May 20, 2017

共謀罪が採決された

 昨日の19日、共謀罪の採決が衆院法務委員会で強行されたという。

 国が衰退していく時、時の政府は、どうでもいいことや、やらなくていいことをやり、本当にやるべきこと、やらなくてはならないことはやらない。

 「共謀罪」が一般国民を捜査対象とするのか、しないのか、が問題なのではない。なにをもって「一般国民」とするのか、しないのかが明確になっていないのが問題なのである。

 これは「組織的犯罪集団」を取り締まるという法律ではなく、なにが「組織的犯罪集団」になるのかは明確にせず取り締まるという法律である。なにが「組織的犯罪集団」になるのかは、取り締まる側の解釈で決まる。だからこれほど揉めている。

 本来、なにが「組織的犯罪集団」になるのかは法律で決まる。公に公開されている法律で決まるから、取り締まる側も取り締まられる側も法を元に犯罪の有無を決定されるのである。ところが「共謀罪」では、なにが犯罪になるのか明確になっていない、取り締まる側の判断でどうにでもなるという法律である。

 こういう法律がなぜ成立されようとしているのか、さっぱりわからない。さらにわからないのが、なぜ大多数の人々は、自分たちは「共謀罪」と関係ないと思えるのだろうかということである。カードやスマホの使用記録やネットの書き込み、監視カメラのデータなど、現代の社会では我々は様々なところで記録されている。そうした個人データと、いわゆる「組織的犯罪集団」の可能性とが結びつく可能性は極めて高い。少なくとも、絶対にないとは言えない状況になっている。自分個人がなにをどう思っていようと、「一般国民」とは見なされないことが、もしかしたらあるかもしれないという懸念を持つという一般常識がないのであろうか。

 また「共謀罪」について、日本国内での外国人のテロ対策がどうこうと言っているが、日本の公安はイスラム過激派について、例えば言語ひとつをとってみてもアラビア語やベンガル語などでテロ犯罪の計画を分析・調査する能力がない。国際的な情報収集機能を持っていない。あくまでも、日本人テロリスト集団に対して捜査能力を持っている組織である。もし国際的なテロリストへの対応を本気でしようとするのならば、それ相応の根本的な組織変革が必要なのであるが、それまでやる気がないらしい。であるのあらば、なぜ「共謀罪」が成立すればテロ対策は万全であるのかのような雰囲気になるのであろうか。

 これは、新安保条約とよく似ている。自衛隊の装備や組織の根本的な改革をしなくては、とてもではないが外国と戦う軍隊にならないのであるが、そういうことはせず集団的自衛権があればそれでいいみたいなことになった。「共謀罪」も同じであり、「共謀罪」が成立すればテロ対策ができるというわけではない。ところが、新安保は中国・北朝鮮の脅威への対策のためである、「共謀罪」はテロ対策のためであるという根本的に間違った認識がまかり通っている。「共謀罪」はテロ対策のためのものであるかのような話は、今になってとってつけた話であり、テロ対策にもなんにもならない。今、本当にやらなくてはならないことは、他に山のようにある。こんな法律を作っている場合ではないのだ。

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May 14, 2017

国連が「慰安婦」日韓合意見直しを勧告した

 昨日の13日の産経新聞の産経抄。韓国の文在寅大統領は11日の安倍首相との電話会談で、慰安婦問題をめぐる日韓合意について「国民の大多数が、心情的に合意を受け入れられないのが現実だ」と言ったことについてこう書いている。

「自国民の感情を、どうして他国が無条件に尊重すると思い込めるのか。それが国と国との公の約束より重いという発想は、どこから来るのか。」

 ここまではっきと、こうしたことを臆面もなく述べるということに驚いた。いかにも産経らしいというか。大日本帝国は滅び日韓併合がなくなってから70年たったというのに、なぜこうしたことを韓国に対してまだ言っているのであろうか。

 二つ理由があるであろう。

 ひとつめは、日本はかつて朝鮮を植民地にしたという歴史がある、ということである。なぜ侵略をした側の国の政府は、侵略をされた側の国民の感情を尊重することをしないのだろうか、ということである。

 この、他国の人々の感情を、尊重とまではいかなくても「知る」ということが日本人は不慣れである。大日本帝国の朝鮮統治は、朝鮮社会の多額の国家予算を投入して、インフラを整備し、殖産興業を行い、教育や医療を充実させた。その一方で、朝鮮の人々の感情においては、徹底的に逆撫でをし、恨みを買うことをやってきたと言わざるを得ない。一例を挙げれば、日本は朝鮮総督府を李氏朝鮮の王宮である景福宮の敷地に置き、光化門を(破壊するつもりであったが、日本の文化人らからの反対運動があり北へ)移築した。このことは李氏朝鮮から長く続いてきた景福宮の景観を変えることなり、朝鮮の人々の心情に屈辱感となってその後も長く残った。こうしたことが、GHQによるアメリカの占領から70年たっても、まだ、というか、2000年代以降、さらに強く対米従属を続けている日本人には理解ができていない。

 上記の産経抄の文を、戦前風に書けば、なぜ日本が朝鮮人の感情を尊重しなくてはならないのか、ということであり、朝鮮人の感情など尊重しない、と言っているのである。ここに、大日本帝国の朝鮮統治の思想と同じものが如実に表れている。本来、他民族の社会を統治するには、その人々の心情を巧みに操作する必要がある。なるべく恨みを買わないように統治しなくてはならない。そうした高度な他民族統治の能力を日本は歴史的に持っていない。

 ふたつめは、国民の大多数が心情的に受け入れられない「合意」をなぜしたのか、ということである。国民の大多数が心情的に受け入れられない「合意」であるのならば、政府は変更すべきではないのか。

 国民の心情などというものよりも、国の公の方が重いものという考え方そのものが、極めて日本的な特殊なものであることがなぜわからないのであろうか。

 さらに言えば、この従軍慰安婦の日韓合意は、韓国の国民の大多数は受け入れていないことは十分にわかっていた。もちろん合意を認めたのは韓国政府であるが、こうなることを知っていながら日本側はなぜ通したのであろうか。

 ここで、戦後日本のアジア諸国への戦争賠償の政策ついて考えたい。

 戦争の賠償は、その国の民間組織や国民に対して行うのではなく、その国や政府に対して行うのが日本の基本姿勢であった。インドネシアにも、フィリピンにも、ベトナムにも、ミャンマーにも、そうしてきた。このていで、乗り切ってきたのである。

