May 17, 2008

『王道の狗』を読む

 今年のGWは、前半は道場で稽古の日々、後半はもっぱら韓国ドラマをレンタルのDVDで見る、というものであった。

 韓国ドラマは以前『朱蒙』を見ていたのだが、あまりの長さに、クムワ王を演じたチョン・グァンリョルが主役をしている『ホジュン』の方を見始め、これはいいということで(こっちも全64話という長さなのであるが)延々と見ている。『ホジュン』は、『朱蒙』と同じ歴史ものである。時代は、秀吉による日本軍の侵攻の場面もあるので、その頃なんだなと思う。このドラマは、実在した医師許浚の生涯のドラマである。朝鮮のこの当時の医学と言えば、当然のことながら古代中国から朝鮮に伝わった医学である。これを今日の韓国では漢医学と呼ぶようだ。すなわち古代中国の医学である。その内容の高度さに驚く。日本では、明治になって西洋の医学が導入され、漢方医学は、ほとんど絶えてしまった。今の日本では、古代中国の人間観に基づいた漢方医学をマスターしている人は数が少ない。このへん、『ホジュン』を見ながら、日本では失われしまった中国からの知識と技術の伝承について、うーむとうなってしまうのである。

 というわけで、『ホジュン』の話ではなくて。

 安彦良和の『王道の狗』全4巻を読む。この作品は、なぜか今まで読むことがなかった。昭和前期の日中戦争やノモンハン事件の話である『虹色のトロツキー』も、日本の古代史ものも、アレキサンダーもネロも、安彦さんの歴史ものは全部読んできたワタシであったが、なぜか『王道の狗』をこれまで読むことはなかった。

 なぜか。ひとつは、この物語の時代背景について、自分はよく知らないということが挙げられる。『王道の狗』は、明治17年の秩父事件から物語が始まる。そして、囚人の強制労働によって行われる北海道開拓の話になり、やがて話は朝鮮の甲申事変から金玉均の日本亡命、そして日清戦争へと進んでいく。つまり、大ざっぱに言うと、西南戦争の後から日清戦争へ至る過程の中で、この国ではどのようなことが起こったのかという物語である。実際のところ、この明治17年の秩父事件から日清戦争の始まる明治27年の間の10年間こそ、日本の近代史において最も大きなターニングポイントの時代であった。しかしながら、それはわかっているのであるが、では何が起きたのかということを深く知ることなく、ただ年月がたってしまった。この時代について、自分は何も知らないという思いから、なんとなく『王道の狗』を避けてきたのかもしれない。日清戦争がなぜ起きたのかということについて、ワタシが日本と朝鮮の関係において理解できるようになったのはつい最近のことだ。日本の近代史において、朝鮮との関係はいかなるものであったのかということの理解なしに、日本の近代は理解できない。それほどつまりは、日本にとって朝鮮は大きな意味を持っている。

 しかし、まあ。当然のことかもしれないが、『王道の狗』を読んでみても、よくわからない。つまるところ、アジアの島国であるこの国は、19世紀に西欧列強の圧力に反応するかたちで、近代国家へと国を変えていった。その国が、やがて隣国の朝鮮を支配し、中国大陸に傀儡国家である満州国を作るようになったのは、そもそも、なぜなのか。これを、今の一部の史家が言うような、ロシアの南下に対抗するために祖国防衛のために行ったとは、どう考えても言えない。ちなみに、シバリョーによると、カンタンに言うと、明治が良くて、昭和はダメだったということになる。しかし、明治17年以後の辺りから、この国はある方向へ大きく曲がっていった(「曲がっていったという」表現もナンであるが)のは確かである。それは一体何であり、なぜそうなったのか。

 わからないまま、考えてみたい。

 庶民にとって、明治の日本は、増税と不況が続き、そして国権はひたすら重いものであった。1882年に、ヨーロッパで起きた生糸価格の大暴落の影響は日本にも波及し、日本国内でも生糸の価格の大暴落が発生した。埼玉県秩父地方は、養蚕が盛んであったため、その収入のほとんどを生糸の生産に頼っていた。生糸市場の暴落と増税等は、彼らの生活を圧迫し、そこにつけこむ銀行や高利貸したちが、彼らをさらに貧困に貶めた。この農民の困窮を前にして、自由民権思想を掲げる自由党党員らが秩父困民党を結成し、武装蜂起をしたのが秩父事件である。この当時、こうした民衆の苦境を救うために自由民権運動の者たちが蜂起する事件が日本各地で数多く起こっていた。秩父事件は、それらの中でも大規模なものであった。この蜂起は、政府の警察隊や憲兵隊、そして最後には陸軍の鎮台部隊との戦闘に至り、秩父困民党は壊滅する。その後、秩父困民党の指導者や参加者は各地で次々と捕縛された。彼らの多くは、北海道の刑務所へ送られ、そこで政府の行う石狩道路の建設に使役させられる。この当時、未開拓の原野が広がる北海道で、政府は囚人を使って、過酷な労働のもとに道路建設を行っていたのである。

 その囚人の中に、『王道の狗』の二人の主人公、加納周助と風間一太郎がいた。この二人が脱獄するところから、この物語は始まる。そして、二人は、警察の執拗な追跡を振り切り、アイヌの猟師に助けられる。アイヌとしての名前を与えられ、彼らは新しい人生を始める。この二人の若者は、その後、対称的な人生を歩むことになる。

 加納が大東流合気柔術の武田惣角から柔術を学ぶところは、こんな短時間で取得できるわけないだろうと思ったが、そこはまあ、お話ということで。

 やがて加納は柔術の腕を見込まれて、金玉均のボディーガードになり、ここで加納は、朝鮮の政治家、金玉均と出会う。金玉均のことについて、今の日本では(韓国の側でも)あまり知られていない。知られていないが、この人物をキーにして、日本と朝鮮の過去を振り返ることなくして、この二つの国の近代史は理解できない。

