May 17, 2008

『王道の狗』を読む

 今年のGWは、前半は道場で稽古の日々、後半はもっぱら韓国ドラマをレンタルのDVDで見る、というものであった。

 韓国ドラマは以前『朱蒙』を見ていたのだが、あまりの長さに、クムワ王を演じたチョン・グァンリョルが主役をしている『ホジュン』の方を見始め、これはいいということで(こっちも全64話という長さなのであるが)延々と見ている。『ホジュン』は、『朱蒙』と同じ歴史ものである。時代は、秀吉による日本軍の侵攻の場面もあるので、その頃なんだなと思う。このドラマは、実在した医師許浚の生涯のドラマである。朝鮮のこの当時の医学と言えば、当然のことながら古代中国から朝鮮に伝わった医学である。これを今日の韓国では漢医学と呼ぶようだ。すなわち古代中国の医学である。その内容の高度さに驚く。日本では、明治になって西洋の医学が導入され、漢方医学は、ほとんど絶えてしまった。今の日本では、古代中国の人間観に基づいた漢方医学をマスターしている人は数が少ない。このへん、『ホジュン』を見ながら、日本では失われしまった中国からの知識と技術の伝承について、うーむとうなってしまうのである。

 というわけで、『ホジュン』の話ではなくて。

 安彦良和の『王道の狗』全4巻を読む。この作品は、なぜか今まで読むことがなかった。昭和前期の日中戦争やノモンハン事件の話である『虹色のトロツキー』も、日本の古代史ものも、アレキサンダーもネロも、安彦さんの歴史ものは全部読んできたワタシであったが、なぜか『王道の狗』をこれまで読むことはなかった。

 なぜか。ひとつは、この物語の時代背景について、自分はよく知らないということが挙げられる。『王道の狗』は、明治17年の秩父事件から物語が始まる。そして、囚人の強制労働によって行われる北海道開拓の話になり、やがて話は朝鮮の甲申事変から金玉均の日本亡命、そして日清戦争へと進んでいく。つまり、大ざっぱに言うと、西南戦争の後から日清戦争へ至る過程の中で、この国ではどのようなことが起こったのかという物語である。実際のところ、この明治17年の秩父事件から日清戦争の始まる明治27年の間の10年間こそ、日本の近代史において最も大きなターニングポイントの時代であった。しかしながら、それはわかっているのであるが、では何が起きたのかということを深く知ることなく、ただ年月がたってしまった。この時代について、自分は何も知らないという思いから、なんとなく『王道の狗』を避けてきたのかもしれない。日清戦争がなぜ起きたのかということについて、ワタシが日本と朝鮮の関係において理解できるようになったのはつい最近のことだ。日本の近代史において、朝鮮との関係はいかなるものであったのかということの理解なしに、日本の近代は理解できない。それほどつまりは、日本にとって朝鮮は大きな意味を持っている。

 しかし、まあ。当然のことかもしれないが、『王道の狗』を読んでみても、よくわからない。つまるところ、アジアの島国であるこの国は、19世紀に西欧列強の圧力に反応するかたちで、近代国家へと国を変えていった。その国が、やがて隣国の朝鮮を支配し、中国大陸に傀儡国家である満州国を作るようになったのは、そもそも、なぜなのか。これを、今の一部の史家が言うような、ロシアの南下に対抗するために祖国防衛のために行ったとは、どう考えても言えない。ちなみに、シバリョーによると、カンタンに言うと、明治が良くて、昭和はダメだったということになる。しかし、明治17年以後の辺りから、この国はある方向へ大きく曲がっていった(「曲がっていったという」表現もナンであるが)のは確かである。それは一体何であり、なぜそうなったのか。

 わからないまま、考えてみたい。

 庶民にとって、明治の日本は、増税と不況が続き、そして国権はひたすら重いものであった。1882年に、ヨーロッパで起きた生糸価格の大暴落の影響は日本にも波及し、日本国内でも生糸の価格の大暴落が発生した。埼玉県秩父地方は、養蚕が盛んであったため、その収入のほとんどを生糸の生産に頼っていた。生糸市場の暴落と増税等は、彼らの生活を圧迫し、そこにつけこむ銀行や高利貸したちが、彼らをさらに貧困に貶めた。この農民の困窮を前にして、自由民権思想を掲げる自由党党員らが秩父困民党を結成し、武装蜂起をしたのが秩父事件である。この当時、こうした民衆の苦境を救うために自由民権運動の者たちが蜂起する事件が日本各地で数多く起こっていた。秩父事件は、それらの中でも大規模なものであった。この蜂起は、政府の警察隊や憲兵隊、そして最後には陸軍の鎮台部隊との戦闘に至り、秩父困民党は壊滅する。その後、秩父困民党の指導者や参加者は各地で次々と捕縛された。彼らの多くは、北海道の刑務所へ送られ、そこで政府の行う石狩道路の建設に使役させられる。この当時、未開拓の原野が広がる北海道で、政府は囚人を使って、過酷な労働のもとに道路建設を行っていたのである。

 その囚人の中に、『王道の狗』の二人の主人公、加納周助と風間一太郎がいた。この二人が脱獄するところから、この物語は始まる。そして、二人は、警察の執拗な追跡を振り切り、アイヌの猟師に助けられる。アイヌとしての名前を与えられ、彼らは新しい人生を始める。この二人の若者は、その後、対称的な人生を歩むことになる。

 加納が大東流合気柔術の武田惣角から柔術を学ぶところは、こんな短時間で取得できるわけないだろうと思ったが、そこはまあ、お話ということで。

 やがて加納は柔術の腕を見込まれて、金玉均のボディーガードになり、ここで加納は、朝鮮の政治家、金玉均と出会う。金玉均のことについて、今の日本では(韓国の側でも)あまり知られていない。知られていないが、この人物をキーにして、日本と朝鮮の過去を振り返ることなくして、この二つの国の近代史は理解できない。

 金玉均が、この時、日本にいたのは、甲申事変により日本に亡命してきたからである。甲申事変とは、何であったのかということを考えるには、その前に起きた壬午事変のことを考えなくてならず、壬午事変のことを考えるには、その前に起きた江華島事件について考えなくてはならず、つまりは、明治日本と李氏朝鮮はどのように出会ったのかということから考えなくてはならない。

 革命によって誕生した国家というのは、革命がひとまず終了すると、得てして、その革命のイデオロギーを他国へ伝えようとする。こんな素晴らしい人類普遍の価値を、おたくの国も取り入れなさい、ということである。しかしながら、これは伝えようする側は善の行為であると思っているが、伝えられる側は迷惑な行為になることが多い。迷惑な行為なのであるが、社会変動というのは、往々にして、そうやって行われてきたとも言える。19世紀のアジアにとって、日本は迷惑な国でもあった。

 欧米文明と出会い、その衝撃から近代国家への道を進んでいった明治日本が、隣の朝鮮を見ると、未だ極めてアジア的な旧態依然たる封建社会国家がそこにあった。欧米の近代文明を導入することこそ、アジア諸国が西洋列強の植民地なることから脱却できることなのであると考える明治日本にとって、朝鮮、そして清朝中国は、手助けして、近代化への道を歩んで欲しい相手であり、できることならば、共に近代化して、西洋列強と相対峙したいという願いのようなものがあった。幕末では、薩摩藩主の島津斉彬や勝海舟、福沢諭吉などは、そう考えていた。

 しかしながら、この理想があっさりと実現できる程、この世界は単純ではなかった。どの国にも、その国の内部事情というものがある。1868年、明治政府は朝鮮に、新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を送ったが、朝鮮側は洋服を着て、皇の詔勅だというものを倭奴が持ってくることは何事であるかと、これを拒否する。李氏朝鮮にとって、皇とは、北京にいる中国皇帝のことであり、詔勅とは、中国皇帝のみが発するものである。中華帝国の華夷秩序こそ守るべき価値観であった。しかし、明治日本にとってすれば、その考え方こそアジア的なものであり、そんなものはあっさりと捨てて、欧米の文明を導入することこそ善であるという考え方であった。ここで日本と朝鮮の双方は決裂する。

 明治日本が考える東アジア諸国間の国際関係とは、中華帝国による冊封体制的な国際関係ではなく、ヨーロッパの近代的国際法と条約に基づく国際関係であった。しかし、これをこの当時の朝鮮に理解せよというのは、およそ不可能なことであろう。結局、1875年に朝鮮の江華島付近で日本と朝鮮は武力衝突になる。武力衝突になるというか、交渉が遅々として進まない事に業を煮やした日本政府による軍事的な威圧行為、つまり「砲艦外交」であった。この22年前の1853年に、江戸湾の浦賀でペリーが徳川日本に対して行ったようなことを、明治日本は李氏朝鮮に対して行ったわけである。このことにより、朝鮮は日本との国交回復をはかり、1875年に日朝修好条規が締結される。

 当然のことながら、この条約は不平等条約、つまり朝鮮側にとって著しく不利な条約であった。朝鮮側が近代国際法や条約について不慣れであっためである。ちなみに、同じく、日本もまたこの当時、欧米諸国から日本側に不利な不平等条約を結ばされていたが、日朝修好条規では、欧米が日本に課した条約よりも、さらに不利な条約を日本は朝鮮に課している。このへん、今日の感覚からすれば、法的に間違ったことをやったわけではないが、アコギというか、悪どいことを日本はやったと非難されてもしかたがないであろう。

 日朝修好条規の後、日本以外にもアメリカ、フランス、ロシアとも条約を結ぶことになり、かくて朝鮮は開国へと進むことになるのであるが、朝鮮の国内の政治は、開化派と保守派勢力との対立が深刻化する。開化派勢力の筆頭は、高宗の王妃の閔妃とその一族である。開化派は、国の近代化に着手した。日本から軍事顧問を招き、日本と同じく近代的な軍隊を作ろうとした。この軍政改革に不満を持ったのが、旧軍の保守派であった。旧軍側の兵士は、開化派の軍隊の兵士と待遇が違うことなどに不満を持ち、ついに暴動へと発展する。この暴動の背後には、閔妃とその一族を筆頭とする開化派から、政治の実権を奪い取ろうとする保守派の陰謀があった。この反乱暴動事件を、壬午事変と呼ぶ。

