日記・コラム・つぶやき

November 20, 2021

いわゆる「科学技術立国の実現」について

11月19日の日経新聞の記事によると、

「政府は19日午後の臨時閣議で経済対策を決定した。地方負担分や財政投融資を加えた財政支出は55.7兆円で、過去最大だった2020年4月の経済対策(48.4兆円)を上回る。新型コロナウイルス対策費のほか、家計や企業向けの給付金が膨らんだ。民間資金を含めた事業規模は78.9兆円程度で、経済対策としては過去2番目となる。」

という。

この経済政策の内容については、内閣府のホームページに「コロナ克服・新時代開拓のための経済対策(令和3年11月19日)」として発表されている。しかし、これを一読しても、「コロナ克服・新時代開拓のため」になると思えるものもあれば、到底なるとは思えないものもある。全体的に見ると、絵に描いた餅のようにとても実現するとは思えないことや、これが実現することがなんの意味があるのかわからないことばかりである。この政策資料は、この先数年で忘れ去られる文書になるだろう。

例えば、このPDF資料の「Ⅲ.未来社会を切り拓く「新しい資本主義」の起動」の「科学技術立国の実現」について考えてみたい。

科学技術立国の実現を謳うのならば、理学と工学をまずきちんと拡充すべきだ。科学技術は理学と工学の上に成り立つものであり、科学技術それだけで成り立つものではない。さらに言えば、現代の理学研究は技術なくして行うことはできないが、理学の目的は自然の解明であり、技術に応用できるかどうかは二の次の話である。しかしながら、そうした純然たる知的好奇心で行っていることから、ブレークスルー的な新しい技術革新が生まれることがある。重要なことは技術革新そのものを求めても、できるものではなく、基礎的な研究を続けていくことからしか技術革新は生まれないということだ。「モノになる」研究の背後には、膨大な「モノにならない」研究がある。「モノになる」研究を得るには、「モノにならない」膨大な研究も含めて抱え込む必要がある。そうした大きな枠組みで捉えるべきだ。

「世界最高水準の研究大学を形成するため、10 兆円規模の大学ファンドを本年度内に実現する。」というのも、よくわからない。なぜ、10 兆円規模の大学ファンドがあれば、世界最高水準の研究大学を形成できるのであろうか。世界最高水準の研究大学云々という前に、まともな大学教育を行っていくことが必要なのでないだろうか。

「本ファンドの支援に当たっては、参画大学における自己収入の確実な増加とファンドへの資金拠出を慫慂(しょうよう)する仕組みとし、世界トップ大学並みの事業成長を図る。将来的には、政府出資などの資金から移行を図り、参画大学が自らの資金で大学固有基金の運用を行うことを目指す。」

というのも意味不明だ。こうした大学をベンチャー企業かなにかと同じに見る見方そのものが誤りの根本である。そもそも、大学は企業ではないという当たり前のことが、なぜなくなってしまったのであろうか。もともと大学というところは事業とはほど遠いところである。大学の人間は企業の現場を知らず、大学ファンドなるものは、ただのカネのバラマキにすぎない。政府の経済政策は、すぐカネのバラマキになる。役人は経済の現場を知らないから、考えることは投資主導になるのである。昔の高度成長期の時代であれば、それでよかったかもしないが、今の時代ではただのバラマキである。むしろ10兆円の予算はファンドではなく、教育体制の充実に投資すべきだ。人的資産への投資は、将来の成長にとって必要なことである。


October 31, 2021

福島原発事故から10年がたった

今年は福島原発事故から10年の年になる。10年目ということで、あの出来事についてその後わかったことが書かれた本が数多く出版された。そのうちの何冊かを読んだ。

『福島第一原発事故の「真実」』NHKメルトダウン取材班 講談社
『東電原発事故 10年で明らかになったこと』添田孝史 平凡社新書
『フクシマ戦記 10年後の「カウントダウン・メルトダウン」』上下 船橋 洋一 文藝春秋

この10年の間、自分もそれなりに福島原発事故について関心を持ち続けていた。福島原発事故について、わからないことがふたつある。ひとつ目は、あの事故はなぜ起きたのかということ。ふたつ目は、あの事故はどのようにひとまず終わったのかということだ。

