June 15, 2018

米朝会談

 過去30年の米朝会談の歴史は、米朝の双方にとって失敗の連続であった。これは簡単に言ってしまうと、双方に理由がある。

 そもそもアメリカはアジア、とりわけ北朝鮮について(韓国についてもであるが)よく知らない、わからない、関心がない。太平洋戦争が終決した時、アメリカにとって極東アジアでの最大の関心事は日本であり、日本の占領統治に力を注いでいた。朝鮮半島はいわばどうでもよかった。やがて米ソの冷戦が本格化し始め、中国で国共対立とそれに続く共産中国の誕生と台湾の国民党政権との対立、そして抗日運動の活動家であった金日成が権力を掌握し、スターリンと毛沢東の支持を得るようになる。これに対抗するためアメリカは李承晩を担ぎ上げ傀儡政権を樹立した。かくて、朝鮮半島の北と南に国家が誕生してしまった。

 同じようなことが日本でも起きていた。終戦後、連合国は戦後の日本を分断統治しようする意思があったがアメリカはこれを認めず、アメリカ一国が日本列島全域を占領統治することとした。朝鮮半島の社会が南北に分断されたのは、アメリカがきちんとした政策を持っていなかったということと、かりに持っていたとして朝鮮半島全域をアメリカを占領統治するには、地続きで隣国に共産化した中国とソビエトがいることを考えると、かなりの大きな軍事力を展開する必要があったであろう。この時、アメリカにそれだけの余力があったかというと難しいであろう。

 その後、北朝鮮は核兵器をちらつかせる国になるが、アメリカにとってすれば、太平洋の向こうの遠いアジアの小国は別に軍事的脅威でもなんでもない。ただ、国際社会の秩序を維持するために、放っておくわけにはいかないという程度のものであった。なんどもいうが、アメリカは関心があるのはロシアと中国であり、朝鮮半島のことなど関心はないのである。

 一方、北朝鮮の方も、これもまたなにを求めているのかよくわからない政権であった。ようするに、強い軍事力を持たなくて他の国に攻められると思っているのであろう。では強い軍事力とはなにかといえば、核兵器を持つことなのであると思っているのであろう。本来、強い軍事力を持とうということであるのならば、核兵器を持つということ以外にもやらなくてはならないことが山のようにあるのであるが、核兵器だけとしている。このへんがよくわかない。

 核兵器しかないというのは、軍事としては極めて歪な姿であり、これではまともな戦争はできない。ようするに、北朝鮮は正しい軍隊を持ってまともな戦争をやる意思はないのである。もちろん、北朝鮮の規模の国力では、とても「正しい軍隊」が持てない、「まともな戦争」ができないということもある。そう考えてみると、軍事兵器としての核ミサイルではなく、外交手段としての核ミサイルとしてやっているのだ。北朝鮮は、張り子の核ミサイルを作って、アメリカに向かって精一杯の自己主張をしているのである。北朝鮮の軍隊は南のソウルを制圧することはできるであろうが、長期的に在韓米軍や在日米軍と戦争ができるしろものでない。そうした姿は、端から見ると滑稽でもあり、いじらしいとも感じる。

 12日、シンガポールのセントーサ島のカペラ・ホテルでトランプと金正恩が握手するシーンをニュース映像で見ながら、北朝鮮は張り子の核ミサイルを使ったはったり外交でよくぞここまできたと思った。これもまた優れた外交力である。

 今回の米朝会談が多くの人々が論じているように、具体的、実質的な中身がない会談であった。しかしながら、この具体的、実質的な中身がないということでいえば、文在寅と金正恩の会談も同様であり、つまり「まあ、なかよくやっていきましょう」という会談なのである。このノリはトランプも同じであり、まずは「まあ、なかよくやっていきましょう」であり、「具体的な話はこれから」なのである。

 実際のところ硬直した関係を改善するためには、時として具体的、実質的な中身がない会談をすることも必要である。そうした対話の場を持つこと、その場を持ち続けることが重要なのである。今回の米朝会談はアメリカと北朝鮮の会談として成功だったのか失敗だったのかと論じられているが、そういうレベルの話にはまだなっていない。この「なっていない」という対話の場を「作った」ということが重要なのである。

 文在寅と金正恩はそのことをわかっているのであり、同様にトランプもまたそうしたことがわかるタイプの人物であった。これまでの歴代の大統領、例えばオバマであれば、今回の日朝会談にような姿にはならなかったであろう。金正恩にとって、アメリカ合衆国の大統領がトランプであることは幸運であった。来週から始まるというポンペイオ国務長官とボルトン国家安全保障問題担当大統領補佐官が相手ではこうはいかないであろう。具体的、実質的な話はこれから始まるのだ。

 通常、外国政府の要人との外交的な交渉は"Diplomatic negotiations"と言う。しかしながら、トランプは"Deal"という言葉を使う。ビジネスの「取引」のことを「ディール」という。トランプにとっては米朝会談も"Diplomatic negotiations"ではなく"Deal"なのである。ちなみに、金正恩はトランプの著書(と言ってもゴーストライターが書いたものであろう)" The Art of the Deal"を読んでいるという。会談の中で「非核化と復興のカネは韓国と日本が出す」「アベは拉致問題さえ解決するのならば、いくらでもカネは出す」という会話がなされたことは十分考えられる。

 これで、東アジアの現代史の中にドナルド・トランプの名が残ることになった。北朝鮮と争う必要がないのならば、韓国軍と在韓米軍の合同演習も不要とばかりに中止にさせてコスト削減ができた。朝鮮半島の和平の貢献者という名誉は得て、お金は日本に支払わせるという、いかにも"Deal"らしい"Deal"であった。朝鮮民主主義人民共和国の指導者が歴史上初めて握手を交わしたアメリカ合衆国大統領が、こういう不動産業のオヤジであったということは、祖父の金日成も父親の金正日も思ってはいなかったであろう。

 これに対して、蚊帳の外にいる日本政府は「拉致問題を解決しなくてならない」「具体的、実質的な中身を決めなくてはならない」というネバナラナイ態度で一貫してきた。このへんが国際的な"Deal"も"Diplomatic negotiations"もできない日本人らしいと言えば日本人らしい。こうした態度では事態は進展しないのであるが、進展しないからといって、では他にできることがあるのかといえばまったくないのが我が国の政権である。

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April 30, 2018

朝鮮半島の南北の和平

「韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長は27日、軍事境界線のある板門店で会談し「板門店宣言」に署名した。」

 日本国内の意見で驚くのは「北朝鮮はまだ完全に核を放棄していない。核施設を閉鎖したというがすぐに再開できる状態になっている。」という声が多いということだ。北朝鮮は完全に武装放棄しなければならないと思っているようである。しかし、それでは北朝鮮はどうやって自国の防衛をすれば良いのであろうか。北朝鮮にも自国の安全保障を行う権利はある。金正恩の体制が自国の国民を守ることは国家指導者である金正恩の義務である。北朝鮮が自国を防衛するための軍備を持つことはまっとうなことであり、なんらおかしなことではない。

 極端なことを言えば、北朝鮮が核を持とうが何を持とうが使用しなければ良いのであり、使用する必要がない状態にすることが重要なことなのである。この「使用する必要がない状態にすること」ことが外交であり国際関係である。南北の和平、統一朝鮮の構築が最大の目的であり、核兵器の放棄はその結果でしかない。ところが、日本政府はまず核兵器を放棄せよと言っている。なにが必要なことで、なにが不要のことであるのかという北朝鮮についての方針がまったく間違っている。

