July 13, 2013

『官僚たちの夏』

 今週、近所のTSUTAYAで数年前にTBSで放送されたドラマ『官僚たちの夏』のDVDを少しつづ借りて全10話を見た。このドラマや城山三郎の小説のことは知っていたが、今頃になって、じゃあ見てみるかなと思って見てみた。

 見てみて驚いた。このドラマはあの時代、1950年代後半から60年代にかけての通産省の産業政策は正しかったというスタンスに立っている。話が国民車構想から始まるのであるが、日本の自動車産業は国の介入を受けなかったからこそ成功した産業だった。このドラマは話の内容が戦後の日本経済史の事実と違う。戦後日本の政府の産業政策の功罪は大きい。このドラマはそのへんが出てこない理想的な国家を憂う通産官僚のフィクションのお話しだった。こりゃあ放送当時あまり話題になることもなかったのは当然だよなと思いながら、1話、2話、3話と見続けていた。

 ところが見続けるにつれ、これは重要なドラマなのかもしれないと思うようになってきた。昭和の高度成長や日米の繊維交渉や貿易摩擦の時代が過ぎ去った今の時代に、ミスター通産省と呼ばれる風越の言っていることを考えると、これはこれで極めてまっとうな正しいことを言っているのではないかと思うようになってきた。

 風越の主張は、国家は「国民経済」に基づくということである。「国民経済」とはなにか。それは日本国に居住する人々すべてが雇用を確保し、所得を上げ、生活の安定を得るというものである。そのために政府があり、官僚機構があり、官僚があり、産業政策があるという極めてシンプルかつラディカルなものだ。

 ここで少し、視点を広げて考えてみたい。

 戦後まもない時期、日本人は食うものがあまりなく、貧しさの中で懸命に働き、例えば品質の高い、燃費の良い、価格の安い車を作った。それらの車は日本だけではなく、外国、特に車の使用が世界一のアメリカで売れるようになった。

 ここで困ったのがアメリカの自動車メーカーであり、そうした企業で働く労働者であった。日本車が売れることで、国産車は売れなくなった。日本の政治家が有権者の雇用を危惧するのと同様に、アメリカの政治家も自国の労働者の雇用を危惧する。そこで、アメリカの政治家としては日本にアメリカに自動車を売る数を減らし、アメリカ国内に工場を建ててアメリカの労働者を使って欲しいとするのはある意味当然のことであろう。

 すると、日本の労働者はどうなるのか。日本に工場があり、アメリカにも工場があるのならばまだ良い。しかし、日本で自動車が売れ続けるのならば日本の工場は必要であろうが、販売が飽和状態になれば、やがて自動車はそれほど売れなくなる。そうなれば日本の工場は規模を縮小、あるいはなくすこともあるだろう。そうなると日本の労働者はどうしたよいのだろうか。雇用を確保し、所得を上げ、生活の安定を得る、ということができなくなるではないか。

 ここで、産業政策というものが必要になる。自動車に変わり、大量の雇用をまかなう産業の育成が必要になる。今「必要になるであろう」と書いたが、実際その通りの産業政策になっているのかどうかというとなっていない。国が巨大な権限をもって産業政策を実施していくことで産業が育成されたことがない。その一方で、上記は自動車の例で書いたが、いまや家電製品もそうであり、今の日本は大量の雇用の確保を引き受けてくれる産業が急速になくなりつつある。

 ただし、製品そのもので言えば、今の時代は「官僚たちの夏」の頃とは違う。国産自動者と言っても、デザインや研究開発は日本であったとしても、各パーツは世界の各地で製造しており、いわゆる「日本国産」の自動者というものはいまや存在しない。市場がグローバルになり、製品がグローバルになり、企業もグローバルになっている。こうした産業は国の産業政策でどうこうできるものではない。

