July 17, 2017

日韓中の民主化

 中国の民主化を訴えて投獄されたまま、ノーベル平和賞を受賞した人権活動家で作家の劉暁波氏が13日、入院先の病院で死去したという。

 今、目の前にアジアの三つの国、日本、中国、韓国があるとして、ここで、少しそのおのおのの国の民主化ということについて考えてみたい。

 まず日本について言えば、政府が共謀罪を成立させたことについて、国民の多くは無関心であったということである。

 完全なる主権在民という思想なり制度なりといったものが、この国に成立したのは戦後のGHQの占領政策からである。時間にして約半世紀程度のものでしかない。それ以前の大日本帝国の時代は、国民国家といえども民主主義という点では不完全な国民国家であった。明治の自由民権運動は、国家主権にいわば吸収されてしまったようなものであるし、いわゆる大正デモクラシーは制限つきの民主主義であった。さらに、それ以前の江戸時代までの時代については言うまでもないであろう。

 ようするに、この国では民主主義というものは、ある日、ある時、GHQという天から降ってきた思想であり制度であった。従って、この国では、すぐ国家主義に戻る傾向がある。統治する側が優れた為政者、有能な統治者であり、安全と繁栄をもたらしてくれるのならば、ある程度の個人の自由が束縛されるものであっても人々は統治する側に従うという歴史的な文化がある。

 大多数の人々が共謀罪に関心を持たなかった理由は、自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはないと思っているからであろう。

 これが近代西欧の人々であれば、次のように判断する。「自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはないと思っている」ということと、個人の自由が制限されるということは別の話であり、「自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはない」と思っていようが、いまいが、人間の自由が制限されることには一切反対すると判断するであろう。

 これはつまり、信仰の自由、個人の思想・宗教の自由のことであり、社会に信仰の自由、個人の思想・宗教の自由がなかった状態から、自分たちの手で血みどろの革命を経て、そうしたことが可能な社会にしたという歴史が背後にある。近代西欧の人々からすれば、自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはない、だから、個人の自由を制限する法律の制定に無関心になるというのは、国家権力の本質を知らない、幼稚な思考であると思うであろう。

 ようするに、この国では、何度も強調するが、すぐ国家主義に戻る傾向があるのである。それをよく理解していた戦後の日本の知識人たちは、GHQの占領政策によって与えられた三つの基本原則、主権在民、基本的人権の尊重、戦争放棄を過剰なまでに保持し、守り続けてきた。

 戦後の日本の学校教育の目的のひとつは、これらGHQから与えられた三大原則を国民に教育するということだけではなく、なぜ、これらを過剰なまでに保持し、守り続けなくてはならないのかを教えるということであったのだが、その目的を果たしてきたとは言い難い。

 現在、日本国憲法改正を主張する人々は、戦争放棄の第九条の改正だけではなく、主権在民、基本的人権の尊重も国家主義に大きく傾けようとしている。社会そのものが高度に管理されたシステム社会になっている現在、国家主義の復活は容易に可能である。しかしながら、その一方で資本主義は個人や集団の創発的な活動によって発展していくものである。このため、日本は国家による管理社会でありながら、自由主義経済を維持し続けようとする社会になっている。

 韓国はどうであろうか。朝鮮には、士大夫という階層があった。士大夫はもともと中国の文化であったが、朝鮮において明確に確立されたと言えるだろう。彼らは儒者であり読書人であり、科挙制度を通して朝廷で働いたり、在野に身を置きながら世論形成に関わる人々である。彼らは、朱子学を思考と行動の原理原則とする。国権に朱子学の原理原則に反するものがあれば、彼らは国権を糾弾する批判勢力になる。

 この文化は今の韓国にも受け継がれており、軍事政権時代の民主化要求勢力として、また軍事政権ではなくなった第六共和制の今日であっても政府に対する批判勢力になっている。その意味では、韓国の人々には、GHQから民主主義を与えられた日本とは異なり、日韓併合による日本の植民地支配、その後の軍事政権から自分たちの手で民主主義を勝ち取ったという意識がある。軍事政権が調印した日韓基本条約を認めず、日本から植民地支配への謝罪が今だ行われていないとしているのも彼らである。韓国の政治において、この「現代の士大夫」勢力の存在を無視することはできない。

 それでは、中国はどうであろうか。今の中国において民主化をどう考えるかということは難しい。なぜならば、単純に、それが必要なものとして考えることができないからである。

 近代西欧思想からすれば、中国は民主主義も基本的人権もない国であるが、イアン・ブレマーが述べているように、現在の中国は国家資本主義であり、国家資本主義のもとで、人々の社会が営まれている以上、他国はそれを否定することはできない。アメリカのリベラリズムが、ベトナム戦争や中東紛争から学んだことは、民主主義を最善の政治体制として他国に強制することはできないということである。民主制のある、なしで中国を評価することはできない。むしろ考えるべきことは、一党による独裁政治の国家資本主義の国でありながら、なおかつ、基本的人権と個人の思想・表現の自由がある社会になれないのだろうかということである。

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June 04, 2017

アメリカのパリ協定離脱

 トランプ大統領は1日午後、地球温暖化対策の国際な枠組みである「パリ協定」から離脱すると発表したという。

 以前、2006年頃から、温暖化はないとか、温暖化はウソだとかいう声が数多く聴かれるようになった。いわゆる、温暖化懐疑論・否定論である。最近、そうしたものをほとんど目にしなくなったように思う。あれは一体なんであったのであろうか。

 人類が文明を構築し始めてから現在に至るまで、地球環境の及ぼした影響は膨大なものであり、特にヨーロッパで発生し、後に全人類規模に拡大した産業革命以降、人類の活動により二酸化炭素(CO2)等の温室効果ガスが大気中に増加し続けてきたことは疑う余地のない自明のことである。ようするに地球温暖化懐疑論・否定論の人々は、この人類の文明史の営みを否定するものであり、非科学的であることを通り越して、ただのバカなのであろう。

 よくある温暖化懐疑論・否定論の中に、現在、地球は温暖化しているのではなく寒冷化しているのであるという声がある。なにをもって、またどのような地域とタイムスパンの現象に基づいてそういっているのかを調べると、寒冷化しているとしても局地的な現象であり、全地球的規模で温暖化しているという地球温暖化に対する反論になっていない。ここで基礎的なことを言えば、地球全体が温暖化することにより、ある地域では寒冷化することはある。重要なのは、気候がこれまでとは違う姿になるということであり、地球温暖化と気候変動あるいは異常気象は深く関連している。