 この朝鮮半島の南北和平を最大目標とする姿勢は国際社会のどの国でも同じである。今回、北朝鮮が発表したミサイル発射や核実験の中止はヨーロッパ諸国にはストックホルムで北朝鮮の外相が会談を行った時にはすでにヨーロッパ諸国には知らされていたことであり、唯一、日本政府は知らなかっただけのことであった。また、北朝鮮は核の完全放棄を言っていないとする日本政府の対応について、北朝鮮の国営メディアは「朝鮮半島と地域に流れる平和の流れをまともに感知できない」と主張し、非核化の具体的な行動を取るまで圧力を維持する姿勢を強調する日本政府を非難したという。当然のことだ。

 日本政府が目標としていることは「朝鮮半島から完全かつ不可逆な核兵器の廃棄が検証可能な条件のもとで実施され、全ての拉致被害者が救出される」ということであるが、こんなことは自国の利益しか考えていないまったくの愚かしい考えであると言わざるを得ない。これは世界から隔絶された島国の中でのファンタジーである。ようするに日本は北朝鮮を独立した主体を持つ国家として思っていないのである。拉致についても日本側は完全な被害者意識しかないが、向こうからすればストックホルム合意を破棄したのは日本であるということになっている。

 日本は北朝鮮に対して強面に圧力をかけることしかせず、しかもその圧力をかけるのはアメリカ頼みであり、圧力をかければ北朝鮮側は屈するのであるという極めて低レベルの認識しか持っていない。今回、文在寅大統領の仲介によってよくやく行うことができる日朝会談はおそらくこれもまた低レベルの次元のものになるだろう。大国が決定権を持つ国際社会の中で自分たちの国の平和と繁栄のために外交努力を繰り広げている韓国・北朝鮮と、戦後半世紀以上、ただひたすらアメリカに従属しているだけで平和と繁栄を享受してきた日本とでは外交力のレベルが違う。

 話は少し飛ぶが、日本という国は、なぜいつもアジアの中である意味「特殊」な国になるのであろうかと思う。日本はその長い歴史の中で中国と朝鮮についての膨大で重層で高度な人文の蓄積があったのに、明治以後、なぜアジアを蔑視し、なぜかくも愚かなアジア侵略を行ったのであろうか。なぜ日本・北朝鮮、日本・韓国、日本・中国という日本と周辺アジア諸国の間での外交交渉は、欧米の諸国のような「まともなもの」にならないのであろうかとつくづく思う。

 思えば明治維新以後のこの国のアジア外交は、きちんと独立した主体国どおしの外交というものを行ってきたことがない。いつもどちらかが(主に日本が)上になって相手国を見下す外交交渉をしてきた。歴史上、そうならざる得なかったということはある。しかしながら、それが今でも続けられるかのように思っているのは間違いであるということをしっかりと認識しなくてはならないと思う。

 アメリカはポンペオCIA長官を北朝鮮に送り、おそらくミサイル破棄や核実験場の閉鎖はするが核兵器そのものは(なんども言うが北朝鮮にも自国の防衛がある)保持続けるという方向で交渉したのであろう。中国がこれに同意するか(あるいはもうしているかも知れない)トランプとの会談でそれが公式に決定することになるだろう。朝鮮戦争は終結となり、南北は統一朝鮮への道を歩み始めるということになる可能性はかなり高い。

 ただし、トランプ本人はともかくとして(彼はこれまでの歴代大統領ができなかった朝鮮半島の南北和平を成し遂げた大統領として歴史に名が残ることを望むだろう)、軍産複合体は朝鮮半島が平和になっては困るのであり、今後それらがどう動くがか注目である。平和を望まず、戦争を望む勢力がある。だからこそ、文在寅と金正恩が過剰なまでににこやかに会談をしたことの意味がある。その映像を全世界が見たことにより、この和平ムードに水を差すようなことになった場合、なぜ戦争になるのかと国際世論は黙っていないであろう。

 統一朝鮮は、北と南で二重の政体がある国家になる。もちろん、韓国の情報が北朝鮮の社会へ完全フリーで流れるようになった場合、北の金正恩体制が成り立つのだろうかという疑問はある。それはそうなった時の、次の課題であろう。また北朝鮮国内においても韓国国内においても、このまま和平へ統一へと進むことを良しとしない勢力がある。そうした勢力を金正恩と文在寅はどう押さえ込めるかが、これからの課題になるであろう。南北統一の道はこの先長い。

 今、東アジアの冷戦構造がようやく大きく変化しようとしている。これから着目すべき点は、経済制裁はどうなるのかということと在韓米軍がどうなるかということだ。在韓米軍について言えば、アメリカは置いておきたいとするであろう。中国はなくして欲しいとするであろう。韓国国内でも米軍が出て行くことに危機を感じるとする政治勢力がある。金正恩は在韓米軍の撤退を南北和平の条件とし、話がそこまで進むかどうかということだ。在韓米軍の撤退がリアルな話として見えてくるようになると、在日米軍の存在意味がかなり変わることになる。

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April 22, 2018

朝鮮戦争が終わろうとしている

 北朝鮮国営の朝鮮中央通信は、核実験と大陸間弾道ミサイルなどの発射実験を中止し、核実験場を廃棄すると伝えたという。金正恩は27日に韓国の文在寅大統領と板門店で会談する予定になっている。

 核・ミサイル実験中止と核実験場廃棄をトランプとの会談で場で宣言するのではなく、その前に自分から言ったということは興味深い。トランプとの会談の場での宣言であれば、朝鮮半島の非核化の成果はトランプの手腕によるものという声が出てくるであろうが、その前に自分から宣言ですることで、この成果は金正恩の意思と文在寅の外交によるものになったと言えるだろう。朝鮮半島のことは朝鮮民族が決めることであり、アメリカや中国が決めるものではないという想いがあるからであろう。もちろん、その通りである。

 『ニューズウィーク日本版』(2018年4月17日号)でのニューズウィークのコラムニストで元CIA諜報員であったというグレン・カールのコラム「世界は踊る、金正恩の思惑で」は大変興味深いものであった。

 グレン・カール氏はこう書いている。

「北朝鮮は国家として生き残りを求めている。自国に有利な条件での韓国との統一も求めるだろう。韓国は現状維持、そして北朝鮮の変化によって緊張が緩和されることを求める。中国は北朝鮮がおとなしくなることと、朝鮮半島からの米軍撤退を求めている。アメリカは、何よりも平和な現状維持を望み、そして北朝鮮の核の脅威を排除したいと考えている。日本は攻撃されないことを望み、アメリカによる地域および朝鮮半島の安全保障を維持したいと考えている。」

「結局のところ、北朝鮮は核開発やミサイル発射、核実験を当面は凍結する。アメリカは北朝鮮に侵攻せず、脅威レベルを下げることになるだろう。そして誰もが勝利を宣言する。」

「地域の長期的な力関係には変化が訪れている。中国の力は増し、韓国は北朝鮮の脅威から自力で身を守れるほど強くなった。韓国はまた、中国はすぐ隣にあり、アメリカは海の遠方で、その力の及ぶ範囲は以前ほど広くないことにも気が付いている。時がたつにつれ、韓国から米軍が撤退する可能性は高まり、それにつれて戦争勃発の危険は低くなる。」

