September 18, 2017

沖縄での日米関係の姿は日本全体での日米関係の姿なのである

 先日、NHKオンデマンドで「スペシャルドラマ 返還交渉人~いつか、沖縄を取り戻す~」を見た。

 このドラマは、1960年代の沖縄返還交渉の実務を担当した外務省北米第一課長・千葉一夫の物語である。戦争中は海軍の通信士官だった千葉は、沖縄を攻撃する米軍の無線を傍受していた。戦後、千葉は外務省の外交官になり沖縄返還交渉の実務を任されることになる。

 千葉の想いは、米軍に占領されたままになっている沖縄を取り戻すということである。日本本土は占領が終わって10年以上たっていたが、アメリカのベトナム戦争が本格化し始めており、沖縄はアメリカにとっての重要な出撃基地であった。沖縄には核兵器すら配備されていたのである。

 そこで千葉は、沖縄返還交渉の目標を「核抜き本土並み」とし自ら率先して交渉を重ねていく。GHQの占領が終わり、国内の米軍基地の多くは本土から沖縄に移転した。本土の米軍基地は減ったが、逆に沖縄では増えたのである。千葉の想いは、本土は沖縄に負担を押しつけているということであり、沖縄は日本であり、日本は独立国家であるという日本人としての当然の想いであった。

 しかしながら、沖縄返還は結局どういうものであったのかということを、後の時代の私たちは知っている。

 沖縄返還は、千葉の想いとはまったく逆の結末になる。このテレビドラマは役者の演技も良くたいへん質が高いものであるのだが、主人公が難航する交渉をまとめ上げて見事な成果を上げるとか、危機を乗り越える逆転劇とか、カタルシスのある結末とかいうものはまったくない。このテレビドラマには、ドラマとしてのおもしろさはまったくない。だからこそそこに沖縄返還とはどういうものであったのかが感じられるのである。

 結局、返還交渉は密約をもって決められる。日米関係という大きな枠組みの中で、千葉の返還交渉は徒労として終わる。千葉の父親もまた外務省の外交官であり、日本政府がポツダム宣言受諾をした時に自殺をしたという。外交官であるため敗戦後の日本がどうなるかをわかっていたのかもしれない。心ある外交官は外交に理想を掲げるが、結局、大きな枠組みに押しつぶされて消えていく。だが、我々はそこにその人の生涯の意義を見る。

 なぜ千葉の返還交渉は、徒労で終わってしまったのだろうか。1960年代の外務省の北米第一課長にはわからなかったことが、それから50年以上たった今では誰でもわかるようになった。上記のNHKのドラマで言えば、北米局の課長であった千葉には知らされていない(つまり、我々、日本国民に知らされていない)ことがあったのである。

 今日よく知られている日本の佐藤栄作総理とアメリカのニクソン大統領との返還後の沖縄への核持ち込みの密約については、当時、北米局の局長クラスより上でなくては知らなかったであろう。だからこそ、千葉の沖縄返還交渉、というかNHKのこのドラマはああした徒労の結末で終わったのだ。

 このドラマが放映されて、数日後の10日に放送されたNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」を見るとそれがよくわかった。

 これはアメリカの国防総省が公式に認め機密を解除した沖縄での核兵器配備についての資料を基に、元兵士やアメリカの政府関係者へのインタビューも踏まえ、沖縄の核配備の事実を明らかにした番組である。

 沖縄がアメリカ軍の占領統治にあった時代に核兵器が置かれていたことは、周知の事実なのかもしれない。しかし、それが1300発もの核兵器が置かれていたのである。また、核弾頭つきミサイルの誤射事故があり、もう少しで大惨事になったことがあったということや、1962年のキューバ危機の時には、沖縄の核兵器は(ソ連ではなく)中国を目標とした発射準備が完了していたということ(こちらが撃てば、当然、相手も日本へ撃ってくる)を番組では明らかにしている。

 本土に返還された1972年まで沖縄はアメリカ軍の統治下にあったのだから、これらは当たり前のことだと言うかもしれない。しかし、こうしたことが、当時、日本政府及び日本国民にはまったく知らされることがなかった(日本政府は知ろうとすらしなかった)ということが問題なのである。こうしたことについて、アメリカは日本を守ってくれているのだから問題でもなんでもないという者は、独立国家とか国民主権という近代社会の基本がわからないただのバカであろう。

 では、本土に返還された72年以後はどうであるのだろうか。この番組では、沖縄の核配備について国防総省は回答をしないとし、日本政府は当時の密約はなくなっているとしていると述べて終わる。

 しかしながら今日に至るまで、日米の安保条約や地位協定などの実質的な内容はなにひとつ変わっていない。

 戦後日本の歴史を見てみると、どう考えても理解できない、腑に落ちない「傾向」というか「雰囲気」のようなものがある。これがなんであるのか、これまで私は様々な本を読み、メディアに接してきて、きっとこうなんじゃないだろうかと漠然と考えてきたことがある。これが最近、ああそうなのかとわかった。

 なにがわかったのかというと、一言で言えばこの国は本当の意味では独立国ではないということである。もちろん、これまでそう漠然と思ってきたが、今や明確にそうなのだと言うことができる、ようするにこの国は独立国ではなく半独立国の状態なのであるということだ。

 このことは戦後史関連の書物を数多く出版し、自らも調査したことをまとめて本を出している出版・編集人の矢部宏治さんの以下の3冊の本に詳しく書かれている。この3冊は、大変重要な事実を明らかにしている。

『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社)

『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(集英社)
『知ってはいけない 隠された日本支配の構造 』(講談社現代新書)

 歴史の教科書で言えば、1951年にサンフランシスコ平和条約により日本はGHQ(General Headquarters)、より正しくはSCAP (Supreme Commander for the Allied Powers) による占領が終わり、独立主権国家に戻るとされている。しかしながら、実は様々な点においてアメリカ軍による統治・介入が行われ続けられるように「できていた」のである。アメリカの占領体制が独立後も維持、継続されているのである。この「決まり」は、日本国憲法よりも上位であり、憲法を超えて優先されている。