 閔妃は、反乱兵士の暴動から逃れるため王宮を脱出し、当時朝鮮にいた清国の実力者である袁世凱の力を借りる。清からすれば、朝鮮が日本の力を背景として清の冊封国でなくなったことを元に戻したいという意志があった。閔妃は清に密使を送り、清からの軍隊を派遣を要請する。清はそれを受け軍隊を送る。一方、日本も軍隊を送り、日本と清のどちらが反乱を鎮圧するかの争いになったが、結局、清の軍隊が反乱を鎮圧し、閔妃の一族は政権を取り戻すことになる。以後、閔妃は日本よりも清を頼るようになる。この当時、アジアにおいて、清朝中国は今だ巨大な存在であったのである。

 壬午事変で表面化したことは、朝鮮を日本と清のどちらが支配するのかということであった。ちなみに、朝鮮の人々からすれば、朝鮮はどちらの国のものでもなく、朝鮮は朝鮮の人々の国であるが、そうしたことを顧みることは、そのどちらの国もすることはなかった。そういう時代だったと言わざるを得ない。

 朝鮮には、閔妃のやっていることは、真の意味での朝鮮の独立ではないと考える開化派の人々もいた。その人々の代表的人物が、金玉均である。そして、日本の政治家や思想家の中にも、金玉均を支持する人々が数多くいた。その一人が福沢諭吉である。福沢の理想は、アジアが共に近代化の道を歩み、西欧列強に対抗しうる独立自尊の国になることだった。福沢は、金に朝鮮の独立と近代化の希望をかける。

 1884年、金玉均らは日本の援助のもとで、クーデターを実施し、開化派が新政府樹立を宣言する。この事件を、甲申事変と呼ぶ。このクーデターは成功したかのように見えたが、袁世凱の率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め入り、日本軍は敗退し、金のクーデターは3日で失敗に終わる。この時でも、清朝中国と袁世凱は日本よりも遙かに上手だったと言えよう。開化派の新政権は崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命する。

 『王道の狗』の主人公の一人の加納が金と出会うのは、この時である。この時、日本国内では、朝鮮についての考え方が大きく変わっていた。金は、再び福沢と出会い、さらなる援助を求めようとするが、福沢はこれを拒否する。福沢の内面において、もはや朝鮮に関わることはやめようという気になってきたのである。朝鮮は言うまでもなく、清の袁世凱や西太后がやっていることは、とても近代化とは遙かに遠く、従来の旧態依然たるアジアでしかないという絶望感のようなものが、この時の福沢にはあったのではないかと思う。その挫折と怒りから、福沢はこの甲申事変の後、時事新報の社説に「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と書く。後に言う「脱亜論」である。また、欧米との不平等条約の改正を求めていた陸奥宗光は、日本が西洋と平等な国になったことを示すには、朝鮮、中国と戦争を行い、これに勝利すること以外に方法はないのではないかと考える。つまり、ここで、日本の対アジア認識が大きく方法変転するのである。

 しかし、福沢と同じくアジア主義の考えを持っていた勝海舟は、甲申事変の後になっても、福沢のようには考えなかった。『王道の狗』の中で、勝は西郷隆盛が生きていれば、こうしたことはなかっただろうと語る。勝は、どうなろうと、朝鮮の支配をめぐって日本と中国が争うことになるのは正しいことではないと考えていた。秩父事件によって弾圧され、北海道の獄に繋がれ、道路建設に使役され、アイヌへの差別を体験した加納は、日本に亡命していた金と出会い、さらに勝と出会うことで、人生の目的を知る。その目的とは、覇道ではなく王道に生きるということである。王道、覇道というのは、孟子の思想である。覇道とは、武力や権謀によって人民や他国を服従させることである。これに対して、王道とは、徳によって仁政を行うことであり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服する。王道を尊び、覇道を軽蔑せよというのが儒学の教えである。

 日本の支援をもはや得られないことを知った金は、失意のもと李鴻章と会うために上海へ行くが、これは李鴻章と閔妃の罠であった。このことは、陸奥、すなわち日本国外務省も知っていた。金は、上海で閔妃の刺客に殺害される。遺骸は分断され、朝鮮の漢陽近郊でさらしものにされる。

 日本国内では、金の殺害を援助した李鴻章と袁世凱、そして朝鮮の閔妃への反感が高まり、清そして朝鮮と戦争をすべしという気分が盛り上がる。これこそ、清との戦争をもくろむ陸奥と、陸軍の参謀本部次長の川上操六のねらいであった。朝鮮の全羅道で東学党の乱が勃発し、この乱はまたたくまに大きな乱へとなる。これに危機感を感じた閔妃は、東学党の乱を鎮圧するため、またもや清に軍の派兵を要請し、清はこれに応えて軍隊を朝鮮へ送る。明治政府は、清との戦争を避けるため、朝鮮に軍隊を送ることを望まなかった。しかし、参謀本部次長川上操六は、先の甲申事変で清朝軍に日本軍が敗北したことを繰り返すことないよう、大規模の軍隊を朝鮮に送る。

 東学党の乱は停戦で終わり、朝鮮政府は清と日本に軍隊の撤兵を要請したが、どちらもこれを拒否する。日本は清に独立国である朝鮮への内政干渉を抗議し、朝鮮には国内の改革を要求するが、清も朝鮮もこれを認めず、対立は激化した。清にとっては朝鮮を従属国にし続けることが望みなのだ。一方、日本の(というか、外務省の陸奥宗光と陸軍の川上操六の)望んでいたものは、清との戦争であり、清と戦争して、これに勝利することによって、日本の国際的地位を向上させ、清国から利権を獲得しようということなのである。とにかく、なにがなんでも戦争へと持ち込みたいということなのだ。ここに日清戦争が始まる。明治天皇は、こうした強引な開戦に激怒し、「これは朕の戦争に非ず」と述べた。

 日清戦争に勝利した日本が求めたものは、遼東半島の割譲である。李鴻章は、この要求をのまざる得なかった。しかし、このあまりにも広大な土地を日本が植民地にすることを恐れたロシアは、フランスとドイツを誘い、遼東半島領有に強く抗議した。これを、三国干渉と呼ぶ。当然のことながら、ロシアもフランスもドイツも、中国人民の国土は、中国人民のものであり、日本の侵略は間違っているという考えで、三国干渉したわけではない。西欧列強からすれば、清朝中国の衰退は明らかであり、中国を分割させておのおの領有することを考えていたが、日本は自分勝手にいち早く広大な領土を獲得しようとしていると見えたのであろう。

 『王道の狗』の中で、東学党の乱(甲午農民戦争)の首謀者であり、後の刑死となる全琫準(チョン・ボンジュン)は、加納にこう語る。「国の利益や民族の都合を越えた正しい道があることを、おまえは信じているか?」と。加納はこう答える「もちろん」と。だからこそ、加納は王道の道を歩き、革命軍を支援する武器商人であり、テロリストである人生を選択したのであろう。これに対して、陸奥宗光はそうは考えない。明治日本そのものが、そうは考えなかった。

 1924年11月、孫文は神戸で講演を行った。その講演の中で、孫文は日本の聴衆に「ヨーロッパのように覇道を求めるのかアジアの王道を歩むのか」と述べている。その翌年、孫文は他界した。

 その後の日本はどちらの道を歩んだか、後世の我々は知っている。

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February 03, 2008

2月、雪の降る東京・・・

 今日は雪、2月、雪の降る東京・・・・・・。

 うーん、これはアレだ、ちょっと早いけどアレなんだよな(遠い目)・・・・・。

 後の時代からは、何とでも言えることではあるのだけど。
 あの人たちは、やらざる得なかったのだろう。

 いや、「パトレイバー2」じゃなくて(笑)

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January 15, 2008

『朱蒙(チュモン)』見始めました

 今年のNHKの大河ドラマは、なんか朝の連続ドラマみたいなので見る気なし。そこで、じゃあというわけで、韓国歴史ドラマ『朱蒙(チュモン)』を見ようと思い(間違っても『24』を見ようではなく、『朱蒙』を見ようというのが、いかにもワタシらしい)(笑)、本日、第一話から見始める。なにしろ、韓国の国民的人気歴史ドラマなのである。これは、なんかものすごく面白いと評判いいのだ。それを聞くたびに、うーむ、そーか、コレハ見なくてはなるまい、と思っていたのである。韓国の剣術は、もちろん日本のとも違うし、中国とも違うので、こっち方面でも関心がある。

 第一話を見てみると、これは、おもしろいではないか。ちょっと韓国古代史の本を読まんと時代背景がよくわからんですね。韓国古代史というと、そもそも古代の朝鮮半島は中華帝国のひとつだったのか、それとも独立国と見ていいのか、ということで韓国と中国の間に歴史論争がある。もっか韓国は東の日本だけではなく、西の中国とも歴史論争で戦っている。そのためのドラマでもあるのかもしれない。我々は、漢に屈していたわけではないと。

 このドラマの時代の頃、我が日本国はどうだったのかというと、倭の時代である。邪馬台国の時代よりさらに前だ。竪穴式住居に住んでいて、木の実や米を食べていたという時代である。それはそれで、それなりの暮らしがある社会であったかもしれないが、こうした豪華絢爛なドラマにはならんな。日本が、とりあえず「国」らしきものになるのは(といったって、大和盆地とかの周辺の小さな王権でしかないのだけど)、これからずっと後の聖徳太子から大化の改新の時代になってからである。

 というわけで『朱蒙』、見始めました。

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January 11, 2008

『炎立つ』DVD完全版

 去年の12月あたりから、このお正月の休みにかけて、さしてここに書くこともなく、なにをしていたのかというと、別に仕事が特別忙しかったわけではなく、NHK大河ドラマの『飛ぶが如く』と『炎立つ』のDVD完全版BOXを買ってきて、それを延々と見ていた。