 このニューズウィークのコラムは金正恩のミサイル発射実験や核実験凍結の宣言の前のことであり、現状はグレン・カール氏が予測した通りになりそうだ。核実験の凍結については、実験場が度重なる核実験のため施設が被害を受けていて閉鎖する予定であったという情報もあるようだ。張り子の核の虎を掲げてきた金正恩の思惑通りであると言えば確かにそうであろうが、いずれにせよ紛争になることから遠ざかることは良いことである。

 このブログで何度も書いてきたことであるが、単純な北と南の双方の関係だけで言えば、この双方は対立や紛争を望んではいない。アメリカや中国など周辺の国々が話をややこしくしているのだ。

 もちろん、だからといって北朝鮮は核兵器を放棄するわけではなく、今後も軍事力を誇示するであろう。しかしながら、それはどの国もがやっていることである、北朝鮮(とか中国とかロシアとか)はそれを行ってはならないとするのはおかしなことである。根本的に日本での北朝鮮についての報道は、北朝鮮は悪という偏りがある。軍事力を誇示することは問題ではなく、その上で平和な状態を保つのが国際関係である。その意味では、トランプと金正恩の会談がどうなるかが気がかりである。あるいは、トランプ・金会談がどのような結果になろうとも、北朝鮮と韓国は対立回避の道を今後も進んでいくかもしれない。

 今、朝鮮半島では現代史的な出来事が起きている。結局、我が国の政府は、北朝鮮は国難だと騒ぎ、核ミサイルで攻撃されると右往左往し、使いものにならない高額のミサイル防衛兵器をアメリカから購入するという無能極まりないものになっている。今の日本外交の最大の欠陥は日本が北朝鮮と直接に相対するということをしないということだ。この国の外交は必ずアメリカとの関係を経由して物事を進めようとする。それがどれだけ異常なことなのかわかっていない人が多い。

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March 31, 2018

朝鮮半島の情勢は大きく動いている

 これからの北朝鮮については、25日の産経新聞に載っていたロシア元駐韓国大使 グレブ・イワシェンツォフ氏の記事が興味深い。

 北朝鮮はなぜ核兵器を持とうとしているのか。別に、金正恩は核兵器テクノロジーに並々ならぬ関心を持ち、軍事技術の発展の探求に生涯をささげているわけではない。核融合工学や弾道ミサイル技術が好きだからではない。どの国の為政者が同じく取り組んでいるように、自国、というか金体制下の北朝鮮という国の安全保障が目的なのである。そのために核兵器を持とうとしているのだ。国の安全保障ができるのならば、刀でも槍でも弓でもなんでもいい。それがこの21世紀の時代であるから核兵器になっているだけのことだ。国の安全を保証してくれさえすればいいのである。その保証の相手は誰なのかといえば、アメリカなのである。

 では、核兵器を持つということが、国の安全保障という目的のための手段になっており、核兵器を持つということで、相手に自国の安全を保証させるという方法が、はたして効果的、かつ効率的で有意味な方法なのであろうかという疑問は、ここでは触れない。不幸なことに、北朝鮮という国はそういう方法を選択せざる得ない国に「なってしまった」としか言えない。なぜそういう国に「なってしまった」のかを論じるには長くなるので、別に機会にしたい。この「なってしまった」というのは、周辺の国々が「そうしてしまった」という点もあり、その周辺の国々の中に我が国も含まれる。しかしながら、それはそれとして、今、目の前にある北朝鮮という国をどうするのかということを考えなくてはならない。

 グレブ・イワシェンツォフ氏はこう述べている。

「米国と国際社会にとっての唯一の出口は、北朝鮮の安全を保証することについて、具体的に、誠実かつ透明に合意することだ。安全の保証は、疑いの余地が何ら出ないような、強固で説得力のあるものでなくてはならない。」

「こうした交渉には、6カ国協議の参加国や国連安全保障理事会の常任理事国からの(北朝鮮に対する)信頼や保証が求められる。北朝鮮には、核・ミサイル関連施設の廃棄や機密情報の提供など、「不可逆的な行動」が求められるからだ。」

 まったくその通りだと思う。

 アメリカ側による北朝鮮への交渉は、これまで幾度となく行われてきたが、その成果を挙げることなく終わってきた。なぜか。グレブ・イワシェンツォフ氏はこう述べている。

「過去の交渉が失敗した理由は単純だ。北朝鮮の敵対者たちがこの国の生き延びる能力を信じず、体制の早期崩壊と、韓国による(東西)ドイツ型の吸収を期待したからだ。朝鮮問題の解決は、米国と韓国、日本が北朝鮮の存在を受け入れ、共存の政策をとるときにのみ可能だ。」

 これもまったくその通りで、ようするにアメリカは北朝鮮の今の体制が長続きするはずはない、続いてはならないとアマタから決めてかかっているのである。これはロシアのプーチン政権に対しても同様で、昔からアメリカという国は自分たちとは違う政治体制の国の存在を認めない国だったが、今のアメリカはさらにその偏向が大きくなっている。

 イギリスで起きた元ロシアスパイ殺害未遂事件の黒幕はロシア政府であるとしてイギリスはロシアの外交官の国外退去を命じたが、アメリカもそれにならい自国のロシアの外交官60人を国外追放にして総領事館も閉鎖した。5月に行われているというトランプ大統領と金正恩の会談で大きな進展があるのではないかと期待されているが、今のこうしたアメリカが果たして北朝鮮の体制を認めるかどうかはわからないというのが現実だろう。

 アメリカは弾道弾迎撃ミサイル制限条約や環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)から脱退したり、イランとの核合意の見直しを言っている。このことを見れば、アメリカの思惑は金体制が一日も早く国際社会から消え去って欲しいということであり、その後はドイツのように韓国による北朝鮮の吸収併合であり、アメリカが影響力を及ぼすことができる統一朝鮮の確立である。

 ただし、アメリカ政府の思惑は上の通りのものであったとしても、ここにトランプという人間のキャラクターがある。トランプ・金会談で北朝鮮の非核化という大きな進展があれば、それはトランプの功績になる。しかも現代史に残る功績になる。こうなるのに、一番手っ取り早いのはアメリカが金体制の存続を認めるということである。トランプ個人としては、自分の利益になるのならばプーチンだろうと習近平だろうと金正恩だろうと笑顔で握手をするであろう。

 もうひとつの注意すべき点は中国だ。当然のことながら中国は北朝鮮の核兵器があって欲しくないし、朝鮮半島の紛争を求めていないが、だからといってアメリカの影響力が強い統一朝鮮国家ができることは望ましくない。中国は金体制が存続して欲しいのである。このことはロシアも同じだろう。

 今、これからの韓半島・朝鮮半島がどのようなものであれば良いのかを本気で真剣に考えているのは、当事国の韓国と北朝鮮だけなのである。周囲の国々が関心があるのは自国の国益である。国際社会というものは、そういうものだと言うのならばそういうものだとも言えるだろう。韓国の国内には、北朝鮮と和解することに反対をしている勢力もある。文在寅大統領は手腕に注目していきたい。

 なお、東アジアの国際政治の中で日本の存在はまったくない。我が国は、その程度の国になってしまった。

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March 03, 2018

国際常識を知らない国際政治学者

 先々週の「ニューズウィーク日本版」のコラム記事「北朝鮮スリーパーの虚実」は大変興味深かった。

 とある国際政治学者と称する人がテレビ番組の中で、一般市民を装った「スリーパーセル」と呼ばれる北朝鮮のテロリストや工作員がソウルや東京、大阪に潜伏していて、北朝鮮と戦争が始まり金正恩が殺害された場合、独自のテロ活動を開始するということを述べたという。

