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October 2017

October 28, 2017

現状維持とはなにか

 衆院選の結果は、相変わらずの自民圧勝である。

 この「相変わらずの自民圧勝」というのは、思えばほとんどすべて衆議院議員総選挙は、2009年の衆院選を除けば「相変わらずの自民圧勝」だった。今回、有権者は現状維持を望んで自民党に投票したと言われているが、こうしたことは毎回(2009年の衆院選を除けば)そうだった。この「現状維持を望む」という感覚はよくわかる。

 現状維持というのは、読んで字の如く今の現状が変わらないということである。とことが、だ。現状維持であれば、今の現状が変わらないのであるのならばその通りなのであるが、実際のところ、今の現状そのものに問題がある以上、現状維持であろうとするのならば、実体において現状維持ではなくなるなのである。

 現在は過去の選択の結果である。今の数々の問題は、例えば1980年代に対策を始めていたら、2010年代後半の今日、これほど大きな問題になっていなかったものが数多くある。つまり、現状維持を望んできたために、現状を維持できなくなったことが数多くあるということだ。現状維持というのは、最悪の選択である場合もあり得るのである。

 ただ単純にすべてにおいて「現状維持を望む」のではなく、コレコレは「現状維持を望む」であるが、コレコレは「現状維持を望む」ではダメだと判断しなくてはならない。現在の政治においては、与党・野党とかいうことはあまり意味はない。ざっくばらんな候補者や政党の選択ではなく、これほどネットが普及した今日のこの国であるのならば、個々の政策について有権者が選択できるようになってしかるべきなのであるが、今の選挙制度はそうなっていない。

 変えなくてはならないことは、変えなくてはならない。変えてはならないことは、変えてはならない。

 例えば、安倍政権になって景気が良くなった、いや良くなっていないという声が数多くあるが、安倍政権がどうこうという以前に、このブログで何度も書いているが、バブル崩壊後、この国の政府がやり続けてきたことは、国債を乱発し、景気対策と称するバラマキを続けて借金の山を作ったということだけである。安倍政権がやっていることもこの続きであり、さらに異次元金融緩和という国債乱発のスケールをとてつもなく大きくしたのがアベノミクスというものなのである。これはそもそも「おかしい」「異常な」状態なのだ。

 アベノミクスの異次元金融緩和は、もうそろそろこれはヤバい状態になっているということを誰もが認識すべき時なのであるが、そういう状態にはほど遠い。今、これだけの国債を発行している、これで金利が上昇すれば金利の支払いは不履行になり国家の財政は破綻する。仮に財政破綻にならなかったとしても、いつかは返済をしなくてはならないものであり、他のことに回せるお金がこの支払いに消えていくのである。アベノミクスはやめるべきものであり、今の経済政策は「即刻変えてなくてやらない」。

 その一方で「現状維持でなくてはならない」のが憲法である。GHQが作った憲法であることは確かであるが、あの当時においても、今の時代においても、日本人の手であのレベルの基本的人権と国民主権の水準を維持する憲法を作ることはとうてい不可能であると言っていい。今、改憲をしたいと言っているのは、日本会議などといった国権主義の勢力であり、今の日本国憲法は個人主義が強すぎる、もっと国権に寄るものでなくてはならないと考えている。この勢力が安倍自民党政権を支える大きな柱であり、安倍政権下での改憲は間違いなくこの勢力に沿った改憲になるであろう。そうである以上、GHQが作った国際水準の憲法のままで十分だ。

 もうひとつ憲法9条については、日米安保とセットになっているのであり、憲法9条を変えるには日米安保その他諸々の条約や密約も変える必要がある。このための日米交渉をしなくてはならない。そう簡単に短期間でできるものではない。自衛隊そのものの改革も必要だ。その膨大な予算が、今のこの国の財政では出すことは困難である。そう考えると憲法9条も「現状維持でなくてはならない」のである。

