June 04, 2017

アメリカのパリ協定離脱

 トランプ大統領は1日午後、地球温暖化対策の国際な枠組みである「パリ協定」から離脱すると発表したという。

 以前、2006年頃から、温暖化はないとか、温暖化はウソだとかいう声が数多く聴かれるようになった。いわゆる、温暖化懐疑論・否定論である。最近、そうしたものをほとんど目にしなくなったように思う。あれは一体なんであったのであろうか。

 人類が文明を構築し始めてから現在に至るまで、地球環境の及ぼした影響は膨大なものであり、特にヨーロッパで発生し、後に全人類規模に拡大した産業革命以降、人類の活動により二酸化炭素(CO2)等の温室効果ガスが大気中に増加し続けてきたことは疑う余地のない自明のことである。ようするに地球温暖化懐疑論・否定論の人々は、この人類の文明史の営みを否定するものであり、非科学的であることを通り越して、ただのバカなのであろう。

 よくある温暖化懐疑論・否定論の中に、現在、地球は温暖化しているのではなく寒冷化しているのであるという声がある。なにをもって、またどのような地域とタイムスパンの現象に基づいてそういっているのかを調べると、寒冷化しているとしても局地的な現象であり、全地球的規模で温暖化しているという地球温暖化に対する反論になっていない。ここで基礎的なことを言えば、地球全体が温暖化することにより、ある地域では寒冷化することはある。重要なのは、気候がこれまでとは違う姿になるということであり、地球温暖化と気候変動あるいは異常気象は深く関連している。

 にもかかわらず、当時は「こんなに寒くなっているのだから温暖化などあり得ない」とかった程度のレベル低い話が多かった。たとえ全地球的規模で寒冷化がこれから起こるのであるとしても、1万年のオーダーで言うのならばその可能性はあるかもしれないが、地球温暖化は現在ことをいっているのであり、1万年後の先の話をしているのではない。地球温暖化への懐疑論はもはや成り立たないのである。

 そうこうしているうちに、いつの間にか、地球温暖化は当然のことであるかような世の中になったようだ。あの産経新聞ですら3日の「主張」で冒頭に「米国が地球環境問題で示す2度目の不誠実である。身勝手に過ぎる振る舞いだ。」と書いている。あのいつも対米従属の産経が、だ。

 今日では、地球温暖化は社会的に確定した事実であるといってもいい。であるのならば、この合衆国大統領はなぜパリ協定からの離脱を述べているのか。トランプは、温室効果ガス排出量削減による経済活動の制約や途上国への温暖化対策の支援、さらには中国の温室効果ガスの排出増やインドの石炭生産増加は認められている(べつに「パリ協定」はこれらを認めているわけではない)ことへの不公平感を述べている。ここに一貫として見られるものは、「パリ協定」に従うことで、自分たちは不利益を強いられているという考え方である。

 「パリ協定」の目標は、今世紀末までに人類の活動による温室効果ガス排出量を実質ゼロにすることである。これが可能であるのだろうかというと、かなり難しい目標であると言わざるを得ないが、それでもとにかくこれを目標として掲げている。

 この目標を支える倫理的な基盤として、温室効果ガスを多く排出しているのは、人類社会の一部の国々であるのに、異常気象による被害を被るのは温室効果ガスを多く排出している国々だけではなく人類社会全体であるということへの憤りのような心情がある。気候変動で最も深刻な被害を受けるのは、海面上昇により国土がやがて水没してしまう小島嶼の国々や、干ばつにより深刻な食糧不足になるアフリカの国々なのである。こうした人々の生存権や人権を奪ってまで、先進国は温室効果ガスを排出し続ける権利はない。逆から言えば、地球温暖化は、それほど事態が深刻になってきたということなのだ。この倫理は「気候正義」(Climate Justice)と呼ばれている。

 21世紀になり、ようやく人類は、環境問題において国ではなく、人類というひとつの集合体で繁栄や生存を考えるようになってきた。日本ではそうではないが、欧米ではこの倫理はかなり浸透している。

 もう一つは、大量の温室効果ガスを排出しなくても経済成長を可能にする、低コストで安定性のあるクリーンエネルギーの技術が実用化され始めてきたということが挙げられる。テクノロジーの進歩が「脱炭素」(decarbonization)を可能にすることができるようなったということである。石油や核廃棄物を生み出す原子力に変わる、新しいエネルギーの研究開発に各国の政府や民間企業が関心を持つようになってきている(なぜならば、「脱炭素」のテクノロジーは石油や原子力に変わる新しい利権になるからである)。

 これからのエネルギー政策を考えると、いやでも「脱炭素」を無視することはできない。どちらが儲かるのかという話になった場合、「脱炭素」の方が儲かるということになれば産業界は雪崩のように「脱炭素」に舵をきるのであろう。

 実際のところ、今回、トランプが「パリ協定」から離脱するといったところで、なにがどう変わるわけではない。発効から3年間は離脱通告ができないなどの規定があるため、アメリカが実際に離脱できるのは、トランプの大統領任期終盤の2020年11月頃になるとのことである。次期大統領選挙では、トランプが決定したアメリカの「パリ協定」の離脱の是非は争点のひとつになるであろう。

 もちろん、だからと言って楽観視することはできない。つい最近まで、温暖化はないとか、温暖化はウソだとかいうことを言っている人々はいたのだ。今、そうした声を聴かなくなったのは、(何度も繰り替えすが)地球温暖化は社会的に確定した事実になったからであり、温暖化懐疑論・否定論者たちが科学をきちんと理解できるようになったからではない。デマゴーグに扇動される者たちはいつの時代にも存在する。その意味では、地球温暖化への対策とともに、アメリカの大統領がこういうことを言う世の中であるということが危機的なことなのである。

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June 17, 2016

人工元素「ニホニウム」

 理化学研究所(理研)が、113番の新しい元素「ニホニウム」を発見したという。

 これのなにが凄いのか、さっぱりわからない。

 これは自然界に存在する元素ではない。この新元素は、加速器で83番の元素「ビスマス」に、30番の元素「亜鉛」を高速で衝突させて核融合反応で作る人工元素であるという。しかも、その存在時間は0・002秒だという。これが宇宙生成から今日に至るまで、自然界に存在した可能性は著しく低い。