 金玉均が、この時、日本にいたのは、甲申事変により日本に亡命してきたからである。甲申事変とは、何であったのかということを考えるには、その前に起きた壬午事変のことを考えなくてならず、壬午事変のことを考えるには、その前に起きた江華島事件について考えなくてはならず、つまりは、明治日本と李氏朝鮮はどのように出会ったのかということから考えなくてはならない。

 革命によって誕生した国家というのは、革命がひとまず終了すると、得てして、その革命のイデオロギーを他国へ伝えようとする。こんな素晴らしい人類普遍の価値を、おたくの国も取り入れなさい、ということである。しかしながら、これは伝えようする側は善の行為であると思っているが、伝えられる側は迷惑な行為になることが多い。迷惑な行為なのであるが、社会変動というのは、往々にして、そうやって行われてきたとも言える。19世紀のアジアにとって、日本は迷惑な国でもあった。

 欧米文明と出会い、その衝撃から近代国家への道を進んでいった明治日本が、隣の朝鮮を見ると、未だ極めてアジア的な旧態依然たる封建社会国家がそこにあった。欧米の近代文明を導入することこそ、アジア諸国が西洋列強の植民地なることから脱却できることなのであると考える明治日本にとって、朝鮮、そして清朝中国は、手助けして、近代化への道を歩んで欲しい相手であり、できることならば、共に近代化して、西洋列強と相対峙したいという願いのようなものがあった。幕末では、薩摩藩主の島津斉彬や勝海舟、福沢諭吉などは、そう考えていた。

 しかしながら、この理想があっさりと実現できる程、この世界は単純ではなかった。どの国にも、その国の内部事情というものがある。1868年、明治政府は朝鮮に、新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を送ったが、朝鮮側は洋服を着て、皇の詔勅だというものを倭奴が持ってくることは何事であるかと、これを拒否する。李氏朝鮮にとって、皇とは、北京にいる中国皇帝のことであり、詔勅とは、中国皇帝のみが発するものである。中華帝国の華夷秩序こそ守るべき価値観であった。しかし、明治日本にとってすれば、その考え方こそアジア的なものであり、そんなものはあっさりと捨てて、欧米の文明を導入することこそ善であるという考え方であった。ここで日本と朝鮮の双方は決裂する。

 明治日本が考える東アジア諸国間の国際関係とは、中華帝国による冊封体制的な国際関係ではなく、ヨーロッパの近代的国際法と条約に基づく国際関係であった。しかし、これをこの当時の朝鮮に理解せよというのは、およそ不可能なことであろう。結局、1875年に朝鮮の江華島付近で日本と朝鮮は武力衝突になる。武力衝突になるというか、交渉が遅々として進まない事に業を煮やした日本政府による軍事的な威圧行為、つまり「砲艦外交」であった。この22年前の1853年に、江戸湾の浦賀でペリーが徳川日本に対して行ったようなことを、明治日本は李氏朝鮮に対して行ったわけである。このことにより、朝鮮は日本との国交回復をはかり、1875年に日朝修好条規が締結される。

 当然のことながら、この条約は不平等条約、つまり朝鮮側にとって著しく不利な条約であった。朝鮮側が近代国際法や条約について不慣れであっためである。ちなみに、同じく、日本もまたこの当時、欧米諸国から日本側に不利な不平等条約を結ばされていたが、日朝修好条規では、欧米が日本に課した条約よりも、さらに不利な条約を日本は朝鮮に課している。このへん、今日の感覚からすれば、法的に間違ったことをやったわけではないが、アコギというか、悪どいことを日本はやったと非難されてもしかたがないであろう。

 日朝修好条規の後、日本以外にもアメリカ、フランス、ロシアとも条約を結ぶことになり、かくて朝鮮は開国へと進むことになるのであるが、朝鮮の国内の政治は、開化派と保守派勢力との対立が深刻化する。開化派勢力の筆頭は、高宗の王妃の閔妃とその一族である。開化派は、国の近代化に着手した。日本から軍事顧問を招き、日本と同じく近代的な軍隊を作ろうとした。この軍政改革に不満を持ったのが、旧軍の保守派であった。旧軍側の兵士は、開化派の軍隊の兵士と待遇が違うことなどに不満を持ち、ついに暴動へと発展する。この暴動の背後には、閔妃とその一族を筆頭とする開化派から、政治の実権を奪い取ろうとする保守派の陰謀があった。この反乱暴動事件を、壬午事変と呼ぶ。

 閔妃は、反乱兵士の暴動から逃れるため王宮を脱出し、当時朝鮮にいた清国の実力者である袁世凱の力を借りる。清からすれば、朝鮮が日本の力を背景として清の冊封国でなくなったことを元に戻したいという意志があった。閔妃は清に密使を送り、清からの軍隊を派遣を要請する。清はそれを受け軍隊を送る。一方、日本も軍隊を送り、日本と清のどちらが反乱を鎮圧するかの争いになったが、結局、清の軍隊が反乱を鎮圧し、閔妃の一族は政権を取り戻すことになる。以後、閔妃は日本よりも清を頼るようになる。この当時、アジアにおいて、清朝中国は今だ巨大な存在であったのである。

 壬午事変で表面化したことは、朝鮮を日本と清のどちらが支配するのかということであった。ちなみに、朝鮮の人々からすれば、朝鮮はどちらの国のものでもなく、朝鮮は朝鮮の人々の国であるが、そうしたことを顧みることは、そのどちらの国もすることはなかった。そういう時代だったと言わざるを得ない。

 朝鮮には、閔妃のやっていることは、真の意味での朝鮮の独立ではないと考える開化派の人々もいた。その人々の代表的人物が、金玉均である。そして、日本の政治家や思想家の中にも、金玉均を支持する人々が数多くいた。その一人が福沢諭吉である。福沢の理想は、アジアが共に近代化の道を歩み、西欧列強に対抗しうる独立自尊の国になることだった。福沢は、金に朝鮮の独立と近代化の希望をかける。