 むしろ、国がやるべきことはそうしたグローバルな部分ではなく、国内的な部分だろう。

 ドラマの中で風越は「弱い者も幸福になる世の中」という意味のセリフを言っている。ちょっと聴くと、風越の考え方は社会主義のようにも聞こえる。風越は社会主義者なのかというと難しい。彼は官僚なのであり、官僚である以上、こうしたことを言うのは当然である。官僚が国民の雇用を守ることをせずして、誰が守るのかと風越は思っているのであろう。この考え方はこれはこれで正しい。

 ドラマでは国内産業の保護派と国際通商優先派に別れているが、実際のところ、国の経済にはこの二つが必要であって、国際競争力を持つ付加価値で商売をするグローバルに活動する企業と大量の雇用を吸収する産業がなくてはならない。自由化すべきものは自由化して外資を導入し、保護すべきものは手厚く保護をする、政府に必要なのはこの采配なのである。

 そして、産業の育成とは、例えば半導体産業を守ろうとか、クールジャパンがどうしたこうしたということではなく、政府の権限を民間に与え、民間に自由にやらせることが、結果的には産業の育成になるということだ。

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May 18, 2012

『製造業が日本を滅ぼす』を読む

 野口先生の『経済危機のルーツ』に続き、『製造業が日本を滅ぼす』(ダイヤモンド社)を読んだ。

 野口先生の本は、なんかどうも自分の感覚にしっくりこない違和感があってこれまで読むことがなかった。野口先生は超整理法で有名な先生である。超整理法については、どんなものか読んでみたが、なにがどうすごいのかさっぱりわからなかった。野口先生のやり方は、自分には合わないのだろう。

 というわけで、これまで読むことがなかった野口先生の本であるが、『経済危機のルーツ』と『製造業が日本を滅ぼす』の2冊は、その自分が馴染まない野口先生の本の中で、この2冊については、初めて自分から読んでみようかなと思い、そして初めて読み通した2冊の本であった(全然、自慢にはならないんだけど)。

 なぜ、この2冊の本を選んだのか。この2冊の本は関連しているからだ。『経済危機のルーツ』は、1970年代以後の世界の政治と経済を歴史的なスパンで捉えて、なぜこのような「現代」になったのかを論じている。現在の変化の背後には歴史がある。「これまで」を理解しなくては「現在」がわからず、また「これから」もわからない。だからこそ、マクロなタイムスパンで見る必要がある。

 では、そうだとして第二次世界大戦以後の経済の変遷を俯瞰しようとして、どんな本を読めばいいのか。かなりの数の本がある。どれにすればいいのか。ここでコレだ!と決めたのが野口先生の『経済危機のルーツ』であった。そして、なるほどそうか、そうだったのかとクリアにわかった。その理解を踏まえて「現在」について、さらにもう一歩踏み込んだのが『製造業が日本を滅ぼす』である。

 製造業が日本を滅ぼす、などと言うと、製造業関係の方々はムカッぱらが立つだろう。しかし、これは別に製造業そのものが国を滅ぼすと言っているわけではなくて、これまでの日本の製造業のあり方や製造業についての国の政策の間違いが、国を滅ぼすと野口先生は言っているのである。

 これまでの製造業は、日本国内に会社があり、そこで設計・デザインを作成し、その設計・デザインに基づいて、国内にある工場で生産を行い、そして完成した製品を外国へ売る、というスタイルである。

 もちろん、大手メーカーの工場だけでは製造できない部品は数多くある。そうした部品の製造はそのメーカーの下請け企業にまわされ、その下請け企業が自社ではできない場合はさらに孫請け企業へと回される。そうした系列、つまり垂直統合の強さ、細やかさが日本の製造業のメリットだった。

 このメリットによって、戦後日本は工業大国アメリカを追い抜き、経済大国へと躍進したのである。1970年代から1980年代にかけて、日本型経営万々歳の時代になり、世界の国々は日本企業の強さに注目していた。

 ところが、ここに中国・韓国という競争相手が出現する。大ざっぱに言うと、日本に遅れた世界の製造業は、全世界を覆う情報通信網とIT技術の発達の波に乗り、大きく変革していった。