 1952年に始まる安保条約(旧安保条約)は、1960年にアメリカ軍の日本駐留を引き続き認めるように改訂される(新安保条約)が、在日米軍が事実上、日本国内でいかなることも自由にでき、治外法権の特権を持つということや有事の際には日本の自衛隊は在日米軍の指揮下に入るといったことは今日に至るまで変わっていない。アメリカ本国では、このことを良しとしない国務省や議会の議員や知識人などが数多くいる。常識的感覚からすれば、これはおかしいことなのである。

 そして最も重要なことは、これらはアメリカ側が強制的に無理矢理に日本側にそうさせてきたのではなく、日本側が自ら進んでこうするようにしてきたということである。今おな続く沖縄の基地問題の背景には、そうしたアメリカへの依存関係を持ち続けようとする日本側に問題がある。何度も強調するが、これはアメリカの常識的感覚からすれば理解し難いことを日本人はやっているということであり、こうした構造的背景の中で日米関係を強固なものにすると言っている日本人は、アメリカの国務省から見れば内心では不可解と軽蔑の対象とされている。

 北朝鮮のミサイル問題に対して、この国が軍事的にも外交的にもまったく無力なのは、戦後70年間、ただひたすらアメリカだけに依存し続け、アジア諸国やロシアと良好な関係を築いてこなかったからだ。

 そして、安倍政権や安倍支持者は憲法を改正しなくてはならないと言っているが、憲法9条がどうこうという前に、自衛隊は米軍の指揮下に入るように「なっている」ということから改めることをしなくては話は進まないはずである。しかしながら、そうした事実が表に出ることはないまま、憲法改正がどうのこうのということばかり言っている。

  「スペシャルドラマ 返還交渉人~いつか、沖縄を取り戻す~」やNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」を遠い沖縄での話であり、自分たちには関係はないと思うのは間違っている。沖縄での日米関係の姿は、日本全体での日米関係の姿なのである。

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September 10, 2017

プーチンが正しい

 5日の産経新聞はこう書いている。

「ロシアのプーチン大統領は5日、訪問先の中国福建省アモイで記者会見し、「北朝鮮は雑草を食べることになったとしても、自国の安全が保障されない限り(核開発の)計画をやめない」と述べ、北朝鮮の核問題の解決には、関係各国の対話が必要との従来の主張を繰り返した。インタファクス通信が伝えた。またロシアに制裁を科す米国が、北朝鮮への制裁でロシアに協力を求めている状況を「ばかげている」と述べ、米国を批判した。」

 これはまったくもって、プーチンが正しい。

 北朝鮮の隣国は韓国、日本だけではない。中国やロシアも隣国である。つまり、北朝鮮が核兵器を持てば、その脅威にさらされるのは韓国や日本だけではない。中国やロシアもそうなる。

 しかしながら、中国やロシアは日本のように騒いでいない。中国・ロシアにとって第二次朝鮮戦争が起きて亡命や大量の難民が発生したり、金正恩体制が崩壊して親米国家がすぐ隣にできるのは困ることなのである。核兵器の拡散については危惧しているが、経済制裁にはあまり積極的ではなく、従来から対話と協議によってこの問題を解決するとしている。

 産経などでは、中国やロシアが国連での北朝鮮への制裁決議に従わないことを咎める記事が多いが、重要なことは、国際社会のすべてが北朝鮮に対して制裁行動をとることで北朝鮮を孤立させてはならないということだ。孤立させると、もっとなにをするかわからない国になる。その意味で、中国とロシアがアメリカ主導の北朝鮮への制裁に参加することなく、北朝鮮との独自の関係を保ち続けようとしていることは、実は北朝鮮の暴発を抑えることになっている。

 脅威というのは、「脅威だと思う」ことによって脅威になる。張り子の虎であっても、それが「虎である」と相手が信じれば虎になる。ようは、相手がそのように「思う」か「思わない」かで決まるのである。小野寺防衛相は「脅威となる核兵器を持っている」と述べているが、北朝鮮側からすれば、これこそが彼らの目的であり、その目的は達成されていると言わざるを得ない。

 ことここに至っては、北朝鮮に対して有効なのはアメリカに従うのではなく、中国・ロシアと共同することだ。日中露で北朝鮮を経済援助するということでもいい。ようは自分たちが影響を及ぼすことができる関係の中に、北朝鮮を組み入れることである。排除し疎外させることではない。

 しかしながら、「脅威となる核兵器を持っている」としたことで、ではどうするのかというと、その先はアメリカまかせである。北朝鮮の脅威を煽り、なまじトランプ政権による軍事制裁を期待していて、実際のところ、アメリカはなにもしないということになった場合、どうするのであろうか。

 実質的にアメリカは、北朝鮮が核兵器を持ったとしても、広大な太平洋の向こう側にいるのであまり関心はない。だからこそ日本は「あんなものは脅威でもなんでもありませんねえ」と言っておいて、裏で中国・ロシアと対策を練ることをすればいいのであるが、アメリカとの従属構造の下にある日本は、そうしたアメリカ抜きの外交ができない。

 そもそも日本は北朝鮮をどうしたいのか、アメリカの軍事行動があった方がいいのか、そうではないのかがまったく明確になっていない。脅威は煽るが、北朝鮮とアメリカの動きを対岸の火事を眺めるようにただ拱手傍観しているだけである。

 その一方で北朝鮮のことよりも、本来、やらなくてはならないことがまったく進展していない。今朝の毎日新聞は社説でこう書いている。

「政府の文書管理をめぐり、看過できない動きが起きている。

 国家戦略特区の認定手続きの文書記録について政府は「透明性向上」を理由に新たな基準作りを検討している。だが、その内容はむしろ透明化に逆行し、情報隠蔽(いんぺい)を正当化する意図すら読み取れる。

 加計学園の獣医学部新設をめぐっては安倍晋三首相と学園理事長が親しい友人関係にあることが手続きをゆがめたとの疑いを持たれている。

 内閣府が「総理のご意向」をかさに着て文部科学省に圧力をかけたと受け取れる文書が同省内で見つかった。実際に不当な圧力があったかは「言った」「言わない」の水掛け論でうやむやにされたままだ。