 さらに言えば、在日米軍についてなど、高度な政治性を有する国家の行為については司法は判断しないという結論を裁判所が出す現状では、憲法9条がどのようなものであっても「通ってしまう」のである。この統治行為論の乱用そのものを改めるという認識がなければ憲法9条の改憲は意味はない。北朝鮮のミサイルがどうこうというが、日本防衛の活動をしているのは自衛隊であり海上保安庁である、在日米軍は日本を防衛しているわけではない。このような現状を考えると、現実的観点から見て憲法は「現状維持でなくてはならない」。

 26日の産経新聞によると「安倍晋三首相は26日の経済財政諮問会議で「3%の賃上げが実現するよう期待する」と述べ、来年の春闘での賃上げを産業界に要請した。」という。

 アベノミクスの効果がさっぱり出てこないので、もはや政府は強制的に賃上げを要求してきたということである。民間企業が従業員に直接的にいくらの賃金を支払うかということについて政府が要求をするというのである。これはもう自由経済とは言い難く、戦争中のような統制経済になってきたと言えるだろう。もともと、戦後の日本経済は大枠において戦争中の統制経済がそのまま存続しているところがあったが、それは今でも続いている。中国ロシアや北朝鮮のような非自由主義経済的な国家による統制がどうこうという声をよく聞くが、この国も同じようなことをやっているのである。

October 15, 2017

1950年にできた枠組み

 安倍自民党は憲法に自衛隊を明記する改憲案を提示し、憲法を改正してこれを2020年に施行させようとしている。

 今、憲法第9条を改正せよという声が多い。憲法第9条には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とあるのに、なぜ自衛隊があるのかという問いがある。国が防衛力を持つのは当然であり、当然のこととして自衛隊はある、であるのになぜ自衛隊は違憲になるのか。憲法に軍隊を持たないとあるのはおかしいではないかという声は多い。

 回答は簡単だ。GHQが軍備を持てと言ったから持った。そうとしか言いようがない。なぜ自衛隊があるのかと言えば、70年前にマッカーサーと吉田茂がそうしたからとしか言いようがない。再軍備はできないという憲法がありながら戦力を持たせたのはアメリカであり、その指示に従ったのは日本政府である。

 なぜ憲法に戦力を持たないとあるのに、自衛隊は存在しているのであろうか。1950年に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発し、アメリカは日本に駐留させていた部隊を出動させることになった。だがそうすると。日本の防衛兵力が存在しなくなる。そこでその代わりとしての武装組織を発足させるととした(露骨に言うと、これは日本国及び日本国民のための防衛ではない。なんのための防衛兵力かと言えば、進駐軍つまりGHQのための防衛兵力である)。日本国憲法は1947年(昭和22年)に施行されているので、これは当然、憲法第9条に触れることではあったが、憲法以上の存在であった占領軍の指示である。事実上、警察予備隊の創設は日本の再軍備であったが、時の総理大臣吉田茂はこれを再軍備とはいわず「警察予備隊」と言い続けた。

 しかしながら、警察予備隊ができたのは占領時代の話だ。これがGHQを守る兵力であるのならば、占領が終わり、日本が独立国になった後は、憲法違反の警察予備隊を廃止していいはずだ。あるいは、戦力を持たないという憲法はおかしいとするのであるのならば、GHQから「押しつけられた」憲法を即刻改憲すべきであった。

 ところが、そうはならなかったということに日本の戦後史のある側面がある。占領が終わり主権回復をした1951年(昭和26年)以後、今日に至るまで日本国憲法はなにひとつ変わることはなくそのままであり、警察予備隊は保安隊になり自衛隊へと拡張していった。

 なぜそうなったのであろうか。

 ここで大きく言えば米ソ冷戦というもの、具体的には朝鮮戦争というものが現れる。おおざっぱに言ってしまうと、今、私たちが置かれている状況とは、1950年に起きた朝鮮戦争への協力体制がその後もずっと続いてきたという状況なのである。日本の戦後史でいう「逆コース」のことなのであるが、この時代のことについて、先日もここで紹介した矢部宏治さんの『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)にわかりやすく書かれており、しかもこれまで知らなかったことが数多く書かれていた。