 当然のことであるが、誰が北朝鮮のテロリストや工作員であることはわからない状態にある。なにしろ、一般市民を装っていると言っているのである。そうである以上、韓国・朝鮮の人々すべてが「スリーパーセル」かもしれないと言っていることを同じだ。言った本人はヘイトではないというようなことを言っているようであるが、これはヘイト以外のなにものでもない。

 北朝鮮のというか北朝鮮以外の国々も情報関係の要員を、日本というか世界の主要国に送り込んでいるということは国家秘密でもなんでもない常識である。その意味において、この国際政治学者と称する人はだから一般市民の韓国・朝鮮の人々を疑えと言っていることになる。しかしながら、今の北朝鮮に日本の市民社会の中で破壊工作を行う長期滞在の工作員を潜伏させる程の余裕があるわけではなく、また情報収集専門の者はテロ行動を行う訓練は受けていない。そもそも金正恩が殺害された場合、北朝鮮の体制は崩壊する。その状況下で、外国でのテロ行動にどのような軍事的意味があるのであろうか。

 記事「北朝鮮スリーパーの虚実」の記者は元CIAの諜報員だったようだ。この人はこう書いている。

「日本に潜伏する北朝鮮のスリーパーは、もっと恐ろしい任務を与えられているという。その主張に裏付けはないが、北朝鮮による拉致問題や、外国での殺人や韓国への攻撃が、その主張にもっともらしさを与えている。
だが実際には、スリーパーはターゲット国に長期間滞在し、その社会と文化に深く組み込まれてしまうため、いざ作戦開始の指令が出ても「普通の生活」を続けたがることがよくある。
また、カウンターインテリジェンス(防諜)に従事する者は、複数の「もし」をつなげて考える危険性を忘れてはならない。「もしXが事実なら、Yも事実かもしれない。そしてYが事実なら、Zも事実かもしれない。そして・・・」というわけだ。こうした思考プロセスはよくあるもので、本来なら信じがたいこと、つまりスリーパー・セルが動き出して国家を脅かすというとっぴな脅威が、目前に迫っているように感じられてしまう。
だが、スリーパーはほぼ例外なく、チャップマンのように社会への浸透を図るものであり、暗殺や妨害工作をするわけではない。逆に、そんなことができる急襲チームを長年無難な仕事に就けて潜伏させておくことは極めて難しい。ハリウッド映画ではあるかもしれないが、現実にはほぼあり得ない。」

 元CIA諜報員でなくても、常識で考えればこの通りであり、現実にはあり得ない。それを国際政治学者と称する人が言うというところに今のこの国の現状がある。

 韓国には、韓国に潜入した北朝鮮工作員の題材にした映画は多い。コメディ映画が多いのであるが、逆から言えば潜入北朝鮮工作員の話などといったことはもはやコメディでしかないということなのだ。ソウルに潜入して、長い間韓国人として暮らし、いざ有事になった際、破壊工作を行うということが、そもそもなんのためなのか誰も理解できないということなのである。

 こうした韓国映画を観るたびに、北朝鮮がやってる事実はこうなんだと言って嫌悪や不安や対立を煽ることではなく、映画はこうして北朝鮮も自分たちと同じ人間なのだというを伝えていることがいかに大切なことであるかがよくわかる。相手側も自分たちと同じなのであるという意識から戦争は生まれない。今、韓国の若い世代には、こうした意識がはっきりと現れ初めている。北朝鮮も韓国も対立は望んでいない。対立を煽っているのは、朝鮮半島以外の国たちなのである。

 平昌オリンピックの後、南北の対話が始まろうとしている。どこぞの国の総理大臣は「対話は終わった」と言い、外務大臣は「微笑外交」にだまされてはならない、南北対話が制裁緩和につながってはならないと言っているが、むしろだまされたふりをしてでも、第二次朝鮮戦争を避けることの方が必要であることがわからないようである。

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January 20, 2018

どこが「全く受け入れることはできない」のか

 1月12日の産経新聞によると

「安倍晋三首相は12日、慰安婦問題に関する平成27年12月の日韓合意をめぐり、韓国の文在寅大統領が被害者への謝罪などを要求していることについて「韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、全く受け入れることはできない」と明言した。首相官邸で記者団に語った。韓国が合意をめぐる新方針を発表後、首相が公式に受け入れ拒否を表明したのは初めて。」という。

 この慰安婦に関する日韓合意をめぐる韓国政府の新方針とは、どのようなものであったのかというと、2015年の合意では、慰安婦問題を本当に解決することはできない。今後も日本政府は被害者の名誉と尊厳の回復と心の傷の癒やしに向けた努力を続けてくれることを期待する。しかしながら、その一方で、2015年の合意は両国間の公式合意だったということだ。従って、この2015年の合意についての破棄や再交渉は求めないというものだ。

 これに対して、日本政府の対応は「日本側にさらなる措置を求めることは全く受け入れられず、協議にも応じられない」というものである。

 ようするに、慰安婦の被害者への対応などというものはしない。2015年の合意は、日本政府は今後一切、慰安婦の被害者への対応などというものはしないという合意であったはずだ、としているのである。

 このへんは、つまり、そもそも安倍自民政府は慰安婦問題などというものはないものとしているからであり、慰安婦問題などというものに関わりたくないとしているからだ。そうでありながら、韓国は何度も何度もしつこく言ってくるので、2015年の合意をもって、これを最後に今後一切言ってくるんじゃねえぞと決めた、としているからであろう。

 しかしながら、そんなことが通るはずがない。1993年の河野談話の中の以下は、極めて大きな説得力を持つ。

 「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。」

 この「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」ということについて日本政府はどう対応するんですか、ということだ。文在寅大統領は「日韓合意で慰安婦問題は解決できない」として、慰安婦への「心からの謝罪」を求めている。

 これはまったくその通りであり、これのどこが「全く受け入れることはできない」のかさっぱりわからない。ようするに、安倍自民政府やネトウヨ一派は、朝鮮半島で日本の皇軍や日本人は悪いことは一切していないと盲信しているからであろう。

 逆から言えば、これを「受け入れる」ことが日本国家の尊厳なり、威信なり、愛国心なり、メンツなり、etc etcのどこがどう傷がつくのか私にはさっぱりわからない。その程度のレベルの低い国家意識しかないのであろう。

 かつて、イギリスは世界の各地で、アフリカの人々や中東の人々やアジアの人々などに、数多くの悪逆非道のことを行ってきた。それらは、今の歴史書にきちんと記載されている。そして現代のイギリスは、過去にそうしたことがあったことはあったこととして認めているが、それにより大英帝国の威信はいささかなりとも傷つくことはない。帝国というものは、そういうものなのである。

 その意味でいうのならば、日本は大日本帝国などどいう名称を掲げながらも、その内実は帝国のレベルには至っていなかったということであり、その「帝国」が滅びて70年たった後の日本人たちも、いまだに帝国とはなんであるのかがよくわからないレベルのままになっている。