 にもかかわらず、当時は「こんなに寒くなっているのだから温暖化などあり得ない」とかった程度のレベル低い話が多かった。たとえ全地球的規模で寒冷化がこれから起こるのであるとしても、1万年のオーダーで言うのならばその可能性はあるかもしれないが、地球温暖化は現在ことをいっているのであり、1万年後の先の話をしているのではない。地球温暖化への懐疑論はもはや成り立たないのである。

 そうこうしているうちに、いつの間にか、地球温暖化は当然のことであるかような世の中になったようだ。あの産経新聞ですら3日の「主張」で冒頭に「米国が地球環境問題で示す2度目の不誠実である。身勝手に過ぎる振る舞いだ。」と書いている。あのいつも対米従属の産経が、だ。

 今日では、地球温暖化は社会的に確定した事実であるといってもいい。であるのならば、この合衆国大統領はなぜパリ協定からの離脱を述べているのか。トランプは、温室効果ガス排出量削減による経済活動の制約や途上国への温暖化対策の支援、さらには中国の温室効果ガスの排出増やインドの石炭生産増加は認められている(べつに「パリ協定」はこれらを認めているわけではない)ことへの不公平感を述べている。ここに一貫として見られるものは、「パリ協定」に従うことで、自分たちは不利益を強いられているという考え方である。

 「パリ協定」の目標は、今世紀末までに人類の活動による温室効果ガス排出量を実質ゼロにすることである。これが可能であるのだろうかというと、かなり難しい目標であると言わざるを得ないが、それでもとにかくこれを目標として掲げている。

 この目標を支える倫理的な基盤として、温室効果ガスを多く排出しているのは、人類社会の一部の国々であるのに、異常気象による被害を被るのは温室効果ガスを多く排出している国々だけではなく人類社会全体であるということへの憤りのような心情がある。気候変動で最も深刻な被害を受けるのは、海面上昇により国土がやがて水没してしまう小島嶼の国々や、干ばつにより深刻な食糧不足になるアフリカの国々なのである。こうした人々の生存権や人権を奪ってまで、先進国は温室効果ガスを排出し続ける権利はない。逆から言えば、地球温暖化は、それほど事態が深刻になってきたということなのだ。この倫理は「気候正義」(Climate Justice)と呼ばれている。

 21世紀になり、ようやく人類は、環境問題において国ではなく、人類というひとつの集合体で繁栄や生存を考えるようになってきた。日本ではそうではないが、欧米ではこの倫理はかなり浸透している。

 もう一つは、大量の温室効果ガスを排出しなくても経済成長を可能にする、低コストで安定性のあるクリーンエネルギーの技術が実用化され始めてきたということが挙げられる。テクノロジーの進歩が「脱炭素」(decarbonization)を可能にすることができるようなったということである。石油や核廃棄物を生み出す原子力に変わる、新しいエネルギーの研究開発に各国の政府や民間企業が関心を持つようになってきている(なぜならば、「脱炭素」のテクノロジーは石油や原子力に変わる新しい利権になるからである)。

 これからのエネルギー政策を考えると、いやでも「脱炭素」を無視することはできない。どちらが儲かるのかという話になった場合、「脱炭素」の方が儲かるということになれば産業界は雪崩のように「脱炭素」に舵をきるのであろう。

 実際のところ、今回、トランプが「パリ協定」から離脱するといったところで、なにがどう変わるわけではない。発効から3年間は離脱通告ができないなどの規定があるため、アメリカが実際に離脱できるのは、トランプの大統領任期終盤の2020年11月頃になるとのことである。次期大統領選挙では、トランプが決定したアメリカの「パリ協定」の離脱の是非は争点のひとつになるであろう。

 もちろん、だからと言って楽観視することはできない。つい最近まで、温暖化はないとか、温暖化はウソだとかいうことを言っている人々はいたのだ。今、そうした声を聴かなくなったのは、(何度も繰り替えすが)地球温暖化は社会的に確定した事実になったからであり、温暖化懐疑論・否定論者たちが科学をきちんと理解できるようになったからではない。デマゴーグに扇動される者たちはいつの時代にも存在する。その意味では、地球温暖化への対策とともに、アメリカの大統領がこういうことを言う世の中であるということが危機的なことなのである。

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May 20, 2017

共謀罪が採決された

 昨日の19日、共謀罪の採決が衆院法務委員会で強行されたという。

 国が衰退していく時、時の政府は、どうでもいいことや、やらなくていいことをやり、本当にやるべきこと、やらなくてはならないことはやらない。

 「共謀罪」が一般国民を捜査対象とするのか、しないのか、が問題なのではない。なにをもって「一般国民」とするのか、しないのかが明確になっていないのが問題なのである。

 これは「組織的犯罪集団」を取り締まるという法律ではなく、なにが「組織的犯罪集団」になるのかは明確にせず取り締まるという法律である。なにが「組織的犯罪集団」になるのかは、取り締まる側の解釈で決まる。だからこれほど揉めている。

 本来、なにが「組織的犯罪集団」になるのかは法律で決まる。公に公開されている法律で決まるから、取り締まる側も取り締まられる側も法を元に犯罪の有無を決定されるのである。ところが「共謀罪」では、なにが犯罪になるのか明確になっていない、取り締まる側の判断でどうにでもなるという法律である。

 こういう法律がなぜ成立されようとしているのか、さっぱりわからない。さらにわからないのが、なぜ大多数の人々は、自分たちは「共謀罪」と関係ないと思えるのだろうかということである。カードやスマホの使用記録やネットの書き込み、監視カメラのデータなど、現代の社会では我々は様々なところで記録されている。そうした個人データと、いわゆる「組織的犯罪集団」の可能性とが結びつく可能性は極めて高い。少なくとも、絶対にないとは言えない状況になっている。自分個人がなにをどう思っていようと、「一般国民」とは見なされないことが、もしかしたらあるかもしれないという懸念を持つという一般常識がないのであろうか。

