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July 2017

July 22, 2017

福島原発事故はなかったことにしたい

 20日、国の原子力委員会は、原発は運転コストが低い電源であり、地球温暖化や国民生活への影響を踏まえ今後も利用を進めるなどとした原子力政策の新たな指針を取りまとめたという。

 政府は21日、この原子力委員会がまとめた原子力政策の長期的な方針を示す「原子力利用の基本的考え方」を閣議決定したという。原子力委員会が長期方針をまとめるのは、2005年の原子力政策大綱以来となり。3.11の福島原発事故後では初めてとのことだ。

 3.11の福島原発事故後、始めてのまとめで、この内容である。

 このブログで何度も述べているが、核廃棄物の処分も含めた全体のコストで考えれば決して「コストが低い」とは言えないことや、地球温暖化への影響が少ないかのようなわけがわからないことを言い、現状では事故が起きた時の国民生活への影響など言うまでもないことを、さも安全であるかのように喧伝し、どうしても原発を推進し続けていきたいようだ。

 しかしながら、国民は福島原発事故を忘れていない。原発は低コストだというウソは、もう通用しない世の中になっている。

 ちなみに、原発は排出するCO2が少ない、だから地球温暖化への影響が少ないかのような声があるが、地球温暖化の主な要因であるCO2の排出は、電力発電をなにで行うかだけの話ではない。火力発電を一切やめれば地球温暖化が防げるわけでもなく、さらに言えば、日本国の産業全体が、仮にCO2を排出しなくても、それで解決するというわけではない。電力発電を原子力で行えば、地球温暖化への対策になるかのような発言はお笑いものである。

 原発はコストが高く、事故が起きた際の社会的な対策が不十分である。原発の廃炉処分や核廃棄物の処分など、まだまだ工学的に未解決の問題、未開発の技術が多い、というのが現状の姿である。

 それでも原発を推進したいとする理由はなんであろうか。それは短期的に見れば、確かに原発は発電のコストが低い、ただそれだけの理由である。電気料金を安くしたいということだ。

 経団連の「夏季フォーラム」で、「東日本大震災以降、多くの原発が稼働を停止し、電力料金が高止まりして国際競争力を失っているとの認識で一致。政府の次期エネルギー基本計画策定の議論本格化に向け、安全が確認された原発の再稼働と同時に、「原発の増設、新設を経団連の方針として明確にすべきだ」との意見が出た」という。

 そして、「電気料金が安くできる」ということを錦の御旗に立てて、原子力に関わる国と企業の体制全体、いわゆる原子力ムラの利益を維持していくということである。

 原子力委員会の「原子力利用の基本的考え方」は、5年後をめどに改定するという。このへんがよくわからない。なぜ5年後に見直すのだろうか。何度見直そうとも、原発はコストがかかるという事実は変わらないではないか。その事実を公式に認めるには、5年かかるということなのであろうか。

 国は「原子力利用の基本的考え方」ではなく、その前に「福島原発事故からなにを学んだのか」をまとめるべきではないのだろうか。このままでは、福島原発事故からなにも学んでいないということになる。国と財界は、福島原発事故はなかったということにしたいのであろう

July 17, 2017

日韓中の民主化

 中国の民主化を訴えて投獄されたまま、ノーベル平和賞を受賞した人権活動家で作家の劉暁波氏が13日、入院先の病院で死去したという。

 今、目の前にアジアの三つの国、日本、中国、韓国があるとして、ここで、少しそのおのおのの国の民主化ということについて考えてみたい。

 まず日本について言えば、政府が共謀罪を成立させたことについて、国民の多くは無関心であったということである。

 完全なる主権在民という思想なり制度なりといったものが、この国に成立したのは戦後のGHQの占領政策からである。時間にして約半世紀程度のものでしかない。それ以前の大日本帝国の時代は、国民国家といえども民主主義という点では不完全な国民国家であった。明治の自由民権運動は、国家主権にいわば吸収されてしまったようなものであるし、いわゆる大正デモクラシーは制限つきの民主主義であった。さらに、それ以前の江戸時代までの時代については言うまでもないであろう。

