ネットはこの国が劣化していくツールになった
ネットが普及をして誰もが発信できるということが、これほど世の中を劣化させるとは思っていなかった。もともとインターネットは、全米の大学や研究所をつなぐ通信網だった。いわば科学者や技術者たちの通信技術だった。彼らがネットを使ってなにを会話しているのかと言えば、当然のことながら自分の仕事のことであり、それは学術情報であり、科学であり工学であった。いわばある決まった枠内の中で、ある水準以上のコミュニケーションが行われていたのである。
インターネットが一般社会に公開された初期の頃は、このネット観の延長線上にあり、社会全体が高度な知的付加価値をもった情報の発信を誰もができる世の中になると思っていた。発信できるということは、価値のある発信をするということであり、それは価値の発信を創るということだったはずだ。
しかしながら、そんな世の中にはならなかった。
かつてアメリカでネットが本格的に普及し始めた頃、人々は本をよく読むようになったという記事を読んで、その通りだなと思ったことがある。ネットで発言をするには、それなりのしっかりとした知識の裏付けがなくてはならないからである。しかし、この時代はアメリカでもネットをやる人はまだ良質な人々だった。その後、ネットが当然のインフラになり、誰もがものを言うことができるようになると、フェイクや差別や憎悪が蔓延するネットになってしまった。今の時代は、誰もがニュースについて述べるようになった。誰もが情報を発信できるということが、世の中の言論を低下させることになっていった。劣化というか、これまでそうであったものが表面化し、流通するようになったのである。
例えば、嫌韓についてである。大多数の人々が明治以後の日本と朝鮮の歴史を正しくきちんと学べば、嫌韓や反韓が主流になっている世論になるわけはない。ネットには近現代史の言及が多いが、それらは低レベルでバイアスがかかったものが多く、正しい歴史の理解や解釈に基づいたものではない場合が多い。
ネット社会で必要なことは、「学ぶ」という個人の資質であり、教育体制の充実なのである。本来、ネット社会になるということと、教育体制の拡張は不可分の関係にあり、小学校から大学の教育もさることながら、学校を卒業した後も生涯にわたって学び続けるリカレントな教育環境をつくることが必要なのである。それがないと社会は、どんどん劣化していく。
悪貨は良貨を駆逐するという言葉があるように、ネットの世界でも低レベルの発言が正しい発言を駆逐する。ネットは今や、この国が劣化していくツールになってしまった。
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