 また「共謀罪」について、日本国内での外国人のテロ対策がどうこうと言っているが、日本の公安はイスラム過激派について、例えば言語ひとつをとってみてもアラビア語やベンガル語などでテロ犯罪の計画を分析・調査する能力がない。国際的な情報収集機能を持っていない。あくまでも、日本人テロリスト集団に対して捜査能力を持っている組織である。もし国際的なテロリストへの対応を本気でしようとするのならば、それ相応の根本的な組織変革が必要なのであるが、それまでやる気がないらしい。であるのあらば、なぜ「共謀罪」が成立すればテロ対策は万全であるのかのような雰囲気になるのであろうか。

 これは、新安保条約とよく似ている。自衛隊の装備や組織の根本的な改革をしなくては、とてもではないが外国と戦う軍隊にならないのであるが、そういうことはせず集団的自衛権があればそれでいいみたいなことになった。「共謀罪」も同じであり、「共謀罪」が成立すればテロ対策ができるというわけではない。ところが、新安保は中国・北朝鮮の脅威への対策のためである、「共謀罪」はテロ対策のためであるという根本的に間違った認識がまかり通っている。「共謀罪」はテロ対策のためのものであるかのような話は、今になってとってつけた話であり、テロ対策にもなんにもならない。今、本当にやらなくてはならないことは、他に山のようにある。こんな法律を作っている場合ではないのだ。

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May 14, 2017

国連が「慰安婦」日韓合意見直しを勧告した

 昨日の13日の産経新聞の産経抄。韓国の文在寅大統領は11日の安倍首相との電話会談で、慰安婦問題をめぐる日韓合意について「国民の大多数が、心情的に合意を受け入れられないのが現実だ」と言ったことについてこう書いている。

「自国民の感情を、どうして他国が無条件に尊重すると思い込めるのか。それが国と国との公の約束より重いという発想は、どこから来るのか。」

 ここまではっきと、こうしたことを臆面もなく述べるということに驚いた。いかにも産経らしいというか。大日本帝国は滅び日韓併合がなくなってから70年たったというのに、なぜこうしたことを韓国に対してまだ言っているのであろうか。

 二つ理由があるであろう。

 ひとつめは、日本はかつて朝鮮を植民地にしたという歴史がある、ということである。なぜ侵略をした側の国の政府は、侵略をされた側の国民の感情を尊重することをしないのだろうか、ということである。

 この、他国の人々の感情を、尊重とまではいかなくても「知る」ということが日本人は不慣れである。大日本帝国の朝鮮統治は、朝鮮社会の多額の国家予算を投入して、インフラを整備し、殖産興業を行い、教育や医療を充実させた。その一方で、朝鮮の人々の感情においては、徹底的に逆撫でをし、恨みを買うことをやってきたと言わざるを得ない。一例を挙げれば、日本は朝鮮総督府を李氏朝鮮の王宮である景福宮の敷地に置き、光化門を(破壊するつもりであったが、日本の文化人らからの反対運動があり北へ)移築した。このことは李氏朝鮮から長く続いてきた景福宮の景観を変えることなり、朝鮮の人々の心情に屈辱感となってその後も長く残った。こうしたことが、GHQによるアメリカの占領から70年たっても、まだ、というか、2000年代以降、さらに強く対米従属を続けている日本人には理解ができていない。

 上記の産経抄の文を、戦前風に書けば、なぜ日本が朝鮮人の感情を尊重しなくてはならないのか、ということであり、朝鮮人の感情など尊重しない、と言っているのである。ここに、大日本帝国の朝鮮統治の思想と同じものが如実に表れている。本来、他民族の社会を統治するには、その人々の心情を巧みに操作する必要がある。なるべく恨みを買わないように統治しなくてはならない。そうした高度な他民族統治の能力を日本は歴史的に持っていない。

 ふたつめは、国民の大多数が心情的に受け入れられない「合意」をなぜしたのか、ということである。国民の大多数が心情的に受け入れられない「合意」であるのならば、政府は変更すべきではないのか。

 国民の心情などというものよりも、国の公の方が重いものという考え方そのものが、極めて日本的な特殊なものであることがなぜわからないのであろうか。

 さらに言えば、この従軍慰安婦の日韓合意は、韓国の国民の大多数は受け入れていないことは十分にわかっていた。もちろん合意を認めたのは韓国政府であるが、こうなることを知っていながら日本側はなぜ通したのであろうか。

 ここで、戦後日本のアジア諸国への戦争賠償の政策ついて考えたい。

 戦争の賠償は、その国の民間組織や国民に対して行うのではなく、その国や政府に対して行うのが日本の基本姿勢であった。インドネシアにも、フィリピンにも、ベトナムにも、ミャンマーにも、そうしてきた。このていで、乗り切ってきたのである。

 ところが韓国の場合は、これで終わりにはならなかった。朝鮮は高麗王朝以来、古代からの文明国であり、14世紀から20世紀に至る李氏朝鮮の文化伝統と国民気質をもった国は、植民地として統治するのにも困難が伴ったが、独立後もそう簡単に過去の恨を忘れる国ではなかった。李氏朝鮮の時代、宗主国である中国の中華秩序は、中国よりも強固で絶対的な朝鮮のイデオロギーであり続けた。このため、東の夷である日本に従わざる得なかったことは、歴史的な屈辱感として民族の記憶に深く根付いている。

 朝鮮にとって日本への恨みは、他のアジア諸国とは別種のものであるとさえ言ってもよいだろう。日本側から見れば、他のアジア諸国はそれなりに戦争の「謝罪」を受け入れてくれたのに、朝鮮(韓国)だけは、そうはなってくれないということになる。

 日本の嫌韓の人々にとって、韓国は手に負えない国、国交断絶すべき国、消えて欲しい国であると思っているのは上記の理由による。ちなみに、中国における反日感情は、朝鮮(韓国)におけるそれとは歴史的に違うものであるが、ここでは中国については触れない。

 そして産経抄は、最後にこうしめくくる。

「「韓国にはやっぱり、民主主義は無理なんだよ」。かつてある政府高官が漏らしたセリフである。」

 ようするに産経新聞というか、保守メディアやネトウヨ一派は「韓国にはやっぱり、民主主義は無理なんだよ」なのである。このへん、戦前の朝鮮差別の心情となんら変わっていない。今回の朴槿恵政権を退陣に追い込んだのは、その是非はともかくとして、今の韓国は十分に(民主主義すぎるほど)民主主義であったと思うのであるが、こうした人々はそうは思わないらしい。