 1884年、金玉均らは日本の援助のもとで、クーデターを実施し、開化派が新政府樹立を宣言する。この事件を、甲申事変と呼ぶ。このクーデターは成功したかのように見えたが、袁世凱の率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め入り、日本軍は敗退し、金のクーデターは3日で失敗に終わる。この時でも、清朝中国と袁世凱は日本よりも遙かに上手だったと言えよう。開化派の新政権は崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命する。

 『王道の狗』の主人公の一人の加納が金と出会うのは、この時である。この時、日本国内では、朝鮮についての考え方が大きく変わっていた。金は、再び福沢と出会い、さらなる援助を求めようとするが、福沢はこれを拒否する。福沢の内面において、もはや朝鮮に関わることはやめようという気になってきたのである。朝鮮は言うまでもなく、清の袁世凱や西太后がやっていることは、とても近代化とは遙かに遠く、従来の旧態依然たるアジアでしかないという絶望感のようなものが、この時の福沢にはあったのではないかと思う。その挫折と怒りから、福沢はこの甲申事変の後、時事新報の社説に「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と書く。後に言う「脱亜論」である。また、欧米との不平等条約の改正を求めていた陸奥宗光は、日本が西洋と平等な国になったことを示すには、朝鮮、中国と戦争を行い、これに勝利すること以外に方法はないのではないかと考える。つまり、ここで、日本の対アジア認識が大きく方法変転するのである。

 しかし、福沢と同じくアジア主義の考えを持っていた勝海舟は、甲申事変の後になっても、福沢のようには考えなかった。『王道の狗』の中で、勝は西郷隆盛が生きていれば、こうしたことはなかっただろうと語る。勝は、どうなろうと、朝鮮の支配をめぐって日本と中国が争うことになるのは正しいことではないと考えていた。秩父事件によって弾圧され、北海道の獄に繋がれ、道路建設に使役され、アイヌへの差別を体験した加納は、日本に亡命していた金と出会い、さらに勝と出会うことで、人生の目的を知る。その目的とは、覇道ではなく王道に生きるということである。王道、覇道というのは、孟子の思想である。覇道とは、武力や権謀によって人民や他国を服従させることである。これに対して、王道とは、徳によって仁政を行うことであり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服する。王道を尊び、覇道を軽蔑せよというのが儒学の教えである。

 日本の支援をもはや得られないことを知った金は、失意のもと李鴻章と会うために上海へ行くが、これは李鴻章と閔妃の罠であった。このことは、陸奥、すなわち日本国外務省も知っていた。金は、上海で閔妃の刺客に殺害される。遺骸は分断され、朝鮮の漢陽近郊でさらしものにされる。

 日本国内では、金の殺害を援助した李鴻章と袁世凱、そして朝鮮の閔妃への反感が高まり、清そして朝鮮と戦争をすべしという気分が盛り上がる。これこそ、清との戦争をもくろむ陸奥と、陸軍の参謀本部次長の川上操六のねらいであった。朝鮮の全羅道で東学党の乱が勃発し、この乱はまたたくまに大きな乱へとなる。これに危機感を感じた閔妃は、東学党の乱を鎮圧するため、またもや清に軍の派兵を要請し、清はこれに応えて軍隊を朝鮮へ送る。明治政府は、清との戦争を避けるため、朝鮮に軍隊を送ることを望まなかった。しかし、参謀本部次長川上操六は、先の甲申事変で清朝軍に日本軍が敗北したことを繰り返すことないよう、大規模の軍隊を朝鮮に送る。

 東学党の乱は停戦で終わり、朝鮮政府は清と日本に軍隊の撤兵を要請したが、どちらもこれを拒否する。日本は清に独立国である朝鮮への内政干渉を抗議し、朝鮮には国内の改革を要求するが、清も朝鮮もこれを認めず、対立は激化した。清にとっては朝鮮を従属国にし続けることが望みなのだ。一方、日本の(というか、外務省の陸奥宗光と陸軍の川上操六の)望んでいたものは、清との戦争であり、清と戦争して、これに勝利することによって、日本の国際的地位を向上させ、清国から利権を獲得しようということなのである。とにかく、なにがなんでも戦争へと持ち込みたいということなのだ。ここに日清戦争が始まる。明治天皇は、こうした強引な開戦に激怒し、「これは朕の戦争に非ず」と述べた。

 日清戦争に勝利した日本が求めたものは、遼東半島の割譲である。李鴻章は、この要求をのまざる得なかった。しかし、このあまりにも広大な土地を日本が植民地にすることを恐れたロシアは、フランスとドイツを誘い、遼東半島領有に強く抗議した。これを、三国干渉と呼ぶ。当然のことながら、ロシアもフランスもドイツも、中国人民の国土は、中国人民のものであり、日本の侵略は間違っているという考えで、三国干渉したわけではない。西欧列強からすれば、清朝中国の衰退は明らかであり、中国を分割させておのおの領有することを考えていたが、日本は自分勝手にいち早く広大な領土を獲得しようとしていると見えたのであろう。

 『王道の狗』の中で、東学党の乱(甲午農民戦争)の首謀者であり、後の刑死となる全琫準(チョン・ボンジュン)は、加納にこう語る。「国の利益や民族の都合を越えた正しい道があることを、おまえは信じているか?」と。加納はこう答える「もちろん」と。だからこそ、加納は王道の道を歩き、革命軍を支援する武器商人であり、テロリストである人生を選択したのであろう。これに対して、陸奥宗光はそうは考えない。明治日本そのものが、そうは考えなかった。

 1924年11月、孫文は神戸で講演を行った。その講演の中で、孫文は日本の聴衆に「ヨーロッパのように覇道を求めるのかアジアの王道を歩むのか」と述べている。その翌年、孫文は他界した。