 ところが韓国の場合は、これで終わりにはならなかった。朝鮮は高麗王朝以来、古代からの文明国であり、14世紀から20世紀に至る李氏朝鮮の文化伝統と国民気質をもった国は、植民地として統治するのにも困難が伴ったが、独立後もそう簡単に過去の恨を忘れる国ではなかった。李氏朝鮮の時代、宗主国である中国の中華秩序は、中国よりも強固で絶対的な朝鮮のイデオロギーであり続けた。このため、東の夷である日本に従わざる得なかったことは、歴史的な屈辱感として民族の記憶に深く根付いている。

 朝鮮にとって日本への恨みは、他のアジア諸国とは別種のものであるとさえ言ってもよいだろう。日本側から見れば、他のアジア諸国はそれなりに戦争の「謝罪」を受け入れてくれたのに、朝鮮(韓国)だけは、そうはなってくれないということになる。

 日本の嫌韓の人々にとって、韓国は手に負えない国、国交断絶すべき国、消えて欲しい国であると思っているのは上記の理由による。ちなみに、中国における反日感情は、朝鮮(韓国)におけるそれとは歴史的に違うものであるが、ここでは中国については触れない。

 そして産経抄は、最後にこうしめくくる。

「「韓国にはやっぱり、民主主義は無理なんだよ」。かつてある政府高官が漏らしたセリフである。」

 ようするに産経新聞というか、保守メディアやネトウヨ一派は「韓国にはやっぱり、民主主義は無理なんだよ」なのである。このへん、戦前の朝鮮差別の心情となんら変わっていない。今回の朴槿恵政権を退陣に追い込んだのは、その是非はともかくとして、今の韓国は十分に(民主主義すぎるほど)民主主義であったと思うのであるが、こうした人々はそうは思わないらしい。

 民主主義が無理な状態になっているのは、今の日本である。明治の自由民権運動は国権主義に変わっていったし、大正デモクラシーの政党政治も、結局は世界恐慌による経済不況の中で消滅してしまった。そして、戦後、GHQの指導による民主主義が行われた。それも70年で形骸化してしまった。民主主義社会が、民主主義社会であるためには、憲法の文言がどうこうではなく、民主主義社会であろうとする人々の意思と行為が必要なのである。王権を打破し、革命によって民主主義になった国の国民はこのことを知っている。それがこの国にはない。日本には民主主義は無理なのかもしれない。

 産経の黒田記者は、13日の紙面のコラム「ソウルからヨボセヨ」でこう書いている。

「最近の朝鮮半島をめぐる軍事的緊張に関連し「日本では子供でもこんな雰囲気です」と知らせてきたのだが、韓国とのあまりの違いにうならされた。韓国の子供にはそんな雰囲気はまったくなかったからだ。日本で子供までも戦争を心配しているのは、日本ではテレビを中心にマスコミが今にも戦争が起きるかのように“危機”をあおったせいだと思う。

 万一に備えるのが国の安全保障であり危機管理は最悪の場合を考えるものではある。しかし戦争は地震と違って人為的なものだから一定の情報や経験、分析で「起きるか? 起きないか?」はある程度分かる。とくに長く「北の脅威」にさらされてきた当事者の韓国人は経験的に判断する。」

 このように、黒田記者は北朝鮮がどうのこうのと騒いではいない韓国の姿は当然だとしている。そして、日本について「日本人は逆にその経験がないから慌てふためくということかもしれない」と書いている。まったくその通りだ。

 案の定というか、当然というか、慰安婦問題をめぐる日韓合意について、国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会は被害者への補償などが不十分として合意の見直しを勧告する報告書を発表した。日韓両政府に対して「被害者の補償と名誉回復が行われるように尽力すべきだ」と強調しているという。

 産経新聞はこれを「誤った情報に基づく勧告に日本政府は強い不快感を示している。」と書いている。このように、国連が日本について至極当然でまっとうなことを言うと、常に「誤った情報に基づいている」というのが今の劣化した保守の常套文句である。外国は日本について間違った認識をしている。コレコレの情報が伝わっていない。国際社会に事実を伝え、抗議も含め対処すべきである、というのがおきまりのパターンだ。他国の歴史や文化を学ばない。他民族の心情を理解しようとしないのである。

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May 01, 2017

北朝鮮のミサイル「実験」で東京の地下鉄は止まる

 29日の早朝、ラジオを聴いていたら、突然、北朝鮮がミサイルを発射したというニュースがあった。最初は、アメリカがとうとう北朝鮮にミサイル攻撃をしたのかと思った。

 北朝鮮がミサイルを発射するということは、いわば当たり前のことである。わざわざ臨時ニュースのように報道をするのは、アメリカがミサイルを撃ったということなのであろうと思っていたからだ。だが、北朝鮮がミサイルを発射したということを知って、はああ?と思った。

 何度も書くが、北朝鮮がこの先もミサイル発射をするのは当たり前のことであり、驚くことでもなんでもない。トランプが発射をやめよと警告をした。アメリカがそう言っているのだから、北朝鮮はミサイル発射はやめるであろうとでも言うのであろうか。

 29日の早朝のミサイル発射は、平安南道から発射され、空中で爆発したとのことである。このことにより、東京メトロは全線で一時運転を見合わせたという。今後も北朝鮮がミサイルを発射すると、東京の地下鉄は止まるのであろうか。

 北朝鮮から日本に向けてミサイルを発射すれば、今回のように空中で爆発するか、日本海のどこか落ちるだけである。何度も書いているが、そもそもミサイルというものは、どこどこの場所に何時何分何秒にコレコレの破壊規模で着弾しなくては兵器として使いものにならない。ミサイルはミサイル本体とともに、これを制御する技術が重要なのであり、北朝鮮にはその技術がない。ただ爆弾をつけたロケットを、どこどこの方角に向かって発射しました、では戦争にはならない。

 軍事兵器は、ひとつのシステムである。北朝鮮のミサイルは、システムとして使い物にならない。今だ実戦で使えるようなシロモノではない。戦前の大日本帝国は、第一次世界大戦以後の総力戦の戦争ができる資源と工業力を持つ国ではないため、もはや現代戦争はできなくなったという真実をひた隠してきた。今の北朝鮮も同様である。アメリカは、あと5年から10年以内にアメリカ本土に到達するICBMを北朝鮮は保有すると述べているようであるが、あと5年なり10年なりが、これまでのペースで成長するとは限らない。何度も言うが、国にそれなりの巨大な産業と高度な技術力があって、その上に軍隊はある。北朝鮮という国は、とてもではないが戦争ができる国ではない。