あの事故はなぜ起きたのか。事故直後は、あれだけの大きな規模の津波は想定外だったという声が多かった。そして、想定外のことについても対処すべきだったのかどうかが問われた。さらに話は大きくなり、もはや原子力というものそのものが人間には管理することができるのかどうか。社会は、巨大化した科学技術とどう向きか合うべきなのかということまで論じられていた。自分もまた、その大枠の中にいたように思う。

ところが、原子力が云々とか科学技術がドウコウという高尚な話ではまったくなく、保安院と東電がやるべきことをやらなかっただけの話だったのだ。添田さんの『東電原発事故 10年で明らかになったこと』を読むと、事故後、強制起訴された東電の元幹部の裁判の中で、東北地方の地震・津波の調査から原発へのさらなる津波対策の必要性が何度も挙がっていたのだ。なんと、そうだったのかと思い、続いて添田さんの『東電原発裁判』(岩波新書)を買ってきて読んだ。『東電原発裁判』と『東電原発事故 10年で明らかになったこと』を読むと、東電はいかに福島原発の安全対策を行ってこなかったかがよくわかる。

添田さんはこう書いている。

「2002年に国が津波計算を要請していたのに、東電は嘘の理由を挙げて40分も抵抗し拒否した。2007年、福島第一は国内で最も津波に余裕のない脆弱な原発だとわかっていた。2008年に東電の技術者は津波対策が必要という見解で一致していたのに、経営者が先送りを決めた。東電が着手しなかった津波への対策を、日本原子力発電(東海第二原発)の経営者はすぐに始めた。同じ年、東北電力がまとめた女川原発の最新津波想定を、東電は自社に都合が悪いからと圧力をかけて書き換えさせた。
それらのことが法廷で明らかになったのは2018年以降だった。」
(添田孝史『東電原発事故 10年で明らかになったこと』)

もちろん、東電の不作為だけではない。国の管理機関もやるべきことをしてこなかった。これらの本を読むと、あの出来事は、国と東電に一切の責任があることがわかる。福島原発事故は想定外とか、巨大テクノロジーは人類の範囲を超えるとか、なんだとか、かんだとかはまったくなく、福島原発事故は国と東電がやるべきことをやってこなかった「だけ」の話だったのだ。もう一度書くが「だけ」の話だったのだ。もし想定外と言うのならば、全交流電源損失という事態は確かに想定外であっただろう。国と東電がやるべきことをやっていれば、その全交流電源損失という事態になることはなかったのである。

今のNHKは政府に迎合しているメディアの筆頭とでも言うべきものになっているが、東電原発事故についての報道はNHKの最後の良心とでも言うべき優れた報道を行っている。そのNHKの取材班の『福島第一原発事故の「真実」』を読むと、これまで不明だったことの数多くが、この10年間で次々とい判明してきたことがわかる。特に衝撃的だったことは、 吉田所長が決死の覚悟で行った1号機の注水は、ほとんど原子炉の内部に入っていなかったということだ。1号機は注水されることなく炉心はメルトダウンをし、建屋は水素爆発で吹き飛んだ。

福島原発事故の最大の危機は、2号機の格納容器の圧力を下げることができなかったことと、4号機のプールの水がなくなることであった。4号機の燃料プールの水が沸騰してなくなれば、プールに置いてある使用済み核燃料が大気に露出し放射性物質が放出されていた。最終的に、2号機の格納容器の圧力はなぜか下がり、4号機の燃料プールの水がなくならなかったのだ。これはどういうことであったのか。

2号機は消防車の燃料切れで一時注水ができなくなった。注水ができなくなったことにより、原子炉の温度が上昇することで格納容器が破損し、東日本が壊滅することが吉田所長の脳裏に浮かんだわけであるが、そうならなかった。

10年後の今わかったことは、以下の通りである。2号機は水が入らなかったことでメルトダウンを促進する化学反応が鈍くなったこと、格納容器の上部の継ぎ目や配線の結合部分が高熱で溶解し隙間ができて放射性物質が漏れ出たこと、さらに電源喪失から3日間に渡って冷却装置が動いていたことにより、格納容器の崩壊を避けることができたのだ。たまたま、これらの偶然が重なっただけのことだった。

