April 30, 2007

島田裕巳『中沢新一批判』を読む

 島田裕巳の『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』を読んだ。読みながら思ったことは、中沢新一を論じる本書の内容が、良くも悪くも島田裕巳その人をよく表しているということだ。

 本書の最初の方で、島田さんと中沢さんは、東京大学文学部宗教学研究室の先輩と後輩であり、指導教授も同じ、中沢さんが大学院博士課程に進み、ネパールにチベット密教を学びに旅立った後も、島田さんはしばらく手紙のやりとりをしていたということが書かれている。それほどの間でありながら、本書の中では中沢新一は宗教学者であるだけではなく、チベット密教の修行者でもあり続けていることがわかったとか、中沢新一は実はコミュニストであったとか、当たり前の至極当然のことを、今になってわかったということが書かれている。

 こんなことは、1984年に出版された『チベットのモーツァルト』以降の中沢さんの一連の著書を読んでいる者であったのならば、あたりまえのことであって、それも今になって中沢新一とは実はこんな人物だったのかと書かれても、つまり、島田さんは中沢新一の本を読んでこなかったのですねということになる。80年代のニューアカブームのまっただなかで学生時代を送った私にとって、中沢新一は新しい学問の姿だと思っていたし、チベット密教のポスト構造主義的解釈は極めて斬新なものであった。そうした動向を、島田先生はまったく意識していなかったということになる。もちろん、島田さん個人が何に関心を持とうと、それは島田さん個人の自由である。しかしながら、宗教学者であるというのならば、あの時代、宗教について新しい視点を持ち込んだ中沢さんの業績は、否定するにせよ肯定するにせよ見るべきではなかったのか。

 そもそも、島田さんと中沢さんでは、宗教に対するスタンスが違う。中沢新一は、宗教学である前に、チベット密教の信者である。信者であると共に、研究者でもあるというスタンスをとっている。これに対して、本書の中でも書かれているように、島田はいかなる宗教の信者ではない、宗教の信仰や修行については関心がない。その意味で、島田さんの関心事は、宗教そのものというより、宗教社会学である。つまり、島田さんの観点から見れば、中沢さんの言動は理解できないのは当然のことなのである。

 若干の暴論であるかもしれないということを意識しつつ書くと、島田さんの言う、中沢さんの著作や言動はオウム真理教に大きな影響を与えた、だからその反省と総括をせよというのが私には理解できない。まず、中沢さんの著作や言動が、オウム真理教に大きな影響を与えたということについては、それは影響を受けた信者はいるであろうが、教団としてのオウム真理教にいかなる影響を与えているのかということになると、簡単に言えることではない。中沢新一の『虹の階梯』が、オウム真理教の教義にどのように関わっていたのかということは、島田さんの本書からではわからない(私個人としては、『虹の階梯』のタネ本がなんであったのかわかって参考になったが)。

 『虹の階梯』があろうと、なかろうと、あの教団はあの教団だったと思う。実際、教団では、チベット語の教典を翻訳して使っていることもあったようだ。『虹の階梯』に書かれている内容と同じようなものは、いくつもあったであろう。グルへの絶対的帰依は、密教ではあたりまえのことであり、『虹の階梯』の主張ではない。ニンマ派についても、オウム信者たちは知っていたであろう。いずれにせよ、オウム神仙の会からオウム真理教に至る教団とチベット密教の教義的な影響や関連については、未だ解明されていない。このへん、あえて言えば、島田先生はオウムについて分厚い本を書いているのに、教義の内容そのものを(安易に、中沢の本が悪い!とするのではなく)解明しようという意志はないんですかと問いたい。ちなみに、これこそ宗教学の作業であり、宗教社会学で扱えるテーマではない。その意味で、島田先生にこれを求めるのは酷だなとは思う。本来、書いて欲しいのは、中沢さんであることは私も同意するのだけれども。

 むしろ、あの時代のオウム真理教をめぐるメディアの中で、中沢新一は圧倒的なオウムシンパの第一人者(?)であったということは、これは確かにそうだったと言える。そして、中沢さんと比較すれば、それほどでもない島田さんのオウム擁護の言動であったが、島田さんはメディアから謂われなきバッシングを受け、中沢さんはそうでもなかった。これこそ考察すべきことである。これは、中沢新一のせいでも、オウム真理教のせいでもない。その意味で、島田先生はメディア社会学の分厚い本を書くべきではないかと思う。島田さんが問うべき相手はメディアであって中沢さんではない。

 中沢さんがテロを擁護しているということについて、島田さんは何を言っているのかよくわからない。テロを肯定しているというのは、どのような文脈でそうしているのかであり、発言の言葉だけを捕らえて、殺人そのものを肯定していると解釈するのはおかしい。本質的に宗教とは反社会的なものを持つ、ということは間違っていない。それを言うことでテロを容認しているというのは、おかしな話だ。ましてや、一連の事件はオウム真理教教団そのものの責任であって、中沢さんは関係はないことは、上祐史浩が自身のサイトで書いていることを読んでも明らかである。島田さんは、中沢新一をオウム真理教の「隠れた教祖」「隠れたグル」とさえ書いている。しかし、当のオウム側はそうではなかったと見るのが妥当であろう。オウム真理教の事件で、中沢さんに責任があるかような主張は、それこそあの頃、島田さんが受けたバッシングそのものであり、同じことをやっているようなものである。

 中沢新一の言う「霊的革命」や「霊的ボルシェビキ」を、これはレーニンのボルシェビキ革命と同じだとするのも、ロシア史を見れば必ずしもイコールではないことがわかる。中沢さんの思想は、テロを正当化する思想であるというのならば、それはそれで「正しい」とも言える。そもそも、中沢さん自身、「人これを邪教と呼ぶ」という密教の修行者だと語っているのである。かりに、そうであったとして、だからなんなんですかと問いたい。地下鉄サリン事件の幇助として罰しようというのであろうか。地下鉄サリン事件での犠牲者がかりに1万人、2万人であった場合、どのような意味を持ってくるのか考えるということは、宗教学者として至極当然のことだと思うが、そうした発言をテロ容認と解釈するのは、悪意のある解釈と言わざる得ない。

 それでは、例えば、自衛官が福井晴敏の『亡国のイージス』を読んで、北朝鮮の工作員と内通してイージス艦を占拠するようなことが起きたら、福井晴敏は反乱幇助ということになるんですね。『パトレイバー2』を見て、陸自の部隊がテロを起こしたら、押井守はテロ幇助になるんですねと言いたい。また、同様にコミュニストであるからなんなのですかと思う。島田さんのマルクス主義理解については、もはや話にならない。この人は、コミュニスト・イコール・テロリストとしてしか見ることができない人のようだ。弁証法や唯物論で宗教を語る中沢さんの宗教論を、島田さんは宗教学者として考えたことはないのであろうか(ないんだろうなあ)。

 「リセット願望」を、「高みから見るエリート思想」だとし、中沢家は祖父は東京帝大卒であり、三人の叔父のうち二人が東京帝大卒、中沢さんも東大卒というエリートであるとし、さらにオウム真理教も実行犯は大学卒や院卒が多い、日本共産党も幹部の大半は東大卒であったと述べ、そうしたエリートであるが故に、高みから傍観者的に世界を見ているから、サリンによる大量殺人も他人事のように考えるのだとする記述にいたっては、「はあっ?」というものであり、島田さん自身も、自分も東京大学出身者だから宗教の研究をしていても、大所高所からついものを見て考えてしまう云々かんぬんの文章を読んで、なんなのかこの人はと思った。

 以前、島田さんの分厚い『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』を読んだことがある。なぜ宗教はテロリズムを生んだのか、これを読んでもさっぱりわからなかった。結局のところ、宗教が内在する反社会的内容を理解しようとせず、大学卒だからとか院卒だからとか、東大卒だからとか言っている人のオウム論など、底の浅いものになるのは当然であろう。

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November 04, 2005

「日本の古本屋」で古本を買う

 アマゾンコムやBK1といったオンライン書店は、たいへん便利なものである。あの作者はどんな本を書いていたのかを調べる時や、読みたい本が本屋にない時などはオンライン書店で買う。あるテーマについて、どのような本があるのかざっと知りたい時などもオンライン書店は役に立つ。

 しかしながら、世の中のすべての本がオンライン書店で買えるわけではない。当然のことながら絶版になった本は買えないし、検索にもヒットしない。高校の頃や大学の頃によく読んだ本で、最近になってまた読み返してみたくなっても、実家の本棚にも押し入れの中にもその本がなかったりすることがある。そんな時、じゃあもう一度改めて買って読もうと思い、アマゾンコムやBK1で検索をしてもヒットしないことがよくある。デジタル情報の世界では、デジタルデータで存在しないものは存在しない。こうなると、あの本が本当にあったのかどうか、自分の記憶すら疑ってしまう。

 インターネットの情報量は、日々すさまじい勢いで増加しているが、本というものについては、ネット上の情報よりも紙で存在している、あるいは存在していたもの方が多いのであり、ネットでの本の情報は、本の全情報のそれこそ一部でしかない。デジタル時代の今日、絶版になった本を入手するにはどうすれば良いか。古本屋を一軒一軒足で歩き回って探すしかない。大体、昔はそうやって本を買っていたものだ。

 ところが、ありがたいことに古本屋さんもまたデータベースを作っていて、ネットで検索をして、本の注文ができるのである。もちろん、これもまたすべての「本」の情報が登録されているわけではないが、まずここで検索をしてみてヒットすれば、足で探す手間が省けるというものである。このデータベースはいくつかあって、僕がよく使うのは「日本の古本屋」というデータベースだ。ここで検索をすると、このデータベースに参加している日本各地の古本屋さんの在庫を検索してくれる。探している本が、例えば長崎の古本屋さんだったりすると、どんな古本屋なのだろうと店名から想像したりする。東京の神田神保町の古本屋ならよく知っているけど、あとはせいぜい京都の古本屋の数件ぐらいしか僕は行ったことがない。見知らぬ遠い街の古本屋を想像するのは、なかなか楽しいものだ。