 その「とてもではないが戦争ができる国ではない」北朝鮮を、ここまで追い込んだ原因はアメリカと中国にある。このことの認識がまずなければらない。

 東京新聞の記事によると、東京メトロでの一時運転の見合わせについて、在日三世の経営者の人が「東京で地下鉄を止めるなんて、過剰に反応しすぎだ」「北朝鮮がやっていることはもちろん問題だが、日本政府や行政が過剰な恐怖心をあおっているのも問題だ」と話したという。その通りである。

 29日の産経新聞に、以下の記事があった。

「フィリピンのドゥテルテ大統領は29日、東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議後の記者会見で、同日深夜に予定している米国のトランプ大統領との電話会談で、「北朝鮮の指導者の術中にはまらないよう忠告するつもりだ」と述べた。

 ドゥテルテ氏は、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長について、「ただ単にこの世界を終わらせたいと思っているだけだ」と指摘。核戦争が起きれば東南アジアにも被害が及ぶとし、戦争を防ぐには「米国が慎重で我慢強くいられるかにかかっている」と述べた。」

 フィリピンの大統領は、日本の総理大臣よりもずっとまともな正しいことを言っている。アメリカにものを言うというのはこういうことを言うのであり、ただアメリカに追従するということではない。また、ロシアのラブロフ外相は「米国がシリアのようなことをしないことを願っている」と述べたという。北朝鮮にはミサイルを撃つなといい、自分たちはミサイルを撃つというアメリカの言っていることは矛盾している。

 北朝鮮をこんな国にしたもうひとつの当事国である中国は、かつての朝鮮戦争の時のように北朝鮮に強行介入するつもりはまったくない。中国にとって、北朝鮮問題を解決させることは、国際社会への極めて重要なアピールになり、アジアの覇権国として認められるのであるが、習近平にはそのつもりはないようである。習近平にとって最大の課題は、国外的にはアメリカとの良好な関係であり、国内的には最高権力者としての権力の集中である。朝鮮戦争についての中国共産党政府の責任を、今の中国はきれいさっぱりに忘れている。

 そもそも、朝鮮戦争はなぜ起きたのか。なぜ朝鮮半島は二つの国に分割されたのか。なぜ北朝鮮は「ああいう国」になってしまったのか。そこから考えることをしなくてならないはずであるのに、どのマスコミもそうしたことをしない。そして日本は、かつて朝鮮を植民地とし、戦後は朝鮮戦争の特需景気で高度成長をなしえたことを思えば、北朝鮮について、ただ脅威を煽るだけではない対応があるはずである。

 北朝鮮を威嚇するためにアメリカの空母が朝鮮半島近海を航行し、米軍と韓国軍が共同訓練を行うなどといったことは、これまで何度もある通常の姿であり、「緊張が高まる」とか「有事が起こる危険性がある」とかいったことではない。韓国の地下鉄は、テロの危機の心構えを映像等で流すことはあるが、ミサイル発射で電車を止めたことはないとのことである。

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April 28, 2017

「自国第一主義」では経済はよくならない

 23日のフランスの大統領選の第1回投票の結果で、独立系のエマニュエル・マクロン前経済相と、極右、国民戦線のマリーヌ・ルペン党首が決選投票進出を決めたという。

マクロンはEU支持であり、ルペンはトランプと同じく「自国第一主義」を掲げている。

 しかしながら、ルペンが言うフランス第一主義のイメージは、かつてド・ゴールが言ったフランス第一主義とは大きく異なる。今のこの時代の、いわゆる「自国第一主義」とは、そもそもなんであろうか。

 以下、実際はもっと複雑であるのだが、ここでは単純なものとして考えてみたい。

 例えば、トランプは労働者が失業しているのは、自動車工場がメキシコへ移転したためである。工場が外国へ行くのはよろしくないとしている。しかし、自動車工場は好きでメキシコに移転するのではない。そこには理由がある。メキシコでは人件費が安くなるため、メキシコの工場で自動車を生産すれば、それだけ安い価格で販売できるのである。自動車をアメリカで販売する際にも、価格を安くすることができる。つまり、アメリカの消費者は、自国で生産するよりも安い価格で購入することができるのだ。これは、アメリカの消費者の利益ではないのだろうか。

 いやいや、「消費者だけ」という人間はいない。労働をしてお金を得て、そのお金で商品を購入するのである。消費者である前に労働者なのである。消費よりも雇用を考えなくてはならない、というのは確かにその通りだ。

 では、自動車工場の労働者は、自動車工場の労働者でしかあり得ないのであろうか。ここで、政治なり行政なりの手腕が問われる。他の業種の仕事で働く、あるいは、自動車のメンテナンスや、交通インフラの整備・管理などは「メキシコにある工場」にはできないことである。そうしたサービス産業、つまりは脱工業社会になることで、かつて自動車工場で働いていた労働者は、新しい雇用の場を持つことができる。工業の外国移転によって、国内産業が空洞化するか、しないかは、そうした産業構造の転換をやるか、やらないのか、という話なのである。

 必要なことは、自動車会社が工場を国外に移転させないようにすることではない。むしろ、外国で生産できるものは、積極的に外国へ移転するようにさせることだ。自国の経済がグローバルになればなるほど、外国と深く関わっていくということであり、それが自国の安全保障を高めることなのである。

 そうして、自国の企業が外国へ出て行った時、国内の雇用をどうするのかを考えるのが政治家や官僚たちの役目なのである。ところが、今、アメリカやヨーロッパのいわゆるアンチ・グローバリゼーションが言っていることは、自国の企業を外国に出さない、ということだ。まったくの真逆のことを言っているのだ。これはつまり「自国の企業が外国へ出て行った時、国内の雇用をどうするのか」、その対応がまったくわからないと言っているのである。

 だが脱工業化社会へ転換しなくては、この先の先進国の未来はないことは、1980年代から言われ続けてきたことだ。政治家や官僚は、この30年間、一体をなにをしてきたのであろうか。

 仮に、トランプが言ってる通りにしたとしよう。国内で、高い人件費で自動車を作り続けたとしよう。まず、そうした高価な車は外国では売れない。そして、自動車は外国でも生産している。このため、外国車の輸入に高い関税をかけて、国内市場への参入を阻むであろう。ということは、国内の人々は、高い国内車を使い続けなくてならないということになる。