 本当は、『独眼竜政宗』の完全版も買おうかと思ったのであるが、なにしろ安いシロモノではないので、まあ、近所のTSUTAYAにあるんでレンタルで借りればいいやと思って買うことをやめた。大体、NHKのDVDは価格が高い。ちなみに、役所広司が宮本武蔵を演じたNHKの『宮本武蔵』のDVD完全版もBOXで全巻買ってしまった。総集編のDVDは前から持っていて、完全版がでないものかと思っていたが、ついに完全版がでたのだ。この作品は吉川英治の原作に最も近いと言われ、数多くの武蔵ものの中でもトップクラスの名作なのである。まあ、役所広司の武蔵はともかく、奥田瑛二の又八と鈴木光枝のお杉婆さんは、数多くの又八、お杉キャラの中で最高であろう。ワタシの「宮本武蔵」のベストは、この役所広司版の「宮本武蔵」と、内田吐夢監督、萬屋錦之介主演のあの名作映画「宮本武蔵」5部作の二本である。この二本がいい。

 というわけで、宮本武蔵の話ではなくて、『炎立つ』である。

 平成5年の7月から翌年の3月にかけて放送されたこの作品を見るまで、自分は「前九年の役」と「後三年の役」のことなどひとつも知らなかった。日本史の教科書にそんなことが書いてあったなあ、というぐらいで、平安末期、公家の政権から武士の政権に変わろうとする時期に、東北の方でなんか反乱みたいなことがあった、という程度の知識しかなかった。そんなわけで、『炎立つ』を見て、なんと、こんな出来事だったのかと初めて知って、それからそっち関係の本を何冊か読みまくったものだ。おかげで、今では、あの時代の奥州で何が起きたのか、それなりに理解しているつもりであるが、奥州藤原氏というと、渡辺謙の経清と、村上弘明の清衡と、渡瀬恒彦の秀衡がすぐに頭に浮かぶようになって、では、毛越寺の伽藍を建立した基衡はどうなのかというと、『炎立つ』では出てこなかったので、ここはすっぽりと理解が欠けている。まあ、その程度の知識なのだ。

 今回改めて、完全版で『炎立つ』をじっくり見直してみて、自分は何を思ったかというと、日本国とはそもそもなんなのかということだ。

 『炎立つ』の冒頭は、8世紀、坂上田村麻呂が奥州でアテルイと戦うところから始まる。ここは歴史学的にも、なぜそうなったのかよくわかっていないのであるが、坂上田村麻呂側がアテルイを許すということで、アテルイ側が降服したということになり、アテルイは京都へと連行される。ところが、朝廷はアテルイを反逆の将として処刑する。アテルイとしては、騙されたということなり、彼は恨みをもって死んでいく。この出来事から、『炎立つ』は始まる。

 NHKは、日本国の国営放送のテレビ局だ。今の日本国は、2千年前の大和朝廷の時代からつながる天皇を象徴とする政権の国家である。その国家が、その大昔、朝廷は東北地方を侵略し、かくも卑劣な手段で奥州の英雄を殺害したということを堂々とテレビで放送していいんかいということになるのであるが、そこはさすが天下のNHK、堂々と放送をしたのだから、たいしたものである。

 我々、平成の世にいる日本人は、この時代から1千年の後の世にいる。我々が思う「日本」というのは、この千年によって作られたものであって、千年前の人々にとって、この国は違うイメージで捉えられていた。日本という国家は、天皇を象徴とする国家とするのならば、千年前の日本では、そうした「国」は京都を含む西日本地域でしかなかった。奥州のアテルイの国が、京都を中心とする国に攻撃をしてきたわけではない。京都を中心とする国側が、その支配範囲を拡大するために、奥州のアテルイの国を侵略したのである。

 その昔、京都から見れば東北は遠い板東(関東平野)のさらにその向こうにある辺境の彼方の地であった。しかし、京都から見れば辺境の彼方であろうと、なんであろうと、太古の昔からその「辺境」の地に住み、生きてきた人々がいた。彼らは京都の人々から、蝦夷と呼ばれ、蔑まれてきた。

 ちなみに、その京都ですら、そこに都ができる以前には、そこには朝廷とは縁もゆかりもない人々が住んでいた。奈良もそうであったし、その前の大和盆地に天皇の政権ができる以前もそうであった。そうやって遡っていくと、この日本列島の先住民たちにとって天皇の政権とは、外部からから来た侵略政権ということになるのであるが、ここではそこまで触れない。この問題は、考えていくとややこしく、かつ奥が深い。他の文化や種族を差別し蔑むというのは、別にこの時代の日本だけにあったわけではなく、人類のどの時代でも、どこにでもあったことであり、今でも存在する。人の社会というものは、そういうものなのだと理解するしかない。

 陸奥奥六郡の俘囚の長である安部頼時が考えていたことは、奥州を京都の政権とは独立した国にすることであった。奥州には、豊富な金が産出し、名馬を生み育て、優れた工芸品を作る文化があった。その文物をもって中国と交易を行うことによって独立国としてやっていくことができるという考えである。実際に、安部頼時はそうした国を奥州に作っていたのである。この考え方は、今のボーダーレス経済の考え方と同じだ。地域国家と言ってもいい。京都の帝を中心とした体制に与することなく、奥州は奥州で独自にやっていくということだ。。もちろん、奥州が京都の公家政権を滅ぼして、日本国を治めようというのではない。京都は京都でやっていればいいのだし、奥州は奥州でやっていけばいい。共に共存して、共に栄えようという考えである。

 しかしながら、ここにそれとは違う発想というか意識がある。「奥州は奥州でやっていけばいい。京都は京都でやっていけばいい。」ではなく、「日本国全部を統一的に支配したい」という意識である。8世紀の坂上田村麻呂による奥州征伐の時代から京都の朝廷には、そうした意識があった。さらに、11世紀頃から朝廷とは別の一団もまたそうした意識を持つようになる。武士団という者たちである。西日本の武士団を束ねる平家と、東国武士団を束ねる源氏の二大武士団もまた日本全土(ただし、この時代ではまだ南の琉球と北の蝦夷は意識外である)を支配したいと思うようになる。

 なんで、そう思うのか、奥州は奥州でいいじゃんとワタシなどは思うが、そうは思わず、全部を支配したいと思うのである。全部を支配して、富を独占したいということなのであろうか。ここでちょっと思うのは、土地の所有権ということだ。「前九年の役」で源頼義が考えたことは、源氏の勢力の拡大のためには、源氏に組する武士団を数多く集めることであるが、そのためには武士たちに与える褒賞が必要なのである。褒賞とはなにかといえば、土地なのである。手下に与える土地がないと、統領は数多くの手下を集めることができないのだ。数が多くなければ合戦では勝てない。よって、より強力な軍団であるためには、より多くの兵を集めなくてはならず、より多くの兵を集めるためには、より多くの(褒賞として与えるべき)土地を所有していなくてはならない。従って、奥州の土地も手に入れたい、というのが源頼義が考えたことのようなのだ。

 さらに考えてみたい。なぜ、より多くの土地が必要なのか。ここで重要なのは、耕地面積から得られる作物の量であり、質である。ある一定の耕地面積から得られる作物の量も質も同じである場合、収益を上げるためには、耕地面積を増やすしかない。これに対して、安部の富の源は金であった。金は、金鉱から得られるものであって、つまり農業ではない。安部はその金を京都や中国と交易を行い、必要な文物を得ているのである。良質の金鉱が必要なのであって、耕地面積を増やさなくてはならないわけではない。いわば、安部の経済基盤は天然資源と、それをもとにした商業というまさに資本主義であり、源氏の経済基盤は農本主義なのである。

 では、耕地面積を増やさずに、生産性を上げることはできないのか。それこそ、すなわち技術革新である。知識や技術さえあれば、ある一定の耕地面積から得られる作物の量や質を上げることができるのだ。しかしながら、人々がそうした意識を持つようになるには、日本国内にはもはや未開のフロンティアなどなくなった、つまり、限りある土地の中で作物の生産性を上げなくてはならないということになったもっと後の世のことである(大雑把に言えば、江戸時代からであろう)。安部は京都の朝廷に対し、常に恭順の意を表し、有力公家に献上品を欠かさず送っていた。奥州の側から侵略行為をしたことなど一度もなかった。それでも安部は、朝廷勢力の代表としての源頼義に攻め滅ぼされるのである。「前九年の役」とは、そうした出来事であった。

 「前九年の役」の次の「後三年の役」が終わり、頼義の息子であり、頼義の没後、源氏の統領となった源義家が考えたことは、公家に変わって、やがて後の世に武士が政権を司り、国を運営していくという考えであった。この考えは、後に、義家の三代後の頼朝によって実現する。渡辺謙が演じる奥州藤原氏の粗である藤原経清が言う「蝦夷の誇り」という言葉を、同じ渡辺謙が演じる奥州藤原氏の最後の藤原泰衡もまた言う。このシーンは感動的だ。「蝦夷の誇り」は奥州藤原氏とともに消え去り、鎌倉幕府が登場した以後、日本の政権は大きく分ければ西日本と東日本に分かれ、天皇と武士団による二重構造の政権の時代になる。

 以後、奥州は奥州として独立し、中国と交易をして栄えるということは、二度と行われることはなかった。「蝦夷の誇り」、大和朝廷から続くこの国の政権の国史である日本史の教科書には、当然のことながらそうした記述は、ない。

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August 13, 2006

映画『太陽』を観ました

 自分にとっての昭和天皇のイメージが根本的に変わったのは、アメリカの歴史学者ハーバート・ビックスの『昭和天皇』を読んでからである。僕はこの本をアマゾンで注文して入手していたのであるが、なにしろ分厚い本なので、そのまま読まずにいたら、やがて日本語訳本が出たのでこちらの方を読んだ。読みながらも、その内容に偏りが感じられる箇所がいくつかあった。偏って解釈することはできないだろうと思うことがしばしばあった。ワタシがそう思うくらいなのだから、この内容たるや、そうとうバイアスがある見方をしていると思っていいだろう。

