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August 2021

August 15, 2021

2021年の8月15日

本日は2021年の8月15日である。1945年の8月14日、大日本帝国は連合軍のポツダム宣言を受託した。翌日8月15日、昭和天皇による日本国民への玉音放送が行われた。そして、9月2日に降伏文書に調印することにより第二次世界大戦は終結したのである。

年々、歴史感覚が希薄化していくこの国にとって8月15日は何の意味をもつのだろうか。今やこの国で、太平洋戦争で敗北したのはなぜかということを真剣に考える姿勢をもつ者がどれだけいるのであろうか。この国は、過去の出来事に対してきちんと検証することをしない。しているのならば、新型コロナへの対策は今のような姿ではないはずだ。3.11の大震災や福島原発事故も、忘れ去られようとしている今、その遙か先の太平洋戦争の頃など関心を持たない人々が大多数である。

太平洋戦争を経験した世代にとっては、当然のことながら忘れられない人生の記憶であろう。しかし、これも当然のことながら、そうした世代は時間と共に少なくなり、やがていなくなる。日本の人口から太平洋戦争を経験した世代がいなくなった時、8月15日はどういうものになるのであろうか。シベリア出兵、日露戦争、日清戦争、その前で言えば台湾出兵、西南戦争、戊辰戦争を体験した者は一人もいない現在のように、日中戦争・太平洋戦争もまた経験をしていないのだから知るよしもなく関心もないことになるだろう。今の新型コロナへのさまざまな出来事も、このパンデミックが終了すればすぐさま忘れ去るだろう。この先、歴史家が今の出来事を検証すると思えば、もう少しマシなことをするであろうが、今の政府は今後の検証を想定してことを行っていない。これまでもずっとそうだった。

この世の中の社会や制度や文化は、人の一生の時間よりも長い時間をかけて作られた歴史的な構成体である。このため、人は自己の人生の時間の中で体験することよりも多くの知識を学ぶ必要がある。そのタテマエにおいて学校教育で歴史の授業が行われているが、ホンネにおいて学校教育の知識は試験のためである。試験が終われば忘れる。よって、人々に歴史の知識が体系化して蓄積されることがない。その一方で、先に述べた通りこの世の中は歴史構成体であるため、どうしても過去の出来事に触れざる得なくなることがある。このため断片的で偏った歴史知識が横行している。今やSNSで近現代史に関心があるという者の大半はネトウヨである。もちろん、この現状のままでよいはずはない。はずはないのであるが、高校教育も大学教育もお先真っ暗な状況である。

中国、台湾、韓国が新型コロナに対してそれなりに有効な対応がとれているのは、第二次世界大戦以後も戦時体制を続けてきたという背景がある。戦時体制を続けてきたということは、戦争を知らない世代に対して、その国においてのまともな歴史感覚を継承してきたということである。一方、わが国は76年前の今日以降、戦時体制的なるものをひたすら避け続けてきた。幸運にもその後、東アジアでの戦争は朝鮮半島とインドシナ半島で起き、日本で起こることはなかった。2002年のSARS、2012年のMERSの流行も日本はさほど被害を受けることはなかった。そこへ2020年、今回のパンデミックの到来である。去年の緊急事態宣言の「自粛」は疑似戦時体制的なるものだった(ただし、細部ではかなり緩慢でガバガバなものだった)と言えるだろう。この疑似戦時体制的な「自粛」下で国民生活を成り立たせるようにすること、このことが実際の戦時体制を続けてきた中国、台湾、韓国にできたことであるが、この国ではそれができなかった。というか、できるようになっていない。

76年前の8月15日から今日に至るまでの、中国、台湾、韓国とこの国の歩んできた道のりの違いが、今日の新型コロナへの現状を作っているのである。

August 08, 2021

感染拡大はまだ続く

現時点で世界の感染者数は2億を超えた。死亡者数は427万人である。日本は感染者数102万、死亡者数は1万5千人を超えている。パンデミックは続いているが、この国は平気でオリンピックをやってきた。そして、今日、閉会式が行われる。

開会式の不毛さを思うと閉会式もまた不毛なものになるだろう。閉会式を見ながら、この国はもうダメだなと思った人は数多いようだ。開会式は、世界に向かってなにが言いたいのかさっぱりわからない空虚な式典だった。

国家が危機的な状況に陥った時、国家は緊急的に国家の持つあらゆるリソースを、その危機的な状況の突破だたそれだけに集中するというのが古今東西の常識であるのだが、この国の為政者たちにはそういう認識はないようである。本来であるのならば、このパンデミックに対して有効な対応を確立し、実行していくと共に、経済の立て直しをしなくてならない。オリンピックなどというものをやっている暇はないはずだ。この「やっている暇はないはずだ」のことを政府は堂々とやっていることが、国民が危機意識を持つことの妨げになっていることは誰にでもわかることだ。

