January 20, 2018

どこが「全く受け入れることはできない」のか

 1月12日の産経新聞によると

「安倍晋三首相は12日、慰安婦問題に関する平成27年12月の日韓合意をめぐり、韓国の文在寅大統領が被害者への謝罪などを要求していることについて「韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、全く受け入れることはできない」と明言した。首相官邸で記者団に語った。韓国が合意をめぐる新方針を発表後、首相が公式に受け入れ拒否を表明したのは初めて。」という。

 この慰安婦に関する日韓合意をめぐる韓国政府の新方針とは、どのようなものであったのかというと、2015年の合意では、慰安婦問題を本当に解決することはできない。今後も日本政府は被害者の名誉と尊厳の回復と心の傷の癒やしに向けた努力を続けてくれることを期待する。しかしながら、その一方で、2015年の合意は両国間の公式合意だったということだ。従って、この2015年の合意についての破棄や再交渉は求めないというものだ。

 これに対して、日本政府の対応は「日本側にさらなる措置を求めることは全く受け入れられず、協議にも応じられない」というものである。

 ようするに、慰安婦の被害者への対応などというものはしない。2015年の合意は、日本政府は今後一切、慰安婦の被害者への対応などというものはしないという合意であったはずだ、としているのである。

 このへんは、つまり、そもそも安倍自民政府は慰安婦問題などというものはないものとしているからであり、慰安婦問題などというものに関わりたくないとしているからだ。そうでありながら、韓国は何度も何度もしつこく言ってくるので、2015年の合意をもって、これを最後に今後一切言ってくるんじゃねえぞと決めた、としているからであろう。

 しかしながら、そんなことが通るはずがない。1993年の河野談話の中の以下は、極めて大きな説得力を持つ。

 「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。」

 この「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」ということについて日本政府はどう対応するんですか、ということだ。文在寅大統領は「日韓合意で慰安婦問題は解決できない」として、慰安婦への「心からの謝罪」を求めている。

 これはまったくその通りであり、これのどこが「全く受け入れることはできない」のかさっぱりわからない。ようするに、安倍自民政府やネトウヨ一派は、朝鮮半島で日本の皇軍や日本人は悪いことは一切していないと盲信しているからであろう。

 逆から言えば、これを「受け入れる」ことが日本国家の尊厳なり、威信なり、愛国心なり、メンツなり、etc etcのどこがどう傷がつくのか私にはさっぱりわからない。その程度のレベルの低い国家意識しかないのであろう。

 かつて、イギリスは世界の各地で、アフリカの人々や中東の人々やアジアの人々などに、数多くの悪逆非道のことを行ってきた。それらは、今の歴史書にきちんと記載されている。そして現代のイギリスは、過去にそうしたことがあったことはあったこととして認めているが、それにより大英帝国の威信はいささかなりとも傷つくことはない。帝国というものは、そういうものなのである。

 その意味でいうのならば、日本は大日本帝国などどいう名称を掲げながらも、その内実は帝国のレベルには至っていなかったということであり、その「帝国」が滅びて70年たった後の日本人たちも、いまだに帝国とはなんであるのかがよくわからないレベルのままになっている。

 安倍晋三さんは「日韓合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ」と言っているが、2015年の日韓合意は国際条約などといった形式のものではない。また、いわゆる「国と国との約束」を守らないことは、例えばTPPはアメリカはオバマ政権で参加するとしながら、トランプに政権が変わると参加をしないということになった。しかしながら、安倍晋三さんはアメリカに向かって「TPP参加を守ることは、国際的かつ普遍的な原則だ」とは言わないのである。また、安倍晋三さんは「日本側は約束したことは全て誠意をもって実行している」と言っているが、その「誠意」が感じられないと韓国側は言っているのだ。そうであるのならば、韓国側が「誠意」と感じることができる「誠意」を実行するのが「誠意をもって実行する」ということなのではないだろうか。

 文在寅大統領は10日、青瓦台で開いた新年の記者会見でこう述べたという。

「文大統領は「日本が心をこめて謝罪してこそ(被害者の)おばあさんたちも日本を許すことができ、それが完全な慰安婦問題の解決だと思う」と指摘。その上で「政府が被害者を排除し、条件と条件をやり取りして解決できる問題ではない」として、「前政権で両国政府が条件をやり取りする方法で被害者を排除し、解決を図ったこと自体が間違った方法だった」と強調した。また、「従来の合意を破棄し、再交渉を求めて解決できる問題ではない」との考えを示した。」

 これはまったく正しい考えだ。慰安婦問題は解決した、合意を守れだけを繰り返す日本政府と、慰安婦の被害者への「心からの謝罪」を求める韓国政府、人としてどちらが正しいかは明白である。

 よしんば、今回の合意について韓国側に非があったとしても、その非を咎め、国交断絶をちらつかせるのではなく、非は非であるとしながらも、韓国と国際社会が納得し得るまで外交を続けていくのが、かつて朝鮮半島を統治した国としての懐の深さと度量の大きさであろう。

 イギリスは大英帝国の植民地国に対して、今でもかつての統治国としての責任感を持っているが、この国は朝鮮半島のかつての統治国としての責任感とか歴史観を持ちあわせていない。この国は、アメリカやロシアのような大国にはへつらい、中国・北朝鮮にはアメリカからの恫喝や武力を頼み、韓国のような小国にはひたすら尊大に威張る、という恥ずかしい国になっている。

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January 14, 2018

内閣総理大臣平成30年年頭所感を読む

 安倍晋三さんは、内閣総理大臣平成30年年頭所感というものでこう書いている。

「本年は、明治維新から、150年の節目の年です。

 「高い志と熱意を持ち、
  より多くの人たちの心を動かすことができれば、
  どんなに弱い立場にある者でも、成し遂げることができる。」

 明治初期、わずか6歳で岩倉使節団に加わった津田梅子の言葉です。性別に関係なく個人の能力が活かされる米国社会に学び、帰国後、女子高等教育機関を立ち上げました。そして、その生涯を、日本人女性の可能性を開花させることに捧げました。

 150年前、明治日本の新たな国創りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました。

 国難とも呼ぶべき危機を克服するため、近代化を一気に推し進める。その原動力となったのは、一人ひとりの日本人です。これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から解き放つ。あらゆる日本人の力を結集することで、日本は独立を守り抜きました。」

 このへん、なぜ明治日本の話から始まるのか、よくわからない。

 今から150年前の1868年は明治元年であり、「明治日本の新たな国創りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました。」は、これはこれである意味において正しい。しかしながら、その後、植民地支配する側にまわったということについてはどう考えているのであろうか。

 「その原動力となったのは、一人ひとりの日本人です。これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から解き放つ。あらゆる日本人の力を結集することで、日本は独立を守り抜きました。」という箇所については、例によってなにを言っているのかさっぱりわからない。幕末期に日本が西欧の植民地にならなかったのは、倒幕をして明治日本になったからというよりも江戸期日本の経済・文化がしっかりしていたというのが正しい。

 実際のところ、当時、イギリスにせよフランスにせよ日本を植民地化する意図はなかった。江戸時代に発達した商業・産業社会は、幕末期に外国からやってきた人々にとって驚嘆すべき高度なものであったことは、渡辺京二の『逝きし世の面影』を持ち出すまでもなく、今日ではよく知られていることである。

 あの時代、「植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感」とは、明治日本の新たな国創りをしようという意識ではなく尊皇攘夷の意識があったからである。明治日本は、できるべくしてできたものではない。幕末から明治維新に至る過程は一本道ではなく単純ではない。