 もちろん、実際の世の中は多かれ少なかれ、どの国でも上記のことをやっている。国内の産業を保護する名目で、外国の製品やサービスの参入を阻んでいるものは数多くある。問題なのは、それを露骨に、大規模にやろうということなのである。それを彼らは「自国第一主義」と言っている。

 トランプやルペンを支持する人々は、政治の無策さが招いた状態にある人々である。彼らの既存政党に対する怒りや不満を受け入れてくれる相手としてトランプやルペンはある。しかし、トランプやルペンでは経済は回復しない。かくてますます、人々の怒りと不満と政治への不信は高まり続けるだろう。この有権者のフラストレーションは、この先、どこへ向かうだろうか。

 次回の本選挙では、棄権が数多く出るだろう。ルペンが当選する可能性は高い。仮に当選しなくても、大統領選挙で極右政党がかなりの投票数を獲得したという事実は、これからのヨーロッパの政治に大きく影響を与えることになるだろう。重要なことは、トランプのアメリカと同じく、アンチ・グローバリゼーションを支持する勢力と、グローバリゼーションを支持する勢力で、ヨーロッパの政治が分断するということである。もうかつてのような統合された国民国家というのは、昔の話になっているのだ。

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April 15, 2017

現実感覚を持たない国

 今朝の産経新聞の一面は、産経抄が安倍政権バンザイの内容で、「米「核実験 確証得れば先制」という記事があり、その隣に「北「いつでも実施」」という記事があって、いますぐにでもアメリカの北朝鮮への攻撃が始まるかのような論調である。

 社説「主張」はこう書いている。

「安倍晋三首相が国会で、北朝鮮のミサイル戦力に関連し、「(化学兵器の)サリンを弾頭に付けて着弾させる能力を、すでに保有している可能性がある」と答弁した。

 この懸念は以前から、政府や安全保障専門家の間で共有されてきたものだが、首相の発言は北朝鮮情勢がより切迫していることを物語っている。

 併せて、菅義偉官房長官は北朝鮮が「生産できる複数の施設を維持」していることを明かした。韓国国防省は、北朝鮮がサリンやVXなど2500~5千トン規模の化学兵器を保有するとみている。」

 と、あたかも北朝鮮が化学兵器を搭載したミサイルを保有していることが認定された事実であるかのように書かれている。さらに言えば、こうしたことを首相が言うこと自体が、かなり大きな問題なのであるが、誰もそのことに気がつかないようだ。北朝鮮に対して、アメリカが積極的な行動にでる可能性が高くなったので、日本政府はここぞとばかりに高飛車な態度になっている。そのことが、産経新聞の紙面から伝わってくる。

 その今朝の産経新聞のコラム『緯度経度』で、黒田さんが「有事感覚が後退した韓国」というコラムを書いていた。黒田さんは、こう書いている。

「いつもそうだが肝心の韓国社会にはことさら緊張感も危機感も感じられない。

 韓国社会のこの雰囲気はそんな「危ない北」と長く付き合ってきたことからくる“慣れ”と同時に、北との戦争となると韓国が真っ先に被害を受けるのだから「米国はまさか韓国の意向を無視した勝手なことはやらないだろう」という安心感(?)からだ。」

 黒田さんは、産経新聞のソウル駐在特別記者であり論説委員である。嫌韓が社是である産経新聞の中で、この人は当然のことながら嫌韓ではない。以前、東京都の朝鮮学校への補助金支給の停止について、その通りであると喝采する産経の紙面の中で唯一、黒田さんのコラムでは、かつてソウルで日本人学校を作る時、ソウル市からの援助を受けたことを思えば、東京都が援助することぐらいしてもいいのではないかという意味のことを書いていたのを読んで、なるほどこの人は平等な見方をする人なのだなと思ったことがある。そういう人である。

 黒田さんのコラムからの引用を続けたい。

「韓国社会で北朝鮮との戦争という有事感覚が後退しているのは、韓国が今や本格的な戦争はできないようになってしまったからだ。

 たとえば北との軍事境界線に近いソウルの北方は、高層マンション中心の100万都市である。この新都市開発にあたった盧泰愚(ノ・テウ)政権(88~93年)は「高層マンションは北からの攻撃に際してはソウルを守る盾になる」などといって物議をかもしたが、今や人気の住宅都市である。

 それに韓国が世界に誇るハブ空港の仁川(インチョン)空港も、機上から眼下に北が見えるほどだ。こんなに近くては戦争などできない。」

 ようするに、黒田さんの眼から見ても、今の韓国は「北朝鮮があ」という雰囲気でもなんでもないということだ。国境に接している隣国である韓国ですら、こうなのだ。このコラムでは、韓国がこうであることを、有事感覚の緊張感もなにもないのはいかがなものであるのだろうかという批判的スタンスをにおわせてはいる。だが、おそらく黒田さんは、この現実を受け容れざるを得ないと思っているのだろう。産経新聞の記者である以上、こう書かざるを得ないのである。

 この韓国の社会の姿は、当たり前の現実的な感覚であろう。 戦争になれば、日本による日韓併合から独立して以後、そして朝鮮戦争が休戦になって以後、これまで韓国の人々が築き上げたもの一切が灰燼に帰することなる。そんなことを、誰が望むのであろうか。韓国は、もはや戦争ができる国ではない。これは有事感覚が後退したのではなく、まともな現実感覚になっているということなのである。

 そもそも、北朝鮮が今後も核実験をし続けたとしても、それでアメリカが北朝鮮にミサイル攻撃をするということは国際社会のリアリズムに欠けている。これは、紛争地域のシリアでの政府軍が化学兵器を使った(とアメリカが主張している)ことへの攻撃とは本質的に違うものだ。ましてや北朝鮮の一般市民を犠牲にすることは、国際社会では通らない。むしろトランプ政権は北朝鮮に対して積極的に行動すると言われていることについて、本当にそうであるのか疑いの眼を向けることが必要である。

 仮にアメリカは北朝鮮に先制攻撃をしたとして、その次に起こることは第二次朝鮮戦争であろう。しかし、今ここで戦争などやられたものでは、中国、ロシア、日本を含め周辺国の経済的なダメージは甚大であり、世界経済は第二次世界大戦以後、最大の危機を迎えることになるであろう。その損失をアメリカが支払うとでもいうのであろうか。日本では朝鮮半島の有事を文字通り対岸の火事であるかのように思っている人々が多い。ミサイルが飛んできたり、避難民が押し寄せるのは阻止したいと思っている程度である。その程度の認識しかないのだ。

