October 15, 2017

1950年にできた枠組み

 安倍自民党は憲法に自衛隊を明記する改憲案を提示し、憲法を改正してこれを2020年に施行させようとしている。

 今、憲法第9条を改正せよという声が多い。憲法第9条には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とあるのに、なぜ自衛隊があるのかという問いがある。国が防衛力を持つのは当然であり、当然のこととして自衛隊はある、であるのになぜ自衛隊は違憲になるのか。憲法に軍隊を持たないとあるのはおかしいではないかという声は多い。

 回答は簡単だ。GHQが軍備を持てと言ったから持った。そうとしか言いようがない。なぜ自衛隊があるのかと言えば、70年前にマッカーサーと吉田茂がそうしたからとしか言いようがない。再軍備はできないという憲法がありながら戦力を持たせたのはアメリカであり、その指示に従ったのは日本政府である。

 なぜ憲法に戦力を持たないとあるのに、自衛隊は存在しているのであろうか。1950年に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発し、アメリカは日本に駐留させていた部隊を出動させることになった。だがそうすると。日本の防衛兵力が存在しなくなる。そこでその代わりとしての武装組織を発足させるととした(露骨に言うと、これは日本国及び日本国民のための防衛ではない。なんのための防衛兵力かと言えば、進駐軍つまりGHQのための防衛兵力である)。日本国憲法は1947年(昭和22年)に施行されているので、これは当然、憲法第9条に触れることではあったが、憲法以上の存在であった占領軍の指示である。事実上、警察予備隊の創設は日本の再軍備であったが、時の総理大臣吉田茂はこれを再軍備とはいわず「警察予備隊」と言い続けた。

 しかしながら、警察予備隊ができたのは占領時代の話だ。これがGHQを守る兵力であるのならば、占領が終わり、日本が独立国になった後は、憲法違反の警察予備隊を廃止していいはずだ。あるいは、戦力を持たないという憲法はおかしいとするのであるのならば、GHQから「押しつけられた」憲法を即刻改憲すべきであった。

 ところが、そうはならなかったということに日本の戦後史のある側面がある。占領が終わり主権回復をした1951年(昭和26年)以後、今日に至るまで日本国憲法はなにひとつ変わることはなくそのままであり、警察予備隊は保安隊になり自衛隊へと拡張していった。

 なぜそうなったのであろうか。

 ここで大きく言えば米ソ冷戦というもの、具体的には朝鮮戦争というものが現れる。おおざっぱに言ってしまうと、今、私たちが置かれている状況とは、1950年に起きた朝鮮戦争への協力体制がその後もずっと続いてきたという状況なのである。日本の戦後史でいう「逆コース」のことなのであるが、この時代のことについて、先日もここで紹介した矢部宏治さんの『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)にわかりやすく書かれており、しかもこれまで知らなかったことが数多く書かれていた。

 この本の中の4コマ漫画を講談社のウェブページで見ることができる。これを見るだけでも、これまで私たちが知らなかった日米安保の事実がわかる。ようするに、こういうことだったのだ。

 もともと、なぜ日本国憲法の第9条で日本は戦力を保持しないとしたのかと言えば、当時、マッカーサーが構想していた日本の防衛とは、国連及び(実質的にはアメリカ軍を主力とする)国連軍が日本を防衛するというものであった。

 第9条はこれ単独ではなく、日米安保やそれに関連する協定や密約などと一緒に考えなくてはならない。なぜ第9条で戦力の保持を放棄しているのかと言えば、日本にはアメリカ軍がいるから戦力を保持しないのであり、ではなぜ自衛隊が存在しているのかと言えば、有事の際にアメリカ軍の指揮の下で日本の防衛を行うための日本側の実行組織として自衛隊がある。このことをまず第9条の認識の基本にしなくてはならない。すべてはこの理解から始まる。この理解がないため9条論議は常に混乱するのである。

 日本にはアメリカ軍がいるから戦力を保持しないというのは、日本国内にアメリカ軍がいることを認めるということだ。ここで重要なことは、日本国内にいるアメリカ軍とは、日本の防衛のためにだけ存在する兵力ではないということだ。日本政府は、日本国内にいるアメリカ軍は、日本の防衛のためにだけ存在する兵力とするという取り決めをしていない。

 つまり、日本国内にいるアメリカ軍はアメリカ国内のアメリカ軍とまったく同じであり、在日米軍基地及び基地外部でなにをしようとも、また基地からどの国へ兵力を送ろうとも日本国はまったく関与しない(というか関与できない)というものである。日米安保条約では、アメリカは日本の最終的な防衛義務は負っていないことはあまり知られていない。というか、ほとんどの人々はそのことをを知らない。アメリカは日本を守ってくれると無邪気に信じている。

 こうした日米関係を基盤として第9条は成立している。つまり第9条とは、いわば日本を軍事的には半植民地的状態にするものであったのだ(GHQが作ったのだから、当然と言えば当然なのであるが)。

 これに対して日本政府は、わずかばかりの抵抗をし続けてきた。自衛隊の活動が日本国内に留められていれば、有事には自衛隊はアメリカ軍の指揮下に入るといっても日本国内の専守防衛だけにすることができる。だからこそ戦後日本の歴代政権は自衛隊の海外活動に難色を占めてきた。ところが、安倍政権による新安保法制の成立はこのストッパーを外してしまい、海外での自衛隊の活動を法的に可能にした。自衛隊はアメリカ軍に従って海外派兵をすることができるということになってしまった。

 さらに安倍自民党は自衛隊を合憲にしようとしている。この状態で自衛隊は合憲、海外派兵はすでに合憲、しかしながら、指揮権はアメリカ軍にあることは変えないということは、日米関係がより強固なものになるのではなく、日本の対米従属がより強固なものになるというのが正しい。

 日本が戦力を持たないのはおかしいとするのは極めて当然の考えだ。ではなぜ自衛隊はアメリカ軍指揮下になる現状を変えようとはしないのであろうか、なぜ、正しい本来の姿の軍隊を持とうとしないのだろうか。ただうわべ的な部分だけを変えても、なにも変わらない。

 現状の自衛隊は在日米軍の支援組織、補助組織として作られた組織であり、主権国家としての日本国の軍隊としての役割を完全に実行することができない。これをあるべき正しい日本国の軍隊にするにはやるべきことは数多くある。ところが、安倍自民党においても、憲法に自衛隊を明記するという話だけで、実質上、専守防衛といういびつで、かつミニアメリカ軍のような「ぐんたい」である自衛隊の内容を日本国のまっとうで正しい軍隊にするという話はまったく出ていない。

自衛隊を正しい日本の軍隊にするには、当然それなりの莫大な費用がかかる。その費用はどこからか持ってもなくてはならないということになる。第9条を変えるといっている政党で、そうしたことを言っている政党はひとつもない。いざとなったらアメリカ軍頼みのメンタリティーは、今日においても変わることなく続いているのである。

 戦後日本の安全保障が「こういう姿になってしまった」ことの背景には、第二次世界大戦以後の世界は米ソの冷戦になったということ、アジアで朝鮮戦争とベトナム戦争が起きたということ、国連が世界政府として機能しなかったということ、そしてなによりも敗戦国として世界覇権国である超大国アメリカの意向を否応なく受けざるを得なかったということなどがある。マッカーサーが想定した世界政府としての国連と強力な国連軍の存在を前提とした日本国憲法第9条は、そうなることはなかった戦後の現代史と日米関係の中で大きく歪んだものになってしまった。