 ここで1990年代に誕生した製造業の新しいスタイルが「EMS」(Electronics Manufacturing Service)である。EMSには、設計は発注元が行って、生産のみを委託する「OEM」や設計も含めて委託する「ODM」などがある。日本では系列会社がやっていたことを、外国では「系列」という枠で固定することなく、広く世界に相手を求め、また受注側もそれに特化したメーカーが現れたというわけである。

 生産機械の進歩により、熟練した人の技術がなくても、機械による製造が可能になった現在、必要なのは、受注品ができる生産機械があるかどうかであり、あとは価格の話になる。であるのならば、生産機械があって、安い人件費の中国が有利に立ちことは言うまでもない。日本のメーカーには系列がある。これまで系列があることが、日本のメーカーのメリットであったが、このメリットが逆に足枷になった。

 メーカーの系列とは、イコール、ニッポンの雇用でもあった。系列を捨てて、中国のメーカ-と提携することは、ニッポンの雇用が失われることであった。しかし、そういうわけにもいかない。なに、日本人の技術力は優秀だ。技術力で勝負だ。なんだかんだ言っても、モノ作りが大切だ、モノ作りの精神を失ってはいけない。

 で、あっという間に20年たってしまったのが、「失われた20年」だった。そして、中国に抜かれ、韓国に抜かれていったのが、この20年だった。アメリカもイギリスも繁栄の成長に返り咲いたのに対して、世界の中で日本だけが没落している、そうした世の中になった。

 いささか時期は遅かったが、今こそ日本の製造業は、EMS企業へと転換する時ではないだろうか。しかし、日本の製造業がEMS企業へと転換するのは、かなり根本的な転換になる。いわば、商社みたいなメーカーになるのである。そうしたことができるであろうかという程の転換になるが、この転換できなくては、日本の製造業に未来はないだろう。日本の製造業がこのままの姿であり続けるのならば、EMSでできるカメラとかガソリンとかハイブリットの車とか、テレビとか、家電とか、コピー機などのモノを作っている企業が残る可能性はほとんどない。

 製造業が、日本人の雇用を支えているという考え方をもうやめよう。これからは製造業が、国内雇用を吸収するという思考を捨てて、「製造業」と「日本」はすっぱりと別れるべきだ。これからの製造業はグローバルにEMSを行っていく。中国・台湾、韓国、シンガポール、タイ、ミャンマー、ベトナム、インド、等々と関わっていくのである。

 では、ニッポンの雇用はどうなるのか。当然、これが問題になる。

 やせても枯れても日本である。少子化とは言え、この日本列島の上から、ある日突然に人々がぱっといなくなるわけではない。ここに一億二千万の人々が住んでいる、暮らしている。日本という国がある。製造業がグローバル化し縮小して、金融や情報サービスや医療・介護などの分野でこれまで以上に労働力が必要になる。製造業での雇用は十分吸収されて、それでもまた足りないという世の中になる。

 さらに、対中国輸出だけでは、日本経済を支えることはできない。中国頼みの日本経済では未来はない。アメリカやイギリスなど先進国でも十分通用するサービスを日本から生み出していかなくてはならない。

 やらなくてはならない仕事は、山のようにある。中国とは違う意味で、本当は、この国には雇用がうなるほどあるはずなのだ。国の産業構造を変えなくてはならないというこの時期に、若者の雇用が少ないとかになるはずがない。本来、今のこの国は脱工業化していて、金融や情報サービスや文化、映像・音楽コンテンツ制作や医療・介護などで、仕事はちょっとたいへんだけど収入はいい、という仕事がじゃんじゃんある、となっていないのはおかしい。それが今そうなっていないのは国の政策が間違っているからだ。

 しかしながら、「間違っているからだ」でこの国の政策が変わるわけもない。実際のところ、今期の歴史的赤字を受けて各メーカーは国内でのテレビ製造をやめて、工場の海外移転やEMSを進めている。その一方で産業構造の転換は、さっぱり進んでいない。従って、雇用問題がさらに悪化することが今後予測される。

