旅行・地域

September 06, 2014

華山1914文創園区

 先月、夏休みをとって今年もまた台湾へ行ってきた。去年行った時は、ちょうど台風が来ている時で台湾滞在中ほとんど毎日雨だった。今年はいかにもこの季節らしい台湾の炎天の天気で、いわば真夏の8月の酷暑の台北を今回初めて体験したわけである。台北市街は高層ビルが建ち並び、道路にはたくさんの車とバイクがガンガン走る。そうした街の中、強烈な日差しとアスファルトの照り返しの中、歩いているとすぐ疲れるしアタマがぼーとしてくる。この時期の台北に来るものではないなと思った。

 今回の台湾旅行の目的の一つは今、台湾では日本統治時代の建築物を改築や改装して現代風のおしゃれなお店やカフェにしたりレストランや旅館にしたりするリノベーションが流行っているというので実際にそれを見てみたいと思ったからだ。そうしたリノベーションのスポットとして代表的とも言える華山1914文創園区に行ってきた。

 ここは日本統治時代は酒工場であり、このへん一帯は「樺山町」であった。「樺山町」の「樺山」は初代の台湾総督の海軍大樺山資紀から「樺山」からきている。ここに初めて酒工場ができたのは1914(大正3)年である。以来、その規模は大きくなり、1924年には台灣總督府專賣局台北酒工場と呼ばれるようになる。1945年、日本の敗戦により中華民国になり台灣省專賣局台北酒工廠となる。1987年に工場は移転し、工場跡地はそのまま放置され、やがて工場跡の建物に絵を描く若者たちが入り込み、その後、アートイベントの場所となり、2002年に本格的に工場跡の建物を文化空間としてオープンにして再利用するようになった。さらに、カフェやレストランやショップやライブハウス、映画館などが加わり、台北の観光スポットとしても有名な場所になった。

 実際に行ってみると、若者や家族づれの人々が多く集まっていた。むしろ、大陸中国からの観光客や欧米人の観光者の姿はなく、日本人の姿も見なかったように思う。酒工場の跡地が見事におしゃれな場所になっていた。

 しかしながらその一方で、では何度もここへ来たいと思ったかというと、そうは思わないかった。ショップで売られているものは、いわば見栄えはおしゃれでお土産には良いが日常で使うというものではない。一度来てみて、わー雰囲気いい、おしゃれなお店だなと感じるだけでそれで終わりである。もちろん、そうしたことを感じされるのが目的であり、そうしたことを感じさせる場所なのであるが、その後はどのように顧客を集めるのだろうか気になった。見栄えで集客しているものは常に見栄えを新しくしていかなくては集客は続かない。テナントの入れ替え、改装を常に行っていく必要がある。そうなると逆になじみのお店、いつも行くお店というものではなくなってしまう。

 もうひとつ気になったのは場所だ。華山1914文創園区は、地下鉄の駅から少し歩くし、周りにも商業施設があるわけではない。いわば車とバイクが走り回る中にこの一郭がある。ここはもともとお酒の工場であったわけでお酒の工場であるならばこうした場所にあって良かったであろうが、ここをアートスポットとするというのは場所的に不便と言えるだろう。つまり、リノベーションはその建築物の本来の目的とは違うものにするために、地理的な場所で見ると無理を感じさせることがあるのである。場所で言うと、華山1914文創園区は観光客相手の場所とするよりもビジネスオフィスの場にした方が良いのではないと思われる。仕事をする事務所があって、おしゃれなカフェーやバーがあるというのが合うと思う。大都会の中の広大なクリエイティブアート空間と言われているようであるが、ではなにをクリエイトするのか。それが重要だ。

 日本との比較を言えば、東京でも台北のようなリノベーション活動が必要だと思う。東京には東京にしかない歴史建築物がある。それらを現代の観点で再利用することはとても必要なことだ。江戸情緒ある町並み、明治・大正の面影のある建造物、古き良き昭和の雰囲気がある場所など、それらは過去の遺物がそのままそこにあるだけでは「過去の遺物」のままである。そうしたものを「江戸情緒ある町並み」「明治・大正の面影のある建造物」「古き良き昭和の雰囲気がある場所」にリノベーションしなくてはそうしたものはならない。