 その後の日本はどちらの道を歩んだか、後世の我々は知っている。

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October 23, 2005

『攻殻機動隊』の「S.A.C」と「2nd GIG」を考える その1

 雑誌「ユリイカ」10月号の特集は『攻殻機動隊』であった。『攻殻機動隊』というこの注目すべきアニメについて、いつかまとめて書いてみたいと思っている。

 去年の夏コミで押井MLの同人誌に『機動警察パトレイバー2』について書いたが(その時の原稿はこちらを参照)、今年の夏コミではなにも書いたものを出さなかった。ボチボチ『イノセンス』についてなんか書こうかなと思い、「人間機械論」や球体関節人形などについて何冊か本を読み始めてみたものの、どーもノリが宜しくない。というか、はっきりいって押井監督のこれまでの作品から見て、『イノセンス』はなんかこーいまひとつの感がある。『イノセンス』の前作の1995年の劇場アニメ『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』ですら、今の時代状況から考えると、なんか合わない感じがしないでもない。

 『GHOST IN THE SHELL』は、ネット時代の「実存」や「主体」を扱っているが、今から思うとあれは60年代から80年代の現代思想の進展を背景にしていたと思う。よって、9.11から始まった21世紀の社会と思想の展開には、当然のことながら対応していない。そりゃあ、まー、情報通信技術としては、今でも十分通用する先駆的作品であるが、国家論や社会論から見た場合、今の状況に合わなくなっている。だからこそ、『GHOST IN THE SHELL』の続編にあたる『イノセンス』は、現代を反映したさらにサイバーな(サイバーなって何?)テツガク的作品になるのではないかと期待していたのであるが、実際の作品は、そうした期待を見事に壊してくれて、これはこれでまあいいんじゃないスかという、ある「境地」に到達した優れた作品であった。そもそも、タイトルの「イノセンス」って何だったのだろうか。あれをつけたのは、ジブリの鈴木Pだったという。ここで、『イノセンス』における鈴木Pの存在は結局何であったのかと考えてみたいがやめる。いずれにせよ、9.11以後、「パト2」が描いたバーチャルな戦争ですら時代遅れのものになりつつある現代の戦争について、どう考えるんですか押井監督と言いたいところであったが、監督は東京を離れて犬と余生を静かに暮らしたいというので、もはや何も言うまい。

 ところが、プロダクションIGには押井守の弟子が育っていたのだ。『GHOST IN THE SHELL』や『機動警察パトレイバー2』で押井さんが捉えようとしていたものを、若い後継者が受け継いでいたのである。プロダクションIGの『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』こそ、2000年の『パトレイバー』であり『GHOST IN THE SHELL』であったのだ。よっしゃあ、「S.A.C」およびその第2シリーズ「2nd GIG」について考えてみよう。というわけで、今後、断片的にではあるが、この題材をもとに現代社会を考えていきたい。

 余談になるが、宮崎駿は宮崎駿でオワル。スタジオジブリには、宮崎さんを受け継ぐ後継者が育っていないように見える。いい若手が育っていない。宮崎さんと鈴木Pが前面に出過ぎ。宮崎駿の後のジブリは、果たしてどうなるのであろうか。

 さて、「S.A.C」について、やはりまず考えるべきことは、戦争についてであろう。今の状況は、誰もが言うように、戦争状態が常態化してしまった世の中になりつつある。「ユリイカ」10月号の中で、東浩紀は「S.A.C」を作った神山健治との対談の中でこう語っている。

「かつては、常態(=法律が守られている状態)と非常事態(=法律が守られない状態)があって、非常事態には越権行為で戦車が民家に突っ込んだりしてもいいという話になっていた。ところがいまは、テロが起きる可能性ということを言い出すと、すべてが非常事態化する。いままでは違憲だとされた脱法行為も、緊急避難という概念が全面化することによって、あらゆる場面で恣意的に実現されるようになる。その恣意的な実現に対して、旧左翼的な人たちは、それは違憲であり、脱法行為だと批判するわけだけど、相手は「おかしいことはわかっています、でも非常事態ですから」というロジックで来ており、有効な抵抗とならない。これは要するに、近代主義的な法治国家の発想が、9.11以後機能しなくなっているという話でもあるわけです。」(東浩紀)

 これを読んで、なるほどと思った。今の時代は、国家が行うことは、それが違法行為であったとしても、違法行為であるが故に批判してもなんの批判にならない(ただし、これはあくまでも国家が行う行為のみであって、国民が行う行為には法の遵守を要求される)。よって、例えば「共謀罪」について、これを人権の観点から否定しても、これが人権を無視する可能性があることはわかっている、しかし今は非常事態なのであるの一言で押し切られてしまうのであろう。いわば、今の状況は政府そのものが確信犯なのである。これが違法であることを知っていて、なおかつやっているのが今の政府なのだ。すでに崩壊している年金制度や保険制度を、まだ大丈夫であるとし、国民に年金や保険金の支払いを続けさせているのを見てもそうであろう。確信犯に、法を説いても意味はない。むしろ、「今は非常事態なのである」「だからなにをやってもいい」という認識そのものを問わなくてはならない。

 おそらく、もはや国家と国家が行う全面戦争というものは、少なくともこの日本ではもう行われないのではないかと思う。現代の国家がその権力を強固なものにしようとしているのは、実際のところ国家とはなんの実体もないイマージナリーなものであるという真実を人々は感じ始めているからである。国家の求心力が解体し崩壊しつつあるからこそ、国家は国家であることを強調しようとしている。と同時に、これまで、体制従順であろうと反体制であろうと、国家の枠の中に置かれていた国民の心理が、イメージとしての国家の崩壊に直面した今、従来の国家のようなシンボルを求める意識もある。いわゆる、プチ・ナショナリズムとはそうしたものではないか。

