・。

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robitaさん、

robitaさんの言われていることは、つまりはどういうことなのか。自分の考えを交えながら、つらつら考えてみます。

ちょっと、以下、話の都合上、「わかっている人」と「わかっていない人」という言葉を使って話しを進めます。「わかっている人」って、具体的に何がわかっているのか。お前は自分はわかっている人だと思っているのか、などなど、いろいろな声があると思いますが、とりあえず、話の都合として、こうした区分けを使います。それ以上、それ以下のいかなるものでもありません。

例えば、日本国の国民の数が100人だとします。この100人の中で、戦後60年以上もたつと、いろいろダラシナイ人々が数多く増えてきて、どーも、これは宜しくない、世の中が不安だ、となってきたわけです。

「わかる人」はわかるんです。こんな世の中は宜しくない、シャンとせねばならない、と。

ところが、100人全員が「わかる人」であるわけではありません。自分からシャンとしようという意識すらない「わからない人々」がいます。この「わからない人々」をどうするのか。

そこで、robitaさんが言われているのは、この「わからない人々」はわからない人々なんだから、国家がシャンとさせるしかないじゃあないですか、と言われているのだと思います

そこで、まあ、比較的左の人々や自由主義の人々は、この「わからない人々」はどうするのですか、というと、ほおっておきましょう(笑)と言っているわけです。わからない人々なんだしぃ。牛に首に縄をつけてひっぱるようにはできません。細かく言うと、自由主義だしぃ、人権があるしぃ、ということになります。

これに、右の人はイラだちます。あんたらがそうやって、自由だ、人権だというから、この「わからない人々」は、ますます悪さをするじゃあないの。増える一方じゃあないの、と言うわけです。ここはやっぱり、国家が、「わからない人々」をシャンとさせるしかない。そうしたことをやってこそ、国家の国家たるゆえんである、と。

で、つまりどういうことなのか。これは、社会とはどういうものであるのか、という考え方が違うのだろうな、と思います。

比較的左の人々や自由主義の人々は、社会とは、100人が100人、全部同じでなくてもいい。大体、まー、30人、いや40人くらいシャンとしていればいいんじゃあないか、と思っているわけです。残りの70人とか60人はグータラしていてもええやんと思うわけです。大体、日頃グータラしていても、やるべきことはやっているというのが、世の人々というものです。

このへんの人数の割合には、いろいろあると思います。ちなみに、江戸時代のお侍さんの数は、日本国全部の一割程度であったようです。よく日本はサムライの国だったと言われますけど、武士階級は圧倒的な少数でした。江戸時代のお侍さんとは、行政職の人であり、自分で何かを生産するわけでもなく、形而上学で生きていたわけですので、そうした人々が大多数になったら、世の中は成り立たないわけですね。商人や職人やお百姓さんは、そんな堅苦しい人生なんか、まっぴらごめんだと思っていたでしょう。でも、武士でなくてよかったと思う人々も、サムライというシャンとした人たちが世の中にいて、ご政道をみてくれているという意識があったと思います。

いろいろな人がいるのが、社会なんですよ、というわけです。いろいろな人々がいて、全体としては、それで成り立っている、それが社会なんだというわけです。

しかしながら、右の人はそうは考えません。そうした、「いろんな人がいてもええやん」という考え方そのものが、世の中を悪くしたのだと考えます。社会とは、かくかくしかじかのものである、よって社会の全員、100人が100人、その目的に達するようにすべきなのだと考えます。半分ぐらいはヘラヘラしてもいいんじゃないのとは思いません。では、100人全員は誰がわかるようにするのか。もちろん国家が、です。とにかく国家というのは、そーゆーものなのだと考えるのです。社会というのは、みんなシャンとしなくてはならないと考えるのです。

ちなみに、上記の右の人々の考えは、これはこれで正論です。みんながみんなシャンとできれば、これほど良いことはありません。そして、右の人々は、それを目指しましょうと言ってるわけです。これはこれで間違っていないんです。ですから、今の世の中では、比較的右の人々、つまり保守の意見が(新聞で言えば、朝日ではなく産経とかが、雑誌で言えば、アエラではなく正論とかが)「正しい」ように見えるわけです。