 今の朝鮮半島の情勢は緊迫しているというのは、確かにそうであろう。しかし、その緊迫の内容は、今すぐ戦争が起こるようなものではない。ましてや、戦争が起こりそうであるのならば、起こらない方法を考えるべきなのであるのだが、そうしたことを考える気はないようである。戦争について現実感覚を持つということは、そういうことなのだ。むしろ重要なことは日本が知らないところで、在日米軍が中国やロシアに対して行っていることだ。

 この国総理大臣とか、ネトウヨとか、ネトウヨ新聞とかが、この島国の中で、北朝鮮がミサイルを打ってくるとか、戦争が起こると不安を煽っているだけである。なぜそうなのかと言えば、国民が北朝鮮への不安を感じることが、安倍政権の支持につながるからだ。

 本当は今こそ、広い視野をもって自分のアタマで、日本以外の広い世界を見て聞いて考えなくてはならない時なのである。それが国際的な現実感覚を持つということなのだ。

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April 09, 2017

アメリカのシリア攻撃と北朝鮮

 アメリカは7日、シリア政府軍が北西部イドリブ県南部の空爆で化学兵器を用いたと断定し、非難するとともに、シリアの軍事施設へのミサイル攻撃を行ったという。またもや、国連安保理の決議前のアメリカの軍事行為である。もはや、アメリカは国連を完全に無視していると言えるだろう。

 シリアの化学兵器使用の有無については立証されていない。むしろ、確実に国際世論の非難を招く化学兵器の使用をシリアがするだろうかという疑念がある。

 仮にそれが真実であったとしても、では今回、ミサイル攻撃を行ったとして、この先、化学兵器を使わせないようにどうするのであろうか。このへんの展望がまったくなく、ただ、ミサイルを打ち込みました、ということをしたとしか思えない暴挙である。また、トランプはそもそもアサド政権と共同し、イスラム国を掃討することを掲げていたが、このミサイル攻撃でアメリカとシリアの関係はどうなるのであろうか。

 オバマ政権であれば、こんな愚かしいことはしなかったであろう。実際のところ、2013年、化学兵器の使用が疑われたアサド政権に対して、オバマは軍事行動に踏み切らなかった。トランプ政権になり、中東の混乱はますます深まるばかりであるとしか言いようがない。イラクに大量破壊兵器があるという捏造で、イラク侵攻を行い、今のイラクの荒廃をつくったのはアメリカであることを国際社会は忘れていない。

 これは、北朝鮮への威嚇行為なのだとする見方がある。というか、北朝鮮に軍事的圧力をかけたい者たちは、アメリカのシリア攻撃を北朝鮮への威嚇行為なのだと思いたがっている。産経新聞はこう書いている。

「トランプ米政権は、北朝鮮に対し、軍事攻撃も辞さない姿勢を見せてきた。今回のシリア軍基地への攻撃は、核・ミサイルだけでなく、化学兵器の開発にも邁進(まいしん)する金正恩(キム・ジョンウン)政権に向け、この上ない強い警告となった。北朝鮮は公式の反応を示していないが、衝撃を受けたことは間違いないだろう。」

 しかしながら、今の時代、力による威嚇は国際問題の解決にはならない。力による警告を行えば、北朝鮮は行いを改めるであろうという考え方そのものが間違っているのだ。この、力でねじ伏せれば、相手はいうことをきくという発想に基づくこの考え方は、それはつまり、自分たち自身が、力でねじ伏せれれば、相手のいうことをきくからなのであろう。

 前にも書いたが、そもそも北朝鮮は「悪い国」なのであろうかと私は考えている。

 こんなことを言うと、悪い国であることは当たり前じゃないかという声が聞こえてくる。つい最近、ドキュメンタリー映画『太陽の下で』を観たばかりだ。あの時間が停止したかのような進歩もないもない、自由がなく、人権もない国がいいわけないではないかという声が聞こえてくる。もちろん、北朝鮮の社会が「正しい社会」だとは私は思わない。

 だが、数多くの国民を餓死させ、虐待し、虐殺をしている国家体制の国は、今現在、地球上に数多く存在している。北朝鮮がけしからんというのならば、そうしたことを行っている他の国々を放っておくのはなぜであろうか。

 北朝鮮は日本をミサイルで狙っているではないかという声もあるが、何度も書くが、あんなものは兵器でもなんでもない。ミサイル兵器に必要なのは、これこれの破壊規模で、何時何分何秒にどこどこへ着弾するということであり、これができなくては戦争にならない。実験程度の打ち上げでは、アメリカはおろか、韓国や日本とすら戦争ができる国になっていない。北朝鮮の国力では、戦争は不可能である。

 北朝鮮の望みは、アメリカとの交渉であり、アメリカによる現体制の維持の保証である。以前に書いたように、この言い分には北朝鮮側にも理はある。北朝鮮を力で威嚇して、では、拉致問題はどうなるのであろうか。北朝鮮に拉致され、2002年に帰国した蓮池薫氏は、NHKのインタビューでこう述べている。

「拉致を解決すれば見返りを与えることができると伝える必要がある。例えば電力事情の改善など経済協力という形で、北朝鮮に必要なもので核やミサイルの開発につながらないものがあるはずだ」

 これは極めて重要なことだ。拉致問題の交渉には、当然のことながら見返りを与えることが必要になる。北朝鮮にとって、今の体制維持が必要なのである。仮に、軍事力により北朝鮮の体制を崩壊させたとしても、その先のことについて明快な道筋を韓国も日本も持っていない。金正恩体制は崩壊する、崩壊するといっていながら、では、実際に崩壊したらなにが起こるのか、なにをどうするのかということについて韓国と日本は現実的に考えることをしていない。実質的なことはなにも考えておらず、万事、アメリカまかせになっているのが現状である。そのアメリカは、力による安易な示威しか考えていない。となると、拉致問題の解決など永遠に不可能であろう。

 今回のアメリカのシリア攻撃で明らかになったことは、トランプ政権のアメリカは安易な軍事行動をするということであり、北朝鮮に対して力による威嚇しか考えていないということだ。つまり、アメリカが北朝鮮に攻撃する可能性が出てきたということである。軍事行動には、合理性がなくてはならない。合理性のない軍事行動は、危険以外のなにものでもない。今の国際社会で、北朝鮮やイランよりも、アメリカが危険な国になっているのだ。トランプのアメリカは、北朝鮮を攻撃することについて、韓国や日本がどうなろうと知ったことではない。アメリカは勝手に北朝鮮に軍事挑発をして、そこから北朝鮮は韓国と日本に過剰な反応をするかもしれない。そうなれば、東アジアは混乱し荒涼となった中東化するであろう。