 この発見が、物質の謎や宇宙の解明につながるわけではなく、ましてや新エネルギーや新素材などといった工学的な応用につながるものでもない。この人工元素の発見に理研が費やした費用は、東京新聞によると「実験で使った費用は、機器の開発費が約三億円、延べ五百五十日間の実験費用が約三億円、消耗品に一億円弱の計七億円弱だった。新元素の検出に使う半導体は一枚約百万円」とのことだ。

 これはなにも理研がどうこうというものではなく、今の科学研究はこういうものになっている。本来、科学は自然界を相手にするものであった。ところが、今の科学は、高価なお金がかかる実験環境の中で、人工的な操作を行って「発見」をするものになっている。新元素の「発見」は、こうしたやり方で、世界各国で競い合っているのが現状である。理研は、次の新元素の「発見」のために、そのための次期装置に約40億円かかることを文科省に申請しているという。

 もちろん、こうした人工的に元素を作ることが、自然界のさらなる解明につながることがあるかもしれない。しかし、その一方で国の科学研究予算には限りがある。どんな研究であっても、ふんだんにカネが使えるほどの予算はこの国にはない。

 国がある目的と意図をもって、高額の資金を投入し、そして成果を上げるという構想と計画をもって遂行されるのが現代のビックサイエンスである。この新元素に「ニホニウム」という名前がついたのは、日本人が日本国家の事業で「発見」したものであるという意識があるのであろう。これだけのカネと人材を投入しなければ「発見」できないものであるのだから、それは当然のことなのかもしれない。

 しかしながら、本来、自然には国家などといった人の区分けはない。物理現象の仕組みは、全宇宙で共通である(もちろん、細かく言うといろいろあるが)。国が巨額の資金を投入しなければできない研究であり、その成果に国の名前をつけるということと、自然科学の本来のあり方とはどうも合わないように思う。理研は、これを基礎研究と言っているが、これは古典的な意味での基礎研究や基礎科学ではない。

 もちろん、そうしたひと昔もふた昔も前の科学観では、今の時代はやっていけないのであろう。

 しかし、私の個人的意見で言えば、これは自然科学や工学とは別の次元の話なのだろうと思う。国の予算配分について言えば、初等教育から大学に至るまでの理科教育、科学教育の充実や、社会人への科学知識の普及など、国が予算を使ってやるべきことは他に数多くある。

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May 05, 2016

『日本人はどこから来たのか?』

 海部陽介著『日本人はどこから来たのか?』(文藝春秋)を読んだ。

 我々、現生人類、ホモ・サピエンスは、約10万年前に、その発生の地であるアフリカを出た。その後、4万8000年前に、我々の祖先は、ユーラシア大陸でヒマラヤ山脈をはさんで南北に別れて拡散し、約1万年後、東アジアでその双方は再会することになる。この祖先たちの中の一群が、対馬、沖縄、北海道の3つのルートから日本列島にやってきた。この本は、その壮大な人類史の物語を、最新の人類学研究に基づき、世界各地の遺跡の年代比較やDNA分析、石器の比較研究などを通して明らかにしたものである。

 アフリカを出た猿人の末裔は、現生人類だけではない。現生人類がアフリカを出る前に、ホモ・エレクトスやホモ・ハビリスらの原人とネアンデルタール人などの旧人がアフリカを出て、世界各地に生存していた。ただし、これは今現在わかっている限りにおいてであり、世界の各地で原人でも旧人でも現生人類にも属さない者たちの人骨化石が発見されている。ようするに、まだよくわかっていない。

 また、原人や旧人がアフリカを出て、世界各地で進化を遂げて現生人類になったとする説があるが、今日では、遺伝学や化石形態学、考古学の観点から、この説は否定されている。我々の祖先は、アフリカを出た後、先にアフリカを出た原人や旧人と遭遇し、ネアンデルタール人と交わり、世界の各地へと広がっていったのである。

 では、我々の祖先は、どのようにして世界各地へと広がっていったのであろうか。アジアへの拡散については、欧米の学説では、ユーラシア大陸の南側のインド洋に面した海岸ぞいに移動していったということになっているという。これに対する反論として、インド洋沿岸域に、初期の海岸移住を裏付ける遺跡が見つかっていないということが挙げられる。しかしこれは、その当時より現在は海面が上昇しているため、それらの遺跡は海の中に沈んでしまい、だから発見されないのであるとしている。

 この本の著者は、そうなのかもしれないとしながら、一方で、海岸沿いの移動が始まったのが7万年前で、現生人類の内陸部での遺跡は5万年前のものである、であるのならば、この2万年間、海岸から内陸へ移動することがなかったということになる、はたしてそんなことがあり得たのであろうかと疑問を感じ、年代測定や解釈がしっかりしている大陸各地の遺跡を改めてマッピングしていった。

 すると、その調査から、7万年前に一度目の海岸沿い移動があり、その後、5万年前に内陸での移動があったという従来の説とは異なり、ユーラシア大陸各地への移動は、一度に行われたのではないかという仮説が浮かび上がってきた。アジア全域、ヨーロッパも含めて、祖先たちのユーラシア大陸全体への拡散は、爆発的な一度のイベントだったのである。

 その祖先たちの中で、ユーラシア大陸のヒマラヤ山脈を北方へ進んだ一派は、極寒の地域で生きる文化を発達させ、ヒマラヤ山脈を南方へ進んだ一派は、海洋を渡る航海術を発達させた。この二つのグループが日本列島で融合したのであると著者は論じている。

 日本列島にやってきた順番は、最初が対馬ルート、次が沖縄ルート、最後が(当時、大陸と地続きであった)北海道ルートであるという。ところが、最初のルートであった対馬ルートは、この時代においても海があった、つまり、彼らは対馬海峡を渡ってきたということであり、ということは航海技術をもった集団だったということだ。それでは、彼らは航海技術を持っている、ヒマラヤ山脈を南方へと進んだ一派の人々なのかというと、石器技術等からすると、北方へ進んだ一派の人々の文化を持っていたという。