しかしながら(と、しかし、が続きます)、比較的左の人々や自由主義の人々はそうは考えません。だって、そないなことゆーたかて、全部が全部、しゃんとするなんて、できるわけあらへんやろ。できもんは、できんわ。できんもんを、目標にしたって無駄やろ、と思うわけです(なぜか、関西弁)。

しかしながら(と、しかし、が続きます)、右の人々は、そのダラケた連中の中から、親を殺害する子供や、子供を虐待する親が出てきているじゃあないの、もうガマンできない、となるわけです。

このように、「わからない人々」をどうするのか、ということについて、おのおのの立場で、おのおのの考え方があります。

で、ですね。じゃあ、これは社会観、国家観の違いであり、永遠に一致することがないテーマなのかといいますと、まあ、これはこういうことなのだと思います。

まず、世の中のは、「わかっている人」と「わかっていない人」がいる、と。で、「わかっている人」は、これはもうどんどん「わかって」下さい、と。ほおっておいても「わかる人」ですから、各人、個人主義でどんどん進めて下さい、と。「わかる人」は、今の教育やマスコミはダメであることがよくわかっていますから、ネットで話し合い、ネットでつながっていきます。そうした人々が、僅かづつでも増えていくことで、世の中は変わっていきます。

で、「わかっていない人」はどうするのか。これは、わかる人になれとは言わない。ただし(ここがポイントです)せめて、これだけは、わからなくてはならないというものはある、というわけです。必要最少限度の「これだけ」があるということです。従って、必要最少限度の「これだけ」については、国家が国家権力をバックにして「わからない人々」に徹底的にわからせますよ、と。それが、国家の責任である。robitaさんが言われていることは、こういうことなんじゃあないかなと思います。

つまり、僕が思うのは、公教育の目的とは、必要最小限度のことを教えることなのである、ということです。アレも、コレもと公教育に多くを期待するのはやめよ、そんなことは、それこそ、わかっている人々は、おのおの、国家なんかにかまわずやってくれ、ということなのだと思います。公教育として教えるべきこととは、そもそもなんであるのか。ここのところが、現状は受験教育に押し流され、さらに、家族の崩壊による家庭のしつけのレベルから、産業界の要請とやらも加えられて、アレも教える必要がある、コレも教える必要があるという、アレもコレもの話になっています。そうではなくては、むしろ、アレはやらない、コレはやらない。なぜならば、アレは家庭で親が教えるべきです。コレは企業が職場でコストをかけて教えるべきです、ということです。

ここで、「家庭で親が教えるべき」と言っても、今の世の中の親は、そんなことしないじゃないの。だから、教育でやるしかないじゃないの、という話になるから、教育にアレもやらなくてはならない、となるのです。家庭がやるべきものは、家庭がやるべきなのです。それを公教育に要求するから、学校の現場は混乱と期待過剰で押しつぶされるのです。

コレコレしか学校はやりません。できません。それ以外は、家庭なり、企業なり、社会なりでやってください。学校に、アレもコレもと期待しない、ということです。アレもする、コレもする、ではなく、アレはしない、コレはしないということです。

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March 24, 2007

NHKスペシャル「学校って何ですか」を見て

 例によって、まことにご迷惑ながら「幸か不幸か専業主婦」のrobitaさんへの返信記事です。

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robitaさん、

21日水曜日のNHKスペシャルの「学校って何ですか」をご覧になりましたでしょうか。僕は、第一部の方しか見ていないのですが。あれをご覧頂ければ、まことに失礼ながら、今の教育を改善するのは、国が、愛国心だ、しつけだ、道徳心だ、競争原理の導入だなどと言っているのが、教育の現場から見れば、まったくの見当違いというか、(ひと昔前の言葉ですが)ナンセンスであることがよくわかると思います。

何が悪いのか、といいますと。国というのは、愛国心とか、しつけとか、ゆとり教育を見直せとか、そういった大枠の、おおざっぱなことを言うだけなのです。で、都道府県の教育委員会とか、各学校の校長とかは、そういった上からのお達しを、自分たちの実情に合わせて検討し、自分たち独自の教育改革を考えるということは一切やらずに、そのままで現場にポンと出し、教師たちに向かって、今後はこういう方針になった、さあ従えと言ってるだけ、ということです。