3号機については、定期検査のため燃料プールの隣のプールも水が満たされており、この水が燃料プールへ流れたからである。たまたま水があったのである。

あの日も、その後の10年間も、そして今も、私は東京都民でいられるのは、これらの「たまたま」があったからなのだ。「たまたま」東日本は壊滅を免れたのだ。10年たった今、福島原発事故について知れば知るほど、これはものすごく大きな危機であったことをつくづく思わされる。このものすごく大きな危機は「たまたま」回避できたのだ。

福島原発事故は、国と東電がやるべきことをやらなかったため起きた。そして、「たまたま」最悪の結果にならなかった。この事実を、何度も何度も考えていきたい。

September 16, 2021

20年後の911

今年の9月11日は、アメリカで起きた同時多発テロ事件から20年目になる。

池澤夏樹は『新世紀へようこそ』というメールマガジンをまとめた同名の本の「まえがき」の中でこう書いている。

「われわれは2001年の9月11日から真の21世紀に入りました。結局のところ人間はこういう形でしか新世紀に入ることができなかった。」

20年後の9月は、その後に起きた数多くの出来事が進行している。2001年9月11日の出来事は「20年前のひとつ出来事」でしかないかのように埋もれてしまっている。あの時から、その後、あまりも多くのことが変わってしまった。

テロリストたちは4機の旅客機をハイジャックし、2機がニューヨークの世界貿易センタービルに突入し、1機はペンタゴンに同様に突入した。そして、最後の1機はホワイトハウスか連邦議会の議事堂への突入を試みたが乗客の抵抗により途中で墜落した。

これらの出来事はなぜ起きたのか。なぜ彼らは、それほどアメリカを憎んだのか、と考えるのが普通ではないのだろうか。だが、アメリカが行ったのは、テロを起こしたアルカイダを匿っているというアフガニスタンへの報復攻撃だった。この事件が起きた直後、アメリカ国内はテロと戦う団結の一色になった。リベラル系のメディアでさえも、アフガニスタンへの報復攻撃を支持した。テロと戦争は違うものである。その常識が省みられることはなかった。ハイジャック犯の19人を除くと、この日のテロ事件で2977人が亡くなったという。さらにテロ現場での負傷者や救助活動を行った消防士や警察官などが、その後、様々な呼吸器系疾患やがんを発症し、死亡した者も数多いという。もちろん、この惨劇で家族や近親、友人を亡くした人々の深い悲しみはある。しかし、だからすぐに武力で報復をするのは違う話である。このテロがなぜ起きたのか、このテロをなぜ防ぐことができなかったのか。アフガニスタンに巡航ミサイルでの攻撃やクラスター爆弾を落とす前に、それらの問いに答えるべきだったのだ。

しかしながら、池澤夏樹が書いたように「結局のところ人間はこういう形でしか新世紀に入ることができなかった」。この日からアメリカはテロ戦争の泥沼に入っていった。そして20年後の今、アメリカはヘイトクライムが頻繁に起こり、国民感情が分断した国になってしまった。

アメリカは、なぜ報復行為に出たのか。なぜならば、中東の小国に対して自分たちは軍事的に圧倒的に有利だと思っていたからだ。ところが、最後はアメリカの撤退で終わったのである。

September 04, 2021

菅首相が自民党総裁選不出馬


菅義偉首相が3日、自民党総裁選不出馬を表明したという。この人が日本国の首相の器ではなかったことは、もはやいうまでもない。この人は、小学校の校長先生のレベルの人だったのではないかと思う。

上が無能でも業務が成り立つのが、日本の組織である。元々、この人は安倍前総理が辞任した後、総理になることを打診されたが、自分はその任に合わないとして断っていた。自分でも総理大臣は務まらないことがわかっていたのであろう。それがなぜか総理大臣になった。人事は個人の意思や能力で決まるわけではないというのが、この国の風土である。

菅総理自身、ついさっきまで総理を続けると言っていたのだ。それが一夜にしてコロッと変わったかのような今回の出来事は、これが日本の政治だみたいな声があるが理解不能というべきだ。