 この歪みの出発点になったのは朝鮮戦争である。この1950年6月に起きた出来事によって成立したある歴史的な枠組みがあり、我々はその枠組みの中に2017年の今日においてもあり続けている。そして、今の状況を考えるとこの先も続くものと思わざるを得ない。

 私は9月30日にここで「結局、希望の党が出現しても、国民の暮らし、生命、財産、基本的人権というものは置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。」と書いたが、これは枝野さんの立憲民主党の出現があった今でも変わっていない。

 今回の選挙は自民、公明、希望、維新が圧勝し、選挙後のこの国の政治には巨大な保守連合とも言うべきものができる可能性は高い。結局、立憲民主党が出現しても国民の暮らし、生命、財産、基本的人権、さらに言えば国家主権と平和の理念が置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。この国の政治は軍事において、事実上、野党は消滅したのである。これを矢部さんは最近のコラムの中で「「朝鮮戦争レジーム」の最終形態である「100パーセントの軍事従属体制」に他ならない」と述べている。

 今後、安倍自民党たちが悲願とする憲法改正はできず、第9条はこのままであったとしても、矢部さんがコラムで書いているように、在日米軍と自衛隊の一体化はさらに進展していくだろう。また核兵器の保持が、現実をもって論じられるようになるだろう。その時、核兵器の配備場所として沖縄が挙げられるようになることは十分ありうる。中国と北朝鮮の脅威に対抗するために、在日米軍と自衛隊の一体化を進め、沖縄に核兵器を公式に配備することが、この国の安全保障で必要なのであるというが声が強く聞こえるようになるだろう。

 我々はこの枠組みの中から、いつ抜け出すことができるのだろう。

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October 07, 2017

立憲民主党の設立

 かつて大前研一さんは、去年の11月に『PRESIDENT』誌上で「さらば民進党」もはや愛想が尽きた」というタイトルのコラムでこう書いている。

「今度ばかりはほとほと愛想が尽きた。民進党のことである。参院選、都知事選から党代表選に至る迷走ぶりは、完全に分裂・消滅のプロセスに足を踏み入れたと思わざるをえない。」

「民主主義の根本であるところのマジョリティに拠って立つ、ということで民主党は自民党との対立軸を明確にしてきた。たとえば医療問題では医師会重視の自民党に対して民主党は患者側に重きを置く。年金問題では年金機構ではなく年金受給者に重きを置くし、教育改革では教師や学校側ではなく、生徒や保護者に重きを置く。受益者側に重きを置くことで、予算配分もドラマチックに変わってくる。」

「日本の景気をおかしくしている。日本経済の再生に本当に必要なのは、アベノミクスのようなまがいものの経済政策、人工的な成長戦略ではない。ひたすらサイレントマジョリティの将来不安というものを取り除くことだ。その意味では、民進党は「サイレントマジョリティのための国づくり」という原点にいま一度立ち返るべきなのだ。」

「私は今回の党代表選を機に、民進党に対する一切の助言、助力を打ち切ることを決めた。未練もない。」

 あの大前さんが、もはや救い難いと見切りをつけたのが民進党である。大前さんが言っている党代表選とは、ひとつ前の連坊代表の時のことだ。その後もこの政党は原点に変えることはまったくなかった。7月の参議院選挙では民進党、共産党、社民党、生活の党の野党4党が共闘したが成果は思ったほどは出ず、民進党は議席を大幅に減らした。続く都知事選では、民進党は惨敗した。そして理解し難いのが、党代表選で知名度抜群があるということだけで蓮舫を担ぎ上げたということだ。

 なぜこうした時に連坊が政党の代表になり得るのかさっぱりわからない。幹事長には野田佳彦前首相を置くなど、この人たちはいまなにをすべきなのかまったくわかっていない人々であった。連坊代表の二重国籍の是非がどうこうというよりも、言っている内容が言い訳がましく二転三転する姿はもはや政党の代表の器ではないことは明白であった。結局、連坊は代表の座を退くことになる。

 さらに理解し難いのが、次に前原誠司を代表にしたということだ。これでこの政党は終わるなと思ったいたら、案の定、終わった。この政党は、終わるべくして終わった。野党連合がどうこうというよりも、大前さんが言うようにサイレントマジョリティの将来不安を取り除くことをきちんと明確に言えば、それだけで数多くの有権者が支持をするのである。なぜ、そうした当たり前のことすらできなかったのであろうか。国民の一般大多数が不安を感じているこの先のこの国の行方を払拭してくれることをきちんと言ってくれれば、それでいいのである。ただそれだけのことなのに、なぜできないのだろうか。

 なぜできないのかといえば、そうした原理原則、哲学、理念ともいうべき大きな枠組みや方向性、ミッション、ビジョンを構想することができないからであり、目先の利害、損得勘定しかできないからだ。もちろん、目先の利害、損得勘定は必要なことであり、これがなくては現実は成り立たない。しかしながら、原理原則、哲学、理念ともいうべきものがなければ、実は目先の利害、損得勘定で大きく不利益になるのである。だからこそ、目先の利害、損得勘定をより確実なものにするために、もっと土台、基盤からの原理原則、哲学、理念ともいうべき大きな枠組みやビジョンが必要なのである。

 2日、枝野さんが立憲民主党という新しい政治政党をつくった。この政党は期待できるのだろうか。また民主党みたいなものになるんじゃないだろうなと思いながらネットに挙がっている枝野さんの演説を見てみた。誠実に、国民の一般大多数が不安を感じているこの先のこの国の行方を払拭することが政治家の基本であり原理原則であることを体現している演説であった。思えば昔は、こういう語りをする政治家が数多くいたように思う。

 安倍晋三さんは相変わらず、北朝鮮がどうこうとか「いま、求められているのは国際社会と連携していく外交の力です」とかわけがわからないことを言っている。6日の毎日新聞のコラム「経済観測」に経営共創基盤CEOの冨山和彦さんが興味深いことを書いていた。

「希望の党と民進党の合流が報じられ、総選挙はがぜん盛り上がってきた。ただ、そこでの政策論争、取り分け経済政策を巡って以前から気になっている風潮が一つ。それはあたかも経済の行方が政府の政策次第のような前提で議論されがちなことだ。

 実際、財政出動やら金融政策やらマクロ経済政策の力で持続的成長を実現できるかのようなことを、経済評論家や政治家が分かったような顔をして語る。しかし、この手の政策が景気刺激策としてはともかく、日本経済が長年にわたり直面している根本問題、すなわち経済の芯を強くし、イノベーションを促して持続的な成長力を押し上げる力を持っているとは思えない。」

「日本は自由主義経済の国だ。そこで経済の行方を決めるのは、圧倒的に民間の市場参加者の自由な経済活動である。民間企業、そして個々人がいかに生産し、投資し、消費し、イノベーションを起こしていくかで99%が決まる。政府の役割は、自由な経済活動がフェアに透明にオープンに行われるような環境整備を行うこと。そして市場参加者として活動する前提となる教育投資やさまざまなインフラ整備を行うことに尽きる。」

 これはまさにその通りで、政府の経済政策で実際の日本経済そのものが良くなるということはない。枝野さんの演説に対して、具体的な政策は、とか、じゃあ、どうするんだよ、みたいな書き込みが多く見かける。しかし、今言うべきことは、経済政策がどうこうとか外交がどうこうということではなく、この国はこれからどうするのかという大きなビジョンや理念、方向性を出すものであり、具体的なことは、その現場、現場で実務者がやっていくのである。また、具体的な政策や対案がないとよく言われるが、実際には民主党時代から数多くの政策や対案は出してきている。対案がないとか言っている者たちは、それを知らないだけである。