September 07, 2013

台北で考えた

 台湾について、まだ考えている。

 司馬さんが『台湾紀行』で論じていた「台湾という国について」である。台湾という国ついて考えることは、国家とはなにかということにつながる。

 国家とはなにか。それを考えるために、台湾という島の歴史をさかのぼりたい。日本列島と同じく台湾島もまたそのはるかな太古の昔はユーラシア大陸とつながっていた。地殻の変動によりユーラシア大陸から分離され、というか大陸と台湾の間に水が流れ込み海になって、いわゆる台湾島ができた。もちろん、この島の上で人類が最初から発生したわけではない。その周囲から海を渡って台湾にやってきたのであろう。今日の台湾で、原住民、先住民、山地人と呼ばれる人々である。また、中国大陸の福建省あたりからも漢族の人々が台湾に渡り暮らしていた。

 17世紀にオランダは、インドネシアを拠点として日本と交易をするようになって台湾という島があることを知った。しかしながら、この島には首狩り族の山地人と漢族の人々が住んでいるだけで交易の相手国にはならないため、別に台湾を知ったところでどうこうすることはなかった。やがて、山地人の狩る鹿の皮や砂糖の栽培と精製・販売などが日本で商売になることがわかり、それではということでオランダは台南に交易基地を置き、福建省から中国人の移住を勧めた。ポルトガルやスペイン人も台湾に要塞などを置くようになる。この時代、台湾は誰の所有というわけではなく、ようするに、いろいろな民族が雑多に暮らしている移民の島だった。

 時に大陸中国は明が滅び清になる。福建の海賊の親玉とも言うべき鄭芝龍は、日本の平戸の大名松浦氏との商売で巨利を得た。彼は明朝の庇護を受け財を成したわけであるが、最後は明を裏切り清につく、しかし、その息子の成功は滅びゆく明を助けようと清と戦い、台湾からオランダの勢力を追い払った。鄭成功は台湾を清朝の軍と戦う拠点としたかっただけなのであるが、とにかく台湾から西洋人を追い出した。彼は、その志半ばで夭折する。異民族である清朝への漢族の明の抵抗の地であった台湾は清朝に下る。鄭成功の母親は日本人である。鄭成功の物語は後に日本で近松門左衛門が戯曲にする。国性爺合戦である。

 さらに時代が下り、19世紀の中国において鄭成功は漢民族のナショナリズムのヒーローとして脚光を浴びることになる。何度も言うが、別に鄭成功は中国人としての愛国心をもってオランダと戦い、台湾を中国の地としたわけではないのだが、そうしたものとして政治的に利用されることになる。まことにもってバカバカしい限りなのであるが。

 アジア的「版図」の概念で言えば、台湾は中国の「版図」になる。中国の「版図」になると言っても、たまたま近くの大文明が中国だったからそうであるだけであり、台湾島が例えばインド大陸の近くであればインドになるのであろう。ようするに「島」という洋上の岩っころは、そういう大ざっぱであいまいなものなのである。

 ちなみに、琉球国は中国と日本の両方の「版図」であった。この関係が変わるのは、日本が明治維新を経て大日本帝国という国になり、明治4年に日本はいち早く琉球を西洋の近代法をもって西洋式の領土として明確にしたからである。これに対して清はなにも言うことはなく、なにごともなかった。おそらく、日本がなにをしたのか、西洋の領土というものがいかなるものであるのかが、この当時の大清帝国には理解できなかったのであろう。ただし、本来の意味で言うのならば琉球は琉球の人々の地であり、日本のものでも中国のものでもない。

 19世紀末、日清戦争が日本の勝利で終わり清朝は台湾を日本に割譲する。講和条約の全権大使であった李鴻章にすれば台湾を中国の地とも思っていなかったという。李鴻章にとって、何度も言うが、洋上の岩っころ(岩っころと言うには台湾は大きすぎるけど)のことなどどうだってよかったのである。日本側も台湾をもらってどうするのかという意見が多かった。ただ、海軍が軍艦の石炭補充の基地として高尾港が欲しかったという。それではということで、台湾は大日本帝国に属することになる。それは台湾の人々が初めて体験した「国家」であっただろう。日本はこの先住民と大陸からの移民が住む島に、上から覆い被せるように大日本帝国を被せた。