 この本の中の4コマ漫画を講談社のウェブページで見ることができる。これを見るだけでも、これまで私たちが知らなかった日米安保の事実がわかる。ようするに、こういうことだったのだ。

 もともと、なぜ日本国憲法の第9条で日本は戦力を保持しないとしたのかと言えば、当時、マッカーサーが構想していた日本の防衛とは、国連及び(実質的にはアメリカ軍を主力とする)国連軍が日本を防衛するというものであった。

 第9条はこれ単独ではなく、日米安保やそれに関連する協定や密約などと一緒に考えなくてはならない。なぜ第9条で戦力の保持を放棄しているのかと言えば、日本にはアメリカ軍がいるから戦力を保持しないのであり、ではなぜ自衛隊が存在しているのかと言えば、有事の際にアメリカ軍の指揮の下で日本の防衛を行うための日本側の実行組織として自衛隊がある。このことをまず第9条の認識の基本にしなくてはならない。すべてはこの理解から始まる。この理解がないため9条論議は常に混乱するのである。

 日本にはアメリカ軍がいるから戦力を保持しないというのは、日本国内にアメリカ軍がいることを認めるということだ。ここで重要なことは、日本国内にいるアメリカ軍とは、日本の防衛のためにだけ存在する兵力ではないということだ。日本政府は、日本国内にいるアメリカ軍は、日本の防衛のためにだけ存在する兵力とするという取り決めをしていない。

 つまり、日本国内にいるアメリカ軍はアメリカ国内のアメリカ軍とまったく同じであり、在日米軍基地及び基地外部でなにをしようとも、また基地からどの国へ兵力を送ろうとも日本国はまったく関与しない(というか関与できない)というものである。日米安保条約では、アメリカは日本の最終的な防衛義務は負っていないことはあまり知られていない。というか、ほとんどの人々はそのことをを知らない。アメリカは日本を守ってくれると無邪気に信じている。

 こうした日米関係を基盤として第9条は成立している。つまり第9条とは、いわば日本を軍事的には半植民地的状態にするものであったのだ(GHQが作ったのだから、当然と言えば当然なのであるが)。

 これに対して日本政府は、わずかばかりの抵抗をし続けてきた。自衛隊の活動が日本国内に留められていれば、有事には自衛隊はアメリカ軍の指揮下に入るといっても日本国内の専守防衛だけにすることができる。だからこそ戦後日本の歴代政権は自衛隊の海外活動に難色を占めてきた。ところが、安倍政権による新安保法制の成立はこのストッパーを外してしまい、海外での自衛隊の活動を法的に可能にした。自衛隊はアメリカ軍に従って海外派兵をすることができるということになってしまった。

 さらに安倍自民党は自衛隊を合憲にしようとしている。この状態で自衛隊は合憲、海外派兵はすでに合憲、しかしながら、指揮権はアメリカ軍にあることは変えないということは、日米関係がより強固なものになるのではなく、日本の対米従属がより強固なものになるというのが正しい。

 日本が戦力を持たないのはおかしいとするのは極めて当然の考えだ。ではなぜ自衛隊はアメリカ軍指揮下になる現状を変えようとはしないのであろうか、なぜ、正しい本来の姿の軍隊を持とうとしないのだろうか。ただうわべ的な部分だけを変えても、なにも変わらない。

 現状の自衛隊は在日米軍の支援組織、補助組織として作られた組織であり、主権国家としての日本国の軍隊としての役割を完全に実行することができない。これをあるべき正しい日本国の軍隊にするにはやるべきことは数多くある。ところが、安倍自民党においても、憲法に自衛隊を明記するという話だけで、実質上、専守防衛といういびつで、かつミニアメリカ軍のような「ぐんたい」である自衛隊の内容を日本国のまっとうで正しい軍隊にするという話はまったく出ていない。

自衛隊を正しい日本の軍隊にするには、当然それなりの莫大な費用がかかる。その費用はどこからか持ってもなくてはならないということになる。第9条を変えるといっている政党で、そうしたことを言っている政党はひとつもない。いざとなったらアメリカ軍頼みのメンタリティーは、今日においても変わることなく続いているのである。