 問題の再発を防ぐのであれば、利害の対立する省庁間の調整過程を記録に残すことをルール化すべきだ。行政文書を保存・公開する意義は、政策決定の結果だけでなく、その経緯を記録する点にこそある。それにより権力の行使に不正がなかったかを検証できる。民主主義の根幹だ。」

 森友・加計問題で明らかになったことは、官庁は自分たちの仕事を記録に残し、それを保存し、公開するというあたりまえの基本的なことをやっていないということだ。このままだと政府に都合が悪いことは記録に残さなくていい、残したとしても国民に公開しなくていいという社会になる。いわば近代社会、民主主義社会の基本中の基本ができていないということになる。何度も書いていることであるが、北朝鮮よりもこっちの方がもっと重要なのである。

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September 03, 2017

北朝鮮のミサイルが「北海道の上空を通過」した

 北海道のベンチャー企業が開発した全長10メートルの観測ロケット「MOMO初号機」が7月30日午後4時頃に打ち上げられた。この打ち上げの様子は、ニコニコ動画でライブ放送されていた。ロケットの高度は目標100キロ以上であったが、30キロから40キロまでしか到達できず、目標としていた100キロ以上の宇宙空間には到達できなかったようだ。ロケットはエンジンを緊急停止し、海上に落下したという。

 100キロ以上の上空というのは、観測ロケットが飛んでいく場所なのである。この高度は、熱圏と呼ばれる地球の大気層のひとつになる。

 国際宇宙ステーションは、高度400kmの上空を飛んでいる。29日のロイターによると、「北朝鮮は29日午前6時前、首都平壌の近郊から弾道ミサイル1発を発射した。ミサイルは高度550キロに達し、北海道の上空を通過しながら襟裳岬の東方およそ1180キロの太平洋上に落下した。」という。

 国際宇宙ステーションが飛んでいるところの、さらに150kmの上をミサイルは飛んでいったのである。政府は「北海道の上空を通過した」といったが、これを「北海道の上空を通過した」というのはおかしい。北海道の上空を通過したと言っても、空を見上げて目で見える風景の中を通過したわけではない。国民に不安を煽っていると言われても否定できない。

 ミサイルでJアラートの警告が出るというものもわけがわからない。どのような基準で、なにを目的としているのか。よくわからない。では、原発関連施設については政府なにか対応をしたのであろうか。安倍晋三さんは「いかなる状況にも対応できる緊張感をもって、国民の安全、安心の確保に万全を期していく」と言うが原発にはなにも対応はしないらしい。

 日本向けのミサイル(何度も言うが、軍事兵器として使い物になるシロモノなのか大いに疑問がある)は、何年も前から配備されている。日本上空を「通過した」のは以前、1998年と2009年に東北地方の上空を通過し、2012年と2016年には、沖縄県上空を通過している。それなのになぜ、今、騒ぐのであろうか。

 しかも今回、日本に向かって撃ったわけではない。アメリカに向かって撃ったと北朝鮮は言っているのだ。ところが、とうのアメリカでは、アメリカ南部を襲ったハリケーン「ハービー」による大規模な被害の方が大きな問題になっている。アメリカに向かって「撃った」(これは撃ったと言えるのだろうか)というミサイルで、日本が大騒ぎしているのである。

 安倍晋三さんは「政府としてはミサイルの動きを完全に把握していた」と言うが、ならばなぜ不安を煽るようなことをするのであろうか。この問題を利用して国民の目を加計学園問題からそらす意図があると言わざるを得ない。

 かりにもし日本へのミサイル攻撃があったとしても、朝鮮半島と日本列島の距離では完全なミサイル防衛はできない。前から書いているが、この距離での正しいミサイル防衛とは、ミサイルを撃たせないということである。

 もちろん国防意識はなくてはならない。しかし、正しい論理的な根拠に基づいた防衛ではなくては意味がないのが軍事なのであえる。対処できるものには対処しなくてはならないが、対処できないものは対処できない。違う方法で対処することを考えなくてはならない。

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September 02, 2017

記者会見というのは「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑をする」場所である

 昨日の政府の東京新聞への抗議は理解し難い。産経新聞によると

「首相官邸報道室は1日、学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設計画をめぐり、8月25日の菅義偉官房長官の記者会見で、東京新聞記者の質問に不適切な点があったとして書面で東京新聞に注意を喚起した。」

 とのことである。

 政府はなにがよろしくないと言っているのかというと

「加計学園が計画する獣医学部施設の危機管理態勢をただす中で「(計画に対する)認可の保留という決定が出た」と言及した。」

 とのことである。なぜならば、

「獣医学部の新設計画は大学設置・学校法人審議会が審査し、答申を受けた文部科学省が認可の判断を決めるが、この時点ではまだ公表されていなかった。」

 からであるという。そして

「官邸報道室は東京新聞に宛てた書面で「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑応答がなされ、国民に誤解を生じさせるような事態は断じて許容できない」として、再発防止を強く求めた。

 という。

 これはまったくおかしな話だ。記者であるのだから、公表前のことも情報を入手することはできる。仮に公表前のことを公開されている記者会見の場で話したことがよろしくないというのならば、公表前のことを記者会見で質問したことを不適切な点があったとして注意を喚起するべきであろう。

 ところが、公表前のことを記者会見で質問したということで、「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑応答がなされ、国民に誤解を生じさせるような事態は断じて許容できない」という書面を出すというのはもはや異常な反応であると言っていい。ささいなことで過剰な反応をするのは安倍晋三さんその人の傾向であり、これはそのまま安倍政権の傾向でもある。

 この「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑をするな」というのは、公式発表前に記者会見で質問したことに言っているのではなく、ここ数日間、東京新聞の記者が北朝鮮の弾道ミサイル発射をめぐる政府の対応について熱心に質問をし続けてきたことに対する嫌がらせであったのだ。さらには、先日の北朝鮮の弾道ミサイル発射だけではなく、森友・加計学園の新設に関しての忖度疑惑問題についても何度もし続けていたことについての東京新聞の記者への圧力なのである。

 そもそも記者会見のという場の目的は、以下の通りである。

 記者は「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑」を行い、それに対して政府は確定された事実に基づき適切な応答を行うことによって「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑」を解消し、国民に誤解を生じさせないようにする。