 本来、帝国主義とは国内の産業が発展し生産性の向上により、国内市場だけでは商品の販売が十分すぎる程行き渡っているので、その余剰を商品を国外の市場に求めることから始まる。そして国外に市場を拡大し、さらに生産を向上させるために、国外の資源を求め、それを低コストで得る。帝国主義の原点はそうしたものである。16世紀以後のヨーロッパ諸国はそうして発展してきた。

 ところが、である。大日本帝国には、そうした高度な産業などというものはなかった。なかったのであるが、ヨーロッパ諸国の並の近代軍隊を持とうとした。これはたいへんな負担であった。その上、さらに(海軍が軍艦の石炭補充の基地として高尾が欲しかっただけなのであるが)成り行き上、台湾を植民地とし、その経営を行うことになる。これは日本にとって、さらにたいへんな負担であった。台湾の人々からは恨みを買うであろう。そうしたモロモロを思えば、帝国主義というのはコストがかり過ぎて、そこから利益を挙げることなど、大英帝国ではない日本程度の国には不可能なことであった。ただし、この当時、そう考える人はあまりいなかった。そういう時代だったとしか言いようがない。

 日本の台湾統治は決して褒められたものではなく、映画『セデック・パレ』にもあったように日本人は台湾の原住民たちや漢族の人々を侮蔑していた。この侮蔑や迫害が日本人への反乱を招き、幾度となく暴動事件や抗日運動が起きた。アジア人である日本人が同じアジア人を侮蔑するのは、欧米への劣等感と近代国家にならなければ欧米の植民地になるという強烈な恐怖感の裏返しだったと思う。もちろん、だから侮蔑して良いということはない。

 何度も言うが、日本の台湾統治は決して褒められたことばかりではない。そもそも、統治といってもされる側から見れば侵略であり支配であった。他民族の言語や文化を押しつけられて気分が良いわけがない。当然のことながら抵抗がある。統治初期の頃の台湾総督府がやったことは反乱分子を討伐することだけだったという。

 日本の台湾統治は50年に及ぶ。その行政の基礎を作ったのは第四代総督の児玉源太郎であり、児玉が民政局長として抜擢した後藤新平の二人である。日本の台湾統治は、児玉と後藤の二人から始まったと言えるだろう。植民地に対して宗主国はその国としての最も良いものを施そうとするという。日本は台湾に上下水道を施設し学校教育を整え、鉄道と郵便の制度を設け、帝国大学を設けるなどを行った。これも何度も言うが、貧乏な日本が台湾に対して精一杯のことをやったということは否定できないであろう。

 太平洋戦争での日本の敗北をもって日本の台湾統治は終わる。日本が去って行った台湾に大陸から蒋介石と国民党政府がやってきた。そして、中華民国という国家を台湾に上から覆い被せた。彼らは台湾に本来住んでいた人々を激しく虐待し管理した。このへんのことは、日本人にはわかりずらい。同じ中国人でなんでそんなことをするのかという感じであるが、そういう人々なのであるとしか言いようがない。蒋介石にとって台湾は私有物のようなものであったのだろう。ただし、これは蒋介石一人の話ではなく、そもそも中国では古来、権力者にとって国土と人民は私有物であった。中華民国の国父は孫文である。孫文は若い頃ハワイでアメリカの教育を受けたためか、そうした意識はなかった。しかし、孫文はどちらかというと文人、思想家、革命家であり、政治権力者というタイプではない。孫文の亡き後、国民党で権力を握ったのは蒋介石であり、蒋介石と中国の常として権力を私有化した。ちなみに、毛沢東も若い頃はともかくその晩年は権力を私有化し、人民を私有物のように扱った。

 今日、日本の台湾統治が台湾の人々からそれなりの評価を持って扱われているのに対して、朝鮮統治の方は恨まれるだけになっているのはなぜだろうか。台北滞在中、少し考えてみたが、よくわからない。ひとつの考えとして、日本の台湾統治は権力を私有化することが極めて少なかったことに対して、その後に来た蒋介石の国民党軍は民衆を虐待し、権力を私物化した。台湾の人々は日本が去り、これで自由な時代になったかと思っていたが、やってきたのは暴虐の限りをつくす連中であった。これなら日本人の方がまだましだったという思いがあるからという意見がある。そうした思いがあったことが否定できないだろう。しかし、そうであるのならば、朝鮮もまた日本人が去った後、アメリカ・中国が介入して朝鮮戦争になり、民族分断後、韓国は長く軍事政権だった。日本統治の頃の方がまだましだったという思いがあっても悪くはないように思うのだが、このへん単純な比較はできないのでなんとも言えない。