 「あらゆる日本人の力を結集する」についてはウソとしかいいようがない。明治維新以後、明治10年の西南戦争に至るまで、日本各地で数多くの士族の反乱があった。明治23年の帝国議会開設に至るまで、これも日本各地で自由民権運動の事件が相次いで起きた。これらのことはなかったことにしたいのであろう。

 明治日本・大日本帝国が、国民国家としての日本国になったのは明治27年の日清戦争以後である。そして何度も言うが、日清戦争はどうみても他国への侵略であり、西欧諸国の脅威からの独立戦争ではない。

 つまり、明治日本のオモテ側は安倍晋三さんがいうように「日本は独立を守り抜きました」であったかもしれないが、そのウラ側には「西洋と同じくアジア諸国を侵略する国になりました」ということが不可分の出来事として存在している。この歴史は、きちんと受け止めなくてはならない。

 本年は、明治維新から150年になるというのなら、本年は大正7年・1918年、シベリア出兵から100年の年なのである。なぜ日本はこの年、わざわざシベリアにまで出兵したのか。平成30年年頭所感は、この日本の近代史に汚点として残る出来事を深く反省するという一文があってしかるべきであると思うのであるが。

 さらに安倍晋三さんはこう言っている。

「6年前、日本には、未来への悲観論ばかりがあふれていました。

 しかし、この5年間のアベノミクスによって、名目GDPは11%以上成長し過去最高を更新しました。生産年齢人口が390万人減る中でも、雇用は185万人増えました。いまや、女性の就業率は、25歳以上の全ての世代で、米国を上回っています。

 有効求人倍率は、47全ての都道府県で1倍を超え、景気回復の温かい風は地方にも広がりつつあります。あの高度成長期にも為しえなかったことが、実現しています。」

 これももう、なにをタワゴトを言っているのであろうか。名目GDPは確かに11%増えたが、この増加分には消費税が上がった分も含まれているという指摘が出ている。

 また、去年の10月の日経新聞によると「実質GDPの増減率(実質成長率)でみると、第2次安倍政権は年平均1.4%にすぎない。旧民主党政権では年1.6%だった。」という。この年頭所感は、数字で何とでも言えることを言っているだけなのである。しかしながら、実体は、この5年間のアベノミクスによって、日本経済はますます悪くなりました、というのが正しい。

 今年もまたこの国は、この人物が総理大臣をやっている国が続く。思えば、アメリカもまたあの人物が合衆国大統領をやっている。これらのことを思うと、私はますます沈痛な気持ちになるのである。

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January 06, 2018

Social DemocracyではなくSaving Capitalism

 BS1スペシャル「欲望の資本主義2018~闇の力が目覚める時~」を見た。

 番組の中でいくつか印象深いものがあったが、そのひとつは資本主義ではなく民主社会主義を標榜する運動がアメリカで高まっているということだ。

 この番組は、あたかも資本主義は悪であるという見方をしている。確かに、バーニー・サンダースは民主社会主義(democratic socialism)であることを述べていた。しかし、今の資本主義の姿を見てアンチ資本主義を言うのには私には違和感がある。産業革命のイギリスに生まれた資本主義は悪であった時期もあるが、すべてそうだったわけではない。

 ロバート・ライシュにせよジョセフ・E・スティグリッツにせよ、今の資本主義の姿は間違っていると説いているが、だからといって社会主義にせよと言っているのではない。今の資本主義は、資本主義本来の姿ではなく、本来の資本主義とは21世紀の今の我々が思っている社会主義のようなものを大きく持っていたのである。労働者の権利や賃金について述べることは社会主義なのではない。そもそも資本主義にはそうしたものがあったのである。

 ロバート・ライシュは著書"Saving Capitalism"の冒頭でこう書いている。

"Simultaneously, centers of countervailing power that between the 1930s and late 1970s enabled America’s middle and lower-middle classes to exert their own influence - labor unions, small businesses, small investors, and political parties anchored at the local and state levels - have withered. The consequence has been a market organized by those with great wealth for the purpose of further enhancing their wealth."

「同時に、1930年代から1970年代後半にかけて、対抗勢力の中心としてアメリカの中間層や下位中間層が影響力を行使することを可能にしてきた労働組合や中小企業、小口投資家、地域や州レベルの政党といった組織などが弱体化し、その結果、財産をさらに強化する目的で富裕層が組織した市場が生まれた。」

 つまり、労働組合や中小企業、小口投資家、地域や州レベルの政党といった組織などが、おのおの独立した個別の見解なり意見なりを持っていたのであり、そうしたものの統合体として民主主義社会が形成されていたのである。本来、資本主義社会であっても労働者の賃金や雇用や健康など保証する制度なり法律なり仕組みなりがあるようにしてきたのである。何度も言うが、それがかつての資本主義社会であったのだ。

 しかしながら、いつしかそうしたものは不要で非効率なものと見なされ、なくなっていった。労働者への賃金を上げれば、労働者はものを買う、ものが売れれば企業は利益を得る、企業は利益を税金として社会に納め、設備に投資し、労働者により多くの賃金を支払う、労働者への賃金を上げれば、労働者はものを買う・・・・以下、このくり返し、このくり返しが続くというサイクルがあればよいのだ。景気の原理とはただこれだけのことであり、シンプルなことなのだ。アメリカでも日本でも戦後の時代にあったのはこの良いサイクルであり、今はないのがこのサイクルなのである。何度も言うが、これだけでいい。

 ではなぜこの良いサイクルがなくなったのかと言えば、お金を労働者の賃金や設備投資というカタチで回すことをかつての時代と比べしなくなったからである。企業は儲けたお金を労働者への賃金や設備投資に回すのではなく、投資家への配当や金融商品の購入に回しているからだ。これは企業だけではない。国もまた税収を教育や福祉や医療に回すのではなく、企業の減税や補助金などに回している。

 結局のところ、国民が公務員や金持ちをしっかりと監視しなくては、公務員や金持ちは自分たちに有利なことだけをやるようになるという、これもまた至極当然の当たり前のことなのである。この当たり前のことを、日本で言えば1980年代頃からしなくなった、できなくなった、ということなのである。

 ということは、国民が公務員や金持ちをしっかりと監視することをし直し、一般人が主体である民主主義を復活させ、かつての資本主義が持っていた労働者の賃金や雇用や健康など保証する制度なり法律なり仕組みなりを、今の時代の基準に照らし合わせて、改めるべきところは改め、足りないことは新たに作成することをしていなかなくてはならない、ということなのである。つまりは、これも至極まっとうな、本来の民主主義に戻りましょうということだ。

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December 31, 2017

2017年の世界を振り返る

 2017年が終わろうとしている。今年はどのような年であったのか、ざっと振り返ってみたい。

 トランプが合衆国大統領になることで様々な問題が出るであろうと思っていた通り、2018年はトランプを起因とする様々な問題が現れた年であった。アメリカではトランプにより税制が大幅な減税になったが、結局のところ長期的には高額所得者や法人だけの大幅減税になっている。これで経済が回復するわけではない。ただ単に減税すれば良いわけではない。しかしながら、今回、議会共和党もトランプの大減税に賛成してしまっている。こうなると、次の大統領選挙で共和党はなにを言うのであろうか。

 また、こうした大規模な連邦政府の歳入のカットは、すなわち中東でもアジアでも大規模な軍事行動はこの先しないということになる。北朝鮮問題について、トランプのホンネは、アメリカが軍隊を出すことはなく、韓国と日本に核武装をさせて北朝鮮に対抗させることであろう。トランプには、本気で北朝鮮問題を解決しようという気はないのである。