 しかしながら、国家が国家であろうとすることが、さらに国家と人々の間を乖離させ、国家というものが今の時代にそぐわないものであることを逆に露呈している。近代以来、国家が行ってきた様々な機能の破綻が今起きている。つまり、国家は国家であることの正当性も優位性もなにもないということなのだ。行政や軍や警察が対応できる問題には限度がある。麻薬事件が明るみになった今の自衛隊に対して、自衛隊を民営化せよという声が出ないのは不思議だ。誰のための、何のための自衛隊なのか。「共謀罪」が守ろうとするものは何であるのか。より深いラディカルな問いかけこそ、今求められるものなのだろうと思う。この問いかけこそ、かつて押井守が持っていたものであり、その後継者の神山健治の「S.A.C」にはそれがある。

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June 28, 2005

漆原友紀『蟲師』を読む

 例によって、何気なくふらりと入った神田神保町のマンガ専門店の高岡書店で、漆原友紀の『蟲師』第6巻を発見。これは買わねばと思って、買う。第1巻を読んだ時から、漆原友紀の『蟲師』はいいと思ってきた。

 「蟲(むし)」とはなにか。『蟲師』第1巻には、こう書いてある。

「およそ遠しとされしもの 下等で奇怪 見慣れた動植物とはまるで違うとおぼしきモノ達 それら異形の一群を ヒトは古くから畏れを含み いつしか総じて『蟲(むし)』と呼んだ」

 動物でも植物でもない。原生生物や粘菌類とも違う。いのちの源が形になったような、生命と非生命の間、現世と常世の境にあるような朧げな「いきもの」たちのことを、この物語では「蟲」と呼んでいる。大多数の人々は、蟲を見ることはなく、蟲に関わることもなく暮らしている。蟲もまた人に関わることなく、別の世界にいる。しかしながら、時折、蟲に関わってしまう人もいて、そのために起こる病気を治す蟲師という職能の人がいる。『蟲師』は、蟲師であるギンコが旅の中で出会う様々な出来事の物語である。

 ここでいうこの治すということは、近代医学のように病原体を撲滅させて治すのではない。「蟲」と「人」の間で起きた出来事の因果関係を解きほぐし、「蟲」と「人」をあるべき姿に戻すということである。蟲師は、「蟲」と「人」の間をつなぐ境界人なのであると言えるだろう。この世界観は、日本に古くからある「カミ」と「人」、「霊」と「人」、「自然」と「人」の世界観に通じるものがある。時代背景は、江戸時代が終わって明治の頃のようなのであるが、具体的に特定されているわけではない。風景描写に、ほっとするような懐かしい雰囲気がある。

 柳田國男の『遠野物語』の序に、「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」という有名が一文がある。『蟲師』も『遠野物語』のような民話伝承の物語の系譜を継ぐ作品であると思うが、この短編物語集にあるのは、戦慄というよりも「蟲」に対する怖さの向こうにある、いのちの奥行きの深さと静謐であろう。生きとし生けるものの連鎖の中に、人もまたいる。

 蟲は淡くて、脆くて、儚い。人の命や想いも、またそうしたものである。ギンコは、一見ニヒルに構えているようで、実は心細やかに蟲の病に患った人の病と心を治していく。ギンコには、蟲も人も共に生けるものとしての悲しみを感じる心と優しさがあるのだと思う。それはギンコもまた幼少の時に、蟲と出会い、蟲と関わったことで片目を失った人であったからなのかもしれない。片目を失うことで、ギンコは人が見えないものを見ることができるようになる。そのことは、蟲でもなく人でもない者になることであったのかもしれない。しかし、ギンコはそれをどう思うこともなく、淡々と旅を続けていく。彼は、蟲の世界から人の世界への語り部でもあるのだ。

 第6巻も読み終わった後、心に余韻が残るようないい作品ばかりであった。「野末の宴」という話の最後で、「蟲とは?」という問いに対して、ギンコは「まあ・・・世を構成しているものの一部さね。それ以上でも。それ以下でもない。」と答える。

 「人は、なぜ生きているのだろう」という問いは、「いきもの」に対する不遜な問いなのかもしれない。

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May 14, 2005

手塚治虫『地上最大のロボット』を読む

 小学館ビックコミックスで、月に一回の連載をしている浦沢直樹の『PLUTO プルートゥ』の評判が高いので、どれどれとコミックスで今出ている第1巻と第2巻を買って読んでみた。なるほど、これはいい。この作品は、手塚治虫の『鉄腕アトム』の中のエピソード「地上最大のロボット」を原作にした作品で、浦沢直樹が現代的な視点から物語を描き直している。ロボットというか、アンドロイドについては、プロダクションIGのテレビ版『攻殻機動隊』や押井監督の映画『イノセンス』でかなり深く扱われていたが、鉄腕アトムに注目することは思いつかなかった。手塚治虫の作品では、『ブラックジャック』などは今読んでも十分におもしろく、かつ考えることがある作品であるのだが、アトムはそのかわいらしいキャラクターのせいか、どーもシリアスな作品と思うことなく、ただ単にスルーしていっただけだと思う。大体、アトムについては、僕はテレビで見ていただけで、マンガの方のアトムについてはほとんど読んだことがない。ロボットについても、アトムよりもキカイダーやマジンガーZの方が親近感がある(ガンダムや汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンにいたっては親近感以上のものを感じるのだけど)。ようするに、アトムは幼少期にテレビで見ていたというだけであって、今ひとつ親しみ感がなかったのであった。

 『PLUTO プルートゥ』は、読んでおもしろいと思った。とにかく、アトムやお茶の水博士やウランちゃんなどと言ったおなじみのキャラが登場するが、当然ならながら浦沢直樹のキャラクターになっている。浦沢直樹と言えば、『YAWARA!』や『MONSTER』が有名であるが、僕がよく読んだのは『MASTERキートン』だった。その浦沢直樹が『鉄腕アトム』をリメイクするのだ。