 国が経済の個別の現場に介入してきてロクなことはない。安倍自民の理解し難い点のひとつは、アベノミクスだとか「働き方改革」だとか「まち・ひと・しごと創生」とか「若者・女性活躍推進」とか、とにかく民間がやることに必要以上に介入してくることである。政府がやるべきことは、企業や人々が自由に活動できるようにすることであり、国民の生活、生命、財産、権利を守るということだけでいいのだ。経済でなにをどうするということを政府にどうこう言われるものではない。それは企業や個人がやっていくことなのである。

もちろん企業の活動には、規則なり制限なりは必要だ。戦争中の統制経済、戦時体制がそのまま戦後半世紀以上たっても続き、今や政官財は癒着し、さらにそこにメディアと学界が加わって利権集団になっているのが今のこの国だ。それで経済がうまく回っていったのは20世紀末ぐらいまでで、それ以後の20年間以上にわたって停滞し、この先は衰退していくしかないという状態にある。

 本来、政治家に必要なことは、個別の政策がどうこうということではなく、なにを原理原則とするのか国民に提示するということである。今の政治家のレベルではこれができない。個別の政策がどうこうとか、目先の利害損得しか言わない。

 だが、枝野さんはなにを政治の原理原則とするのかを述べている。政治はなにを基盤とするのかということ語る政治家をひさしぶりに見た。原理原則はシンプルなのである。枝野さんは、3日の有楽町での街頭演説でこう語っている。

「権力といえども、自由に権力を使って統治をしていいわけではありません。憲法というルールに基づいて権力は使わなければならない。」

「役所が、政府が、法律を守らない。こうしたことを前提にルールは作られていません。公文書管理法も情報公開法も、行政がちゃんとルールを守る、その前提で作られています。それをいいことに、作ってないわけない、捨てるわけない、そういう文書が捨てられた、全部真っ黒けなら、どこがおかしいのか、この先は公開してもいいんじゃないか、そういうことすらチェックできない。こういったやり方で開き直っている。 」

「格差が拡大し、貧困が増大している。これで景気が良くなるはずないじゃないですか。」

「強い者をより強くして格差を拡大しておきながら、いずれ皆さんのところにいきますよ、トリクルダウン、滴り落ちますよ。上からの経済政策はもうやめましょう。生活に困っている人たちから、暮らしから、それを下押さえして押し上げることで、社会全体を押し上げていきましょう。経済全体を押し上げていきましょう。 」

 枝野さんの言っていることは、しごくまともで当然のことだ。しかしながら、このまともで当然のことすらできていないのが、今の与党も野党も含めた政治界の姿である。

 2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、安倍晋三が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足した。それから4年間たった。アベノミクスが始まった当時、「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「成長戦略」の3番目の「成長戦略」ができるかどうかで決まると言われていた。4年間たちこの第3の矢は結局できずにアベノミクスは終わろうとしている。

 アベノミクスは、第1、第2の矢に偏重し過ぎて成長率の引き上げにはなっていない。成長率目標2%の物価目標の達成はできていない。円安による物価押し上げは、企業のコスト増加を招き、家計の実質的な可処分所得の減少は続いているため個人消費は低いままである。国の財政は1800兆円という先進国で最悪の状態にある。この先、社会保障制度は破綻することは避けられない状態になっている。

 それでいて、実質的な意味がまったくない共謀罪法や新安保法は強行採決で無理矢理に可決させ、肝心のテロ対策や安全保障はできていない。これが安倍自民の4年間である。これでいいわけがない。


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September 30, 2017

民進党の消滅

 28日の産経新聞によると、

「民進党の前原誠司代表は同日の両院議員総会で、衆院選に公認候補は擁立せず、小池百合子東京都知事が代表を務める国政政党「希望の党」に合流する案を示し、満場一致で了承された。民進党は事実上「解党」した。」

 かくて、この国で一時期、政権をになった政党はこうして終わった。しかも野党筆頭の政党が希望の党へ移るというまったくあり得ないようなことを、しかも「満場一致で了承された」という事態で終わった。

 先日、前原代表は政治理念が違う政党とは手を組むことはできないと言って、共産党などとの野党連合を拒否していた。その舌の根も乾かぬうちに、希望の党に鞍替えするというのはいかなることであろうか。民進党にとって希望の党は共産党よりも全く真逆の政党ではなかったのだろうか。

 安倍自民による衆院解散とそれによる衆院選で、前原誠司が代表になった民進党は終わるだろうと思っていたが、希望の党に合流するということで民進党は完全に解体したと言っていい。もちろん、この政党にはとうの昔から希望はなかったわけであるが、これで完全に終わったと言える。

 民進党が終わったということはどうでもいいことなのであるが、これで結局、この国ではまともな野党というものが育つことはないということになる。共産党のような良くも悪くも一貫した態度を貫く政党は別として、どの政党もなんかよくわからなくて、みんな「同じ」というのがこの国の政治環境なのであるということだ。しかも、その「同じ」の内容が、いわゆる右派の方向へ「同じ」になるのである。

 希望の党の小池代表は、安倍晋三さんとは少し違うが「同じ」対米従属の人である。この人の政党に合併吸収されることを望んだ民進党という政党は、その程度の政党であったわけであるが、枝野さんが代表であったのならばこうしたことはならなかったであろう。そもそも改憲をするという小池代表と、改憲には慎重な態度を持つ枝野さんでは「同じ」にはならない。

 もともと民進党には、改憲を求める右派と護憲の左派の分裂があった。改憲の筆頭ともいうべき前原氏が党の代表になったということで、民進党が希望の党と「同じ」になることは容易であったのであろう。枝野さんたち民進党の護憲左派は、民進党から離れざるを得ないことになる。無所属で出馬することになるだろう・

 この今の日本の政界での自民と希望党の対立の構図の背景に、アメリカ本国でのトランプ大統領と、いわゆる日本利権を持つ者たち、リチャード・アーミテージやジョセフ・ナイやマイケル・グリーンらジャパンハンドラーたちとの対立があるということを、孫崎享さんがニコニコチャンネルにあるご自身のチャンネルのブロマガで書いている。

 安倍晋三さんは日本国の総理としてジャパンハンドラーの影響圏の中にいるが、むしろトランプ大統領と一体になっている。安倍総理はオバマとはまったくあわなかったが、トランプとは大いにうまがあうようだ。同じ程度の人だからであろう。一方、ジャパンハンドラーたちはトランプ政権の誕生によって、アメリカの政界の主要勢力から外されてしまった。つまり、日本の安倍総理に対して、リチャード・アーミテージやジョセフ・ナイたちの意向より、トランプ大統領の意向が強く伝わるという事態になってしまった。そこで、ジャパンハンドラーたちは自分たちと関係が深い小池百合子、前原誠司、さらには長島昭久などを日本の国政の中枢に置く必要がある。

 安倍自民と希望の党は改憲と安全保障について「同じ」であるというのは、どちらも対米従属と新自由主義であることで「同じ」である。あとは直接的に影響を及ぼされる相手が合衆国大統領かジャパンハンドラーかの違いでしかない。この孫崎さんの指摘は大変興味深い。