 台湾の人々にとって、国家とは常に他人が外からもってきて、自分たちに上から覆い被せるようなものであった。これが変わるのが、1988年に蒋介石の息子の蒋経国が死去し李登輝が総裁になってからである。李登輝は台湾で生まれ育った台湾の人、いわゆる内省人であり、大陸の中国人、いわゆる外省人ではなかった。李登輝が総裁になったということは、内省人の政権になったということであり、台湾の民主化はここから始まる。

 以上、ざっと台湾という島の上で繰り広げられてきた国家史みたいなものを考えてきた。

 台湾では、「国家」はその時その時で変わってきた。台湾の地で生きる人々からすれば、「国家」などというものは常に上から無理矢理に押しつけられるものであった。

 大陸が台湾を軍事的に占領し併呑するのではないかという危険性があるという。大陸中国が台湾を侵略することは可能であろうし、台湾にそれに太刀打ちできる軍事力はない。その防衛の役割をアメリカが担っている。だから、中華民国という強固な国家が必要なのであるという意見があるかもしれない。しかしながら、中華民国のアイデンティティーとはなんであろうか。第二次世界大戦後、大陸から蒋介石がもってきた国家は台湾に本来住んでいた人々にとってはなんの関係もないものだ。

 ただし、ないものだと言うのは台湾に昔から住んでいた内省人のみなさんで、最近大陸から来た外省人のみなさんにとってみれば祖国は大陸中国なのであろう。ひとつの「国家」で割り切れるものではない。このへん、ややこしい。

 さらに親が内省人あるいは外省人であっても、子の世代や孫の世代になると、もはやそうしたことはどうでもよくなる。台湾人のアイデンティティーはその人、その人によって幾重にも折り重なっている。ようするに、そういうものなのであろう。みんなまとめて台湾に住む人々なのだ。彼らが台湾をつくっている。重々しく、これが国家であり、オマエたちは国民なのだという観念を押しつけることは不用だ。そうしたものがなくても、人は生きていく。

 台北101やここは日本の原宿か!と思うような西門を歩くとはっきりとわかる。興味深いことに、日本、中国、韓国は国家としては不和な関係にあるが、国家などというもんにはまったく関係がない人々の暮らしでは、おのおのつながり合い「ひとつの経済圏」を作っている。台北のテレビでは大陸や韓国のドラマや香港の映画や日本のアニメが放送されている。その昔の戦前の日本人が今の台湾を見れば、それこそ大東亜共栄圏がここにあると思うだろう、かつて数多くの日本人が夢見た「アジアはひとつ」の想いは、21世紀の今、ボーダーレス経済として実現している。

 台北に行って、そう思った。

September 01, 2013

台北に行ってきた

 8月の19日から25日にかけての一週間ばかり夏休みをとって、台湾の台北に行ってきた。

 台湾にはこれまで台中に2度訪れたことがある。どれも所用の団体での訪問であって、自分個人で自由に街を歩き回ることはできなかった。そこでいつかは、一人でふらっと台湾を旅することをしてみたいとかねてから思っていた。

 本当は台北だけでなく、電車に乗ってできれば台南まで旅をする予定であった。ところがなんと台湾には台風が直撃していて、台北に着いたその翌日から連日ほとんど雨であった。それに湿度が高く蒸し暑い。台北に着いた時、深夜の桃園空港に着き、入国手続きを経て空港を出ようと出口の自動ドアが開いた時、一歩外へ出た私のメガネがむわっと曇った。これがいわばマイ・ファースト台北の印象だった。とにかく蒸し暑く、異常に暑い東京を出て、夏休みは南の島でのんびり過ごそうと思っていたのであるが、そうした人の想いなど大自然にはなんの意味もないのであった。自然は人間の思い通りにはならない。