 ここで著者が出した結論は、かつてヒマラヤ山脈を北方へ進んだ一派と南方に進んだ一派は、それから一万年後に東アジアのどこかで再会し、その人々が海を越えて日本列島にやってきた最初のヒトであったということである。この列島には、原人も旧人もおらず、現生人類がヒトで最初の居住者であった。

 沖縄ルートの人々は、対馬ルートの人々よりも、よりヒマラヤ山脈南方派に近い人々であったであろう。最後の北海道ルートの人々は、これはヒマラヤ山脈北方派であったに違いない。つまり、様々な人々と文化が、日本列島で融合したということである。

 また、我々の祖先たちは、それまでもそうであったように、この列島に来る時も、居住を目的とした移住であった。つまり、男女のある一定の人数での集団移動であったということだ。まず探検家のような者たちが、この列島を探索し、住むのに適した場所であることを確認した上で、集団「移民」を行ってきたのだろう。

 ただし、これもまた現生人類とひとことで言っても様々な一派があり、例えば北海道には後にアイヌと呼ばれる人々以外にも、オホーツク人などといったアイヌとは違う文化の人々もやってきており、この列島にやってきた人々を詳細に見ていくと、縄文文化とは異なる様々なグループがあったのである。

 沖縄ルートでは、3万年前頃から台湾島から沖縄列島に人々が渡っていたという。この本の著者は、国立科学博物館の研究員である。現在、国立科学博物館では、この本の著者たちが中心になって「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」というプロジェクトが行われている。3万年前の舟を再現して、台湾から沖縄列島へ実際に航海を行ってみるというプロジェクトだ。

 国立科学博物館のWEBページによると、現在、クラウドファンディングによる資金集めは完了して、実際に実験航海を行う準備中のようだ。沖縄列島の向こうに九州がある。3万年前に台湾から沖縄列島に行った人々が、やがて九州へと渡り、本州へと進んでいった人々である。国立科学博物館のプロジェクトは、それを明らかにするものだ。

 さらに時代が下り、日本列島に朝鮮半島や大陸から幾度も人々が(これもまた集団「移民」レベルの数の規模で)やってきて、彼らが先に日本列島にやってきた人々と交わることにより、ここからやがて「日本人」が誕生する。

 大和盆地にヤマト王権が出てくる以前から、この日本列島には人々は暮らしていたのだ。この列島に現生人類が住み始めてから、本州島の近畿地方の大和盆地にヤマト王権が出てくるまで、ざっと4万年以上の時間がある。大和盆地にヤマト王権が出て、今日の今に至るまで約2千年の時しかない。つまり、約20倍以上もの時間が、大和時代以前にあったということになる。彼らもまた「日本人」であり、彼らの歴史もまた「日本の歴史」なのである。

 そして、こうした視点を持つことは、単に「日本」や「日本人」についてだけではなく、広く「人類」についての認識を持ち、深めることへとつながっている。

 この本の著者は、あとがきの中でこう書いている。

「本文では、最初に日本列島にやってきた人々の血が、部分的に私たちに受け継がれているとも書いた。その裏には別な意味があることも、述べておかねばならない。それは人類史の中では集団の移動と混血、文化の伝播と相互作用が繰り返されているため、事実上"純粋な民族"や"純粋な文化"は存在しないということだ。アイヌ、大和民族、琉球民族、そして朝鮮民族や漢民族などの区分があるが、これらも長い歴史の中で互いに混血しあっており、その間はゆるやかに連続している。同じホモ・サピエンスの集団どうしなのだから、それはそういうものだろう。
 だが現実社会の中では、個々の民族は明確に独立した単位で、時代的に不変で固定的と誤解されることがあるし、その上で特定の民族の優越性を唱える声や政治的意図も根強くある。そうした行為は不必要な軋轢を生むだけで、人類にとって利益のあるものではない。
 だから私は、より多くの一般市民が、人類史を学ぶことを通じて"民族"というものが、政治や言語そして人々の認識といったもので人工的に規定されている仮の線引きにすぎないということを理解することが重要だと思う。それによって優劣という意識が薄まり、他の人々を尊重する空気が国際的に醸成されることを願っている。」

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April 29, 2016

自然のことはわからない

 まず、熊本に地震が起こるとは思っていなかった。元々、近い将来、大規模な地震が必ず起こるとされている地域は、関東と東海、南海のエリアであって、阪神・淡路も東日本大震災も想定外の場所だった。

 次に、こうした震度7クラスの地震が二回も起こり、その後、余震が続く状態になるという「地震」があるということがわかっていなかった。わかっていなかったからこそ、4月14日に、熊本県益城町で震度7を観測した地震が起きた時、気象庁はこれを本震としていた。

 ようするに、地震について、わかっていないことがあまりにも多いのである。熊本地震について、つくづく思うのはそのことだ。自然について、わからないことが多すぎる。数多くの人々が述べているように、今の日本の自然災害は、これまでになった現象が数多く起こっている。今の自然科学では、わかっていることより、わからないことの方が多いのだ。

 ここで、小松左京の小説『日本沈没』を思い出す。この物語の中で、田所博士が言っていたことは、われわれは地球についてわずかなことしかわかっていない。過去の経験則が、この先も通用するとは限らないということだ。

 田所博士はこう語っている。

「人類が、科学的に地震の研究観測をはじめてから、まだ百年もたっておらん。地球全体を科学的に調査し始めてから、これまた一世紀あまり、本格的な、地球大規模の観測が行われはじめたのは、わずかに1950年代以降だ」

「現世人類が生まれてからまだ数万年しかたっておらん。過去何千万年から何億年の間に、どんな突拍子もないことが起こったか----経験的には誰も知らんのだ。そのうえ地殻変動の痕跡だって、まだ全世界くまなく調べられたわけじゃない。地球の自転軸が動くことや、地球磁極が四十万年周期で逆転してしまうことや、現在地磁気が減少の一途をたどり、あと二千年ぐらいで、地磁気がまったくなくなって、地上生物は宇宙線---とくに太陽フレアから噴出する高エネルギーの荷電粒子の直接の被爆をうけるというようなことは、まったくここわずか十年そこそこの間に、地球の調査によってわかったのだ。---われわれは、まだ、この地球について、爪先でひっかいたぐらいのことしか知らんのだよ」