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May 13, 2012

野口悠紀雄著『経済危機のルーツ モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか』を読む

 野口悠紀雄著『経済危機のルーツ』(東洋経済新報社)を読んだ。

 パナソニックとソニー、シャープの電機大手3社の2012年3月期決算では過去最大の最終赤字を記録。赤字額は計1兆6000億円と空前の規模に膨らんだという。この赤字は、今回のだけというより、このままでいれば今後も増え続けるだろう。

 なぜこうなったのか。韓国や台湾・中国のメーカーが日本製品よりも低価格の製品を提供できるようになったからだ。これまでの日本の製造業は、終焉したと言えるだろう。

 ではどうするのか。

 ではどうするのか、を考えると共に、なぜこうなったのか、ということを考える必要がある。今の時代が「こうなっている」というのは、当然のことながら、ある日ある時突然こうなったわけではなく、長い年月のある過程を経てこうなった。

 今の日本経済が没落しているというのならば、過去、繁栄していたことがあるということだ。では、なぜ「その時」は繁栄ができたのか。その繁栄の条件が、その後変わったために、繁栄ができなくなったのではないか。その繁栄の条件とはどういうものであり、それはどのように変わったのか。そして、これからどうなるのか。

 第二次世界大戦以後の世界経済は、国内産業は無傷であり、高い工業力を持つアメリカと、戦勝国側とは言え戦争により荒廃したヨーロッパと、敗戦国の日本とドイツ、そして内戦状態に突入した中国、朝鮮があった。20世紀後半、日本は経済発展がめざましく世界第二経済大国になった。それが21世紀の今日、中国が世界第二位の経済大国となり、韓国のメーカーは日本を追い抜いた。日本経済は奈落の底に沈んでいこうとしている。

 これは一体、いかなることがあったのか。

 という大きな枠で見なくては、今の中国や韓国やアメリカやヨーロッパや、そして日本を考えることはできない。

 というわけで、野口先生の『経済危機のルーツ』である。

 第二次世界大戦以後の世界経済をどう捉えるか。著者は今日いたる変化の始まりは1970年代にあったという。なぜか。この時代に、ブレトンウッズ体制が変動相場制へと移った。そして、コンピュータ技術の変化が始まった。つまり、金融とITで変化が始まったということだ。

 よく言われる「ヒト、モノ、カネ、情報」で言うのならば、「カネ」の姿がこの時代に大きく変わった。この時にできた世界金融の姿が今でも続いていると言っていい。特に、金融について言えば、この変化を受けて、イギリスは新しい金融立国として確立している。

 続く1980年代は、サッチャーとレーガンによる経済体制の改革が行われ、新しい経済思想が生まれた。ソ連では、ゴルバチョフが登場し、その改革が、ソ連の崩壊へと進む。中国では鄧小平の開放政策が始まる。この時以後、中国は世界の工場へと大きく舵を切る。思えば、この舵の先に、今日の世界第2位の経済大国中国があり、2012年3月期のパナソニックとソニーとシャープの巨額の赤字があるとも言えるだろう。

 1990年代は、情報通信の技術が本格的に産業に関わり始めた時代だった。「ヒト、モノ、カネ、情報」で言えば、「情報」に大きな変革があった。金融での変革にも、このIT技術の革新は大きく関わっていることを見れば、情報通信技術の進歩こそ20世紀後半の人類史の変革の要であったとも言えるだろう。

 2000年代、日本では、アメリカでのサブプライムローンの破綻、リーマンショックは金融工学の失敗のように思われているが、金融工学の失敗というよりも、この新しい金融工学を運用できなかったマネジメントの失敗だった。