 記者会見というのは、これ以外のナニモノでもない。記者会見というのは「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑をする」場所なのである。今の政府はこれをまったく理解していない。ようするに、この政府は「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑」に対して適切な対応ができないから、こうしたお門違いの理解し難いことを言っているのである。

 同様に理解し難いのが、例によって例の如く産経新聞の産経抄だ。上記の東京新聞の記者に対して今朝の産経抄はこう書いている。

「まるで日本政府が北朝鮮の軍事情報をどこまで把握し、どう対応しているのか、北朝鮮に手の内を明かせと迫っているかのようである。こんな平和ボケを治すには、やはり憲法改正が一番だろう。」

 憲法を改正して報道に規制をかけよと産経は言っている。ようするに、そのために憲法を改正したいのだ。ここに産経及び今の政府のホンネがあると言える。とにかく政府に小うるさく言ってくる連中は不逞の輩であり、徹底的に排除したいのであろう。

 8月29日の弾道ミサイル発射の前夜に安倍首相が首相公邸に宿泊したのは、政府が発射の兆候をつかんでいたというのは十分に考えられることであり、アメリカからの情報があったのであろう。アメリカ軍には全地球上を覆う監視システムがある今日、こんなことは当然である。産経新聞は「ミサイル発射の兆候を、政府がどの時点でどの程度把握していたかを公表することは、日本の情報収集能力を明らかにすることを意味する。」問い書いているが、この程度で「日本の情報収集能力を明らか」になるのならばお笑いである。

 北朝鮮がミサイルを発射した後、国民のそのことを伝えたとしても(北朝鮮と日本のこの距離では)なにどうする時間はない。仮に前日、それを発表したとしても、国民は(この小さな島国の上で)なにをどうすることもできない。Jアラートも意味がない。「前夜になぜ、私たちが知らされなかったのか」という東京新聞の質問の方も質問すべきものだったとは思えない。北朝鮮のミサイルが日本に向かって発射され攻撃目標に命中するのならば、前夜に知らされても、国民はどうすることもできないということなのである。だからこそ、北朝鮮との敵対関係になっている今の外交状況は変えるべきことなのだ。

 その意味において、東京新聞の記者が言う「米韓との対話の中で、金委員長側の要求に応えるよう冷静に対応するように働きかけることをやっているか」という質問はまったくその通りのことだ。これに対して「北朝鮮の委員長に聞かれたらどうか」という菅義偉官房長官の返答や「「金正恩委員長の要求に応えろ」…!? 東京新聞記者が菅義偉官房長官にトンデモ質問」という産経新聞は愚かしいとしか言いようがない。

 菅義偉官房長官は「(北朝鮮が)性善説のような質問ですけども」とも言っているが、今のこの政府には、相手側は性善であるかような交渉をすることによって、こちら側が有利になるようにさせるという(外国では当然のことである)外交交渉ができない。逆に政府は、反体制的なメディアには恫喝し圧力をかける。

 また、産経は加計学園をめぐる疑惑について、東京新聞が(前愛媛県知事の)加戸氏の発言をあまり報道しなかったとして「民主主義破壊するメディア 安易な『報道しない自由』の行使」と批判し、産経及びネトウヨが擁護する今の政府にとって都合の悪いことを質問されると「こんな平和ボケを治すには、やはり憲法改正が一番だろう」と言う。

 かつて共謀罪の法案か可決されたとき、共謀罪に反対する者はやましいことがあるから共謀罪に反対しているのだろうと言われた。であるのならば、同じことを言いたい。政府はやましいことがあるから、東京新聞からの自由な質問をやめさせたいのである。

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August 27, 2017

シャーロッツビルの白人至上主義集会での衝突事件

 アメリカのバージニア州シャーロッツビルで極右集団と反対派との衝突で死傷者が出た事件について考えてみたい。

 もともとアメリカ南部のバージニア州シャーロッツビルでは、南北戦争の南部軍ロバート・E・リー将軍の像の撤去をめぐって、今年の4月からKKKなどの白人史上主義者たちが抗議集会を開き、それに対して抗議をする人々との間で何度も衝突が起きていたという。今月の12日、その衝突がついに死傷者を出す事件になってしまった。

 シャーロッツビルのリー将軍の像というのは、たとえば上野公園にある西郷さんの像のようなものであろうか。

 上野公園にある西郷像は、設置当時その是非をめぐってもめた。しかしながら、西郷の像を建てるということは、西郷自身のことを思って崇め奉るということではなく、西郷を葬った後の明治政府の国内統治にとって意味のあることなのであった。敗軍の将である西郷隆盛の像を建てるということもって、反体制側を「取り込む」という政治的な意味がある。明治政府にとっては、反政府暴動が起きては困ることであり、その政治的偶像であった西郷を反乱者として歴史の闇に葬り去るよりも、維新の功労者として西郷の功績を広く世間にアピールした方が社会の安定をもたらすという計算があったのだろう。

 ただし、政府は西郷の像を建てたが、その姿は陸軍大将の正装ではなく平民が普段着で散歩をしているような姿である。また当然のことながら、靖国神社には薩摩軍側は祭られていない。このへんに明治政府のホンネがあった。

 西南戦争から140年たった今日、かりに西郷さんの像が上野公園から撤去されたとしても、それにより鹿児島県の人たちが薩摩士族至上主義の集会を開くことはないだろう。西南戦争は、歴史の中のひとつの出来事である。

 この「シャーロッツビルで起きた白人至上主義者と反対派の衝突事件を受け、奴隷制度存続を訴えた南北戦争時の南軍兵士像を撤去する動きが米各地で広がる中、米ニューヨークでは、米大陸を“発見”したコロンブスの像も、撤去の議論に上がっている。」「米国ではコロンブスを英雄視する声がある一方、先住民の土地を奪い、虐殺したなどとして歴史的評価が割れている。」という。

 この手の話をしていくときりがなくなる。北米先住民は旧石器時代の後期頃、アジア大陸からやってきた人々である。この時、地続きのベーリング海峡経由でやってきた者たちや太平洋の海の島々や北西部海岸を伝ってきた者たちが、北米大陸でおのおの独自に暮らし、また時には争っていた可能性があることが最近の研究でわかってきている。