 この田所博士の言っていることがよくわかる。そういうことが、今の日本列島で起きているのだ。

 過去に一度も起こったことのないようなことが、はたして起こりえるんですかという問いに対して、田所博士はこう答える。

「歴史というものは、そういうものだ」「単なるくりかえしではない。まったく新しいパターンがあらわれる。----それは諸現象の進化相というやつだ」

 予測できないことを、先生は予測なさろうとしているんですかという問いに対して、田所博士はこう答えている。

「完全には予想できんが、可能性はある」「ただ----こういうことは、はっきりさせておかねばならん。われわれの、短い観測期間から得られた貧しく不完全な知識にもとづいて、これこれのことは、絶対に起こり得ないと断言することはできない、ということだ。これまでは、M8・6以上の地震は起こらなかったかもしれん。これまでの知識にもとづいた理論によるなら、それ以上の地震は、起こり得ない、と考えられるかもしれん。しかし----これから、過去において、一回も起こらなかったようなことが起こるかもしれない」

 4月14日の地震を、当初、気象庁はこれを本震としたのは、間違ったことではない。これまでの知識にもとづいた理論によるのなら、あれは「本震」だったのである。しかしながら、これまでの知識そのものが、地球史のタイムスパンで言えば、つい最近の出来事から得られたものでしかないのだ。

 4月23日のニュース専門ネット局ビデオニュース・ドットコムの「日本の地層に何が起きているのか」は、大変興味深かった。われわれは、地震について、よくわかっていないのである。

 阪神淡路大震災にせよ、東日本大震災の震源地にせよ、その時のハザードマップでは、それほど危険とはされていなかった。今回の熊本も、特に危険性が高い地域とは見られていなかった。しかし、地震が、それも、これまでの地球科学が初めて経験する地震が起きたのである。

 断層地図や地震ハザードナップは「これまでわかっていること」であり、断層地図や地震ハザードナップで示されていないから活断層は「ない」とか、震災の危険は「ない」ということではない。示されていないのは「まだわかっていない」「調査をしていない」だけのことなのである。

 熊本地震の被害が大きいのは、熊本県は大規模地震が起こるとは思っていなかったからだ。現代社会の暮らしは、それなり量のモノとインフラを必要とする。そして、それらの「それなり量のモノとインフラ」がシステムになって機能していなければならない。

 大規模災害の被害とは、自然災害そのものが起こした被害以上に、都市機能のシステムへの被害の方が大きい。熊本県内には3万人以上の避難者がいるが、県が提供する仮設住宅などは4000とか5000の数である。これでは、とうてい間に合わない。3万人なり4万人なりの避難者が出るということは想定していなかった。

 今の時代は「想定していない」ことは、「ないこと」「存在しないこと」「起こらないこと」になる。しかし、その想定は、不完全な知識の上に成り立つ想定なのである。自然科学というものは、そういうものであり、そういうものである上での想定である、ということを理解する必要がある。

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February 07, 2015

イスラム国がネットを使うということ

 イスラム国は、インターネットの扱いに長けている。

 かつてこの世に、インターネットがなかった頃、中東のテロリスト集団が日本人を人質にして、世界のどこでも見ることが可能なメディアで、そのことを全世界に表明することによって、それを日本政府に伝える、ということを行うには、それそうとうの困難さがあった。

 どのようにすれば、そうしたことが可能になるのか。まず、日本人を暴力で拉致することはできるであろう。しかし、その後、その拉致したことをどうやって、伝えるべき相手に伝えたらいいのか。「拉致した」という示す証拠は、とりあえず写真であろう。では、まず写真を撮る。テープで音声を録音するのもいいかもしれない。では、テープレコーダーで音声を録音する。次に、それらの写真やテープをどうするのか。メディアのインフラを持っているのは、テレビとかラジオとか新聞とか通信社である。そうした場所に手で持っていくとか、郵送で送るしかない。

 ところが情報テクノロジーの発展が、これら諸々のことを極めて短時間でカンタンにできるようにしてしまった。外国にも通じているメディアのインフラを持っているのは、テレビとかラジオとか新聞とか通信社だけではなく、個人でも持つことができるようになった。写真を撮ったり、動画を撮影したり、文章を書いたり、音声を録音したりして、それらを世界の人々に向かって伝えることは、今の時代、スマートフォンが1台あれば誰でも可能だ。

 誰でも可能だ、の「誰でも」というのは、犯罪者やテロリストも含まれる。犯罪者やテロリストも、そうした技術があれば可能になった、という世の中になった。その昔、冷戦時代、インターネットがアメリカの国防総省といくつかの大学との共同研究から生まれたアーパネットと呼ばれていた時代、まさかこんな世の中になるとは思いもよらなかったであろう。インターネットの技術を生み出し、これを地球全体を覆う規模に広げた人々の意思は、こうしたことにネットが使われることではなかった。本来、インターネットはこうした犯罪者やテロリストに使われるべきものではなかった。インターネットは、こんなもののために生まれてきた技術ではない。

 しかし、「使われるべきものではなかった」と言っても、誰でも使えるものであるのだから、犯罪者やテロリストも使うのは当然のことだろう。中東のテロリストが日本人を標的にする。トーマス・フリードマンは『The World Is Flat』で、経済がフラット化するということは、これからの時代はテロもまた同じようにフラット化するという意味のことを書いていたが、その「これからの時代は」の時代になった。テロのボーダレス化である。

 20世紀の後半、アメリカの西海岸で生まれたパーソナル・コンピュータの思想、個人が表現のパワーを持つということが、めぐりめぐって21世紀の中東のテロリスト集団にもパワーを与えたと考えることができる。その技術が生み出された意図とは大きく異なり、その使い方によって、技術は人々に大きな不幸をもたらす。これはネットだけではなく、そもそも近代の科学技術が本質的に持っている問題だ。もちろん、ネットが人を殺害したわけではない。人が人を殺害する。しかし、イスラム国の影響力の基盤のひとつはネットである。現代の情報通信テクノロジーがなければ、今日のイスラム国の姿は違っていたであろう。