 しかしながら、であるのならば、トランプは中東の均衡状態を維持するのかと言えば、エルサレムをイスラエルの首都と承認してしまった。これでトランプへのイスラエルとユダヤ人勢力とキリスト教右派からの支持は高まったが、世界からは反発され、アメリカの孤立を招いている。もちろん、トランプとしてはアメリカが国際社会から孤立しても別に困らないであろう。しかし、アメリカとしてエルサレムをイスラエルの首都と認定することが、どのようにアメリカの国益になるのかさっぱり説明がつかない。

 アメリカによるエルサレムの首都認定を受けて、パレスチナでは反発が広がっている。これからも、パレスチナとイスラエルとの暴力的な対立抗争は続くのである。このようにトランプのやっていることは、事態をますます悪化させている。

 今年の国際社会で注目すべきことは、地球温暖化対策が「当然のこと」になったということだ。ついにと言うか、ようやくと言うか、国際社会が地球温暖化対策に本格的に取り組み始めた。これは温暖化による被害が無視できない規模になってきたということと、温暖化対策がビジネスとして成り立つようになってきたためである。技術進歩により、性能が良くコストが安い太陽光パネルができるようになってきたのだ。これからの世界のエネルギー事情は、石油や原子力から再生可能エネルギーへ転換していく。

 しかしながら、その一方で温暖化による環境破壊が進んでいく。ツバルやキリバス、モルディブ、バングラデシュなどといった国々は水没する可能性がある。アメリカでも9月の大型ハリケーン「イルマ」により、マイアミでは浸水被害が広がった。またニューヨークシティでも大きな水没被害があった。これは温暖化により大型ハリケーンが発生しやすくなったということと、そもそも海面の上昇により沿岸部都市やニューヨークなどといった「島」の上にある都市は水害の危険があることは以前から指摘されてきたことが、実際に起き始めたのだと言えるだろう。トランプがなにをどう言おうと、人類による地球温暖化はもはや誰もが否定することができない、今、目の前にある事実なのである。

 いうまでもなく中国の台頭は、今年もめざましかった。10月の中国共産党第19回全国代表大会で、習近平は中国が世界の超大国になることをはっきりと宣言している。実質的な面において「一帯一路」政策やアジアインフラ投資銀行にはまだまだ話にならない点が数多いが、4兆から8兆ドルレベルのチャイナマネーが流れているのである。世界の勢力地図はどんどん変わっていっている。

 ロシアの存在も無視できない。トランプは中東問題の解決にも関わる気はなく、中東ではアメリカに代わりロシアが影響力を高めている。トランプによるアメリカ外交の崩壊と世界覇権国としてのアメリカのさらなる衰退は来年も続く。その一方でいわばオモテの世界での中国が、ウラの世界でのロシアの勢力の拡大がこれからも続くのである。

 この先も今年がそうであったように世界各地でテロが頻発するだろう。ヨーロッパでは反イスラム感情と極右の政治運動がさらにさかんになるであろう。

 以上、2017年の国際社会の様々な側面を見てきた。この世界はもはや救いようがない混乱と無秩序の事態に突入するかのような見方である。それは事実なのであろう。

 しかしながら、もう一方の事実として、おおむね国際社会の未来は明るい、明るいというか、危機に対して、なにが危機であるかを正確に把握する力と、その危機を乗り越える力が国際社会にはある。ここでいう国際社会とは欧米だけの話ではなく、広く人類一般、中国やインドやベトナムやアフリカ諸国などを含めた人類社会全体のことだ。おおむね人類社会は未来に希望を感じている。唯一、アメリカ、ヨーロッパ、日本などのいわゆる先進国の人々が未来に不安を感じているのだ。

 21世紀も20年近くが過ぎようとしていて、「人類」や「地球」という認識フレームの枠組みがだんだんと生まれつつある。情報通信技術の発展と、自然科学と人類学や歴史学などの諸学問の知識の集積により、ビックヒストリーという宇宙の誕生から銀河と太陽系の生成、生命の誕生と進化、そしてホモ・サピエンスの出現から現代の文明史に至る時間軸を「ひとつ」として捉える見方が論じ始められている。かつて小松左京がSFを通して論じていたものだ。ようやく時代が小松左京に追いつき始めたと言えるだろう。

 2018年も激動の時代になる。思えばいつの時代でも激動の時代だったのだ。その中を、私は思索しつつ歩いていきたい。

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October 28, 2017

現状維持とはなにか

 衆院選の結果は、相変わらずの自民圧勝である。

 この「相変わらずの自民圧勝」というのは、思えばほとんどすべて衆議院議員総選挙は、2009年の衆院選を除けば「相変わらずの自民圧勝」だった。今回、有権者は現状維持を望んで自民党に投票したと言われているが、こうしたことは毎回(2009年の衆院選を除けば)そうだった。この「現状維持を望む」という感覚はよくわかる。

 現状維持というのは、読んで字の如く今の現状が変わらないということである。とことが、だ。現状維持であれば、今の現状が変わらないのであるのならばその通りなのであるが、実際のところ、今の現状そのものに問題がある以上、現状維持であろうとするのならば、実体において現状維持ではなくなるなのである。

 現在は過去の選択の結果である。今の数々の問題は、例えば1980年代に対策を始めていたら、2010年代後半の今日、これほど大きな問題になっていなかったものが数多くある。つまり、現状維持を望んできたために、現状を維持できなくなったことが数多くあるということだ。現状維持というのは、最悪の選択である場合もあり得るのである。

 ただ単純にすべてにおいて「現状維持を望む」のではなく、コレコレは「現状維持を望む」であるが、コレコレは「現状維持を望む」ではダメだと判断しなくてはならない。現在の政治においては、与党・野党とかいうことはあまり意味はない。ざっくばらんな候補者や政党の選択ではなく、これほどネットが普及した今日のこの国であるのならば、個々の政策について有権者が選択できるようになってしかるべきなのであるが、今の選挙制度はそうなっていない。

 変えなくてはならないことは、変えなくてはならない。変えてはならないことは、変えてはならない。

 例えば、安倍政権になって景気が良くなった、いや良くなっていないという声が数多くあるが、安倍政権がどうこうという以前に、このブログで何度も書いているが、バブル崩壊後、この国の政府がやり続けてきたことは、国債を乱発し、景気対策と称するバラマキを続けて借金の山を作ったということだけである。安倍政権がやっていることもこの続きであり、さらに異次元金融緩和という国債乱発のスケールをとてつもなく大きくしたのがアベノミクスというものなのである。これはそもそも「おかしい」「異常な」状態なのだ。

 アベノミクスの異次元金融緩和は、もうそろそろこれはヤバい状態になっているということを誰もが認識すべき時なのであるが、そういう状態にはほど遠い。今、これだけの国債を発行している、これで金利が上昇すれば金利の支払いは不履行になり国家の財政は破綻する。仮に財政破綻にならなかったとしても、いつかは返済をしなくてはならないものであり、他のことに回せるお金がこの支払いに消えていくのである。アベノミクスはやめるべきものであり、今の経済政策は「即刻変えてなくてやらない」。

 その一方で「現状維持でなくてはならない」のが憲法である。GHQが作った憲法であることは確かであるが、あの当時においても、今の時代においても、日本人の手であのレベルの基本的人権と国民主権の水準を維持する憲法を作ることはとうてい不可能であると言っていい。今、改憲をしたいと言っているのは、日本会議などといった国権主義の勢力であり、今の日本国憲法は個人主義が強すぎる、もっと国権に寄るものでなくてはならないと考えている。この勢力が安倍自民党政権を支える大きな柱であり、安倍政権下での改憲は間違いなくこの勢力に沿った改憲になるであろう。そうである以上、GHQが作った国際水準の憲法のままで十分だ。