 ようするに、そういう天候の時期なのであろう。雨なので旧所名跡に出歩くことができず、地下鉄やバスに乗って建屋の中、つまり博物館やショッピングセンターへ行き、歩き回った。歩き疲れたらカフェーでぐったりとし、夜は夜市に行きたかったが当然雨でやっておらず、つまりは夜もカフェーで過ごしていた。そして早めにホテルに戻り、シャワーを浴びてテレビを見て早々に寝るというまことに健全・健康な生活をしていた。暴風雨は連日台湾全土を覆い、とてもではないがのんびりと各駅停車の旅行に出るわけにもいかず、そういうわけで台北で一週間、ほぼそうしていた。

 夜、カフェーやホテルの部屋では本を読んでいた。日本を出る時、台湾で読もうと司馬遼太郎の『街道をゆく・台湾紀行』の文庫本を買って持っていった。この本は読んだことはあったが、もうそうとう前のことなのでずいぶん内容を忘れている。今回、改めて台湾でゆっくり読んでみようと思ったのだ。

 実際の所、これまで外国へ旅に出ると、旅先で読もうと日本から何冊もの本を持って行くが、まず読まずに帰ってくる。外国旅行では、本を読むという気力・体力の余裕がなくなるのである。もう一つの理由は、英語圏の国に行くと、英語の新聞を読み、英語の本を読むので日本語の本をわざわざ読もうという気にならない。

 ところが、今回の台湾旅行は、それなりの時間的な余裕があったことと、自分の中国語の能力では中文の新聞や本などとても読めず、そういうわけで台北のカフェーで一人日本語の本を読んでいた。

 『台湾紀行』を読むと、司馬さんは台湾を歩きながら「国家とはなにか」を考えたという。自分はこの雨ばかりで暑くて蒸す天気のもとでそんな小難しいことを考えることはなく、司馬さんの本をゆっくりと読みながら、ただ漠然と台湾と日本のことを考えていた。

 日本で思う台湾は、大陸中国と「同じ」と思ってしまう。しかしながら、実際の台湾の地で思うと、当たり前のことであるが台湾は台湾であり、台湾の大多数の人々は、もちろん民族的、歴史的、文化的に中国人であるが台湾人である。大陸の中国とは違う。この当たり前のことが、日本にいると実感として感じることができない。

 今の台湾の若者たちは、当然のことながら日本の統治時代を知らない。その後の大陸からの国民党による圧政も知らない。台湾の民主化は李登輝が総統になった1988年から始まる。つまり、80年代に生まれた世代以後は物心ついた時から民主主義の社会だった。80年代から国際社会は情報と経済のグローバル化が進展し、台湾もまたグローバル経済により大きく発展した。80年代以後、日本は音楽、アニメ、漫画、映画といったポップカルチャーを爆発的に生み出していくが、それらに憧れ、それらを積極的に吸収し学んでいったのが80年代以後の台湾の若い世代だった。

 かつて半世紀以上前、台湾を植民地とした日本は台湾に日本の良きものを伝えようとし、それはそれで台湾の人々に大きな影響は与えたが、なにぶんそれは国家の政策であり、昭和になると大アジア主義や大東亜共栄圏というイデオロギーのもとでの日本の文物の流入であった。

 ところが20世紀末に起きた出来事は、日本は日本で国策でもなんでもなく各人各様に好きなようなやっていた音楽やアニメや漫画や映画が、はるかな南方の台湾の人々に好まれたということだ。台湾の人々は長い時を経て再び「日本」と対面し「日本」と共にある。全地球社会がボーダーレス・ワールドであることによりそうしたことになった。戦前のような日本の日本による日本のための大アジア主義とか大東亜共栄圏とかいったものがなくても、国境を越えて経済が発展していけばアジアは自然に「ひとつ」になっていく。

 台北にある台湾で一番大きな書店であるという誠品書店へ行った。行ってみて驚いた。本棚には英語、中国語、日本語の本がまざって並べられているのである。ちなみに以前行った北京の王府井の大きな書店には、当然のことながら中国語の本しかなかった。香港の本屋さんには中国語と英語の本があったよう思う。英語と中国語と日本語の本がまじって置いてある書店というのは台湾に来て始めて見た。台湾では大学を出た人は英語と中国語とそれなりの日本語ができるというのは当然になっているのだろう。ショッピングセンターの台北101の近くにある誠品書店は文学系や芸術系の本の品揃えが良く、本棚のデザインや売り場の雰囲気が洗練されていた。あえて言えば、歴史学や社会科学系の本の品揃えはそれほど良くはなかった。そっち方面は弱いのであろう。

