映画・テレビ

August 04, 2019

映画『新聞記者』を見た

 少し前の日になるが、話題の映画『新聞記者』を見た。

 この映画は作品としては、わかりにくい。

 この映画を見るには、ふたつの前提がある。ひとつ目は、今の2019年の日本の政治とマスメディアの状況を理解していなければ、この映画の内容は理解できない。もうひとつの前提は、マスコミは権力と対峙しなくてはならない、マスコミは権力を監視し、その不正義を社会に告発しなくてはならないという意識があるということである。

 今のこの国では、政界と経済界とマスコミと学会の4つは結託と忖度と癒着の温床の場といっても良い。新聞社もまた、いち企業であり報道機関としての社会倫理よりも営利目的が優先されている。新聞は権力を監視するものであるべきだという。しかし、新聞社自身がいち企業である以上、スポンサーなり購買数なりを意識しないと商売として成り立たないということはある。

 また、数多くの分野が高度な専門知識で動いているこの現代社会をマスコミが監視するというのは困難であろう。読者もまた紙面の全部が調査報道や権力の不正弾劾記事になっていることを求めているわけではない。しかしながら、そうした記事がまったくなくても良いというわけでもない。

 情報テクノロジーが一般化した現在、政府も情報操作を行っていることは当然であり、政府なり官庁なりがフェイク情報を流すことはあるだろう。問題なのは、それがなにを目的としているのかということだ。

 安倍政権の「悪さ」とは、やっていることが国民全体の利益ではなく、特定の者たち、オトモダチだけの利益になっているということだ。もはや、利益とは国家全体の利益ではなく、特定の集団なり、組織なり、人々だけの利益しか得ることができなくなっている。この国の政府は、国民全体が豊かになるということを放棄したというか、そもそもどうすればそれができるのかまったくわからない者たちの集団になっている。衰退していく国では、全体のパイを増やしていくのではなく、減っていくパイの中で、いかに多くのパイを獲得するかが目的になる。

 この映画の最後のシーンで内調の多田が杉原に「この国の民主主義は形だけでいいんだ」という。このコトバは、今のこの国の政治状況を表している。なぜ、形だけでいいのだろうか。この場合における国とは、ある特定の組織や集団や人々ではなく、その社会を構成する大多数の人々である。「この国の民主主義は形だけでいいんだ」でいいわけがなく、形も内容もしっかりとしている民主主義でなければ国家として脆い。国民全体が豊かでなくては、教育にせよ軍事にせよ、なにもできなくなる。

 映画の後半での、政府が生物兵器を研究を目的とした大学を設置するという話の展開には、前半は緊張感があるリアリズムの話であったのに、突然、現実からかけ離れた話になってしまった。杉原が内調の官僚である自分の名前を出して良いというが、そもそもこの大学誘致については杉原は部外者であり関係がない。その官僚の名前がこの文書の真実性を保証するものとは思えない。この展開には、いささか拍子抜けしてしまった。

 しかし、もともと官僚が偽証しない、公文書を改竄しないということは当たり前のことなのであるが、この国ではその当たり前のことがなされていないという根本的な欠陥がある以上、こうした話の展開もありだとは思う。

 この映画が扱っている題材はいうまでもなく、森友・加計問題だ。森友にせよ加計にせよ、いわばちっぽけな出来事である(だからといって正しいことではないことは当然であるが)。問題なのは森友・加計そのことではなく、本来行うべきことをせずに、森友・加計程度のことしかできないということだ。これらは新聞記者が真実を暴くというようなレベルの話ではない。

 暴くもなにも、森友や加計がおかしいのは当たり前のことであって、さっさと責任者を処罰して終わりにしなければならない。総理大臣だろうと誰だろうと責任をとっととらせて、進むべき方向へ進んでいかなくてならない。それが、そうならない。この程度のことを、官僚が命をかけて内部告発しなくてならならず、新聞記者が暴かなくてはならない。

 映画『新聞記者』が映画としてはおもしろくもなんともないのは、ようするに、もはやこういう状況なのだということである。それを表現している作品として、この映画は価値がある。

May 10, 2019

映画『主戦場』を観てきた

 先日、渋谷のイメージフォーラムでドキュメンタリー映画『主戦場』を観てきた。いわゆる従軍慰安婦問題を扱った映画だ。

 何度もここで書いていることを繰り返して恐縮であるが、私は河野談話の何がどう悪いのかさっぱりわからない。河野談話は、まっとうなことをいっている。従軍慰安婦問題については、河野談話がいっていることで、これ以上もこれ以下もなく、その通り、で話は終わると思っている。

 日韓の歴史には、慰安婦問題以外にも江華島事件や閔妃殺害事件など数多くの解明しなくてはならない課題がある。日本の朝鮮統治とは、そもそもなんであったのかという歴史的な全貌はまだ明確にはなっていない。日韓の間には、考えるべきことは数多くあるのである。慰安婦問題については、河野談話で話は終わるはずだ。

 ところが、なぜかこれで話が終わりにならない。韓国から何度も何度も慰安婦問題が取り上げられ、その都度、日本人は嫌韓感情を高める。日韓関係はますます険悪になるということが繰り返される。

 その一方で、数多くの韓国の人々は日本に観光に訪れ、数多くの日本の人々は韓国を旅行している。日韓のお互いの経済依存度は高い。韓国では日本の話題は大きな関心になり、日本ではK-POPや韓国映画のファンは多い。険悪な関係になっているのは日韓の政府だけだ。このように日韓関係の全体像は、ねじれた構造になっている。

 『主戦場』が述べる「強制連行はなかった」論のバカバカしさや、「性奴隷ではなかった」論のあまりにも人権無視の発言はその通りであり、それらを反証することは必要なことだ。しかしながら、あの時代、強制連行であったこともあれば、そうではなかったこともあったであろう、性奴隷であった者もいれば、職業としての売春婦であった者もいたであろうということにも言及すべきだとと思う。いや、そうしたキレイゴトをいっているからヘイトがはびこるのであり、ヘイトはきちんと否定すべきであるという見解があることはわかるが、河野談話にあるように「その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあった」ということは、そうでなかったこともあったということだ。ただし、そうでなかったこともあったということで、日本は一切悪いことをしていないということにはならない。

 日本人の多くは、日韓の歴史を知らないといわれている。なぜ知らないのかというと、中学や高校の教育で教えていないとよくいわれている。もちろん、歴史教科書の記述内容については数々の問題があるが、少なくとも高校の歴史教育は明治以降の日韓関係の歴史について教えるべきことは教えていると思う。学校の現場の都合で近現代史は教えないということはあるかもしれないが、歴史教育としては教えるべきことは教える内容に含まれている。学校で近現代史まできちんと教えることや、学校卒業後も自己の教養として歴史知識を持ち続けるということは別の話である。

 高校の歴史知識を基盤として、日韓の近現代史の本を何冊か読めば河野談話のまっとうさがよくわかるし、ネトウヨがいっていることがいかに愚かしいことかはわかる。さらには韓国が日本にいっていることの極端さもわかるであろう。それで終わり、それだけですむ話であるはずだ。

 ところが、そうはならない。これはもはや歴史がどうこうという話とは別のことなのであろう。

April 15, 2018

『オリバー・ストーンONプーチン』を観る

 先日、NHK-BSで『オリバー・ストーンONプーチン』前後編を観た。映画監督のオリバー・ストーンが、約2年にわたりロシア大統領プーチンに行ったインタビューのドキュメンタリー番組である。ちょうど同じ頃にNHK-BSで『プーチンの復讐』前後編というPBSの「フロントライン」が制作したプーチンとロシアのドキュメンタリー番組もやっていて、この二つの番組を観たことで大変勉強になった。

 なにが大変勉強になったのかというと、この二つの番組の内容がまったく正反対の内容であり、国際情報は対立している双方の国側の情報を見ることがいかに必要かであるかということがよくわかるということである。