 もうひとつ憲法9条については、日米安保とセットになっているのであり、憲法9条を変えるには日米安保その他諸々の条約や密約も変える必要がある。このための日米交渉をしなくてはならない。そう簡単に短期間でできるものではない。自衛隊そのものの改革も必要だ。その膨大な予算が、今のこの国の財政では出すことは困難である。そう考えると憲法9条も「現状維持でなくてはならない」のである。

 さらに言えば、在日米軍についてなど、高度な政治性を有する国家の行為については司法は判断しないという結論を裁判所が出す現状では、憲法9条がどのようなものであっても「通ってしまう」のである。この統治行為論の乱用そのものを改めるという認識がなければ憲法9条の改憲は意味はない。北朝鮮のミサイルがどうこうというが、日本防衛の活動をしているのは自衛隊であり海上保安庁である、在日米軍は日本を防衛しているわけではない。このような現状を考えると、現実的観点から見て憲法は「現状維持でなくてはならない」。

 26日の産経新聞によると「安倍晋三首相は26日の経済財政諮問会議で「3%の賃上げが実現するよう期待する」と述べ、来年の春闘での賃上げを産業界に要請した。」という。

 アベノミクスの効果がさっぱり出てこないので、もはや政府は強制的に賃上げを要求してきたということである。民間企業が従業員に直接的にいくらの賃金を支払うかということについて政府が要求をするというのである。これはもう自由経済とは言い難く、戦争中のような統制経済になってきたと言えるだろう。もともと、戦後の日本経済は大枠において戦争中の統制経済がそのまま存続しているところがあったが、それは今でも続いている。中国ロシアや北朝鮮のような非自由主義経済的な国家による統制がどうこうという声をよく聞くが、この国も同じようなことをやっているのである。

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October 15, 2017

1950年にできた枠組み

 安倍自民党は憲法に自衛隊を明記する改憲案を提示し、憲法を改正してこれを2020年に施行させようとしている。

 今、憲法第9条を改正せよという声が多い。憲法第9条には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とあるのに、なぜ自衛隊があるのかという問いがある。国が防衛力を持つのは当然であり、当然のこととして自衛隊はある、であるのになぜ自衛隊は違憲になるのか。憲法に軍隊を持たないとあるのはおかしいではないかという声は多い。

 回答は簡単だ。GHQが軍備を持てと言ったから持った。そうとしか言いようがない。なぜ自衛隊があるのかと言えば、70年前にマッカーサーと吉田茂がそうしたからとしか言いようがない。再軍備はできないという憲法がありながら戦力を持たせたのはアメリカであり、その指示に従ったのは日本政府である。

 なぜ憲法に戦力を持たないとあるのに、自衛隊は存在しているのであろうか。1950年に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発し、アメリカは日本に駐留させていた部隊を出動させることになった。だがそうすると。日本の防衛兵力が存在しなくなる。そこでその代わりとしての武装組織を発足させるととした(露骨に言うと、これは日本国及び日本国民のための防衛ではない。なんのための防衛兵力かと言えば、進駐軍つまりGHQのための防衛兵力である)。日本国憲法は1947年(昭和22年)に施行されているので、これは当然、憲法第9条に触れることではあったが、憲法以上の存在であった占領軍の指示である。事実上、警察予備隊の創設は日本の再軍備であったが、時の総理大臣吉田茂はこれを再軍備とはいわず「警察予備隊」と言い続けた。

 しかしながら、警察予備隊ができたのは占領時代の話だ。これがGHQを守る兵力であるのならば、占領が終わり、日本が独立国になった後は、憲法違反の警察予備隊を廃止していいはずだ。あるいは、戦力を持たないという憲法はおかしいとするのであるのならば、GHQから「押しつけられた」憲法を即刻改憲すべきであった。

 ところが、そうはならなかったということに日本の戦後史のある側面がある。占領が終わり主権回復をした1951年(昭和26年)以後、今日に至るまで日本国憲法はなにひとつ変わることはなくそのままであり、警察予備隊は保安隊になり自衛隊へと拡張していった。

 なぜそうなったのであろうか。

 ここで大きく言えば米ソ冷戦というもの、具体的には朝鮮戦争というものが現れる。おおざっぱに言ってしまうと、今、私たちが置かれている状況とは、1950年に起きた朝鮮戦争への協力体制がその後もずっと続いてきたという状況なのである。日本の戦後史でいう「逆コース」のことなのであるが、この時代のことについて、先日もここで紹介した矢部宏治さんの『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)にわかりやすく書かれており、しかもこれまで知らなかったことが数多く書かれていた。

 この本の中の4コマ漫画を講談社のウェブページで見ることができる。これを見るだけでも、これまで私たちが知らなかった日米安保の事実がわかる。ようするに、こういうことだったのだ。

 もともと、なぜ日本国憲法の第9条で日本は戦力を保持しないとしたのかと言えば、当時、マッカーサーが構想していた日本の防衛とは、国連及び(実質的にはアメリカ軍を主力とする)国連軍が日本を防衛するというものであった。

 第9条はこれ単独ではなく、日米安保やそれに関連する協定や密約などと一緒に考えなくてはならない。なぜ第9条で戦力の保持を放棄しているのかと言えば、日本にはアメリカ軍がいるから戦力を保持しないのであり、ではなぜ自衛隊が存在しているのかと言えば、有事の際にアメリカ軍の指揮の下で日本の防衛を行うための日本側の実行組織として自衛隊がある。このことをまず第9条の認識の基本にしなくてはならない。すべてはこの理解から始まる。この理解がないため9条論議は常に混乱するのである。

 日本にはアメリカ軍がいるから戦力を保持しないというのは、日本国内にアメリカ軍がいることを認めるということだ。ここで重要なことは、日本国内にいるアメリカ軍とは、日本の防衛のためにだけ存在する兵力ではないということだ。日本政府は、日本国内にいるアメリカ軍は、日本の防衛のためにだけ存在する兵力とするという取り決めをしていない。

 つまり、日本国内にいるアメリカ軍はアメリカ国内のアメリカ軍とまったく同じであり、在日米軍基地及び基地外部でなにをしようとも、また基地からどの国へ兵力を送ろうとも日本国はまったく関与しない(というか関与できない)というものである。日米安保条約では、アメリカは日本の最終的な防衛義務は負っていないことはあまり知られていない。というか、ほとんどの人々はそのことをを知らない。アメリカは日本を守ってくれると無邪気に信じている。

 こうした日米関係を基盤として第9条は成立している。つまり第9条とは、いわば日本を軍事的には半植民地的状態にするものであったのだ(GHQが作ったのだから、当然と言えば当然なのであるが)。

 これに対して日本政府は、わずかばかりの抵抗をし続けてきた。自衛隊の活動が日本国内に留められていれば、有事には自衛隊はアメリカ軍の指揮下に入るといっても日本国内の専守防衛だけにすることができる。だからこそ戦後日本の歴代政権は自衛隊の海外活動に難色を占めてきた。ところが、安倍政権による新安保法制の成立はこのストッパーを外してしまい、海外での自衛隊の活動を法的に可能にした。自衛隊はアメリカ軍に従って海外派兵をすることができるということになってしまった。

 さらに安倍自民党は自衛隊を合憲にしようとしている。この状態で自衛隊は合憲、海外派兵はすでに合憲、しかしながら、指揮権はアメリカ軍にあることは変えないということは、日米関係がより強固なものになるのではなく、日本の対米従属がより強固なものになるというのが正しい。

 日本が戦力を持たないのはおかしいとするのは極めて当然の考えだ。ではなぜ自衛隊はアメリカ軍指揮下になる現状を変えようとはしないのであろうか、なぜ、正しい本来の姿の軍隊を持とうとしないのだろうか。ただうわべ的な部分だけを変えても、なにも変わらない。