 台北市内は、MRTという地下鉄・電車が走っている。これに乗ってみると、スマホやタブレット端末を見ている人が多い。ガラケーを持っている人は一人もいなかった。そうしたスマホの画面を、横からちらっと覗いてみると動画を見ていたりLINEをやっていたりしている。台北は電車の中でもネットが途切れることがない。こうした光景は東京と同じだ。台湾でもLINEやWeChatなどといったメッセンジャーアプリのユーザは多い。市内には公衆のWi-Fiスポットが多い。

 司馬さんが台湾で「国家とはなにか」を考え、『台湾紀行』を書いたのは1990年代前半である。今の台湾はそれから20年近い歳月を経た。日本統治時代の台湾や国民党圧政の台湾ではなく、今、新しい台湾が生まれている。

 台湾は正確には台湾省という呼び名になる。大陸の中華人民共和国がそう呼んでいるのではなく、台湾の中華民国がそう呼んでいる。それは中華民国にとって自己こそが正当な中国の国家であり、中国の国家とは台湾も含めた中国大陸であり、たまたま「台湾省」という場所にいま中華民国はあるだけにすぎないという意思を示している。

 しかしながら、今の台湾の若者たちにはそうした重さがない。台湾は台湾であって、そうしたことはある意味どうでも良いことなのだろう。それは司馬さんが見ることがなかったアフター『街道をゆく・台湾紀行』の台湾だった。

 その台湾を歩いてきた。

March 18, 2012

台湾に行ってきました

台湾に行ってきました

 今月の10日土曜日から14日水曜日まで台湾に行ってきました。通っている中国拳法の道場での台湾研修です。台湾研修には二回目ですので、今回は何がどうなっているのかわかっているので、十分余裕のある研修旅行でした。

 場所は台中です。台中というのは台湾の中心部に位置します。そもそも、台湾は面積は約35,873平方キロメートルで日本の九州ぐらいの大きさで、2千3百万人が住んでいます。首都は台北市です。都市の規模としては、台中市は高尾市に続く台湾で第三の都市になります。

 前回行ったのは、一昨年であった。今回行ってみて街の道路を走る車の数が増えたような気がした。まあ、感覚で言っているのだけど。

 拳法の稽古旅行なので、観光ができる時間があるわけでもなく。さらには今回、ここに着いた10日から14日まで、台湾にはめずらしく曇りか雨の寒い毎日で、ここは本当に南国なのかと思った。そうした天気のためか夜市は一昨年訪れた時のような活気と大きさがなく、なんかまーとりあえず屋台でやっていますという感じであった。

 雨の降る新宿や池袋とか、雨の降る香港とかは、モロ、『ブレードランナー』のイメージなのであるが、雨の降る台湾の街は、『ブレードランナー』のイメージがしないのはなぜなんだろうと考える。が、考えてみるもののうまくまとまらない。街中の看板や標識での英語文字の量の違いだろうか。

 当然のことながら、台北や台中は東京とも香港とも北京とも違う。台湾で感じたのは、妙な懐かしさだ。自分が幼い頃の遠い記憶の中の昭和40年代の東京の風景と重なるものがある。

May 07, 2009

中国旅記5

というわけで、ここは成田第二ターミナルである。

行く前は、これからどんな苦労が待っているであろうかと思ったものであるが、さほど苦労したこともなく、とにかく歩き回ったというだけであった。

紙の手帳の方にはそれなりに書いていたし、デジカメと携帯で写真を今回は数多く撮ってきたので、後日整理してアップしたい。

May 05, 2009

中国旅記4

1日から3日の3日間、中国は連休であった。北京では、「今年メーデーの連休中、北京市は国内外の観光客、延べ370万人を受け入れ、去年同期より22.7%増えた」であったという。だから、あんなに人が多かったのかと思う。とにかく、天安門広場の人の数がものすごかった。地下鉄の人の数もものすごかった。「人海」という言葉を実感したというのが、いかにも中国に来たな感じがすると思ったものだったが。とにかく、人の数が多かったのである。

というわけで、4日の今日は平日なので、それほど混むことはないだろうと天安門広場へ再度行ってみると、2日ほどではなかったが、それでも結構な人の数であった。とにかくまあ、いつ行っても人が多いということなのであろう。