 しかしながら、その一方で、昭和天皇が生まれた時から、昭和の終わりに至るまで、その全体的な構図の中で考察していることについて。そして、これまでの日本の歴史書では触れることがなかった資料の存在などについて学ぶことが多い本であった。戦争中は軍部の行動に疑念を感じながらも、大元帥として軍の作戦企画に関わりながら大東亜戦争の遂行と勝利を願い、戦後は自己の保身を願っていたというビックスの意見は、「結果としてそう見える」というだけのことであると考える。この本は、天皇を象徴としての「神」ではなく、人間としての昭和天皇の存在を教えてくれたものであった。

 ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『太陽』を観る前に考えたことは、このハーバート・ビックスの『昭和天皇』と、もうひとつ、ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『ラストエンペラー』であった。満州国の皇帝であり、中国最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀の生涯をあつかったこの映画では、溥儀は皇帝の家系に生まれ、大日本帝国の傀儡ではあるが満州国の皇帝として君臨し、最後は庶民の暮らしの中で住む老人であった。昭和天皇もまた、天皇の家系に生まれ、皇太子、摂政そして天皇となり、敗戦後も最後まで天皇であり続けた。溥儀は、中国共産党によって皇帝の座から引きずり下ろされた。昭和天皇は、法廷に立つことをGHQによって免れた。昭和21年にいわゆる「人間宣言」がなされたが、戦後日本人にとっても、「人間宣言」があろうがなかろうが、昭和天皇は天皇であった。

 映画『太陽』は歴史ドキュメンタリーでもなければ、いわゆる歴史映画でもない。昭和天皇の私的な視点からの文芸作品である。大東亜戦争戦争の終結からマッカーサーとの会談までの閉鎖された数日間だけを扱っている。歴史娯楽大作であるベルトリッチの『ラストエンペラー』とはまったく別のものであった。この映画にはハーバート・ビックスのような、ひたすら昭和天皇の戦争責任を立証しようとする姿勢はない。この映画では、ヒトラーのように自殺することなく、マッカーサーと会見し、「どのような決定にも従う」と言ったことに昭和天皇の責任の取り方を表現している。これ以外に、どのような責任の取り方があったのであろうか。

 イッセー尾形が演じる昭和天皇は、口もぐも含めて、1970年代以後の昭和の天皇のテレビ映像からきているのだろうと思う。終戦直後のニュース映像で観る40歳代後半の昭和天皇とは違う感じがする。しかし、今の平成日本人の大多数の記憶にある昭和天皇は、40歳代の天皇ではなく、70歳代の昭和天皇なのだろう。その意味で違和感はない。

 映画の中で、書斎で科学者と会話するシーンがあって(このシーンの椅子の譲り合いのアドリブ・コント?がおもしろい。侍従長を演じる佐野史郎が堪えらきれずに笑っているのがわかる)(このシーンをリテイクせず、そのまま使っちゃう監督がいいですね)、この時の天皇の話し方を聴いて、ああそういえば昭和天皇はこうした話し方をされる人であったと思い出した。自分の記憶の中でも、昭和天皇ってどういう人だったのかということを忘れていたことに気がつく。歴史の知識としての昭和天皇については、それなりに知っているのだが、テレビで見た人としての昭和天皇については、ほどんど覚えていないのである。

 GHQから箱詰めのハーシーズ・チョコレートが送られてくるシーンでは、昭和天皇というよりもイッセー尾形のコントであった。こうした笑えるシーンがあるのは、外国の映画監督の文芸映画作品であるからであろう。日本人の映画監督であれば、こうしたシーンはできないだろうなと思う。ちなみに、天皇は書斎の机の上にリンカーンとダーウィンとナポレオンの胸像を飾っていたが、敗戦後、ナポレオンの胸像だけを隠すシーンがあって、これは鬼塚英昭の『天皇ロザリオ』にも書いてあった。どうやら事実らしい。この映画は、全体としてフィクションの文芸作品なのであるが、みょーなところは史実に忠実なのである。

 天皇がGHQのカメラマンからチャーリーと呼ばれ、天皇自身も帽子をとってチャップリンのようなポーズをとるシーンがある。このシーンで劇場の中では笑う声が聞こえたが、僕には笑えなかった。ああ、この人(この人と言っては不敬だな)は勝者であるアメリカが「チャーリー」と呼ぶのならば、チャップリンのマネをしようとされるのだな、そう決意したんだなと思った。その決意たるや、いかに重いものであっただろうか。

 60年前の戦争での敗北は、日本人にとって徹底的な敗北であった。原子爆弾を2回も落とされ、国土は荒廃し、総力戦的にも敗北し、科学技術にも敗北し、精神的にも敗北であった。占領下の日本では、すべての物事が日本人で決めることができず、GHQの指令に従うより他になかった。天皇ですら、裁判の場で処刑されるかもしれなかったのである。特に、外国の世論は、天皇を裁判の場に送ることを要望していた。この時期の天皇がなにを考え、なにを語ったのかということについては、今なお解明されていない。昭和天皇の日記は公開されていない。

 この映画のオフィシャルブックを読むと、ソクーロフ監督はこの映画の制作にあたって、数多くの日本の歴史学者にコンタクトをとったようなのであるが、協力を断る人が多かったようだ。この映画のパンフレットにもオフィシャルブックにも、歴史学者の文章が載っていない。歴史学の観点からすれば、資料が公開されていない以上なにも言うことができないということなのであろうか。しかし、そうであるのならば、そうした困難な資料の状況の中で研究を進めるアメリカの歴史学者はどうなのであろうか。

 もうひとつ感じたのは、今のロシアでの文芸やアートの力強さである。こうした映画が、日本で今できないのはなぜなのか。資料がないからワカリマセンというのは、学者ならばそれでいいのかもしれない。しかし、一人の人間としての昭和天皇の個としての内面を「イマジネーションする」文芸やアートや思想の力が、今の日本はあまりにも貧困化し枯渇している。

 それにしても銀座シネパトスで見たわけであるが、アノ音は地下壕のシーンでの効果音だと最初から最後まで思っていたのだけど、あれはなんと本当のあれだったわけですね・・・・・。

Taiyo_1


Cinema_1

めちゃ混んでいました。

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August 15, 2005

もうひとつの靖国神社

 靖国神社と言えば、僕たちは「英霊」を祀る場所であると思う。そこは国家神道の場であり、国家と宗教が一体化したイデオロギーの場所であるというイメージがある。そして、毎年8月15日が近づくと閣僚の公式参拝が論じられ、中国や韓国からの糾弾の声がわき上がる。8月15日当日の靖国神社は、どこから集まってきたのかと思うほど数多くの右翼のお兄さんの方々と、それを取り巻くように監視するこれまた数多くの機動隊のお兄さん方でごった返す。まこと、靖国神社をめぐる物事は、ややこしく騒がしい。

 しかしこれだけは確かなことだろう、保守派の方々も、サヨクの方々も、そして僕たちみんな、靖国神社を国家と天皇のために戦死した戦死者をカミとして顕彰する神社であると考えている。それは、靖国神社が創建以来、明治、大正、昭和と変わらないものであったと考えている。そこから、靖国神社をめぐる様々な物事が始まっていると言ってもいい。

 でも、本当にそうであったのだろうか。これまで僕も、靖国神社は国家神道のイデオロギーの場だと思っていた。しかしながら、坪内祐三『靖国』(新潮文庫)を読むことにより、それが間違いであることを知った。本書では、このように書いてある。

「明治から大正、そして昭和にかけて、「天皇」という、きわめて多面的な意味を持つ「機能」が、ある種の人々によって利用されて行くにつれ、靖国神社も、その初期から少なくとも明治末年ぐらいまで持っていた、様々な可能性、空間としての可能性が狭まれて行ったのである。そして、それは、現在にまで至っている。今、靖国神社を問題にする人は、賛否両陣営共に、イデオロギー的なことしか問題にしない。」

 つまり、イデオロギー的観点以外の靖国神社があった(し、今でもあるはずだ)ということだ。例えば、明治の頃、靖国神社では、しばしば来日してきた外国のサーカス団の興行があったなどということは、小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖國論』(幻冬舎)にも書いていなかったし、高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書)にも書いていなかった。サーカスなどというお遊びが靖国神社で行われていたことなど、保守にしてもサヨクにしても「あってはならないこと」なのであろう。しかし実際のところ、靖国神社は軍国主義のイデオロギーから落ちこぼれた少年たちにとっての楽しい遊び場だったのである。

 明治2年、東京招魂社(後に靖国神社と改名)は九段に創建された。この地を選んだのは、倒幕戦での官軍の指揮官であった大村益次郎である。戊辰戦争での戦死者を祀る施設として作られた東京招魂社は、もともと上野が候補地であったという。しかし、上野は官軍と彰義隊が戦った場所であり、いわば「賊軍」の魂がさまよう場であった。こんな邪霊を祀るわけにはいけないということで、上野は候補地からはずされる。そして、火除地であり、旗本や寄合衆等の騎射場であった場所に創建することとした。この場所なら、因縁や地霊があるわけでもなく、つまり、これから人工的に霊的な施設を作るには最適の場所であった。古代から連綿と続く天皇制の聖地のようなイメージのある靖国神社は、江戸の武士たちの訓練場だったのである。

 大村がこの地を選んだもうひとつの理由は、もともと山の手と下町に分かれていた江戸を、九段坂上を中心にして、その双方の地域を統合した「東京」という新しい都市に生まれ変わらせるためであった。本書の中でも書かれているが、神保町から靖国通りを九段方向へ歩いていくと、九段とは高台にあることがよくわかる。目の前の九段の(坂の上の)その向こうは(見えるわけではないが)山の手であり、さらにその向こうに皇居がある。振り返れば、(坂の下の)神保町の向こうは(見えるわけではないが)神田があり、浅草がある。つまり、下町が広がっているのである。