これでは現場は、たまったものではありません。ただでさえ、急がしくて生徒を十分に見ることができないのに、この状態はこのままで、さらにこの上、なにをどうしろというのか。

この現状に対して、文部科学省が悪いのではないという意見があります。上に述べたように、都道府県の教育委員会とか各学校の校長が、自分たちで何もせず、上からのお達しをそのまま現場に投げるから良くないのであるという意見です。これはまったくその通りです。

しかしながら、ですね。役所というのは、基本的に、そもそも、そういうもんなのだと思います。教育行政に限らず、役所の中間管理職というのは、本質的に「上からの達しを下へ流す」、これだけです。中間管理職のところで、上の指示を勝手に自由に変更できるものではありません。民間企業では、中間管理職は、上からの指示の枠内で、自分たちが持つ権限に基づき、おのおのの現場の実情に合わせた具体的プランを考えることをしなくてはなりません。

ところが、こうしたマネジメントが、一般的に言って役所というところでは、あまり行われていません。役所というのは、こうしたことができるような組織ではなく、かつまた、できる能力を持った人々が中間管理職になっているわけではないんです。逆に、これをやってしまうと、官僚制組織というのは成り立たないんです。これで万事うまくいく、それが官僚制というものなのです。従って、国のトップは、抽象的で観念的なスローガンを言い、中間管理職はそれをそのまま下達し、現場の教師はそれに従うことが求められる。それが教育行政組織というものなのです。

つまり、こうした組織構造そのものを変えなくては、国がどうこうしてもまったく機能しないのです。こうした仕組みそのものを変えなくてはなりません。そこで、教育行政においては、「国がナニナニをする」ということはもうやめるべきだと思います。文部科学省は廃止しましょう。いや、まあ、教育行政で、国がやるべきことは多少はありますから、文部科学省は廃止するのではなく庁に格下げしましょう。では、教育はどこかがやるのか。それは都道府県であり、今後、道州制になるのならば、各道州が(つまり、知事が)教育行政を行うものとします。国は教育には一切関与させません。国が言う学校の自由競争とは、結局、有名学校への進学率が高い、低いで、良し悪しを決めるということしかできないのです。

日本全国、北海道から沖縄まで、同じ教育をやっているような今の画一的教育はやめましょう。もっと、地域や学校や子どもたちの実情に応じた特色ある教育活動や教育カリキュラムを、小学校の段階から各学校の校長と教師が行っていくことができるようにしましょう。私立の学校では、こうしたことを行っているところがありますね。いわば、公立学校が公立でありながら、私立のようになるということです。

例えば、北海道の学校はロシアの学校と交流を高める、新潟は韓国、福岡や沖縄は中国、台湾、シンガポールなどとの交流を深めるといった、各地に合った独自の教育をやりましょう。国から強制される国歌斉唱や国旗掲揚で愛国心を感じるよりも、世界の国々の人々と話したり、お互いの国のおいしいものを食べたりする中で、自ずから生まれてくる郷土愛や愛国心の方がずっと健全で力強いものです。

しかし、では、今の都道府県にそうしたことができるのですかというと、上にも述べたように、これまで中間管理職として文部科学省からの書類にはんこを押すことだけしかしてこなかった人々なので、できません。そもそも、明治4年に森有礼が初代文部大臣になってできた文部省の設立以来、この人たちは、これしかしてこなかった人々なのです(何度も言いますが、役所というのはそういうところなので、必ずしも彼らが悪いというわけではないのですが)。ですので、研修教育なりなんなりして、徹底的に改善すべきです。それでも変わらないというのならば、人材一新しましょう。必要ならば、民間から人を導入することもあるでしょう。いずれにせよ、変えるべきは、ここなのです。「国がナニナニをする」「国がナニナニをすべきだ」という意識はもうやめましょう。