 現状の自衛隊は在日米軍の支援組織、補助組織として作られた組織であり、主権国家としての日本国の軍隊としての役割を完全に実行することができない。これをあるべき正しい日本国の軍隊にするにはやるべきことは数多くある。ところが、安倍自民党においても、憲法に自衛隊を明記するという話だけで、実質上、専守防衛といういびつで、かつミニアメリカ軍のような「ぐんたい」である自衛隊の内容を日本国のまっとうで正しい軍隊にするという話はまったく出ていない。

自衛隊を正しい日本の軍隊にするには、当然それなりの莫大な費用がかかる。その費用はどこからか持ってもなくてはならないということになる。第9条を変えるといっている政党で、そうしたことを言っている政党はひとつもない。いざとなったらアメリカ軍頼みのメンタリティーは、今日においても変わることなく続いているのである。

 戦後日本の安全保障が「こういう姿になってしまった」ことの背景には、第二次世界大戦以後の世界は米ソの冷戦になったということ、アジアで朝鮮戦争とベトナム戦争が起きたということ、国連が世界政府として機能しなかったということ、そしてなによりも敗戦国として世界覇権国である超大国アメリカの意向を否応なく受けざるを得なかったということなどがある。マッカーサーが想定した世界政府としての国連と強力な国連軍の存在を前提とした日本国憲法第9条は、そうなることはなかった戦後の現代史と日米関係の中で大きく歪んだものになってしまった。

 この歪みの出発点になったのは朝鮮戦争である。この1950年6月に起きた出来事によって成立したある歴史的な枠組みがあり、我々はその枠組みの中に2017年の今日においてもあり続けている。そして、今の状況を考えるとこの先も続くものと思わざるを得ない。

 私は9月30日にここで「結局、希望の党が出現しても、国民の暮らし、生命、財産、基本的人権というものは置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。」と書いたが、これは枝野さんの立憲民主党の出現があった今でも変わっていない。

 今回の選挙は自民、公明、希望、維新が圧勝し、選挙後のこの国の政治には巨大な保守連合とも言うべきものができる可能性は高い。結局、立憲民主党が出現しても国民の暮らし、生命、財産、基本的人権、さらに言えば国家主権と平和の理念が置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。この国の政治は軍事において、事実上、野党は消滅したのである。これを矢部さんは最近のコラムの中で「「朝鮮戦争レジーム」の最終形態である「100パーセントの軍事従属体制」に他ならない」と述べている。

 今後、安倍自民党たちが悲願とする憲法改正はできず、第9条はこのままであったとしても、矢部さんがコラムで書いているように、在日米軍と自衛隊の一体化はさらに進展していくだろう。また核兵器の保持が、現実をもって論じられるようになるだろう。その時、核兵器の配備場所として沖縄が挙げられるようになることは十分ありうる。中国と北朝鮮の脅威に対抗するために、在日米軍と自衛隊の一体化を進め、沖縄に核兵器を公式に配備することが、この国の安全保障で必要なのであるというが声が強く聞こえるようになるだろう。

 我々はこの枠組みの中から、いつ抜け出すことができるのだろう。

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October 07, 2017

立憲民主党の設立

 かつて大前研一さんは、去年の11月に『PRESIDENT』誌上で「さらば民進党」もはや愛想が尽きた」というタイトルのコラムでこう書いている。

「今度ばかりはほとほと愛想が尽きた。民進党のことである。参院選、都知事選から党代表選に至る迷走ぶりは、完全に分裂・消滅のプロセスに足を踏み入れたと思わざるをえない。」

「民主主義の根本であるところのマジョリティに拠って立つ、ということで民主党は自民党との対立軸を明確にしてきた。たとえば医療問題では医師会重視の自民党に対して民主党は患者側に重きを置く。年金問題では年金機構ではなく年金受給者に重きを置くし、教育改革では教師や学校側ではなく、生徒や保護者に重きを置く。受益者側に重きを置くことで、予算配分もドラマチックに変わってくる。」

「日本の景気をおかしくしている。日本経済の再生に本当に必要なのは、アベノミクスのようなまがいものの経済政策、人工的な成長戦略ではない。ひたすらサイレントマジョリティの将来不安というものを取り除くことだ。その意味では、民進党は「サイレントマジョリティのための国づくり」という原点にいま一度立ち返るべきなのだ。」

「私は今回の党代表選を機に、民進党に対する一切の助言、助力を打ち切ることを決めた。未練もない。」

 あの大前さんが、もはや救い難いと見切りをつけたのが民進党である。大前さんが言っている党代表選とは、ひとつ前の連坊代表の時のことだ。その後もこの政党は原点に変えることはまったくなかった。7月の参議院選挙では民進党、共産党、社民党、生活の党の野党4党が共闘したが成果は思ったほどは出ず、民進党は議席を大幅に減らした。続く都知事選では、民進党は惨敗した。そして理解し難いのが、党代表選で知名度抜群があるということだけで蓮舫を担ぎ上げたということだ。

 なぜこうした時に連坊が政党の代表になり得るのかさっぱりわからない。幹事長には野田佳彦前首相を置くなど、この人たちはいまなにをすべきなのかまったくわかっていない人々であった。連坊代表の二重国籍の是非がどうこうというよりも、言っている内容が言い訳がましく二転三転する姿はもはや政党の代表の器ではないことは明白であった。結局、連坊は代表の座を退くことになる。

 さらに理解し難いのが、次に前原誠司を代表にしたということだ。これでこの政党は終わるなと思ったいたら、案の定、終わった。この政党は、終わるべくして終わった。野党連合がどうこうというよりも、大前さんが言うようにサイレントマジョリティの将来不安を取り除くことをきちんと明確に言えば、それだけで数多くの有権者が支持をするのである。なぜ、そうした当たり前のことすらできなかったのであろうか。国民の一般大多数が不安を感じているこの先のこの国の行方を払拭してくれることをきちんと言ってくれれば、それでいいのである。ただそれだけのことなのに、なぜできないのだろうか。

 なぜできないのかといえば、そうした原理原則、哲学、理念ともいうべき大きな枠組みや方向性、ミッション、ビジョンを構想することができないからであり、目先の利害、損得勘定しかできないからだ。もちろん、目先の利害、損得勘定は必要なことであり、これがなくては現実は成り立たない。しかしながら、原理原則、哲学、理念ともいうべきものがなければ、実は目先の利害、損得勘定で大きく不利益になるのである。だからこそ、目先の利害、損得勘定をより確実なものにするために、もっと土台、基盤からの原理原則、哲学、理念ともいうべき大きな枠組みやビジョンが必要なのである。

 2日、枝野さんが立憲民主党という新しい政治政党をつくった。この政党は期待できるのだろうか。また民主党みたいなものになるんじゃないだろうなと思いながらネットに挙がっている枝野さんの演説を見てみた。誠実に、国民の一般大多数が不安を感じているこの先のこの国の行方を払拭することが政治家の基本であり原理原則であることを体現している演説であった。思えば昔は、こういう語りをする政治家が数多くいたように思う。

 安倍晋三さんは相変わらず、北朝鮮がどうこうとか「いま、求められているのは国際社会と連携していく外交の力です」とかわけがわからないことを言っている。6日の毎日新聞のコラム「経済観測」に経営共創基盤CEOの冨山和彦さんが興味深いことを書いていた。

「希望の党と民進党の合流が報じられ、総選挙はがぜん盛り上がってきた。ただ、そこでの政策論争、取り分け経済政策を巡って以前から気になっている風潮が一つ。それはあたかも経済の行方が政府の政策次第のような前提で議論されがちなことだ。

 実際、財政出動やら金融政策やらマクロ経済政策の力で持続的成長を実現できるかのようなことを、経済評論家や政治家が分かったような顔をして語る。しかし、この手の政策が景気刺激策としてはともかく、日本経済が長年にわたり直面している根本問題、すなわち経済の芯を強くし、イノベーションを促して持続的な成長力を押し上げる力を持っているとは思えない。」