 戦後日本の安全保障が「こういう姿になってしまった」ことの背景には、第二次世界大戦以後の世界は米ソの冷戦になったということ、アジアで朝鮮戦争とベトナム戦争が起きたということ、国連が世界政府として機能しなかったということ、そしてなによりも敗戦国として世界覇権国である超大国アメリカの意向を否応なく受けざるを得なかったということなどがある。マッカーサーが想定した世界政府としての国連と強力な国連軍の存在を前提とした日本国憲法第9条は、そうなることはなかった戦後の現代史と日米関係の中で大きく歪んだものになってしまった。

 この歪みの出発点になったのは朝鮮戦争である。この1950年6月に起きた出来事によって成立したある歴史的な枠組みがあり、我々はその枠組みの中に2017年の今日においてもあり続けている。そして、今の状況を考えるとこの先も続くものと思わざるを得ない。

 私は9月30日にここで「結局、希望の党が出現しても、国民の暮らし、生命、財産、基本的人権というものは置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。」と書いたが、これは枝野さんの立憲民主党の出現があった今でも変わっていない。

 今回の選挙は自民、公明、希望、維新が圧勝し、選挙後のこの国の政治には巨大な保守連合とも言うべきものができる可能性は高い。結局、立憲民主党が出現しても国民の暮らし、生命、財産、基本的人権、さらに言えば国家主権と平和の理念が置きざりにされたままになっている今の状況はなにひとつ変わらない。この国の政治は軍事において、事実上、野党は消滅したのである。これを矢部さんは最近のコラムの中で「「朝鮮戦争レジーム」の最終形態である「100パーセントの軍事従属体制」に他ならない」と述べている。

 今後、安倍自民党たちが悲願とする憲法改正はできず、第9条はこのままであったとしても、矢部さんがコラムで書いているように、在日米軍と自衛隊の一体化はさらに進展していくだろう。また核兵器の保持が、現実をもって論じられるようになるだろう。その時、核兵器の配備場所として沖縄が挙げられるようになることは十分ありうる。中国と北朝鮮の脅威に対抗するために、在日米軍と自衛隊の一体化を進め、沖縄に核兵器を公式に配備することが、この国の安全保障で必要なのであるというが声が強く聞こえるようになるだろう。

 我々はこの枠組みの中から、いつ抜け出すことができるのだろう。

October 07, 2017

立憲民主党の設立

 かつて大前研一さんは、去年の11月に『PRESIDENT』誌上で「さらば民進党」もはや愛想が尽きた」というタイトルのコラムでこう書いている。

「今度ばかりはほとほと愛想が尽きた。民進党のことである。参院選、都知事選から党代表選に至る迷走ぶりは、完全に分裂・消滅のプロセスに足を踏み入れたと思わざるをえない。」

「民主主義の根本であるところのマジョリティに拠って立つ、ということで民主党は自民党との対立軸を明確にしてきた。たとえば医療問題では医師会重視の自民党に対して民主党は患者側に重きを置く。年金問題では年金機構ではなく年金受給者に重きを置くし、教育改革では教師や学校側ではなく、生徒や保護者に重きを置く。受益者側に重きを置くことで、予算配分もドラマチックに変わってくる。」

「日本の景気をおかしくしている。日本経済の再生に本当に必要なのは、アベノミクスのようなまがいものの経済政策、人工的な成長戦略ではない。ひたすらサイレントマジョリティの将来不安というものを取り除くことだ。その意味では、民進党は「サイレントマジョリティのための国づくり」という原点にいま一度立ち返るべきなのだ。」