 安倍政権が一強であり続けているということが、国民にとって不幸であることは確かなことであるが、こうしたカタチでしか安倍政権一強を終わらせることができないということに大きな問題がある。

 本来であれば、安倍政権がやってきた経済政策や安全保障や外交など様々なことが大きく間違っているので即刻やめさせなくてならないという認識を、広く国民の多くが持って安倍政権を退陣させなくてはならないはずだ。ただの雰囲気やムードで政権がかわっても、また大きく間違った方向へ進んでいくだけである。

 いわゆる政治改革とか維新とかいうコトバには怪しさがあるが、リセットとか寛容な改革保守政党とか「しがらみ政治」から脱却するとか税金の有効活用(ワイズ・スペンディング)の徹底とかいうコトバもまた怪しい。わずか1年の都政でさしたる成果を出していない小池都知事は、なにをどう改革するのかさっぱりわからない。築地市場は豊洲に移転をすると同時に築地にも市場機能を残すというが、なぜふたつあることにするのか理解できない。

 希望の党は脱原発をいっているが、もしそれが可能になるのならば喜ばしいことであるが、小池代表が脱原発をやるかどうかは疑問である。

 安倍自民にとって、今度の衆院選で自民の議席が減り、希望の党が数多く議席をとっても、改憲に消極的な公明党をきり、希望の党と組むことで改憲に持ち込むことができるという見方がある。しかしながら、今の日米関係のままで、安易に改憲をすることはこの国の対米従属がさらに進むだけである。

 結局、希望の党が出現しても、国民の暮らし、生命、財産、基本的人権というものは置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。本来そうしたことを主張すべきであったが、これまでなにもしてこなかった野党第一党はかくも恥ずかしい姿で消え去っていった。そして、メディアは安倍VS小池で押していくであろう。

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September 18, 2017

沖縄での日米関係の姿は日本全体での日米関係の姿なのである

 先日、NHKオンデマンドで「スペシャルドラマ 返還交渉人~いつか、沖縄を取り戻す~」を見た。

 このドラマは、1960年代の沖縄返還交渉の実務を担当した外務省北米第一課長・千葉一夫の物語である。戦争中は海軍の通信士官だった千葉は、沖縄を攻撃する米軍の無線を傍受していた。戦後、千葉は外務省の外交官になり沖縄返還交渉の実務を任されることになる。

 千葉の想いは、米軍に占領されたままになっている沖縄を取り戻すということである。日本本土は占領が終わって10年以上たっていたが、アメリカのベトナム戦争が本格化し始めており、沖縄はアメリカにとっての重要な出撃基地であった。沖縄には核兵器すら配備されていたのである。

 そこで千葉は、沖縄返還交渉の目標を「核抜き本土並み」とし自ら率先して交渉を重ねていく。GHQの占領が終わり、国内の米軍基地の多くは本土から沖縄に移転した。本土の米軍基地は減ったが、逆に沖縄では増えたのである。千葉の想いは、本土は沖縄に負担を押しつけているということであり、沖縄は日本であり、日本は独立国家であるという日本人としての当然の想いであった。

 しかしながら、沖縄返還は結局どういうものであったのかということを、後の時代の私たちは知っている。

 沖縄返還は、千葉の想いとはまったく逆の結末になる。このテレビドラマは役者の演技も良くたいへん質が高いものであるのだが、主人公が難航する交渉をまとめ上げて見事な成果を上げるとか、危機を乗り越える逆転劇とか、カタルシスのある結末とかいうものはまったくない。このテレビドラマには、ドラマとしてのおもしろさはまったくない。だからこそそこに沖縄返還とはどういうものであったのかが感じられるのである。

 結局、返還交渉は密約をもって決められる。日米関係という大きな枠組みの中で、千葉の返還交渉は徒労として終わる。千葉の父親もまた外務省の外交官であり、日本政府がポツダム宣言受諾をした時に自殺をしたという。外交官であるため敗戦後の日本がどうなるかをわかっていたのかもしれない。心ある外交官は外交に理想を掲げるが、結局、大きな枠組みに押しつぶされて消えていく。だが、我々はそこにその人の生涯の意義を見る。

 なぜ千葉の返還交渉は、徒労で終わってしまったのだろうか。1960年代の外務省の北米第一課長にはわからなかったことが、それから50年以上たった今では誰でもわかるようになった。上記のNHKのドラマで言えば、北米局の課長であった千葉には知らされていない(つまり、我々、日本国民に知らされていない)ことがあったのである。

 今日よく知られている日本の佐藤栄作総理とアメリカのニクソン大統領との返還後の沖縄への核持ち込みの密約については、当時、北米局の局長クラスより上でなくては知らなかったであろう。だからこそ、千葉の沖縄返還交渉、というかNHKのこのドラマはああした徒労の結末で終わったのだ。

 このドラマが放映されて、数日後の10日に放送されたNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」を見るとそれがよくわかった。

 これはアメリカの国防総省が公式に認め機密を解除した沖縄での核兵器配備についての資料を基に、元兵士やアメリカの政府関係者へのインタビューも踏まえ、沖縄の核配備の事実を明らかにした番組である。

 沖縄がアメリカ軍の占領統治にあった時代に核兵器が置かれていたことは、周知の事実なのかもしれない。しかし、それが1300発もの核兵器が置かれていたのである。また、核弾頭つきミサイルの誤射事故があり、もう少しで大惨事になったことがあったということや、1962年のキューバ危機の時には、沖縄の核兵器は(ソ連ではなく)中国を目標とした発射準備が完了していたということ(こちらが撃てば、当然、相手も日本へ撃ってくる)を番組では明らかにしている。

 本土に返還された1972年まで沖縄はアメリカ軍の統治下にあったのだから、これらは当たり前のことだと言うかもしれない。しかし、こうしたことが、当時、日本政府及び日本国民にはまったく知らされることがなかった(日本政府は知ろうとすらしなかった)ということが問題なのである。こうしたことについて、アメリカは日本を守ってくれているのだから問題でもなんでもないという者は、独立国家とか国民主権という近代社会の基本がわからないただのバカであろう。

 では、本土に返還された72年以後はどうであるのだろうか。この番組では、沖縄の核配備について国防総省は回答をしないとし、日本政府は当時の密約はなくなっているとしていると述べて終わる。

 しかしながら今日に至るまで、日米の安保条約や地位協定などの実質的な内容はなにひとつ変わっていない。

 戦後日本の歴史を見てみると、どう考えても理解できない、腑に落ちない「傾向」というか「雰囲気」のようなものがある。これがなんであるのか、これまで私は様々な本を読み、メディアに接してきて、きっとこうなんじゃないだろうかと漠然と考えてきたことがある。これが最近、ああそうなのかとわかった。

 なにがわかったのかというと、一言で言えばこの国は本当の意味では独立国ではないということである。もちろん、これまでそう漠然と思ってきたが、今や明確にそうなのだと言うことができる、ようするにこの国は独立国ではなく半独立国の状態なのであるということだ。

 このことは戦後史関連の書物を数多く出版し、自らも調査したことをまとめて本を出している出版・編集人の矢部宏治さんの以下の3冊の本に詳しく書かれている。この3冊は、大変重要な事実を明らかにしている。

『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社)

『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(集英社)
『知ってはいけない 隠された日本支配の構造 』(講談社現代新書)