 先日、「日本の古本屋」で検索して注文した森本哲朗さんの『森本哲朗 世界への旅』全巻が自宅に届いた。在庫があって届けてくれたのは大阪の吹田にある古本屋で、おおっ、はるばる大阪から届いたんだとひとしおの感激であった。大阪など、新幹線で3時間で着くし、外国とメールのやりとりをしている方が距離的に遠いはずであるのだが、なんか「本」というモノが大阪の古本屋さんから届いたんだなという実感がなぜかある。探していた本がついに手にとることができたという実感は、情報や知識がデジタルデータになっている今の世の中ではなかなか得難いものではないだろうか。むしろ探さなくては手に入らないという書物こそ、現代では貴重なものなのではないだろうかと思う。

 多少大げさに言えば、かつて玄奘三蔵は仏教の経典(つまりは本だな)を求めて、わざわざ唐からタクラマカン砂漠を越えてインドへ旅に出た。それほどのことをしても必要な価値があったということなのであろう。しかしまあ、僕の場合は、足で歩き回ってようやく探し当てたものではなく、やはりネットで検索して入手したものなのであるけど。とても、玄奘三蔵の足下にも及ばないワタシであった。

 高校生の時、森本さんの『ことばへの旅』や『人間へのはるかな旅』や『サハラ幻想行』を読んで、自分も将来、森本さんのように旅をして本を読む人になろうと思っていた。高校のあの頃、森本さんの本を読んでいた時、世界は未知であったが、自分の人生はこの先、無限蔵に時間があると思っていた。あの頃から20年以上たった今、それなりに旅をしたり、本を読んできたが、自分はそれらから何を学んだのだろうと考える。もう一度、いや何度でも、森本さんの本を読んで原点に帰ろうと思う。

 雑誌「COYOTE」の最新号(No.8)に、沢木耕太郎と森本哲朗の対談が載っていて、森本さんはまだご健在であることを知る。一人旅をもう何年もやっていない。ここらでいっちょう、また旅に出なくてはと思う。

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October 17, 2005

『レディ・ジョーカー』を見て読む

 少し前のことになるが、映画『レディジョーカー』がいいというので、近所のTSUTAYAで借りて見てみた。小説の映画化作品なので、話の内容がいまひとつよくわからない部分が多かったが、それでもシリアスな緊張感とこの社会への憤りが凝縮した映画であった。一見、社会的弱者が強者を陥れ、社会に混乱をもたらす復讐を行う物語であるかのように見えるが、実際のところ誰もが、この日本社会という(オランダのジャーナリストのK.V.Wolferenがいう)「人間を幸福にしないシステム」の中で、人としての脆さを抱えながら必死で生きているということだけなのだと思う。この犯罪には、被害者も加害者もない。そして犯行が成功した後も、社会の矛盾への憤りは解消されることもないという物語だった。

 出演している役者が、岸辺一徳さんや國村隼、大杉漣、吹越満、長塚京三といい役者がそろっていて、渡哲也も吉川晃司もいい演技しているじゃあないですか。というわけで、コレハ原作を読まなくてはならないと思い、高村薫の原作本を買ってきて読んだ。分厚い上下2巻で、しかもページは上下2段になっていて、かなりの長編小説であるが、電車の中などで読み続け、つい先日読み終わった。映画の方もレンタルで何度も借りるのは面倒になってきて、とうとう渋谷のHMVでDVDを買ってきて真夜中に寝る前に少しづつ何度も繰り返し見るというハマリ度であった。

 原作を読むと映画の話の展開がよくわかるようになった(あたりまえか)。確かに、映画の方は原作のかなりの部分をカットしているが、これは映画化として当然のことだ。しかし、社長誘拐事件を起こさざるえなかった各人の心情を映画は十分に表現していたかというとそうでもなかったと思う。これは映像による心情の表現は映像より小説の方が向いているということであろう。映画の脚本は良く出来ていたと思う。

 最近流行の保守的な考え方では、社会的弱者とは、その人本人の自己努力と自己責任が云々という話になるが、そう言い切れるものではないということが、この小説を読むとよくわかる。保守主義の思想の根本には、簡単に言えば、人は個として自由であり、その自由意思に基づく判断をする。従って、その判断による結果はその個人が受け止めるべきである。だから世の中が悪いとか、社会が悪いとかガタガタ言うのではないという考え方がある。しかしながら、この日本社会のどこに「個としての自由」があるのかと思う。1984年に起きたグリコ・森永事件をモチーフにしたというこの物語は、日之出麦酒という麦酒メーカーの社長誘拐事件を中心にして、差別問題、警察内部、マスコミ内部、総会屋と政治家、在日朝鮮、株式市場などの闇の部分、裏の部分を克明に描いている。自分の知っている世界は、ほんの小さな一部の世界であることを知る。

 警察組織の中で個であることを忘れまいとする合田刑事よりも、日之出麦酒の社長城山恭介が組織人と個人の間で葛藤する姿が良く出ていたと思う。この事件が、昭和23年の日之出麦酒神奈川工場での解雇に始まっているのならば、そんな昔の出来事の責任を取る義務はないの一言で済ますことができるかもしれない。しかし、日之出麦酒の社長であるということと、自分の姪がこの犯行事件の遠因になっていることを知り、企業人ではなく、人としてこの家族の出来事にどう対応したのか、この時のことがこの企業脅迫事件を招いたのではなかったと考える。企業人でありながら、誠実さと内省さとを持った城山を長塚京三が演じていたのはいいキャステングだったと思う。長塚京三は、この映画と同じ監督の『ザ・中学教師』でもいい役者だった。城山恭介の内省さが、このどこまでも重く暗い物語の中での救いだった。

 50年前、日之出麦酒を解雇された物井清二の無念さとその背後にある貧困と差別の問題は、かつての時代ならば社会主義者が世に主張していたであろう。だが、今の平成日本では、社会主義イデオロギーはもはや社会的勢力とはなりえない。しかしながら、いわゆる社会の矛盾というものは、今日に至るまでなんら解決していない。ならば、今の時代は誰がそれを世に主張するのであろうか。もちろん、社会の矛盾は解決することはない。しかし、この社会には矛盾があるということすら、もう誰も言わなくなったではないか。言うことすらムダだというのであろうか。矛盾を矛盾だと感じ、その矛盾の中で生きているという自覚と怒りと哀しみを持つということすら、今の時代は必要ないというのであろうか。

 しかし、小説『レディジョーカー』がかなり売れたことを考えると、そうでもないということがわかる。映画を見て、小説を読み終わった今、重い気持ちの中でそう考える。

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August 08, 2005

佐藤卓己『八月十五日の神話』を読む

 佐藤卓己著『八月十五日の神話』(ちくま新書)を読んだ。日本が、ポツダム宣言を受諾したのは8月14日である。そして、連合軍への降伏文書に署名をしたのは9月2日である。つまり、太平洋戦争が終結したのは9月2日なのだ。しかしながら、今日、我々は8月15日を「終戦の日」としている。まるであたかも、この日に戦争が終わったかのように思っている。これは一体なぜなのか。本書は、この疑問に答えるものである。

 ここで、終戦当時の状況を整理したい。

7月26日 トルーマン大統領がポツダム宣言を発表
8月06日 広島に原爆投下
8月08日 ソ連が日本に宣戦布告(ソ連による日ソ不可侵条約違反)
8月09日 長崎に原爆投下 
8月14日 御前会議にてポツダム宣言受諾を決定
8月15日 昭和天皇による終戦の詔勅の放送
8月19日 大本営より内地(日本国内)部隊への全面的な戦闘停止命令
8月22日 大本営より外地(日本国外)部隊への全面的な戦闘停止命令
9月02日 降伏文書調印
9月05日 ソ連軍、北方四島を占領

 つまり、上記を見てもわかるように、8月15日は天皇の玉音放送があったということだけで、連合国へのポツダム宣言受諾の通知は、その前日の14日である。それも「ポツダム宣言受諾した」という通知だけであって、実質的に日本の降伏が決定するのは、9月2日の東京湾の米戦艦ミズーリ号上での降伏文書の調印である。連合国の多くは、9月2日を対日戦勝記念日としている。太平洋戦争の終結は、常識的に考えて、日本国が降伏文書の調印した9月2日なのである。しかしながら、戦後の日本では、終戦の日を9月2日と思う人は数少ない、やはり8月15日になる。

 この8月15日を、終戦の日であると戦後日本人の意識の中に植えつけたのはメディアであった。戦後日本は、8月15日に意味を持たせることで、9月2日を直視することを意図的に避けてきた。本書では、まず8月15日の玉音放送の放送後の報道写真のほとんどが、偽装された写真である可能性が高いことを立証し、戦後の日本人の記憶がメディアによって創られたことを指摘する。さらに、講和条約が発効する1952年から、新聞が8月15日を「終戦の日」というイメージの定着を本格化させた。この時期から、新聞紙上には「降伏」や「敗戦」という言葉はなくなり、「終戦」という言葉が多く使われるようになったという。

 8月15日は、盂蘭盆会の時期であった。つまり、終戦と戦没者慰霊をひとつにして捉えるようにメディアが創作したのである。ここで重要なことは、9月2日の東京湾の米戦艦ミズーリ号上での降伏文書の調印式は報道されていないということだ。大多数の国民にとって、体験としての戦争の終わりは、8月15日の天皇の玉音放送であった。佐藤氏はこれをこう書いてる。