 安倍晋三さんは「日韓合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ」と言っているが、2015年の日韓合意は国際条約などといった形式のものではない。また、いわゆる「国と国との約束」を守らないことは、例えばTPPはアメリカはオバマ政権で参加するとしながら、トランプに政権が変わると参加をしないということになった。しかしながら、安倍晋三さんはアメリカに向かって「TPP参加を守ることは、国際的かつ普遍的な原則だ」とは言わないのである。また、安倍晋三さんは「日本側は約束したことは全て誠意をもって実行している」と言っているが、その「誠意」が感じられないと韓国側は言っているのだ。そうであるのならば、韓国側が「誠意」と感じることができる「誠意」を実行するのが「誠意をもって実行する」ということなのではないだろうか。

 文在寅大統領は10日、青瓦台で開いた新年の記者会見でこう述べたという。

「文大統領は「日本が心をこめて謝罪してこそ(被害者の)おばあさんたちも日本を許すことができ、それが完全な慰安婦問題の解決だと思う」と指摘。その上で「政府が被害者を排除し、条件と条件をやり取りして解決できる問題ではない」として、「前政権で両国政府が条件をやり取りする方法で被害者を排除し、解決を図ったこと自体が間違った方法だった」と強調した。また、「従来の合意を破棄し、再交渉を求めて解決できる問題ではない」との考えを示した。」

 これはまったく正しい考えだ。慰安婦問題は解決した、合意を守れだけを繰り返す日本政府と、慰安婦の被害者への「心からの謝罪」を求める韓国政府、人としてどちらが正しいかは明白である。

 よしんば、今回の合意について韓国側に非があったとしても、その非を咎め、国交断絶をちらつかせるのではなく、非は非であるとしながらも、韓国と国際社会が納得し得るまで外交を続けていくのが、かつて朝鮮半島を統治した国としての懐の深さと度量の大きさであろう。

 イギリスは大英帝国の植民地国に対して、今でもかつての統治国としての責任感を持っているが、この国は朝鮮半島のかつての統治国としての責任感とか歴史観を持ちあわせていない。この国は、アメリカやロシアのような大国にはへつらい、中国・北朝鮮にはアメリカからの恫喝や武力を頼み、韓国のような小国にはひたすら尊大に威張る、という恥ずかしい国になっている。

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January 06, 2018

Social DemocracyではなくSaving Capitalism

 BS1スペシャル「欲望の資本主義2018~闇の力が目覚める時~」を見た。

 番組の中でいくつか印象深いものがあったが、そのひとつは資本主義ではなく民主社会主義を標榜する運動がアメリカで高まっているということだ。

 この番組は、あたかも資本主義は悪であるという見方をしている。確かに、バーニー・サンダースは民主社会主義(democratic socialism)であることを述べていた。しかし、今の資本主義の姿を見てアンチ資本主義を言うのには私には違和感がある。産業革命のイギリスに生まれた資本主義は悪であった時期もあるが、すべてそうだったわけではない。

 ロバート・ライシュにせよジョセフ・E・スティグリッツにせよ、今の資本主義の姿は間違っていると説いているが、だからといって社会主義にせよと言っているのではない。今の資本主義は、資本主義本来の姿ではなく、本来の資本主義とは21世紀の今の我々が思っている社会主義のようなものを大きく持っていたのである。労働者の権利や賃金について述べることは社会主義なのではない。そもそも資本主義にはそうしたものがあったのである。

 ロバート・ライシュは著書"Saving Capitalism"の冒頭でこう書いている。

"Simultaneously, centers of countervailing power that between the 1930s and late 1970s enabled America’s middle and lower-middle classes to exert their own influence - labor unions, small businesses, small investors, and political parties anchored at the local and state levels - have withered. The consequence has been a market organized by those with great wealth for the purpose of further enhancing their wealth."

「同時に、1930年代から1970年代後半にかけて、対抗勢力の中心としてアメリカの中間層や下位中間層が影響力を行使することを可能にしてきた労働組合や中小企業、小口投資家、地域や州レベルの政党といった組織などが弱体化し、その結果、財産をさらに強化する目的で富裕層が組織した市場が生まれた。」

 つまり、労働組合や中小企業、小口投資家、地域や州レベルの政党といった組織などが、おのおの独立した個別の見解なり意見なりを持っていたのであり、そうしたものの統合体として民主主義社会が形成されていたのである。本来、資本主義社会であっても労働者の賃金や雇用や健康など保証する制度なり法律なり仕組みなりがあるようにしてきたのである。何度も言うが、それがかつての資本主義社会であったのだ。

 しかしながら、いつしかそうしたものは不要で非効率なものと見なされ、なくなっていった。労働者への賃金を上げれば、労働者はものを買う、ものが売れれば企業は利益を得る、企業は利益を税金として社会に納め、設備に投資し、労働者により多くの賃金を支払う、労働者への賃金を上げれば、労働者はものを買う・・・・以下、このくり返し、このくり返しが続くというサイクルがあればよいのだ。景気の原理とはただこれだけのことであり、シンプルなことなのだ。アメリカでも日本でも戦後の時代にあったのはこの良いサイクルであり、今はないのがこのサイクルなのである。何度も言うが、これだけでいい。

 ではなぜこの良いサイクルがなくなったのかと言えば、お金を労働者の賃金や設備投資というカタチで回すことをかつての時代と比べしなくなったからである。企業は儲けたお金を労働者への賃金や設備投資に回すのではなく、投資家への配当や金融商品の購入に回しているからだ。これは企業だけではない。国もまた税収を教育や福祉や医療に回すのではなく、企業の減税や補助金などに回している。

 結局のところ、国民が公務員や金持ちをしっかりと監視しなくては、公務員や金持ちは自分たちに有利なことだけをやるようになるという、これもまた至極当然の当たり前のことなのである。この当たり前のことを、日本で言えば1980年代頃からしなくなった、できなくなった、ということなのである。

 ということは、国民が公務員や金持ちをしっかりと監視することをし直し、一般人が主体である民主主義を復活させ、かつての資本主義が持っていた労働者の賃金や雇用や健康など保証する制度なり法律なり仕組みなりを、今の時代の基準に照らし合わせて、改めるべきところは改め、足りないことは新たに作成することをしていなかなくてはならない、ということなのである。つまりは、これも至極まっとうな、本来の民主主義に戻りましょうということだ。

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October 28, 2017

現状維持とはなにか

 衆院選の結果は、相変わらずの自民圧勝である。

 この「相変わらずの自民圧勝」というのは、思えばほとんどすべて衆議院議員総選挙は、2009年の衆院選を除けば「相変わらずの自民圧勝」だった。今回、有権者は現状維持を望んで自民党に投票したと言われているが、こうしたことは毎回(2009年の衆院選を除けば)そうだった。この「現状維持を望む」という感覚はよくわかる。

 現状維持というのは、読んで字の如く今の現状が変わらないということである。とことが、だ。現状維持であれば、今の現状が変わらないのであるのならばその通りなのであるが、実際のところ、今の現状そのものに問題がある以上、現状維持であろうとするのならば、実体において現状維持ではなくなるなのである。

 現在は過去の選択の結果である。今の数々の問題は、例えば1980年代に対策を始めていたら、2010年代後半の今日、これほど大きな問題になっていなかったものが数多くある。つまり、現状維持を望んできたために、現状を維持できなくなったことが数多くあるということだ。現状維持というのは、最悪の選択である場合もあり得るのである。

 ただ単純にすべてにおいて「現状維持を望む」のではなく、コレコレは「現状維持を望む」であるが、コレコレは「現状維持を望む」ではダメだと判断しなくてはならない。現在の政治においては、与党・野党とかいうことはあまり意味はない。ざっくばらんな候補者や政党の選択ではなく、これほどネットが普及した今日のこの国であるのならば、個々の政策について有権者が選択できるようになってしかるべきなのであるが、今の選挙制度はそうなっていない。