 明治5年、灯明台ができる。もととも神社の燈台は、今日の灯台の役割を果たし、洋上の船にとって目印になっていた。それまで江戸(東京)湾の漁師たちの目印は、神田明神の燈台であった。以後、東京招魂社の灯明台が、房総沖から日本橋の魚河岸へ向かう漁師たちの目印になったという。この灯明台は今でも残っているが、和洋折衷のハイカラなデザインであった。この頃から、それまで訪れる人は山口(長州)や鹿児島(薩摩)の人ぐらいだった閑散としていた神社が、いちやく有名な場所になったという。なんと、信じがたいことに、ここで競馬や運動会が開かれたこともあったのだ。サーカスがよく行われていたことは先に述べた。明治26年、東京に最初に登場した大銅像である大村益次郎の像ができると、靖国神社は東京名所にひとつになった。奉納相撲もよく行われていたという。日露戦争の後などは、九段下に日本軍の活躍をパノラマで展示する巨大な見せ物施設ができ、たいへん好評だったという。つまり、靖国神社はにぎやかな見せ物空間でもあり、民衆の遊興の場であったのだ。今日の靖国神社のイメージからは、とうてい想像できない光景が実際の靖国神社にはあった。

 初期の遊就館の設計は、お雇い外国人であったイタリア人美術家ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カペレッティである。この建築は、後の大正12年の関東大震災で大破し撤去されてしまったが、鹿鳴館以上の欧風文化の建築であったという。これは何度も強調したいことであるが、今の靖国神社は、やたら古風な純日本的な神社の装いをしているが、そもそも靖国神社は、このように欧化の雰囲気が満載したモダニズムの場所でもあった。神道という宗教とモダニズムが奇妙にマッチしているのが明治時代であった。本来、カミがいる聖なる場である神社の内部は、物産会と博覧会と博物館と美術館と見せ物小屋で連日賑わう、自由でモダンでハイカラでアナーキーでアジールな空間であったのだ。神官ですら、初期の東京招魂社には置かれていなかった。神官が置かれたのは、西南戦争以後の明治12年からである。それまでは、儀式は陸海軍の将官がやっていた。

 ここで、靖国神社への公式参拝について考えたい。本書では、以下のように論じている。

 そもそも、戦後の靖国神社への総理の公式参拝は、昭和26年の吉田総理から始まり、佐藤栄作、田中角栄も参拝している。ただし、彼らは8月15日に参拝したわけではない。なぜならば、8月15日というのは靖国神社にとっては特別な日ではないからだ。8月は年中行事がある月ではない。夏の行事は、7月のみたままつりぐらいである。靖国神社の御霊を慰霊する祭りは、春と秋の大祭と月に三回行われる月次(つきなみ)祭しかない。だからこそ、吉田総理も佐藤総理も田中総理も、春と秋の大祭の方に公式参拝していた。

 そうした慣習であったのに対して、あえて8月15日に参拝をしたのは、昭和50年の三木総理である。しかし、さすがに8月15日に参拝するのは、憲法にひっかかると思ったのか、「私人」としての参拝だとしていた。以後、総理の「私人」としての8月15日参拝が続く。では「公人」として8月15日に公式参拝をしたのは誰かというと、昭和60年の中曽根総理である。「公人」として参拝する、しかし憲法違反にならないように、中曽根総理は神社側に「手水は使わない」「祓いは受けない」「二礼二拍手はしない」と伝えた。しかも、拝殿の中での移動にも、両側にボディガードを連れていた。この無礼さには、靖国神社側は怒る。そして、この時期から中国と韓国からの靖国神社参拝への糾弾が始まるのである。

 上記のことは、先日ここで書いた戦後のメディアが8月15日を「終戦の日」と定めたこととも関連する。つまり、戦後日本では「靖国神社」と「8月15日」がひとつになることにより、大東亜戦争を「慰霊」や「鎮魂」のスタンスでしか捉えないようになり、靖国神社は大東亜戦争での戦死者しか扱っていないかのようなイメージが確立してしまった。

 そもそも、靖国神社は東京招魂社以来、幕末の戊辰戦争の戦死者から祀られている場であって、大東亜戦争での戦死者だけの場ではない。しかし、8月15日に参拝するとなると、必然的に大東亜戦争での戦死者への慰霊になってしまう。だが、本来の春秋の大祭への参拝に戻れば、大東亜戦争での戦死者だけではなく、幕末・明治維新、西南戦争などでの戦死者への慰霊という意味にもなる。こうなると、中国と韓国からの非難は成り立たなくなるであろう。

 本書『靖国』を読み、いかに自分は過去の時代を知らなかったかということを知った。靖国神社は、政治的イデオロギーの対象だけではなく、もっと広く柔軟に見る視点があったのである。昭和36年、力道山が奉納プロレスをやっていたということすら知らなかった(そりゃ知らんよな)。見せ物空間的雰囲気は、今の靖国神社にも少し残っているように思う。

 これからの靖国神社は、東京招魂社の頃に戻るというのはどうであろうか。今の僕たちが持っている靖国神社のイメージは、ある時代以後の作られた政治的イデオロギーのイメージであって、少なくとも明治の頃の靖国神社はこうではなかった。靖国神社は、もっと自由で豊かでハイカラな場所だったのだ(平成の今の時代で、ハイカラってナニ?という気もしないでもないけど)。そうした自由な頃の靖国神社に戻ることはできないのだろうか。イデオロギーでがんじがらめに凝り固まった靖国神社を、もっと広くて柔軟で大きな枠組みで考えることができないだろうか。60年目の8月15日、僕はもうひとつの靖国神社についてそう考える。

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August 08, 2005

佐藤卓己『八月十五日の神話』を読む

 佐藤卓己著『八月十五日の神話』(ちくま新書)を読んだ。日本が、ポツダム宣言を受諾したのは8月14日である。そして、連合軍への降伏文書に署名をしたのは9月2日である。つまり、太平洋戦争が終結したのは9月2日なのだ。しかしながら、今日、我々は8月15日を「終戦の日」としている。まるであたかも、この日に戦争が終わったかのように思っている。これは一体なぜなのか。本書は、この疑問に答えるものである。

 ここで、終戦当時の状況を整理したい。

7月26日 トルーマン大統領がポツダム宣言を発表
8月06日 広島に原爆投下
8月08日 ソ連が日本に宣戦布告(ソ連による日ソ不可侵条約違反)
8月09日 長崎に原爆投下 
8月14日 御前会議にてポツダム宣言受諾を決定
8月15日 昭和天皇による終戦の詔勅の放送
8月19日 大本営より内地(日本国内)部隊への全面的な戦闘停止命令
8月22日 大本営より外地(日本国外)部隊への全面的な戦闘停止命令
9月02日 降伏文書調印
9月05日 ソ連軍、北方四島を占領

 つまり、上記を見てもわかるように、8月15日は天皇の玉音放送があったということだけで、連合国へのポツダム宣言受諾の通知は、その前日の14日である。それも「ポツダム宣言受諾した」という通知だけであって、実質的に日本の降伏が決定するのは、9月2日の東京湾の米戦艦ミズーリ号上での降伏文書の調印である。連合国の多くは、9月2日を対日戦勝記念日としている。太平洋戦争の終結は、常識的に考えて、日本国が降伏文書の調印した9月2日なのである。しかしながら、戦後の日本では、終戦の日を9月2日と思う人は数少ない、やはり8月15日になる。

 この8月15日を、終戦の日であると戦後日本人の意識の中に植えつけたのはメディアであった。戦後日本は、8月15日に意味を持たせることで、9月2日を直視することを意図的に避けてきた。本書では、まず8月15日の玉音放送の放送後の報道写真のほとんどが、偽装された写真である可能性が高いことを立証し、戦後の日本人の記憶がメディアによって創られたことを指摘する。さらに、講和条約が発効する1952年から、新聞が8月15日を「終戦の日」というイメージの定着を本格化させた。この時期から、新聞紙上には「降伏」や「敗戦」という言葉はなくなり、「終戦」という言葉が多く使われるようになったという。

 8月15日は、盂蘭盆会の時期であった。つまり、終戦と戦没者慰霊をひとつにして捉えるようにメディアが創作したのである。ここで重要なことは、9月2日の東京湾の米戦艦ミズーリ号上での降伏文書の調印式は報道されていないということだ。大多数の国民にとって、体験としての戦争の終わりは、8月15日の天皇の玉音放送であった。佐藤氏はこれをこう書いてる。

「「放送された玉音」と「放送されなかったミズーリ調印」の違いは無視できない。玉音放送が伝えた「終戦」は、公式文章の「降伏」を国民体験の記憶で覆い隠してしまった。」

 すなわち、戦後の日本は、戦争を国民の体験にある「出来事」として扱ってきたのである。だからこそ、戦没者への慰霊と戦争の終わりを一緒にする必要があった。戦後の日本人は、あれは敗戦や降伏ではなく終戦だったのだと思いたかった。日本政府もそう思いたかった。メディアは、その国民感情と政府の意思を巧みすくいあげ、8月15日を終戦日とすることは、あたかも事実であるかのようにすることに成功した。日本人にとって、終戦の日とは、お盆の伝統的行事のひとつになったのである。靖国神社でも、8月15日はただの日であって、英霊の慰霊は春と秋の例祭と7月の御霊祭りである。それが特別な日になるのは、1963年に閣議決定された「全国戦没者追悼式」要項に基づく。8月15日が終戦記念日と公式になるのは、ここから始まる。それは「玉音の記憶」に基づく戦没者の追悼であった。