「私は今回の党代表選を機に、民進党に対する一切の助言、助力を打ち切ることを決めた。未練もない。」

 あの大前さんが、もはや救い難いと見切りをつけたのが民進党である。大前さんが言っている党代表選とは、ひとつ前の連坊代表の時のことだ。その後もこの政党は原点に変えることはまったくなかった。7月の参議院選挙では民進党、共産党、社民党、生活の党の野党4党が共闘したが成果は思ったほどは出ず、民進党は議席を大幅に減らした。続く都知事選では、民進党は惨敗した。そして理解し難いのが、党代表選で知名度抜群があるということだけで蓮舫を担ぎ上げたということだ。

 なぜこうした時に連坊が政党の代表になり得るのかさっぱりわからない。幹事長には野田佳彦前首相を置くなど、この人たちはいまなにをすべきなのかまったくわかっていない人々であった。連坊代表の二重国籍の是非がどうこうというよりも、言っている内容が言い訳がましく二転三転する姿はもはや政党の代表の器ではないことは明白であった。結局、連坊は代表の座を退くことになる。

 さらに理解し難いのが、次に前原誠司を代表にしたということだ。これでこの政党は終わるなと思ったいたら、案の定、終わった。この政党は、終わるべくして終わった。野党連合がどうこうというよりも、大前さんが言うようにサイレントマジョリティの将来不安を取り除くことをきちんと明確に言えば、それだけで数多くの有権者が支持をするのである。なぜ、そうした当たり前のことすらできなかったのであろうか。国民の一般大多数が不安を感じているこの先のこの国の行方を払拭してくれることをきちんと言ってくれれば、それでいいのである。ただそれだけのことなのに、なぜできないのだろうか。

 なぜできないのかといえば、そうした原理原則、哲学、理念ともいうべき大きな枠組みや方向性、ミッション、ビジョンを構想することができないからであり、目先の利害、損得勘定しかできないからだ。もちろん、目先の利害、損得勘定は必要なことであり、これがなくては現実は成り立たない。しかしながら、原理原則、哲学、理念ともいうべきものがなければ、実は目先の利害、損得勘定で大きく不利益になるのである。だからこそ、目先の利害、損得勘定をより確実なものにするために、もっと土台、基盤からの原理原則、哲学、理念ともいうべき大きな枠組みやビジョンが必要なのである。

 2日、枝野さんが立憲民主党という新しい政治政党をつくった。この政党は期待できるのだろうか。また民主党みたいなものになるんじゃないだろうなと思いながらネットに挙がっている枝野さんの演説を見てみた。誠実に、国民の一般大多数が不安を感じているこの先のこの国の行方を払拭することが政治家の基本であり原理原則であることを体現している演説であった。思えば昔は、こういう語りをする政治家が数多くいたように思う。

 安倍晋三さんは相変わらず、北朝鮮がどうこうとか「いま、求められているのは国際社会と連携していく外交の力です」とかわけがわからないことを言っている。6日の毎日新聞のコラム「経済観測」に経営共創基盤CEOの冨山和彦さんが興味深いことを書いていた。

「希望の党と民進党の合流が報じられ、総選挙はがぜん盛り上がってきた。ただ、そこでの政策論争、取り分け経済政策を巡って以前から気になっている風潮が一つ。それはあたかも経済の行方が政府の政策次第のような前提で議論されがちなことだ。

 実際、財政出動やら金融政策やらマクロ経済政策の力で持続的成長を実現できるかのようなことを、経済評論家や政治家が分かったような顔をして語る。しかし、この手の政策が景気刺激策としてはともかく、日本経済が長年にわたり直面している根本問題、すなわち経済の芯を強くし、イノベーションを促して持続的な成長力を押し上げる力を持っているとは思えない。」

「日本は自由主義経済の国だ。そこで経済の行方を決めるのは、圧倒的に民間の市場参加者の自由な経済活動である。民間企業、そして個々人がいかに生産し、投資し、消費し、イノベーションを起こしていくかで99%が決まる。政府の役割は、自由な経済活動がフェアに透明にオープンに行われるような環境整備を行うこと。そして市場参加者として活動する前提となる教育投資やさまざまなインフラ整備を行うことに尽きる。」