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November 30, 2006

三尺下がって、師の影踏まず

 以下は、robitaさんのブログ「幸か不幸か専業主婦」での11月9日の「エネルギー、着火、発動」についての「相当なボリュームの反論」(笑)の続きである。まあ、反論というよりも、robitaさんのお考えをお借りして、自分の考えを述べているようなものである。そうした機会を与えてくれるrobitaさんには感謝します。

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robitaさん、

 コダワルわけではありませんが(いや、コダワッている)(笑)

 「子供もしっかり教育する」ということは、例えば、今、目の前に悪い子供がいて、その子供を「しっかり教育する」、愛国心や道徳を子供たちにたたき込む、ということではない(「ということではない」ということです)ことにコダワりたい(というか、強調したい)と思います。

ではなんなのかというと、「子供もしっかり教育する」とは、「子供を教育する」制度なり仕組みなり、(大人の)人々なりを変えていくということです(「大人の」がポイントです)。

 その結果として、子供たちも自然に変わっていく、というわけです。このプロセスというか順番を強調したい、と思うわけです。子供が、ではなく、大人であり、重視すべきポイントは、大人なんですということを何度も申したいわけです。

 では、教育を変えるのは、どこが主体になるのか。ここで、robitaさんが言われるように、僕は「国家主導はだめだめ」である(笑)と申しているわけです。なぜ、ダメダメなのか。それは、国家(役所)主導ではロクなものならない、と考えるからです。なぜ、お役所主導だとロクなものならないのか、ということについては、話が長くなるからはしょります。

 あえて一言で言えば、役人には、この社会のことがわからないということです。明治の頃なら、社会のことをよくわかっているのは官僚だったかもしれません。しかし、今の時代は複雑になりましたから、官僚だけではとても把握しきれない、役人にはわからないこと、知らないことばかりである世の中になりました。さらに、役所の組織(官僚組織といいます)では、今の時代の変化のスピードに対応できないということも挙げられます。つまり、能力的にも組織的にもお役所主導ではダメダメになる世の中になった、ということです。国家はどうもアヤシイ、信用できない、から国家主導はダメダメと申しているのではなく、役人では能力的にも組織的にもダメダメなんです、と申しているわけです。

 では、どうするのか。お役所主導はダメダメでどうするのか。お役所主導がダメということは、民間主導でいくということです。文部科学省以下、日本の教育行政や教育の内容を監視・指導する民間組織が必要だと思います。教育を行うのは国家が行う、でいいわけですが、(役所からの天下り一切なしの)民間組織がそれを指導するわけです。

 でまあ、ここで突然、武道の話になるのですが(笑)、先日、極真館という空手の道場の全日本大会を見に行きました。この極真館というのは、極真会という、かつて地上最強の空手と言われた流派で、10年くらい前に創始者が亡くなったことに始まる騒動により分派した一派です。創始者が亡くなり二代目が極真会を継ぎますが、それがイベント興行をしたり、ビール会社とタイアップしたりするので、そんなものは先代の極真会本来の武道空手ではないと極真会から分派したのが極真館です。極真会から分派した流派は数多くありますが、極真館はその中で最も武道らしい空手の内容を持っていると言われています。

 この極真館のもうひとつの特徴は、子供たちへの空手教育を重視していることです。非行少年の更正にも取り組んでいて、公的機関では対処できないようなケースについて、この道場は相談を受けることをしています。

 先日の大会でも、子供たちの型の演武があり、見ていてほほえましかったのです。3歳ぐらいの子もいました。立っているのが、たどたどしいのに演武しているのがかわいかったです。

 で、教育の話に戻りますが、例えば、「三尺下がって、師の影踏まず」という言葉があります。先生の影すら踏んではいけない、先生を敬いなさい、という意味です。僕は、この言葉を中学生だったか高校生の頃だったかに、この極真空手の本を読んで知りました。以来、「三尺下がって、師の影踏まず」という意識をもって、高校、大学と過ごしてきたつもりです。