「日本は自由主義経済の国だ。そこで経済の行方を決めるのは、圧倒的に民間の市場参加者の自由な経済活動である。民間企業、そして個々人がいかに生産し、投資し、消費し、イノベーションを起こしていくかで99%が決まる。政府の役割は、自由な経済活動がフェアに透明にオープンに行われるような環境整備を行うこと。そして市場参加者として活動する前提となる教育投資やさまざまなインフラ整備を行うことに尽きる。」

 これはまさにその通りで、政府の経済政策で実際の日本経済そのものが良くなるということはない。枝野さんの演説に対して、具体的な政策は、とか、じゃあ、どうするんだよ、みたいな書き込みが多く見かける。しかし、今言うべきことは、経済政策がどうこうとか外交がどうこうということではなく、この国はこれからどうするのかという大きなビジョンや理念、方向性を出すものであり、具体的なことは、その現場、現場で実務者がやっていくのである。また、具体的な政策や対案がないとよく言われるが、実際には民主党時代から数多くの政策や対案は出してきている。対案がないとか言っている者たちは、それを知らないだけである。

 国が経済の個別の現場に介入してきてロクなことはない。安倍自民の理解し難い点のひとつは、アベノミクスだとか「働き方改革」だとか「まち・ひと・しごと創生」とか「若者・女性活躍推進」とか、とにかく民間がやることに必要以上に介入してくることである。政府がやるべきことは、企業や人々が自由に活動できるようにすることであり、国民の生活、生命、財産、権利を守るということだけでいいのだ。経済でなにをどうするということを政府にどうこう言われるものではない。それは企業や個人がやっていくことなのである。

もちろん企業の活動には、規則なり制限なりは必要だ。戦争中の統制経済、戦時体制がそのまま戦後半世紀以上たっても続き、今や政官財は癒着し、さらにそこにメディアと学界が加わって利権集団になっているのが今のこの国だ。それで経済がうまく回っていったのは20世紀末ぐらいまでで、それ以後の20年間以上にわたって停滞し、この先は衰退していくしかないという状態にある。

 本来、政治家に必要なことは、個別の政策がどうこうということではなく、なにを原理原則とするのか国民に提示するということである。今の政治家のレベルではこれができない。個別の政策がどうこうとか、目先の利害損得しか言わない。

 だが、枝野さんはなにを政治の原理原則とするのかを述べている。政治はなにを基盤とするのかということ語る政治家をひさしぶりに見た。原理原則はシンプルなのである。枝野さんは、3日の有楽町での街頭演説でこう語っている。

「権力といえども、自由に権力を使って統治をしていいわけではありません。憲法というルールに基づいて権力は使わなければならない。」

「役所が、政府が、法律を守らない。こうしたことを前提にルールは作られていません。公文書管理法も情報公開法も、行政がちゃんとルールを守る、その前提で作られています。それをいいことに、作ってないわけない、捨てるわけない、そういう文書が捨てられた、全部真っ黒けなら、どこがおかしいのか、この先は公開してもいいんじゃないか、そういうことすらチェックできない。こういったやり方で開き直っている。 」

「格差が拡大し、貧困が増大している。これで景気が良くなるはずないじゃないですか。」

「強い者をより強くして格差を拡大しておきながら、いずれ皆さんのところにいきますよ、トリクルダウン、滴り落ちますよ。上からの経済政策はもうやめましょう。生活に困っている人たちから、暮らしから、それを下押さえして押し上げることで、社会全体を押し上げていきましょう。経済全体を押し上げていきましょう。 」

 枝野さんの言っていることは、しごくまともで当然のことだ。しかしながら、このまともで当然のことすらできていないのが、今の与党も野党も含めた政治界の姿である。

 2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、安倍晋三が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足した。それから4年間たった。アベノミクスが始まった当時、「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「成長戦略」の3番目の「成長戦略」ができるかどうかで決まると言われていた。4年間たちこの第3の矢は結局できずにアベノミクスは終わろうとしている。

 アベノミクスは、第1、第2の矢に偏重し過ぎて成長率の引き上げにはなっていない。成長率目標2%の物価目標の達成はできていない。円安による物価押し上げは、企業のコスト増加を招き、家計の実質的な可処分所得の減少は続いているため個人消費は低いままである。国の財政は1800兆円という先進国で最悪の状態にある。この先、社会保障制度は破綻することは避けられない状態になっている。

 それでいて、実質的な意味がまったくない共謀罪法や新安保法は強行採決で無理矢理に可決させ、肝心のテロ対策や安全保障はできていない。これが安倍自民の4年間である。これでいいわけがない。


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September 30, 2017

民進党の消滅

 28日の産経新聞によると、

「民進党の前原誠司代表は同日の両院議員総会で、衆院選に公認候補は擁立せず、小池百合子東京都知事が代表を務める国政政党「希望の党」に合流する案を示し、満場一致で了承された。民進党は事実上「解党」した。」

 かくて、この国で一時期、政権をになった政党はこうして終わった。しかも野党筆頭の政党が希望の党へ移るというまったくあり得ないようなことを、しかも「満場一致で了承された」という事態で終わった。

 先日、前原代表は政治理念が違う政党とは手を組むことはできないと言って、共産党などとの野党連合を拒否していた。その舌の根も乾かぬうちに、希望の党に鞍替えするというのはいかなることであろうか。民進党にとって希望の党は共産党よりも全く真逆の政党ではなかったのだろうか。

 安倍自民による衆院解散とそれによる衆院選で、前原誠司が代表になった民進党は終わるだろうと思っていたが、希望の党に合流するということで民進党は完全に解体したと言っていい。もちろん、この政党にはとうの昔から希望はなかったわけであるが、これで完全に終わったと言える。

 民進党が終わったということはどうでもいいことなのであるが、これで結局、この国ではまともな野党というものが育つことはないということになる。共産党のような良くも悪くも一貫した態度を貫く政党は別として、どの政党もなんかよくわからなくて、みんな「同じ」というのがこの国の政治環境なのであるということだ。しかも、その「同じ」の内容が、いわゆる右派の方向へ「同じ」になるのである。

 希望の党の小池代表は、安倍晋三さんとは少し違うが「同じ」対米従属の人である。この人の政党に合併吸収されることを望んだ民進党という政党は、その程度の政党であったわけであるが、枝野さんが代表であったのならばこうしたことはならなかったであろう。そもそも改憲をするという小池代表と、改憲には慎重な態度を持つ枝野さんでは「同じ」にはならない。

 もともと民進党には、改憲を求める右派と護憲の左派の分裂があった。改憲の筆頭ともいうべき前原氏が党の代表になったということで、民進党が希望の党と「同じ」になることは容易であったのであろう。枝野さんたち民進党の護憲左派は、民進党から離れざるを得ないことになる。無所属で出馬することになるだろう・

 この今の日本の政界での自民と希望党の対立の構図の背景に、アメリカ本国でのトランプ大統領と、いわゆる日本利権を持つ者たち、リチャード・アーミテージやジョセフ・ナイやマイケル・グリーンらジャパンハンドラーたちとの対立があるということを、孫崎享さんがニコニコチャンネルにあるご自身のチャンネルのブロマガで書いている。