 さて、1巻、2巻と読んでみて、手塚治虫の原作が読みたくなった。しかし、アマゾンでも在庫切れになっていて、そう簡単には入手できないようだ。今日、神田神保町のマンガ専門店にふと入ってみたら、『PLUTO プルートゥ』の大型本では手塚治虫の『地上最大のロボット』が一緒にセットなって販売されていたではないか。値段が税込みで1800円という高さなので、ちょっと考えたが、ええーい、買ってしまえというわけで買ってしまった。こんなんだから、いくら働いてもお金が貯まることはない(きっぱり)。

 そこで、手塚治虫の『地上最大のロボット』である。中近東のとある国の王が、世界の王になろうとしてできなかった野望をロボットに託し、大金を注いで世界最強のロボットを科学者に作らせる。プルートゥと名付けられたこのロボットは、世界の各地にいる合計7体の最高技術で製造されたロボットを破壊することを命じられ、それを確実にこなしていく。興味深いのは、プルートゥはただ単に殺戮を行うマシーンではなく、倫理的な判断もできるロボットであるということだ。一度アトムに助けれられて、その恩を返すという義理も人情もあるロボットなのだ。しかしながら、プルートゥは7体のロボットを倒すことを命じられている以上、その命令に従うとしている。プルートゥやアトム以外にも、この物語に出てくるロボットはみなどれも「人間らしさ」を持っている。この物語は、世界の王になりたかったという一人の人間の欲望が、数多くのロボットの「生」を奪っていくという物語である。ラストは、とりあえず事態は収拾するが、後に残るのは荒涼たる破壊の跡と、悲しみとやるせなさというラストで終わる。唯一、アトムが希望らしきことを語るが、それはただの願望にすぎず、人間はまたこうしたことを繰り替えすということをよく理解していたのが手塚治虫であった。

 浦沢直樹の『PLUTO プルートゥ』では、ロボット(ちなみに、今の時代のSFものは「ロボット」とは言わずに、「アンドロイド」と呼ぶと思うが、あえて「ロボット」という言葉を使っているところに原作へのオマージュを感じる)の対比としての「人間」とはなにかということがさらに深く追及されている。中央アジアのペルシア王国の国王ダリウス14世は独裁体制を築き、近隣諸国を圧倒的軍事力で侵略し中央アジアを支配しようとしていた。これに対し、世界のリーダーを自負するトラキア合衆国は、国連で「大量破壊ロボット製造禁止条約」を呼びかけ、ペルシア王国に大量破壊ロボットが隠されていると主張し、調査団を派遣する。この調査団の名前の「ボラー調査団」の「ボラー」の意味や、ペルシア王国のロボット兵団を作った天才的科学者の通称が「ゴシ博士」というのも原作を読むとわかる。そして、やがてペルシア王国との戦争になり、数多くの罪のない人々やロボットが殺され破壊されていったという状況の上で物語は進んでいく。第2巻で、アトムはプルートゥのものらしき人工知能から発信された通信に「巨大な苦しみ」を感じる。これが何であるのか。『地上最大のロボット』を読んだ今、なんとなくわかるような気がする。

 結局、ロボットたちが本当に戦うべき相手とは誰なのか。なにがロボットにロボットの殺戮をし向けているのか。浦沢直樹は、手塚治虫のこの名作をどのように表現していくのか。今後楽しみだ。

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May 05, 2005

『Samurai7』はイイ

 過去見てきたアニメの中でベストを挙げよと言われたら、『serial experiments lain』『新世紀エヴァンゲリオン』『ご先祖様万々歳』『機動戦士Zガンダム』『ターンエーガンダム』『攻殻機動隊』『人狼』『機動警察パトレイバー2』『LAST EXILE』『プラネテス』等々と挙げることができるが、『プラネテス』のDVDの最終巻を見た後で、もはや気になるアニメがずーとなかった。

 いや、ずーとなかったというとウソになるな。実は、『ウィッチハンターロビン』の第1巻を見たら、これイイじゃんということで、そのまま、ずるずると全巻をレンタルで見てしまった。『ウィッチハンターロビン』は、全編に漂うゴシック的なダークさと、スタイリッシ感覚のある映像、ヒロインの瀬名ロビンのモノトーンのしゃべり方がなかなかよくて(いえ、こうしたゴスファッションで、あまり笑わなくて、ボソッとしたしゃべりしかしない子が個人的に好きというわけではないけれど・・・・)、音楽も良かった。物語的には、最初は『Xファイル』のような感じであったのだが、後半は話がなんかいまひとつまとまりに欠けた感じだった。最後まで、ハイクオリティーを維持して欲しかったと思う。それをやるのは大変だということはよくわかっているけど、TV版の『攻殻機動隊』はそこを見事にクリアしていた。

 『ウィッチハンターロビン』を全話見終わった後、もういいアニメはないのかと思って、深夜のTSUTAYAのアニメコーナーをいい歳をしたオジサンがゴソゴソと物色していたら(不気味だ・・・)、なんかよさげなアニメあったではないか。タイトルは『Samurai7』。解説を読むと、黒澤明監督のあの『7人の侍』のリメイクだという(そのまんまのタイトルだよな)。しかも、だ。制作はあの『LAST EXILE』を作ったGONZOである。これはなんか、すごくいいかもと思い、さっそくDVDの第1巻を見てみた。やっぱりイイ。この作品はイイ。

 というわけで、GONZOの去年TV放送されたアニメ作品『Samurai7』を今見ている。発売しているDVDは現在のところ第8巻までで、レンタルでは7巻まで出ている。舞台は、日本の時代劇であった原作とは異なり、遠い未来の架空の惑星の架空の時代という設定で、「侍」はメカロボットやサイボーグになっている者もいる。長い戦乱が終結した時代の中で、農民から米を強奪する悪い「侍」(「野伏(のぶ)せり」)がいて、そうした「野伏せり」を倒すために、農民は腕の立つ侍を探し、村を守ってもらおうとする。その農民の願いに応えるのが、カンベイたち7人の侍なのであった。