 変えなくてはならないことは、変えなくてはならない。変えてはならないことは、変えてはならない。

 例えば、安倍政権になって景気が良くなった、いや良くなっていないという声が数多くあるが、安倍政権がどうこうという以前に、このブログで何度も書いているが、バブル崩壊後、この国の政府がやり続けてきたことは、国債を乱発し、景気対策と称するバラマキを続けて借金の山を作ったということだけである。安倍政権がやっていることもこの続きであり、さらに異次元金融緩和という国債乱発のスケールをとてつもなく大きくしたのがアベノミクスというものなのである。これはそもそも「おかしい」「異常な」状態なのだ。

 アベノミクスの異次元金融緩和は、もうそろそろこれはヤバい状態になっているということを誰もが認識すべき時なのであるが、そういう状態にはほど遠い。今、これだけの国債を発行している、これで金利が上昇すれば金利の支払いは不履行になり国家の財政は破綻する。仮に財政破綻にならなかったとしても、いつかは返済をしなくてはならないものであり、他のことに回せるお金がこの支払いに消えていくのである。アベノミクスはやめるべきものであり、今の経済政策は「即刻変えてなくてやらない」。

 その一方で「現状維持でなくてはならない」のが憲法である。GHQが作った憲法であることは確かであるが、あの当時においても、今の時代においても、日本人の手であのレベルの基本的人権と国民主権の水準を維持する憲法を作ることはとうてい不可能であると言っていい。今、改憲をしたいと言っているのは、日本会議などといった国権主義の勢力であり、今の日本国憲法は個人主義が強すぎる、もっと国権に寄るものでなくてはならないと考えている。この勢力が安倍自民党政権を支える大きな柱であり、安倍政権下での改憲は間違いなくこの勢力に沿った改憲になるであろう。そうである以上、GHQが作った国際水準の憲法のままで十分だ。

 もうひとつ憲法9条については、日米安保とセットになっているのであり、憲法9条を変えるには日米安保その他諸々の条約や密約も変える必要がある。このための日米交渉をしなくてはならない。そう簡単に短期間でできるものではない。自衛隊そのものの改革も必要だ。その膨大な予算が、今のこの国の財政では出すことは困難である。そう考えると憲法9条も「現状維持でなくてはならない」のである。

 さらに言えば、在日米軍についてなど、高度な政治性を有する国家の行為については司法は判断しないという結論を裁判所が出す現状では、憲法9条がどのようなものであっても「通ってしまう」のである。この統治行為論の乱用そのものを改めるという認識がなければ憲法9条の改憲は意味はない。北朝鮮のミサイルがどうこうというが、日本防衛の活動をしているのは自衛隊であり海上保安庁である、在日米軍は日本を防衛しているわけではない。このような現状を考えると、現実的観点から見て憲法は「現状維持でなくてはならない」。

 26日の産経新聞によると「安倍晋三首相は26日の経済財政諮問会議で「3%の賃上げが実現するよう期待する」と述べ、来年の春闘での賃上げを産業界に要請した。」という。

 アベノミクスの効果がさっぱり出てこないので、もはや政府は強制的に賃上げを要求してきたということである。民間企業が従業員に直接的にいくらの賃金を支払うかということについて政府が要求をするというのである。これはもう自由経済とは言い難く、戦争中のような統制経済になってきたと言えるだろう。もともと、戦後の日本経済は大枠において戦争中の統制経済がそのまま存続しているところがあったが、それは今でも続いている。中国ロシアや北朝鮮のような非自由主義経済的な国家による統制がどうこうという声をよく聞くが、この国も同じようなことをやっているのである。

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October 15, 2017

1950年にできた枠組み

 安倍自民党は憲法に自衛隊を明記する改憲案を提示し、憲法を改正してこれを2020年に施行させようとしている。

 今、憲法第9条を改正せよという声が多い。憲法第9条には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とあるのに、なぜ自衛隊があるのかという問いがある。国が防衛力を持つのは当然であり、当然のこととして自衛隊はある、であるのになぜ自衛隊は違憲になるのか。憲法に軍隊を持たないとあるのはおかしいではないかという声は多い。

 回答は簡単だ。GHQが軍備を持てと言ったから持った。そうとしか言いようがない。なぜ自衛隊があるのかと言えば、70年前にマッカーサーと吉田茂がそうしたからとしか言いようがない。再軍備はできないという憲法がありながら戦力を持たせたのはアメリカであり、その指示に従ったのは日本政府である。

 なぜ憲法に戦力を持たないとあるのに、自衛隊は存在しているのであろうか。1950年に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発し、アメリカは日本に駐留させていた部隊を出動させることになった。だがそうすると。日本の防衛兵力が存在しなくなる。そこでその代わりとしての武装組織を発足させるととした(露骨に言うと、これは日本国及び日本国民のための防衛ではない。なんのための防衛兵力かと言えば、進駐軍つまりGHQのための防衛兵力である)。日本国憲法は1947年(昭和22年)に施行されているので、これは当然、憲法第9条に触れることではあったが、憲法以上の存在であった占領軍の指示である。事実上、警察予備隊の創設は日本の再軍備であったが、時の総理大臣吉田茂はこれを再軍備とはいわず「警察予備隊」と言い続けた。

 しかしながら、警察予備隊ができたのは占領時代の話だ。これがGHQを守る兵力であるのならば、占領が終わり、日本が独立国になった後は、憲法違反の警察予備隊を廃止していいはずだ。あるいは、戦力を持たないという憲法はおかしいとするのであるのならば、GHQから「押しつけられた」憲法を即刻改憲すべきであった。

 ところが、そうはならなかったということに日本の戦後史のある側面がある。占領が終わり主権回復をした1951年(昭和26年)以後、今日に至るまで日本国憲法はなにひとつ変わることはなくそのままであり、警察予備隊は保安隊になり自衛隊へと拡張していった。

 なぜそうなったのであろうか。

 ここで大きく言えば米ソ冷戦というもの、具体的には朝鮮戦争というものが現れる。おおざっぱに言ってしまうと、今、私たちが置かれている状況とは、1950年に起きた朝鮮戦争への協力体制がその後もずっと続いてきたという状況なのである。日本の戦後史でいう「逆コース」のことなのであるが、この時代のことについて、先日もここで紹介した矢部宏治さんの『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)にわかりやすく書かれており、しかもこれまで知らなかったことが数多く書かれていた。

 この本の中の4コマ漫画を講談社のウェブページで見ることができる。これを見るだけでも、これまで私たちが知らなかった日米安保の事実がわかる。ようするに、こういうことだったのだ。

 もともと、なぜ日本国憲法の第9条で日本は戦力を保持しないとしたのかと言えば、当時、マッカーサーが構想していた日本の防衛とは、国連及び(実質的にはアメリカ軍を主力とする)国連軍が日本を防衛するというものであった。

 第9条はこれ単独ではなく、日米安保やそれに関連する協定や密約などと一緒に考えなくてはならない。なぜ第9条で戦力の保持を放棄しているのかと言えば、日本にはアメリカ軍がいるから戦力を保持しないのであり、ではなぜ自衛隊が存在しているのかと言えば、有事の際にアメリカ軍の指揮の下で日本の防衛を行うための日本側の実行組織として自衛隊がある。このことをまず第9条の認識の基本にしなくてはならない。すべてはこの理解から始まる。この理解がないため9条論議は常に混乱するのである。