 1995年のアニメ映画『攻殻機動隊』の冒頭は、次の言葉で始まる。「企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても、 国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来」。そして、国家や民族や人々の「遺恨」や「怨嗟」がネットを通して拡散され増大化される世界。2015年の今、我々はそうした世界にいる。

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January 10, 2015

栄光のイスラム

 8世紀から13世紀の頃、アフリカ北部から中近東にかけて広大な帝国があった。アッバース朝イスラムである。この帝国の首都バグダードは、世界史の中で燦然と輝く偉大な都市だった。

 我々が学校で学ぶ世界史は、多分に欧米の世界史のスタイルを受けついている。世界史での一般的な理解では、古代ギリシャ・ローマに輝ける偉大な文明が誕生し、キリスト教が支配する中世の暗黒時代を経て、ルネサンスにてギリシャ・ローマの文化を復興させ、続く近代で科学革命や産業革命が起きるということになっている。しかしながら、事実は違う。ギリシャ・ローマ文明が滅びた後、イスラムがギリシャの自然哲学を受け継ぎ、発展させていた。ヨーロッパはイスラムを経て古代ギリシャの知識を知った。

 イスラムの黄金時代を作り上げたのがアッバース朝である。アッバース朝は東西の文明の交易の中心地であり、エジプトやバビロニアなどの古代文明と、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の文化を融合した新しい学問が著しい発展を遂げた。

 例えば、科学のものの見方、考え方を確立したのはヨーロッパの人ではなく、10世紀から11世紀にかけてのイスラムの科学者イブン・ハイサムである。この人物なくして、後のヨーロッパの科学はなかったと言ってもいい。

 もっとも、かりにイスラムが古代ギリシャを受け継ぐことがなかったとしても、古代のギリシャ人たちが考えたことを人類の誰かがまた考えたであろうから、いつの日か人類はサイエンスを持つようになったであろうが、その時期は大きく遅れたであろう。この時代のイスラムなくして、今日の人類の文明の姿はなかったといってもいい。それほど、イスラムは偉大な文明だった。

 1258年、チンギス・ハーンの孫のフレグが率いるモンゴル軍がバグダードを攻め滅ぼし、ここにアッバース朝は滅びる。ギリシャ哲学やイスラム科学などの貴重な書物や実験の文物はことごとく消失した。イブン・ハイサムの著作も、今日わずかしか残されていない。

 それらの知識はやがて長い時を経てヨーロッパへと伝わり、それらの知識を元にしてヨーロッパで近代科学が生まれ、資本主義経済が世界を覆い、産業革命から産業社会へとつながり、ヨーロッパ文明が世界を制する世の中へとなる。モンゴルどころか、アジアの文明そのものがヨーロッパ文明に下ることになる。アッバース朝を滅ぼしたモンゴルには、その後の未来のことはわからなかったであろう。

 アッバース朝が滅んで750年ぐらいの年月がたった。なぜ今のイスラムは、アッバース朝のような偉大なイスラムになれないのだろうか。

 フランスで週刊紙シャルリー・エブドの本社がイスラムテロ組織のメンバーに銃撃された。9日、逃走中の容疑者2人が立てこもっていた北東部ダマルタンアンゴエルの印刷会社にフランス警察が強行突入し2人を殺害した。直後には、別の容疑者が人質をとったパリのユダヤ系食料品店にも突入、容疑者の男と人質4人の死亡が確認されたという。

 本来ならば、イスラムは中国と並ぶ世界の大文明帝国として人類社会に知識と技術の光を照らすものであったはずだ。それが今に至ってもイスラムはかつてのアッバース朝の栄光を取り戻していないし、取り戻そうとも思っていないようである。イスラム原理主義では、とてもではないがかつてのアッバース朝の栄光の足下にも及ばない。

 なぜかくも、イスラムはこうなってしまったのだろうか。欧米が悪いと言うのはたやすい。確かに、そうしたところもあるだろう。しかしながら、欧米に対抗し、欧米を凌駕する偉大なイスラム文明を樹立することがなぜできないのだろうか。

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December 27, 2014

STAP細胞騒動の結末について

 26日のSTAP細胞についての理化学研究所の外部の有識者による調査委員会の発表とその後で行われた理研の記者会見をニコニコ生放送のタイムシフトで見た。ネイチャーに発表した論文が論じたSTAP細胞は実験の過程でES細胞が混入されていた可能性がある。また、図表についても、ねつ造されたものが新たに発見された。

 この調査をもって、STAP細胞の論文はその内容を否定され、以後、再調査はないとのことだ。ようするに科学的にはこれで結論が出たということになる。なぜ、ES細胞が混入されていたのかについては調査委員会は解明できずとしている。

 STAP細胞はES細胞を見間違えていたのではないかという指摘は以前からあがっていた。その質問が出るたびに、小保方氏、笹井芳樹氏は否定していた。ES細胞ではないというのが彼らの考えだった。調査委員会の調査ではやっぱりES細胞だったということになる。今年の初め、大々的に報道で登場したSTAP細胞は、やっぱりES細胞だった、で終わった。

 ある学説を発表したが、その後の調査で間違いだった、ということは科学の世界ではよくあることだ。トライ・アンド・エラーを繰り返して真実の達するのが科学の方法論である。そうやって科学は前進していくものなのだ。生命科学の分野に限らずずさんな論文、不正確な内容の論文は数多くある。その中で真偽を確認してい作業もまた科学の世界で必要不可欠な作業である。

 今の時代は膨大な量の情報があるが、情報が増えるということは「正しい」情報が増えるということではない。現代は過去の時代以上に「真偽を確かめる」という作業が必要になっている。

 つまり、このSTAP細胞騒動は「よくある出来事」を「よくある出来事としてきちんと正すということ」をしていけば、なんら大騒ぎになることがない出来事だった。

 しかしながら、その当然のことができないのが今回の出来事だった。

 論文は発表したのならば、他の研究者が検証することもある、もっと詳細を知りたいと言ってくることもある。なによりも自分が再度調べる必要が出ることもある。そのために論文の内容の根拠となる実験などのデータを残しておくことは常識以前の当然のことだ。その当然のことがまったくなされていないため、常識的な論文検証作業ができなかったというのが、今回の出来事だった。