「「放送された玉音」と「放送されなかったミズーリ調印」の違いは無視できない。玉音放送が伝えた「終戦」は、公式文章の「降伏」を国民体験の記憶で覆い隠してしまった。」

 すなわち、戦後の日本は、戦争を国民の体験にある「出来事」として扱ってきたのである。だからこそ、戦没者への慰霊と戦争の終わりを一緒にする必要があった。戦後の日本人は、あれは敗戦や降伏ではなく終戦だったのだと思いたかった。日本政府もそう思いたかった。メディアは、その国民感情と政府の意思を巧みすくいあげ、8月15日を終戦日とすることは、あたかも事実であるかのようにすることに成功した。日本人にとって、終戦の日とは、お盆の伝統的行事のひとつになったのである。靖国神社でも、8月15日はただの日であって、英霊の慰霊は春と秋の例祭と7月の御霊祭りである。それが特別な日になるのは、1963年に閣議決定された「全国戦没者追悼式」要項に基づく。8月15日が終戦記念日と公式になるのは、ここから始まる。それは「玉音の記憶」に基づく戦没者の追悼であった。

 では、「玉音の記憶」を持っていない世代は、戦争をどう受け止めたらよいのか。

 本書を読んで思ったことは、最近の8月15日をめぐる騒動の根本的原因はここにあると思った。つまり、戦後の日本が、あの戦争をこうして曖昧にしてきたから、60年後の今日、これほどモメているのである。8月15日を「戦争の終わり」として、他はいっさい顧みないということは、佐藤氏も本書に書いているが、これは「あまりにも自国中心主義に凝り固まっている」歴史意識であろう。8月15日を終戦の日とすることは、9月2日に日本は敗戦したという事実には眼を向けないということである。そして、戦後もまた天皇の国体は維持されたということを示すものである。ここに戦後の保守も進歩派も、メディアによる8月15日の神話の創作を認めてきた理由がある。

 しかしながら、それはもはや時代遅れだ。60年たった今でも日本人は敗戦の事実に眼を背け、「玉音放送の記憶」を持つ世代たちだけで、閉ざされたメディア空間を形成し、共同幻想のカプセルの中に入っていると言わざるを得ない。

 我々は、あの戦争の記憶の伝承を体験者の体験に基づいて理解しようとしている。あの戦争を、個人の体験や経験から一歩離れた、客観的、普遍的に考えることをしない。戦後日本が選択した方法は、このような民族の共同体の記憶としての「戦争」であった。だからこそ、天皇による終戦の詔勅が放送された8月15日を「戦争の終わり」としてきた。しかしながら、今の若い世代は、前の世代が常識としていた世代間の継承というものが通用しなくなっている。

 戦争の記憶の風化が叫ばれて久しい。しかし、メディアは、本気で若い世代に戦争を伝えようとしているのだろうか。「あの日は暑かった」では、若い世代には通じないであろう。「玉音放送の記憶」を持つ戦中派たちが「体験」としてあの戦争を留め、自分たちの世代の記憶として戦争は終わりにしたいという願いがあったからこそ、9月2日の敗戦ではなく、8月15日の終戦にしてきたのではないか。しかしながら、佐藤氏も書いているように、戦争とは、戦中派の世代が「体験」として特権的に語るべきものではない。むしろ、戦後に生まれた私たちが、その体験から考えていくべきものなのである。

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April 03, 2005

「中央公論」の4月号を読んで

 前回、「現代思想」での原武史氏の天皇制についての評論について書いた。昨日、所用で渋谷へ行ったので、じゃあついでにブックワーストに寄ってくるかなと行ってみた。そういえば「ユリイカ」の今月号はブログ特集だったなと思い、総合雑誌の棚へ足を向けてみると、「中央公論」の今月号が学力崩壊についての特集であるというのが目に入った。ふーん、なるほどと手にとってページをパラパラめくってみると、なんと原武史氏の対談が載っているではないか。原先生が「宮中祭祀」について語っているじゃあないですか。うーむ、知らんかった。というわけで、さっそく買って読んでみた。

 この対談の内容を一言で言えば、女性天皇を認めるのは良いが、「宮中祭祀」の問題があるということである。「宮中祭祀」とは、天皇家の行事である。この儀式の中には、大嘗祭や新嘗祭のような大和時代からの儀式もあるが、朝廷儀式が今日のような姿になったのは孝明天皇(この次の天皇が明治帝である)の祖父の光格天皇からであり、以後今日に至るまで男性の天皇が中心に祭祀を行ってきた。そもそも、この「宮中祭祀」を規定している皇室祭祀令は、1908年(なんと明治41年なのだ!)に公布されている。この法令は、日本国憲法が施行された1947年に廃止されているが、実際のところ今日に至るまで、この皇室祭祀令に従って宮中祭祀が行われている。

 近代天皇制での天皇には、基本的に次の2つの役割がある。ひとつは、「外」の役割。国内や外国の式典に出席し、マスコミを通して人々の前に姿を現す、まさに日本国民の象徴として天皇である。もうひとつは、「内」の役割。国家神道の祭司として天皇である。皇祖皇宗に向かって国民の平和と繁栄、あるいは五穀の豊饒を祈る。この「内」としての天皇は、皇居の中の宮中三殿で行われ、この場所は非公開になっている。この祭祀には、女性は出席できない祭祀がある。また、女性は妊娠中や生理中は宮中三殿には上がれない。つまりどうも、天皇家の「外」には、西暦(キリスト教暦)で言えば、21世紀の時間が流れているのだが、天皇家の「内」は18世紀で停止しているようだ。

 今、一般国民は「外」の天皇しか意識していない。当然のことながら、「内」の天皇は(天皇とは、そうしたものなのであろうということは国民は理解してはいるが)あまり知られていない。あまり知られていないままで、今の男女同権の世の中なのだから、女性天皇があったっておかしくないと考えている。とにかく皇統を絶やしてはマズイなということで、女性天皇があっても良しとしている。しかしそれは、近代天皇制とは、上記の「外」と「内」のワンセットで成り立ってきたという事実を見ていない。

 この「見ていない」というのは、つまり、それほど現天皇夫妻は、見事にその役割を努めているということなのであろう。民間出身の現皇后はたいへん聡明な方であり、天皇家のこの「外」と「内」の役割を理解し、「宮中祭祀」ついて非常に熱心に勉強されたという。この皇后が自ら作ってきたものを、自分と同じ民間出身の次の皇后に伝えたいと思うは当然のことであろう。ところが、かたや「外交をやりに行ってきます」と言って、天皇家に嫁いできた皇太子妃は最初からそのような意識は持っていなかったものと思われる。いわば、現皇后は、天皇家の守るべきものを自ら率先して守ろうという考えをもって天皇家に来たのに対して、皇太子妃は、天皇家は時代に合わせて変わるべきであるという考えを持って天皇家に来たのであった。

 もちろん、女性天皇があってもおかしくはない。しかし、その場合は、1947年に廃止されていながら、「なぜか」(この「なぜか」が重要だ)21世紀の今日に至るまで連綿と続けられてきた皇室祭祀令を大幅に修正する必要がある。あるいは、そもそも「宮中祭祀」をなくすということもありうるのではないか。ここに、皇太子の「時代に即した公務の内容を考えていく必要がある」という発言の意味がある。こうした皇太子妃を選んだ皇太子自身が、親の現天皇夫妻とは別の天皇家のあり方を考えていたことが十分理解できる。

 この皇太子の言葉に応えることは、宮内庁の範囲では対処できないであろう。宮内庁はそもそも役所であって、役所とは決まったことを、決まったように行っていくのが仕事である。皇太子がこう言っても、規則ではこうなっていますとしか答えようがないであろう。では、どこが対応すべきことなのか、というところで話は暗礁に乗り上げる。どこにも対応すべき場がないのだ。そして、上記のような本質的な議論がなされないまま、なんとなく女性天皇オッケーになって、皇太子が言ったことは誰も聞かなかったことにしよう、宮内庁が悪いつーことにしようとしていないだろうか。そして、世間的には、皇太子妃はひきこもっていないで早く仕事しろみたいな声が飛び交う。

 原氏によると、昨日ここでも書いたように、天皇家が「宮中祭祀」にこだわるようになったのは、貞明皇后とその女官長島津ハルの時代からである。この時代、宮中には国家神道とカルト神道信仰が融合していた。「神ながらの道」を極めれば皇祖神アマテラスになれるとし、「神を敬わなければ必ず神罰あるべし」と子の昭和天皇に絶えず言い続けていた貞明皇后の「意思」のようなものが平成の今でも生きている。この「意思」は昭和の香淳皇后に移り、平成の現皇后にもそれがある。今の皇太子妃が直面しているのは、この「意思」なのである。

 では、その「意思」は、現代の日本国民が求めているものなのだろうか。もしかりに、皇太子妃は現皇后の生き方を受け継がなくてはならない、受け継ぐべきであるとするのならば、なぜ「宮中祭祀」がこのような姿で今日もあり続けているのかという皇太子の疑問に答えるべきであろう。皇太子妃は長野への家族旅行には行ったが、もはや公務のほとんどに出席していない。これはもう皇太子は、祭司に皇太子妃が出席する必要はないと考えているのではないか。それは、常に2人で祭司を行ってきた現天皇夫妻に対する最大限の抵抗と言えるかもしれない、という対談の最後での原氏の意見は考えさせられる。