 日本にはアメリカ軍がいるから戦力を保持しないというのは、日本国内にアメリカ軍がいることを認めるということだ。ここで重要なことは、日本国内にいるアメリカ軍とは、日本の防衛のためにだけ存在する兵力ではないということだ。日本政府は、日本国内にいるアメリカ軍は、日本の防衛のためにだけ存在する兵力とするという取り決めをしていない。

 つまり、日本国内にいるアメリカ軍はアメリカ国内のアメリカ軍とまったく同じであり、在日米軍基地及び基地外部でなにをしようとも、また基地からどの国へ兵力を送ろうとも日本国はまったく関与しない(というか関与できない)というものである。日米安保条約では、アメリカは日本の最終的な防衛義務は負っていないことはあまり知られていない。というか、ほとんどの人々はそのことをを知らない。アメリカは日本を守ってくれると無邪気に信じている。

 こうした日米関係を基盤として第9条は成立している。つまり第9条とは、いわば日本を軍事的には半植民地的状態にするものであったのだ(GHQが作ったのだから、当然と言えば当然なのであるが)。

 これに対して日本政府は、わずかばかりの抵抗をし続けてきた。自衛隊の活動が日本国内に留められていれば、有事には自衛隊はアメリカ軍の指揮下に入るといっても日本国内の専守防衛だけにすることができる。だからこそ戦後日本の歴代政権は自衛隊の海外活動に難色を占めてきた。ところが、安倍政権による新安保法制の成立はこのストッパーを外してしまい、海外での自衛隊の活動を法的に可能にした。自衛隊はアメリカ軍に従って海外派兵をすることができるということになってしまった。

 さらに安倍自民党は自衛隊を合憲にしようとしている。この状態で自衛隊は合憲、海外派兵はすでに合憲、しかしながら、指揮権はアメリカ軍にあることは変えないということは、日米関係がより強固なものになるのではなく、日本の対米従属がより強固なものになるというのが正しい。

 日本が戦力を持たないのはおかしいとするのは極めて当然の考えだ。ではなぜ自衛隊はアメリカ軍指揮下になる現状を変えようとはしないのであろうか、なぜ、正しい本来の姿の軍隊を持とうとしないのだろうか。ただうわべ的な部分だけを変えても、なにも変わらない。

 現状の自衛隊は在日米軍の支援組織、補助組織として作られた組織であり、主権国家としての日本国の軍隊としての役割を完全に実行することができない。これをあるべき正しい日本国の軍隊にするにはやるべきことは数多くある。ところが、安倍自民党においても、憲法に自衛隊を明記するという話だけで、実質上、専守防衛といういびつで、かつミニアメリカ軍のような「ぐんたい」である自衛隊の内容を日本国のまっとうで正しい軍隊にするという話はまったく出ていない。

自衛隊を正しい日本の軍隊にするには、当然それなりの莫大な費用がかかる。その費用はどこからか持ってもなくてはならないということになる。第9条を変えるといっている政党で、そうしたことを言っている政党はひとつもない。いざとなったらアメリカ軍頼みのメンタリティーは、今日においても変わることなく続いているのである。

 戦後日本の安全保障が「こういう姿になってしまった」ことの背景には、第二次世界大戦以後の世界は米ソの冷戦になったということ、アジアで朝鮮戦争とベトナム戦争が起きたということ、国連が世界政府として機能しなかったということ、そしてなによりも敗戦国として世界覇権国である超大国アメリカの意向を否応なく受けざるを得なかったということなどがある。マッカーサーが想定した世界政府としての国連と強力な国連軍の存在を前提とした日本国憲法第9条は、そうなることはなかった戦後の現代史と日米関係の中で大きく歪んだものになってしまった。

 この歪みの出発点になったのは朝鮮戦争である。この1950年6月に起きた出来事によって成立したある歴史的な枠組みがあり、我々はその枠組みの中に2017年の今日においてもあり続けている。そして、今の状況を考えるとこの先も続くものと思わざるを得ない。

 私は9月30日にここで「結局、希望の党が出現しても、国民の暮らし、生命、財産、基本的人権というものは置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。」と書いたが、これは枝野さんの立憲民主党の出現があった今でも変わっていない。

 今回の選挙は自民、公明、希望、維新が圧勝し、選挙後のこの国の政治には巨大な保守連合とも言うべきものができる可能性は高い。結局、立憲民主党が出現しても国民の暮らし、生命、財産、基本的人権、さらに言えば国家主権と平和の理念が置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。この国の政治は軍事において、事実上、野党は消滅したのである。これを矢部さんは最近のコラムの中で「「朝鮮戦争レジーム」の最終形態である「100パーセントの軍事従属体制」に他ならない」と述べている。

 今後、安倍自民党たちが悲願とする憲法改正はできず、第9条はこのままであったとしても、矢部さんがコラムで書いているように、在日米軍と自衛隊の一体化はさらに進展していくだろう。また核兵器の保持が、現実をもって論じられるようになるだろう。その時、核兵器の配備場所として沖縄が挙げられるようになることは十分ありうる。中国と北朝鮮の脅威に対抗するために、在日米軍と自衛隊の一体化を進め、沖縄に核兵器を公式に配備することが、この国の安全保障で必要なのであるというが声が強く聞こえるようになるだろう。

 我々はこの枠組みの中から、いつ抜け出すことができるのだろう。

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October 07, 2017

立憲民主党の設立

 かつて大前研一さんは、去年の11月に『PRESIDENT』誌上で「さらば民進党」もはや愛想が尽きた」というタイトルのコラムでこう書いている。

「今度ばかりはほとほと愛想が尽きた。民進党のことである。参院選、都知事選から党代表選に至る迷走ぶりは、完全に分裂・消滅のプロセスに足を踏み入れたと思わざるをえない。」

「民主主義の根本であるところのマジョリティに拠って立つ、ということで民主党は自民党との対立軸を明確にしてきた。たとえば医療問題では医師会重視の自民党に対して民主党は患者側に重きを置く。年金問題では年金機構ではなく年金受給者に重きを置くし、教育改革では教師や学校側ではなく、生徒や保護者に重きを置く。受益者側に重きを置くことで、予算配分もドラマチックに変わってくる。」

「日本の景気をおかしくしている。日本経済の再生に本当に必要なのは、アベノミクスのようなまがいものの経済政策、人工的な成長戦略ではない。ひたすらサイレントマジョリティの将来不安というものを取り除くことだ。その意味では、民進党は「サイレントマジョリティのための国づくり」という原点にいま一度立ち返るべきなのだ。」

「私は今回の党代表選を機に、民進党に対する一切の助言、助力を打ち切ることを決めた。未練もない。」

 あの大前さんが、もはや救い難いと見切りをつけたのが民進党である。大前さんが言っている党代表選とは、ひとつ前の連坊代表の時のことだ。その後もこの政党は原点に変えることはまったくなかった。7月の参議院選挙では民進党、共産党、社民党、生活の党の野党4党が共闘したが成果は思ったほどは出ず、民進党は議席を大幅に減らした。続く都知事選では、民進党は惨敗した。そして理解し難いのが、党代表選で知名度抜群があるということだけで蓮舫を担ぎ上げたということだ。