 確かに、15世紀頃から北米大陸にやってきたヨーロッパ人が先住民を虐殺していったのは事実であるが、そもそも論で言えば、更新世のほ乳類動物であるマストドンやオオナマケモノやスミロドンなどから見れば、彼らが暮らしていた北米大陸にやってきた人類そのものが「侵略者」であった。

 そう考えてみると、南軍の将軍の像やコロンブスの像を撤去すればそれでいい話ではない。むしろ、歴史物としてそのままそこにあって良いのではないかと思う。むしろこれらの像は、自分たちの国が過去になにをしてきたのかということについて考えさせてくれるシンボルである。(その意味において、韓国の従軍慰安婦像や徴用工の像はあってもよいと思う。だが、それを日本の領事館の前に置くというのは違う話になる。

 置く側はこれで倭奴を反省させると思っているのならば、置かれた側は嫌がらせ以外のなにものでもないと感じるだけであり、その目的にまったく合っていない。実際のところ、今の韓国での従軍慰安婦像を置くことは、そうしたことをまったく考えていない人たちがやっている。)

 ナニナニ人がこの世で一番優れていると心の中で思うことはあってもよいと思う。そう思いながら生きていくことは、その人、個人の価値観である。しかしながら、その価値観を他人に強制することはできない。

 なぜヘイトは許容されないのかというと、ヘイトすることを許容することは自分たちもまたヘイトをされる側になることを許容することになるからである。アメリカの白人至上主義者や日本の在日朝鮮差別者は、自分たちが差別される側になることはないと思っているからやっているのである。人は人種や民族を選んで生まれてきたわけではない。人種や民族に対してのヘイトは意味を持たない。殺人をやっていいという自由はないように、ヘイトには表現の自由はない。誰もがヘイトをすることをしてはならないし、誰もがヘイトされることがあってはならない。その社会の大多数を構成する人々の価値観と異なる価値観を他者に強要すると社会から拒絶される。

 いや、白人至上主義者にせよ在日朝鮮差別者にせよ、自分たち白人や日本人が差別されている。非白人や非日本人は優遇され、特権が認められている。自分たち白人や日本人は差別されているではないかということが仮に事実であったとしても(在日特権というものは存在していない)、だからヘイトをするというのはおかしな話である。差別をされているというのであるのならば、差別をなくそうとすることが必要なのであり、差別に差別で対抗しても差別の解決にはならない。

 この出来事に対して、為政者が行うべきことはただのひとつである。ヘイトは認められないということだ。このことを毅然と明確に述べなくてはならない。「白人至上主義者は出て行け」と述べたバージニア州のテリー・マコーリフ州知事のスピーチは、社会の分断という危機に対する危機管理として見事であり、為政者として正しい姿であった。

 ところが、トランプ大統領はヘイトをあたかも容認したかのような発言をしている。もちろん、「ヘイトを容認する」と言ったわけではないが、きちんとヘイトを否定する発言をしないということは、聞く側は容認されたと感じるであろう。トランプは、自分の発言にはそうした意図はなく、そういうふうに解釈するマスコミが悪いとしているが、どう見てもトランプの発言により、これまでは社会的に存在が許されなかったヘイトという行為、その行為を行うネオナチやKKK、白人至上主義者などを許容する雰囲気が広がってしまっている。

 さらに、25日、トランプ大統領は「不法移民に対する人種差別的な取り締まりで有罪宣告を受けた西部アリゾナ州の元保安官ジョー・アルパイオ被告(85)に恩赦を与えた。」という。もはやトランプのホンネは白人至上主義であり、ヘイトを容認することであると言えるだろう。合衆国大統領が、である。

 トランプが大統領に就任した時から、こうしたことになるのはわかっていたことであり、現実にそうなった。

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August 20, 2017

森友・加計学園、北朝鮮

 いわゆる、森友・加計学園の新設に関しての忖度疑惑について、北朝鮮の情勢が緊迫しているのに、こんな些細なことで大騒ぎすべきではない、というような声が産経やネトウヨ一派から聞こえている。

 しかしながら、これは大きな問題なのである。

 森友・加計学園についての出来事を問題視しているのは、安倍晋三さんを糾弾したり、安倍政権の退陣を要求しているのではない。いわゆる反安倍だからなのではない。

 つまるところ、有力政治家の知り合いであれば、役人が忖度をして法規制の運用を融通してくれる。しかも、そのことについての記録や書類は全く残さない、証言台に立っても記憶はない、覚えていない、問題はないと言う。

 森友・加計学園問題を「こんな些細なこと」と言っている人たちは、社会常識も節度もモラルも倫理も遵法意識もない。物事を正しくきちんとやろうという意識も意思もない。あるべき政治の姿を追求しよう模索していこうという理念はなく、間違ったことでも容認するという人々である。

 なぜ、行政の意思決定の公文書がきちんと残っていなくてよいのであろうか。森友・加計学園についての出来事が問題なのは反安倍だからではなく、日本国国家の存立に関わることだからなのである。これを左翼メディアによる反安倍運動かのようにしか考えることができないということが、すでに一般的な社会常識や社会通念が欠落しているのである。

 こうした人々が、国民感情で大統領を罷免し、国家間の合意で決定されたことを蒸し返す韓国は法治国家ではないと言っているのはおかしな話だ。森友・加計学園問題を「こんな些細なこと」とするのは、自分たちの国・日本は法治国家でなくていいと言っているのである。

 それでは、彼らが重大事と称する北朝鮮についてはどうであろうか。これについてもまたお話にならないレベルなのだ。

 本当にアメリカと戦争をするつもりであるのならば、事前にどこどこにミサイルを撃つぞ、撃つぞと言って戦争を始めるわけがなく、常識で考えても実際に撃つわけではないことがわかる。かつて、この国がアメリカのハワイ真珠湾を奇襲攻撃した時、徹底的に情報を管理して行った。その国が今や北朝鮮の虚言に右往左往しているのを見ると、戦前にはあった一般的な軍事常識がなくなってしまったのであろう。

