「中国化」する世界
今日11月24日の東京新聞の【社説】「週のはじめに考える ミイラ取りの未来」は興味深いものだった。
社説は次の文から始まる。
「三十年前、中国の経済規模はまだイタリアの半分ほどでした。それがどうでしょう。その後、飛躍的成長を遂げ、二〇一〇年には国内総生産(GDP)で日本を抜いて、今や世界第二位の経済大国。大ざっぱに、まずは安い賃金と豊富な労働力が国外からの投資を引きつけた「世界の工場」として、さらには巨額のインフラ投資と国内消費の伸びに支えられた「世界の市場」として、グローバル経済に確固たる地位を築いたのです。」
中国はこの先どうなっていくのかということについて、あの広大な国土で、今の共産党一党独裁体制がこのまま続いていくわけはないという声が多い。非民主主義国である、言論の自由はなく、人権が無視されていることは、経済成長と共に解消されていくであろうというのが数多くの声であった。
ところが今現在、そうはなっていない。これほど中国経済が巨大になっても、中国は依然として共産党一党独裁体制の国である。民主主義であることや、言論の自由があることや、あらゆることにおいて人権が厳守されるということについてほど遠い国である。
それは「西側」に責任があると東京新聞の社説は書く。
「一つは「西側」に責任がありましょう。経済発展の援助をカードに、民主化を促す策を放棄した節があるのです。「金に目がくらんで」と言えば言い過ぎだとしても、「世界の工場」をせっせと利用して低コストの恩恵をむさぼり、「世界の市場」の購買力に耽溺(たんでき)するうち、人権状況などを批判する口数は減り、民主化を迫る声が小さくなっていった感は否めません。」
「西側」の政府や企業は、中国でビジネスを進めていくことや中国と提携して事業を行っていく上において、民主化や人権問題には目をつむってきた。経済のグローバリゼーションの話と正義や倫理の話は別扱いになっている。
そして社説はこう書く。
「結果、独裁的体制と強大な経済力が併存する大国が出現したわけです。それどころか、議論や手続きに時間もコストもかかる民主的体制より、独裁的体制の方が競争力を持つ面もあらわになってきているのですから、やっかいです。」
さらに重要なことは東京新聞の社説が言うように、いわゆる自由主義諸国、アメリカやヨーロッパや日本などの国々で「市民的自由や多様性や寛容などの価値観減衰、民主主義の退潮」が見られるようになったということである。
社説はこう書いている。
「しかし、あらためて「西側」に目をやると奇妙なことにも思い当たるのです。
米大統領は人種や宗教による差別的言動を繰り返し、批判は「フェイク」呼ばわりしてメディアを攻撃する。自国主義に耽(ふけ)り、経済力と軍事力を誇示して多国間の協調やルールを傷つけています。
わが国の宰相も民主主義の基盤たる国会での議論を軽んじ、異論を敵視する傾向が明らかですし、一方で、与党政治家の街頭演説をやじっただけで警察に排除されるといったことも起きています。また、欧州で台頭するポピュリズム・極右勢力には排他主義の主張が目立ち…。
どうでしょう。総じて「西側」の中で、市民的自由や多様性や寛容などの価値観減衰、民主主義の退潮が見て取れないでしょうか。」
「西側」諸国は、今や国家が国民を監視し統制する社会になりつつある。ようするに「中国化」しているのである。そして、この「中国化」に対抗しているのが、実は中国の内部の香港に若者たちなのであると書く。
「「西側」は中国を変えようとして変えられなかったばかりか、中国を利用し依存し続けるうち“中国的”に変質させられ始めている-。そう見えてならないのです。脅威というならむしろ「こっち」が「あっち」の色に染まりかけている点に、より切迫した脅威を感じます。このままだと、私たちの未来は…ミイラでしょうか。
今、最も鮮明に、言論の自由、法の支配など民主主義を守るべく必死で「中国化」に抗(あらが)っているのが、他ならぬ中国の内部、香港の若者たちであるというのは皮肉といえば皮肉です。彼らを孤立させるわけにはいきません。」
これはまったくその通りであって、我々は今、ある側面において、中国やロシアや北朝鮮と変わらない国に向かいつつある。どのような政治形態の社会であっても、社会というものは放っておくと国家体制による統制された社会になる傾向がある。そうなっていくということは、国家権力や社会体制の必然なのである。だからこそ、国家や社会を広く客観的に見る視点が必要なのである。なぜ社会には自由や多様性や寛容が必要なのか、という基礎中の基礎の根本的な認識が著しく衰退した世の中になっている。
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