いわゆる「科学技術立国の実現」について
11月19日の日経新聞の記事によると、
「政府は19日午後の臨時閣議で経済対策を決定した。地方負担分や財政投融資を加えた財政支出は55.7兆円で、過去最大だった2020年4月の経済対策(48.4兆円)を上回る。新型コロナウイルス対策費のほか、家計や企業向けの給付金が膨らんだ。民間資金を含めた事業規模は78.9兆円程度で、経済対策としては過去2番目となる。」
という。
この経済政策の内容については、内閣府のホームページに「コロナ克服・新時代開拓のための経済対策(令和3年11月19日)」として発表されている。しかし、これを一読しても、「コロナ克服・新時代開拓のため」になると思えるものもあれば、到底なるとは思えないものもある。全体的に見ると、絵に描いた餅のようにとても実現するとは思えないことや、これが実現することがなんの意味があるのかわからないことばかりである。この政策資料は、この先数年で忘れ去られる文書になるだろう。
例えば、このPDF資料の「Ⅲ.未来社会を切り拓く「新しい資本主義」の起動」の「科学技術立国の実現」について考えてみたい。
科学技術立国の実現を謳うのならば、理学と工学をまずきちんと拡充すべきだ。科学技術は理学と工学の上に成り立つものであり、科学技術それだけで成り立つものではない。さらに言えば、現代の理学研究は技術なくして行うことはできないが、理学の目的は自然の解明であり、技術に応用できるかどうかは二の次の話である。しかしながら、そうした純然たる知的好奇心で行っていることから、ブレークスルー的な新しい技術革新が生まれることがある。重要なことは技術革新そのものを求めても、できるものではなく、基礎的な研究を続けていくことからしか技術革新は生まれないということだ。「モノになる」研究の背後には、膨大な「モノにならない」研究がある。「モノになる」研究を得るには、「モノにならない」膨大な研究も含めて抱え込む必要がある。そうした大きな枠組みで捉えるべきだ。
「世界最高水準の研究大学を形成するため、10 兆円規模の大学ファンドを本年度内に実現する。」というのも、よくわからない。なぜ、10 兆円規模の大学ファンドがあれば、世界最高水準の研究大学を形成できるのであろうか。世界最高水準の研究大学云々という前に、まともな大学教育を行っていくことが必要なのでないだろうか。
「本ファンドの支援に当たっては、参画大学における自己収入の確実な増加とファンドへの資金拠出を慫慂(しょうよう)する仕組みとし、世界トップ大学並みの事業成長を図る。将来的には、政府出資などの資金から移行を図り、参画大学が自らの資金で大学固有基金の運用を行うことを目指す。」
というのも意味不明だ。こうした大学をベンチャー企業かなにかと同じに見る見方そのものが誤りの根本である。そもそも、大学は企業ではないという当たり前のことが、なぜなくなってしまったのであろうか。もともと大学というところは事業とはほど遠いところである。大学の人間は企業の現場を知らず、大学ファンドなるものは、ただのカネのバラマキにすぎない。政府の経済政策は、すぐカネのバラマキになる。役人は経済の現場を知らないから、考えることは投資主導になるのである。昔の高度成長期の時代であれば、それでよかったかもしないが、今の時代ではただのバラマキである。むしろ10兆円の予算はファンドではなく、教育体制の充実に投資すべきだ。人的資産への投資は、将来の成長にとって必要なことである。
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