 民主主義が無理な状態になっているのは、今の日本である。明治の自由民権運動は国権主義に変わっていったし、大正デモクラシーの政党政治も、結局は世界恐慌による経済不況の中で消滅してしまった。そして、戦後、GHQの指導による民主主義が行われた。それも70年で形骸化してしまった。民主主義社会が、民主主義社会であるためには、憲法の文言がどうこうではなく、民主主義社会であろうとする人々の意思と行為が必要なのである。王権を打破し、革命によって民主主義になった国の国民はこのことを知っている。それがこの国にはない。日本には民主主義は無理なのかもしれない。

 産経の黒田記者は、13日の紙面のコラム「ソウルからヨボセヨ」でこう書いている。

「最近の朝鮮半島をめぐる軍事的緊張に関連し「日本では子供でもこんな雰囲気です」と知らせてきたのだが、韓国とのあまりの違いにうならされた。韓国の子供にはそんな雰囲気はまったくなかったからだ。日本で子供までも戦争を心配しているのは、日本ではテレビを中心にマスコミが今にも戦争が起きるかのように“危機”をあおったせいだと思う。

 万一に備えるのが国の安全保障であり危機管理は最悪の場合を考えるものではある。しかし戦争は地震と違って人為的なものだから一定の情報や経験、分析で「起きるか? 起きないか?」はある程度分かる。とくに長く「北の脅威」にさらされてきた当事者の韓国人は経験的に判断する。」

 このように、黒田記者は北朝鮮がどうのこうのと騒いではいない韓国の姿は当然だとしている。そして、日本について「日本人は逆にその経験がないから慌てふためくということかもしれない」と書いている。まったくその通りだ。

 案の定というか、当然というか、慰安婦問題をめぐる日韓合意について、国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会は被害者への補償などが不十分として合意の見直しを勧告する報告書を発表した。日韓両政府に対して「被害者の補償と名誉回復が行われるように尽力すべきだ」と強調しているという。

 産経新聞はこれを「誤った情報に基づく勧告に日本政府は強い不快感を示している。」と書いている。このように、国連が日本について至極当然でまっとうなことを言うと、常に「誤った情報に基づいている」というのが今の劣化した保守の常套文句である。外国は日本について間違った認識をしている。コレコレの情報が伝わっていない。国際社会に事実を伝え、抗議も含め対処すべきである、というのがおきまりのパターンだ。他国の歴史や文化を学ばない。他民族の心情を理解しようとしないのである。

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May 01, 2017

北朝鮮のミサイル「実験」で東京の地下鉄は止まる

 29日の早朝、ラジオを聴いていたら、突然、北朝鮮がミサイルを発射したというニュースがあった。最初は、アメリカがとうとう北朝鮮にミサイル攻撃をしたのかと思った。

 北朝鮮がミサイルを発射するということは、いわば当たり前のことである。わざわざ臨時ニュースのように報道をするのは、アメリカがミサイルを撃ったということなのであろうと思っていたからだ。だが、北朝鮮がミサイルを発射したということを知って、はああ?と思った。

 何度も書くが、北朝鮮がこの先もミサイル発射をするのは当たり前のことであり、驚くことでもなんでもない。トランプが発射をやめよと警告をした。アメリカがそう言っているのだから、北朝鮮はミサイル発射はやめるであろうとでも言うのであろうか。

 29日の早朝のミサイル発射は、平安南道から発射され、空中で爆発したとのことである。このことにより、東京メトロは全線で一時運転を見合わせたという。今後も北朝鮮がミサイルを発射すると、東京の地下鉄は止まるのであろうか。

 北朝鮮から日本に向けてミサイルを発射すれば、今回のように空中で爆発するか、日本海のどこか落ちるだけである。何度も書いているが、そもそもミサイルというものは、どこどこの場所に何時何分何秒にコレコレの破壊規模で着弾しなくては兵器として使いものにならない。ミサイルはミサイル本体とともに、これを制御する技術が重要なのであり、北朝鮮にはその技術がない。ただ爆弾をつけたロケットを、どこどこの方角に向かって発射しました、では戦争にはならない。

 軍事兵器は、ひとつのシステムである。北朝鮮のミサイルは、システムとして使い物にならない。今だ実戦で使えるようなシロモノではない。戦前の大日本帝国は、第一次世界大戦以後の総力戦の戦争ができる資源と工業力を持つ国ではないため、もはや現代戦争はできなくなったという真実をひた隠してきた。今の北朝鮮も同様である。アメリカは、あと5年から10年以内にアメリカ本土に到達するICBMを北朝鮮は保有すると述べているようであるが、あと5年なり10年なりが、これまでのペースで成長するとは限らない。何度も言うが、国にそれなりの巨大な産業と高度な技術力があって、その上に軍隊はある。北朝鮮という国は、とてもではないが戦争ができる国ではない。

 その「とてもではないが戦争ができる国ではない」北朝鮮を、ここまで追い込んだ原因はアメリカと中国にある。このことの認識がまずなければらない。

 東京新聞の記事によると、東京メトロでの一時運転の見合わせについて、在日三世の経営者の人が「東京で地下鉄を止めるなんて、過剰に反応しすぎだ」「北朝鮮がやっていることはもちろん問題だが、日本政府や行政が過剰な恐怖心をあおっているのも問題だ」と話したという。その通りである。

 29日の産経新聞に、以下の記事があった。

「フィリピンのドゥテルテ大統領は29日、東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議後の記者会見で、同日深夜に予定している米国のトランプ大統領との電話会談で、「北朝鮮の指導者の術中にはまらないよう忠告するつもりだ」と述べた。

 ドゥテルテ氏は、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長について、「ただ単にこの世界を終わらせたいと思っているだけだ」と指摘。核戦争が起きれば東南アジアにも被害が及ぶとし、戦争を防ぐには「米国が慎重で我慢強くいられるかにかかっている」と述べた。」

 フィリピンの大統領は、日本の総理大臣よりもずっとまともな正しいことを言っている。アメリカにものを言うというのはこういうことを言うのであり、ただアメリカに追従するということではない。また、ロシアのラブロフ外相は「米国がシリアのようなことをしないことを願っている」と述べたという。北朝鮮にはミサイルを撃つなといい、自分たちはミサイルを撃つというアメリカの言っていることは矛盾している。