 オリバー・ストーンの番組はおもしろかったなあと思っていたら、この番組の書籍化した本が出ているという。オリバー・ストーン著『オリバー・ストーン オン プーチン』(文藝春秋)である。なんと、そうなのかとさっそく池袋のジュンク堂本店で買ってきて読んでみた。

 読んでみると、まず、プーチンへのインタビューテレビ番組は4回のシリーズになっていて、NHK-BSでやった前後編2回の番組はそのダイジェスト版であった。日本ではNHK-BSでのこの放送の後、Amazonジャパンで4回の全話を有料で見ることができるようになり、さらにDVDが4月から販売されている。書籍版にはこの4回の番組で放送していないシーンも含まれている。Amazonで4回の全話を見てみると、なるほどこういう番組だったのかと改めて知り、この内容があまりにも興味深いものであったので、文藝春秋の翻訳版の原本の"Oliver Stone Interviews Vladimir Putin"をAmazonで注文をして入手し読んだ。本当はプーチンがなにを言っているか正確に知るにはプーチンの会話をロシア語で理解する必要があるが、オリバー・ストーンのインタビューはロシア人の通訳者が英語への通訳を介してのインタビューであったので英語でのオリバー・ストーンとプーチンの会話を読んでみたいと思ったのだ。4回の番組をまた見るのはAmazonでいつでも見れると思ってDVDを買うのは必要ないかなと思っているのであるが、これも近々に購入するであろう。それほど関心が持てるものだった。

 かつてプーチンは、ドイツのミュンヘンで開催された第43回「ミュンヘン国防政策国際会議(Munich Conference on Security Policy)」で痛烈にアメリカの政策を批判する演説を行った。この時プーチンが言ったアメリカ批判は至極まっとうで言っていることは間違っていない。多かれ少なかれ、世界の数多くの国々の外交担当者が内心思っていることであり、それをプーチンは堂々と公の場で言ったのだ。だだし、その一方で紛れもなき力関係で成り立っている国際社会で道理が通ることは大変難しいこともまた事実である。もちろん、だからと言ってプーチンの主張はその通りであって、その価値が些かも揺らぐことはない。ただし、アメリカがやっていることは常に正しいわけではないように、ロシアの側もまただからと言って常に正しいことをやっているわけではなく、このことが国際社会とロシアの間を複雑なものにしている。

 ところが、このミュンヘンでのプーチンの演説はドキュメンタリー番組『プーチンの復讐』では徹底的にプーチンは悪というように描かれている。プーチンの言っていることにも理があり、自国の外交政策にも誤りがあるとは決して思わないのである。このプーチンは悪、ロシアは悪というスタイルはドキュメンタリー番組『プーチンの復讐』の中で一貫としてある。

 欧米における国際認識では、ロシアはつねに悪役である。極東の島国の民である私からすれば、なぜそこまで最初からロシアが悪いという前提から始まるのか理解できないことがある。とにかく欧米ではロシアは悪役である。このへん、ヒトラーが率いたナチス・ドイツの扱いと同じだ。欧米にはロシアへの恐れがあるというか、ウラジミール・プーチンという人物への恐れがあると言えるだろう。

 このプーチンは悪のイメージに真っ向から反対の異を唱えるのが映画監督のオリバー・ストーンである。

 私がプーチンへのインタビューに興味を持ったのは、このブログで以前書いたことがあるが、法政大学の下斗米伸夫教授の『プーチンはアジアをめざす』(NHK出版新書)と『宗教・地政学から読むロシア』(日本経済新聞出版社)を読んで、欧米から非難されているウクライナ問題はロシア側にも言い分があるということを知っていたからだ。ロシアには、アメリカやヨーロッパとは違うものがある。そのことを理解しているといないとでは、ロシアに対するイメージは大きく異なる。そして、欧米においても日本においても、そのことを理解しているロシア論者は数少ない。このことが、オリバー・ストーンのプーチンへのインタビューの中でも語られており、下斗米先生の主張と重なるものが多い。

 もうひとつは、オリバー・ストーンは『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』の中で、ナチス・ドイツを降伏させたのは英米ではなくソ連であったことを述べていたからだ。英米の第二次世界大戦の歴史観は連合軍がファシズム国家を倒したというものである。このファシズム国家とは言うまでもなくドイツ、イタリア、そして我が国である。連合軍にはソ連も含まれるが、英米の歴史観では、我々(英米)がファシズム国家を倒したというものである。しかしながら、オリバー・ストーンは『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』にあるソ連・ロシア観とは、ソ連・ロシア側にも言い分はあるということだ。連合軍がナチス・ドイツに勝ったことについて、どちらがたいへんだったのかと言えば英米ではなくソ連であった。ソ連がナチス・ドイツを敗北に追い込んだのである、この視点はプーチンへのインタビューにも一貫としてあり、簡単に言えば、ロシアは悪くはない、ロシアは悪としているのは欧米なのであるということだ。

 ソ連が崩壊した後、もはやNATOは必要がなくなるものであった。プーチンもまた米ソの対立はなくなり、NATOはなくなると思っていたという。どころが、その後もNATOはあり続けている。なぜか。欧米の統合として敵国が必要だからであるとプーチンはインタビューの中で述べている。本当は全地球上を覆う現代の交通と情報テクノロジーによってグローバルな人類社会を作ることは可能だ。しかしながら、そうはならない。人間の社会は社会としてのまとまりを持つために「敵」を必要としているからだ。こうなると地球外生物が地球を侵略しにこなくては人類というまとまりを持つことはできないということになる。

 今起きているイギリスのソールズベリーで3月4日、ロシアの元情報機関員セルゲイ・スクリパリ氏と娘が神経剤ノビチョクで襲撃されたとされる事件は、欧米とロシアが互いに外交官追放に踏み切る事態に発展しているが、イギリスは襲撃にロシア政府が関与しているという明確を証拠はいまだに提示されていない。これなども、ロシアは悪という偏向があるからである。その中でオリバー・ストーンは単身、ロシアに行ってプーチンにインタビューをするということをやったのである。

 我々はこのインタビューから、ロシア側から見た視点という西側のメディアからは得ることができないことを学ぶことができる。

February 11, 2018

NHK-BS1を見ています

 前回、テレビを見るようになったことを書いた。では、具体的になにを見ているのかということについて書きたい。結局のところというか当然というか、見るのはNHKである。

 ご多分に漏れず私もまた子供の頃はテレビばかり見ているテレビっ子だった。 産業としてのテレビ業界が最も成長したのは1980年代から1990年代にかけてであろうが、作品そのもので見た場合、1960年代後半から1970年代はテレビ番組の黄金時代だったといってもいい。しかしながら、今の民放の番組はまず見ない。

 ではなにを見るのかというと、NHK-BS1の国際ニュース番組とBSドキュメンタリーだ。これらはNHKが作っている番組ではなく、海外の放送局の番組にNHKが日本語字幕をつけたり日本語吹替にして放送しているものだ。

 NHK-BS1の国際ニュース番組の主な番組は次の3つになる。

「キャッチ!世界のトップニュース」
「ワールドニュース」
「国際報道2018」

 「ワールドニュース」は、さらに「ワールドニュース」「ワールドニュースアジア」「ワールドニュースアメリカ」の3つに分かれている。これは外国の各国のニュース局のニュース番組のダイジェストを大体50分ぐらいの枠の中で整理をして流しているものだ。例えば朝の4時に放送している「ワールドニュース アジア」では、シンガポール・CNA、韓国・KBS、中国・CCTV、上海・東方衛視、香港・TVB、タイ・MCOT、ベトナム・VTV、フィリピン・ABS-CBNなどのニュース番組が詰まっている。しかも、同時通訳がついて流してくれるのである。これはうれしい。通訳ありで流してくれなければ、ドイツとかフランスとかロシアとかタイとかベトナムとかフィリピンとかブラジルとかスペインとか中国とか香港とか韓国とかインドとかのニュース番組はまず見ないであろう。