自民党は菅首相のままでは衆院選を戦えないということなのであろう。ここで総理を切り替え、新生自民党ということで、マスコミを使って国民の機会感を高めて衆院選を迎えるということなのだろう。自分たちは政権の座から落ちたくないということだ。

August 15, 2021

2021年の8月15日

本日は2021年の8月15日である。1945年の8月14日、大日本帝国は連合軍のポツダム宣言を受託した。翌日8月15日、昭和天皇による日本国民への玉音放送が行われた。そして、9月2日に降伏文書に調印することにより第二次世界大戦は終結したのである。

年々、歴史感覚が希薄化していくこの国にとって8月15日は何の意味をもつのだろうか。今やこの国で、太平洋戦争で敗北したのはなぜかということを真剣に考える姿勢をもつ者がどれだけいるのであろうか。この国は、過去の出来事に対してきちんと検証することをしない。しているのならば、新型コロナへの対策は今のような姿ではないはずだ。3.11の大震災や福島原発事故も、忘れ去られようとしている今、その遙か先の太平洋戦争の頃など関心を持たない人々が大多数である。

太平洋戦争を経験した世代にとっては、当然のことながら忘れられない人生の記憶であろう。しかし、これも当然のことながら、そうした世代は時間と共に少なくなり、やがていなくなる。日本の人口から太平洋戦争を経験した世代がいなくなった時、8月15日はどういうものになるのであろうか。シベリア出兵、日露戦争、日清戦争、その前で言えば台湾出兵、西南戦争、戊辰戦争を体験した者は一人もいない現在のように、日中戦争・太平洋戦争もまた経験をしていないのだから知るよしもなく関心もないことになるだろう。今の新型コロナへのさまざまな出来事も、このパンデミックが終了すればすぐさま忘れ去るだろう。この先、歴史家が今の出来事を検証すると思えば、もう少しマシなことをするであろうが、今の政府は今後の検証を想定してことを行っていない。これまでもずっとそうだった。

この世の中の社会や制度や文化は、人の一生の時間よりも長い時間をかけて作られた歴史的な構成体である。このため、人は自己の人生の時間の中で体験することよりも多くの知識を学ぶ必要がある。そのタテマエにおいて学校教育で歴史の授業が行われているが、ホンネにおいて学校教育の知識は試験のためである。試験が終われば忘れる。よって、人々に歴史の知識が体系化して蓄積されることがない。その一方で、先に述べた通りこの世の中は歴史構成体であるため、どうしても過去の出来事に触れざる得なくなることがある。このため断片的で偏った歴史知識が横行している。今やSNSで近現代史に関心があるという者の大半はネトウヨである。もちろん、この現状のままでよいはずはない。はずはないのであるが、高校教育も大学教育もお先真っ暗な状況である。

中国、台湾、韓国が新型コロナに対してそれなりに有効な対応がとれているのは、第二次世界大戦以後も戦時体制を続けてきたという背景がある。戦時体制を続けてきたということは、戦争を知らない世代に対して、その国においてのまともな歴史感覚を継承してきたということである。一方、わが国は76年前の今日以降、戦時体制的なるものをひたすら避け続けてきた。幸運にもその後、東アジアでの戦争は朝鮮半島とインドシナ半島で起き、日本で起こることはなかった。2002年のSARS、2012年のMERSの流行も日本はさほど被害を受けることはなかった。そこへ2020年、今回のパンデミックの到来である。去年の緊急事態宣言の「自粛」は疑似戦時体制的なるものだった(ただし、細部ではかなり緩慢でガバガバなものだった)と言えるだろう。この疑似戦時体制的な「自粛」下で国民生活を成り立たせるようにすること、このことが実際の戦時体制を続けてきた中国、台湾、韓国にできたことであるが、この国ではそれができなかった。というか、できるようになっていない。

76年前の8月15日から今日に至るまでの、中国、台湾、韓国とこの国の歩んできた道のりの違いが、今日の新型コロナへの現状を作っているのである。

August 08, 2021

感染拡大はまだ続く

現時点で世界の感染者数は2億を超えた。死亡者数は427万人である。日本は感染者数102万、死亡者数は1万5千人を超えている。パンデミックは続いているが、この国は平気でオリンピックをやってきた。そして、今日、閉会式が行われる。