 北朝鮮をこんな国にしたもうひとつの当事国である中国は、かつての朝鮮戦争の時のように北朝鮮に強行介入するつもりはまったくない。中国にとって、北朝鮮問題を解決させることは、国際社会への極めて重要なアピールになり、アジアの覇権国として認められるのであるが、習近平にはそのつもりはないようである。習近平にとって最大の課題は、国外的にはアメリカとの良好な関係であり、国内的には最高権力者としての権力の集中である。朝鮮戦争についての中国共産党政府の責任を、今の中国はきれいさっぱりに忘れている。

 そもそも、朝鮮戦争はなぜ起きたのか。なぜ朝鮮半島は二つの国に分割されたのか。なぜ北朝鮮は「ああいう国」になってしまったのか。そこから考えることをしなくてならないはずであるのに、どのマスコミもそうしたことをしない。そして日本は、かつて朝鮮を植民地とし、戦後は朝鮮戦争の特需景気で高度成長をなしえたことを思えば、北朝鮮について、ただ脅威を煽るだけではない対応があるはずである。

 北朝鮮を威嚇するためにアメリカの空母が朝鮮半島近海を航行し、米軍と韓国軍が共同訓練を行うなどといったことは、これまで何度もある通常の姿であり、「緊張が高まる」とか「有事が起こる危険性がある」とかいったことではない。韓国の地下鉄は、テロの危機の心構えを映像等で流すことはあるが、ミサイル発射で電車を止めたことはないとのことである。

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April 28, 2017

「自国第一主義」では経済はよくならない

 23日のフランスの大統領選の第1回投票の結果で、独立系のエマニュエル・マクロン前経済相と、極右、国民戦線のマリーヌ・ルペン党首が決選投票進出を決めたという。

マクロンはEU支持であり、ルペンはトランプと同じく「自国第一主義」を掲げている。

 しかしながら、ルペンが言うフランス第一主義のイメージは、かつてド・ゴールが言ったフランス第一主義とは大きく異なる。今のこの時代の、いわゆる「自国第一主義」とは、そもそもなんであろうか。

 以下、実際はもっと複雑であるのだが、ここでは単純なものとして考えてみたい。

 例えば、トランプは労働者が失業しているのは、自動車工場がメキシコへ移転したためである。工場が外国へ行くのはよろしくないとしている。しかし、自動車工場は好きでメキシコに移転するのではない。そこには理由がある。メキシコでは人件費が安くなるため、メキシコの工場で自動車を生産すれば、それだけ安い価格で販売できるのである。自動車をアメリカで販売する際にも、価格を安くすることができる。つまり、アメリカの消費者は、自国で生産するよりも安い価格で購入することができるのだ。これは、アメリカの消費者の利益ではないのだろうか。

 いやいや、「消費者だけ」という人間はいない。労働をしてお金を得て、そのお金で商品を購入するのである。消費者である前に労働者なのである。消費よりも雇用を考えなくてはならない、というのは確かにその通りだ。

 では、自動車工場の労働者は、自動車工場の労働者でしかあり得ないのであろうか。ここで、政治なり行政なりの手腕が問われる。他の業種の仕事で働く、あるいは、自動車のメンテナンスや、交通インフラの整備・管理などは「メキシコにある工場」にはできないことである。そうしたサービス産業、つまりは脱工業社会になることで、かつて自動車工場で働いていた労働者は、新しい雇用の場を持つことができる。工業の外国移転によって、国内産業が空洞化するか、しないかは、そうした産業構造の転換をやるか、やらないのか、という話なのである。

 必要なことは、自動車会社が工場を国外に移転させないようにすることではない。むしろ、外国で生産できるものは、積極的に外国へ移転するようにさせることだ。自国の経済がグローバルになればなるほど、外国と深く関わっていくということであり、それが自国の安全保障を高めることなのである。

 そうして、自国の企業が外国へ出て行った時、国内の雇用をどうするのかを考えるのが政治家や官僚たちの役目なのである。ところが、今、アメリカやヨーロッパのいわゆるアンチ・グローバリゼーションが言っていることは、自国の企業を外国に出さない、ということだ。まったくの真逆のことを言っているのだ。これはつまり「自国の企業が外国へ出て行った時、国内の雇用をどうするのか」、その対応がまったくわからないと言っているのである。

 だが脱工業化社会へ転換しなくては、この先の先進国の未来はないことは、1980年代から言われ続けてきたことだ。政治家や官僚は、この30年間、一体をなにをしてきたのであろうか。

 仮に、トランプが言ってる通りにしたとしよう。国内で、高い人件費で自動車を作り続けたとしよう。まず、そうした高価な車は外国では売れない。そして、自動車は外国でも生産している。このため、外国車の輸入に高い関税をかけて、国内市場への参入を阻むであろう。ということは、国内の人々は、高い国内車を使い続けなくてならないということになる。

 もちろん、実際の世の中は多かれ少なかれ、どの国でも上記のことをやっている。国内の産業を保護する名目で、外国の製品やサービスの参入を阻んでいるものは数多くある。問題なのは、それを露骨に、大規模にやろうということなのである。それを彼らは「自国第一主義」と言っている。

 トランプやルペンを支持する人々は、政治の無策さが招いた状態にある人々である。彼らの既存政党に対する怒りや不満を受け入れてくれる相手としてトランプやルペンはある。しかし、トランプやルペンでは経済は回復しない。かくてますます、人々の怒りと不満と政治への不信は高まり続けるだろう。この有権者のフラストレーションは、この先、どこへ向かうだろうか。

 次回の本選挙では、棄権が数多く出るだろう。ルペンが当選する可能性は高い。仮に当選しなくても、大統領選挙で極右政党がかなりの投票数を獲得したという事実は、これからのヨーロッパの政治に大きく影響を与えることになるだろう。重要なことは、トランプのアメリカと同じく、アンチ・グローバリゼーションを支持する勢力と、グローバリゼーションを支持する勢力で、ヨーロッパの政治が分断するということである。もうかつてのような統合された国民国家というのは、昔の話になっているのだ。

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April 15, 2017

現実感覚を持たない国

 今朝の産経新聞の一面は、産経抄が安倍政権バンザイの内容で、「米「核実験 確証得れば先制」という記事があり、その隣に「北「いつでも実施」」という記事があって、いますぐにでもアメリカの北朝鮮への攻撃が始まるかのような論調である。