 歴史の教科書で言えば、1951年にサンフランシスコ平和条約により日本はGHQ(General Headquarters)、より正しくはSCAP (Supreme Commander for the Allied Powers) による占領が終わり、独立主権国家に戻るとされている。しかしながら、実は様々な点においてアメリカ軍による統治・介入が行われ続けられるように「できていた」のである。アメリカの占領体制が独立後も維持、継続されているのである。この「決まり」は、日本国憲法よりも上位であり、憲法を超えて優先されている。

 1952年に始まる安保条約(旧安保条約)は、1960年にアメリカ軍の日本駐留を引き続き認めるように改訂される(新安保条約)が、在日米軍が事実上、日本国内でいかなることも自由にでき、治外法権の特権を持つということや有事の際には日本の自衛隊は在日米軍の指揮下に入るといったことは今日に至るまで変わっていない。アメリカ本国では、このことを良しとしない国務省や議会の議員や知識人などが数多くいる。常識的感覚からすれば、これはおかしいことなのである。

 そして最も重要なことは、これらはアメリカ側が強制的に無理矢理に日本側にそうさせてきたのではなく、日本側が自ら進んでこうするようにしてきたということである。今おな続く沖縄の基地問題の背景には、そうしたアメリカへの依存関係を持ち続けようとする日本側に問題がある。何度も強調するが、これはアメリカの常識的感覚からすれば理解し難いことを日本人はやっているということであり、こうした構造的背景の中で日米関係を強固なものにすると言っている日本人は、アメリカの国務省から見れば内心では不可解と軽蔑の対象とされている。

 北朝鮮のミサイル問題に対して、この国が軍事的にも外交的にもまったく無力なのは、戦後70年間、ただひたすらアメリカだけに依存し続け、アジア諸国やロシアと良好な関係を築いてこなかったからだ。

 そして、安倍政権や安倍支持者は憲法を改正しなくてはならないと言っているが、憲法9条がどうこうという前に、自衛隊は米軍の指揮下に入るように「なっている」ということから改めることをしなくては話は進まないはずである。しかしながら、そうした事実が表に出ることはないまま、憲法改正がどうのこうのということばかり言っている。

  「スペシャルドラマ 返還交渉人~いつか、沖縄を取り戻す~」やNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」を遠い沖縄での話であり、自分たちには関係はないと思うのは間違っている。沖縄での日米関係の姿は、日本全体での日米関係の姿なのである。

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September 10, 2017

プーチンが正しい

 5日の産経新聞はこう書いている。

「ロシアのプーチン大統領は5日、訪問先の中国福建省アモイで記者会見し、「北朝鮮は雑草を食べることになったとしても、自国の安全が保障されない限り(核開発の)計画をやめない」と述べ、北朝鮮の核問題の解決には、関係各国の対話が必要との従来の主張を繰り返した。インタファクス通信が伝えた。またロシアに制裁を科す米国が、北朝鮮への制裁でロシアに協力を求めている状況を「ばかげている」と述べ、米国を批判した。」

 これはまったくもって、プーチンが正しい。

 北朝鮮の隣国は韓国、日本だけではない。中国やロシアも隣国である。つまり、北朝鮮が核兵器を持てば、その脅威にさらされるのは韓国や日本だけではない。中国やロシアもそうなる。

 しかしながら、中国やロシアは日本のように騒いでいない。中国・ロシアにとって第二次朝鮮戦争が起きて亡命や大量の難民が発生したり、金正恩体制が崩壊して親米国家がすぐ隣にできるのは困ることなのである。核兵器の拡散については危惧しているが、経済制裁にはあまり積極的ではなく、従来から対話と協議によってこの問題を解決するとしている。

 産経などでは、中国やロシアが国連での北朝鮮への制裁決議に従わないことを咎める記事が多いが、重要なことは、国際社会のすべてが北朝鮮に対して制裁行動をとることで北朝鮮を孤立させてはならないということだ。孤立させると、もっとなにをするかわからない国になる。その意味で、中国とロシアがアメリカ主導の北朝鮮への制裁に参加することなく、北朝鮮との独自の関係を保ち続けようとしていることは、実は北朝鮮の暴発を抑えることになっている。

 脅威というのは、「脅威だと思う」ことによって脅威になる。張り子の虎であっても、それが「虎である」と相手が信じれば虎になる。ようは、相手がそのように「思う」か「思わない」かで決まるのである。小野寺防衛相は「脅威となる核兵器を持っている」と述べているが、北朝鮮側からすれば、これこそが彼らの目的であり、その目的は達成されていると言わざるを得ない。

 ことここに至っては、北朝鮮に対して有効なのはアメリカに従うのではなく、中国・ロシアと共同することだ。日中露で北朝鮮を経済援助するということでもいい。ようは自分たちが影響を及ぼすことができる関係の中に、北朝鮮を組み入れることである。排除し疎外させることではない。

 しかしながら、「脅威となる核兵器を持っている」としたことで、ではどうするのかというと、その先はアメリカまかせである。北朝鮮の脅威を煽り、なまじトランプ政権による軍事制裁を期待していて、実際のところ、アメリカはなにもしないということになった場合、どうするのであろうか。

 実質的にアメリカは、北朝鮮が核兵器を持ったとしても、広大な太平洋の向こう側にいるのであまり関心はない。だからこそ日本は「あんなものは脅威でもなんでもありませんねえ」と言っておいて、裏で中国・ロシアと対策を練ることをすればいいのであるが、アメリカとの従属構造の下にある日本は、そうしたアメリカ抜きの外交ができない。

 そもそも日本は北朝鮮をどうしたいのか、アメリカの軍事行動があった方がいいのか、そうではないのかがまったく明確になっていない。脅威は煽るが、北朝鮮とアメリカの動きを対岸の火事を眺めるようにただ拱手傍観しているだけである。

 その一方で北朝鮮のことよりも、本来、やらなくてはならないことがまったく進展していない。今朝の毎日新聞は社説でこう書いている。

「政府の文書管理をめぐり、看過できない動きが起きている。

 国家戦略特区の認定手続きの文書記録について政府は「透明性向上」を理由に新たな基準作りを検討している。だが、その内容はむしろ透明化に逆行し、情報隠蔽(いんぺい)を正当化する意図すら読み取れる。

 加計学園の獣医学部新設をめぐっては安倍晋三首相と学園理事長が親しい友人関係にあることが手続きをゆがめたとの疑いを持たれている。

 内閣府が「総理のご意向」をかさに着て文部科学省に圧力をかけたと受け取れる文書が同省内で見つかった。実際に不当な圧力があったかは「言った」「言わない」の水掛け論でうやむやにされたままだ。

 問題の再発を防ぐのであれば、利害の対立する省庁間の調整過程を記録に残すことをルール化すべきだ。行政文書を保存・公開する意義は、政策決定の結果だけでなく、その経緯を記録する点にこそある。それにより権力の行使に不正がなかったかを検証できる。民主主義の根幹だ。」

 森友・加計問題で明らかになったことは、官庁は自分たちの仕事を記録に残し、それを保存し、公開するというあたりまえの基本的なことをやっていないということだ。このままだと政府に都合が悪いことは記録に残さなくていい、残したとしても国民に公開しなくていいという社会になる。いわば近代社会、民主主義社会の基本中の基本ができていないということになる。何度も書いていることであるが、北朝鮮よりもこっちの方がもっと重要なのである。