 では、「玉音の記憶」を持っていない世代は、戦争をどう受け止めたらよいのか。

 本書を読んで思ったことは、最近の8月15日をめぐる騒動の根本的原因はここにあると思った。つまり、戦後の日本が、あの戦争をこうして曖昧にしてきたから、60年後の今日、これほどモメているのである。8月15日を「戦争の終わり」として、他はいっさい顧みないということは、佐藤氏も本書に書いているが、これは「あまりにも自国中心主義に凝り固まっている」歴史意識であろう。8月15日を終戦の日とすることは、9月2日に日本は敗戦したという事実には眼を向けないということである。そして、戦後もまた天皇の国体は維持されたということを示すものである。ここに戦後の保守も進歩派も、メディアによる8月15日の神話の創作を認めてきた理由がある。

 しかしながら、それはもはや時代遅れだ。60年たった今でも日本人は敗戦の事実に眼を背け、「玉音放送の記憶」を持つ世代たちだけで、閉ざされたメディア空間を形成し、共同幻想のカプセルの中に入っていると言わざるを得ない。

 我々は、あの戦争の記憶の伝承を体験者の体験に基づいて理解しようとしている。あの戦争を、個人の体験や経験から一歩離れた、客観的、普遍的に考えることをしない。戦後日本が選択した方法は、このような民族の共同体の記憶としての「戦争」であった。だからこそ、天皇による終戦の詔勅が放送された8月15日を「戦争の終わり」としてきた。しかしながら、今の若い世代は、前の世代が常識としていた世代間の継承というものが通用しなくなっている。

 戦争の記憶の風化が叫ばれて久しい。しかし、メディアは、本気で若い世代に戦争を伝えようとしているのだろうか。「あの日は暑かった」では、若い世代には通じないであろう。「玉音放送の記憶」を持つ戦中派たちが「体験」としてあの戦争を留め、自分たちの世代の記憶として戦争は終わりにしたいという願いがあったからこそ、9月2日の敗戦ではなく、8月15日の終戦にしてきたのではないか。しかしながら、佐藤氏も書いているように、戦争とは、戦中派の世代が「体験」として特権的に語るべきものではない。むしろ、戦後に生まれた私たちが、その体験から考えていくべきものなのである。

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July 26, 2005

杉浦日向子は江戸に帰ったのだと思う

 漫画家の杉浦日向子さんが亡くなってしまった。杉浦さんの作品は、大学生の頃から読んできた。僕が最初に読んだ杉浦さんの本は、何であったのかもう覚えていないけど、杉浦日向子と田中優子の2人の本がもしなかったら、自分は江戸時代に関心など持たなかったと思う。杉浦さんは、江戸時代という時代に生きていた人々の息遣いや生活感を書くことができる希有な漫画家であった。93年に漫画の創作をやめて、江戸風俗の著述に専念されていた。NHKの「コメディーお江戸でござる」での解説者としても活躍されていて、杉浦さんの解説を見るたびに、この人はまー江戸時代のことを、まるで見てきたようによく知っているなあと思った。実際、杉浦さんには『江戸アルキ帖』という毎週日曜日は江戸時代にタイムトラベルして、江戸のあちこちを散策するという架空旅行記(?)がある。

 杉浦さんの『百物語』は、上田秋成の『雨月物語』や小泉八雲の『怪談』と並んで文芸史に残る名作だと思う。江戸時代が遠い昔の異質の文明になってしまった現代の日本で、この作品を書くことができるのは杉浦さんだけだったと思う。江戸の頃の人々の死生観、あの世感を、これほど見事に書いた作品は他にはない。また、江戸時代が終わり、明治という新しい時代が始まる動乱と変化の時代の中で、若者の生きていた姿を描いた『合葬』『東のエデン』なども、これも杉浦さんだけしか書けない作品だと思う。『ニッポニア・ニッポン』の術師鏡斎も好きな登場人物だった。どの作品も、他の誰も持っていない独特の雰囲気があった。江戸時代が、過去のある時代区分なのではなく、僕たちのすぐ近くにあって、手を伸ばせばとどくような気さえする、そんな感じにさせてくれる作品ばかりだった。

 あまりにも早すぎる訃報だった。できることならば、年老いた杉浦さんが書く江戸時代が読みたかった。しかし、もうそれもかなわぬ話になってしまった。もしかしたらこの人は、江戸時代から現代の日本に、ひょっことやってきて、数々の作品を書き、そしてまた江戸時代にひょっこと帰っていったのかもしれない。

 杉浦日向子さん、ありがとうございました。これからは、いつでも江戸の街をぶらつくことができますね。そちらも、さぞや蒸し暑い季節になったと思います。風鈴の短冊が舞い、辺りが暗くなると、さっと夕立が来て。そして、しばらくすると、遠くでカナカナとセミが鳴き始め、通りが明るくなる。少しは、涼しくなりましたでしょうか。お好きだったという永代橋から眺める江戸の夕暮れは、どのように見えるでしょうか。

 ご冥福を心よりお祈りいたします。

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June 20, 2005

a hundred years ago その5

 三笠の上甲板右舷から、湾上の猿島が見える。その手前に見える埠頭に、海自の艦が停泊していた。三笠公園にくる道の途中で見た、レーダーがある軍艦らしき船とはこの艦であった(後で調べてみると、どうやらあの船は、海自の護衛艦「はつゆき」であったようだ)。しばらく、三笠の甲板から海自の船をぼぉーと眺める。眺めていると、なにやら、一般の人も乗艦しているではないか。一般公開をしているようだ。シマッタぁ、と内心ここで思った。海自の艦が一般公開をしていたなんて知らんかった。それを知っていたのならば、あっちへ行くべきであった。なにが哀しゅーて100年前の軍艦の方に乗っていなければならんのか。

 と思ったのであるが、ここはやはり日本海海戦100周年ということで、この三笠にやってきたのであるだから、そーゆーミーハーなことを思ってはイカンなと思いなおした。それにしても、こうして三笠の艦上から、今の海自の護衛艦を見ていると、不思議な感覚になってきた。こっちとあっちの間には、100年の年月の隔たりがある。まるで自分が100年前の日露戦争の時代の人間で、それが現代の海上自衛隊の艦を見ているような気持ちになってきたのである。かわぐちかいじのマンガ『ジバング』の、太平洋戦争の時代にタイプスリップした海自のイージス艦「みらい」と日本海軍の艦が初めて遭遇するシーンでの、「みらい」を初めて見た日本海軍の側の水兵や将校の心情がわかるような気分になった。同じ日本の軍艦らしいが、なにかどこか違うと思ったであろう。

 あそこに見える、あれは一体なんなのか。ここで僕が思った「あれ」とは、海自の護衛艦であるだけではなく、多少大げさに言えば、明治38年の観点から見た海上自衛隊であり、さらに言えば、平成の現在の日本国の国防そのものなのであった。憲法によって、その行動が大きく規制されていて、それでも国を守れという矛盾した枠を科せられた自衛隊というものをどう考えればよいのだろうか。このへん、かなりざっくりとした見解なのであるが、今の海自はアメリカ海軍の「いち部隊」になっているとしかいいようがないと思うのであるが、どうであろうか。

 もちろん、こちら側(三笠側)には、ロシアの南下というさしせまった脅威があり、それに対抗することに民族の存亡がかかっていることであった。しかしながら、あちら側(海自側)(が発足した当時は)米ソ冷戦という状況であったが、日本人の誰もがそのことを実感として感じていたわけではない。いわば、アメリカの占領政策のひとつとしての日本の防衛であり、その体制は、戦後60年たった今日でも依然として続いている。こちら側は、アジアの発展途上の貧乏国だった日本が独立自尊をかけて、自分たちが作った国を守るために考えに考え抜いた軍隊であるが、あちら側は、どうもわかりにくい。そもそも、自衛隊は、現情勢下において日本国の防衛とはいかなるものであるべきかという思考から生まれた組織ではない。むしろ、政治的理由によって作られたものである。しかしながら、もし軍事力の最終目的が「戦争状態になることのないようにすること」であるのならば、戦後60年間は、それはそれで(かなり歪な姿で、であるが)その目的は達してきたことになる。しかし、その反面、失ったものも大きかった。作家福井晴敏が小説『亡国のイージス』で書いたように、現状では「亡国の盾」でしかない海自に一体なんの存在意義があるのだろうか。しかしながら、海自を「亡国の盾」にしているのは、今のこの国なのである。

 上甲板から、前部艦橋へと昇る。前回来たときは艦橋まで昇ることはなかったので、今回が初めてである。階段の勾配は急であり、いかにも「グンタイのフネ」という感じでゴツゴツしていた。とても昇りやすいとはいえない。それでいて、かなり高さもある。落ちたらケガをするなと思い。慎重に足をかけて昇る。これを駆け上れと言われたら、10年前の自分であれば難なくできたであろうが。今やれと言われたら、できなくはないが、かなり覚悟を要するであろう。しかも、息は切れるだろうなと思う。自分はもう軍艦に乗って戦争ができるような歳ではなくなったなとか思いながら階段を上る。

 この艦橋で、東郷長官とその幕僚たちが指揮をとった。実際のところ、幕僚が一カ所に固まっていると、そこを砲撃された場合、指揮スタッフが全滅してしまうので、海戦時には、ここに立っていたのは東郷長官と参謀長の加藤友三郎少将と参謀の秋山真之中佐の3人であった。残りの幕僚は、この艦橋の下にある装甲で囲まれた司令塔にいた。

 ひととき、艦橋で風に吹かれながら、ぼおーと突っ立ている。あの日、ここでの光景は、さぞや劇的なシーンであったであろうが、100年後の今は、まったりとした青空の下で、とりあえず目前に見えるのは、アメリカ海軍横須賀基地と、その向こうになにやら団地らしきものが見えだけであった。

 日露戦争は、勝った後が良くなかった。戦後、同じ民族とは思えない程、日本人は変わってしまった。日本人は、日本が世界一の国だと思い込むようになった。もちろん、自分の国が世界一だと思うのは悪いことではない。しかしながら、常識的な国際比較の視点を日本人、特に政治家と軍人は持つことがなかった。世界に冠たる大日本帝国というイメージが一人歩きをし始めていた。