 社説「主張」はこう書いている。

「安倍晋三首相が国会で、北朝鮮のミサイル戦力に関連し、「(化学兵器の)サリンを弾頭に付けて着弾させる能力を、すでに保有している可能性がある」と答弁した。

 この懸念は以前から、政府や安全保障専門家の間で共有されてきたものだが、首相の発言は北朝鮮情勢がより切迫していることを物語っている。

 併せて、菅義偉官房長官は北朝鮮が「生産できる複数の施設を維持」していることを明かした。韓国国防省は、北朝鮮がサリンやVXなど2500~5千トン規模の化学兵器を保有するとみている。」

 と、あたかも北朝鮮が化学兵器を搭載したミサイルを保有していることが認定された事実であるかのように書かれている。さらに言えば、こうしたことを首相が言うこと自体が、かなり大きな問題なのであるが、誰もそのことに気がつかないようだ。北朝鮮に対して、アメリカが積極的な行動にでる可能性が高くなったので、日本政府はここぞとばかりに高飛車な態度になっている。そのことが、産経新聞の紙面から伝わってくる。

 その今朝の産経新聞のコラム『緯度経度』で、黒田さんが「有事感覚が後退した韓国」というコラムを書いていた。黒田さんは、こう書いている。

「いつもそうだが肝心の韓国社会にはことさら緊張感も危機感も感じられない。

 韓国社会のこの雰囲気はそんな「危ない北」と長く付き合ってきたことからくる“慣れ”と同時に、北との戦争となると韓国が真っ先に被害を受けるのだから「米国はまさか韓国の意向を無視した勝手なことはやらないだろう」という安心感(?)からだ。」

 黒田さんは、産経新聞のソウル駐在特別記者であり論説委員である。嫌韓が社是である産経新聞の中で、この人は当然のことながら嫌韓ではない。以前、東京都の朝鮮学校への補助金支給の停止について、その通りであると喝采する産経の紙面の中で唯一、黒田さんのコラムでは、かつてソウルで日本人学校を作る時、ソウル市からの援助を受けたことを思えば、東京都が援助することぐらいしてもいいのではないかという意味のことを書いていたのを読んで、なるほどこの人は平等な見方をする人なのだなと思ったことがある。そういう人である。

 黒田さんのコラムからの引用を続けたい。

「韓国社会で北朝鮮との戦争という有事感覚が後退しているのは、韓国が今や本格的な戦争はできないようになってしまったからだ。

 たとえば北との軍事境界線に近いソウルの北方は、高層マンション中心の100万都市である。この新都市開発にあたった盧泰愚(ノ・テウ)政権(88~93年)は「高層マンションは北からの攻撃に際してはソウルを守る盾になる」などといって物議をかもしたが、今や人気の住宅都市である。

 それに韓国が世界に誇るハブ空港の仁川(インチョン)空港も、機上から眼下に北が見えるほどだ。こんなに近くては戦争などできない。」

 ようするに、黒田さんの眼から見ても、今の韓国は「北朝鮮があ」という雰囲気でもなんでもないということだ。国境に接している隣国である韓国ですら、こうなのだ。このコラムでは、韓国がこうであることを、有事感覚の緊張感もなにもないのはいかがなものであるのだろうかという批判的スタンスをにおわせてはいる。だが、おそらく黒田さんは、この現実を受け容れざるを得ないと思っているのだろう。産経新聞の記者である以上、こう書かざるを得ないのである。

 この韓国の社会の姿は、当たり前の現実的な感覚であろう。 戦争になれば、日本による日韓併合から独立して以後、そして朝鮮戦争が休戦になって以後、これまで韓国の人々が築き上げたもの一切が灰燼に帰することなる。そんなことを、誰が望むのであろうか。韓国は、もはや戦争ができる国ではない。これは有事感覚が後退したのではなく、まともな現実感覚になっているということなのである。

 そもそも、北朝鮮が今後も核実験をし続けたとしても、それでアメリカが北朝鮮にミサイル攻撃をするということは国際社会のリアリズムに欠けている。これは、紛争地域のシリアでの政府軍が化学兵器を使った(とアメリカが主張している)ことへの攻撃とは本質的に違うものだ。ましてや北朝鮮の一般市民を犠牲にすることは、国際社会では通らない。むしろトランプ政権は北朝鮮に対して積極的に行動すると言われていることについて、本当にそうであるのか疑いの眼を向けることが必要である。

 仮にアメリカは北朝鮮に先制攻撃をしたとして、その次に起こることは第二次朝鮮戦争であろう。しかし、今ここで戦争などやられたものでは、中国、ロシア、日本を含め周辺国の経済的なダメージは甚大であり、世界経済は第二次世界大戦以後、最大の危機を迎えることになるであろう。その損失をアメリカが支払うとでもいうのであろうか。日本では朝鮮半島の有事を文字通り対岸の火事であるかのように思っている人々が多い。ミサイルが飛んできたり、避難民が押し寄せるのは阻止したいと思っている程度である。その程度の認識しかないのだ。

 今の朝鮮半島の情勢は緊迫しているというのは、確かにそうであろう。しかし、その緊迫の内容は、今すぐ戦争が起こるようなものではない。ましてや、戦争が起こりそうであるのならば、起こらない方法を考えるべきなのであるのだが、そうしたことを考える気はないようである。戦争について現実感覚を持つということは、そういうことなのだ。むしろ重要なことは日本が知らないところで、在日米軍が中国やロシアに対して行っていることだ。

 この国総理大臣とか、ネトウヨとか、ネトウヨ新聞とかが、この島国の中で、北朝鮮がミサイルを打ってくるとか、戦争が起こると不安を煽っているだけである。なぜそうなのかと言えば、国民が北朝鮮への不安を感じることが、安倍政権の支持につながるからだ。

 本当は今こそ、広い視野をもって自分のアタマで、日本以外の広い世界を見て聞いて考えなくてはならない時なのである。それが国際的な現実感覚を持つということなのだ。

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April 09, 2017

アメリカのシリア攻撃と北朝鮮

 アメリカは7日、シリア政府軍が北西部イドリブ県南部の空爆で化学兵器を用いたと断定し、非難するとともに、シリアの軍事施設へのミサイル攻撃を行ったという。またもや、国連安保理の決議前のアメリカの軍事行為である。もはや、アメリカは国連を完全に無視していると言えるだろう。