 なぜ、先生を敬うのか。それは、教える者と、教えを受ける者の間に「礼儀」という関係がなくては、伝わらない知識や技術がこの世にはある、ということだと思います。今の世の中は、教育はサービス産業で、生徒はカネを払うお客さん、そのカネに見合う教育をするのが教育のプロみたいな声がありますけど。ゼニカネの話ではないんです。教える者と、教えを受ける者の関係というのは、そういうものではないんです。礼をともなってこそ、初めて伝わる知識や技術があるんです。世の中がビジネスライクになっていくということは、この「礼をともなってこそ、初めて伝わる知識や技術」がどんどん失われていくということです。

 この「三尺下がって、師の影踏まず」ということを、僕は武道に関心があったから知ることができたと思います。こうしたことは、今の学校でも教えません。仮に、学校の先生から「三尺下がって、師の影踏まずなんだぞ」と言われても、なんとも思わなかったと思います。学校とは違う世界、学校の先生とは違う人から、それを知ったから、僕はそのことを学んだのだと思います。

 なんでそうなの。学校の先生が、そうしたこと教えて、生徒であるあなたは、学校の先生からそれを学べばいいではないかと思われるかもしれませんが、そうはならないのだからしかたありません。学校の先生が、学校という公権力の場で教えてくるのではダメなんです。受けつけません。

 つまり、学校がどうこうではないんです。愛国心や道徳について言うのならば、学校が愛国心や道徳を教えるのではなく、学校以外のものから、そうしたものを学ぶ、そうした環境を作ることが必要なんだと思います。子供は、学ぶべき正しい知識を自分で発見して学んでいくと思うのです。もちろん、教えなくては学ぶことはありません。しかし、教える場とは学校だけではありません。ようは、そうした正しい知識と出会う(教える)環境を子供に与えることであって、そうした環境があれば、子供は自分で学んでいきます。

 大切なことは、学校の勉強ではないものにも、学ぶべきものは数多くあるのだ、学校だけが学ぶべき場ではない、ということを知ることだと思います。そうした力を身につければ、学校を出た後、大人になっても、生涯にわたって「学び続ける」ということができます。

 まことに失礼ながら、robitaさんの言われていることは、学校の教師が公権力をもって、曲がった針金をまっすぐにするように子供を教育せねばならない、それしかない、と言われているように読めます。まあ、学校としては、それしかない。学校というのは、公権力の行使の場である。他になにをするんですか、ということなのだと思いますが。つまり、学校側の立場としては、それしかない、学校は権力をもって強制的に教えるのである、従わない子供には罰則を与える。でいいと思います。その意味で、robitaさんの言われることは正しいと思います。

 つまり、robitaさんの言われていることは、国家は国家としてどうあるべきかということなのだと思います。それ以上、それ以下のなにものでもないのではないかと思います。現実的な話として、今の日本国にそうしたことができるのかどうかということはありますが、国家には国家としての理念があるべきだと思います。robitaさんは、国家のあるべき理念を述べられているわけです。これはこれで正しいと思います。学校は公権力の行使の場である。文部科学省が定めた指導要領で教える場である。愛国心を教育するって、具体的にどうやっていいかわからないから、とりあえず国旗掲揚や国歌斉唱を強制的に行わさせる。従わない生徒は、内申書を悪くします。国家の側としては、それでいいのだと思います。

 しかしながら、子供の側からすれば、それを受け入れるかというと、そうはなりません。そもそも、親や教師の言うことになんでも素直に従う子供が、果たして本当にいい子供なのかということもあります。ようは程度の問題だと思います。何度も申しますが、国が何を言おうと、教師が何を言おうと、親が何を言おうと、子供は子供で学ぶべきものを自分で選んで学んでいきます。それがある者は武道やスポーツだったり、ある者は音楽だったり、またある者はバイクだったりするわけです。学校というのは、あるひとつの「ものさし」でしかありません。必要なのは、学校以外にも「学ぶべきもの」「学ぶべき場」はあるということをわかっているのか、いないのかということです。

 じゃあ、ゲーセンとかコンビニとかでダラダラしているを「自分で選んだ」者は、それはいいのですかというと、その程度のものを「自分で選んだ」んだからしかたありません。若い時期は二度とない、その時期にそれを選んだというのは、その本人の責任であって、誰のせいでも(学校のせいでも、親のせいでも)ありません。

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