 そうしたことができなければ、なんのために論文を発表するのかさっぱりわからないということになる。論文作成は学術研究の作業のためという常識的な前提からはそうなる。これでは、ただ「論文を発表しました」という記録が残るだけだ。ただ「論文を発表しました」という記録を残すだけのために、費用と労力をかける研究とは一体いかなるものなのであろうか。

 しかしながら、まさしくその、ただ「論文を発表しました」という記録を残すだけの論文発表だったというわけだ。これは、この今回の出来事だけの話ではない。今の時代、特許や予算を獲得するため、ただ「論文を発表しました」という論文は膨大な数になっている。論文の粗製濫造である。だが、粗製濫造であっても、とにかく論文を出せばいいという世の中になっている。

 きちんとした正しい論文でも、データを都合良く修正してある論文でも、論文を出したという事実に変わりはない。きちんとした正しい論文には手間と時間がかかる。内容の質は問わず、短時間で数多くの論文を出した方が勝ちというゲームであれば、大多数の者たちは、学問的に意義のある質の高い正しい論文作成など、歳をとって功なり遂げた身分になってからやるものだと思うであろう。

 外部調査委員会の国立遺伝学研究所長の桂勲委員長は、こう述べた。

「生命科学の研究室は競争的資金(研究費)を取るために必死で、そこには同情するが、特許や競争に夢中になって科学の基本が忘れられるのはまずい。『有名になりたい』『ノーベル賞を取りたい』というのを非難したくはないが、大切なのは科学で自然の謎を解く喜び。そして、科学者としての社会的責任をどう果たすか。そこから目がそれると間違いが起こると思う」

 ニコニコ生放送でこれを聞いた時、この人は立派な学者だと思った。私もそう思う。科学の根本は自然の謎を解くことである。そして、科学者としての社会的責任をどう果たすか。科学者のあるべき姿は、この二つ以外のなにものもないと思う。

 しかし、今の時代は、科学の研究をやりたい者だけが、きちんとした科学教育を受け、きちんとした研究職に就き、しかるべき給料をもらい、その職務を全うして人生を送っていくという時代ではなくなってしまった。

 今、生命科学の現場は、限られた予算の中からいかに獲得するか、少ないポストをいかに獲得するか、という競争的な状態の中にある。そうした状態の中にある現場の者たちは桂勲委員長の言葉をどう受けとめたのだろうか。桂勲委員長の言葉は理想論なのであろう。限られた予算と決められた時間しかない中で成果を出すことを要求される場にいる者たちに、科学の根本は自然の謎を解くことであるということと、科学者としての社会的責任をどう果たすかということを考える精神的ゆとりはないのではないかと思う。

 ただし、では、競争的な状態ではない、潤沢な予算と時間的余裕があれば良い研究ができるのかというと、それは別の話になる。科学の根本は自然の謎を解くことである。そして、科学者としての社会的責任をどう果たすか。こうした意識を軸として持つ研究者ではなくては良い研究はできない。そういう人材はまた、そうした意識を当然のこととして持つ教育と環境からでないと育たない。

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November 23, 2014

米中会談での温室効果ガス削減

 日本における地球温暖化の認識は「地球温暖化なんてウソだろ」という地球温暖化をマガイモノ、エセ科学とする認識である。その一方で、最近の天気はおかしいことを漠然と感じている。

 地球温暖化あるいは気候変動について、当然のことながら細部において様々な議論はある。議論はあるが、人類の活動が地球環境に大きな影響を与えている、その影響により今後、人類の(人類の、である)生存に適した環境を維持することができなくなっているという認識は、21世紀の今の時代、国際社会の常識的な認識になっていると言えるだろう。

 滅びつつあるのは野生のサイやゾウではない。もちろん、それらの動物は絶滅の危機にある。しかしながら、危機にあるのは人間の環境なのだ。地球温暖化は地球の危機ではなく、人類の危機なのである。

 ところが、この国では「地球温暖化なんてウソだろ」の話が依然として多い。世界の先進国が今の産業や文明そのものあり方を変えなくてはならないと、実行できるのかどうか別として、少なくとも思ってはいるの対して、この国では「地球温暖化なんてウソだろ」といったレベルの話をしている。

 なぜそうなのかついては、機会を改めて考えてみたい。

 今月の12日、アメリカのオバマ大統領と中国の習近平国家主席は温室効果ガスの削減や非化石燃料への転換などといった温暖化対策で合意した。もちろん、アメリカと中国の首脳がそうしたことを「考えている」だけで実際のところどうなのかということはある。しかしながら、京都議定書から離脱し国際的な温暖化対策に従うことを避けてきたアメリカと、これまでCO2の削減目標を拒否してきた中国が削減の目標値(あくまでも目標値ではあるが)に合意したことに世界からは驚きを持って見られた。

 言うまでもなく、世界でもっともC02を放出しているのはアメリカと中国である。特に中国は公害超大国といってもよいほど環境対策が遅れている。しかしながら、この二つの国は、まごうことなき人類の環境を破壊している国ではあるが、その一方で風力発電などにも力を注ぎ、脱化石エネルギーの先頭に立っている国なのである。このへんに大国のすごさを感じる。

 シェール革命により石炭と石油から天然ガスへの転換が進むアメリカはともかく、中国はそうした脱化石燃料の方向へ切り替わろうとしている。今回、中国がCO2排出削減でアメリカと合意したのは、国内での石炭発電を大きく下げる政策が軌道に乗り始めたからだ。中国が排出しているCO2の膨大な量の大きさでは、石炭発電の規模を少なくするだけで、それだけでもCO2排出削減に成功していることを世界に示すことができる。ただし、CO2排出量を2030年頃をピークにして減らすというが、これから15年先では習近平はトップの座にはいないし、この15年間はどうなるのかということがある。この先15年間、中国が排出する量はさらに増える。温暖化はさらに進展することになる。

