不戦の誓いをなぜ靖国神社で行うのか
昨日の終戦の日(正しくは終戦の玉音放送が行われた日であり、連合国降伏文書への調印が行われた9月2日が第二次世界大戦の終結の日になる)に、小泉環境相ら4閣僚靖国参拝したという。4年ぶり第2次安倍内閣発足後最多になるという。
萩生田氏は参拝後、記者団に対し「一政治家として恒久平和を次代にしっかりと守り抜き、不戦の誓いを新たにした」と述べたという。しかしながら、「恒久平和を次代にしっかりと守り抜き、不戦の誓いを新たにした」ということをなぜ靖国神社で行う必要があるのか。
衛藤氏は、中国や韓国が反発する可能性について問われると、「国の行事として慰霊しているわけで、中国や韓国から言われることではない」と強調したというが、「国の行事として慰霊」をなぜ靖国神社で行うのだろうか。
高市氏は「国家、国民を守るために命をささげた方に感謝の思いを伝えるのは、一人の日本人として続けていきたいことだ。これは決して外交問題ではない」と述べたというが、「国家、国民を守るために命をささげた方に感謝の思いを伝える」ことをなぜ靖国神社で行うのだろうか。
小泉氏は「どの国だろうとその国のために尊い犠牲を払った方々に、心からの敬意と哀悼の誠を捧げることは当然のことではないでしょうか」と述べたというが、それをわざわざ靖国神社で行うのはなぜなのであろうか。
別に靖国神社でなくても良いはずだ。国家的な戦没者追悼施設として千鳥ケ淵戦没者墓苑がある。例えば、なぜ千鳥ケ淵戦没者墓苑ではいけないのか。なぜ靖国神社なのか。そのことについての理由がわからない。
靖国神社に参拝をする行うということは、靖国神社の存在を認めているということである。なぜ中国や韓国からとやかく言われるのか、なぜ外交問題になるのかという声をよく聴くが、靖国神社だから「中国や韓国から言われること」になり「外交問題」になるのである。
上記の方々は、そうしたことがわからないのであろうか。いや、わかっているのだろう。わかっている上で、靖国神社を参拝しているのだろう。ようするに、戦前の国家神道は間違っていないと思っているのである。自分たちの行動が、劣化した保守主義勢力からの支持を得ることになることがわかっているのであろう。
靖国神社は、国家のために戦場で死んで行った人たちを追悼する施設ではない。天皇のために死んでいった戦士を顕彰する施設である。その天皇は日本史の天皇ではない。明治政府が作った皇国史観の天皇である。靖国神社には朝敵は祭られていない。靖国神社は宗教施設ではなく、明治政府の政治イデオロギーの施設なのである。そのことは大正、昭和になって変わらず、GHQの占領政策では日本占領に利用される形で不問にされ、占領が終わった後、今に至るまで、靖国神社とはなんであるのかということについて国民的な認識は無関心のままになっている。その無関心の空白に、戦前の国家意識を復活させようという劣化した保守主義が入り込んでいる。
あの戦争を忘れてはならないと言うわりには、この国の人々は日本がアジア諸国へ侵略をしてきたということを忘れている。忘れている理由の一つは、学校で教えていないということである。学校教育は、国の方針に基づくものである。ということは、この国の方針はこの国がアジア諸国へ侵略した歴史を国民に教えないということになのだろう。75年たっても歴史認識がどうこうと言われる背景には、国はあの戦争とアジア諸国への侵略についてきちんと結論を出していないということがある。
かくてこの国は戦前の何が間違っていたのかということについて、今だ知ろうともしないし、わかろうともしない。なぜそうなのか。日本国内、日本人だけに限れば、知らなくても、わからなくても済むからである。
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