 江川達也のマンガ『日露戦争物語』であったか、幕末とは嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀にやってきてから、明治に改元される慶應3年(1867年)までのことを言うのではなく、明治38年の日露戦争の終結をもって終わると書いてあって、なるほどそうかと思ったことがある。日露戦争の勝利は、ただ単にロシアとの戦争に勝利したというだけではなく、ペリーが浦賀にやってきた時以来日本人が抱いてきた、欧米の植民地になるかもしれないという恐怖心と緊張感と、そして西洋文明から見れば未開のアジアの国であるという強烈な劣等感から解放されたということを意味していたのであろう。しかし解放されたのならば、健全な国際感覚を持てばいいのにと思うが、そうしたものはついに大日本帝国が終わるまで持つことはなかった。それは、強烈な劣等感の裏返しとしての常軌を逸した優越感でしかありえなかった。

 太平洋戦争では、日本海軍は日本海海戦のパターンである艦隊決戦方式でアメリカ軍と戦おうとしていた。しかしながら、時代は大艦隊が砲撃で雌雄を決するのではなく、航空機と潜水艦による攻撃の時代になっていた。それでも、バカのひとつ覚えのように艦隊決戦方式にこだわり、大和のような巨大戦艦を建造した。なぜそうなってしまったのかというと、日本海海戦での劇的勝利があったからである。

 日本海海戦での劇的な勝利とは、様々な要因の組み合わせによるものであって、決して東郷平八郎の決断が正しかったからだとか、作戦参謀の秋山が天才だったからというわけではない。事実、日本海海戦において、東郷はロシア艦船の動きについて誤認する。この誤認によって、三笠はロシア艦を危うく見失うところであった。もしバルチック艦隊を完全に殲滅することができず、一隻でも逃せば、この戦いは結果的に日本の敗北に終わるのである。この東郷の過ちは、第二艦隊の司令長官上村彦之丞中将と参謀佐藤鉄太郎中佐の的確な判断によって救われることになる。つまり、東郷といえども完全無欠ではなかった。しかしながら、日露戦争後、東郷は軍神となる。

 戦争とは、その戦争の前にどれだけのことを行ったかで、その勝敗の大半は決まる。日本海海戦は、戦いに至る何年も前から、ロシアに勝つために何をなすべきかを考え、実行し、あらゆる状況を想定し、必要な物資を準備し、十分すぎる程の訓練を行っていた。それでも現場では誤ちを犯した。しかし、過ちを修正することができる組織システムも持っていた。

 戦後、軍は国民にそうしたことを知らせようとはしなかった。国民もまた知ろうとはしなかった。日本軍は世界一だという、根拠のない信仰のようなものが生まれた。東郷を軍神とした日本海軍は、国際社会と軍事技術の変化に対応することなく、巨艦巨砲主義に走り、艦隊決戦主義にこだわった。やがて後の太平洋戦争で、ミッドウェーで大規模な損害を受け、レイテで壊滅的打撃を受けるが、それでも、まだ戦争を続行していった。昭和の日本海軍は、もはや明治の日本海軍とは別のものになっていた。そして、昭和20年(1945年)、大日本帝国海軍はその歴史を終える。

 艦橋でしばらくたたずみ、ぼんやりとしていたが、そろそろ降りようと思った。見るべきものは見たとして、三笠から出る。今度、ここに来るのはいつのことになるだろうか。

 三笠公園の出入り口の隣の売店に入る。以前、ここへ来たときは、三笠のレリーフが入ったスプーンを買ったのだが、今はもうそうしたものはなくなっているようだ。ご存じ「よこすか海軍カレー」があった。なんと「海軍さんの珈琲」というものもあって、こっこれは、と思ってしまった。陸軍ならばなんであろうか、「陸軍さんの焼酎」であろうか。うーむ、なんかハイカラっぽくないな。


(「三笠を見に行く編」終了)

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June 13, 2005

a hundred years ago その4

 もう一度、上甲板に上がり、艦尾から艦首へと甲板を歩く。晴朗というわけではなかったが、不愉快な湿度もなく、カラッとした横須賀の青い空が頭上に広がっていた。

 甲板では、海上自衛隊の人がなにやら三笠のおみやげ品や(日本海軍の、ではなく、海上自衛隊の)記念品を売っていた。海自って、こうやって宣伝ができるからいい。陸自で一般の人の客寄せができるビックイベントは、富士の総合火力演習ぐらいであろう。仮に、市ヶ谷かどこかの陸自の駐屯地で日露戦争の陸戦で使用した28インチ砲を展示したとしても、誰も見にこないだろうなあと思う。

 甲板を歩きながら、明治の日本のことを考えた。

 三笠は、日本が製造した船ではない。日本がイギリスに発注し購入した軍艦である。三笠は、明治33年(1900年)にイギリスのビッカース・ソンズ・アンド・マキシム社にて建造された、当時の世界最新鋭の戦艦であった。この時代、日本は弱小貧乏国であったが、軍隊に費やすカネはすさまじかった。

 この時代、政府は、毎年の国家予算の約半分を軍事に、特に海軍の軍備増強に使っていた。国の予算の半分を軍隊に使っていたのである。明治の国民生活は極度の貧困であったのは当然のことであろう。ちなみに、現在の日本の国家予算に対する防衛費の割合は約5%程度である。ここから見れば、国の予算の半分も軍隊が(戦時ではなく、平時での話だ)に使うような国は、いかに異常な国であったかがわかるであろう。

 さらに異常ともいうべきことは、この状況を国民が耐えたということである。極東の列島の上で、長く平和に暮らしていた人々が、幕藩体制をわざわざ破壊し、近代国家へと変わったのは、とにもかくにも、このままでは世界に取り残されるという不安感からであり、強力な軍隊を持たなければ、自分たちもまた欧米の植民地にされてしまうという恐怖感からであった。そのために、ただの寄り合い所帯のようなものであった社会を、西欧で発生した「近代国家」に作り替えた。

 この作り替え作業は、決してラクであったわけではない。幕末の日本人は、好きで近代国家になったわけではなかった。同じ民族同志で、血で血を洗うような凄惨な内戦を経て、維新は成し遂げられた。そして、さしたる産業も、外国に売る商品もないのにも関わらず、このアジアの列島の住人たちは、欧米並の軍隊を持とうとしたのである。当然ながら、それらの負担は国民が支払った。明治は、食うものも食わずに、国家建設に邁進し、軍隊にカネを支払い続けてきた時代であった。この時代、裕福な暮らしをしていたのは都会の一部の人々のみであり、国民の大多数の生活水準は低かった。それでも不満が出てこなかったのは、貧しいことを美徳とするという江戸時代の価値観がまだ生きていた時代でもあったからであろう。

 しかしながら、それでも軍隊はカネが足りなかった。三笠をイギリスのビッカース・ソンズ・アンド・マキシム社に発注しようとした明治31年、海軍の予算は底をついていた。しかし、発注はしなくてはならなかった。とにかく強力な軍艦が必要なのである。時の海軍大臣山本権兵衛は万策がつき、内務大臣西郷従道のところへ相談に訪ねる。これより少し前、西郷が海軍大臣の時、山本は官房主事という役職で、大佐の身でありながらも、海軍省の老朽した幹部や無能な将官の大量首切りを行った。山本によるこの海軍の組織改革が、後の日露戦争での勝利の一つの要因になるのであるが、この大リストラを認めた西郷もまた海軍になにが必要なのかをよくわかっていた男であり、ようするに西郷と山本は日本海軍の改革者であった。

 さて、三笠をイギリスに発注したいがカネがない。このことを山本が西郷に相談した時、この西郷隆盛の実弟であり、維新の戦乱を戦った男は「それは山本サン、買わねばいけません」と答えたという。しかし海軍にはカネがない、よって「国家予算を流用しましょう」と言うのである。もちろん、犯罪行為である。「もし議会に追及されて許してくれなかったら、あなたと私が二重橋の前で腹を切りましょう。2人が死んで、主力艦ができればそれで結構なことではないですか」と語ったという。三笠は、西郷のこの決断によってできた。彼らは、自分たちが国家予算の半分ものカネを使っているということへの責任と使命感を持っていた。三笠は、そうした時代の、そうした政治の、そうした軍艦だった。

 上甲板後部から、前部へと歩く。大正15年(1923年)、三笠は当時「楠ヶ浦」と呼ばれたこの地に、コンクリートで固定され記念艦となるが、その艦首は横須賀の湾の向こうに広がる水平線に向いている。艦首でぼんやりと立っていると、数人の若い男女たちが、がやがやとやってきた。若者たちは、この艦首を見て「タイタニックができる!!」「タイタニックやれよ!!」とふざけあい始めた。

 タイタニックというのは、ジェームズ・キャメロン監督が豪華大型客船タイタニックが1912年に沈没した事件を映画化した、映画「タイタニック」のあるシーンで、レオナルド・ディカプリオ演じるジャックがタイタニックの船首に立つシーンのことであろう。三笠でこれをやるという発想もなんだなあと思ったが、だからと言って、この若者たちをどうこうと思う気持ちはない。明治の時代の若者たちの、ごく普通の自然の風景として、戦争に行くという光景があったように、平成の今の若者のごくあたりまえの風景として、こうした光景があるのだと思う。

 ひとときふざけ合った後、若い男女たちは、艦首の12インチ砲の前で各人おのおのポーズをとり、お互い携帯電話で写真を撮りあい、そしてまた騒がしく去っていった。数多くのロシアの艦船を沈めた砲は、100年後は若い男女たちの格好の撮影スポットでしかありえなくなっていた。平和というものの、ありがたさであろう。


(この稿続く)

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June 05, 2005

a hundred years ago その3

 どんどん歩いて行くと、右側に軍艦は見え続けているのであるが、なんと突然、左側に三笠公園の入り口が現れ、正面に右側の艦とは別の(艦橋にレーダーなどない)軍艦の艦尾が見えた。これが100年前の日本海軍の連合艦隊の旗艦三笠であった。右側に見える軍艦は、まだ遙か彼方にある。うーん、なんなんだこれは思ったが、とにかく三笠公園に着いた。