 「ワールドニュース」を見ると、今、ざっくりと世界ではどのようなニュースが流れているのかということがわかるのだ。一日の「ワールドニュース」「ワールドニュースアジア」「ワールドニュースアメリカ」の全部を放送をディスクに録画して、全部見るとなると3時間はかかるので、適当に飛ばして見ている。これで十分なのである。

 「ワールドニュース」を見ていて思うのは、当たり前のことであるが、世界の各々の国にも人々が暮らしているということだ。日本という島国にいると、この当たり前の事実を忘れやすい。

 「キャッチ!世界のトップニュース」はNHKが作っている番組で、これら「ワールドニュース」で放送されたトピックの中から、いくつかをとりあげて紹介し解説する番組である。時間がなくて「ワールドニュース」を見る時間がない日などは、「キャッチ!世界のトップニュース」を見るだけにしている。

 「国際報道2018」はあまりおもしろくない。これもNHKが作っているNHKの番組であるが、日本の視聴者にわからせようとするためか、へんに日本の視点に偏るというか、おもねる内容になっている。「ワールドニュース」が良いのは、外国のニュース番組を生のまま、そのままで同時通訳をつけて流してくれるという、その1点にある。それでいいのであって、へんに日本のフィルターをかける必要はない。「国際報道2018」は、NHKの地上波の7時や9時のニュース番組とたいして変わらない内容になっている。このへん、NHKさんにはぜひとも「国際報道2018」の番組の内容を良いものにして欲しいと思う。

 ネットではタダで外国のニュース番組、例えば中東のアルジャジーラ英語放送やロシアの英語ニュース放送局のRT.COMなど、あるいは経済専門ニュースのBloomberg等々のサイトでニュースチャンネルをストリーミング放送で24時間流している。youtubeにはアメリカのFOXやABCやNBC、さらには個人やグループでやっている独立系のニュース放送局などが溢れている。しかも、これらはみんなタダである。

 しかし、ネットのニュース動画は玉石混交で、しかも日付で追っていくには探さなくてならない。今のyoutubeにはイギリスのBBCやアメリカのPBSのドキュメンタリーの動画などがあってたいへん有益なのであるが、やはりNHK-BSの「ワールドニュース」を見るのが一番ラクだ。何度もいいたいが、外務省の機関や海外情報を専門に扱う組織なり部署なりの場ではなく、一般の個人の家庭でたくさんの外国のニュース番組を同時通訳付きでざっくばらんに見ることができるというのは実はすごいことなのだ。特に、日本人はもっとアジア諸国のニュース番組を見るべきだと思う。日本は、アジア諸国の中のひとつの国なのである。

 ちなみにNHKにはNHK World TVという英語放送があり、これはNHK Worldのホームページでライブ放送を見ることができる。しかし、これもおもしろくないというか、情報の量が少ない。NHKは英語放送もやっていますよだけの感が強い。これもやりようによっては、もっとおもしろいものにできるはずだ。

 もうひとつ見逃せないのがBSドキュメンタリーだ。これは外国の良質のドキュメンタリー作品をNHKが買ってきて吹き替えで放送してくれるというものだ。この多くは一度限りの放送であり、録画しておかなくて二度と見ることができない。BSドキュメンタリーは考えされられる良い作品が多い。

 このように、NHK-BSは使い方によって国際情報を知るための、世界を知るための非常に有益なツールになるのである。もっと早く見るようしていれば良かったと思う。

 今は平昌オリンピックが開催されているので、NHK-BS1は国際ニュースの放送が少なくなっている。そういう期間なのでやむを得ないなとは思うが、オリンピックを各国のニュース番組はどのように報道するかということも興味深いことなので国際ニュースをどんどん流して欲しいと思う。

September 18, 2017

沖縄での日米関係の姿は日本全体での日米関係の姿なのである

 先日、NHKオンデマンドで「スペシャルドラマ 返還交渉人~いつか、沖縄を取り戻す~」を見た。

 このドラマは、1960年代の沖縄返還交渉の実務を担当した外務省北米第一課長・千葉一夫の物語である。戦争中は海軍の通信士官だった千葉は、沖縄を攻撃する米軍の無線を傍受していた。戦後、千葉は外務省の外交官になり沖縄返還交渉の実務を任されることになる。

 千葉の想いは、米軍に占領されたままになっている沖縄を取り戻すということである。日本本土は占領が終わって10年以上たっていたが、アメリカのベトナム戦争が本格化し始めており、沖縄はアメリカにとっての重要な出撃基地であった。沖縄には核兵器すら配備されていたのである。

 そこで千葉は、沖縄返還交渉の目標を「核抜き本土並み」とし自ら率先して交渉を重ねていく。GHQの占領が終わり、国内の米軍基地の多くは本土から沖縄に移転した。本土の米軍基地は減ったが、逆に沖縄では増えたのである。千葉の想いは、本土は沖縄に負担を押しつけているということであり、沖縄は日本であり、日本は独立国家であるという日本人としての当然の想いであった。

 しかしながら、沖縄返還は結局どういうものであったのかということを、後の時代の私たちは知っている。

 沖縄返還は、千葉の想いとはまったく逆の結末になる。このテレビドラマは役者の演技も良くたいへん質が高いものであるのだが、主人公が難航する交渉をまとめ上げて見事な成果を上げるとか、危機を乗り越える逆転劇とか、カタルシスのある結末とかいうものはまったくない。このテレビドラマには、ドラマとしてのおもしろさはまったくない。だからこそそこに沖縄返還とはどういうものであったのかが感じられるのである。

 結局、返還交渉は密約をもって決められる。日米関係という大きな枠組みの中で、千葉の返還交渉は徒労として終わる。千葉の父親もまた外務省の外交官であり、日本政府がポツダム宣言受諾をした時に自殺をしたという。外交官であるため敗戦後の日本がどうなるかをわかっていたのかもしれない。心ある外交官は外交に理想を掲げるが、結局、大きな枠組みに押しつぶされて消えていく。だが、我々はそこにその人の生涯の意義を見る。

 なぜ千葉の返還交渉は、徒労で終わってしまったのだろうか。1960年代の外務省の北米第一課長にはわからなかったことが、それから50年以上たった今では誰でもわかるようになった。上記のNHKのドラマで言えば、北米局の課長であった千葉には知らされていない(つまり、我々、日本国民に知らされていない)ことがあったのである。

 今日よく知られている日本の佐藤栄作総理とアメリカのニクソン大統領との返還後の沖縄への核持ち込みの密約については、当時、北米局の局長クラスより上でなくては知らなかったであろう。だからこそ、千葉の沖縄返還交渉、というかNHKのこのドラマはああした徒労の結末で終わったのだ。

 このドラマが放映されて、数日後の10日に放送されたNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」を見るとそれがよくわかった。

 これはアメリカの国防総省が公式に認め機密を解除した沖縄での核兵器配備についての資料を基に、元兵士やアメリカの政府関係者へのインタビューも踏まえ、沖縄の核配備の事実を明らかにした番組である。

 沖縄がアメリカ軍の占領統治にあった時代に核兵器が置かれていたことは、周知の事実なのかもしれない。しかし、それが1300発もの核兵器が置かれていたのである。また、核弾頭つきミサイルの誤射事故があり、もう少しで大惨事になったことがあったということや、1962年のキューバ危機の時には、沖縄の核兵器は(ソ連ではなく)中国を目標とした発射準備が完了していたということ(こちらが撃てば、当然、相手も日本へ撃ってくる)を番組では明らかにしている。

 本土に返還された1972年まで沖縄はアメリカ軍の統治下にあったのだから、これらは当たり前のことだと言うかもしれない。しかし、こうしたことが、当時、日本政府及び日本国民にはまったく知らされることがなかった(日本政府は知ろうとすらしなかった)ということが問題なのである。こうしたことについて、アメリカは日本を守ってくれているのだから問題でもなんでもないという者は、独立国家とか国民主権という近代社会の基本がわからないただのバカであろう。