 皇太子夫妻は、われわれ日本人が本当に守るべきものはなにか、本当に変えるべきものはなんであるのかということを問いかけている。そして、さらに極端に言えば、神がかっていた貞明皇后と島津ハルの「意思」は残り、その「意思」の受け入れを拒む皇太子妃の「意思」は、なぜわがままとされ潰されるのかということを問いかけているのである。

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April 02, 2005

「現代思想」の3月号を読んで

 「現代思想」の3月号は、松本清張の特集であった。松本清張というと、米倉涼子の『黒革の手帳』じゃあなくて、どちらかというと『砂の器』の、それも好みとしては1974年の丹波哲郎主演の映画の方が好きなのだけど、そうした話ではなくて、松本清張の最後の作品は天皇制についての小説であったということについて考えてみたい。

 この特集の中で、その最後の小説『神々の乱心』ついて書いた日本近代思想史家の原武史氏の「『神々の乱心』の謎を解く」は特にたいへん興味深かった。この『神々の乱心』とは、舞台は昭和初期、ある新興宗教が宮中に入り込み、その教祖が三種の神器を奪い自らが天皇に成り代わろうという野望の物語だ。こんな話は、絶対にどの局もテレビ化はしないだろうなあ。原氏は、この小説は昭和初期に宮中であった出来事を踏まえて書かれているという。

 昭和初期の時代は、神道関係の新興宗教が多かったのではないかと思う。大きな勢力を持った宗教団体であったのが大本教である。大本教以外にも、様々な新興宗教があった。この時代は、軍事一色と思いきや、意外と数多くの新興宗教の教団や右翼や左翼の政治組織や活動があり、活発に活動を行っていた。その中で、神道系新興宗教が当時の皇居の中にも影響を及ぼしたのが島津事件である。宮中の元女官長であった島津ハルが、神道系カルト教団の神政龍神会に入信する。この神政龍神会は、やがて伊勢神宮の鏡は偽物であり、熱田神宮の剣も皇位継承のものでないと主張するようになる。島津ハルも、昭和天皇は早晩崩御すると預言するようになる。彼らは、不敬罪で逮捕された。宮中を辞めていたとはいえ、元女官長がカルト教団に入信していたことは、いかにこの時代、新興宗教が人心を掴んでいたかということがわかる。

 もうひとつ興味深い点は、昭和天皇とその母親の貞明皇太后との対立的な関係である。昭和天皇は、その皇太子時代の1921年に、半年にわたってヨーロッパ旅行を行った。この西欧行きに反対したのが、母の貞明皇后である。貞明皇后は、皇太子が西欧文化の影響を受けることを危惧した。昭和天皇は、その若き日においてモダニストであった。西欧から帰国したこのモダンな皇太子は、宮中の旧態依然とした制度の改革に着手する。後宮の女官制度を一新し、高級女官は住み込みではなく、通勤制にしようとしたという。当然、側近の老人たちは反対した。時の宮内大臣牧野伸顕は難色を示す。牧野は、宮中祭祀における高等女官の役割は重要であり、通勤制ではできないことを皇太子に説く。ところが、このリベラルな皇太子は承服せず。さらには皇室にとって重要な儀式である新嘗祭を休んで、四国へ旅行に出かけてしまったという。これを知った皇后は、皇太子は西洋風の習慣に影響されてしまい、宮中祭祀をないがしろにしていると思うようになる。

 元々、貞明皇后は夫の大正天皇が引退せざる得なくなったのは、大正天皇が祭祀に熱心ではなかったため神罰が下ったのだという後悔の念を持っていたという。貞明皇后は、自ら神道を学び、「神ながらの道」という思想の影響を受けていた。そして、自分もまた「神ながらの道」を極めれば、皇祖神アマテラス(アマテラスは女性神である)のようになれるのではないかと思っていたという。後に昭和になり、皇太子は昭和天皇になり、貞明皇后は皇太后になるが、貞明皇太后は常に昭和天皇に「神を敬わねば神罰が下る」と教え諭していたという。昭和天皇は、祭祀を熱心にやらざるをえなかった。島津事件で逮捕された島津ハルは、貞明皇后から厚い信頼を得ていた。そして、島津ハルも貞明皇后も国家神道としての神道ではなく、宗教としての神道を信仰していた。つまり、昭和初期の宮中には宗教としての神道が入ってきていたのである。昭和天皇が改革をしようと試みた皇室は、そうした場所であった。

 時代は変わり、1960年代に、侍従であった入江相政は、昭和天皇の高齢を配慮し、祭祀の負担を軽くすることを考えた。昭和天皇はこれを了承する。ところがここに反対者が出てくる。貞明皇后の代から仕え、香淳皇后からの信頼が強かった女官の金城誼子である。この女官が祭祀の軽減に猛反対する。入江相政は、この女官を「魔女」と呼んでいたという。金城は異常なほど神道を信仰し、あまりにも神道儀式へのこだわりが強かった。常識人である入江から見れば、金城は時代錯誤的な神懸かりに見えたのであろう。一人の女官が反対しているだけであるのならば、話はこれでオワリになるが、金城誼子は香淳皇后の気に入りの女官なのであった。ここで、香淳皇后は義母である貞明皇后と同じ存在になる。香淳皇后が祭祀の簡素化に断固反対するのである。入江によると、宮中にクーラーを入れようとした時、昭和天皇からは許しを得るが、これに反対したのも香淳皇后であったという。皇后は「賢所に釘を打ってはいけません。夏の暑さぐらいお耐えになれないお方ではいけない」と言われたという。金城誼子は、「真の道」という宗教団体の信者であった。これも昭和初期の島津ハルと重なる。

 しかしながら、入江は香淳皇后の祭祀簡素化の反対を押し切り、さらに女官の金城誼子を罷免する。金城を失った香淳皇后は悲しみに沈み、痴呆が進行していった。これを見た昭和天皇は動揺する。そして、宮中祭祀の簡略化を一度は承認したが、昭和天皇はその考えを改め、新嘗祭だけは最後の歳の前年まで自ら行ったという。父大正天皇が祭祀をおろそかにしたために、精神を病んだのだとかたく信じていた母貞明皇后の影がここにある。

 それでは、現天皇ではどうであろうか。原武史は、現天皇は昭和天皇よりも熱心に祭祀を行っていると書いている。なにしろ、現天皇は古稀を過ぎても一向に祭祀を休まれないのである。原武史は「そこには現天皇よりも現皇后の意向が反映しているのではないか」と書いている。現天皇は前立腺ガンが見つかった翌月にあたる2003年1月から5月まで祭祀を休むが、この間、現皇后はすべて出席している。ここにも、かつて貞明皇后が祭祀をおろそかにしたため夫に神罰が下ったと思った姿を見るのは考えすぎであろうか。大正、昭和、平成とすべて重なっていないだろうか。

 原武史はこう書いている。

「皇室内部の確執は昭和初期からずっとあり、それは必ず宮中祭祀をめぐっての半ば宗教対立に発展する」そして、この観点から現在の皇室を見た時、「宮中祭祀に非常に熱心な現天皇夫妻と、そうでない皇太子妃の対立があるように見える」と書いている。

「一方、皇太子妃はそもそも祭祀という宮中のしきたりになじめていないのではないか。新嘗祭には謹慎しなければならず、生理中は「マケ」といって宮中三殿にも上がれないような、女性を不浄なものと見なす価値観に嫌気がさしているのではないか。昨年の皇太子の「人格否定発言」も、このような皇太子妃の意向に引っ張られている印象を受けます。つまり、天皇、皇太子ともに、パートナーに影響されているように見えるのです。」

 皇太子妃側にもいろいろ問題はあるだろうが、嫁いだ先は上記のような場所であった。ここまで最初からわかっていたとは思えない。おそらく、今の皇太子夫妻の心情を理解できるのは祖父昭和天皇であろう。昭和天皇もまた若き日に西欧を旅し、その文化に学び、日本の天皇制を改革しようと試みた。その昭和天皇ですら、昭和という時代の中で、母貞明皇太后と妻香淳皇后と共に生きていかざるを得なかった。今の皇太子夫妻が直面しているものは、天皇制という今だかつて解かれていない最大の問題なのである。

 皇太子妃の意思は、近代天皇制に対してのかなり根源的な問いかけであって、それは皇太子が現天皇と「意思疎通をさらにおはかりいただ」ければ、それで済むものではないように思われる。意思疎通をはかれというのは、これまで通りの皇室を受け入れろと言っているのではないか。今の皇室問題は、日本人にとってかなり深くて大きな問題なのであるように思う。

 このように「現代思想」の原武史の評論文を読んで、天皇と皇后、カルト神道信仰、宮中祭祀をめぐる対立、今の皇室問題など、数多くのことを考えさせられた。『神々の乱心』もこれから読もうと思う。

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March 04, 2005

『終戦のローレライ』を読む その3

 というわけで、読了しました。

 潜水艦の戦記物小説であるわけだが、あの戦争とその後の60年間の日本の姿を顧みるような作品だった。そして、読み終えてみると、不思議にこれからの時代に希望を感じていることに気がついた。あの戦争と、それに続く戦後60年間の時代の意味を正面から見据えた作品だった。

 読了した今、感じることは、ようするに、「まだ終わっていないんだな」ということだ。なにが、まだ終わっていないのか。それは、ある意味においては、あの戦争そのものがまだ終わってはいないのであり、戦後の日本民族の復興ということが、まだ終わっていないのだということだ。戦後の日本について、浅倉大佐が言ったことは正しい。確かに、日本はこうなったし、日本人はこうなった。しかし、これで終わりではないのだ。浅倉が言う、戦後、日本人は「百年もすれば国の名前も忘れた肉の塊になる」で、オワリではないのである。