 三笠公園の中へ入ると、そこでは「日本海海戦100周年いきいき横須賀」というイベントの真っ最中であった。出店がいくつか出ていて、どうやら「よこすか海軍カレーの祭典」というものをやっているようであった。海軍カレーというのもなんだなと思うが、確か海自では、毎週金曜日はカレーを食べるというのをどこかで聞いたことがある。金曜日は、カレー以外は食っていけないのだろうか。どうやら横須賀では、海軍カレーはかなりポピュラーな食べ物であるようだ。ちなみに、僕はまだ海軍カレーなるものを食したことがない。出店のみなさんは、もうお昼どきを過ぎてしまったからなのか、閑散としていて、ジュースのたぐい以外は買うものももうないようだった。

 広場では、ライブコンサートがやっていた。日本海海戦100周年だからといって、自衛隊の音楽隊のコンサートというわけではなく、ごくフツーのロックのにーちゃんのバンドが演奏をしていた。よくわからんが、このへん、「いきいき横須賀」ということで、今日のイベントにも、年寄りかミリタリーオタクばっかりが集まるようでも困るので、とりあえずイマドキの音楽コンサートをやればいいんじゃないかという企画であることがよくわかったりするわけであるが。まあ、どうでもいいんだけど。自衛隊の音楽隊が来たのは、昨日だったようだ。

 公園の中央には、東郷平八郎の像がある。

 ここで改めて強調しておきたいことは、日本海海戦と東郷平八郎の名前は、実は海外でも「知っている人」は「知っている」という、たいへん知名度が高いものなのであるということだ。確かトルコであったか、道の名前にトーゴー・ストリートというのがあり、小学校では、教科書にアドミナル・トーゴーの写真も載っていて、日露戦争のことが授業で教えられているという。当時、帝政ロシアの圧政に苦しむトルコにとって、ロシアが日本に負けたことは喜ぶべきことであり、そのロシアの大艦隊を沈めた日本海軍の司令長官であった東郷は、いわばトルコ民衆のヒーローであった。トルコ以外でも、ロシアに虐げられていた国々にとって、日露戦争でアジア人がロシアに勝利したということは希望の光を与えることになった。日本では戦後の歴史教育では、日本海海戦のことなど教えない。日本人が知らず、むしろ外国の方がよく知っているというのが日露戦争であった。

 海戦史から見ても、日本海海戦は重要である。それ以前の海戦では、軍艦が木製から鋼鉄製になった時代の初期、船は艦首に衝角という角のように尖った部分があった。これで敵艦に体当たりして、敵の船体に穴をあけて沈めるのである。まるでギリシアかローマ時代の海戦か、あるいは海賊みたいな戦い方であった。なぜこうしたのかというと、当時の大砲では命中性能が低く、仮に敵艦に命中したとしても破壊力や殺傷力が少なかった。ようするに、砲撃では船は沈まないのであった。そこで衝角で敵艦に体当たりして、さらに水兵が甲板から敵船に乗り移って白兵戦を繰り広げるという戦法が最も効果的なのであった。しかしながら、やがて砲や火薬の技術が進歩し、命中精度も破壊力も格段と上がった。三笠はそうした時代の軍艦であり、日本海海戦は衝角で敵艦に体当たりするという戦法ではなく、砲撃によって勝敗を決めるという新しい戦法の時代の最初の海戦であった。

 広場を一巡し、三笠の入り口の階段の前にくる。確か入場料があったはずであるが、みなさん、そのままどんどん入っている。どうやら今日は入場無料なんだなと思い、僕もそのまま入り口の階段を昇っていった。階段を上ると、上甲板の後部に出る。この上甲板の後部は、分厚いチーク材でできていて、この船がいかに入念に製造された船であるかがわかる。すぐに眼につくのが、巨大な艦尾主砲であるが、それはチラッと見るだけにして、後部シェルターデッキの下にある36式無線機を見に行く。以前ここに来た時も見ていて、よく知っているのであるが、僕は三笠というと、この無線機のことをまず思う。三笠は、無線機を持っていた。イタリアのマルコニーが無線機の実験に成功した後すぐに、日本海軍はこの最新科学機器を実用化していた。数に勝るロシアの艦隊に対して、日本海軍は作戦と各艦船の組織的な艦隊運動で勝つ以外に方法はなく、それを可能にする通信連絡手段は、当時発明されたばかりの無線機に頼るほかなかった。

 無線室から離れ、そこから中甲板への階段を下る。中甲板には、士官室や中央展示室がある。内部は改装されたらしく、記憶の中の以前の三笠の内部とはすいぶん変わっていた。三笠の大きな模型もあって、内部の構造といい、外観といい、三笠っていい船だなと思う。後の時代の戦艦大和は、なんかデカイだけで、よくわからんのであるが、三笠の構造とデザインはわかりやすくていい。いっそのこと、下甲板にある水兵さんたちの部屋も見せて欲しいのであるが、下甲板は土砂で埋まっているという。こうやって歴史博物館のようにしているのだから、完全復元して欲しいものだと思う。日露戦争の経過と戦況という説明のパネルがあって、当時のことがよくまとまっていた。真剣に考えながら読んでいくと、半日ぐらいかかるであろう。そうもしていられないので、ざっと見て次へ進む。

 ロシアの艦隊は、バルチック艦隊と呼ばれていた。この艦隊はロシア本国の艦隊であり、バルト海にあるリバウという軍港を基地としていた。極東のアジアには、ウラジオストック艦隊と旅順艦隊があった。しかし、これらの艦隊は、東郷司令官が率いる連合艦隊によって、黄海海戦にて旅順艦隊を、蔚山沖海戦にてウラジオストック艦隊に大規模な損害を与え壊滅状態にさせた。旅順艦隊の残存艦は、旅順に立てこもった。そこでロシアとしては、バルト海のバルチック艦隊を極東に送ることになったのである。送ることになったと言っても、バルト海は北ヨーロッパの海である。そこから、遙か彼方のアジア大陸の東の果てにまで行こうというのである。

 この時代、スエズ運河はすでにあった。しかしながら、スエズ運河はイギリスの管理下にあり、イギリスは日英同盟により日本の同盟国であった。よって、ロシアとしては、スエズ運河ができる以前のアジアへ行くルート、つまりヨーロッパを南下し、さらにアフリカ大陸を延々と南下し、南端の喜望峰を回ってインド洋へ北上しなくては、アジアには行けなかった。さらにインド洋を越えて、その先に東アジアがある。思うだけで気が遠くなるような旅になるのだ。しかも、一艘のヨットがホイホイと海を渡っていくのではない。ロシア海軍の大規模な艦隊なのである。バルチック艦隊は、日本海にやってきたというだけで世界史に残る偉業であった。しかしながら、さらに言えば、極東の日本に着けば、それで終わりなのではなかった。本来の目的は、その世界の果てにあるかのような海の上で、これから戦争をしようというのである。よくもまあ、そんな戦争をしようと思ったものだ。ロシア皇帝としては、東洋の猿がそれほど気に入らなかったのであろうか。

 このバルチック艦隊の航海のさなか、乃木希典が率いる陸軍の第3軍が203高地から旅順港の残存艦に砲撃を与え、これを壊滅させた。日本海軍としては、残るはロシア本国から来るバルチック艦隊のみであった。日本は、バルチック艦隊もウラジオストック艦隊や旅順艦隊と同様に壊滅させなくてはならなかった。たとえ少数の艦船でも生き残れば、満州でロシアと戦っている日本軍に補給を送る海上輸送船を攻撃されるからである。ロシア帝国の大艦隊を、ロシアが「猿」と呼ぶ弱小貧乏国日本の海軍が倒さなくては、日本国の未来はなかった。彼らが思っていた日本国の未来とは、つまりは100年後の今の日本であろう。今のこの日本国と日本人のために、彼らは戦ったのである。


(この稿続く)

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June 01, 2005

a hundred years ago その2

 先日の日曜日、三笠を見に行こうと思った。

 三笠記念公園にある三笠は、10年以上も前の学生時代に一度か二度行ったことがある。別に、あれから10年以上たったから、最近の三笠はイージスシステムを搭載していますというわけでもなんでもなく、10年前に見た時のままで、今も横須賀にあるんだろうなと思った。しかしまあ、今年は日露戦争100周年ということだし、100年前の27日は日本海海戦の日だったし。やっぱ休日は運動ということで歩かなくてイカンよなとかいろいろ思い、それじゃあ、ちょっと横須賀へ行ってみっかと思った。

 横須賀は、東京から遠い。三笠がある三笠公園の最寄りの駅は、京浜本線の横須賀中央という駅になる。遠いなあと思う横浜より、さらにもっと向こうにあるのである。横須賀といえば、海幕のある市ヶ谷以上に、海自のメッカみたいな場所だ。ここには自衛艦隊司令部や潜水艦隊司令部などがあって、アメリカ海軍の太平洋第7艦隊極東司令部もあるのだ。なんとなく、横須賀は海軍の街というイメージがある。このへん、どちらかというと陸自に親近感がある僕としては、なんかこー違和感というか、なんかしらんけど横須賀に行くと、兵隊は銃をかついて野山を駆けめぐるのがヘータイなんだみたいな意識がみょーにこみ上げてきてしまうのである。

 それはともかくとして、横須賀中央駅についた。さて、三笠公園は、確かこっちの方角だったかなと、テキトーに判断して、駅からテクテクと歩く。10分ぐらい歩いていると、どうもこっちの方ではないのではないかという不安がふつふつとわき上がってきた。なんか湘南高校という学校の前に来てしまった。三笠公園へ行く道の途中に、こうした学校はあったであろうか。なにしろ前回来てから10年以上もたっているのでわからん。これは道に迷ってしまったような気がする。道に迷った時は、まず自分がどこにいるのかわかる位置まで戻るべきだ(てゆーか、最初から道順を確認しておくべきであっ