書くことの再開の記
最近は、ここで書かなくなった。書かなくなったということには、様々なわけがある。そのわけの一番大きなことは、今の世の中で個人がネットで発信していくこととはどういうことなのかということについて答えが見えなくなったからだ。インターネットの黎明期からネットに関わってきた世代の多くがそうであるように、私にもまた「こんな世の中になるとは思っていなかった」という想いがある。あの頃のインターネットが世界を大きく変えるという確信は、確かにその通り正しかった。その意味では、こうした世の中なると思った通りの世の中になった。しかしながら、その一方であの頃の予想を遙かに超える世の中になったこともまた事実である。
スマホひとつをとってみても、アップルのNewton、iPodは理解でき使っていたが、初めてiPhoneを見た時、これで電話をしてなにが良いのかさっぱりわからなかった。iPhoneをただの電話機としてしか思えなかったのだろう。スマホは個人環境と社会環境をつなぐツールであるのだが、当時は社会の側のデジタル化がまったく普及していなかったため、そのことがわからなかったのであろう。あの頃、これからは誰もがネットワークにつながったパソコンを持つ世の中になるだろうと思っていたが、やってきた未来は誰もがネットワークにつながったスマホを持つ世の中だった。「パーソナルコンピュータ」という名称を初めて生み出したアラン・ケイが考えていたコンピュータである「ダイナブック」は、今のスマホやタブレットPCなのかもしれない。
しかし、誰もがスマホやタブレットPCを持つ世の中になったことにより、様々な弊害が起きている。その一番の弊害は、今、この国ではまともな言語環境と言論空間がなくなってしまったということだ。
この「深夜のNews」というブログは、もともと新聞や雑誌を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりして、興味や関心に思ったことを、ざっくばらんに書いていくというものであった。今の世の中は、ニュース批評のようなことをネットで発信している者が多い。自分でやってきたからわかるのであるが、この手のニュースの批評、時事評論のようなことは一番書きやすい、言いやすい。自分が一端の識者になったような気分になる。しかし、その書いている内容、言っている内容はレベルが低く、間違っていること、どうでもいいことが多い。本当に意味のあること、価値のあることを書いている、言っている者は少ない。大多数はデジタル空間に無意味な情報をだたタレ流しているだけに過ぎない。バカでもできることが、ネットでの時事の評論である。そのことを考えると、自分もまたその不必要な情報のタレ流しをやっているだけなのではないかと思うようになった。「深夜のNews」というブログ名称は、始めた2004年ならいざ知らず、2020年代の今の文脈で言うと「ワタシはバカである」と言っていることに等しい。それほど、この20年で世の中は大きく変わってしまった。今のネットには恐ろしく膨大な不要情報が常に流れている。一昔前はテレビが無用な情報のタレ流し機器であったが、今はネットがそうなっている。
結局、それに対峙するには、自分自身のありようを変えるしかない。マスメディアの権威が終焉したということは、自分で情報の取捨選択ができる能力を持つということである。そのためには、学び続けていかなくてはならない。
このブログは、日本語で書いている。つまり、日本語を読解する空間を相手にしている。「日本語を読解する空間」を、ここで「public」とするのならば、ブログで書くという行為は、「公」を相手にした思考を行うということになる。この原点を押さえたい。ブログは私的空間から公的空間に向かって思考を発信する場である。かつてネットは、新しい言論空間になるものと思われていた。それは今となっては古き良き時代のネットの理念なのであろう。パーソナル・コンピュータとインターネットの理念、この理念を持ち続けたい。
なお、これまで行ってきた段落の先頭を一文字開けるということをこれからはやめる。段落の先頭を一文字開けるというのは、原稿用紙の様式である。ここでは不要である。
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