 あの戦争では、厖大な人々が亡くなった。戦火の中で生き残った人々が、この戦後日本を作った。この戦後日本に対して、浅倉のような見方をすれば、確かにそれはその通りであろう。しかしながら、食べるものもなく、あたり一面焦土と化した状況の中で、彼らはまず物質的に国を復興させること以外のなにができたであろうか。あの時代の国際社会の中で、アメリカに依存せざるして、どのように国際社会の中での位置を保つことができたであろうか。

 『終戦のローレライ』のラストは、「伊507」から離れたもう1人の主人公の若者が、その後の戦後の日本社会を生きていき、歳老いた老人になった今、あの戦いで死んでいった人々の意思を受け継ぐことができず、その後の人生は自分の生活を守って働いていくだけで精一杯であったことを悔やみ嘆く。

「自分という人間がいようがいまいが、この国にはなんの影響もなかった。目の前の仕事に追われて、雑事に振り回されて、それだけで精一杯だった。自由が腐ってゆくのを、指をくわえて見ているだけだった。こんなちっぽけな人間を生き延びさせるために、艦長たちは死んでいったのか?君の兄さんや掌砲長、機関長、軍医長たちは死んだのか?そうだとしたら、あんまりにも間尺が合わなさすぎる。清水や河野たちに、<伊507>のみんなに、おれはなんと言って詫びたらいいんだ・・・?」

 しかし、この若者と共に「伊507」から離れ、共に戦後の人生を歩み、共に老いて老婆になった女性は言う。「詫びることなんかないじゃない。」と。「あなたがずっと感じてきた痛みも、いま流している涙も。そういうことも全部ふくめて、いま私たちは生きている。きっとね、それが大事なことなのよ。」

 戦争で死んでいく者たちもいれば、生き残る者たちもいて、やがてそこから新しい命がはぐくまれ、そこに希望が生まれる。この物語の本当の主人公とも言うべき、数奇な運命を辿ってきたこの女性は、その人生の終わりに次の世代に未来の希望を託す。

 ここに作者のメッセージを感じる。あの戦争で死んでいった者たちの意思を継ぐのは、これからこの日本社会に生きる我々なのであろうと思う。この世の中は、カネがすべてで、即物的で、おもしろくなんともない社会であり、これが戦後日本そのものなのだけど、だからと言って、ここで終わってしまっては、浅倉が言った通りになるだけだ。つまり、まだ戦後は終わってはいないのである。今までとは違う戦後日本を、これから作ることができるはずだ。2005年、平成17年になっても、日本民族の復興はまだ途中なのだ。福井晴敏の『終戦のローレライ』は、読み終えてそう感じることができるいい作品であった。

 それにしても、これほどの小説をどのように映画化したのか。
 うーむ、期待するような、なんかコワイような・・・・。

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March 03, 2005

『終戦のローレライ』を読む その2

 現在、下巻の最後の方を読んでいる。読み終わった後での、全体を通して感想は別に書くとして、浅倉大佐がやろうとしたことについて考えてみたい。ちなみに、映画では浅倉大佐は堤真一が演じる。

 以下、ネタバレあり。

 浅倉は、ローレライ・システムをアメリカに渡し、その条件として、アメリカによる3発目の原爆投下の目標を小倉にではなく東京にしようとする。東京には、政府と軍部と、そして天皇がいるからだ。浅倉は、これらを日本から抹消しなくては、敗戦後の日本人の本当の独立はないのだと考える。なぜか。政府も軍部もポツダム宣言を前にして、天皇在権、国体護持のみにこだわるか、さもなければ徹底抗戦を唱えるだけで、誰も、この後の国のことを考えないからである。やむにやまれぬことからアメリカとの戦争になり、一億玉砕を唱えてきたが、陛下の御意志により終戦となったというストーリィーになり、ここに「責任」の2文字は存在しない。浅倉は、そうした政府や軍部の無能さや無責任さを糾弾する。つまり、このままでいくと、これほどの厖大な犠牲を出した戦争の総括もせず、誰も責任をとらないまま終戦となり、そのままで、日本人はアメリカの巨大な軍事力による占領を受けることになるのである。

 浅倉は語る。
「本来、個々人が持ち得ていた美徳や道徳観念を、義務として押しつけられた瞬間から、日本人は精神の豊かさを失った。我々は箍が外れ、米国の物量経済が真空地帯になだれ込んだら・・・・日本人は呆れるほど簡単に米国に尻尾を振るようになるだろう。指針を失った人心は形だけ真似た経済至上主義に飛びつき、まやかしの自由を謳って飢えを見たそうとする。そして、義務化された美徳や道徳観念は否定され、急速に人の心から消えていく。その先にあるものは・・・・復興に名を借りた欲望の暴走。狡猾、打算、成算。東洋の敗戦国を基地化し、植民地主義に変わる政治的支配の実験場として、ありとあらゆる試みを国家規模で押しつける勝者の傲慢。それを勝者の正義として受け入れる、敗者たる日本人の卑屈さ。」

 だから、浅倉は東京に原爆を落とし、腐った過去を断ち切ろうとする。
「神州など存在しない。現人神も存在しない。日本人の精神をぎりぎり支えてきた柱・・・幻想をこの手で打ち砕き、冷徹な現実を見据える目で己とはなにかを問いかけることだ。」「見つけられぬ者もいるだろう。あくまで幻にすがろうとする者もいるだろう。だが、そんな人間はこれからの先の日本、空前の精神的侵略に耐えなければならない日本にはもとより不要。真実の己を見出し、血と肉の通った美徳と道徳観念を取り出してこそ、日本民族は再興し得る。民族として尊厳をもって物量経済を御し、世界に比肩する国家になるんだ。」

 浅倉は、日本はアメリカに蹂躙される前に、国家の切腹をすべきだという。なるほど、いかにもという気がしないでもないが、一理ある考えであると思う。三島由紀夫の檄文にも通じるものがある考え方である。だから、原爆を落としていいとは思わないが、浅倉のこの考えを頭から否定することはできないであろう。もちろん、富野監督の映画『逆襲のシャア』の最後のシーンで、ネオ・ジオンの総帥のシャアがアクシズを地球に落とし、地球人類を粛正するということに対して、アムロが言った「革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるからいつも過激な事しかやらない」という名セリフは、ここでは浅倉大佐に向かって言うべき言葉であろう。

 実は、戦争が終わった直後の占領下の日本で、戦争責任問題はかなり深く論じられていた。丸山真男、大塚久雄、加藤周一、南原繁、共産党の徳田球一、宮本顕治、野坂参三らが、日本人の「主体性」や「戦争責任」について論じていた。いわゆる「天皇退位論」があったのが、この時期である。多少大げさに言えば、この時期、日本から天皇制がなくなってもおかしくもなんともない状況だった。それほど、日本人のナショナル・アイデンティティをめぐってラディカルな議論が1950年頃まで続いていた。しかしながら、その後、戦後思想は大きく変わり、平成の今、我々はそうした議論が過去になされていたことを知らない(学校の授業で、そんなこと習わないしぃ)。

 というわけで、『終戦のローレライ』の浅倉大佐の思想から、日本の戦後思想について書こうと思ったが、本日は、もはやそんな気力も体力ももうないのであった。あー、歳は取りたくない。

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March 01, 2005

『終戦のローレライ』を読む その1

 今週末から劇場公開ということで、なにしろあのガメラの樋口さんということで、やはりこれは見に行かなくてはということで、その前に原作を読んでおこうということで、と「ことで」「ことで」が続き、ということで、昨日の日曜日に福井晴敏の原作本を買ってきた。

 ちなみに、買ったのは文庫版の方ではなく、分厚いハードカバーの上下本の方だ。コレ表紙のデザインがカッコいい。福井晴敏は、以前、ターンエーガンダムの小説版である『月に繭 地には果実』を読んで以来、2作目ということになる。『亡国のイージス』も読んでいなくて、『終戦のローレライ』を読みを終わったら次はこれを読もうと、こっちは文庫版の方を買ってきた。

 今、上巻の終わりの方を読んでいる。会話が、あの時代の人間はこんな思考はしないよなあ、と思う内容なのであるが、それはまあ小説なんだからこれもアリだと思う。それにしても、これはもうガンダムだなと思う。「ゼータ」と「逆シャ」ではないか。アレは、どう見てもサイコミっつつ、ネタバレになるので書かないでおこう。あー、あと、「最終兵器ナントカ」もあるな。

 それにしても、日本海軍が、自分たちのことを「帝海」と呼ぶのは、僕は見たことも聞いたことも、読んだこともないのであるが、どこからこの言葉をもってきたのだろうか。しかしながら、この作品は、国家と戦争を正面からよく論じていると思う。本当は、小説の中ではなく、今の日本のマスコミなりで、こうした議論がされるようになればいいのにと思う。

 軍令部の浅倉大佐の考えは、どのようなものなのか興味がある。彼は、アレをどうしようというのか(なんつったって、アレだからなあ)。このへん下巻で明らかになるであろう。絹見艦長は、読んでいてこの人のイメージは役所広司になるんだよな。

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January 20, 2005

網野さんへの追悼本

 網野善彦という歴史学者がいた。もしこの人がいなければ、今の僕たちの日本理解は恐ろしく貧困なものになっていただろう。昨年、この革命的な歴史家は亡くなられてしまった。できることなら、講演会でもいいから、実際にお目にかかってお話を聞きたい人だった。網野さん亡き今、この本を読んだ。

『僕の叔父さん 網野善彦』中沢新一著 集英社新書(2004)