 では、本土に返還された72年以後はどうであるのだろうか。この番組では、沖縄の核配備について国防総省は回答をしないとし、日本政府は当時の密約はなくなっているとしていると述べて終わる。

 しかしながら今日に至るまで、日米の安保条約や地位協定などの実質的な内容はなにひとつ変わっていない。

 戦後日本の歴史を見てみると、どう考えても理解できない、腑に落ちない「傾向」というか「雰囲気」のようなものがある。これがなんであるのか、これまで私は様々な本を読み、メディアに接してきて、きっとこうなんじゃないだろうかと漠然と考えてきたことがある。これが最近、ああそうなのかとわかった。

 なにがわかったのかというと、一言で言えばこの国は本当の意味では独立国ではないということである。もちろん、これまでそう漠然と思ってきたが、今や明確にそうなのだと言うことができる、ようするにこの国は独立国ではなく半独立国の状態なのであるということだ。

 このことは戦後史関連の書物を数多く出版し、自らも調査したことをまとめて本を出している出版・編集人の矢部宏治さんの以下の3冊の本に詳しく書かれている。この3冊は、大変重要な事実を明らかにしている。

『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社)

『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(集英社)
『知ってはいけない 隠された日本支配の構造 』(講談社現代新書)

 歴史の教科書で言えば、1951年にサンフランシスコ平和条約により日本はGHQ(General Headquarters)、より正しくはSCAP (Supreme Commander for the Allied Powers) による占領が終わり、独立主権国家に戻るとされている。しかしながら、実は様々な点においてアメリカ軍による統治・介入が行われ続けられるように「できていた」のである。アメリカの占領体制が独立後も維持、継続されているのである。この「決まり」は、日本国憲法よりも上位であり、憲法を超えて優先されている。

 1952年に始まる安保条約(旧安保条約)は、1960年にアメリカ軍の日本駐留を引き続き認めるように改訂される(新安保条約)が、在日米軍が事実上、日本国内でいかなることも自由にでき、治外法権の特権を持つということや有事の際には日本の自衛隊は在日米軍の指揮下に入るといったことは今日に至るまで変わっていない。アメリカ本国では、このことを良しとしない国務省や議会の議員や知識人などが数多くいる。常識的感覚からすれば、これはおかしいことなのである。

 そして最も重要なことは、これらはアメリカ側が強制的に無理矢理に日本側にそうさせてきたのではなく、日本側が自ら進んでこうするようにしてきたということである。今おな続く沖縄の基地問題の背景には、そうしたアメリカへの依存関係を持ち続けようとする日本側に問題がある。何度も強調するが、これはアメリカの常識的感覚からすれば理解し難いことを日本人はやっているということであり、こうした構造的背景の中で日米関係を強固なものにすると言っている日本人は、アメリカの国務省から見れば内心では不可解と軽蔑の対象とされている。

 北朝鮮のミサイル問題に対して、この国が軍事的にも外交的にもまったく無力なのは、戦後70年間、ただひたすらアメリカだけに依存し続け、アジア諸国やロシアと良好な関係を築いてこなかったからだ。

 そして、安倍政権や安倍支持者は憲法を改正しなくてはならないと言っているが、憲法9条がどうこうという前に、自衛隊は米軍の指揮下に入るように「なっている」ということから改めることをしなくては話は進まないはずである。しかしながら、そうした事実が表に出ることはないまま、憲法改正がどうのこうのということばかり言っている。

  「スペシャルドラマ 返還交渉人~いつか、沖縄を取り戻す~」やNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」を遠い沖縄での話であり、自分たちには関係はないと思うのは間違っている。沖縄での日米関係の姿は、日本全体での日米関係の姿なのである。

February 10, 2017

『すべての政府は嘘をつく』

 NHKオンデマンドで『BS世界のドキュメンタリー シリーズ トランプ大統領 誕生の深層 「すべての政府はウソをつく」』を観た。

 今から思うと、私が学んだアメリカは、ウォータゲート事件やベトナム戦争以後のアメリカだったのだと思う。メディアには、政府を監視する役割がある。このことを最も体現しているのが、アメリカのメディアであるというのは私の信念であったと言ってもいい。だからこそ、アメリカのメディアは、世界最高のジャーナリズムであると信じていた。

 そのアメリカのメディアは、911以後、少しおかしくなった。政権への批判をしなくなった。あのニューヨーク・タイムズやワシントンポストまでもが、ブッシュのアフガニスタン空爆やイラク侵攻に賛成したのである。しかし、これだけの大規模なテロが起きたのだから、しかたがないと私は思った。メディアが政権に迎合するのは、この時期なのだからだろうと思っていた。

 ところが、その後、さらにアメリカのメディアはおかしくなっていった。

 この理由として、政権のメディア操作が著しく進歩したということが言える。ニクソン政権の頃とは比較にならない程、今の時代は政府によるメディア操作の技術が進歩している。もうひとつの理由は、メディアの側にある。メディアが産業として大きくなり、大手の新聞社やテレビ局は、巨大資本へ買収、合併されていった。このため、今やマスコミは大企業であり、体制側であり、そうカンタンに政府にたてつくことができなくなった。社会正義よりも、利益を優先しなくては会社が成り立たないようになったのである。さらに言えば、消費者が良質なジャーナリズムにお金を払うことはせず、メディアにエンターテインメントを求めるようになったということが挙げられるであろう。

 アメリカは第二次世界大戦以後も、世界各地で戦争をしてきたが、一般市民が直接関わる戦争は、ベトナム戦争を最後とし、1991年の湾岸戦争ではテレビにアメリカ兵の死体が映っただけで、国民は拒否感を持つようになった。このため、これ以後の戦争では、国民にとって完全にメディアの向こう側での戦争になった。というか、政府がそのようにした。国民に実感が伴わない戦争になったのである。

 このことに、心ある人々は危機感を感じ、大手のメディアがやらないことを独立系のメディアが報道している。情報通信技術の進歩により、個人や小さな組織でも世界に向かって発信することができるようになった。

 「すべての政府は嘘をつく」(All Governments Lie )とは、冷戦時代に個人で雑誌を発行し、政府を批判し続けたジャーナリスト・I.F.ストーンの言葉である。先に述べたように、ブッシュ政権以後、アメリカのメディアは大きく劣化した。しかしながら、アメリカのジャーナリズムには、政府を監視するという役割を、今やタテマエにおいてであっても持ち続けているところがあり、独立系メディアへの支持も高い。なによりも、こうしたドキュメンタリー番組が作られる(この番組自体はカナダの制作である)ことに、アメリカのジャーナリズムの、アメリカたるところがあると言えるだろう。意味は多少違うが、銃の所持規制ができないということもこれに関連していることである。

 トランプ支持者も「政府を疑う」人々である。しかし、この番組での「政府を疑う」とは、リベラルな意味での「政府を疑う」だ。政府への不信、マスコミへの不信が、一方ではトランプ大統領を生み出し、一方でこの番組で取り上げられている独立系メディアを生み出したのだ。それが今のアメリカなのであろう。

 アメリカ以上に劣化しているのが、この国のメディアだ。

 アメリカも日本も、いまやメディアは営利企業になったが、そうであっても、アメリカのジャーナリズムには営利企業であることへの反発と抗いが多少なりともあるが、日本にはそれがまったくと言っていいほどない。日本において、志ある良質のメディアは数少ない。

 以下、多少、大げさであるが、そもそもから考えてみたい。

 今のこの国には、この「政府を疑う」という考え方そのものが、典型的左翼の思考であり、政府を批判することは、自分たちが知的であるかのような衒いでしかないという意見がある。特に、ネット界隈でよく見かける。

 「政府を疑う」というのは左派だけではなく、右派の思想にもあるが、なぜか「政府を疑う」のは左翼の典型的な思考になるらしい。ネトウヨは、今の政府を疑わないのであろう。「政府を疑う」というのは間違っているという思考そのものが、かなり幼稚で低レベルなものだ。今のこの国では、こうしたことを言う人が数多い。そういう世の中になってしまった。