 ようするに、この国では民主主義というものは、ある日、ある時、GHQという天から降ってきた思想であり制度であった。従って、この国では、すぐ国家主義に戻る傾向がある。統治する側が優れた為政者、有能な統治者であり、安全と繁栄をもたらしてくれるのならば、ある程度の個人の自由が束縛されるものであっても人々は統治する側に従うという歴史的な文化がある。

 大多数の人々が共謀罪に関心を持たなかった理由は、自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはないと思っているからであろう。

 これが近代西欧の人々であれば、次のように判断する。「自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはないと思っている」ということと、個人の自由が制限されるということは別の話であり、「自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはない」と思っていようが、いまいが、人間の自由が制限されることには一切反対すると判断するであろう。

 これはつまり、信仰の自由、個人の思想・宗教の自由のことであり、社会に信仰の自由、個人の思想・宗教の自由がなかった状態から、自分たちの手で血みどろの革命を経て、そうしたことが可能な社会にしたという歴史が背後にある。近代西欧の人々からすれば、自分とは関係がない、自分が共謀罪の対象になることはあり得ない、自分は政府に反対する側になることはない、だから、個人の自由を制限する法律の制定に無関心になるというのは、国家権力の本質を知らない、幼稚な思考であると思うであろう。

 ようするに、この国では、何度も強調するが、すぐ国家主義に戻る傾向があるのである。それをよく理解していた戦後の日本の知識人たちは、GHQの占領政策によって与えられた三つの基本原則、主権在民、基本的人権の尊重、戦争放棄を過剰なまでに保持し、守り続けてきた。

 戦後の日本の学校教育の目的のひとつは、これらGHQから与えられた三大原則を国民に教育するということだけではなく、なぜ、これらを過剰なまでに保持し、守り続けなくてはならないのかを教えるということであったのだが、その目的を果たしてきたとは言い難い。

 現在、日本国憲法改正を主張する人々は、戦争放棄の第九条の改正だけではなく、主権在民、基本的人権の尊重も国家主義に大きく傾けようとしている。社会そのものが高度に管理されたシステム社会になっている現在、国家主義の復活は容易に可能である。しかしながら、その一方で資本主義は個人や集団の創発的な活動によって発展していくものである。このため、日本は国家による管理社会でありながら、自由主義経済を維持し続けようとする社会になっている。

 韓国はどうであろうか。朝鮮には、士大夫という階層があった。士大夫はもともと中国の文化であったが、朝鮮において明確に確立されたと言えるだろう。彼らは儒者であり読書人であり、科挙制度を通して朝廷で働いたり、在野に身を置きながら世論形成に関わる人々である。彼らは、朱子学を思考と行動の原理原則とする。国権に朱子学の原理原則に反するものがあれば、彼らは国権を糾弾する批判勢力になる。

 この文化は今の韓国にも受け継がれており、軍事政権時代の民主化要求勢力として、また軍事政権ではなくなった第六共和制の今日であっても政府に対する批判勢力になっている。その意味では、韓国の人々には、GHQから民主主義を与えられた日本とは異なり、日韓併合による日本の植民地支配、その後の軍事政権から自分たちの手で民主主義を勝ち取ったという意識がある。軍事政権が調印した日韓基本条約を認めず、日本から植民地支配への謝罪が今だ行われていないとしているのも彼らである。韓国の政治において、この「現代の士大夫」勢力の存在を無視することはできない。

 それでは、中国はどうであろうか。今の中国において民主化をどう考えるかということは難しい。なぜならば、単純に、それが必要なものとして考えることができないからである。

 近代西欧思想からすれば、中国は民主主義も基本的人権もない国であるが、イアン・ブレマーが述べているように、現在の中国は国家資本主義であり、国家資本主義のもとで、人々の社会が営まれている以上、他国はそれを否定することはできない。アメリカのリベラリズムが、ベトナム戦争や中東紛争から学んだことは、民主主義を最善の政治体制として他国に強制することはできないということである。民主制のある、なしで中国を評価することはできない。むしろ考えるべきことは、一党による独裁政治の国家資本主義の国でありながら、なおかつ、基本的人権と個人の思想・表現の自由がある社会になれないのだろうかということである。

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