 そうならないためには、日本はアメリカとは違う外交戦略が必要になる。アメリカがこうなった以上、北朝鮮について、日本がロシア・中国との関係において対処すべき課題であると私は考える。しかしながら、この国には、とてもではないがそんな高度な外交能力はないのである。

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April 02, 2017

3歳児の国旗掲揚と国歌斉唱

 1日、東京新聞を読んでいて驚いた。

「厚生労働省は三十一日、三歳児以上を対象に、保育現場で国旗と国歌に「親しむ」と初めて明記する保育所の運営指針を正式決定した。文部科学省が同様の趣旨を幼稚園の教育要領に盛り込んだことを受けた見直しで、幼児教育の整合性が理由。二〇一八年度に施行する。
 今回見直した「保育所保育指針」は、乳幼児の成長や安全面で配慮する点について、保育現場での順守や努力を求める内容。三歳児以上が「保育所内外の行事で国旗に親しむ」「国歌、唱歌、わらべうたやわが国の伝統的な遊びに親しむ」と記した。」

 なにしろ、園児に教育勅語を教えている幼稚園に訪れ感涙にむせたという夫妻がこの国の総理大臣夫妻なのであるから、当然であるのかもしれない。東京新聞の記事にあるように、3歳児以上は「保育所内外の行事で国旗に親しむ」「国歌、唱歌、わらべうたやわが国の伝統的な遊びに親しむ」ようになるそうだ。

 これまで政府は、小中高校に国旗掲揚と国歌斉唱をするようにさせてきた。さらに安倍政権では、国立大にも国旗掲揚と国歌斉唱を要請した。それがついに幼稚園や保育所にも国旗を掲揚し国歌を歌うよう「指導」するようになったと言えるだろう。

 しかしながら、伝統と言っても今の国旗にせよ国歌にせよ、100年前に明治政府が定めたものである。この国には、それ以前に2千年近くの年月がある。縄文期まで遡れば数万年のオーダーになる。「日の丸」や「君が代」がなくても、この列島の上で人々は営々と暮らし続けてきたのである。なにをもって、国の伝統というのであろうか。

 もちろん、だからといって、国旗と国歌は「にせもの」であり「まがいもの」であると言うのではない。今の国旗や国歌には、それが成立した歴史的過程がある。その歴史的過程を踏まえずして、ただ単に盲信する対象であってはならないということだ。日本を含め、いかなる国の国旗や国歌にも敬意を払わなくてならない。これは、ヨーロッパに主権国家ができた時からの国際的な常識だ。近代国家の国際共通の通例・慣例と言ってもよい。

 国旗や国歌を敬うというのは、愛国心がどうこうという前に、国際的なマナーであり、教養であり、知識であるのだ。だからこそ、国旗掲揚と国歌斉唱をするというのならば、そうした教育もなくてはならない。言うまでもなく保育所や幼稚園は、そうした教育の場ではない。であるのならば、ただ単に「やっている」だけであり、「やっている」ことで満足なのであろう。

 戦後日本の教育の現場が、国旗掲揚と国歌斉唱を拒否してきたのは、戦前の日本の教育があまりにも理不尽なことをやり、国を滅ぼしたからである。大日本帝国は滅びて、その国旗と国歌は残るというのは、どう考えてもおかしい。教育勅語にもいいところがあると大臣が言う今の政府に、どこに戦前の教育への反省があるのであろうか。そして、国民に対して愛国を強制しながら、国の側には国家としての理念も倫理もないのである。

 かつて、ベネディクト・アンダーソンが言った「想像の共同体」である国民国家とは、国家が国民に愛国であることを強制しなくても、国民の側から愛国心が自ずからわき上がるように国家は操作するのであるが、今のこの国の政府には、とてもではないがそんな高度なことはできない。

 かくて、3歳児にも国旗を掲揚し国歌を歌うようにさせるしかないのであろう。何度も言うが、その光景を微笑ましく見ている夫妻が、この国の指導者夫妻なのである。

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March 29, 2017

高浜原発が再稼働可能になった

 稼働中だった福井県の関西電力高浜原発3号機を、福井地裁が仮処分判断で停止してから1年がたった。28日、大阪高裁は再稼働を認める判断を下したという。

 これについて産経新聞は、さぞや喜びの社説を出すだろうなと思っていたら、案の定、29日の「主張」でこう書いている。

「高裁は、抗告していた関電の主張を全面的に認めた。極めて理にかなった司法判断である。

 これにより、2基の再稼働に道が開けた。電気料金の値下げが急務となっている関電には、再稼働に向けた準備を着実に進めてもらいたい。」

 おもしろいのは、産経は原発の再稼働と電気料金の値下げを重ねていることである。ようするに、電気料金を下げるために原発を再稼働するとしている。このへんが興味深い。電気料金を持ち出してくることで、原発稼働の正当性を述べているのである。実際のところ、原子力発電はコストが安い電力ではない。仮に事故が起こらなかったとしても、将来の廃炉や廃棄物処理などのことまで含めれば、原子力発電は決して安くない電力なのであるが、そういうことはどうでもいいのであろう。

 さらにおもしろいのは、この日の紙面のもうひとつの「主張」は、栃木県那須町のスキー場で、登山講習会に参加していた高校生らが雪崩に巻き込まれた事故についてのことで、そこは「過信と油断が惨事を招く」と書いていることだ。こう書かれている。

「事故を受けた会見で県高体連は「ベテランの先生方が状況を把握して、的確な判断のもとにやったと思う」などと述べた。そこに落とし穴はなかったか。

 鳶(とび)の棟梁(とうりょう)から、こんな話を聞いたことがある。どんなに高いところで身軽に動けるベテランでも、地面が間近に見えてきたときに事故を起こしやすい。一番怖いのは過信、慢心、油断だ、と。」

 しかしながら、これは原発についても言えることであろう。栃木のスキー場での事故には「過信と油断が惨事を招く」として、原発にはそうは思わないところが、いかにも産経らしい。ゼロリスクを求めるなというのならば、栃木のスキー場での教師たちについても同じことが言えるのではないかと思うが、どうなのであろうか。

 ましてや、原発事故は、雪崩とは比べものにならない被害規模になる。福島原発事故がどのような事故であったのか今だ完全にわかっていない現状で、原発が安全であるという判断は誰にもできない。