 なぜ、こうなってしまったのであろうか。

 明治は有司専制であった。明治政府は国家が民間企業も含め無知蒙昧な一般大衆を、指導し撫育するというものであった。この構図は、基本的に江戸時代と変わらない。江戸時代もまた、統治階級である武士が、それ以外の者たちを管理するという基本構図をもって、この国は成り立っていた。明治になり階級制度は廃止され、四民平等の世の中になったが、お侍様が我々を導いてくれるという意識が、政治家の先生や偉いお役人様が我々を導いてくれるという意識に変わったにすぎない。

 事実で言えば、確かにそうであったのであろう。国家が権力をもって、無理にでもこの国を欧米のような国にする、そうしたないと日本は欧米の植民地になる、というのが明治維新の目的であり、意図であった。

 しかしながら、近代社会というのはそういうものではないと考える人々がいた。自由民権運動の人々である。彼らはフランス革命の思想的背景のひとつであったルソーの思想からそれを学んだ。主権は、王権にあるのではなく民衆にあるという思想である。ところが、この自由民権運動は、明治23年に施行された大日本帝国憲法の発布と帝国議会の設置を経て、次第に小さなものになっていき、やがて歴史の表舞台から消えてしまった。有司専制であっても、とりあえず国民国家になったということで、それで良しとしたのであろうか。自由民権運動には、薩長だけがいい思いをしていることへの士族たちの憤りがあったとも言える。

 日本人が主権在民という考え方を持つようになったのは、太平洋戦争の敗戦によるGHQの占領下においてであった。ここでようやく、かつて明治の時代に自由民権運動の人々が主張した民権というものが、アメリカを経由してこの国にもたらされることになった。

 国権により与えられる、国権により保証される「自由」と、市民社会本来が持つ「自由」は別のものである。この「別ものである」というのが、戦後日本ではあいまいになって今日に至っている。戦前の大日本国憲法での国民の持つ「自由」とは、国権により与えられ、国権により保証される「自由」であった。これに対して、戦後、GHQが草案した日本国憲法での国民の持つ「自由」とは、国権によって与えられり、保証されたりするものでない。人間本来が自明で持つ「自由」であり、これが欧米の市民社会の「自由」である。ところが、いわば占領軍であるアメリカから「与えられた」ようなものであるが故に、戦後の日本の主権在民とは、国権によって与えられるものではないということが正しく理解されていない。

 「国民主権」というものと、「政府を疑う」ということは、実は密接に関連している。国民主権であるから「政府を客観的に見る」のであり「政府を疑う」という行為がある。「政府を疑わない」というのは、国民主権ではないと言っていることに等しい。

 いや、主権をもって「政府を疑わない」のだと言うかもしれない。しかしながら、政府は国民を統治し、権力を維持するためにウソをつく。政府はウソをつくという前提があって、主権をもって「政府を疑わない」というのならば、それは主権放棄になるのではないだろうか。いわば、主権をもって主権を放棄するということだ。つまりは、国民主権ではなくなるということなのである。

 なぜ、「すべての政府はウソをつく」という当たり前のことを前提としないのだろうか。政府が国民のためを思ってしっかりやっているのだから、批判するのはおかしいと言う人が今でもいるということは、戦後70年たっても、「国民主権」を正しく理解していないのである。憲法についていうのならば、憲法を改正するどころか、まず戦後の日本国憲法すら正しく理解していないということが言えるだろう。それで憲法改正がどうのこうのと言っているのが、今のこの国なのである。

 何度も書いて恐縮であるが、今やアメリカでも日本でも、メディアが「すべての政府はウソをつく。だから、政府を疑わなくてならない」という意識を持つということはタテマエになってしまった。しかし、タテマエであったとしても、アメリカのメディアには、それを掲げようとする者たちを讃え、今の現状を嘆かわしく思う良心の呵責がある。これに対して、そうした意識をタテマエとしてすら持とうとしないのが、この国の姿なのだ。この違いは大きい。

 NHKのBSで放送したドキュメンタリー番組『すべての政府は嘘をつく』は、3月にアップリンク渋谷にて劇場公開するという。


August 12, 2016

『太陽の蓋』

 先日、『太陽の蓋』という311原発事故のセミドキュメンタリー映画を観た。福島原発事故の時、官邸の対応をセミドキュメンタリードラマにした映画だ。

 官邸担当の新聞記者を主人公とし、震災発生の時のシーンと、2012年や2013年などの後日の取材のシーンを挟み、あの時、官邸ではなにがどうなっていたのかを描き出すストーリーになっている。311の時の政府の対応の内幕については、いくつかのノンフィクション本が出ているが、映画では始めてのことではないかと思う。

 福島原発事故は有事であった。有事であるということは、めったにない出来事であったということだ。基本的に、政治システムや法律体制は「めったにない出来事」に即応できるようになっていない。なんていったって、「めったにない出来事」なのだから。

 しかしながら、「めったにない出来事」とは「絶対に起こらない出来事」ではない。「絶対に起こらない出来事」ではない以上、起こり得るのであり、実際に起きたのが311であった。だからこそ、政府は混乱した。混乱するのが当然だ。問題は、どのように混乱したのかということである。

 この時の政府の対応の不手際を、民主党政権だったからとか、菅直人総理大臣であったからとかいう見方がある。しかし、どの政党の政権であろうと、誰が総理大臣であったであろうと、政府の対応はこうしたことになっていたであろう。政府にせよ、東京電力にせよ、この出来事に対して十分に対応できるようになっていなかったのである。何度も言うが、これは「めったにない出来事」を「絶対に起こらない出来事」としてきたが故の当然の姿であった。

 菅総理がヘリで現地を視察したことや東電本店に乗り込んでいったことについて、今でも批判の声が多いが、この時の状況を考えれば、総理大臣がああしたことをせざる得なかったと言えるだろう。たまたま、この時、民主党政権であり、総理大臣が菅直人であったにすぎない。

 この映画は、あの時、官邸でなにがあったのかを伝えようとしているだけではなく、あの時、マスコミの大多数はいかに「正しく」報道をしていなかったということを伝えている。あの時の民主党政権の対応を十分なものであったとは言っていない。この映画は、あの時、こうしたことがあったということを伝えているだけである。そして、この対応が良かったのかどうかの判断は、この映画を観る側に委ねている。

 福島原発事故については、今でもわからないことが多い。なぜ最終的に大惨事になることはなかったのかということは今だに解明されていない。この映画でも、なにがどう明らかになることはなく、とにかくあの時、政府は混乱し、情報は錯綜していたということしかわからない。

 しかし、実際そうだったのであり、これが事実であったのだろう。必要なのは、この出来事を振り返り、なにがどうであったのかという筋道を明らかにするということだ。未確認な情報、伝えられていない情報が錯綜していたあの時から5年がたった今、俯瞰した場所から振り返ることは重要なことであり、必要なことだ。本来は、この映画だけではなく、もっと多くの映画や本がこのことを扱うべきことなのである。

 私も含め、あの出来事を実際に体験していない者たちにとって、311はテレビの向こう側の出来事でしかない。だからこそ、映像や活字を通して、あの出来事を「体験」し続けていく以外に方法がない。

 また、政府の対応についても、数々の証言があり、この映画で描かれた内容が「真実」なのかというと、必ずしもそうではない箇所もあるようであり、このへんはさらなる調査が必要なのであろう。

 原発とは、戦後日本の国策であり、その背後にはアメリカの存在がある。いち首相、いち政権でどうこうできるものではなく、実際に民主党政権で脱原発に転身することが試みられたが、その後、自民党政権でまたもとに戻ってしまった。それほど、原発政策は、与党がどうこう、野党がどうこうということを超えた、この国の根幹の一部になっていると言えるほど大きく深いものなのであろう。だからこそ、原発について考えるには、多面的な視点が必要だ。