開会式の不毛さを思うと閉会式もまた不毛なものになるだろう。閉会式を見ながら、この国はもうダメだなと思った人は数多いようだ。開会式は、世界に向かってなにが言いたいのかさっぱりわからない空虚な式典だった。

国家が危機的な状況に陥った時、国家は緊急的に国家の持つあらゆるリソースを、その危機的な状況の突破だたそれだけに集中するというのが古今東西の常識であるのだが、この国の為政者たちにはそういう認識はないようである。本来であるのならば、このパンデミックに対して有効な対応を確立し、実行していくと共に、経済の立て直しをしなくてならない。オリンピックなどというものをやっている暇はないはずだ。この「やっている暇はないはずだ」のことを政府は堂々とやっていることが、国民が危機意識を持つことの妨げになっていることは誰にでもわかることだ。

ワクチンの摂取は完全な対策ではない。ワクチンを摂取することで、まったく感染しなくなるわけではない。

なぜ、新型コロナ感染者の医療病棟をさっさと建てることができないのであろうか。中国の湖北省武漢市では去年、感染者専門の仮設病院を10日間で建設したという。日本でも10日とまではいかなくても、1ヶ月なり2ヶ月あれば病院を建てることは可能だ。なぜそうしたことを国は行わないのであろうか。その一方で、オリンピックはやるのである。

政府は2日、「肺炎などの症状がある中等症のうち重症化リスクが低い人は自宅療養とし、家庭内感染の恐れや自宅療養が困難な場合は、ホテルなどの宿泊療養も可能とする。」という方針を発表した。これは事実上の医療崩壊宣言である。「重症化リスクが低い人」というが、誰がどうやってそのリスクを判断するのかさっぱりわからない。また、当然のことながら自宅療養で感染の拡大を防ぐとはできない。ようするに、感染をこれからもガンガン増やしますと言っているのである。

外国のようなロックダウンは日本の法律ではできないというが、ロックダウンをすると政府は補償金を出さなくてならなくなるのでやらないのである。安全保障法制など自分たちの都合のいい法律は勝手に作って素早く通すのに、本当の意味での国民の生命を守ることをしないのがこの国である。

August 07, 2021

書くことの再開の記

最近は、ここで書かなくなった。書かなくなったということには、様々なわけがある。そのわけの一番大きなことは、今の世の中で個人がネットで発信していくこととはどういうことなのかということについて答えが見えなくなったからだ。インターネットの黎明期からネットに関わってきた世代の多くがそうであるように、私にもまた「こんな世の中になるとは思っていなかった」という想いがある。あの頃のインターネットが世界を大きく変えるという確信は、確かにその通り正しかった。その意味では、こうした世の中なると思った通りの世の中になった。しかしながら、その一方であの頃の予想を遙かに超える世の中になったこともまた事実である。

スマホひとつをとってみても、アップルのNewton、iPodは理解でき使っていたが、初めてiPhoneを見た時、これで電話をしてなにが良いのかさっぱりわからなかった。iPhoneをただの電話機としてしか思えなかったのだろう。スマホは個人環境と社会環境をつなぐツールであるのだが、当時は社会の側のデジタル化がまったく普及していなかったため、そのことがわからなかったのであろう。あの頃、これからは誰もがネットワークにつながったパソコンを持つ世の中になるだろうと思っていたが、やってきた未来は誰もがネットワークにつながったスマホを持つ世の中だった。「パーソナルコンピュータ」という名称を初めて生み出したアラン・ケイが考えていたコンピュータである「ダイナブック」は、今のスマホやタブレットPCなのかもしれない。

しかし、誰もがスマホやタブレットPCを持つ世の中になったことにより、様々な弊害が起きている。その一番の弊害は、今、この国ではまともな言語環境と言論空間がなくなってしまったということだ。