 大ざっぱに言えば、中国が世界の工場として世界経済にどれだけ台頭しようとも、あるいは、韓国メーカーが世界市場で自動車や家電をどれだけ販売しようとも、1970年以後、様々な変革を経て脱工業化をし金融が中心になっているアメリカやイギリスは影響を受けない。それに対して、「ものづくりが大切なのだ」とか言って、1970年以後も変わることなくずーと製造業が中心のままになっている日本は、モロにダメージを受けているというわけだ。

 ではなぜ、1970年以後、日本は、小手先的な改革は細々とやってきたが、根本的な改革をすることなく、21世紀の今日に至り、中国と韓国に追い抜かれ、日本の製造業は終焉を迎えることになったのか。

 この時期、イギリス、アメリカが行ったことの概要を著者の言葉も交えて挙げてみると、

第一に、中国が世界の工場になるのならば、製造業依存の産業から脱却しなくてはならない。価格競争ではかなわない。それよりも、中国の安い製品を利用し、付加価値の高い産業に特化する必要がある。
第二に、金融産業は大きな雇用吸収力がある。「金融では数多く雇用が生まれない。やはり製造業でなくてはならない」と言われているが、そんなことはない。金融産業が中心と言っても、みんな銀行や保険会社勤めになるわけではない。専門知識はない者でも十分に働ける雇用の場はたくさんある。
第三に、新しい金融産業はITやファイナンス理論と深く関わっている。
第四に、経済はグローバル化している。

ということだ。

 そして、この国の現状を見れば

第一については、依然として製造業依存の産業のままである。
第二については、「金融では数多く雇用が生まれない。やはり製造業でなくてはならない」とか言って、金融産業が大きくならない。
第三については、ITやファイナンス理論は学校では教えない。社会人になって勉強ができる場がない。これについて、著者はこう書いている「社会人の勉強を支援する制度がほとんどない。税制上の措置もないし、奨学金も十分ではない。企業もMBAを評価しない。エコカーの購入支援や高速道路の無料化が行われる半面で、将来のための人材教育がまったく議論されないのは、驚くべきことだ。」。
第四については、資本やヒトのグローバル化がしていない。

 さらに、アメリカやイギリスは大学や研究機関の質が高い。これに対して、日本はどうであるかは言わずもがであろう。

 この本のサブタイトルは「モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか」とあるが、これは正しくない。この本で述べられていることは、日本の家電や自動車は、グーグルとウォール街に負けたわけではなく、フォックスコンやサムスン電子や現代自動車に負けたのである。グーグルとウォール街があるアメリカは、もはや同じ次元で勝負をしていない。中国や韓国がどうであろうと負けることはない。むしろ、日本はグーグルとウォール街がないから中国・韓国に負けるのだ、ということだろう。

 この本の最後で著者は「韓国に学べ」と述べている。

「日本と韓国の間で、なぜこのような差が生じてしまうのだろうか?基本的な差は、「外国に学ぶ」という謙虚さを、日本人は失ったが、韓国人は持ち続けていることだと思う。
謙虚さを取戻し、優れたものに学ぶ勇気をもう一度持つこと。今の日本で最も求められるのは、このことだ。」

 私もそう思う。韓国のなりふり構わず学んでいく姿に、日本は学ばなくてはならない。

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May 01, 2012

被災地でのNPO活動が資金不足になっている

 東日本大震災の被災地でのNPO活動が資金不足になっているという。

「東日本大震災の被災地で、地元の人たちが多くの復興支援NPOを作って活動している。震災から1年以上たった今も地域に根付いて被災者を支えるが、知名度が低く、寄付を集めるノウハウもないため、多くの団体が運営費不足に頭を悩ませている。団体を支援する仕組みをどう作ればいいのか。」
毎日新聞 2012年05月01日 東京朝刊

 震災が起きた当初は、とりあえずというわけで集まってきたボランティアのみなさんが自費でやっていたわけであるが、長期にわたって活動していくためにはどうしても経済的基盤を作る必要がある。つまりは、お金の話である。お金をどう集めるかの仕組み作りが必要だ。

 では、どうやってお金を集めるか。当然のことながら、NPOは非営利団体である、つまり、非営利なことをやっている。つまり、やっていることから、その代価としてお金を得ることはできない。

