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July 16, 2018

オウム真理教事件の刑が執行された

 7日の毎日新聞の社説はこう書いている。

「だが、このような理不尽な犯罪が、なぜ優秀だった多くの若者を巻きこんで遂行されたのか。その核心は、いまだ漠としている。」

 これは毎日新聞だけではなく、数々のメディアが今回の教団元代表ら7人の死刑執行についてそう述べている。ようするに、なぜこのような事件が起きたのかが明らかにされることがなく、死刑が執行されたということである。

 死刑制度の是非については、ここでは触れない。述べたいのは、あの事件がなぜ起きたのか、なぜ若者たちがあの事件に巻き込まれていったのかということが本当にわからないのないのであるならば驚きであるということだ。

 わからないと言っている人たちは、あの狂乱地価の時代のこの国が正しい状態であったと思っているのであろうか。バブルという理解不能な経済状況が、優秀だった(とされている)数多くの官僚や経済人を巻き込んで遂行されたのではないのであろうか。あの時代、オモテに出てこなかった犯罪は山のようにある。物事を短絡的に考える者たちが理不尽な犯罪行為に走ることは十分あり得たし、実際にそれが起きたということではないのだろうか。

 本来、宗教は狂気や反社会的なものを内在しているものである。今の伝統仏教は、江戸時代の宗教政策によって順化され社会的に無力、無害なものになっている。そうした既存の仏教には精神文化に関心を持つ若者を惹きつける力はなく、むしろ、狂気や反社会的なものが混在しているオウム真理教に惹かれた者は数多かったであろう。

 今の時代は、世界各地の様々な時代の宗教の知識を本やネットで得ることができる時代だ。断片的ではあるが世界のさまざまな宗教の知識とサブカルチャーのイメージの中で人間の霊性について考えていくということは今の日本の伝統仏教ではできない。そうしたことに関心を持つ若者たちの受け皿として、オウム真理教は、1980年代の日本で現るべくして現れた宗教教団だったのかもしれない。

 もちろん、だからと言ってその狂気や反社会的な教えと、それを実際の行為に及ぶということとは別の話だ。世界の膨大な数の宗教教団の大多数は、犯罪集団になることなく存続している。世界の終末を前提としている宗教は、キリスト教以外にも数多くある。東南アジアの小乗仏教は、出家することは別におかしなことでもなんでもない。また社会の側も宗教が社会秩序から大きく逸脱することをしないのならば、異質な宗教教団があることを許容し、排除することをしない。例えば、出家をして宗教の修行をするというのは、ある意味において反社会的行為であるが、その程度の「反社会的行為」を許容する寛容さのない社会は危険である。さらに言えば、オウム真理教の教団が革命とか国家転覆がどうこうとか言っていたということは別にめずらしいことでもなんでもない。そうしたことを言い、実際に犯罪を犯した政治組織なり宗教団体なりは数多くある。オウム真理教の宗教なり組織なりは、決して特異なものであったわけではない。

 この社会は、あの事件が起きた時に、あの事件の意味をしっかりと受けとめて考えるべきだった。だが、それはなされることはなく20年以上の歳月が流れた。そして、今、あれはおかしな宗教教団がやった犯罪だった。あの教団の信者たちはマインドコントロールされていた。教団の指導者と犯罪に関わった主要信者は処刑された。これでこの一件は一切終わり。「このような理不尽な犯罪が、なぜ優秀だった多くの若者を巻きこんで遂行されたのか。その核心は、いまだ漠としている。」で幕を引こうとしている。

 むしろわからないのは、チベット仏教やヨガを愛好する小さなサークル集団が、約10年で化学兵器を製造する工場を持って国家転覆を標榜するテロ教団になったということだ。当然のことながら、国内外の反社会的勢力や政治家、企業からの支援があったと思われる。なぜこれが可能だったのか。どこからどのような支援や援助があったのか。外国、特にロシアとのつながりはどのようなものだったのか。どのような政治家、企業か関係していたのか等々、そうしたことは明らかになっていない。「いまだ漠としている」のは「優秀だった多くの若者を巻きこんで遂行された」ことでなく、そうしたことが「いまだ漠としている」のである。「いまだ漠としている」というよりも、「明らかにしようとしない」というのが正しいだろう。

 オウム真理教の仏教理解は間違った解釈がある。オウム真理教の教義の原典のひとつに中沢新一の本があると言われているが、そもそも中沢新一の本をしっかりと読んでいればオウム真理教には近づかない。オウム真理教の数々の事件が発覚されて、中沢新一の本がその教義に大きく関わったと言われているが、咎められるべき相手は間違った解釈をしたオウム真理教であって中沢新一ではない。もともと仏教は、内発的な意識を主体とする。グルへの絶対的な帰依を求める密教であっても、その者、個人の覚醒が目的であり、グルが弟子の意識を操作していくものではない。

 しかしながら、そうした間違ったものが数多くある宗教教団であったが、オウム真理教には日本の宗教の新しい思想的展開の基点となりうる可能性を持っていたことは主張したい。オウム真理教がああした数々の犯罪、テロ事件を起こすことなく、その後も異端の宗教教団として存続していれば、どのようなものになっただろうかと思う。その一方で、オウム真理教がオウム真理教であるためにはああした事件を起こす必要があった、そういう教団だったと言うのならば、そうなのかもしれないと思う。

 あれから20年以上の年月がたった。オウム真理教はああした事件を起こした教団として終焉し、その後、オウム真理教についての論議はさほどされず、省みる者はほとんどいない。あの事件以後、ますます社会からは寛容性や自由度が失われ、時代に会わない硬直した社会制度だけが残る社会になってしまった。

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