この「深夜のNews」というブログは、もともと新聞や雑誌を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりして、興味や関心に思ったことを、ざっくばらんに書いていくというものであった。今の世の中は、ニュース批評のようなことをネットで発信している者が多い。自分でやってきたからわかるのであるが、この手のニュースの批評、時事評論のようなことは一番書きやすい、言いやすい。自分が一端の識者になったような気分になる。しかし、その書いている内容、言っている内容はレベルが低く、間違っていること、どうでもいいことが多い。本当に意味のあること、価値のあることを書いている、言っている者は少ない。大多数はデジタル空間に無意味な情報をだたタレ流しているだけに過ぎない。バカでもできることが、ネットでの時事の評論である。そのことを考えると、自分もまたその不必要な情報のタレ流しをやっているだけなのではないかと思うようになった。「深夜のNews」というブログ名称は、始めた2004年ならいざ知らず、2020年代の今の文脈で言うと「ワタシはバカである」と言っていることに等しい。それほど、この20年で世の中は大きく変わってしまった。今のネットには恐ろしく膨大な不要情報が常に流れている。一昔前はテレビが無用な情報のタレ流し機器であったが、今はネットがそうなっている。

結局、それに対峙するには、自分自身のありようを変えるしかない。マスメディアの権威が終焉したということは、自分で情報の取捨選択ができる能力を持つということである。そのためには、学び続けていかなくてはならない。

このブログは、日本語で書いている。つまり、日本語を読解する空間を相手にしている。「日本語を読解する空間」を、ここで「public」とするのならば、ブログで書くという行為は、「公」を相手にした思考を行うということになる。この原点を押さえたい。ブログは私的空間から公的空間に向かって思考を発信する場である。かつてネットは、新しい言論空間になるものと思われていた。それは今となっては古き良き時代のネットの理念なのであろう。パーソナル・コンピュータとインターネットの理念、この理念を持ち続けたい。

なお、これまで行ってきた段落の先頭を一文字開けるということをこれからはやめる。段落の先頭を一文字開けるというのは、原稿用紙の様式である。ここでは不要である。

December 31, 2020

2020年を振り返る

 2020年を振り返ると、やはりというか新型コロナによるパンデミックであろう。2020年は歴史に残る年になった。

 厚生労働省が行ったLINEによる「第1-4回「新型コロナ対策のための全国調査」からわかったこと」によれば、
「「収入・雇用に不安を感じている」に「はい」と回答された方は、全体の31.1%でした。回答結果は職業種で大きな偏りがあり、タクシードライバー(82.1%)、理容・美容・エステ関連(73.0%)、宿泊業・レジャー関連(71.2%)、飲食(飲食店含む)関連(62.2%)の方が、過半数以上「はい」と回答されました。また、職業種によっては、従業員規模が小さいほど、より多くの方が「はい」と回答する傾向がありました。」であるという。

 また、精神的な面では学生への影響が最も高い。

 「一方で、学生は職業種の中で、「人間関係について不安を感じている」、「毎日のように、ほとんど 1 日中ずっと憂うつであったり沈んだ気持ちでいる」、および「ほとんどのことに興味がなくなっていたり、 大抵いつもなら楽しめていたことが楽しめなくなっている」に、「はい」を回答する割合が最も高い結果でした。それぞれ12.9%、14.4%、13.0%でした(回答者全体では9.3%、8.7%、8.3%)。」であるという。

 大学のオンライン教育についていえば、今回の出来事は大学からすれば降ってわいた災難であり、大学教育でオンライン教育はどのようにあるべきかという準備があって行ったわけではない。学生を教室という場所に集めることができなくなったので、代替処置としてやっているだけのことである。その程度のことでしかないので、学生側からすれば満足のいくものではないのは当然のことであろう。本来、オンライン教育とは、教室で教師がしゃべっている動画をただネットで流せば良いというものではない。この点については、根本的な作り直しが必要であろう。

 疫病は高齢者に重症化や死亡リスクをもたらしている。もともと、パンデミックが発生する以前から若者、高齢者、女性は社会的弱者になっていたが、パンデミック後はさらにそれが進んだ。