 となると、基本、これは寄付でお金を得るしかない。では、寄付でお金を得るにはどうしたらいいのか。

 寄付でお金を出すところなんてあるのですかと思うかもしれないが、お金は銀行の口座とかに預けて金利で増やすということだけではない。お金は流通している。

 まず、純然たる寄付というものはある。リターンを求めないお金の提供である。税金対策のために寄付を行うということもある。投資、ビジネスとしてお金を出すということもある。この活動にお金を出すことは、めぐりめぐって自分の利益になるということだ。このように出す側には、そうした様々な理由なり背景なりがある。こうした諸々をきちんと把握して整理する必要がある。

 「お金をもらう」側、つまりNPO側はどうすればよいのか。これはもうとにかく情報提供であり、情報発信をする。「お金を出す」側に伝わるように伝える必要がある。

 しかしながら、NPO側には、こうしたことを専任で行うスタッフがいない。人材がいない。上記の記事にも、このようにある。

「「寄付を集めなければ思うように活動できない」と分かっていても、忙しさに追われて資金を集める余裕がない。」
「「自分から『寄付してください』とも言いにくいんです。自前でなんとかしなくちゃと思ってしまう」
「「どこも目の前の被災者の支援に精いっぱいで、寄付につながるような活動報告をブログにアップする時間もない。こうした団体を側面支援する仕組みが必要だ」」

 まさに、「こうした団体を側面支援する仕組みが必要だ」と思う。「お金を出す側」と「お金をもらう」側の間を取り持つ作業が必要だ。そうしたパブリシティ担当、コミュニケーション・ディレクターのような仕事を行う人が必要だ。

 なにゆえ、もっと多くの人々、若者たちがこの分野で活躍しようとしないのか不思議でならない。これは、いわゆる従来のメディア業界とは違う。アニメとかデジタルイメージ技術とかも違うし、従来の放送・マスコミ・出版とも違う。いわば、従来の放送・マスコミ・出版業界では扱えない情報の流通が必要になってきている。こういうことをやる人間がもっと増えるべきだと私は思うし、増えなくてはおかしい。

 この分野こそIT技術が威力を発揮する分野であり、この分野はここ数年でものすごく進歩している。こうした新しい、個人や小さな組織が社会とコミュニケーションするための技術としてITはこの世に生まれてきたと言ってもいい。

 そして、この分野は日本は遅れている。

 この遅れているということと、例えば被災地の人々が政府に対して説明がないという感じを持っているのも同じだ。政府と被災地の方々の間に、コミュニケーションができていない。今の時代に対応したコミュニケーションの仕組みができていないからだ。政府もメディアもネットは「放送」「テレビ」「新聞」「出版」とは違う別のものだという認識がない。「放送」「テレビ」「新聞」「出版」の側からネットを見て、ネットは自分たちに付属するもの、補完するもの、みたいな程度の認識しかない。

 お金の流通に合わせた情報の流通が必要だ。NPOの活動を、お金の流通の中に位置づけ、活動と情報のコミュニケーションとお金の流れのフロー全体を管理するモデルなりフレームなりを作ることから始めなくてはならない。

 しかし、それは新聞社や放送局や出版社などといった従来のメディア産業ではできない。アメリカの場合だと、例えば、NPOならNPOの内部からそうしたことが生まれてくる。本来は、個々の業界の内部から自発的にITを使った動きがでてくるものなのであるが(例えば、ホームページなどはそうだった。アメリカでは自発的に個人や団体や企業が勝手にどんどんやっていったが)、日本ではそうした動きがないか、少ない。このへんに、日本ではこの分野が進んでいない原因がある。