 事前にどこどこを攻めると言うなどということは、一目見ただけでたんなる脅し、ブラフ(はったり)である。

 しかるに、ミサイルが上空を通過すると指定があったということで、島根、広島、高知や愛媛の地対空誘導弾パトリオットを配置するというのは、政府の「国防をやっています」を見せるためであり、防衛省が地上配備型イージスの導入や対ステルス機レーダー試作に196億円の予算を要求するというのは、この機会に乗じての予算獲得でしかない。

 北朝鮮がどうこうするから憲法改正が必要だと言っている人は、本気で北朝鮮がどうこうすると思っているのならばただの無知蒙昧であり、あるいは、北朝鮮がどうこうするという状況を演出して、憲法を改正したいという政治的な魂胆があると思って良い。

 産経新聞によると、「小野寺五典防衛相が国会で、北朝鮮が米軍基地のあるグアム島を弾道ミサイルで攻撃した場合、集団的自衛権の行使が許される「存立危機事態」に該当する可能性があるとの見解を示した。グアム攻撃によって米軍の打撃力が損なわれれば、日本防衛にも支障がでるとの判断からだ。国民を守り抜くうえで極めて妥当な認識である。安全保障関連法は、国民の生命、自由などが「根底から覆される明白な危険がある事態」を、存立危機事態と位置づけている。」という。

 具体的に日本がなにをどうするのか。そういったことはまったく決められていない。ただ単に、産経やネトウヨ一派が喜ぶ雰囲気だけが生まれている。

 この雰囲気で、日本がアメリカの戦争に巻き込まれていく。これが新安保でもっとも危惧されたことであり、今回はそうならないようであるが、この先において危惧されたとおりのままで自体は進展していくことが、これでよくわかるのであろう。

 北朝鮮がどうこうよりも、この方がもっと問題なのである。


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July 22, 2017

福島原発事故はなかったことにしたい

 20日、国の原子力委員会は、原発は運転コストが低い電源であり、地球温暖化や国民生活への影響を踏まえ今後も利用を進めるなどとした原子力政策の新たな指針を取りまとめたという。

 政府は21日、この原子力委員会がまとめた原子力政策の長期的な方針を示す「原子力利用の基本的考え方」を閣議決定したという。原子力委員会が長期方針をまとめるのは、2005年の原子力政策大綱以来となり。3.11の福島原発事故後では初めてとのことだ。

 3.11の福島原発事故後、始めてのまとめで、この内容である。

 このブログで何度も述べているが、核廃棄物の処分も含めた全体のコストで考えれば決して「コストが低い」とは言えないことや、地球温暖化への影響が少ないかのようなわけがわからないことを言い、現状では事故が起きた時の国民生活への影響など言うまでもないことを、さも安全であるかのように喧伝し、どうしても原発を推進し続けていきたいようだ。

 しかしながら、国民は福島原発事故を忘れていない。原発は低コストだというウソは、もう通用しない世の中になっている。

 ちなみに、原発は排出するCO2が少ない、だから地球温暖化への影響が少ないかのような声があるが、地球温暖化の主な要因であるCO2の排出は、電力発電をなにで行うかだけの話ではない。火力発電を一切やめれば地球温暖化が防げるわけでもなく、さらに言えば、日本国の産業全体が、仮にCO2を排出しなくても、それで解決するというわけではない。電力発電を原子力で行えば、地球温暖化への対策になるかのような発言はお笑いものである。

 原発はコストが高く、事故が起きた際の社会的な対策が不十分である。原発の廃炉処分や核廃棄物の処分など、まだまだ工学的に未解決の問題、未開発の技術が多い、というのが現状の姿である。

 それでも原発を推進したいとする理由はなんであろうか。それは短期的に見れば、確かに原発は発電のコストが低い、ただそれだけの理由である。電気料金を安くしたいということだ。

 経団連の「夏季フォーラム」で、「東日本大震災以降、多くの原発が稼働を停止し、電力料金が高止まりして国際競争力を失っているとの認識で一致。政府の次期エネルギー基本計画策定の議論本格化に向け、安全が確認された原発の再稼働と同時に、「原発の増設、新設を経団連の方針として明確にすべきだ」との意見が出た」という。

 そして、「電気料金が安くできる」ということを錦の御旗に立てて、原子力に関わる国と企業の体制全体、いわゆる原子力ムラの利益を維持していくということである。

 原子力委員会の「原子力利用の基本的考え方」は、5年後をめどに改定するという。このへんがよくわからない。なぜ5年後に見直すのだろうか。何度見直そうとも、原発はコストがかかるという事実は変わらないではないか。その事実を公式に認めるには、5年かかるということなのであろうか。

 国は「原子力利用の基本的考え方」ではなく、その前に「福島原発事故からなにを学んだのか」をまとめるべきではないのだろうか。このままでは、福島原発事故からなにも学んでいないということになる。国と財界は、福島原発事故はなかったということにしたいのであろう

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July 17, 2017

日韓中の民主化

 中国の民主化を訴えて投獄されたまま、ノーベル平和賞を受賞した人権活動家で作家の劉暁波氏が13日、入院先の病院で死去したという。

 今、目の前にアジアの三つの国、日本、中国、韓国があるとして、ここで、少しそのおのおのの国の民主化ということについて考えてみたい。

 まず日本について言えば、政府が共謀罪を成立させたことについて、国民の多くは無関心であったということである。

 完全なる主権在民という思想なり制度なりといったものが、この国に成立したのは戦後のGHQの占領政策からである。時間にして約半世紀程度のものでしかない。それ以前の大日本帝国の時代は、国民国家といえども民主主義という点では不完全な国民国家であった。明治の自由民権運動は、国家主権にいわば吸収されてしまったようなものであるし、いわゆる大正デモクラシーは制限つきの民主主義であった。さらに、それ以前の江戸時代までの時代については言うまでもないであろう。

 ようするに、この国では民主主義というものは、ある日、ある時、GHQという天から降ってきた思想であり制度であった。従って、この国では、すぐ国家主義に戻る傾向がある。統治する側が優れた為政者、有能な統治者であり、安全と繁栄をもたらしてくれるのならば、ある程度の個人の自由が束縛されるものであっても人々は統治する側に従うという歴史的な文化がある。

 大多数の人々が共謀罪に関心を持たなかった理由は、自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはないと思っているからであろう。