 大学時代、民俗学や人類学に関心を持っていた僕は、当然のことながら網野さんの『無縁・公界・楽』は読んでいたし、中沢さんの『悪党的思考』と網野さんの『異形の王権』の両方を読んで共通する部分があることを感じていた。網野善彦は中沢新一の叔父であることを知ったのは、もっと後になって中沢さんの本で知った。学生時代の僕は、中沢新一の本を深く読んでいて、実際に高野山やネパールにまで旅をするという宗教学少年だった。

 網野さんの本を本格的に読み始めたのは、社会人になってからだと思う。そのころ僕はよく仕事の休みをとって、外国を一人旅をすることが多かった。すると、日本について多面的に考えたくなってきた。そこで、網野さんの本を、もう一度、今度は『蒙古襲来』から体系的に読んでみた。そうして読んでいくと、網野さんの本は、単なる日本史の中世の歴史書ではなく、「日本」と「日本の歴史」にそのものについての、ものの見方や考え方を教えてくれるものであることに気がつくようになったのだ。網野さんの数多くの本を読むことで、自分の中の「日本」というイメージが変わった。例えば、自由主義史観に基づくという「新しい歴史教科書」がいかに新しくないか、いかに政治的で狭いものであるかがわかるようになった。歴史学とは、そうしたものではないのだ。『無縁・公界・楽』や『異形の王権』が、網野さんのこれまでの研究成果をまとめた本であるのならば、『日本の歴史 第00巻』は今後の歴史研究での課題を提起した本であると思う。

 この本の中で中沢さんは、『無縁・公界・楽』での網野さんのアジール論を次のように論じている。人間の本質は自由な意思であり、それが人間と動物を分けている。自由であるが故に、人間は言語や法の体系を自ら構成することができる。しかしながら、そうした構造が逆に人間の自由を束縛するのだ。すると、今度は人間はさらに根源的な自由を求める欲望を持つ。つまり、自由な意思が、言語や法を作り、それらがあることによって、さらに自由を求めるのである。人の意識は、社会的な規則への志向と根源的自由への欲望の二つを同時に持つ。この根源的自由を、現実の社会で表現したものがアジールであった。具体的に言えば、中世の寺社や宗教的な山などは、その中には公権力が介入できず、租税も免除されているところもあるという場所だった。つまり、国家権力が全土を覆っていたわけではなく、所々に「無縁」「公界」「楽」などと呼ばれるアジール的空間があったのである。これらは古代にはなく、中世になって出現した空間であることは重要だ。昔の時代だからそうだったというわけではないのだ。中世という時代の現象だったのである。

 こうした、国家権力が管理する場所もあれば、根源的自由がある場所もあるという多元的な社会は風通しがいい。なぜならば、アジールがある社会は、構造的・制度的なものを志向すると同時に、根源的自由も求めるという人の意識のスタイルにぴったりと合っているからである。しかしながら、やがて近代の国家権力は、アジールの存在を認めず、すべてを同一の権力のマトリックスの場としていった。アジールは破壊され消滅し、社会は自由で活力のある多元性を失ったのである。

 中沢新一はこう書く。
"そのことを「進歩」と言うのはまったくの間違いだろう。アジールを消滅させることで、人間は自分の本質である根源的自由を抑圧してしまっているのである。根源的自由への通路を社会が失うということで、「文化」は自分の根拠を失い、自分を複製し増殖していく権力機構ばかりが発達するようになる。ひとことで言えば、世界はニヒリズムに覆われるのだ。"
 そしてこう書いている。
"今日の歴史学は、はたしてニヒリズムを克服できているだろうか。自由の空間としてのアジールは実在したのである。「無縁」「公界」「楽」という中世の言葉で表現されたものこそ、人間の本質をつくる根源的自由を、空間のなりたちや人間関係の組織法や権力の否定をとおして、現実の世界に出現させようとしたものにほかならない。そう考えることから、新しい歴史学はほんとうにはじまることができるのではないだろうか"

 中沢さんのこの解釈は、いかにもポスト構造主義的な解釈ではあるが、事実そうだろうと思う。アジールという根源的自由への欲求を否定することで始まった近代のその延長線上に、僕たちが今住んでいるこの社会がある。

 本書ではさらに、自ら密教の儀式を行った異色の天皇であった後醍醐天皇をもとにして考えていた、天皇制についての網野さんの考察についても書かれている。沖縄の宗教の研究をしていた中沢さんが、突然のようにネパールに行きチベット密教を学んだことの本当の意味を理解していたのは網野さんだった。

 中沢家は、いつも議論をしている家庭だったという。中沢家の人々は、もともと「理念」や「理想」や「観念」というものを追い求める人々だった。中沢さんから4代前の徳兵衛という人は、平素から神官のような袴を履いて神祈祷を行う人だったという。もともと、中沢家の先祖は、諏訪大社と関わっている人であったようだ。その子は、明治にキリスト教徒に改宗した人である。その息子の中沢毅一もまたキリスト教徒であり、生物学者であり、国体を生物学・生態学的観点から考えようとした人であった。祖父と父親がキリスト教徒であるためか、この毅一の息子たちは、長男を除いてみなマルクス主義者になる。この家庭では、つねに思想的な議論が活発にあって、キリスト教と皇国史観とマルクス主義がごっちゃになっているという思想のるつぼのような家庭であったという。この毅一の息子の一人が、中沢新一の父親であり、民俗学者の中沢厚である。この父の妹が網野善彦に嫁ぐ。網野さんから見れば、妻の実家に足繁く出入りすることによって、こうした中沢家の知的環境を共にすることになった。そして、ここで妻の兄の子として、後にこれもまた特殊な宗教学者になる中沢新一と出会う。中沢さんは、当時5歳だったという。

 思えば、網野善彦と中沢新一という、共に希な歴史と知の思索者が人生のある部分を共有したことは不思議なことだったと思う。中沢さんは、あとがきの中でこう書いている。

"古代人が「オルフェウスの技術」と呼んだものをとおして、人は亡くなった人々や忘れ去られようとしている歴史を、現在の時間の中に、生き生きと呼び戻そうとしてきた。墓石や祈念碑を建てても、死んでしまった人たちは戻ってこない。それではかえって死んだ人たちを遠くへ追いやってしまうだけだ。リルケの詩が歌っているように、記念の石などは建てないほうがよい。それよりも、生きている者たちが歌ったり、踊ったり、語ったり、書いたりする行為をとおして、試しに彼らをよみがえらせようと努力してみることだ。
 網野さんの歴史学が、まさにそういう行為をめざしていたのではないだろうか。"

 本書は、中沢新一が叔父網野善彦の思いをよみがえらせた本である。
 そして、僕たちにとってのそのことは、網野さんが残した壮大な課題をおのおのの立場で考えていくことだと思う。

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January 16, 2005

『生きづらい<私>たち』

 先日、香山リカの本について書いたが、その勢いに乗ってさらに読んでみた。

『生きづらい<私>たち』香山リカ著 講談社現代新書(2004)
『若者の法則』香山リカ著 岩波新書(2002)
『ネット王子とケータイ姫』香山リカ、森健著 中公新書クラレ(2004)

 僕は、香山リカより何歳か年下になるが、大ざっぱに言えば「同じ世代」に属すると思う。僕は、80年代バブル期をワカイモンの一人として過ごした。思えば、あの時代、世代比較の対象としたのは自分より上の世代の若い頃の時代であって、年代別に分けると、60年代の全共闘世代、70年代のニューミュージック世代、そして僕がいた80年代の新人類世代になる。こう考えてみると、どの世代の若者もそれなりにその時代の中で「生きづらさ」を感じていたとも言えるであろう。

 だとすると、なにもことさら2000年代の若者が特別というわけではなく、いつの時代もワカイモンはそういうもんだったのかもしれない。上記の三冊目の、ネットについての本にしても、僕がワカイモンだった頃にはメディア・リテラシー教育なんてものはなかった。もちろん、当時はネットの社会普及率はまだ低かった。さらに、僕がネットを使うようになったのは90年代になってからであり、パソコン通信の最後の時期である。その時、僕はもう大学を卒業した社会人だった。今の若者のように、もの心ついた時からネットや携帯電話があったわけではない。

 今の若者が置かれている状況を、これまでと同様のよくある若者の状況として捉えるか、それともテクノロジーの進歩によるまったく新しい状況なのだと捉えるかで見方は大きく変わってくる。しかし、それは80年代も同様であって、あの時代はパソコンやネットワークが初めて現れた時代であり、コンビニの店舗数が急速に伸び、「個」であっても全然困ることがない時代の始まりだったと思う。つまり、80年代から、いつの時代にもよくある若者の状況の中に、メディアテクノロジーや経済が介在するようになったのだと思う。単身者というものについて、今でこそ「負け犬」と呼ばれているが、80年代当時は「シングル」には肯定的な意味があったと思う。

 文芸評論家の川本三郎は1986年に雑誌にこう書いている。
"しかし、ポスト・モダンといわれる現在、日本の社会にも徐々に"個独"が認められるようになってきた。模倣から創造へと産業のスタイルを変えていかなければならなくなった社会では徐々にだが"個独"が認められてくる。みんなといっしょにでなくてもいい、ひとりだけ変わったやつがいてもいい、と時代の流れが少しずつだが変わってきている。"
"情報社会の進行とともに、"個独"でいることがラクにできるようになってきた。"
""個独"とは自閉であるという批判もあるが、自閉の状態もよく考えれば、その人の内面がひとりでいられるだけ充実しているということであり、創造者にとってはむしろ自閉は歓迎すべき状態ではないかと思う。"
"電話はある、ビデオはある、ファクシミリはある。人と人が顔をつきあわせて「有機的な」コミュニケーションをはかる度合いが薄くなってきて、"個独"な人間どうしの距離を置いた「無機的な」コミュニケーションが広がってきている。情報社会の無機的な生活環境が、"個独"な人間を作りだしている、とさえいえる。逆に言えば、従来の、カラオケ・宴会型の人間にとっては生きにくい状況が生まれつつある。"
(川本三郎著『シングル・ソサイティ』リクルート出版、1987)