前回は、人の多さで恐れをなして入ることがなかった故宮博物館、つまりは紫禁城へ入る。

紫禁城は、かつての皇帝の政務の場所であり、住居である。今では、世界遺産となり、世界各国の観光客のみなさんが、こうしてどんどん入っていく。

自分もまた観光客の一人として、紫禁城の中へ入っていた。おおっ、これは『ラストエンペラー』のあのシーンではないかみたいな光景が多く、興味深かったわけであるが。この中を歩きながら考えてしまった。ワタシは日本人である。日本には、今でもエンペラーがいるのである。

これを日本の場合で考えてみれば、共産党が革命によって政権を奪取し、日本が共産主義国家になったとして、その政府が皇室一家を皇居から撤去させて、皇居が観光地になるということなのである。皇居は世界遺産にでもなって、全世界からの観光客が押し寄せる、ということなのである。今、京都の御所は観光地にはなっていない。あの場所には、一般人は入ることはできない。これは、天皇制であることには、明治以前も、以後も変わっていないからだ。

中国の歴史では、王朝が変われば、前の王朝のものなどガラクタ同然のものになるかというと必ずしもそうではない。紫禁城は、清朝の前の明朝でもあったし、さらにその前の元朝の時からあった。王朝が変われば、前の王朝のものは破壊されるのならば紫禁城など、元から明に変わった時になくなるものであった。しかしながら、紫禁城は受け継がれ続けたのである。そして、中華人民共和国はこれを受け継ぐことはなかった。

ただ、これを共産主義革命による変化と考えるのも十分ではないと思う。そもそも、紫禁城をシンボルとする中華文明では近代に対応することはできなかった。紫禁城的なものがある限り、中国は近代化できないということは、20世紀の中国の時代の雰囲気のようなものであったし、それを実行し、紫禁城的なものを徹底的に破壊し、紫禁城そのものを広大な観光地にしたのは、いわばなるべくしてなったとも言えるであろう。さらに言えば、日本はエンペラーを残しつつ近代化に成功したが、中国はエンペラーを叩き出さなくては近代化はできなかった。もちろん、どちらが良い悪いというわけではない。

明治政府は、徳川宗家の居城であり、徳川幕府の中心地でもあった江戸城を破壊することをなく、そのまま天皇家が居住する場所とした。このことに政治的な意味があったとするのならば、明治維新は徳川日本から天皇日本への「革命」であり、武家政権が確立した以前の古代日本と同じになるという「王政復古」であった。しかし、天皇が政務を行うわけではなく、つまりは、祭政一致ではなく政教分離であった。ただし、それでは完全な政教分離であったのかというと、そうではなく、その曖昧さが軍部の独走を生み、20世紀の日本は戦争へと進み、国家が崩壊した。

で、それでは中国はどうか。晩年の毛沢東はエンペラーのようではなかったのかとか。広い紫禁城の中を歩き回りながら、疲れ果てたアタマでそういったことぼおーと考えていた。

紫禁城の中のスタバを探したのだか見つからず。なくなったようだ。紫禁城の中で、グローバル資本主義の代表たるスタバでコーヒーを飲むことを楽しみにしていたんだけどなあ。

May 03, 2009

中国旅記3

なんかコメントの書き込みができない。
なにゆえか、禁止になる。
中国からはダメってことか。
しかし、こうして記事部分の投稿はできるのか。

中国も連休のためなのか、昨日の天安門広場はものすごく人が多かった。

というわけで、先のおぎしんのコメントへの返事をここに書いておきます。

漢字は同じと言えば同じだけど、違う部分もかなりある。それと単語としての漢字が同じでも、用法や文法が根本的に違う(あたりまえだな)(言葉の背景にある文化が根本的に違う)(ということが、ここに来るとホント骨身に染みるように思い知らされる!!)(とにかく違う!!)ので、中国語と日本語は本質的に違う言語であると思った方がいいよ。たまたま、似ている漢字がありますね、ということなんだと思った方がいい。

May 02, 2009

中国旅記2

北京に到着した。成田発18時20分の便なので、北京空港について、入国審査を経て、荷物を受け取ってタクシーに乗る頃にはもはや深夜である。ホテルについて、荷物をほどき、ホテルの周りを歩き回る。ホテルに戻り、ではという感じでホテルのインターネット接続につなげると簡単につながった。宿泊しているホテルがアメリカ系のホテルなので、ネット接続はできるだろうと思っていた。