 安倍晋三さんは日本国の総理としてジャパンハンドラーの影響圏の中にいるが、むしろトランプ大統領と一体になっている。安倍総理はオバマとはまったくあわなかったが、トランプとは大いにうまがあうようだ。同じ程度の人だからであろう。一方、ジャパンハンドラーたちはトランプ政権の誕生によって、アメリカの政界の主要勢力から外されてしまった。つまり、日本の安倍総理に対して、リチャード・アーミテージやジョセフ・ナイたちの意向より、トランプ大統領の意向が強く伝わるという事態になってしまった。そこで、ジャパンハンドラーたちは自分たちと関係が深い小池百合子、前原誠司、さらには長島昭久などを日本の国政の中枢に置く必要がある。

 安倍自民と希望の党は改憲と安全保障について「同じ」であるというのは、どちらも対米従属と新自由主義であることで「同じ」である。あとは直接的に影響を及ぼされる相手が合衆国大統領かジャパンハンドラーかの違いでしかない。この孫崎さんの指摘は大変興味深い。

 安倍政権が一強であり続けているということが、国民にとって不幸であることは確かなことであるが、こうしたカタチでしか安倍政権一強を終わらせることができないということに大きな問題がある。

 本来であれば、安倍政権がやってきた経済政策や安全保障や外交など様々なことが大きく間違っているので即刻やめさせなくてならないという認識を、広く国民の多くが持って安倍政権を退陣させなくてはならないはずだ。ただの雰囲気やムードで政権がかわっても、また大きく間違った方向へ進んでいくだけである。

 いわゆる政治改革とか維新とかいうコトバには怪しさがあるが、リセットとか寛容な改革保守政党とか「しがらみ政治」から脱却するとか税金の有効活用(ワイズ・スペンディング)の徹底とかいうコトバもまた怪しい。わずか1年の都政でさしたる成果を出していない小池都知事は、なにをどう改革するのかさっぱりわからない。築地市場は豊洲に移転をすると同時に築地にも市場機能を残すというが、なぜふたつあることにするのか理解できない。

 希望の党は脱原発をいっているが、もしそれが可能になるのならば喜ばしいことであるが、小池代表が脱原発をやるかどうかは疑問である。

 安倍自民にとって、今度の衆院選で自民の議席が減り、希望の党が数多く議席をとっても、改憲に消極的な公明党をきり、希望の党と組むことで改憲に持ち込むことができるという見方がある。しかしながら、今の日米関係のままで、安易に改憲をすることはこの国の対米従属がさらに進むだけである。

 結局、希望の党が出現しても、国民の暮らし、生命、財産、基本的人権というものは置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。本来そうしたことを主張すべきであったが、これまでなにもしてこなかった野党第一党はかくも恥ずかしい姿で消え去っていった。そして、メディアは安倍VS小池で押していくであろう。

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September 18, 2017

沖縄での日米関係の姿は日本全体での日米関係の姿なのである

 先日、NHKオンデマンドで「スペシャルドラマ 返還交渉人~いつか、沖縄を取り戻す~」を見た。

 このドラマは、1960年代の沖縄返還交渉の実務を担当した外務省北米第一課長・千葉一夫の物語である。戦争中は海軍の通信士官だった千葉は、沖縄を攻撃する米軍の無線を傍受していた。戦後、千葉は外務省の外交官になり沖縄返還交渉の実務を任されることになる。

 千葉の想いは、米軍に占領されたままになっている沖縄を取り戻すということである。日本本土は占領が終わって10年以上たっていたが、アメリカのベトナム戦争が本格化し始めており、沖縄はアメリカにとっての重要な出撃基地であった。沖縄には核兵器すら配備されていたのである。

 そこで千葉は、沖縄返還交渉の目標を「核抜き本土並み」とし自ら率先して交渉を重ねていく。GHQの占領が終わり、国内の米軍基地の多くは本土から沖縄に移転した。本土の米軍基地は減ったが、逆に沖縄では増えたのである。千葉の想いは、本土は沖縄に負担を押しつけているということであり、沖縄は日本であり、日本は独立国家であるという日本人としての当然の想いであった。

 しかしながら、沖縄返還は結局どういうものであったのかということを、後の時代の私たちは知っている。

 沖縄返還は、千葉の想いとはまったく逆の結末になる。このテレビドラマは役者の演技も良くたいへん質が高いものであるのだが、主人公が難航する交渉をまとめ上げて見事な成果を上げるとか、危機を乗り越える逆転劇とか、カタルシスのある結末とかいうものはまったくない。このテレビドラマには、ドラマとしてのおもしろさはまったくない。だからこそそこに沖縄返還とはどういうものであったのかが感じられるのである。

 結局、返還交渉は密約をもって決められる。日米関係という大きな枠組みの中で、千葉の返還交渉は徒労として終わる。千葉の父親もまた外務省の外交官であり、日本政府がポツダム宣言受諾をした時に自殺をしたという。外交官であるため敗戦後の日本がどうなるかをわかっていたのかもしれない。心ある外交官は外交に理想を掲げるが、結局、大きな枠組みに押しつぶされて消えていく。だが、我々はそこにその人の生涯の意義を見る。

 なぜ千葉の返還交渉は、徒労で終わってしまったのだろうか。1960年代の外務省の北米第一課長にはわからなかったことが、それから50年以上たった今では誰でもわかるようになった。上記のNHKのドラマで言えば、北米局の課長であった千葉には知らされていない(つまり、我々、日本国民に知らされていない)ことがあったのである。

 今日よく知られている日本の佐藤栄作総理とアメリカのニクソン大統領との返還後の沖縄への核持ち込みの密約については、当時、北米局の局長クラスより上でなくては知らなかったであろう。だからこそ、千葉の沖縄返還交渉、というかNHKのこのドラマはああした徒労の結末で終わったのだ。

 このドラマが放映されて、数日後の10日に放送されたNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」を見るとそれがよくわかった。

 これはアメリカの国防総省が公式に認め機密を解除した沖縄での核兵器配備についての資料を基に、元兵士やアメリカの政府関係者へのインタビューも踏まえ、沖縄の核配備の事実を明らかにした番組である。

 沖縄がアメリカ軍の占領統治にあった時代に核兵器が置かれていたことは、周知の事実なのかもしれない。しかし、それが1300発もの核兵器が置かれていたのである。また、核弾頭つきミサイルの誤射事故があり、もう少しで大惨事になったことがあったということや、1962年のキューバ危機の時には、沖縄の核兵器は(ソ連ではなく)中国を目標とした発射準備が完了していたということ(こちらが撃てば、当然、相手も日本へ撃ってくる)を番組では明らかにしている。

 本土に返還された1972年まで沖縄はアメリカ軍の統治下にあったのだから、これらは当たり前のことだと言うかもしれない。しかし、こうしたことが、当時、日本政府及び日本国民にはまったく知らされることがなかった(日本政府は知ろうとすらしなかった)ということが問題なのである。こうしたことについて、アメリカは日本を守ってくれているのだから問題でもなんでもないという者は、独立国家とか国民主権という近代社会の基本がわからないただのバカであろう。

 では、本土に返還された72年以後はどうであるのだろうか。この番組では、沖縄の核配備について国防総省は回答をしないとし、日本政府は当時の密約はなくなっているとしていると述べて終わる。

 しかしながら今日に至るまで、日米の安保条約や地位協定などの実質的な内容はなにひとつ変わっていない。

 戦後日本の歴史を見てみると、どう考えても理解できない、腑に落ちない「傾向」というか「雰囲気」のようなものがある。これがなんであるのか、これまで私は様々な本を読み、メディアに接してきて、きっとこうなんじゃないだろうかと漠然と考えてきたことがある。これが最近、ああそうなのかとわかった。

 なにがわかったのかというと、一言で言えばこの国は本当の意味では独立国ではないということである。もちろん、これまでそう漠然と思ってきたが、今や明確にそうなのだと言うことができる、ようするにこの国は独立国ではなく半独立国の状態なのであるということだ。