 と、ここまでは原作の黒澤監督の『7人の侍』を忠実にリメイクしているのが、違う部分も当然あって、キララやコマチといった日本アニメ定番の萌え女の子キャラも出てきて、このへんジューブン楽しめる(楽しめるって、なにを・・・)。黒澤御大も、こうした萌えキャラまでは作れなかったであろう。こうして物語は、最初は黒澤監督の映画とほぼ同じなのであるが、途中からさらに大きく展開していく。『攻殻機動隊』も終わってしまった今、こうして毎月の新作DVDが出るのを待つアニメはひさしぶりだ。

 さて、こうなると原作の映画がもう一度見たくなり、さっそく黒澤監督の『7人の侍』をまた見てみた。もう何度も見ているのだけれど、いい映画は何度見てもいい。

 改めて見てみると、三船敏郎が演じる豪快な菊千代は、実に重要なキャラクターであったことがわかる。三船敏郎は赤ひげ先生や椿三十郎の渋くて寡黙なイメージが強いが、このはしゃぎまくり騒ぎまくる、とにかく自由奔放な百姓上がりのサムライ(?)の菊千代を見るたびに、この役者は本当にいい役者だったと思う。菊千代がいるおかげで、この映画の幅と奥行きが広がっている。志村喬の勘兵衛もいい。武術に優れているだけではなく、人格を磨き、高い知性を持ち、人心を統率できる本当の侍の鏡のような人。加東大介、千秋実もいい。宮口精二の演じる居合いの剣客の久蔵はホントかっこいい。

 今の日本では、こうした映画はできないだろうなあと思う。監督もそうだが、こうしたいい役者はもういないよなあ。もはやアニメでしか、この映画はリメイクできないのだなと思う。農民を愚かで醜い者たちとして描いているが、最後のシーンで勘兵衛が言う「勝ったのは俺たちではなく百姓だ」というセリフが深い。『Samurai7』では、このシーンをどう表現するのか楽しみだ。何度見ても思うが、この映画は本当にいい。監督もすごいが役者も良かった。昔の日本映画は良かった。

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January 07, 2005

『プラネテス』はやはり良い作品だった

 DVDで見ていたNHKのアニメ『プラネテス』がvol9でとうとう完結してしまった。BS公開時は見ていなかったので、これで初めて最終話まで見たことになる。なるほど、こうしたラストなのかと思った。ちょっと物足りなさもあったのだが、原作のメッセージをうまくまとめていると思った。人はなぜ宇宙に出て行くのかということと、人はなぜ帰るべき場所を持つのかということは同じなんだなと思った。もっか泥沼に落ち込んでいくNHKであるが、この良質のアニメを作ったことだけはエライ!

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October 17, 2004

『機動警察パトレイバー2』の評論をアップしました

 さる8月15日に東京ビッグサイトで開催されました「コミックマーケット66」にて、押井守メーリングリストが同人誌の最新号「犬からの手紙 第6号」を販売しました。その中で僕が書いた押井守監督映画『機動警察パトレイバー2』の評論をアーカイブにアップロードしました

 内容は、アニメ評論というより、自衛隊の話です。アニメ映画を通して、自衛隊と戦争をここまで語ることができるのは、押井さんの『機動警察パトレイバー2』以外にありません。僕は、今後もこの作品について考えていくと思います。

 「犬からの手紙 第6号」は映画『イノセンス』特集です。押井守監督のインタビューも載っています。現在もK-BOOKSとらのあなにて委託販売中です。通販も可能ですので、通販を希望の方は 各ショップにお問い合わせください。

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August 18, 2004

『ラストエグザイル』はいい!!

 『ラストエグザイル』というアニメを今見ている。これは去年、テレビ東京の深夜枠でやっていたアニメで、知る人ぞ知る良質のアニメだったという。僕がこのアニメのことを知ったのは、『プラテネス』の挿入歌「A Secret Of The Moon」や「Planetes」を作詞・作曲して自分でボーカルをやっているHitomiという人は、他にどんな作品の音楽をやっているのかなと思って調べてみたことがきっかけだった。最初、Hitomiって、エイベックスのHitomiのことかと思っていたのだが違う人だった。音楽のジャンルが違うよな。

 Hitomiというのは黒石ひとみという人で、『プラテネス』の他にも『ラストエグザイル』というアニメ作品の音楽をやっているということがわかった。で、それではと、この『ラストエグザイル』というアニメについて調べてみると、なんかすごくいい作品だという。音楽も評判がいい。絵もきれいで、キャラクターのデザインもいい。そうだったのか。そんないい作品があったのか。これは見なくてはいけないなと思い、まず近所のTSUTAYAへ行って、探してみるとビデオ版であるではないか。いやあ、家の近くに充実したレンタルビデオ屋さんがあるというのは人生の幸福ですね。

 というわけで、まず第1話から第6話まで一気に見てみた。これすごくいい。作品の内容も、音楽もいい。とにかくいい。みんないい。

 『ラストエグザイル』の全般の音楽を手がけているのは、ドルチェ・トリアデという女性3人のユニットで、その3人の一人が黒石ひとみさんだ。エンディング・テーマは黒石ひとみさんが一人でやっている。このエンディング・テーマは、もう感動もの。やっぱり、この人はいい音楽を作る人だなあと思う。あと、オープニング・テーマもまた良くて、これは沖野俊太郎という人が手がけている。このオープニング・テーマは映像もすごく良くて何度見ても飽きない。