 必要なことは、当面の課題としてこうした社会の弱い部分に対する援助や保障であるのだが、消費減税をすることはなく、全員一律給付は一度行っただけとするなど政府はこれをやる気はない。よくわからないのは、生産性が低いのは淘汰されて当然だとする考えがあることだ。今起きていることは平時ではない緊急時である。生産性が低いから淘汰云々、失業するのは当然だみたいな考えは今の状況では成り立たない。雇用者において所得減、失業などといったことは起きてはいけない、起こさせないためにはどうしたよいであろうかとするのがむしろ当然の対応なのである。

 救済が必要な人々をどう選別するかは困難なことではあるが、困難だからできません、やりませんが通る話ではない。なんために国民は税金を払っているのかということになる。雇用については非正規労働者、特に非正規労働者の8割を占める女性にしわ寄せがかかっている。

 その意味で、現状の政党の中ではれいわ新選組がいっていることが妥当である。れいわ新選組は以下のような政策を主張している。

消費税は廃止。
奨学金の借金をチャラに。
教育は完全無償化。
一人あたり月3万円を給付。インフレ率2%に到達した際には給付金は終了、次にデフレ期に入った際にまた再開する。
1人あたり20万円の現金給付

 れいわ新選組がこの先どうなっていくのか注目したい。

 311の時、政府とマスコミは無能だったのは、まだ原発村や原発利権があるからと思えたが、今回の新型コロナが明らかにしたのはこの国の政府は全般としてことごとく使えないというものである。

 4月、5月から政府は一体なにをしてきたのであろうか。厚生労働省のホームページには新型コロナウイルス感染症対策本部決定の8月の「新型コロナウイルス感染症に関する今後の取組」や12月に行われた「新型コロナウイルス感染症対策本部(第 50 回)」の議事次第が公開されているが、その内容はいかにも役所が作った総花的内容であり、これらの中でなにに重点を置くのか、なにを優先するのかということがさっぱりわからない。GOTOトラベルには1兆円を超える予算が投入されているが、今は医療機関に重点的に予算を投入せずして、いつ投入するのであろうか。本日時点では東京都の感染者数が1300人を超えた。

 憲法を改正して軍隊を持とうという声があるが、日本の再軍備の是非はどうであるのかという以前に、そもそもこんな国民を見捨てる政府に軍隊を正しく運用することなどまずできない。ようするに何においてもことごとく、この国では政府を信信用することができないのである。こんな政府が憲法を変えたり、本格的な軍隊を持たせるのは危険である。何度も書いているが、今のこの国は、仮にパンデミックが収束したとしても、他にやるべきことが山のようにあり、そんなことをやっている場合ではない。

 今年は長く続いた安倍政権が終わりを告げたが、もうこの国は国民全員を守り、国民全体を栄えさせるということは不可能なのであろう。限られたパイを巡って、国民に対して区別や線引きがされている。それが明確に表面化してきたというのがこの一年であった。

 国際社会に目を向けてみると、今年のアメリカの大統領選挙のポイントはバイデンの勝利ではなく、トランプ支持者が7300万人もいるということだ。共和党はもはやトランプ頼み一色になっている。トランプ的なるものは消えたわけではなく、ますます大きくなってきている。変わりゆく共和党と、その一方で、バーニー・サンダースのラディカル右派の運動はますます盛んになっている。政治がまともに対処できていないことでは日本と同じなのであるが、アメリカではそれに対する市民の側からの抗議や主張がある。アメリカの政治状況は今後も見逃すことはできない。

 パンデミックが蔓延する国際社会で、その地位を大きく上げているのが中国である。中国は崩壊する的な話はタワゴトだと思って良い。中国は、アメリカと並ぶ世界覇権国である。経済の側面においても、中国の経済は世界の最先端を走っているといっても良い。

 今年、大陸中国は香港を完全に併合した。香港の若者たちは抵抗を続けているが、中流階級以上の富裕層は国家安全維持法を支持している。大陸中国と対立関係になり多国籍企業や外国資本が香港から撤退してしまうと、自分たちのビジネスに不利益であったり不動産の資産価値が下がることを望んでいないからである。