 また、中国では化石燃料に変わる再生可能エネルギーの中に原子力発電も大きな位置を占めている。ここに中国とは違う、日本のスタンスを世界にアピールするポイントがある。

 今、我々に求められているのは、大規模なC02の排出をしなくても成り立つ産業社会である。原発の稼働を求める産業界も原発が必要なのではなく、安くて安定した電力の供給が必要なのであり、いまのところそれを可能とする技術は原子力発電なので原発稼働を求めているだけだ。原発は化石燃料を使用しないといっても核廃棄物を残す以上、とてもではないがクリーン・エネルギーとは言えない。原発への過度な依存をやめる。再生可能なエネルギーの比率を高めることは、CO2排出削減への道につながる。

 自然エネルギーの発電など使いものにならないという声があるが、原子力発電も最初はそうだった。日本の政府とメーカーはアメリカとの密接な関係の中、戦後まもない頃、まだ使い物になるかどうかわからなかった原子力発電に国策として取り組み、ここまで原発を増やしてきたのである。そのことを思えば、ここでまた国策として脱原発へと進んでいくことは可能だ。戦後日本の原発産業がそうであったように、新しいエネルギー産業の創出が、新たなる雇用の場と市場を増やし新しい経済成長を可能にする。

 今の状況は、温暖化対策において日本は中国にすら遅れていると言わざるを得ない。この国は、ますます世界の主流から外れていく。

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November 04, 2014

IPCC報告が第5次統合報告書を公表した

 国連のIPCC「気候変動に関する政府間パネル」は「2日、地球温暖化を巡る最新の研究成果をまとめた第5次統合報告書を公表した。今のペースで温室効果ガス排出が続けば、今世紀末には人々の健康や生態系に「深刻で広範囲にわたる後戻りできない影響が出る恐れ」が高まり、被害を軽減する適応策にも限界が生じると予測。その上で、気温上昇を抑えるために「多様な道筋がある」として、各国政府に迅速な実行を迫った。」という。「報告書は、温暖化の主な原因が人為である可能性が「極めて高い」(95%以上)と断定。」している。

 断定もなにも、人類社会は産業化以後、膨大な量の森林を伐採し、化石燃料を燃やしてきたことを思えば、地球大気にCO2を排出しているとは中学生でもわかることであろう。そのCO2やメタンの排出が地球の気象を変えているということはまったくの疑いようがないことである。地球環境に影響を与えていないと思うことが異常であり、まともな科学的思考ができない人と言ってよいだろう。

 問題はそれが「どれほど、どのように影響を与えているのか」ということであり、その点において各種様々な見方、考え方がある。地球環境という巨大で、いまだよくわかっていないことが数多くあるものについて明確な答えを出すことができないのは当然のことであろう。

 もうひとつの誤りやすい点は「温暖化」という言葉である。温暖化しているのならば、寒くなることはないではないかという意見だ。こうしたことを言う人は「ある地域において気温が上昇すると、ある地域においては気温が低下することがある」という現象が起こるということを理解していない。地球科学の基礎知識がないということなのであるが、このことについてはそうしたことを教えなくては一般の人々はわからない。地球科学は時間とか地理とかのスケールが「国」とか「歴史」とかよりも遥かに大きいから理解しにくいところがある。

 そうした意味では「地球温暖化」という言葉よりも「異常気象」や「気象変動」という言葉の方が良いのかもしれない。ただ、そうした「異常気象」や「気象変動」の背景に「地球温暖化」現象があることを思うと、状態の説明として「地球温暖化」でもよいのではないかと思う。必要なことは、「温暖化」しているのだから「寒冷化」するわけはないという表面的な考え方する人々に正しい地球科学の知識を教育・普及していくことだ。

 地球が寒冷化に向かっているという意見と「地球温暖化」は相反することではない。地球が温暖化や寒冷化することは太陽の活動に関連しているのであり人類の活動のせいではないという意見については、地球環境と太陽の活動は密接な関係にあることは当然のことであるが、太陽の活動だけで地球環境を決定することはできないことも当然のことだ。全球凍結時にも太陽はさんさんと輝いていたのである。

 これはそもそも問題の立て方がおかしいのだ。「地球温暖化」に否定的な研究をするのならば、その研究は人類によるCO2やメタンの大気への放出は人類の生活圏の気候になんの影響も与えるものでないという結論に到る研究であろう。しかしながら、そうした結論に到った研究は未だない。

 「地球温暖化」のわかりにくさのもうひとつの原因は、具体的な話になるととかく政治や利権がからんでくるので、マスコミは科学的に正しい内容で報道しない傾向があるということだ。そうしたマスコミの報道に対して地球科学で考えるとどうなのかという、常に科学のレベルで考えることが必要だ。

 重要なことは「異常気象」とは、なにに対して「異常」なのかということだ。地球側の視点に立てば、人類がどれほどCO2排出しようが、しまいが、まったく関係ない。これまでの人類が行ってきた、そしてこれからの人類が行うであろう環境破壊のすべてよりも、もっと巨大な環境破壊が46億年の地球史の中でこれまで何度もあった。

 それらを上回る環境破壊を人類が行うとなると、人工的に地球の周回軌道を変えるとか太陽を崩壊させることだろう。こればっかりは地球にはできなかったことであるし、これからもできないことである。それ以外のあらゆることが(宇宙から飛来してきた巨大隕石の衝突も含め)この惑星で行われてきた。それと比較すれば、人類が行うことなど「とるにたらないこと」である。

 人類がなにをどうしようと、20億年後には太陽の高熱化により海は干上がり、大地は灼熱の不毛地帯になる。さらに50億年後には最後を迎えた太陽が膨張し、その膨張の中に地球は飲み込まれて消滅する。

 クジラ、ホッキョクグマ、ゾウ、パンダ、サイなどといった動物が絶滅しても地球はなんら困ることはない。また新たな動物が進化して、そのニッチを埋めるだけである。同様に、人類が滅ぼうが繁栄しようが地球にはなんら関係ない。5億年前のカンブリア期に他種多様な生物が爆発的発生したが、2億年前のペルム紀の末に地球環境の変動により生物種の95%が絶滅してしまった。しかしながら、それでも生物の進化がなくなることなく繁栄の道を進んでいった。その後、三畳紀末、白亜紀末と地球(と宇宙からの巨大隕石)による大量絶滅があったが、それでも生命は終わることはなかった。我々、人類はそうした「生きている地球」にいる。この認識がまず必要だ。