 これが近代西欧の人々であれば、次のように判断する。「自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはないと思っている」ということと、個人の自由が制限されるということは別の話であり、「自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはない」と思っていようが、いまいが、人間の自由が制限されることには一切反対すると判断するであろう。

 これはつまり、信仰の自由、個人の思想・宗教の自由のことであり、社会に信仰の自由、個人の思想・宗教の自由がなかった状態から、自分たちの手で血みどろの革命を経て、そうしたことが可能な社会にしたという歴史が背後にある。近代西欧の人々からすれば、自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはない、だから、個人の自由を制限する法律の制定に無関心になるというのは、国家権力の本質を知らない、幼稚な思考であると思うであろう。

 ようするに、この国では、何度も強調するが、すぐ国家主義に戻る傾向があるのである。それをよく理解していた戦後の日本の知識人たちは、GHQの占領政策によって与えられた三つの基本原則、主権在民、基本的人権の尊重、戦争放棄を過剰なまでに保持し、守り続けてきた。

 戦後の日本の学校教育の目的のひとつは、これらGHQから与えられた三大原則を国民に教育するということだけではなく、なぜ、これらを過剰なまでに保持し、守り続けなくてはならないのかを教えるということであったのだが、その目的を果たしてきたとは言い難い。

 現在、日本国憲法改正を主張する人々は、戦争放棄の第九条の改正だけではなく、主権在民、基本的人権の尊重も国家主義に大きく傾けようとしている。社会そのものが高度に管理されたシステム社会になっている現在、国家主義の復活は容易に可能である。しかしながら、その一方で資本主義は個人や集団の創発的な活動によって発展していくものである。このため、日本は国家による管理社会でありながら、自由主義経済を維持し続けようとする社会になっている。

 韓国はどうであろうか。朝鮮には、士大夫という階層があった。士大夫はもともと中国の文化であったが、朝鮮において明確に確立されたと言えるだろう。彼らは儒者であり読書人であり、科挙制度を通して朝廷で働いたり、在野に身を置きながら世論形成に関わる人々である。彼らは、朱子学を思考と行動の原理原則とする。国権に朱子学の原理原則に反するものがあれば、彼らは国権を糾弾する批判勢力になる。

 この文化は今の韓国にも受け継がれており、軍事政権時代の民主化要求勢力として、また軍事政権ではなくなった第六共和制の今日であっても政府に対する批判勢力になっている。その意味では、韓国の人々には、GHQから民主主義を与えられた日本とは異なり、日韓併合による日本の植民地支配、その後の軍事政権から自分たちの手で民主主義を勝ち取ったという意識がある。軍事政権が調印した日韓基本条約を認めず、日本から植民地支配への謝罪が今だ行われていないとしているのも彼らである。韓国の政治において、この「現代の士大夫」勢力の存在を無視することはできない。

 それでは、中国はどうであろうか。今の中国において民主化をどう考えるかということは難しい。なぜならば、単純に、それが必要なものとして考えることができないからである。

 近代西欧思想からすれば、中国は民主主義も基本的人権もない国であるが、イアン・ブレマーが述べているように、現在の中国は国家資本主義であり、国家資本主義のもとで、人々の社会が営まれている以上、他国はそれを否定することはできない。アメリカのリベラリズムが、ベトナム戦争や中東紛争から学んだことは、民主主義を最善の政治体制として他国に強制することはできないということである。民主制のある、なしで中国を評価することはできない。むしろ考えるべきことは、一党による独裁政治の国家資本主義の国でありながら、なおかつ、基本的人権と個人の思想・表現の自由がある社会になれないのだろうかということである。

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June 04, 2017

アメリカのパリ協定離脱

 トランプ大統領は1日午後、地球温暖化対策の国際な枠組みである「パリ協定」から離脱すると発表したという。

 以前、2006年頃から、温暖化はないとか、温暖化はウソだとかいう声が数多く聴かれるようになった。いわゆる、温暖化懐疑論・否定論である。最近、そうしたものをほとんど目にしなくなったように思う。あれは一体なんであったのであろうか。

 人類が文明を構築し始めてから現在に至るまで、地球環境の及ぼした影響は膨大なものであり、特にヨーロッパで発生し、後に全人類規模に拡大した産業革命以降、人類の活動により二酸化炭素(CO2)等の温室効果ガスが大気中に増加し続けてきたことは疑う余地のない自明のことである。ようするに地球温暖化懐疑論・否定論の人々は、この人類の文明史の営みを否定するものであり、非科学的であることを通り越して、ただのバカなのであろう。

 よくある温暖化懐疑論・否定論の中に、現在、地球は温暖化しているのではなく寒冷化しているのであるという声がある。なにをもって、またどのような地域とタイムスパンの現象に基づいてそういっているのかを調べると、寒冷化しているとしても局地的な現象であり、全地球的規模で温暖化しているという地球温暖化に対する反論になっていない。ここで基礎的なことを言えば、地球全体が温暖化することにより、ある地域では寒冷化することはある。重要なのは、気候がこれまでとは違う姿になるということであり、地球温暖化と気候変動あるいは異常気象は深く関連している。

 にもかかわらず、当時は「こんなに寒くなっているのだから温暖化などあり得ない」とかった程度のレベル低い話が多かった。たとえ全地球的規模で寒冷化がこれから起こるのであるとしても、1万年のオーダーで言うのならばその可能性はあるかもしれないが、地球温暖化は現在ことをいっているのであり、1万年後の先の話をしているのではない。地球温暖化への懐疑論はもはや成り立たないのである。

 そうこうしているうちに、いつの間にか、地球温暖化は当然のことであるかような世の中になったようだ。あの産経新聞ですら3日の「主張」で冒頭に「米国が地球環境問題で示す2度目の不誠実である。身勝手に過ぎる振る舞いだ。」と書いている。あのいつも対米従属の産経が、だ。

 今日では、地球温暖化は社会的に確定した事実であるといってもいい。であるのならば、この合衆国大統領はなぜパリ協定からの離脱を述べているのか。トランプは、温室効果ガス排出量削減による経済活動の制約や途上国への温暖化対策の支援、さらには中国の温室効果ガスの排出増やインドの石炭生産増加は認められている(べつに「パリ協定」はこれらを認めているわけではない)ことへの不公平感を述べている。ここに一貫として見られるものは、「パリ協定」に従うことで、自分たちは不利益を強いられているという考え方である。