 よくも悪くもパンデミックが世界を変えた1年であった。そして、この変化は来年はさらに本格的に進むのである。

November 15, 2020

アメリカ社会の分断は続く

 日本では安倍政権が終わり、アメリカではトランプ政権が終わった。この二人は「同じ」ところが数多くあり、安倍が終わりトランプも終わるだろうなと思っていたら、その通りになった。そして、安倍時代が終わってもなにも変わらないように、トランプ時代が終わってもアメリカはなにも変わらない。人々の分断はさらに進行していくであろう。

 バイデンでは分断をなくすことはとてもできない。今回の選挙はトランプかバイデンかという、どちらを選んでもアメリカの未来はない選挙であった。日本の政治の劣化も著しいが、アメリカの政治もまた劣化が激しいものになっている。次期副大統領のカマラ・ハリスも、若い世代にはあまり評判は良くない。女性として初、またアフリカ系・アジア系としても初の副大統領が誕生するのは確かなことであるが、何ができるのか、何をどうしようとしているのかということとは話は別である。

 なぜアメリカの政治は国民の声が届かないものになってしまったのか。例えば、アメリカは大学の費用が高額であり、学生たちは卒業時に膨大な借金を抱えて卒業をすることになる。しかるべき給与の職業に就職できたとしても返済には何年、あるいは10年以上も月収の四分の一から半分をローンの返済にしなければならないという。そうした状態であれば、当然のことながら結婚をして新居を築こうという気にもならず、また結婚したとしても子供を作る余裕はなく、かくて少子化が進むのである。

 さらには、就職すらできない者たちはホームレスになる危機と隣り合わせになることになる。教育費が異常に高額であることと、奨学金という学生ローンが巨額になることは、若い世代にとって切実な問題である。民主党の大統領候補であったバーニー・サンダースや、エリザベス・ウォーレンらは、高等教育のほぼ全額無償化と、学生ローンの免除を提案していたという。高等教育を受けた者たちがホームレスになるような社会では、国の将来が危ぶまれるからである。

 しかしながら、バーニー・サンダースも、エリザベス・ウォーレンも、合衆国大統領候補にすらなれず、高額な教育費に対してとても何かするとは思えないジョー・バイデンが大統領になるのである。学生ローンについて何かするとは思えないということでは、トランプもまた同じだ。バーニー・サンダースのような人物もいるのだから、政治は若い世代の声を聴かないのではなく、若い世代の声を聴く政治家は大統領にはなれないということなのであろう。かくてアメリカ社会の分断は続くのである。

August 30, 2020

安倍政権が終わった

 28日の記者会見で、安倍晋三首相は辞意を正式に表明した。ようやくと言うか、とうとうと言うか、ついにと言うか安倍政権が終わった。本来、とっくに終わっていなければならないものが、これほど長く続いてきたのは、マスコミが営利を目的として正しい報道をしていないということと、それをおかしいともなんとも思わない我々国民にその理由がある。

 安倍政権とはなんであったのかということを、きちんと検証することをするだろうかというと、ごく一部のメディアを除いてしないであろう。政治が無能であったとしても、経済は困ることなく進んでいたかと言えばそんなことはまったくなく、安倍政権下でこの国はどんどん衰退していった。

 安倍政権は、消費増税、財政の健全化、金融政策、成長戦略、社会保障、雇用、地方創生、教育、保育、女性活躍、少子化、防災、北方領土問題、北朝鮮拉致問題、通商政策、憲法改正、安全保障、等々と実に様々な課題を掲げてきたが、どれひとつとして満足に対応できたものはなかった。

 この百花繚乱的な課題の提起は、安倍政権以前の政権にはなかったものだ。安倍政権の特徴の一つは、現在のこの国が抱える問題を次から次へと掲げるだけ掲げて、いつの間にか忘れ去り、次に別の課題がまた掲げられて、また忘れ去られるのくり返しであった。

 掲げられてきた数々の課題は間違っていない。確かに、こうした諸問題に直面している。政治は結果だという声が多いが、私はそうは思わない。政治的課題は短期間で解決することは少ない。少なくも上に挙げた課題は、10年、20年かけて対策をしていかなければならないものばかりである。結果はすぐに出るものではない。それらの課題にどう立ち向かっていたのかが問われるのである。だからこそ、そのひとつひとつに真摯に向き合う姿勢さえあればまだましであったのだが、それすらもなかった。

より以前の記事一覧

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