 では、なぜ生物の多様化を保護しなくてはならないのか。それは地球や生物のためではなく、我々、人類の環境を維持するためであり。「異常気象」とは、人が住む上で「異常」なのであって、地球からすれば異常でもなんでもない。気候が変動して困るのは人類なのであって地球ではない。つまり、「地球温暖化」とは地球がどうこうという話ではなく、人が困ることになる話なのである。救わなくてはならないのは地球ではなく、我々人類なのである。IPCCの報告は地球のことを論じているというよりも、我々人類の将来のことを論じているのである。

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October 12, 2014

いまさら全球凍結理論を知った

 先日、ニコニコ動画でNHKスペシャルの『地球大進化』を見た。2004年の放送というから、もう10年前の番組である。

 これをテレビでやっていた時は、この番組のことを知ってはいたが、また地球の歴史もの、生命の歴史もの番組かと思って、さほど気にとめず見ることもなかった。

 同様なテーマの番組で1987年にNHK特集『地球大紀行』があった。これは好きな番組でDVDもサントラも持っている。サントラの方は今でも時々聴くことがあるが、番組の方はほとんど見直すことはない。もはや内容についてわかっているという気分があって、もう一度見るまでもないと思っていた。そういうわけで、『地球大進化』が放送された時も見ることもなかった。

 それから10年がたった。この10年、自分の関心は自然科学から離れていた。なにやら過去に大規模な氷河期があったということが最近になってわかってきたということを、なにかで読んだことがあったが、ふーん、そうなのかと気にとめることもなかった。まあ、そうした大規模な氷河期になることはあるだろう、それよりも問題なのは地球温暖化だなと思っていた。とにかく、地球科学については『地球大紀行』で十分だろうと思っていたのである。

 そうしたある日、神保町の本屋でハヤカワ文庫のノンフィクションの棚を、なにかおもしろい本はないかと見ていたら『スノーボール・アース:』という文庫本があった。手にとってペラペラとページをめくってみて、ふーん、地球全部が凍結ねえと思い、あとがきを読むと、地球科学のパラダイム転換だみたいに書かれていた。あーそうなの、パラダイム転換なの、ふーんという感じで、さほどなにを感じることもなく、そのまま本を棚に戻して、それっきりであった。

 そうしたわけで先日、ニコニコ動画をつらつら眺めていたら『地球大進化』があったので、じゃちょっと見てみるかなと思い見てみた。見てみると、これはちょっともの凄いことなのではないかと思い始めてきた。

 神保町の本屋でハヤカワ文庫の『スノーボール・アース』をパラパラとめくった時はさほどなにも感じなかったのに、なぜニコ動で『地球大進化』を見たら大きな衝撃を感じたのか。活字と映像のインパクトの違いということもあるが、ひとつは全球凍結とは地球的規模の凍結のことだけではなく、その時期をどのように生命は生き延びたのか、全球凍結の地球はなぜその状態から元に戻ったのかということを含むものであり、この出来事がその後の生物の爆発的な進化のきっかけになったということが、本屋で『スノーボール・アース』をパラパラとめくっただけでは理解できなかった。

 もう一つは、ニコ動ではコメントがつくということだ。『地球大進化』は、ニコ動のドキュメンタリー動画の中でも人気のある動画でコメント数が多いのであるが、このコメントがまたおもしろいものばかりなのだ。巨大隕石の衝突やスノーボールアース仮説の説明のシーンでは、「うそくせー」という否定コメントも数多く、コメントにつられて自分もまた「ホントかよ」という視点で番組を見る。これがおもしろい。

 テレビの教養番組やドキュメンタリーは、そこで語られていることが真実であると思い込んで見ている。もちろん真実ではあるのだろうが、特に科学番組は本当にそうなのかと思いながら見ることが必要だ。ある学説が説明され、そこに疑問が生まれ、その疑問に答えていくのが学問の基本なのである。その点、ニコ動のコメントは最適で、ハーバードやスタンフォードの学者の語ることに「うそくせー」「ほんとかよ」というコメントがつくのは見ていて楽しく、その「そうくせー」という疑問に答えられなくては科学ではないのである。

 とにかく、10年前の番組である『地球大進化』を見て、なんと!こうだったのかと驚いた。ニコ動で見た後、NHKオンデマンドでも何度も見て、なるほど!こうだったのかと思った。

 言い訳をするわけではないが、恐竜については最新の知識を入手しようとしてきた。恐竜についての新刊の本が出ればチェックし、国内、国外の博物館に行くたびに意識して恐竜の展示を見てきた。しかしながら、恐竜学のバックボーンたる地球史、生命史において、これまでの根本を覆す新しい見方、考え方が出てきていることに自分はなぜ気がつかなかったのか。カンブリア紀以前に巨大隕石落下と全球凍結で大規模な生物絶滅があったこと、地球内部のプレートテクトニクスだけではなくスーパープルームが生物の環境に関わってきたことなど、自分はいかに最近の地球科学を知らなかったことか。現在の気候変動や地球温暖化しか考えることをせず、古い時代の気候変動に関心を持つことがなかった。学問的な大きな視野を持ってこなかった。このへんが素人の浅はかさであった。

 ジェームズ・ラブロックとリン・マーギュリスのガイア仮説は、多分に生物の側から見た地球環境の見方だった。しかしながら、今、新しく惑星地球を主とした地球と生命の歴史の見方が生まれている。人間の想像を超える寒暖の繰り返しをしてきた地球環境の変化の中を生命は生き続けてきた。ガイア仮説とは違う時間スケールと観点で、地球の自然変動と生命進化が密接な関わりをもっているという見方が生まれている。まさに地球科学のパラダイムの変換なのだ。

 10年前にこうしたことがもうわかっていたことを知らずに、今まで自分はなにをしてきたのか。とにかく今、この方面の本をいくつか買い込み、読んでいる。

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