 この『太陽の蓋』が興味深いのは、その多面的な視点を持っているということだ。この映画の外伝とも言うべきスピンオフドラマ映像がYoutubeに挙げられている。

 この映像は、今日の時点で3本挙げられている。

 スピンオフ映像1は、ある記者が、自らの取材によって注水を止めたのは官邸の指示ではなかったという結果を、マスコミはなぜ広く伝えようとしないのかを問うものになっている。

 注水を止めよというのは、官邸の指示ではなかった、では、誰がそれを指示したのは藪の中になっている。しかし、結局、「注水を止めたのは官邸の指示だった」というデマが広がり、世論の民主党政権退陣の雰囲気の後押しのひとつになっていった。そして、マスコミは後にあの時の官邸の状況を知ったとしても、それを報道することはなかった。

 スピンオフ映像2は、原発を誘致した側には、誘致をした理由があるということである。たんなる反原発では、原発をやめることはできないということだ。

 このスピンオフ映像2を見て、『太陽の蓋』はこれまで観てきた様々な反原発映画とは違うものを感じた。原発を誘致する側にも切実な理由があるというであり、それに対して「正しい」異議を唱えても伝わらない。原発による地域の経済安定と、原発の持つ危険性を知る作業員の複雑な心情が出ている。

 スピンオフ映像3は、原発事故が起こると、その被害規模は想像を超える程大きいということだ。原発は、これだけの大きな被害コストに見合うものなのかという根本的な議論を、我々はしてこなかった。政府と電力会社がいう安全神話により、本来の考えるべき原発の本当のコストを正面から考えることをしてこなかった。

 『太陽の蓋』は、本編である映画と、この3本のスピンオフ映像でできていると言ってもいいだろう。映画館で映画を観て、それで終わりなのではなく、何度も考えなくてはならない。そのことを、映画本編とこの3本のスピンオフ映像は教えてくれるのである。

June 19, 2016

『帰ってきたヒトラー』

 『帰ってきたヒトラー』という映画を観た。

 現代のドイツにヒトラーがタイムスリップするというこの映画は、コメディ映画だと思ってたが、産経新聞でこの映画の紹介を読むと「コメディーで始まった物語が風刺劇に変わり、最後は悲劇で終わる。」という。おや、これは、ただのコメディではないのかなと思い、ネットで少し調べてみると、原作の小説があって、ドイツではベストセラーになったという。コメディなのであるが、実はかなりシリアスな内容を持った作品のようだ。これは観なくてはと思い、早速観てきた。

 この映画は、実際の今のドイツの政治状況とか、映画『ヒトラー最後の12日間』のパロディとかもあって、ブラックジョーク満載でおもしろかった。アドルフ・ヒトラーは、1945年に地下壕で自殺し、その遺体はガソリンをかけて燃やされた。この映画は、そのヒトラーがベルリンのとある公園で目覚めるシーンから始まる。そこは、2014年のベルリンであった。

 なにしろ、ヒトラーその人、本人が、現代のドイツに現れるのである。ところが、人々は、この人物をヒトラーの物まねコメディアンとして扱い、当然のことながら本物とはまったく思わない。ヒットー本人が「私はヒトラーである」と言っているのに、周囲の人々は、この人物をただの芸人としてしか思わない。このへん、小松左京のSF小説で、ある日突然、宇宙人が日本にやってくる作品があるが、映画を観ていて、小松さんのこの作品を思い出した。現代人は、宇宙人が現れようが、ヒトラーが現れようが、まったく驚くこともせず気にしないのである。

 興味深いのは、このヒトラーは、ドイツの敗北が濃厚になり、重度のパラノイアと左手が震えるパーキンソン病になっていた第二次世界大戦末期のヒトラーではなく、ナチ党を結成し、1933年の選挙で首相に選ばれた当時のヒトラーだということだ。そもそもヒトラーその人なのだから、自分かつてやってきたことを、再び2014年のドイツでやろうとしても不思議ではない。

 ヒトラーはドイツ各地をめぐり、人々の抱えた不満に耳を傾け、聞き入る。民衆がなにを求めているのかを、実際に民衆と対話して知ろうと努める。このシーンは、ドキュメンタリータッチになっていて興味深い。人々が何を不満に感じているのか、その実体を素直に調べ、民衆の声に耳を傾け、そして巧みな演説で人々の心をつかむという政治を、ヒトラーという人物は持っていることがよくわかるシーンになっている。

 普通であれば、オレは総統なんだと偉ぶり、民衆を平気で「処分」することができる人物である。その男が、今自分が置かれている2014年という状況に見事に対応し、ここから再度、政治権力を手中にするために、民衆の心をつかむことを一からやり直す。それほど、この男は政治家として優れているということであり、この偏執狂的と言える程の前向きな思考と柔軟な発想の姿に、ヒトラーは人々を惹きつけるこういう人物だったんだろうなと思わせる説得力がある。

 テレビのバラエティ番組で、このヒトラーが演説をするシーンがある。ヒトラーがしゃべろうとしていても、テレビ局内の番組の聴衆は騒いでいる。この騒いでいる聴衆を前にして、彼は黙ってただ立っている。やがて、ヒトラーの沈黙に耐えかねるように聴衆が静まると、ヒトラーはゆっくりと話し始める。この演説の始まりのやり方は、ヒトラーの演説の方法だった。こういうシーンひとつをとっても、このヒトラーは、あのヒトラーなのだと思わせるようになっている。

 そして、このヒトラーは、現代の人々の声を聞いていくと、この時代にも、移民や失業、貧困、格差問題があることを知っていく。戦前のドイツと今のドイツで、ヒトラーが主張していることが重なるのだ。この映画は、それを難民排斥デモのニューズ映像などを交えて表現している。ここで、この映画の本当の意味を知る。

 ヒトラーはネットで爆発的な支持を得て、やがて政治家たちも、彼が人気者になるにつれ、彼に接近してくるようになる。

 このヒトラーの本性を見抜くのは、かつて家族が収容所へ送られ殺された、今は痴呆症になっているユダヤ人の老婆である。老婆は言う。あの頃も人々は最初はヒトラーを笑っていた、と。

 ヒトラーは遠い歴史の忘却の彼方に消え去ったが、民族主義や排他主義の意識は今でもなくなっていない。今も人々の心の中にある民族主義は、巧みな政治指導者が現れれば簡単に表に出てくる。大衆扇動やポピュリズムに対して民主主義はまったくの無力であるように、ファシズムに対しても民主主義は無力なのだ。ヒトラーをなくしても、またヒトラー的なるものが現れる。ヒトラーは何度でも帰ってくる。ヒトラーがいたからドイツがああなったのではなく、人々がヒトラーを登場させたのだと、この映画はパロディで娯楽映画でありながら、そのことを正面から堂々と言っている。

 ドイツでは、ヒトラーやナチズムについて、おおっぴらに語ることができない雰囲気が今もあるという。この映画、(というか原作の小説は)、そうした今のドイツで、しかも、あれはナチスの戦争犯罪であったという歴史認識が一般化しているドイツで、こうしたことを言っているということに意味がある。

 この物語の中で歴史学者は出てこなかった。歴史学者ならば、ヒトラーの第三帝国が結局どうなったのかを論じることができる。極端な民族主義の末路がどうなるかを語ることができる。ただし、それはヒトラーに語ることはできても、人々に語り得るかどうかということなる。

 日本では政策として移民を受け入れることをしていない。そのためもあって、日本ではヨーロッパの移民問題をなかなか理解できないところがある。しかしながら、今のヨーロッパの移民問題はかなり大きい。自分たちの生活圏に、イスラム教徒の集団が「はいりこんでくる」という感覚はかなり深刻なものになっている。この映画のラストは、この帰ってきたヒトラーを支持し、極右傾化していくドイツである。