しかしながら、携帯やデジカメで写真も撮っているのであるが、ネットブックにそれらの画像をもってくるケーブルを持ってこなかったのは失敗だった。というわけで、画像なしである。

May 01, 2009

中国旅記1

中国へ行く。

というわけで、ここは成田空港の第2ターミナルである。JALは、第2ターミナルになることを、さっき第2空港駅に止まった京成ライナーの中で初めて知って、あわてて京成ライナーから飛び出した。思えば、日本の航空会社で外国へ行くのも初めてなのだ。

ちなみに、今回の北京の旅は、こりゃあもう中国に行くのだからというわけで、日頃、自分の稽古で使っている中国剣術の剣を一振りもってきたのであるが、京成ライナーの改札を出て、空港へ入る前の持ち物検査で、さっそく尋問となり、警官立ち会いのもと、住所、氏名等を書類に書き込むことになってしまった。木製の剣なので、銃刀法では「剣」にならないので没収ということにはならないが、とにかくまあ、文明国では武器らしきものを持ち歩くのは、いろいろややこしい。

ということは、さておき。

ちょっと中国へ旅してこようと思う。中国と言っても、チベット自治区とかモンゴル自治区に行くのならば、それなりの覚悟と根性、そしてしかるべき日数が必要であろうけど、一ヶ月も二ヶ月も行ってくるわけにはいかないので。ここはひとまず、マイ・ファースト・チャイナは北京だなというわけで、北京へ行く。

とうとう、というか。ついに、というか。である。

思えば、15年くらい前に、生まれて初めての海外旅行のタイ、インドの旅に出てから、それなりの数の国々を旅してきたが、我が人生の中で中国に足を踏む込むことは一度もなかった。日頃エラそうに、中国はどうこうと言っていながら、その国を直に自分の眼で見て、自分の足で歩いて、自分の頭で考えることをしてこなかった。

問題は、言葉である。私は日本語と英語しかできない。英語ができればなんとかなるだろうと思って、なんともできなかった国が、私のこれまでの旅の中ふたつある。当時はソ連だったロシアと、当時はイギリス領だった香港である。香港は英語でなんとかなるだろうというイメージがあるかもしれないが、香港の人々は英語を解さない。香港は広東語でなくてはならない。

この香港の時は、現地にいる友人まかせであったので、バスに乗るにも、食事をするにも友人が広東語で会話してくれるので何の不自由もしかった。

ロシアの時は、ものすごく苦労した。「ものすごく苦労した」と一言ではとても表現できないほどの、我が人生にとって、ものすごい苦労だった。私にとって、ソ連の旅は、外国で言葉が通じないと、どうなるかを骨身に染みるほど思い知らされた旅であった。言葉がわからなくてもなんとかなるだろうと思うかもしれないが、言葉がわからなくてはなんともならない。つまりは、言葉がわからないと、「言葉がわからなくても、なんとかなる」レベルのことしかできず、「言葉がわからなくては、わからない」ことはわからない。あたりまえのことであるが。だから、必死になって言葉を学ぶしかない。語学というものは、そういうものであろう。しかしまあ、ロシアでそんな苦労しながらも、その後、ロシア語を学ぶことはしなかったワタシもワタシであるが。

それを、またやろうというのである。

その昔、弘法大師空海が、大唐へ旅立った時、同じ船団に搭乗していた最澄とは違い、まったくの無名のただのワカイモンだった。しかしながら、それでもこの人は唐の都の第一級の知識人、文化人と対等に渡り合える知識と教養を持っていた。つまりは、中国語をしっかりとマスターして、佐伯真魚君は中国へ旅立ったのである。

その時から遙か千年以上の後の、キリスト教歴で21世紀の初頭に、中国に旅立とうとしているワタシは、「これはなんですか」とか「これはいくらですか」ということぐらいしか言えないレベルの中国語で中国へ旅に出るのである。

どんな苦労がこれから待ち受けているのであろうか。
ようするに、中国という国はいかなる国なのであろうか。

そうしたことをぼおーと考えながら、日本を出る。

July 10, 2006

写真を追加しました

ニューヨークでの写真を追加しました。
キャプションはまだです。

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