福島原発事故から10年がたった
今年は福島原発事故から10年の年になる。10年目ということで、あの出来事についてその後わかったことが書かれた本が数多く出版された。そのうちの何冊かを読んだ。
『福島第一原発事故の「真実」』NHKメルトダウン取材班 講談社
『東電原発事故 10年で明らかになったこと』添田孝史 平凡社新書
『フクシマ戦記 10年後の「カウントダウン・メルトダウン」』上下 船橋 洋一 文藝春秋
この10年の間、自分もそれなりに福島原発事故について関心を持ち続けていた。福島原発事故について、わからないことがふたつある。ひとつ目は、あの事故はなぜ起きたのかということ。ふたつ目は、あの事故はどのようにひとまず終わったのかということだ。
あの事故はなぜ起きたのか。事故直後は、あれだけの大きな規模の津波は想定外だったという声が多かった。そして、想定外のことについても対処すべきだったのかどうかが問われた。さらに話は大きくなり、もはや原子力というものそのものが人間には管理することができるのかどうか。社会は、巨大化した科学技術とどう向きか合うべきなのかということまで論じられていた。自分もまた、その大枠の中にいたように思う。
ところが、原子力が云々とか科学技術がドウコウという高尚な話ではまったくなく、保安院と東電がやるべきことをやらなかっただけの話だったのだ。添田さんの『東電原発事故 10年で明らかになったこと』を読むと、事故後、強制起訴された東電の元幹部の裁判の中で、東北地方の地震・津波の調査から原発へのさらなる津波対策の必要性が何度も挙がっていたのだ。なんと、そうだったのかと思い、続いて添田さんの『東電原発裁判』(岩波新書)を買ってきて読んだ。『東電原発裁判』と『東電原発事故 10年で明らかになったこと』を読むと、東電はいかに福島原発の安全対策を行ってこなかったかがよくわかる。
添田さんはこう書いている。
「2002年に国が津波計算を要請していたのに、東電は嘘の理由を挙げて40分も抵抗し拒否した。2007年、福島第一は国内で最も津波に余裕のない脆弱な原発だとわかっていた。2008年に東電の技術者は津波対策が必要という見解で一致していたのに、経営者が先送りを決めた。東電が着手しなかった津波への対策を、日本原子力発電(東海第二原発)の経営者はすぐに始めた。同じ年、東北電力がまとめた女川原発の最新津波想定を、東電は自社に都合が悪いからと圧力をかけて書き換えさせた。
それらのことが法廷で明らかになったのは2018年以降だった。」
(添田孝史『東電原発事故 10年で明らかになったこと』)
もちろん、東電の不作為だけではない。国の管理機関もやるべきことをしてこなかった。これらの本を読むと、あの出来事は、国と東電に一切の責任があることがわかる。福島原発事故は想定外とか、巨大テクノロジーは人類の範囲を超えるとか、なんだとか、かんだとかはまったくなく、福島原発事故は国と東電がやるべきことをやってこなかった「だけ」の話だったのだ。もう一度書くが「だけ」の話だったのだ。もし想定外と言うのならば、全交流電源損失という事態は確かに想定外であっただろう。国と東電がやるべきことをやっていれば、その全交流電源損失という事態になることはなかったのである。
今のNHKは政府に迎合しているメディアの筆頭とでも言うべきものになっているが、東電原発事故についての報道はNHKの最後の良心とでも言うべき優れた報道を行っている。そのNHKの取材班の『福島第一原発事故の「真実」』を読むと、これまで不明だったことの数多くが、この10年間で次々とい判明してきたことがわかる。特に衝撃的だったことは、 吉田所長が決死の覚悟で行った1号機の注水は、ほとんど原子炉の内部に入っていなかったということだ。1号機は注水されることなく炉心はメルトダウンをし、建屋は水素爆発で吹き飛んだ。
福島原発事故の最大の危機は、2号機の格納容器の圧力を下げることができなかったことと、4号機のプールの水がなくなることであった。4号機の燃料プールの水が沸騰してなくなれば、プールに置いてある使用済み核燃料が大気に露出し放射性物質が放出されていた。最終的に、2号機の格納容器の圧力はなぜか下がり、4号機の燃料プールの水がなくならなかったのだ。これはどういうことであったのか。
2号機は消防車の燃料切れで一時注水ができなくなった。注水ができなくなったことにより、原子炉の温度が上昇することで格納容器が破損し、東日本が壊滅することが吉田所長の脳裏に浮かんだわけであるが、そうならなかった。
10年後の今わかったことは、以下の通りである。2号機は水が入らなかったことでメルトダウンを促進する化学反応が鈍くなったこと、格納容器の上部の継ぎ目や配線の結合部分が高熱で溶解し隙間ができて放射性物質が漏れ出たこと、さらに電源喪失から3日間に渡って冷却装置が動いていたことにより、格納容器の崩壊を避けることができたのだ。たまたま、これらの偶然が重なっただけのことだった。
3号機については、定期検査のため燃料プールの隣のプールも水が満たされており、この水が燃料プールへ流れたからである。たまたま水があったのである。
あの日も、その後の10年間も、そして今も、私は東京都民でいられるのは、これらの「たまたま」があったからなのだ。「たまたま」東日本は壊滅を免れたのだ。10年たった今、福島原発事故について知れば知るほど、これはものすごく大きな危機であったことをつくづく思わされる。このものすごく大きな危機は「たまたま」回避できたのだ。
福島原発事故は、国と東電がやるべきことをやらなかったため起きた。そして、「たまたま」最悪の結果にならなかった。この事実を、何度も何度も考えていきたい。
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