 シリアの化学兵器使用の有無については立証されていない。むしろ、確実に国際世論の非難を招く化学兵器の使用をシリアがするだろうかという疑念がある。

 仮にそれが真実であったとしても、では今回、ミサイル攻撃を行ったとして、この先、化学兵器を使わせないようにどうするのであろうか。このへんの展望がまったくなく、ただ、ミサイルを打ち込みました、ということをしたとしか思えない暴挙である。また、トランプはそもそもアサド政権と共同し、イスラム国を掃討することを掲げていたが、このミサイル攻撃でアメリカとシリアの関係はどうなるのであろうか。

 オバマ政権であれば、こんな愚かしいことはしなかったであろう。実際のところ、2013年、化学兵器の使用が疑われたアサド政権に対して、オバマは軍事行動に踏み切らなかった。トランプ政権になり、中東の混乱はますます深まるばかりであるとしか言いようがない。イラクに大量破壊兵器があるという捏造で、イラク侵攻を行い、今のイラクの荒廃をつくったのはアメリカであることを国際社会は忘れていない。

 これは、北朝鮮への威嚇行為なのだとする見方がある。というか、北朝鮮に軍事的圧力をかけたい者たちは、アメリカのシリア攻撃を北朝鮮への威嚇行為なのだと思いたがっている。産経新聞はこう書いている。

「トランプ米政権は、北朝鮮に対し、軍事攻撃も辞さない姿勢を見せてきた。今回のシリア軍基地への攻撃は、核・ミサイルだけでなく、化学兵器の開発にも邁進(まいしん)する金正恩(キム・ジョンウン)政権に向け、この上ない強い警告となった。北朝鮮は公式の反応を示していないが、衝撃を受けたことは間違いないだろう。」

 しかしながら、今の時代、力による威嚇は国際問題の解決にはならない。力による警告を行えば、北朝鮮は行いを改めるであろうという考え方そのものが間違っているのだ。この、力でねじ伏せれば、相手はいうことをきくという発想に基づくこの考え方は、それはつまり、自分たち自身が、力でねじ伏せれれば、相手のいうことをきくからなのであろう。

 前にも書いたが、そもそも北朝鮮は「悪い国」なのであろうかと私は考えている。

 こんなことを言うと、悪い国であることは当たり前じゃないかという声が聞こえてくる。つい最近、ドキュメンタリー映画『太陽の下で』を観たばかりだ。あの時間が停止したかのような進歩もないもない、自由がなく、人権もない国がいいわけないではないかという声が聞こえてくる。もちろん、北朝鮮の社会が「正しい社会」だとは私は思わない。

 だが、数多くの国民を餓死させ、虐待し、虐殺をしている国家体制の国は、今現在、地球上に数多く存在している。北朝鮮がけしからんというのならば、そうしたことを行っている他の国々を放っておくのはなぜであろうか。

 北朝鮮は日本をミサイルで狙っているではないかという声もあるが、何度も書くが、あんなものは兵器でもなんでもない。ミサイル兵器に必要なのは、これこれの破壊規模で、何時何分何秒にどこどこへ着弾するということであり、これができなくては戦争にならない。実験程度の打ち上げでは、アメリカはおろか、韓国や日本とすら戦争ができる国になっていない。北朝鮮の国力では、戦争は不可能である。

 北朝鮮の望みは、アメリカとの交渉であり、アメリカによる現体制の維持の保証である。以前に書いたように、この言い分には北朝鮮側にも理はある。北朝鮮を力で威嚇して、では、拉致問題はどうなるのであろうか。北朝鮮に拉致され、2002年に帰国した蓮池薫氏は、NHKのインタビューでこう述べている。

「拉致を解決すれば見返りを与えることができると伝える必要がある。例えば電力事情の改善など経済協力という形で、北朝鮮に必要なもので核やミサイルの開発につながらないものがあるはずだ」

 これは極めて重要なことだ。拉致問題の交渉には、当然のことながら見返りを与えることが必要になる。北朝鮮にとって、今の体制維持が必要なのである。仮に、軍事力により北朝鮮の体制を崩壊させたとしても、その先のことについて明快な道筋を韓国も日本も持っていない。金正恩体制は崩壊する、崩壊するといっていながら、では、実際に崩壊したらなにが起こるのか、なにをどうするのかということについて韓国と日本は現実的に考えることをしていない。実質的なことはなにも考えておらず、万事、アメリカまかせになっているのが現状である。そのアメリカは、力による安易な示威しか考えていない。となると、拉致問題の解決など永遠に不可能であろう。

 今回のアメリカのシリア攻撃で明らかになったことは、トランプ政権のアメリカは安易な軍事行動をするということであり、北朝鮮に対して力による威嚇しか考えていないということだ。つまり、アメリカが北朝鮮に攻撃する可能性が出てきたということである。軍事行動には、合理性がなくてはならない。合理性のない軍事行動は、危険以外のなにものでもない。今の国際社会で、北朝鮮やイランよりも、アメリカが危険な国になっているのだ。トランプのアメリカは、北朝鮮を攻撃することについて、韓国や日本がどうなろうと知ったことではない。アメリカは勝手に北朝鮮に軍事挑発をして、そこから北朝鮮は韓国と日本に過剰な反応をするかもしれない。そうなれば、東アジアは混乱し荒涼となった中東化するであろう。

 そうならないためには、日本はアメリカとは違う外交戦略が必要になる。アメリカがこうなった以上、北朝鮮について、日本がロシア・中国との関係において対処すべき課題であると私は考える。しかしながら、この国には、とてもではないがそんな高度な外交能力はないのである。

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April 02, 2017

3歳児の国旗掲揚と国歌斉唱

 1日、東京新聞を読んでいて驚いた。

「厚生労働省は三十一日、三歳児以上を対象に、保育現場で国旗と国歌に「親しむ」と初めて明記する保育所の運営指針を正式決定した。文部科学省が同様の趣旨を幼稚園の教育要領に盛り込んだことを受けた見直しで、幼児教育の整合性が理由。二〇一八年度に施行する。
 今回見直した「保育所保育指針」は、乳幼児の成長や安全面で配慮する点について、保育現場での順守や努力を求める内容。三歳児以上が「保育所内外の行事で国旗に親しむ」「国歌、唱歌、わらべうたやわが国の伝統的な遊びに親しむ」と記した。」