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September 03, 2017

北朝鮮のミサイルが「北海道の上空を通過」した

 北海道のベンチャー企業が開発した全長10メートルの観測ロケット「MOMO初号機」が7月30日午後4時頃に打ち上げられた。この打ち上げの様子は、ニコニコ動画でライブ放送されていた。ロケットの高度は目標100キロ以上であったが、30キロから40キロまでしか到達できず、目標としていた100キロ以上の宇宙空間には到達できなかったようだ。ロケットはエンジンを緊急停止し、海上に落下したという。

 100キロ以上の上空というのは、観測ロケットが飛んでいく場所なのである。この高度は、熱圏と呼ばれる地球の大気層のひとつになる。

 国際宇宙ステーションは、高度400kmの上空を飛んでいる。29日のロイターによると、「北朝鮮は29日午前6時前、首都平壌の近郊から弾道ミサイル1発を発射した。ミサイルは高度550キロに達し、北海道の上空を通過しながら襟裳岬の東方およそ1180キロの太平洋上に落下した。」という。

 国際宇宙ステーションが飛んでいるところの、さらに150kmの上をミサイルは飛んでいったのである。政府は「北海道の上空を通過した」といったが、これを「北海道の上空を通過した」というのはおかしい。北海道の上空を通過したと言っても、空を見上げて目で見える風景の中を通過したわけではない。国民に不安を煽っていると言われても否定できない。

 ミサイルでJアラートの警告が出るというものもわけがわからない。どのような基準で、なにを目的としているのか。よくわからない。では、原発関連施設については政府なにか対応をしたのであろうか。安倍晋三さんは「いかなる状況にも対応できる緊張感をもって、国民の安全、安心の確保に万全を期していく」と言うが原発にはなにも対応はしないらしい。

 日本向けのミサイル(何度も言うが、軍事兵器として使い物になるシロモノなのか大いに疑問がある)は、何年も前から配備されている。日本上空を「通過した」のは以前、1998年と2009年に東北地方の上空を通過し、2012年と2016年には、沖縄県上空を通過している。それなのになぜ、今、騒ぐのであろうか。

 しかも今回、日本に向かって撃ったわけではない。アメリカに向かって撃ったと北朝鮮は言っているのだ。ところが、とうのアメリカでは、アメリカ南部を襲ったハリケーン「ハービー」による大規模な被害の方が大きな問題になっている。アメリカに向かって「撃った」(これは撃ったと言えるのだろうか)というミサイルで、日本が大騒ぎしているのである。

 安倍晋三さんは「政府としてはミサイルの動きを完全に把握していた」と言うが、ならばなぜ不安を煽るようなことをするのであろうか。この問題を利用して国民の目を加計学園問題からそらす意図があると言わざるを得ない。

 かりにもし日本へのミサイル攻撃があったとしても、朝鮮半島と日本列島の距離では完全なミサイル防衛はできない。前から書いているが、この距離での正しいミサイル防衛とは、ミサイルを撃たせないということである。

 もちろん国防意識はなくてはならない。しかし、正しい論理的な根拠に基づいた防衛ではなくては意味がないのが軍事なのであえる。対処できるものには対処しなくてはならないが、対処できないものは対処できない。違う方法で対処することを考えなくてはならない。

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September 02, 2017

記者会見というのは「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑をする」場所である

 昨日の政府の東京新聞への抗議は理解し難い。産経新聞によると

「首相官邸報道室は1日、学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設計画をめぐり、8月25日の菅義偉官房長官の記者会見で、東京新聞記者の質問に不適切な点があったとして書面で東京新聞に注意を喚起した。」

 とのことである。

 政府はなにがよろしくないと言っているのかというと

「加計学園が計画する獣医学部施設の危機管理態勢をただす中で「(計画に対する)認可の保留という決定が出た」と言及した。」

 とのことである。なぜならば、

「獣医学部の新設計画は大学設置・学校法人審議会が審査し、答申を受けた文部科学省が認可の判断を決めるが、この時点ではまだ公表されていなかった。」

 からであるという。そして

「官邸報道室は東京新聞に宛てた書面で「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑応答がなされ、国民に誤解を生じさせるような事態は断じて許容できない」として、再発防止を強く求めた。

 という。

 これはまったくおかしな話だ。記者であるのだから、公表前のことも情報を入手することはできる。仮に公表前のことを公開されている記者会見の場で話したことがよろしくないというのならば、公表前のことを記者会見で質問したことを不適切な点があったとして注意を喚起するべきであろう。

 ところが、公表前のことを記者会見で質問したということで、「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑応答がなされ、国民に誤解を生じさせるような事態は断じて許容できない」という書面を出すというのはもはや異常な反応であると言っていい。ささいなことで過剰な反応をするのは安倍晋三さんその人の傾向であり、これはそのまま安倍政権の傾向でもある。

 この「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑をするな」というのは、公式発表前に記者会見で質問したことに言っているのではなく、ここ数日間、東京新聞の記者が北朝鮮の弾道ミサイル発射をめぐる政府の対応について熱心に質問をし続けてきたことに対する嫌がらせであったのだ。さらには、先日の北朝鮮の弾道ミサイル発射だけではなく、森友・加計学園の新設に関しての忖度疑惑問題についても何度もし続けていたことについての東京新聞の記者への圧力なのである。

 そもそも記者会見のという場の目的は、以下の通りである。

 記者は「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑」を行い、それに対して政府は確定された事実に基づき適切な応答を行うことによって「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑」を解消し、国民に誤解を生じさせないようにする。

 記者会見というのは、これ以外のナニモノでもない。記者会見というのは「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑をする」場所なのである。今の政府はこれをまったく理解していない。ようするに、この政府は「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑」に対して適切な対応ができないから、こうしたお門違いの理解し難いことを言っているのである。

 同様に理解し難いのが、例によって例の如く産経新聞の産経抄だ。上記の東京新聞の記者に対して今朝の産経抄はこう書いている。

「まるで日本政府が北朝鮮の軍事情報をどこまで把握し、どう対応しているのか、北朝鮮に手の内を明かせと迫っているかのようである。こんな平和ボケを治すには、やはり憲法改正が一番だろう。」

 憲法を改正して報道に規制をかけよと産経は言っている。ようするに、そのために憲法を改正したいのだ。ここに産経及び今の政府のホンネがあると言える。とにかく政府に小うるさく言ってくる連中は不逞の輩であり、徹底的に排除したいのであろう。

 8月29日の弾道ミサイル発射の前夜に安倍首相が首相公邸に宿泊したのは、政府が発射の兆候をつかんでいたというのは十分に考えられることであり、アメリカからの情報があったのであろう。アメリカ軍には全地球上を覆う監視システムがある今日、こんなことは当然である。産経新聞は「ミサイル発射の兆候を、政府がどの時点でどの程度把握していたかを公表することは、日本の情報収集能力を明らかにすることを意味する。」問い書いているが、この程度で「日本の情報収集能力を明らか」になるのならばお笑いである。

 北朝鮮がミサイルを発射した後、国民のそのことを伝えたとしても(北朝鮮と日本のこの距離では)なにどうする時間はない。仮に前日、それを発表したとしても、国民は(この小さな島国の上で)なにをどうすることもできない。Jアラートも意味がない。「前夜になぜ、私たちが知らされなかったのか」という東京新聞の質問の方も質問すべきものだったとは思えない。北朝鮮のミサイルが日本に向かって発射され攻撃目標に命中するのならば、前夜に知らされても、国民はどうすることもできないということなのである。だからこそ、北朝鮮との敵対関係になっている今の外交状況は変えるべきことなのだ。