 この映画は、もちろんフィクションである。フィクションであるからこそ表現し得ないものを表現し、そして実は、それが最も真実を現しているという文芸の持つ重要な力を現している。おそらく、帰ってきたヒトラーに対抗し得るものは、こうした文芸の力なのだろう。

 このような作品を日本で作るとなると、どうなるだろうか。「帰ってきた東條英機」であろうか。しかし、東條英機は、演説は上手くなくカリスマ性も能力もない、ただの軍事官僚だった。戦前、戦中を通して、日本国民は東條英機を支持したわけではない。では、誰だろう。帝国陸軍そのものだろうか。しかし「帰ってきた大日本帝国陸軍」では、これもまた支持する人は少ないだろう。国家総動員体制の確立と大陸に侵攻し資源を獲得することは、陸軍軍務局長の永田鉄山が考えていたことであったが、今のグローバル経済の時代ではこんな考えは通用しない。

 日本が戦争に突き進んでいった背景のひとつに、世論があり、国民の気分があったことは事実である。それを煽ったのは、軍部というよりもメディアであったことも事実である。それでは、誰が、あるいはなにが、その中心的な指導的役割を果たしていたのかということになると、具体的な人物が挙げられない。大東亜戦争は、一人のカリスマ的指導者が現れ、国民がそれを支持して始まった戦争ではなかった。そして、この状態は、ドイツがそうであるように、日本もまた戦後70年たっても変わっていない。だからこそ、日本の状況は、ドイツ以上に複雑でより深刻なのだ。

April 10, 2016

日本の王朝時代劇ドラマはなぜないのか

 このところ、韓国時代劇ドラマ『イ・サン』を見ている。

 10年くらい前のテレビ番組である。私は、この名作時代劇ドラマを見ていなかったのだ。『イ・サン』という韓国歴史ドラマがあることは知っていた。知っていたが、全77話をレンタルDVDで借りて見るのは、それなりに手間とお金がかかるなあと思い、見ることがなかった。dTVで『ホジュン』のリメイク版を全話見終わって、さて次に何を見るかと思い、作品リストの中に名作の誉れ高い『イ・サン』があることに気がついて見ることにした。

 『イ・サン』は、李氏朝鮮の第22代国王の正祖を主人公とした時代劇ドラマである。監督はイ・ビョンフンで、この人は名作時代劇ドラマ『ホジュン 宮廷医官への道』の監督さんで、『ホジュン』のリメイク版を見て、以前見た旧作『ホジュン』のことをついて調べていたら、監督が『宮廷女官チャングムの誓い』の人で、この人の作品に『イ・サン』や『トンイ』や『馬医』があることを知ったのだった。そこで、これは(dTVで全話見れるのだし)『イ・サン』を見なければと思ったのだ。しかし、こんな韓国ドラマの基礎知識は、昨今の寒流ドラマ愛好者には当然のことであり、誰もが知っていることだ。私は韓国映画はそれなりに見ているのだが、テレビドラマの方はさっぱり知らないのだ。

 韓国の歴史ドラマは映画にせよテレビにせよ、学ぶことが多い。基本的に、朝鮮の文化や歴史について活字を通してしか知らない者にとって、映像ドラマで見るのは大変勉強になる。しかしながら、韓国歴史ドラマの話は別の機会に書くこととして、今回考えてみたいのは我が国、日本のことだ。

 日本の王朝である天皇家にも、その長い歴史の中で、様々なドラマがあったはずである。しかしながら、そうしたことが映画やテレビの時代劇ドラマで扱われることが極めて少ない。なぜなのであろうか。

 ひとつ言えることは、韓国では王政は完全に廃止され、遠い歴史の出来事になっているにの対して、日本では天皇制は今だ続いているということだ。このへんに、そう簡単にはテレビドラマにできない理由があるのかもしれない。仮に天皇家の時代劇ドラマ番組を作ろうということになっても、そもそもスポンサーがつくのかどうかという問題もあるだろう。

 もう一つの点として、日本の天皇と朝鮮の国王の意味や役割の違いがある。日本史の中で、歴史に大きな影響を及ぼす劇的な生涯を送った天皇は、古代の大和時代から14世紀の南北朝時代の後醍醐天皇を最後として、その後、歴史の表舞台には姿が見えなくなる。次に、天皇が表舞台に出てくるのは幕末の孝明天皇である。しかし、どうも、これら日本の王朝史劇は、韓国と比べて劇的要素が低い。日本は、12世紀に鎌倉幕府が成立し、以後、武家による支配統治と天皇の権威の二重構造の社会であり、大王としての天皇が最高権力者であることはなかった。こうしたことに、王朝ドラマに成りにくい点があるのかもしれない。

 天皇には祭司のとしての役割が濃厚にあるが、それと比較して、朝鮮の国王には、為政者としての役割が大きい。朝鮮は儒教の国である。儒教における優れた為政者とは、どのようなものであるのかという意識がある。朝鮮の国王は、都から出て、各地を巡り、民衆の生活の姿や奴婢たちの声をじかに聞くことを行うが、日本の天皇の行幸にはそうしたものがない。朝鮮には、民衆の声を聞くのが儒教における徳の体現者としての国王の役割であるという思想があるからである。もちろん、これは為政者としての役割は武家が努め、天皇にはその役割がなかったということも言えるが、そのためもあって、天皇は民衆よりも神道の神々の方が近い。これは、なかなかドラマには成りにくいとは思う。

 少なくとも、明治時代から今日至る近現代の天皇を扱うのは、かなり困難であろう。李氏朝鮮の最後の国王高宗とその后閔妃の時代劇ドラマ番組があるが、どうも見たいとは思わない内容のようなので見ていない。日本による日韓併合はもちろん間違った出来事であったが、あの時代の朝鮮と高宗をどのように歴史的に解釈するのかは難しい。同様に、明治・大正・昭和の天皇をどのように解釈するのかは難しい。また、古代の天皇を扱うのも難しい。三韓征伐を行ったとされる神功皇后のドラマをやるとなると、日韓関係はもめるだろう。しかし、大化改新や壬申の乱前後の頃から持統天皇に続く時代も劇的な時代だった。

 このような韓国のような絢爛豪華で、権力への野望と政治抗争劇の歴史ドラマが、日本でもできないものかと思う。日本史上、最も劇的な時代のひとつといえるのが、平安末期の保元・平治の乱による武家の台頭から鎌倉幕府の創世と滅亡、南北朝の騒乱に至る時代である。この時代の天皇家の物語を韓国時代劇ドラマに負けない程の内容でドラマ番組にしてくれないものかと思う。

 歴史の表舞台には一切出ることはなく、何事もなかったのような江戸時代でも、天皇家には実はこのようなことがあったという新発見はないものだろうか。

 天皇家の物語だけではない、今の歴史ドラマは内容は固定化して、新しい物語がない。国が歴史研究にもっと予算を出し、歴史家が隠れた物語を発見し、ドラマ作家がそれらをドラマにし、テレビ局がドラマ番組を作成し放送する。番組は日本だけではなく、大陸中国、香港、台湾、韓国、その他の国々でも放送し、その収益を得るというビジネスモデルができないものだろうか。

August 30, 2015

『南京!南京!』

 先日、ニコニコ動画で中国映画『南京! 南京!』を見た。

 この映画は2009年に中国で公開され大きな話題を呼んだ映画である。日本では、1日だけひとつの映画館で上映されたそうだ。日本語版DVDも発売されていない。私は香港版のDVDをネットで購入して持っていたが、まだ見ていなかった。今回、ニコニコ動画で、反日と呼ばれている作品を見てみようという企画のもとに公開されたものである。ネトウヨの牙城とも言うべきニコニコ動画でこの映画を公開するということの興味もあり、見てみた。