 なにしろ、園児に教育勅語を教えている幼稚園に訪れ感涙にむせたという夫妻がこの国の総理大臣夫妻なのであるから、当然であるのかもしれない。東京新聞の記事にあるように、3歳児以上は「保育所内外の行事で国旗に親しむ」「国歌、唱歌、わらべうたやわが国の伝統的な遊びに親しむ」ようになるそうだ。

 これまで政府は、小中高校に国旗掲揚と国歌斉唱をするようにさせてきた。さらに安倍政権では、国立大にも国旗掲揚と国歌斉唱を要請した。それがついに幼稚園や保育所にも国旗を掲揚し国歌を歌うよう「指導」するようになったと言えるだろう。

 しかしながら、伝統と言っても今の国旗にせよ国歌にせよ、100年前に明治政府が定めたものである。この国には、それ以前に2千年近くの年月がある。縄文期まで遡れば数万年のオーダーになる。「日の丸」や「君が代」がなくても、この列島の上で人々は営々と暮らし続けてきたのである。なにをもって、国の伝統というのであろうか。

 もちろん、だからといって、国旗と国歌は「にせもの」であり「まがいもの」であると言うのではない。今の国旗や国歌には、それが成立した歴史的過程がある。その歴史的過程を踏まえずして、ただ単に盲信する対象であってはならないということだ。日本を含め、いかなる国の国旗や国歌にも敬意を払わなくてならない。これは、ヨーロッパに主権国家ができた時からの国際的な常識だ。近代国家の国際共通の通例・慣例と言ってもよい。

 国旗や国歌を敬うというのは、愛国心がどうこうという前に、国際的なマナーであり、教養であり、知識であるのだ。だからこそ、国旗掲揚と国歌斉唱をするというのならば、そうした教育もなくてはならない。言うまでもなく保育所や幼稚園は、そうした教育の場ではない。であるのならば、ただ単に「やっている」だけであり、「やっている」ことで満足なのであろう。

 戦後日本の教育の現場が、国旗掲揚と国歌斉唱を拒否してきたのは、戦前の日本の教育があまりにも理不尽なことをやり、国を滅ぼしたからである。大日本帝国は滅びて、その国旗と国歌は残るというのは、どう考えてもおかしい。教育勅語にもいいところがあると大臣が言う今の政府に、どこに戦前の教育への反省があるのであろうか。そして、国民に対して愛国を強制しながら、国の側には国家としての理念も倫理もないのである。

 かつて、ベネディクト・アンダーソンが言った「想像の共同体」である国民国家とは、国家が国民に愛国であることを強制しなくても、国民の側から愛国心が自ずからわき上がるように国家は操作するのであるが、今のこの国の政府には、とてもではないがそんな高度なことはできない。

 かくて、3歳児にも国旗を掲揚し国歌を歌うようにさせるしかないのであろう。何度も言うが、その光景を微笑ましく見ている夫妻が、この国の指導者夫妻なのである。

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March 29, 2017

高浜原発が再稼働可能になった

 稼働中だった福井県の関西電力高浜原発3号機を、福井地裁が仮処分判断で停止してから1年がたった。28日、大阪高裁は再稼働を認める判断を下したという。

 これについて産経新聞は、さぞや喜びの社説を出すだろうなと思っていたら、案の定、29日の「主張」でこう書いている。

「高裁は、抗告していた関電の主張を全面的に認めた。極めて理にかなった司法判断である。

 これにより、2基の再稼働に道が開けた。電気料金の値下げが急務となっている関電には、再稼働に向けた準備を着実に進めてもらいたい。」

 おもしろいのは、産経は原発の再稼働と電気料金の値下げを重ねていることである。ようするに、電気料金を下げるために原発を再稼働するとしている。このへんが興味深い。電気料金を持ち出してくることで、原発稼働の正当性を述べているのである。実際のところ、原子力発電はコストが安い電力ではない。仮に事故が起こらなかったとしても、将来の廃炉や廃棄物処理などのことまで含めれば、原子力発電は決して安くない電力なのであるが、そういうことはどうでもいいのであろう。

 さらにおもしろいのは、この日の紙面のもうひとつの「主張」は、栃木県那須町のスキー場で、登山講習会に参加していた高校生らが雪崩に巻き込まれた事故についてのことで、そこは「過信と油断が惨事を招く」と書いていることだ。こう書かれている。

「事故を受けた会見で県高体連は「ベテランの先生方が状況を把握して、的確な判断のもとにやったと思う」などと述べた。そこに落とし穴はなかったか。

 鳶(とび)の棟梁(とうりょう)から、こんな話を聞いたことがある。どんなに高いところで身軽に動けるベテランでも、地面が間近に見えてきたときに事故を起こしやすい。一番怖いのは過信、慢心、油断だ、と。」

 しかしながら、これは原発についても言えることであろう。栃木のスキー場での事故には「過信と油断が惨事を招く」として、原発にはそうは思わないところが、いかにも産経らしい。ゼロリスクを求めるなというのならば、栃木のスキー場での教師たちについても同じことが言えるのではないかと思うが、どうなのであろうか。

 ましてや、原発事故は、雪崩とは比べものにならない被害規模になる。福島原発事故がどのような事故であったのか今だ完全にわかっていない現状で、原発が安全であるという判断は誰にもできない。

 火力発電と比べて、原子力発電はコストが安い(電気料金が安い)というのは、原発プロパガンダが常に言っていることである。そんなことはまったくない。原子力発電はコストがかかる電力なのだ。そのへんのことを、御用メディアは言わない。

 日本経済新聞によれば、福井県の周辺の知事たちは、今回の大阪高裁の判決に異議を唱えているという。

「滋賀県の三日月大造知事は「実効性のある多重防護体制の構築が、いまだ未整備という状況下では再稼働を容認できる環境にはない」との考えを示した。独自で避難計画を策定している大津市の越直美市長は「市民が原発の安全性に不安を持っている状況では、原発を再稼働すべきではない」とコメントした。」

 関西電力高浜原発3、4号機の運転を差し止めた判決を述べた福井地裁にせよ、先日の前橋地裁にせよ、原発について地方の裁判所は正しい判断をするが、上になるにつれ政治が優先されるようだ。もはや法律よりも、時の政権に意向に従うことが多い。この国では、司法は独立していないのである。

 今回の大阪高裁の再稼働を認める判断をみて、つくづくそう思う。

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