 このことは戦後史関連の書物を数多く出版し、自らも調査したことをまとめて本を出している出版・編集人の矢部宏治さんの以下の3冊の本に詳しく書かれている。この3冊は、大変重要な事実を明らかにしている。

『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社)

『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(集英社)
『知ってはいけない 隠された日本支配の構造 』(講談社現代新書)

 歴史の教科書で言えば、1951年にサンフランシスコ平和条約により日本はGHQ(General Headquarters)、より正しくはSCAP (Supreme Commander for the Allied Powers) による占領が終わり、独立主権国家に戻るとされている。しかしながら、実は様々な点においてアメリカ軍による統治・介入が行われ続けられるように「できていた」のである。アメリカの占領体制が独立後も維持、継続されているのである。この「決まり」は、日本国憲法よりも上位であり、憲法を超えて優先されている。

 1952年に始まる安保条約(旧安保条約)は、1960年にアメリカ軍の日本駐留を引き続き認めるように改訂される(新安保条約)が、在日米軍が事実上、日本国内でいかなることも自由にでき、治外法権の特権を持つということや有事の際には日本の自衛隊は在日米軍の指揮下に入るといったことは今日に至るまで変わっていない。アメリカ本国では、このことを良しとしない国務省や議会の議員や知識人などが数多くいる。常識的感覚からすれば、これはおかしいことなのである。

 そして最も重要なことは、これらはアメリカ側が強制的に無理矢理に日本側にそうさせてきたのではなく、日本側が自ら進んでこうするようにしてきたということである。今おな続く沖縄の基地問題の背景には、そうしたアメリカへの依存関係を持ち続けようとする日本側に問題がある。何度も強調するが、これはアメリカの常識的感覚からすれば理解し難いことを日本人はやっているということであり、こうした構造的背景の中で日米関係を強固なものにすると言っている日本人は、アメリカの国務省から見れば内心では不可解と軽蔑の対象とされている。

 北朝鮮のミサイル問題に対して、この国が軍事的にも外交的にもまったく無力なのは、戦後70年間、ただひたすらアメリカだけに依存し続け、アジア諸国やロシアと良好な関係を築いてこなかったからだ。

 そして、安倍政権や安倍支持者は憲法を改正しなくてはならないと言っているが、憲法9条がどうこうという前に、自衛隊は米軍の指揮下に入るように「なっている」ということから改めることをしなくては話は進まないはずである。しかしながら、そうした事実が表に出ることはないまま、憲法改正がどうのこうのということばかり言っている。

  「スペシャルドラマ 返還交渉人~いつか、沖縄を取り戻す~」やNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」を遠い沖縄での話であり、自分たちには関係はないと思うのは間違っている。沖縄での日米関係の姿は、日本全体での日米関係の姿なのである。

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September 10, 2017

プーチンが正しい

 5日の産経新聞はこう書いている。

「ロシアのプーチン大統領は5日、訪問先の中国福建省アモイで記者会見し、「北朝鮮は雑草を食べることになったとしても、自国の安全が保障されない限り(核開発の)計画をやめない」と述べ、北朝鮮の核問題の解決には、関係各国の対話が必要との従来の主張を繰り返した。インタファクス通信が伝えた。またロシアに制裁を科す米国が、北朝鮮への制裁でロシアに協力を求めている状況を「ばかげている」と述べ、米国を批判した。」

 これはまったくもって、プーチンが正しい。

 北朝鮮の隣国は韓国、日本だけではない。中国やロシアも隣国である。つまり、北朝鮮が核兵器を持てば、その脅威にさらされるのは韓国や日本だけではない。中国やロシアもそうなる。

 しかしながら、中国やロシアは日本のように騒いでいない。中国・ロシアにとって第二次朝鮮戦争が起きて亡命や大量の難民が発生したり、金正恩体制が崩壊して親米国家がすぐ隣にできるのは困ることなのである。核兵器の拡散については危惧しているが、経済制裁にはあまり積極的ではなく、従来から対話と協議によってこの問題を解決するとしている。

 産経などでは、中国やロシアが国連での北朝鮮への制裁決議に従わないことを咎める記事が多いが、重要なことは、国際社会のすべてが北朝鮮に対して制裁行動をとることで北朝鮮を孤立させてはならないということだ。孤立させると、もっとなにをするかわからない国になる。その意味で、中国とロシアがアメリカ主導の北朝鮮への制裁に参加することなく、北朝鮮との独自の関係を保ち続けようとしていることは、実は北朝鮮の暴発を抑えることになっている。

 脅威というのは、「脅威だと思う」ことによって脅威になる。張り子の虎であっても、それが「虎である」と相手が信じれば虎になる。ようは、相手がそのように「思う」か「思わない」かで決まるのである。小野寺防衛相は「脅威となる核兵器を持っている」と述べているが、北朝鮮側からすれば、これこそが彼らの目的であり、その目的は達成されていると言わざるを得ない。

 ことここに至っては、北朝鮮に対して有効なのはアメリカに従うのではなく、中国・ロシアと共同することだ。日中露で北朝鮮を経済援助するということでもいい。ようは自分たちが影響を及ぼすことができる関係の中に、北朝鮮を組み入れることである。排除し疎外させることではない。

 しかしながら、「脅威となる核兵器を持っている」としたことで、ではどうするのかというと、その先はアメリカまかせである。北朝鮮の脅威を煽り、なまじトランプ政権による軍事制裁を期待していて、実際のところ、アメリカはなにもしないということになった場合、どうするのであろうか。

 実質的にアメリカは、北朝鮮が核兵器を持ったとしても、広大な太平洋の向こう側にいるのであまり関心はない。だからこそ日本は「あんなものは脅威でもなんでもありませんねえ」と言っておいて、裏で中国・ロシアと対策を練ることをすればいいのであるが、アメリカとの従属構造の下にある日本は、そうしたアメリカ抜きの外交ができない。

 そもそも日本は北朝鮮をどうしたいのか、アメリカの軍事行動があった方がいいのか、そうではないのかがまったく明確になっていない。脅威は煽るが、北朝鮮とアメリカの動きを対岸の火事を眺めるようにただ拱手傍観しているだけである。

 その一方で北朝鮮のことよりも、本来、やらなくてはならないことがまったく進展していない。今朝の毎日新聞は社説でこう書いている。

「政府の文書管理をめぐり、看過できない動きが起きている。

 国家戦略特区の認定手続きの文書記録について政府は「透明性向上」を理由に新たな基準作りを検討している。だが、その内容はむしろ透明化に逆行し、情報隠蔽(いんぺい)を正当化する意図すら読み取れる。

 加計学園の獣医学部新設をめぐっては安倍晋三首相と学園理事長が親しい友人関係にあることが手続きをゆがめたとの疑いを持たれている。

 内閣府が「総理のご意向」をかさに着て文部科学省に圧力をかけたと受け取れる文書が同省内で見つかった。実際に不当な圧力があったかは「言った」「言わない」の水掛け論でうやむやにされたままだ。

 問題の再発を防ぐのであれば、利害の対立する省庁間の調整過程を記録に残すことをルール化すべきだ。行政文書を保存・公開する意義は、政策決定の結果だけでなく、その経緯を記録する点にこそある。それにより権力の行使に不正がなかったかを検証できる。民主主義の根幹だ。」

 森友・加計問題で明らかになったことは、官庁は自分たちの仕事を記録に残し、それを保存し、公開するというあたりまえの基本的なことをやっていないということだ。このままだと政府に都合が悪いことは記録に残さなくていい、残したとしても国民に公開しなくていいという社会になる。いわば近代社会、民主主義社会の基本中の基本ができていないということになる。何度も書いていることであるが、北朝鮮よりもこっちの方がもっと重要なのである。

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