 その意味において、東京新聞の記者が言う「米韓との対話の中で、金委員長側の要求に応えるよう冷静に対応するように働きかけることをやっているか」という質問はまったくその通りのことだ。これに対して「北朝鮮の委員長に聞かれたらどうか」という菅義偉官房長官の返答や「「金正恩委員長の要求に応えろ」…!? 東京新聞記者が菅義偉官房長官にトンデモ質問」という産経新聞は愚かしいとしか言いようがない。

 菅義偉官房長官は「(北朝鮮が)性善説のような質問ですけども」とも言っているが、今のこの政府には、相手側は性善であるかような交渉をすることによって、こちら側が有利になるようにさせるという(外国では当然のことである)外交交渉ができない。逆に政府は、反体制的なメディアには恫喝し圧力をかける。

 また、産経は加計学園をめぐる疑惑について、東京新聞が(前愛媛県知事の)加戸氏の発言をあまり報道しなかったとして「民主主義破壊するメディア 安易な『報道しない自由』の行使」と批判し、産経及びネトウヨが擁護する今の政府にとって都合の悪いことを質問されると「こんな平和ボケを治すには、やはり憲法改正が一番だろう」と言う。

 かつて共謀罪の法案か可決されたとき、共謀罪に反対する者はやましいことがあるから共謀罪に反対しているのだろうと言われた。であるのならば、同じことを言いたい。政府はやましいことがあるから、東京新聞からの自由な質問をやめさせたいのである。

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August 27, 2017

シャーロッツビルの白人至上主義集会での衝突事件

 アメリカのバージニア州シャーロッツビルで極右集団と反対派との衝突で死傷者が出た事件について考えてみたい。

 もともとアメリカ南部のバージニア州シャーロッツビルでは、南北戦争の南部軍ロバート・E・リー将軍の像の撤去をめぐって、今年の4月からKKKなどの白人史上主義者たちが抗議集会を開き、それに対して抗議をする人々との間で何度も衝突が起きていたという。今月の12日、その衝突がついに死傷者を出す事件になってしまった。

 シャーロッツビルのリー将軍の像というのは、たとえば上野公園にある西郷さんの像のようなものであろうか。

 上野公園にある西郷像は、設置当時その是非をめぐってもめた。しかしながら、西郷の像を建てるということは、西郷自身のことを思って崇め奉るということではなく、西郷を葬った後の明治政府の国内統治にとって意味のあることなのであった。敗軍の将である西郷隆盛の像を建てるということもって、反体制側を「取り込む」という政治的な意味がある。明治政府にとっては、反政府暴動が起きては困ることであり、その政治的偶像であった西郷を反乱者として歴史の闇に葬り去るよりも、維新の功労者として西郷の功績を広く世間にアピールした方が社会の安定をもたらすという計算があったのだろう。

 ただし、政府は西郷の像を建てたが、その姿は陸軍大将の正装ではなく平民が普段着で散歩をしているような姿である。また当然のことながら、靖国神社には薩摩軍側は祭られていない。このへんに明治政府のホンネがあった。

 西南戦争から140年たった今日、かりに西郷さんの像が上野公園から撤去されたとしても、それにより鹿児島県の人たちが薩摩士族至上主義の集会を開くことはないだろう。西南戦争は、歴史の中のひとつの出来事である。

 この「シャーロッツビルで起きた白人至上主義者と反対派の衝突事件を受け、奴隷制度存続を訴えた南北戦争時の南軍兵士像を撤去する動きが米各地で広がる中、米ニューヨークでは、米大陸を“発見”したコロンブスの像も、撤去の議論に上がっている。」「米国ではコロンブスを英雄視する声がある一方、先住民の土地を奪い、虐殺したなどとして歴史的評価が割れている。」という。

 この手の話をしていくときりがなくなる。北米先住民は旧石器時代の後期頃、アジア大陸からやってきた人々である。この時、地続きのベーリング海峡経由でやってきた者たちや太平洋の海の島々や北西部海岸を伝ってきた者たちが、北米大陸でおのおの独自に暮らし、また時には争っていた可能性があることが最近の研究でわかってきている。

 確かに、15世紀頃から北米大陸にやってきたヨーロッパ人が先住民を虐殺していったのは事実であるが、そもそも論で言えば、更新世のほ乳類動物であるマストドンやオオナマケモノやスミロドンなどから見れば、彼らが暮らしていた北米大陸にやってきた人類そのものが「侵略者」であった。

 そう考えてみると、南軍の将軍の像やコロンブスの像を撤去すればそれでいい話ではない。むしろ、歴史物としてそのままそこにあって良いのではないかと思う。むしろこれらの像は、自分たちの国が過去になにをしてきたのかということについて考えさせてくれるシンボルである。(その意味において、韓国の従軍慰安婦像や徴用工の像はあってもよいと思う。だが、それを日本の領事館の前に置くというのは違う話になる。

 置く側はこれで倭奴を反省させると思っているのならば、置かれた側は嫌がらせ以外のなにものでもないと感じるだけであり、その目的にまったく合っていない。実際のところ、今の韓国での従軍慰安婦像を置くことは、そうしたことをまったく考えていない人たちがやっている。)

 ナニナニ人がこの世で一番優れていると心の中で思うことはあってもよいと思う。そう思いながら生きていくことは、その人、個人の価値観である。しかしながら、その価値観を他人に強制することはできない。

 なぜヘイトは許容されないのかというと、ヘイトすることを許容することは自分たちもまたヘイトをされる側になることを許容することになるからである。アメリカの白人至上主義者や日本の在日朝鮮差別者は、自分たちが差別される側になることはないと思っているからやっているのである。人は人種や民族を選んで生まれてきたわけではない。人種や民族に対してのヘイトは意味を持たない。殺人をやっていいという自由はないように、ヘイトには表現の自由はない。誰もがヘイトをすることをしてはならないし、誰もがヘイトされることがあってはならない。その社会の大多数を構成する人々の価値観と異なる価値観を他者に強要すると社会から拒絶される。

 いや、白人至上主義者にせよ在日朝鮮差別者にせよ、自分たち白人や日本人が差別されている。非白人や非日本人は優遇され、特権が認められている。自分たち白人や日本人は差別されているではないかということが仮に事実であったとしても(在日特権というものは存在していない)、だからヘイトをするというのはおかしな話である。差別をされているというのであるのならば、差別をなくそうとすることが必要なのであり、差別に差別で対抗しても差別の解決にはならない。

 この出来事に対して、為政者が行うべきことはただのひとつである。ヘイトは認められないということだ。このことを毅然と明確に述べなくてはならない。「白人至上主義者は出て行け」と述べたバージニア州のテリー・マコーリフ州知事のスピーチは、社会の分断という危機に対する危機管理として見事であり、為政者として正しい姿であった。

 ところが、トランプ大統領はヘイトをあたかも容認したかのような発言をしている。もちろん、「ヘイトを容認する」と言ったわけではないが、きちんとヘイトを否定する発言をしないということは、聞く側は容認されたと感じるであろう。トランプは、自分の発言にはそうした意図はなく、そういうふうに解釈するマスコミが悪いとしているが、どう見てもトランプの発言により、これまでは社会的に存在が許されなかったヘイトという行為、その行為を行うネオナチやKKK、白人至上主義者などを許容する雰囲気が広がってしまっている。

 さらに、25日、トランプ大統領は「不法移民に対する人種差別的な取り締まりで有罪宣告を受けた西部アリゾナ州の元保安官ジョー・アルパイオ被告(85)に恩赦を与えた。」という。もはやトランプのホンネは白人至上主義であり、ヘイトを容認することであると言えるだろう。合衆国大統領が、である。