 川本は、情報テクノロジーの発展によって"個独"であることが可能な世の中になり、従来の集団主義的なカラオケ・宴会型人間は「生きにくい」時代になってきたと書いている。つまり、シングルは情報社会(って今では死語だな)に適応した新しい人間の生活スタイルであると考えられていたのである。しかしながら、この時代から20年近くたった今日、携帯電話やインターネットという20年前では一般的には想像もできなかったメディアテクノロジーの進歩を経た今の時代では、「生きにくい」という意味が多少異なるとはいえ、誰もが孤独になり「生きづらい」という感覚を持つ世の中になったという。

 その一方で、それほど「生きづらい」と思って生きているわけでもない若者も数多くいるだろうと思う。実際のところ、精神科医である香山リカは、その職業上、「生きづらい」と感じている若者たちと接し、彼らを通して今の時代を考えている。それは当然のことであろう。その一方で、こうした考察には当てはまらない若者もたくさんいることは事実であって、僕が若者だった80年代も世間は僕たちのことを「新人類」や「スキゾキッズ」と呼んでいたであったが、世間がなんと呼ぼうと「自分は自分だ」と僕は思っていたし、それ以外になにができるというであろうか。むしろ、80年代以後、従来の社会通念がなくなり、学校や会社以外の場所で多様な価値観を選び取り充足することが可能になっていると思う。香山リカの本も、大学生が読むとその内容について賛否両論だという。それも当然のことだ。

 むしろ、いかにも「80年代に若者でした」という感じがしまくりの香山リカが、今の若者の心理は、従来の精神医療の範囲では理解することはできず、精神医療者は病室で患者を診察しているだけではいけないと書いていることが印象深い。

 "境界性人格障害や解離性障害は、今やただの「病気」という範疇を超え、「今を生きている」ということと深くかかわりを持った、現代人の本質的な問題だと言うこともできるかもしれません。そういう意味で精神医療は、目の前にやって来た人を「病気」かどうか判断して、「病気」と診断される人だけを治療の対象にしてきたこれまでのやり方では、十分にその機能を果たせなくなってきました。"
 "つまり、わかりやすく言えば「精神科医が病人だけを見ていればいい時代は終わった」のです。"
 "そういう意味で、精神医療者は今、病院の外の世界で新たな使命を担わされている、と言ってもよいのです。"
(香山リカ『生きづらい<私>たち』)

 この表明には、僕も大いに同意したい。おそらく、今の状況は、「希望格差社会」にせよ、「生きづらい<私>」にせよ、そうしたカテゴリーにすら当てはまらないものがあるのだろうと思う。しかしながら、我々が社会現象や心理現象を考える時、どうしても社会学なり経済学なり、あるいは心理学なり精神医学なりのフレームワークで見ざる得ない。だからこそ、そこから抜け落ちるものがあることを意識しながら、実際の社会や人々の意識について考えていくことが必要なのだと僕も思う。それが、もう若者の一人ではなくなった今の僕のスタンスなのだと思う。

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October 22, 2004

『COYOTE』の特集「星野道夫の冒険」

 スイッチ・パブリッシングから出ている雑誌『COYOTE』創刊第2号の特集は、星野道夫。僕がこの写真家のことを知ったのは、雑誌『SWITCH』と池澤夏樹の本からだったと思う。1990年代のある時期、『SWITCH』は星野道夫や池澤夏樹や藤原新也の特集ばかりで僕の好きな雑誌だった。『SWITCH』もスイッチ・パブリッシングから出ている雑誌で、この時の編集長が新井敏記氏だった。最近の『SWITCH』はつまらないなと思っていたら、案の定、新井氏は『SWITCH』の編集長をやめた。そして、この人が今年新しく創刊した雑誌が『COYOTE』だ。

 『COYOTE』の今回の特集では、星野道夫その人の文章や写真とともに、アラスカの自宅の書斎の厖大な蔵書リストと彼が読んできた本の紹介が載っている。700冊の本のリストを見ながら、改めて星野道夫が見た世界はどんなものだったのだろうと僕は思う。

 この蔵書のリストからわかることは、彼はフィールドを旅する実践者であったと同時に、たくさんの本を読んできた読書家でもあったということだ。なにかアラスカで写真を撮っていた人というと、本を読むよりも実際の経験を重視するような冒険家タイプであるかのように思われるかもしれないが、彼はただの実践者ではなかった。

 星野道夫にとって、「見る」という行為は単なる写実的なものではなく、多様で多彩な自然や動物の風景を総合することだった。一つの風景から、その背後にある「もっと大きなもの」を感じることができた。そして、それを彼個人が「感じる」だけで終わりにするのではなく、それを写真として撮影し、文章として書いて、他者に伝えることができる人だった。そうしたことができたのは、、彼自身が書物から真摯に学ぶ人だったからだと思う。星野道夫は、本を読む人であり、旅をする人であった。書物から学び、自然から学び、そしてアラスカの先住民から学ぶことができる人だった。

 その学ぶ姿勢に、僕も学びたい。星野道夫が見ていた世界のほんの一部でもいいから自分もまた見ていきたい。しかし、そうは思っても、今すぐアラスカに行けるわけではない。日本の東京に住んでいて、コンビニや携帯電話やネットがなくては生活ができないような暮らしをしている。たくさんの機械と人間たちの中で、仕事に追われて生活している。

 だからこそ、僕はまだ見たことがないアラスカの風景のことを思う。星野道夫の写真と文章の向こうに、誰もいない氷原の夜空の上に舞うオーロラや、新春の川を渡るカリブーの群れや、冬眠から目覚めたブラックベアの親子の息遣いや、海面を跳ねる鯨の水しぶきを感じたい。生きていることも、死ぬことも、大きなつながりの連鎖の中にあることを感じたい。彼の写真や文章は、そうした思いに最も強く応えてくれるのである。

 星野道夫は、無窮の自然と僕たちの世界をつないでくれる希有の語り部だった。大きなつながりの連鎖の中から現れて、風のように生きて、誰も見たことがない自然について、たくさんのすばらしい写真と文章を僕たちに残してくれて、そしてまた大きなつながりの連鎖の中に帰っていった人だった。

「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。」星野道夫『旅をする木』

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October 12, 2004

佐藤卓己著『言論統制』を読みました

 佐藤卓己著『言論統制-情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書(2004)を読んだ。僕が今まで読んできた中公新書の中で歴史書のベストは、山内昌之著『ラディカルヒストリー』中公新書(1991)であるが、それに並ぶ良い歴史書であった。

 鈴木庫三は、陸軍少佐であり内閣情報局情報官として、戦前の出版・思想界の言論統制の任にあたった人である。外交評論家の清沢洌が「日本思想界の独裁者」と呼び、数多くの出版人が言論弾圧の「元凶」と指さした人である。中央公論社の嶋中雄作社長に「(お前のような自由主義の出版社は)叩きつぶす」とどなりつけ、戦後、石川達三の小説『風にそよぐ葦(あし)』の中でも「佐々木少佐」として登場し、紙の配給権を盾に出版社に脅しをかける言論の独裁者であった。

 僕たちは、戦前の日本のことを考える時、必ず思うことは、軍部の剣の前に知性のペンは沈黙したということだ。ようするに、軍部が自由な言論を無理矢理に押さえつけた。その軍部の軍人として最も悪名高いのが、この鈴木少佐であった。鈴木少佐に脅されたという出版社は、中央公論社だけではなく、岩波書店、講談社、実業之日本社などもまたそうであり、それらの出版社の社史には、鈴木少佐は言論弾圧の代名詞のように出てくるという。言論はあくまでも軍部(鈴木少佐)と戦おうとしたが、やむなく従わざるを得なかったというわけである。

 ところが、これらのことは戦後、出版社や言論人たちが作ったデタラメであった。

 これは、最近、鈴木庫三の自宅から発見された日記を調査することによって初めて明らかになった。鈴木少佐とは、決してそのような人ではなかったのだ。それを、佐藤氏は本書で論理的に実証的していく。鈴木少佐は、そうした独裁の人ではなかった。彼は、軍人でありながら、日大や東京帝大に学び、倫理学の助手として大学の教壇にも立ったことがある異色の軍人であった。本書で明らかになった鈴木少佐の生涯と思想、戦前と戦後の言論界の姿は極めて興味深いものであった。

 鈴木庫三は、1894年(明治27年)に茨城の農家に生まれた。生家は豪農であったが、6男4女の第7子であったためか、生後まもなく、里子に出されている。養家の経済状態は、庫三が小学校に通うあたりから悪化していったが、養父母は愛情を持って養育してくれた。成績はクラスで一番、級長であった。しかし、貧乏のため遠足に行く着物や小遣いがなく参加できなかったという。

 この少年が、初めて出会った世紀の大事件は日露戦争であった。庫三は、小学校を卒業の後は、陸軍幼年学校へ進学することを望んだ。しかし、一家の農作業を支えていたこの少年がいなくなれば、最低限の生活すらできなくなることを危惧した養父はこれを認めなかった。幼年学校は、戦死者遺児の官費生や半額免除の陸海軍の将官の子弟以外は、事前に3年間の学費納金が必要であり、この金額は一般中学校よりも高額であったようだ。このことは、僕は知らなかった。軍の学校なら一般の公立中学より安く、だから、学力はあるが貧乏で中学へ進学できない子供が軍の学校へ行くのだと思っていた。明治の初期の頃はそうだったと思う。しかし、明治の末あたりでは、そうではなくなったようだ。むしろ、中学進学よりもカネが必要なのであった。