 「パリ協定」の目標は、今世紀末までに人類の活動による温室効果ガス排出量を実質ゼロにすることである。これが可能であるのだろうかというと、かなり難しい目標であると言わざるを得ないが、それでもとにかくこれを目標として掲げている。

 この目標を支える倫理的な基盤として、温室効果ガスを多く排出しているのは、人類社会の一部の国々であるのに、異常気象による被害を被るのは温室効果ガスを多く排出している国々だけではなく人類社会全体であるということへの憤りのような心情がある。気候変動で最も深刻な被害を受けるのは、海面上昇により国土がやがて水没してしまう小島嶼の国々や、干ばつにより深刻な食糧不足になるアフリカの国々なのである。こうした人々の生存権や人権を奪ってまで、先進国は温室効果ガスを排出し続ける権利はない。逆から言えば、地球温暖化は、それほど事態が深刻になってきたということなのだ。この倫理は「気候正義」(Climate Justice)と呼ばれている。

 21世紀になり、ようやく人類は、環境問題において国ではなく、人類というひとつの集合体で繁栄や生存を考えるようになってきた。日本ではそうではないが、欧米ではこの倫理はかなり浸透している。

 もう一つは、大量の温室効果ガスを排出しなくても経済成長を可能にする、低コストで安定性のあるクリーンエネルギーの技術が実用化され始めてきたということが挙げられる。テクノロジーの進歩が「脱炭素」(decarbonization)を可能にすることができるようなったということである。石油や核廃棄物を生み出す原子力に変わる、新しいエネルギーの研究開発に各国の政府や民間企業が関心を持つようになってきている(なぜならば、「脱炭素」のテクノロジーは石油や原子力に変わる新しい利権になるからである)。

 これからのエネルギー政策を考えると、いやでも「脱炭素」を無視することはできない。どちらが儲かるのかという話になった場合、「脱炭素」の方が儲かるということになれば産業界は雪崩のように「脱炭素」に舵をきるのであろう。

 実際のところ、今回、トランプが「パリ協定」から離脱するといったところで、なにがどう変わるわけではない。発効から3年間は離脱通告ができないなどの規定があるため、アメリカが実際に離脱できるのは、トランプの大統領任期終盤の2020年11月頃になるとのことである。次期大統領選挙では、トランプが決定したアメリカの「パリ協定」の離脱の是非は争点のひとつになるであろう。

 もちろん、だからと言って楽観視することはできない。つい最近まで、温暖化はないとか、温暖化はウソだとかいうことを言っている人々はいたのだ。今、そうした声を聴かなくなったのは、(何度も繰り替えすが)地球温暖化は社会的に確定した事実になったからであり、温暖化懐疑論・否定論者たちが科学をきちんと理解できるようになったからではない。デマゴーグに扇動される者たちはいつの時代にも存在する。その意味では、地球温暖化への対策とともに、アメリカの大統領がこういうことを言う世の中であるということが危機的なことなのである。

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May 20, 2017

共謀罪が採決された

 昨日の19日、共謀罪の採決が衆院法務委員会で強行されたという。

 国が衰退していく時、時の政府は、どうでもいいことや、やらなくていいことをやり、本当にやるべきこと、やらなくてはならないことはやらない。

 「共謀罪」が一般国民を捜査対象とするのか、しないのか、が問題なのではない。なにをもって「一般国民」とするのか、しないのかが明確になっていないのが問題なのである。

 これは「組織的犯罪集団」を取り締まるという法律ではなく、なにが「組織的犯罪集団」になるのかは明確にせず取り締まるという法律である。なにが「組織的犯罪集団」になるのかは、取り締まる側の解釈で決まる。だからこれほど揉めている。

 本来、なにが「組織的犯罪集団」になるのかは法律で決まる。公に公開されている法律で決まるから、取り締まる側も取り締まられる側も法を元に犯罪の有無を決定されるのである。ところが「共謀罪」では、なにが犯罪になるのか明確になっていない、取り締まる側の判断でどうにでもなるという法律である。

 こういう法律がなぜ成立されようとしているのか、さっぱりわからない。さらにわからないのが、なぜ大多数の人々は、自分たちは「共謀罪」と関係ないと思えるのだろうかということである。カードやスマホの使用記録やネットの書き込み、監視カメラのデータなど、現代の社会では我々は様々なところで記録されている。そうした個人データと、いわゆる「組織的犯罪集団」の可能性とが結びつく可能性は極めて高い。少なくとも、絶対にないとは言えない状況になっている。自分個人がなにをどう思っていようと、「一般国民」とは見なされないことが、もしかしたらあるかもしれないという懸念を持つという一般常識がないのであろうか。

 また「共謀罪」について、日本国内での外国人のテロ対策がどうこうと言っているが、日本の公安はイスラム過激派について、例えば言語ひとつをとってみてもアラビア語やベンガル語などでテロ犯罪の計画を分析・調査する能力がない。国際的な情報収集機能を持っていない。あくまでも、日本人テロリスト集団に対して捜査能力を持っている組織である。もし国際的なテロリストへの対応を本気でしようとするのならば、それ相応の根本的な組織変革が必要なのであるが、それまでやる気がないらしい。であるのあらば、なぜ「共謀罪」が成立すればテロ対策は万全であるのかのような雰囲気になるのであろうか。

 これは、新安保条約とよく似ている。自衛隊の装備や組織の根本的な改革をしなくては、とてもではないが外国と戦う軍隊にならないのであるが、そういうことはせず集団的自衛権があればそれでいいみたいなことになった。「共謀罪」も同じであり、「共謀罪」が成立すればテロ対策ができるというわけではない。ところが、新安保は中国・北朝鮮の脅威への対策のためである、「共謀罪」はテロ対策のためであるという根本的に間違った認識がまかり通っている。「共謀罪」はテロ対策のためのものであるかのような話は、今になってとってつけた話であり、テロ対策にもなんにもならない。今、本当にやらなくてはならないことは、他に山のようにある。こんな法律を作っている場合ではないのだ。

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