 なぜこうした時に連坊が政党の代表になり得るのかさっぱりわからない。幹事長には野田佳彦前首相を置くなど、この人たちはいまなにをすべきなのかまったくわかっていない人々であった。連坊代表の二重国籍の是非がどうこうというよりも、言っている内容が言い訳がましく二転三転する姿はもはや政党の代表の器ではないことは明白であった。結局、連坊は代表の座を退くことになる。

 さらに理解し難いのが、次に前原誠司を代表にしたということだ。これでこの政党は終わるなと思ったいたら、案の定、終わった。この政党は、終わるべくして終わった。野党連合がどうこうというよりも、大前さんが言うようにサイレントマジョリティの将来不安を取り除くことをきちんと明確に言えば、それだけで数多くの有権者が支持をするのである。なぜ、そうした当たり前のことすらできなかったのであろうか。国民の一般大多数が不安を感じているこの先のこの国の行方を払拭してくれることをきちんと言ってくれれば、それでいいのである。ただそれだけのことなのに、なぜできないのだろうか。

 なぜできないのかといえば、そうした原理原則、哲学、理念ともいうべき大きな枠組みや方向性、ミッション、ビジョンを構想することができないからであり、目先の利害、損得勘定しかできないからだ。もちろん、目先の利害、損得勘定は必要なことであり、これがなくては現実は成り立たない。しかしながら、原理原則、哲学、理念ともいうべきものがなければ、実は目先の利害、損得勘定で大きく不利益になるのである。だからこそ、目先の利害、損得勘定をより確実なものにするために、もっと土台、基盤からの原理原則、哲学、理念ともいうべき大きな枠組みやビジョンが必要なのである。

 2日、枝野さんが立憲民主党という新しい政治政党をつくった。この政党は期待できるのだろうか。また民主党みたいなものになるんじゃないだろうなと思いながらネットに挙がっている枝野さんの演説を見てみた。誠実に、国民の一般大多数が不安を感じているこの先のこの国の行方を払拭することが政治家の基本であり原理原則であることを体現している演説であった。思えば昔は、こういう語りをする政治家が数多くいたように思う。

 安倍晋三さんは相変わらず、北朝鮮がどうこうとか「いま、求められているのは国際社会と連携していく外交の力です」とかわけがわからないことを言っている。6日の毎日新聞のコラム「経済観測」に経営共創基盤CEOの冨山和彦さんが興味深いことを書いていた。

「希望の党と民進党の合流が報じられ、総選挙はがぜん盛り上がってきた。ただ、そこでの政策論争、取り分け経済政策を巡って以前から気になっている風潮が一つ。それはあたかも経済の行方が政府の政策次第のような前提で議論されがちなことだ。

 実際、財政出動やら金融政策やらマクロ経済政策の力で持続的成長を実現できるかのようなことを、経済評論家や政治家が分かったような顔をして語る。しかし、この手の政策が景気刺激策としてはともかく、日本経済が長年にわたり直面している根本問題、すなわち経済の芯を強くし、イノベーションを促して持続的な成長力を押し上げる力を持っているとは思えない。」

「日本は自由主義経済の国だ。そこで経済の行方を決めるのは、圧倒的に民間の市場参加者の自由な経済活動である。民間企業、そして個々人がいかに生産し、投資し、消費し、イノベーションを起こしていくかで99%が決まる。政府の役割は、自由な経済活動がフェアに透明にオープンに行われるような環境整備を行うこと。そして市場参加者として活動する前提となる教育投資やさまざまなインフラ整備を行うことに尽きる。」

 これはまさにその通りで、政府の経済政策で実際の日本経済そのものが良くなるということはない。枝野さんの演説に対して、具体的な政策は、とか、じゃあ、どうするんだよ、みたいな書き込みが多く見かける。しかし、今言うべきことは、経済政策がどうこうとか外交がどうこうということではなく、この国はこれからどうするのかという大きなビジョンや理念、方向性を出すものであり、具体的なことは、その現場、現場で実務者がやっていくのである。また、具体的な政策や対案がないとよく言われるが、実際には民主党時代から数多くの政策や対案は出してきている。対案がないとか言っている者たちは、それを知らないだけである。

 国が経済の個別の現場に介入してきてロクなことはない。安倍自民の理解し難い点のひとつは、アベノミクスだとか「働き方改革」だとか「まち・ひと・しごと創生」とか「若者・女性活躍推進」とか、とにかく民間がやることに必要以上に介入してくることである。政府がやるべきことは、企業や人々が自由に活動できるようにすることであり、国民の生活、生命、財産、権利を守るということだけでいいのだ。経済でなにをどうするということを政府にどうこう言われるものではない。それは企業や個人がやっていくことなのである。

もちろん企業の活動には、規則なり制限なりは必要だ。戦争中の統制経済、戦時体制がそのまま戦後半世紀以上たっても続き、今や政官財は癒着し、さらにそこにメディアと学界が加わって利権集団になっているのが今のこの国だ。それで経済がうまく回っていったのは20世紀末ぐらいまでで、それ以後の20年間以上にわたって停滞し、この先は衰退していくしかないという状態にある。

 本来、政治家に必要なことは、個別の政策がどうこうということではなく、なにを原理原則とするのか国民に提示するということである。今の政治家のレベルではこれができない。個別の政策がどうこうとか、目先の利害損得しか言わない。

 だが、枝野さんはなにを政治の原理原則とするのかを述べている。政治はなにを基盤とするのかということ語る政治家をひさしぶりに見た。原理原則はシンプルなのである。枝野さんは、3日の有楽町での街頭演説でこう語っている。

「権力といえども、自由に権力を使って統治をしていいわけではありません。憲法というルールに基づいて権力は使わなければならない。」

「役所が、政府が、法律を守らない。こうしたことを前提にルールは作られていません。公文書管理法も情報公開法も、行政がちゃんとルールを守る、その前提で作られています。それをいいことに、作ってないわけない、捨てるわけない、そういう文書が捨てられた、全部真っ黒けなら、どこがおかしいのか、この先は公開してもいいんじゃないか、そういうことすらチェックできない。こういったやり方で開き直っている。 」

「格差が拡大し、貧困が増大している。これで景気が良くなるはずないじゃないですか。」

「強い者をより強くして格差を拡大しておきながら、いずれ皆さんのところにいきますよ、トリクルダウン、滴り落ちますよ。上からの経済政策はもうやめましょう。生活に困っている人たちから、暮らしから、それを下押さえして押し上げることで、社会全体を押し上げていきましょう。経済全体を押し上げていきましょう。 」

 枝野さんの言っていることは、しごくまともで当然のことだ。しかしながら、このまともで当然のことすらできていないのが、今の与党も野党も含めた政治界の姿である。

 2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、安倍晋三が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足した。それから4年間たった。アベノミクスが始まった当時、「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「成長戦略」の3番目の「成長戦略」ができるかどうかで決まると言われていた。4年間たちこの第3の矢は結局できずにアベノミクスは終わろうとしている。

 アベノミクスは、第1、第2の矢に偏重し過ぎて成長率の引き上げにはなっていない。成長率目標2%の物価目標の達成はできていない。円安による物価押し上げは、企業のコスト増加を招き、家計の実質的な可処分所得の減少は続いているため個人消費は低いままである。国の財政は1800兆円という先進国で最悪の状態にある。この先、社会保障制度は破綻することは避けられない状態になっている。

 それでいて、実質的な意味がまったくない共謀罪法や新安保法は強行採決で無理矢理に可決させ、肝心のテロ対策や安全保障はできていない。これが安倍自民の4年間である。これでいいわけがない。


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