 火力発電と比べて、原子力発電はコストが安い(電気料金が安い)というのは、原発プロパガンダが常に言っていることである。そんなことはまったくない。原子力発電はコストがかかる電力なのだ。そのへんのことを、御用メディアは言わない。

 日本経済新聞によれば、福井県の周辺の知事たちは、今回の大阪高裁の判決に異議を唱えているという。

「滋賀県の三日月大造知事は「実効性のある多重防護体制の構築が、いまだ未整備という状況下では再稼働を容認できる環境にはない」との考えを示した。独自で避難計画を策定している大津市の越直美市長は「市民が原発の安全性に不安を持っている状況では、原発を再稼働すべきではない」とコメントした。」

 関西電力高浜原発3、4号機の運転を差し止めた判決を述べた福井地裁にせよ、先日の前橋地裁にせよ、原発について地方の裁判所は正しい判断をするが、上になるにつれ政治が優先されるようだ。もはや法律よりも、時の政権に意向に従うことが多い。この国では、司法は独立していないのである。

 今回の大阪高裁の再稼働を認める判断をみて、つくづくそう思う。

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March 19, 2017

原発避難者の集団訴訟

 「東京電力福島第1原発事故の影響で福島県から群馬県に避難した137人が国と東電に損害賠償を求めた訴訟で、前橋地裁は17日、国と東電の双方が巨大津波の到来を予見可能だったと判断」したという。

 これを知った時、今の司法ではめずらしく、正しい判断をする司法がまだ残っているのだなと思った。この判決について、産経はなにか言うだろうなと思っていたら、案の定、19日の「主張」でこう書いている。

「刑事訴訟では東電の旧経営陣3人が業務上過失致死傷罪で起訴され、東京地検は2度にわたり「事故の予見や回避は困難だった」と不起訴処分とし、検察審査会によって強制起訴された。

検察当局が認めなかった予見や回避の可能性を、裁判所が認定したことになる。この「ねじれ判断」は、混乱を招かないか。

全国に避難した住民らによる約30件の同種の集団訴訟で、これが最初の判決となる。今後は各地裁が個別に判断を下す。

前橋地裁の判断が同種の訴訟や刑事裁判にどのように影響するかは未知数である。それぞれ異なった判断が出れば、混乱はさらに深まるだろう。」

 そして、最後にこう書いている。

「一方で、「3・11」が想定を大きく上回る巨大地震であったことも事実である。判決は、東日本大震災をこう表現した。「複数の震源域がそれぞれ連動して発生したM9・0の我が国で観測された最大の規模の地震である。本件地震に伴い発生した津波は、世界観測史上4番目、日本観測史上最大規模のものであった」

未曽有の自然災害に対抗するには、政府や企業、国民が団結するしかない。裁判所の判断のねじれや揺らぎが分断に結びつくことを、何よりも危惧する。」

 産経が言う「想定を大きく上回る巨大地震であったことも事実である」というのは事実ではない。

 あの時から6年後の今では、311規模の地震にせよ津波にせよ、国の原子力安全委員会や東電では事前に十分に予測されていたことがわかっている。決して「想定外」だったわけではなく、「想定されていた」ことであり、ただ単にその対策をとることをやっていなかっただけのことだったのだ。なぜやらなかったのかと言えば、産経の記事にあるように「経済的合理性を安全性に優先させたと評されてもやむを得ない対応を取ってきた」「約1年間でできる暫定的対策すらしなかった」のである。これらのことについては、添田孝史著『原発と大津波 警告を葬った人々』(岩波新書)に書かれている。

 産経が言う「検察当局が認めなかった予見や回避の可能性を、裁判所が認定したことになる。この「ねじれ判断」は、混乱を招かないか。」というのは、一体いかなることであろうか。「ねじれ」ようがどうなろうが、前橋地裁の判断には関わりはないことである。検察が認めなかったことを、裁判所が認定するのはおかしいという論理こそおかしいものだ。そして、この出来事について、ひとつひとつを考察することなく、「政府や企業、国民が団結するしかない」といって、全部ひとまとめにして、結局のところ、曖昧、うやむやにしている。検察の判断に逆らうな。大災害に対抗するには、挙国一致で政府と企業と国民が団結するしかない、だから避難者や地方の裁判所が国と東電を批判するな、というわけである。こういうところが、いかにも産経らしい。

 まだまだ世間では、福島原発事故は想定外の大津波によるものであったというイメージが流布されている。というか、世間の関心がどんどん薄れ、東電は巨大津波が起こりうることを知っていたのかどうかすら、どうでもいいような雰囲気になっている。

 驚くべきことに、これだけの大事故について、国会、政府、東電、民間の事故調査は終了してしまっている。国会の事故調など、開始から最終報告書の提出まで半年しかなかったのだ。欧米では、このような調査は専門の歴史家も含めて長期にわたって徹底的に調査し、記録を残す。この出来事は、フクシマ・ケースとしてこの先も調査・研究を続けていかなくてはならないものだ。例えば、大学の授業で1年間講義の必修科目にしたいほどだ。

 なぜこのような事故が起きたのか。この事後に対してどのように対処したのか(しているのか)、この事故から学ぶべきことはなにか、ということは、これからも考え続けていかなくてならない国民的な課題であると言ってもいい。福島原発事故について知れば知るほど、その範囲の広さと奥の深さを痛感する。学問分野で言えば、自然科学、工学、社会学、心理学、政治学、法学、経済学、歴史学、組織論、危機管理、メディア論、等々、挙げていけばきりがない程、多分野にわたる知識を必要とする。この出来事から学ばなくてならないのは、国や東電だけではない。我々もまた学ばなくてならない。

 福島第一の4号機は、3号機のベントラインから原子炉建屋に水素が流入したことにより、原子炉建屋で水素爆発が発生したが、大規模火災を免れたのは、以前からの工事遅れのために貯めてあった大量の水が、使用済み核燃料プールに勝手に流れ込んで冷却してくれたからである。それがなかったら、使用済み核燃料は露出し、大量の放射能が外部に流れ出て行った。福島第二は、地震のわずか二日前に防波堤の工事が完了していて、それが津波の侵入を防いでくれた。たまたま、偶然で、首都圏も含めた東日本全域で避難をすることはなかっただけのことなのだ。

 ましてや、炉心が破損した状態で核廃棄物のデブリをどう取り出したらいいのか、人類が今だかつてやったことがないことを、これからやらなくてはならないのである。廃炉そのものができるかどうかすら、まだわからないのだ。