ワクチンの摂取は完全な対策ではない。ワクチンを摂取することで、まったく感染しなくなるわけではない。

なぜ、新型コロナ感染者の医療病棟をさっさと建てることができないのであろうか。中国の湖北省武漢市では去年、感染者専門の仮設病院を10日間で建設したという。日本でも10日とまではいかなくても、1ヶ月なり2ヶ月あれば病院を建てることは可能だ。なぜそうしたことを国は行わないのであろうか。その一方で、オリンピックはやるのである。

政府は2日、「肺炎などの症状がある中等症のうち重症化リスクが低い人は自宅療養とし、家庭内感染の恐れや自宅療養が困難な場合は、ホテルなどの宿泊療養も可能とする。」という方針を発表した。これは事実上の医療崩壊宣言である。「重症化リスクが低い人」というが、誰がどうやってそのリスクを判断するのかさっぱりわからない。また、当然のことながら自宅療養で感染の拡大を防ぐとはできない。ようするに、感染をこれからもガンガン増やしますと言っているのである。

外国のようなロックダウンは日本の法律ではできないというが、ロックダウンをすると政府は補償金を出さなくてならなくなるのでやらないのである。安全保障法制など自分たちの都合のいい法律は勝手に作って素早く通すのに、本当の意味での国民の生命を守ることをしないのがこの国である。

August 07, 2021

書くことの再開の記

最近は、ここで書かなくなった。書かなくなったということには、様々なわけがある。そのわけの一番大きなことは、今の世の中で個人がネットで発信していくこととはどういうことなのかということについて答えが見えなくなったからだ。インターネットの黎明期からネットに関わってきた世代の多くがそうであるように、私にもまた「こんな世の中になるとは思っていなかった」という想いがある。あの頃のインターネットが世界を大きく変えるという確信は、確かにその通り正しかった。その意味では、こうした世の中なると思った通りの世の中になった。しかしながら、その一方であの頃の予想を遙かに超える世の中になったこともまた事実である。

スマホひとつをとってみても、アップルのNewton、iPodは理解でき使っていたが、初めてiPhoneを見た時、これで電話をしてなにが良いのかさっぱりわからなかった。iPhoneをただの電話機としてしか思えなかったのだろう。スマホは個人環境と社会環境をつなぐツールであるのだが、当時は社会の側のデジタル化がまったく普及していなかったため、そのことがわからなかったのであろう。あの頃、これからは誰もがネットワークにつながったパソコンを持つ世の中になるだろうと思っていたが、やってきた未来は誰もがネットワークにつながったスマホを持つ世の中だった。「パーソナルコンピュータ」という名称を初めて生み出したアラン・ケイが考えていたコンピュータである「ダイナブック」は、今のスマホやタブレットPCなのかもしれない。

しかし、誰もがスマホやタブレットPCを持つ世の中になったことにより、様々な弊害が起きている。その一番の弊害は、今、この国ではまともな言語環境と言論空間がなくなってしまったということだ。

この「深夜のNews」というブログは、もともと新聞や雑誌を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりして、興味や関心に思ったことを、ざっくばらんに書いていくというものであった。今の世の中は、ニュース批評のようなことをネットで発信している者が多い。自分でやってきたからわかるのであるが、この手のニュースの批評、時事評論のようなことは一番書きやすい、言いやすい。自分が一端の識者になったような気分になる。しかし、その書いている内容、言っている内容はレベルが低く、間違っていること、どうでもいいことが多い。本当に意味のあること、価値のあることを書いている、言っている者は少ない。大多数はデジタル空間に無意味な情報をだたタレ流しているだけに過ぎない。バカでもできることが、ネットでの時事の評論である。そのことを考えると、自分もまたその不必要な情報のタレ流しをやっているだけなのではないかと思うようになった。「深夜のNews」というブログ名称は、始めた2004年ならいざ知らず、2020年代の今の文脈で言うと「ワタシはバカである」と言っていることに等しい。それほど、この20年で世の中は大きく変わってしまった。今のネットには恐ろしく膨大な不要情報が常に流れている。一昔前はテレビが無用な情報のタレ流し機器であったが、今はネットがそうなっている。

結局、それに対峙するには、自分自身のありようを変えるしかない。マスメディアの権威が終焉したということは、自分で情報の取捨選択ができる能力を持つということである。そのためには、学び続けていかなくてはならない。

このブログは、日本語で書いている。つまり、日本語を読解する空間を相手にしている。「日本語を読解する空間」を、ここで「public」とするのならば、ブログで書くという行為は、「公」を相手にした思考を行うということになる。この原点を押さえたい。ブログは私的空間から公的空間に向かって思考を発信する場である。かつてネットは、新しい言論空間になるものと思われていた。それは今となっては古き良き時代のネットの理念なのであろう。パーソナル・コンピュータとインターネットの理念、この理念を持ち続けたい。

なお、これまで行ってきた段落の先頭を一文字開けるということをこれからはやめる。段落の先頭を一文字開けるというのは、原稿用紙の様式である。ここでは不要である。

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