 トランプが大統領に就任した時から、こうしたことになるのはわかっていたことであり、現実にそうなった。

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August 20, 2017

森友・加計学園、北朝鮮

 いわゆる、森友・加計学園の新設に関しての忖度疑惑について、北朝鮮の情勢が緊迫しているのに、こんな些細なことで大騒ぎすべきではない、というような声が産経やネトウヨ一派から聞こえている。

 しかしながら、これは大きな問題なのである。

 森友・加計学園についての出来事を問題視しているのは、安倍晋三さんを糾弾したり、安倍政権の退陣を要求しているのではない。いわゆる反安倍だからなのではない。

 つまるところ、有力政治家の知り合いであれば、役人が忖度をして法規制の運用を融通してくれる。しかも、そのことについての記録や書類は全く残さない、証言台に立っても記憶はない、覚えていない、問題はないと言う。

 森友・加計学園問題を「こんな些細なこと」と言っている人たちは、社会常識も節度もモラルも倫理も遵法意識もない。物事を正しくきちんとやろうという意識も意思もない。あるべき政治の姿を追求しよう模索していこうという理念はなく、間違ったことでも容認するという人々である。

 なぜ、行政の意思決定の公文書がきちんと残っていなくてよいのであろうか。森友・加計学園についての出来事が問題なのは反安倍だからではなく、日本国国家の存立に関わることだからなのである。これを左翼メディアによる反安倍運動かのようにしか考えることができないということが、すでに一般的な社会常識や社会通念が欠落しているのである。

 こうした人々が、国民感情で大統領を罷免し、国家間の合意で決定されたことを蒸し返す韓国は法治国家ではないと言っているのはおかしな話だ。森友・加計学園問題を「こんな些細なこと」とするのは、自分たちの国・日本は法治国家でなくていいと言っているのである。

 それでは、彼らが重大事と称する北朝鮮についてはどうであろうか。これについてもまたお話にならないレベルなのだ。

 本当にアメリカと戦争をするつもりであるのならば、事前にどこどこにミサイルを撃つぞ、撃つぞと言って戦争を始めるわけがなく、常識で考えても実際に撃つわけではないことがわかる。かつて、この国がアメリカのハワイ真珠湾を奇襲攻撃した時、徹底的に情報を管理して行った。その国が今や北朝鮮の虚言に右往左往しているのを見ると、戦前にはあった一般的な軍事常識がなくなってしまったのであろう。

 事前にどこどこを攻めると言うなどということは、一目見ただけでたんなる脅し、ブラフ(はったり)である。

 しかるに、ミサイルが上空を通過すると指定があったということで、島根、広島、高知や愛媛の地対空誘導弾パトリオットを配置するというのは、政府の「国防をやっています」を見せるためであり、防衛省が地上配備型イージスの導入や対ステルス機レーダー試作に196億円の予算を要求するというのは、この機会に乗じての予算獲得でしかない。

 北朝鮮がどうこうするから憲法改正が必要だと言っている人は、本気で北朝鮮がどうこうすると思っているのならばただの無知蒙昧であり、あるいは、北朝鮮がどうこうするという状況を演出して、憲法を改正したいという政治的な魂胆があると思って良い。

 産経新聞によると、「小野寺五典防衛相が国会で、北朝鮮が米軍基地のあるグアム島を弾道ミサイルで攻撃した場合、集団的自衛権の行使が許される「存立危機事態」に該当する可能性があるとの見解を示した。グアム攻撃によって米軍の打撃力が損なわれれば、日本防衛にも支障がでるとの判断からだ。国民を守り抜くうえで極めて妥当な認識である。安全保障関連法は、国民の生命、自由などが「根底から覆される明白な危険がある事態」を、存立危機事態と位置づけている。」という。

 具体的に日本がなにをどうするのか。そういったことはまったく決められていない。ただ単に、産経やネトウヨ一派が喜ぶ雰囲気だけが生まれている。

 この雰囲気で、日本がアメリカの戦争に巻き込まれていく。これが新安保でもっとも危惧されたことであり、今回はそうならないようであるが、この先において危惧されたとおりのままで自体は進展していくことが、これでよくわかるのであろう。

 北朝鮮がどうこうよりも、この方がもっと問題なのである。


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July 22, 2017

福島原発事故はなかったことにしたい

 20日、国の原子力委員会は、原発は運転コストが低い電源であり、地球温暖化や国民生活への影響を踏まえ今後も利用を進めるなどとした原子力政策の新たな指針を取りまとめたという。

 政府は21日、この原子力委員会がまとめた原子力政策の長期的な方針を示す「原子力利用の基本的考え方」を閣議決定したという。原子力委員会が長期方針をまとめるのは、2005年の原子力政策大綱以来となり。3.11の福島原発事故後では初めてとのことだ。

 3.11の福島原発事故後、始めてのまとめで、この内容である。

 このブログで何度も述べているが、核廃棄物の処分も含めた全体のコストで考えれば決して「コストが低い」とは言えないことや、地球温暖化への影響が少ないかのようなわけがわからないことを言い、現状では事故が起きた時の国民生活への影響など言うまでもないことを、さも安全であるかのように喧伝し、どうしても原発を推進し続けていきたいようだ。

 しかしながら、国民は福島原発事故を忘れていない。原発は低コストだというウソは、もう通用しない世の中になっている。

 ちなみに、原発は排出するCO2が少ない、だから地球温暖化への影響が少ないかのような声があるが、地球温暖化の主な要因であるCO2の排出は、電力発電をなにで行うかだけの話ではない。火力発電を一切やめれば地球温暖化が防げるわけでもなく、さらに言えば、日本国の産業全体が、仮にCO2を排出しなくても、それで解決するというわけではない。電力発電を原子力で行えば、地球温暖化への対策になるかのような発言はお笑いものである。

 原発はコストが高く、事故が起きた際の社会的な対策が不十分である。原発の廃炉処分や核廃棄物の処分など、まだまだ工学的に未解決の問題、未開発の技術が多い、というのが現状の姿である。

 それでも原発を推進したいとする理由はなんであろうか。それは短期的に見れば、確かに原発は発電のコストが低い、ただそれだけの理由である。電気料金を安くしたいということだ。

 経団連の「夏季フォーラム」で、「東日本大震災以降、多くの原発が稼働を停止し、電力料金が高止まりして国際競争力を失っているとの認識で一致。政府の次期エネルギー基本計画策定の議論本格化に向け、安全が確認された原発の再稼働と同時に、「原発の増設、新設を経団連の方針として明確にすべきだ」との意見が出た」という。

 そして、「電気料金が安くできる」ということを錦の御旗に立てて、原子力に関わる国と企業の体制全体、いわゆる原子力ムラの利益を維持していくということである。

 原子力委員会の「原子力利用の基本的考え方」は、5年後をめどに改定するという。このへんがよくわからない。なぜ5年後に見直すのだろうか。何度見直そうとも、原発はコストがかかるという事実は変わらないではないか。その事実を公式に認めるには、5年かかるということなのであろうか。

 国は「原子力利用の基本的考え方」ではなく、その前に「福島原発事故からなにを学んだのか」をまとめるべきではないのだろうか。このままでは、福島原発事故からなにも学んでいないということになる。国と財界は、福島原発事故はなかったということにしたいのであろう

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