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March 11, 2017

6年目の311

 今年は土曜日であるということで、昨日の金曜の夜からNHKオンデマンドやYoutubeなどで東日本大震災や原発事故についての番組や動画を見ていた。

 改めて、この日起きた巨大津波の映像を見ると、その規模の巨大さに驚く。なるほど、海で地震が起こると、こうなるのか、ということを知識では知っていても、実際に起きた映像を見ると、これほどものとは思っていなかった。

 この地域で、過去にこれだけの巨大規模の地震が起きたのが、貞観11年(西暦869年)の貞観地震と言われている。日本史の区分で言えば、平安時代前期のことになる。前九年の役の、まだ約200年も前の時代である。

 この時代の東北は、京都の朝廷の支配が、とりあえず行われていたという時代であり、現在の宮城県に朝廷の直轄統治都市として多賀城があったが、そうした都市から外へ出れば、実質的には朝廷の管理の及ばない、蝦夷や俘囚と呼ばれた人々が暮らしていた社会であった。

 この時代に起きた巨大地震は、人がまばらに住んでいて、ほとんど大半は植物と人以外の動物たちが住んでいた広大な大地に、巨大な津波が襲いかかったのだろう。多賀城の被害は、甚大であったという。しかしながら、蝦夷と呼ばれた人々は、狩猟採集文化の人々である。彼らにとって、地震や津波は自然の姿として当然のことであったし、大地震が起きたその時は大変な出来事であっただろうが、地震がおさまり、津波がひいていき、自然の生態系が元に戻るとともに、人々の暮らしもすぐに元に戻ったのではないだろうか。

 その1000年後の21世紀の東北に、貞観地震と同じ規模の巨大地震が発生し、巨大津波が大地を覆った。地球史において、1000年など存在しないとも言える短い時である。だが、その大地に住んでいる人間たちの社会は大きく変わっていた。「自然の生態系が元に戻るとともに、人々の暮らしもすぐに元に戻る」という社会ではなくなっていた。

 このなくなっていた、というのは、すいぶん昔からのことではない。ほんの100年、さらに細かく言うのならば、戦後の70年間でしかない。50年前、福島第一原子力発電所はなかったのである。千年に一度の巨大地震が起きたのは、もし50年前にズレでいたのであれば、レベル7の史上最悪の原発事故は起こらなかった。この一点をもっても、現代という時代がいかに特殊な時代であるかがわかる。

 映画『太陽の蓋』のDVDが販売・レンタルリリースされた。映画館で一度見たきりだったということで、今週火曜日にTSUTAYAで借りて、何度も観た。

 前にも書いたが、この映画はYoutubeで公開されている3本のスピンオフ作品と一緒に観ることで、より深く理解できる。

 日本国の内閣総理大臣の場である官邸には、福島原発の事故についての情報収集を行うことができていなかった。菅総理が福島原発を直接訪問したことも、東電と官邸の意思疎通が行われていたのであればやることはなかったのであろう。この総理大臣の訪問は、福島原発の事故現場では迷惑この上ないものであった。しかし、菅総理は、総理大臣として判断をしなくてはならない立場であった。その判断の根拠となるべき情報が挙がってこないのだから、行きたくなくても行かなくてはならない状況だった。内閣総理大臣は、危機管理のマネジメントとシステムの欠陥の被害者であったのだ。映画『太陽の蓋』は、そのことを述べている。福島原発の現場が、重なる事故の連鎖に混乱していたように、総理官邸という現場もまた混乱していた。

 しかしながら、なぜ、かくもいい加減な危機管理の体制であったのだろうか。福島原発事故は、工学的な欠陥ではなく、マネジメントの欠陥だったと思う。事故後、東京電力への批判の声が高まったが、問題の本質は、戦後の国策としての原発電力政策そのものにあった。

 このことは、原発の危機管理だけではなく、国家の軍事、安全保障の危機管理の体制も、実際にコトが起きた時、このようにまったく使いものにならないものであることを意味している。ようするに、この国の組織は、上になればなるほど無能の意思決定の体制になる。これは、個々人の能力の問題なのではなく、組織的、制度的、マネジメント的な問題なのだ。民主党政権は、いくつかの点において疑問に思わざる得ないことをしてきた。もちろん、それらはそれまでの自民党政権がやってきたことばかりなのであったが、そうしたことを変えていくことができなかった。

 だが、福島原発事故の対応について、あの時、いかに原発の監督官庁や学者や東電が信頼できないものであったかという官邸の内部事情を映画ドラマにしたのは、この映画はよくやったと思う。マスコミは、時の政権の原発事故対応の欠点を咎め、そして政権交代をもたらした。『太陽の蓋』は、この時のマスコミの報道のあり方が問題の本質から外れていたかということを述べている。このことについても、この映画はよくやったと思う。

 もうひとつ、この映画が述べていることで重要な点は、スピンオフ作品の第二作にあるように、原発を誘致した地元の側にも事情があるということだ。もちろん、このことは、国と東電が、産業がない、原発に頼るしかない地方を狙って原発を設置したということもある。しかし、脱原発は、この地方経済の現実を正面から考えなくてはならないと、この映画は言っているのだ。

 この世の中には、個々に事情がある。この映画『太陽の蓋』には、官邸の事情、マスコミの事情、地元の事情が述べられている。ここにないのは東電の事情である。そこまで話を広げることは、この映画の趣旨ではなかったのだろう。

 311から6年がたって、福島原発の危機的状況は終わっていない。なにも変わっていない。その一方で、政府も官公庁も東電もなにも変わっていない。

 昨年から政府は「復興」と「自立」を掲げ、避難指示の解除を進め、被災者への損害賠償を打ち切る対応を始めている。政府は311をもう昔のこと、過ぎたことにして忘れたいのであろう。時事ドットコムニュースは、こう報道している。

「東日本大震災の発生翌年の2012年から3月11日の節目に合わせて開いてきた首相記者会見を打ち切ることを決めた。震災から6年となり、「一定の節目を越えた」(政府関係者)と判断した。安倍晋三首相は11日に政府主催追悼式で式辞を朗読するが、会見は行わない。」

 しかしながら、今でも3万人の避難民がプレハブの仮住宅で生活をしているのだ。福島原発についても、そもそも廃炉ができるのだろうか。技術的に、可能なのだろうか。実際のところ、そこから考えなくてはならないことなのである。そんな危ういものの上に、今、この国は立っている。なにも終わってはいないのだ。


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