『官僚たちの夏』
今週、近所のTSUTAYAで数年前にTBSで放送されたドラマ『官僚たちの夏』のDVDを少しつづ借りて全10話を見た。このドラマや城山三郎の小説のことは知っていたが、今頃になって、じゃあ見てみるかなと思って見てみた。
見てみて驚いた。このドラマはあの時代、1950年代後半から60年代にかけての通産省の産業政策は正しかったというスタンスに立っている。話が国民車構想から始まるのであるが、日本の自動車産業は国の介入を受けなかったからこそ成功した産業だった。このドラマは話の内容が戦後の日本経済史の事実と違う。戦後日本の政府の産業政策の功罪は大きい。このドラマはそのへんが出てこない理想的な国家を憂う通産官僚のフィクションのお話しだった。こりゃあ放送当時あまり話題になることもなかったのは当然だよなと思いながら、1話、2話、3話と見続けていた。
ところが見続けるにつれ、これは重要なドラマなのかもしれないと思うようになってきた。昭和の高度成長や日米の繊維交渉や貿易摩擦の時代が過ぎ去った今の時代に、ミスター通産省と呼ばれる風越の言っていることを考えると、これはこれで極めてまっとうな正しいことを言っているのではないかと思うようになってきた。
風越の主張は、国家は「国民経済」に基づくということである。「国民経済」とはなにか。それは日本国に居住する人々すべてが雇用を確保し、所得を上げ、生活の安定を得るというものである。そのために政府があり、官僚機構があり、官僚があり、産業政策があるという極めてシンプルかつラディカルなものだ。
ここで少し、視点を広げて考えてみたい。
戦後まもない時期、日本人は食うものがあまりなく、貧しさの中で懸命に働き、例えば品質の高い、燃費の良い、価格の安い車を作った。それらの車は日本だけではなく、外国、特に車の使用が世界一のアメリカで売れるようになった。
ここで困ったのがアメリカの自動車メーカーであり、そうした企業で働く労働者であった。日本車が売れることで、国産車は売れなくなった。日本の政治家が有権者の雇用を危惧するのと同様に、アメリカの政治家も自国の労働者の雇用を危惧する。そこで、アメリカの政治家としては日本にアメリカに自動車を売る数を減らし、アメリカ国内に工場を建ててアメリカの労働者を使って欲しいとするのはある意味当然のことであろう。
すると、日本の労働者はどうなるのか。日本に工場があり、アメリカにも工場があるのならばまだ良い。しかし、日本で自動車が売れ続けるのならば日本の工場は必要であろうが、販売が飽和状態になれば、やがて自動車はそれほど売れなくなる。そうなれば日本の工場は規模を縮小、あるいはなくすこともあるだろう。そうなると日本の労働者はどうしたよいのだろうか。雇用を確保し、所得を上げ、生活の安定を得る、ということができなくなるではないか。
ここで、産業政策というものが必要になる。自動車に変わり、大量の雇用をまかなう産業の育成が必要になる。今「必要になるであろう」と書いたが、実際その通りの産業政策になっているのかどうかというとなっていない。国が巨大な権限をもって産業政策を実施していくことで産業が育成されたことがない。その一方で、上記は自動車の例で書いたが、いまや家電製品もそうであり、今の日本は大量の雇用の確保を引き受けてくれる産業が急速になくなりつつある。
ただし、製品そのもので言えば、今の時代は「官僚たちの夏」の頃とは違う。国産自動者と言っても、デザインや研究開発は日本であったとしても、各パーツは世界の各地で製造しており、いわゆる「日本国産」の自動者というものはいまや存在しない。市場がグローバルになり、製品がグローバルになり、企業もグローバルになっている。こうした産業は国の産業政策でどうこうできるものではない。
むしろ、国がやるべきことはそうしたグローバルな部分ではなく、国内的な部分だろう。
ドラマの中で風越は「弱い者も幸福になる世の中」という意味のセリフを言っている。ちょっと聴くと、風越の考え方は社会主義のようにも聞こえる。風越は社会主義者なのかというと難しい。彼は官僚なのであり、官僚である以上、こうしたことを言うのは当然である。官僚が国民の雇用を守ることをせずして、誰が守るのかと風越は思っているのであろう。この考え方はこれはこれで正しい。
ドラマでは国内産業の保護派と国際通商優先派に別れているが、実際のところ、国の経済にはこの二つが必要であって、国際競争力を持つ付加価値で商売をするグローバルに活動する企業と大量の雇用を吸収する産業がなくてはならない。自由化すべきものは自由化して外資を導入し、保護すべきものは手厚く保護をする、政府に必要なのはこの采配なのである。
そして、産業の育成とは、例えば半導体産業を守ろうとか、クールジャパンがどうしたこうしたということではなく、政府の権限を民間に与え、民間に自由にやらせることが、結果的には産業の育成になるということだ。
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