 これはまさにその通りで、政府の経済政策で実際の日本経済そのものが良くなるということはない。枝野さんの演説に対して、具体的な政策は、とか、じゃあ、どうするんだよ、みたいな書き込みが多く見かける。しかし、今言うべきことは、経済政策がどうこうとか外交がどうこうということではなく、この国はこれからどうするのかという大きなビジョンや理念、方向性を出すものであり、具体的なことは、その現場、現場で実務者がやっていくのである。また、具体的な政策や対案がないとよく言われるが、実際には民主党時代から数多くの政策や対案は出してきている。対案がないとか言っている者たちは、それを知らないだけである。

 国が経済の個別の現場に介入してきてロクなことはない。安倍自民の理解し難い点のひとつは、アベノミクスだとか「働き方改革」だとか「まち・ひと・しごと創生」とか「若者・女性活躍推進」とか、とにかく民間がやることに必要以上に介入してくることである。政府がやるべきことは、企業や人々が自由に活動できるようにすることであり、国民の生活、生命、財産、権利を守るということだけでいいのだ。経済でなにをどうするということを政府にどうこう言われるものではない。それは企業や個人がやっていくことなのである。

もちろん企業の活動には、規則なり制限なりは必要だ。戦争中の統制経済、戦時体制がそのまま戦後半世紀以上たっても続き、今や政官財は癒着し、さらにそこにメディアと学界が加わって利権集団になっているのが今のこの国だ。それで経済がうまく回っていったのは20世紀末ぐらいまでで、それ以後の20年間以上にわたって停滞し、この先は衰退していくしかないという状態にある。

 本来、政治家に必要なことは、個別の政策がどうこうということではなく、なにを原理原則とするのか国民に提示するということである。今の政治家のレベルではこれができない。個別の政策がどうこうとか、目先の利害損得しか言わない。

 だが、枝野さんはなにを政治の原理原則とするのかを述べている。政治はなにを基盤とするのかということ語る政治家をひさしぶりに見た。原理原則はシンプルなのである。枝野さんは、3日の有楽町での街頭演説でこう語っている。

「権力といえども、自由に権力を使って統治をしていいわけではありません。憲法というルールに基づいて権力は使わなければならない。」

「役所が、政府が、法律を守らない。こうしたことを前提にルールは作られていません。公文書管理法も情報公開法も、行政がちゃんとルールを守る、その前提で作られています。それをいいことに、作ってないわけない、捨てるわけない、そういう文書が捨てられた、全部真っ黒けなら、どこがおかしいのか、この先は公開してもいいんじゃないか、そういうことすらチェックできない。こういったやり方で開き直っている。 」

「格差が拡大し、貧困が増大している。これで景気が良くなるはずないじゃないですか。」

「強い者をより強くして格差を拡大しておきながら、いずれ皆さんのところにいきますよ、トリクルダウン、滴り落ちますよ。上からの経済政策はもうやめましょう。生活に困っている人たちから、暮らしから、それを下押さえして押し上げることで、社会全体を押し上げていきましょう。経済全体を押し上げていきましょう。 」

 枝野さんの言っていることは、しごくまともで当然のことだ。しかしながら、このまともで当然のことすらできていないのが、今の与党も野党も含めた政治界の姿である。

 2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、安倍晋三が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足した。それから4年間たった。アベノミクスが始まった当時、「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「成長戦略」の3番目の「成長戦略」ができるかどうかで決まると言われていた。4年間たちこの第3の矢は結局できずにアベノミクスは終わろうとしている。

 アベノミクスは、第1、第2の矢に偏重し過ぎて成長率の引き上げにはなっていない。成長率目標2%の物価目標の達成はできていない。円安による物価押し上げは、企業のコスト増加を招き、家計の実質的な可処分所得の減少は続いているため個人消費は低いままである。国の財政は1800兆円という先進国で最悪の状態にある。この先、社会保障制度は破綻することは避けられない状態になっている。

 それでいて、実質的な意味がまったくない共謀罪法や新安保法は強行採決で無理矢理に可決させ、肝心のテロ対策や安全保障はできていない。これが安倍自民の4年間である。これでいいわけがない。


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