 この作品は、世界観がしっかりしていると思う。それとCGの使い方がうまい。クラウス・ヴァルカという15歳の少年が主人公だ。15歳の少年というと、すぐに「15歳のリアル」とか言い出すアニメとは違って(^_^;)、素直で淡々とした男の子だ。アナトレーという国に住んでいて、両親は亡くなっていて、ヴァンシップという小型飛行艇に乗って配達人の仕事をしている。この小型飛行艇というのが、複葉機的雰囲気があってすごくいい。この世界では、飛行機はレシプロ・エンジンで空を飛んでいるわけではないのだが(それにレシプロ・エンジンでは、あの翼面積では飛べないだろう)、小型飛行艇で配達をしているというのは、20世紀初期の複葉機の時代を思わせる。この少年が、ある日、アルヴィスという少女を空中戦艦シルヴァーナに送り届ける仕事を受け継いだことから、上空で繰り広げられている国家間の戦争に巻き込まれていく。

 これを見ていると、少年が(少女だって)精神的に成長していくってことは、学校で机に座って勉強をしていることではないなということがわかる。なんか、クラウスを見ていると、ああっ自分もしっかりと自分の仕事をしていかなくちゃいけないなと思ってしまう。

 「空を飛ぶ」ということを一番美しく描くのは、宮崎駿のスタジオ・ジブリであるというのがもっぱらの評判であるが、そんなことはない。『ラストエグザイル』の空や雲や風やヴァンシップが空を飛ぶシーンは見ていて心地よくなる程うまい。

 ほんともー最高にいい作品なのだけど、DVDの値段が高い。一枚のDVDに二話しか入っていなくて、6000円は高いじゃあないか。『プラテネス』は一枚のDVDに三話入っていて、それで大体同じくらいの値段なのだけど。ラスエグは高いではないか。さすがの僕も全13巻を一度に買うのは、ちょっと躊躇してしまう。でも、やっぱ買うんだろうなあ。とりあえず、ビデオ版は今現在第18話までしかないので、そこまではTSUTAYAで借りて見るとして、それ以後は買ってしまおう!!

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August 13, 2004

夏コミのおしらせ

夏コミのおしらせです。押井守メーリングリストが3日目の8月15日(日)の東S30a「押井守ML」にて出店し、同人誌の販売を行います。最新号の「犬からの手紙 第6号」はイノセンス特集です。僕も「パトレイバー2」の評論を寄稿しています。

えーと、今年はおそらくゴスロリの子が多いのではないかと思います。(なにが)(^_^;)

コミックマーケット66
日時:04年 8月13日(金)~15日(日)
場所:東京ビッグサイト

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July 09, 2004

『プラネテス』を読むとトンカツが食べたくなる

 先日、ここで『プラネテス』はいいと書いた。あの時見たのはアニメの方だった。で、あれから数日、原作のマンガもすべて読了し、公式ガイドブックも読んで、音楽DCも「O.S.T.」の「1」も「2」も、そしてドラマCDも買った。で、そーだったのかと思ったわけである。

 これアニメ版と原作マンガがかなり違う。タナベやフィーさんのキャラがちがーう。まー、違うというのは当然なのかもしれないけど。アニメ版は、アニメ版としていい作品になっているとは思う。原作マンガはかなり奥が深い。かなりストレートに、人間のレゾンデートル(存在意義)を宇宙の中で問いかける話になっている。

 僕は、基本的に人類は、地球の環境でなくては肉体的にも精神的に生きられないと思う。だから、なにを好きこのんで月や火星や木星に行く必要があるのか。地球上には、まだまだ謎の部分があるではないかと思う。ただまあ、だからといって、人間は宇宙に行かないなんてことはしないだろうなと思う。それでも宇宙に行きたいというヤツは出てくるわけで、それはそれでアリだなと思う。

 昔、ワシントンDCの国立航空宇宙博物館へ行った時、アイマックスシアターで『Blue planet』という記録映画を見たことがある。巨大スクリーンに、スペースシャトルが撮影した地球の風景を見て不思議な感覚になった。中央アジアの地形が映った時、僕はその頃、よく外国を一人旅していて、このアメリカ旅行の前も中央アジアを旅してきたところだった。すると、僕がクソ重い荷物を背中にしょって、ヒーコラいいながら地べたをはいずりまわっていた、その地べたが、スクリーンを通して眼下に広がっているのだ。おーい、ありゃ俺がこの前歩きまわったところじゃないか。この時『Blue planet』を見ながら僕が思ったことは、俺は一体、あの地面の上で何をしていたのかということだ。と同時に、ハラをへらして、きたねえボロボロのカッコでデカイ荷物を持って、本当もう死ぬような緊張感しまくりだった、あの日々がものすごく大切でいとおしくなった。自分はいい体験をしたなと思った。しかし、その「いい体験」も、宇宙から見れば、たんなるのっぺりとした惑星の表面のほんの小さな点みたいなところで、右往左往していただけなんだ。なんとまあ、自分の生などくだらない、ささやかなもんだ。そんなことを考えていると、僕はアイマックスシアターの暗闇の中で泣いてしまった。わざわざアメリカのワシントンDCの国立航空宇宙博物館にやってきて、そのアイマックスシアターで泣いている自分を見るもうひとりの自分がいて、おいおいなにやってんだと、そのもう一人の僕が思うのだ。

 幸村誠の『プラネテス』を読んで、あの時の自分を思い出した。この作品は、衛星軌道上から見た地球の姿がすごくリアルで美しい。この美しい地球を見下ろして、なにをやっているのかというと、デブリと呼ばれるゴミ拾いをやっていることがまたいい。

 ユーリーが若いとき世界を旅してして、北米のネイティブアメリカンの老人に言われた「ここも宇宙なんだよ」という言葉にうなずけるし、ハチマキとタナベの父親と母親もいい親だ。この親ありてこの子だと思う。ハチマキの弟の九太郎君もいい。

 『プラネテス』を読むと、なんかむしょうにトンカツが食べたくなったので、どおーんとトンカツ2枚とキャベツ山盛りとしじみのお味噌汁を食べた。そーか、帰る場所かあ、とか思いながらガツガツ食べた。

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