 映画の前半は、日本軍と中国軍の南京での市街戦である。この市街戦のシーンは、戦争映画として見た場合、見事なカメラワークの映像になっていて、見応えがある。帝国陸軍は本来、こうした大陸の市街戦や広大な平地での戦闘が主たる任務であったが、太平洋戦争は文字通り太平洋の島々での戦争であって、数多くの太平洋戦争の戦争映画での帝国陸軍は本来の姿ではない。映像で、市街戦で戦う日本陸軍はめったに見れるものではないのだ。この映画は、そのめったに見れない帝国陸軍の市街戦の戦闘シーンがある。

 見ていてつくづく思ったのは、やはり日本軍は装備が貧弱で、例えばヨーロッパ戦線でのドイツ陸軍や英米の陸軍とはとてもではないが比べものにならないなということだ。帝国陸軍は、中国の国民党軍を相手に戦うことはできても、ソ連の機甲師団と戦ったらまず勝てるとは思えない貧弱さである。日中戦争で日本軍が連戦連勝だったのは、国民党軍や八路軍が近代軍隊としては日本軍よりも遅れていたからである。

 映画の冒頭、南京を守備をしていた国民党軍が、日本軍の攻撃を前にして市民を見捨てて脱出してしまう。迫り来る日本軍を前にして南京の城門から逃亡しようとする兵士たちと、それを押し止めようとする兵士たちのぶつかり合いのシーンがある。このへん、南京を見捨てた蒋介石の国民党を批判する視点があるのが興味深い。根本的な話をすれば、国民党はなぜ南京を守らずに逃げたのかという話の一言につきる。

 蒋介石の考えは、日本軍と徹底抗戦することなく、退却をし続けることで日本軍の補給ラインを伸ばし、泥沼の状態の戦争に引きずり込むことであった。しかし、そうした戦略的な撤退であったとしても、一般市民を安全に撤退させることをしなかったのはなぜなのかという疑問が残る。ただし、しかなかったということについては、満州国が崩壊した時、関東軍は一般の日本人を避難させることはしなかった。軍は自分たちだけで撤退し、残された一般市民はソ連軍に蹂躙されるがままになった。沖縄戦で、日本軍は沖縄県民をどのようにしたのかということについては言うまでもない。ようするに、軍隊というのは、必ずしも一般市民を守るわけではないということだ。

 南京に残ったわずかな兵士たちは日本軍と戦うが、当然のことながら勝ち目はなく日本軍の勝利となる。この捕虜となった中国兵士たち、市内に残された一般市民たち、そして日本軍の追求から逃れ、市民の中に隠れた中国兵士たちという、この3者に対して、後に日本軍による「大虐殺」と呼ばれる出来事があったとされているのが、いわゆる南京大虐殺事件の背景である。

 映画の後半は、日本軍よる残虐行為が、これでもかというほど繰り返される。これらは、かなり惨いシーンになっている。中国人であろうが、何人であろうが、こうしたことをする日本に憎悪を感じるのは当然であろう。それほど、日本軍が行う陰惨なシーンが出てくる。とにかくひたすら延々と日本人による理不尽な暴力が繰り返されるだけのシーンが続く。かといって、そうした極悪非道の日本軍を倒して、溜飲を下げる出来事があるわけでもなく、日本人が見ても、中国人が見ていても気持ちのいいものではないだろう。

 ニコ動で見たので、流れ出てくるコメントは、ほとんどが「日本はこんなことはしない」「こんなことをしたら軍法会議ものだろ」という批判や否定が多い。この映画の監督によると、膨大な数の日本兵の日記を読み、そこにこうしたことが書かれていた、決して荒唐無稽な作り話ではないという。

 この映画は、一方的な中国側の視点ではなく、一日本兵の視点から描かれた話になっているという。確かに、良心的な一日本人兵士が登場し、日本軍が行う残虐行為に葛藤し苦悶する話にはなっている。しかしながら、この日本兵士の視点というものが、それほど深くは感じることができない。これはおそらく、この映画の中の「日本」にリアルさを感じることができなかったからだろう。私としては、この兵士に、感情移入がし難い。なぜもっと深く、重く、日本人が共感できるような、この日本人兵士の内面を描いてくれなかったのだろうか。

 むしろ、感情移入ができたのは、中国人女性が慰安婦の募集に対して、躊躇しながら手を挙げるシーンだ。自分が慰安婦になることで、他の女性たちの安全が確保されると考え、この女性は自ら手を挙げる。日本側からすれば「自発的」になるのだろうが、どう見てももこれは「強制」である。この女性の姿に感動を感じるとともに、いかに日本軍が醜悪な連中であることを感じるシーンになっている。慰安婦制度というものを置くことによって、(それら以外の)女性たちは安全が保証され、暴力の恐怖から逃れることができる(といっても、あくまでも表面的なものではあるが)ということがよくわかるシーンだった。

 この映画は、日本軍が行う残虐シーンは、かなり強烈なシーンとして映しているのであるが、良心的な一日本兵士の心情の葛藤があまり深く描けていないように思う。これで、この映画は「一日本兵の視点から描かれた話になっている」と言われても困るであろう。やはり、この映画の重点は戦場における残虐性であろう、ただし、戦場の残虐性がメインテーマであるのならば、どの国でも行われてきた戦争そのものの罪悪を映し出すということになるが、この映画では日本軍が行った戦争の罪悪という、「日本軍が行った」という点に焦点があてられている。

 戦場において、非人間的行為が行われることは事実である。おそらく、監督が読んだという日本軍兵士の膨大な数の日記には、そうした戦場での非人間的行為が書かれていたのであろう。便衣兵と一般市民の見分けがつかず、大量の捕虜の扱いにも困り、捕虜も一般市民も誰もかれも、とにかく全員まとめて建物の中に押し込めて、ドアに鍵をかけて火をつけて建物ごと焼き去るということや、子供を窓から放り投げて殺すということも、個々の場面でいうのならば、そうしたことがあったということは十分考えられる。もちろん、そうした行為は軍紀違反であり、軍法会議になるはずであるが、そういうタテマエの話にはならなかったことは数多くあったであろう。その意味においては、日中戦争のある側面をリアルに描写していると言える。

 この映画では、日本軍に30万人が殺戮されたとしている。今日よく言われているように、虐殺された数が30万人だったというのは考え難い。いわゆる南京で起きたという日本軍による30万人の大量虐殺は、いわば日本軍の非人道的行為を糾弾する政治的なサンプルとして作られた話であったというのが今日の常識的な判断と言われている。

 しかしながら、それでこの話は終わりなのではなく、こうした非人道的な行為を、南京だけではなく中国大陸の各地で、日本軍はやったということは紛れもない事実であり、その歴史は残る。この歴史を日本人はどのように考えるのかという話は、南京大虐殺と呼ばれるものはなかったとしても残り続ける。南京で殺戮されたのは何人だったのかとか、南京大虐殺はあったのか、なかったのかということは、いわば枝葉末節なことであり、こちらの方がずっと大きな課題である。戦前の時代、アジアの各地で、人々に尊敬される立派な日本人は数多くいた。しかし、その一方で、日本人は他のアジア人に対して過剰な攻撃性や残虐性を表してきた。このことをどのように考えればよいのだろうか。戦争だからこうだった、とは一概には言えないものがある。

 この映画を見て中国のみなさんはどう思うか。国が弱かったから、こうした外国の侵略を受けたのだ。国は強い軍事力を持たなくてはならないと思うであろう。現在の中国が行っている、外国の国々から見ると理解し難い程の異常な軍事力増加への傾斜、領土権の主張の背景には、この想いがある。欧米や日本は、中国に国際法の遵守を言うが、中国からすれば、お前たちはこれまでさんざん国際法を無視したことをやってきて、なにを言っているのだという感があるだろう。

 この映画はフィクションである。中国の映画は、検閲を通らなくては公開できない。そう考えてみると、この映画は過去にある国が自国に行ったことの反感と憎悪をかき立てると同時に、現在の軍備増強を正当化させるものになっていると思えなくもない。何れにせよ、今の中国の軍拡の意思の背後にあるものの一つは、近代史における侵略された側の想いがある。

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