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April 25, 2012

良いものはコストがかかる

 今の世の中は、なんでもかんでもコスト削減だ。とにかくより少ないコストで、より大きな利益を得ることを良しとされる社会である。

 それはわかる。よくわかる。わかりすぎる程、よくわかる。

 しかしながら、どうも今の世の中はあまりにもコスト削減ばかりというか、それ以外のことがもはや考えることができない状態になっているのではないかと思う。

 良いものを作ったり、やっていったりすることは時間とお金がかかる。つまり、高いコストがかかる。この当たり前のことが、今の世の中は当たり前になっていない。

 良いものには価値がある。これは、皆さんわかっている。その価値があるものを、時間とお金をかけないでやっていくことを良しする考え方がいたるところにある。これが常識みたくなっている。ここが間違っている。間違っているというか、それが当然のことかのようになっていることが間違っている。

 本来、良いものは時間とお金がかかる。だから、良いもの、良い製品、良いサービス、等々、とにかく良いものを購入する価格は高いものなのである。

 今の世の中は、なんでもかんでも安ければいいみたいな風潮になっている。よって誰もがコスト削減を強要する、強要される。マネジメントとはコスト削減のことだと思っている。

 もちろん、値段は安いにこしたことはない。しかし、このなんでもかんでも安ければいい風潮が、巡り巡って僕たちの収入を落とし、労働時間を長くさせている。

 低価格競争でお互いがひたすら貧しくなっていくのではなく、良いものには高いコストがかかる、その高いコストは支払わなくてはならないとみんなが思い、そして良いものを作っていくことで、しかるべき値段での売買が行われ、みなさん豊かになっていく。そうしたようにならないものだろうか。

 何かを行う時、そこにかかる時間とお金を少なくするように努力しなければならない。コスト削減をしていないのは怠けているからであるという考え方がある。この考え方に間違いが含まれている。別に怠けているからコストがかかるわけではない。かかることにはかかるとしか言いようがない。

 もちろん、ただ闇雲にコストをかければいいというわけではない。時代の要求に応えるものである必要がある。

 つまり、何にフォーカスをあてるかであり、あてたフォーカスに対して、人とカネと時間を投入して良いものをつくっていこうということだ。そのあてたフォーカスが間違っていれば、市場原理に従い「売れない」ということになる。

 しかし、それはコンセプトの誤りであって、価格がどうこうという話しではない。良いものは値段が高いものであるという前提の上での市場競争は、価格の勝負ではなく、コンテンツ、コンセプトの競争になる。マネジメントとは、コスト削減や効率化のことだけではない。必要ならば、非効率や無駄があってもいい。何を目的とするかは、多種多様なのである。

 今のコスト削減至上主義、安ければいい、安くなければならないという思考は、結局のところ、ものの価値が判別できない、ものの分別ができない、価値の判断基準を持っていないのではないかと思う。安いものは安くていい。しかし、安いのだから、この程度のものなんだな、だって安いんだから、で意識や思考が停止してしまい、本当に良いものを見いだそう、持とう、創ろうとしない。良いものへの活力や意欲がない。これが今の日本の状態である。

 もともと、自分たちの手でものを創っていく、創ったものを販売していくということは、もっと楽しいものであったはずだ。産業というものは、もっと楽しいものであったはずだ。それを面白くもなんともない、つまらないものにしているのがコスト削減至上主義なのである。

 昔は、良いものは値段が高いのは当たり前だとみんな思っていたと思う。80年代は、バブル景気でコスト意識なんてなかった。その後、景気が悪くなり、経済が停滞し始めると、コスト削減がさかんに言われ始めてきた。そして、21世紀の今になり中国・韓国の経済が勃興してくると、もはやなんでもかんでもコスト削減をしなくてはならない世の中になった。

 コスト削減とは、無能な管理者がまず最初に行う、それしかできない唯一の方法である。コスト削減ではなく、高いコストをかけて良いものをもつくり、高価格で販売してコストが十分回収できる。そうした良い製品、良いサービスを提供する体制なりシステムなりを創るのが優れたマネジメントである。本当の高度な産業社会とはそうしたものだ。

 良いものはお金と時間がかかる、高いコストがかかるのは当然だ。

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