 進学を断念した少年は、この頃設立された帝国模範中学会の通信会員となり、農作業の合間に講義録をひもとく。少年は、地主と交渉して小作地を増やし、杉山を開墾し、その作業の合間に、日雇いで土木作業でも運搬でも何でもやり家計に入れたという。ようやく家の借金にもめどがついた1913年、庫三は陸軍砲兵工科学校を受験し、合格する。この少年は、砲兵に関心があったからここに入学したのではなく、下士官が士官学校を受験するには数学や物理、化学を学んだ砲兵工長に限られていたからである。もちろん、幼年学校へ進学していれば、そのまま士官学校受験ができたわけであるが、幼年学校コースではない庫三にとって、陸軍士官になるにはこの道しかなかった。

 砲兵工科学校に入学した庫三は、次の目標である陸軍士官学校の受験に邁進する。受験勉強につぐ受験勉強の日々である。勉強をしていない日はなかったという。1915年、砲兵工科学校の卒業成績は10番で、三等銃工長として卒業する。ここに職業軍人としての鈴木庫三の生涯が始まる。二回の士官学校受験に失敗し、三度目の1918年、合格する。翌年から、市ヶ谷台の陸軍士官学校の生徒となる(陸軍士官学校は市ヶ谷にあった。このナニナニ台というのは、軍隊で学校がある場所のことを意味する。ちなみに、この用語は今の自衛隊でも使用している。防衛大学は小原台である。)

 士官学校の入学の前に、配属兵科が決定される。輜重兵科であった。輜重とは、兵站、つまり戦場へ武器弾薬・食料等を補給する部隊である。この兵科の決定は、鈴木士官候補生のその後の軍隊でのキャリアを決定したといってもいい。軍隊でのエリートコースは、歩兵科である。歩兵科の士官として陸士陸大を卒業し参謀将校になれば、それだけでもうエリート軍人としての生涯が決定する。さらに陸大での卒業順位が上位クラスであれば、将来は将官になれることは決定であろう。軍隊というのはそういうところであり、基本的にこれは今の自衛隊も変わっていない。今日でも、自衛隊では防大や幹部学校の卒業年度と順位が人事を決定する。しかし、輜重兵科ではまず出世はできなかった。(ちなみに、今日の陸自では、補給部隊の士官がそうであるかどうかは知らない。)

 戦国時代の武将は、兵站の重要さをよく知っていた。日露戦争でも、物資の補給は重要視されていた。ところがなぜか、日露戦争後の日本陸軍は、その滅亡に至るまで、logistics(兵站)というものを徹底的に軽視していた。大量の物資を瞬時に消耗する近代戦では、兵站は作戦行動の要中の要であるが、日本軍はこの重要性を理解しなかった。歩兵の攻撃精神だけで戦争は勝つという思考は、まるでヤクザのケンカのレベルであり、軍人という軍事の専門家が考えることではなかった。なぜこの程度の認識しか昭和の日本軍にはなかったのか、昭和史の謎である。

 輜重兵科であるということは、陸軍大学受験合格はかなりむずかしいということになる。輜重兵科で、陸大に受かる数は少なかった。さらに、鈴木少尉の場合、1923年に24歳で士官になったということは、「任官2年以上、30歳以下」という陸大受験資格にひっかかることであった。鈴木少尉に、陸大受験の道は閉ざされていた。そこで、彼は陸大卒組に強烈な対抗意識を持ち、新たなる目標として軍隊教育学の専門家となる道を選ぶ。

 この時、連隊勤務の中で、鈴木士官候補生は、1年志願兵を「文弱」と見なし、懐疑的な視点で見ている。1年志願兵は、入隊中の食費、衣服、装具、弾薬代、兵器修繕費の一切を自費でまかっていた。つまり、そうした裕福な階級の子弟たち向けの制度であった。一般兵とは異なり、除隊時には予備役伍長になる1年志願兵は、階級差別待遇の制度であったという。これに対して、鈴木少尉は一般の初年兵を暖かいまなざしで見ている。彼は、家が貧しいがために幼年学校に行けなかった。そのために、回り道をしてようやく陸軍士官になった。しかし、その回り道のおかげで陸大には行けなかった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、明治の初期の若者であった秋山兄弟は家が貧しいから軍の学校へ行った。それができた時代だった。明治末には、日本は露骨な階級社会になっていたのである。

 鈴木士官候補生の士官学校時代は、大正デモクラシーの時代であった。アメリカのウッドロー・ウイルソン大統領が、「人類最後の戦争」と呼んだ第一次世界大戦が終わった頃である。軍縮が叫ばれ、国際的な反戦ムード、平和主義の時代であった。その中で、イギリスのロイド・ジョージが提唱した徴兵撤廃論は、日本国内でも話題になっていた。『中央公論』では、東京帝大法学部教授の吉野作造が、各国が徴兵撤廃を行うのならば日本も徴兵制撤廃を行うのは妥当だと書いていたという。戦争がないのだから、軍隊など不必要だという意識が広まった時代であった。こうした時代を、鈴木士官候補生はどう見ていたであろうか。彼の当時の日記には、「帝国軍人有志」による檄文が貼り付けられていたという。士官学校の正門前でも配っていたものを、彼もまた手にとって読んでみたのだろうか。その檄文には、軽佻浮薄な平和軍縮ムードを批判し、白人覇権の国際的現実の前に、帝国軍人が果たすべき使命が書かれていたという。

 士官学校の生徒は、その多くは農村出身者であった。この時代の日本の都会と農村のライフスタイルの違いは、平成の今からでは想像もつかないほど大きかった。当時の日本全部がほとんど農村的であり、都会は一部の裕福な階級の贅沢文化と見られていた。都市文化と農村文化の対立は、この時代の日本を理解するキーである。地方の中学卒業者の多くは、士官学校への進学を望んだ。これに対して、都会の裕福な階級の息子は、中学卒業後は高校へと進学する。ようするに、士官学校から見れば、都会の金持ち階級は、中学から高校そして大学へと進学する贅沢なブルジョアであり、批判すべきものであった。佐藤氏は本書の中で、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」という用語でこれを表現している。「ハビトゥス」とは、「社会的に形成された習慣」であり、「出自や教育に規定された実践的感覚であり、行為や言説を構造化する心的システムである。」そして、佐藤氏は「この意味で士官学校は、農村的ハビトゥスを再生産する文化装置であった。」と書いている。

 僕が、この本を非常におもしろいと思ったのは、冒頭に挙げたような陸軍少佐鈴木庫三のイメージが、戦後の出版界で言われていたものとまったく違っていたという事実が判明したということではなく(そもそも、鈴木少佐のことを僕はまったく知らなかった)、むしろこのハビトゥスの違いによる対立である。後年、鈴木情報官は自由主義知識人(つまり、リベラルな人々)と真っ向から対立するが、それはこの農村の文化を背後に持つ帝国陸軍鈴木少佐と、都会の文化で育ち、「趣味の戦争」をやっている自由主義知識人のハビトゥスの対立であったのだ。さらに、海軍は出身者が都会の中産階級が多く、ここでもまた陸軍と海軍の対立は、農村と都市のハビトゥスの対立であった。

 つまり、陸軍から見れば、都会出身で、都会の高校から大学へ進学した自由主義知識人は、反国家的で低俗で堕落したブルジョア連中であり、「膚が合わない」んだったのだと思う。同様に、海軍もまたブルジョアぽくって「膚が合わな」かったのだ。金持ち階級や高学歴エリートの自由主義者は勝手なことを言い、その一方でソビエトの援助を受けている社会主義者は国内でテロを起こしている。労使対立は激化し、世界恐慌以来、景気はよくならない。このような国家の危機を救うのは帝国陸軍だけだと考えてもおかしくない。このことを逆から言えば、自由主義知識人が、どれだけ軍部の単純な考え方を批判しても、軍部はそれを受け容れることはしなかったということだ。軍部と知識人の間にある、暗黙の「不平等」のようなものがある限り、軍部は知識人を受いれることができなかったのだということである。ちなみに、都市文化の最大のシンボルはアメリカであった。

 陸大進学を断念した鈴木少尉は、士官学校後、まず陸軍砲工学校を受験し、これに合格する。なぜ、砲工学校なのか。それは砲工学校は、帝国大学への派遣制度があったからである。陸大に行けないのならば、帝大を目指そうとしていた。鈴木少尉は、自らを「プロレタリア少尉」と呼び、部下の面倒を良くみたという。この頃に家庭を持ち、勉強机を「奮発シテ購入」したという。華美虚飾の生活よりも、シンプルライフを好み、成金趣味を嫌った。文学や芸術は堕落していると思っているが、だからといって、文学や芸術を理解していないわけではなかった。日大の予科の夜学に通い、文学や芸術の講義もとっていたという。美術館や劇場にも足を向けていた。

 中尉となり、昼間は軍務に追われ、夜間は日大の倫理学助手として教壇に立つ鈴木は、ついに帝国大学に派遣されることになる。鈴木中尉が、東京帝国大学の学生として見た1920年代の東大のキャンパスは、マルクス主義思想ブームとジャズ文化のまっただ中であった。新宿へ行っても、銀座へ行っても、浅草へ行っても、文化の頽廃を憂慮する鈴木中尉は、やがて教育改革による国家改造を構想するようになる。

 ここで、当時の軍隊の帝国大学派遣制度について考えたい。

 20世紀前半の職業軍人の考える課題で、重要なことのひとつは、「国家総力戦」とはいかなるものであるのか、それを実行するためには、いかなることをすればよいのかとい