3歳児の国旗掲揚と国歌斉唱
1日、東京新聞を読んでいて驚いた。
「厚生労働省は三十一日、三歳児以上を対象に、保育現場で国旗と国歌に「親しむ」と初めて明記する保育所の運営指針を正式決定した。文部科学省が同様の趣旨を幼稚園の教育要領に盛り込んだことを受けた見直しで、幼児教育の整合性が理由。二〇一八年度に施行する。
今回見直した「保育所保育指針」は、乳幼児の成長や安全面で配慮する点について、保育現場での順守や努力を求める内容。三歳児以上が「保育所内外の行事で国旗に親しむ」「国歌、唱歌、わらべうたやわが国の伝統的な遊びに親しむ」と記した。」
なにしろ、園児に教育勅語を教えている幼稚園に訪れ感涙にむせたという夫妻がこの国の総理大臣夫妻なのであるから、当然であるのかもしれない。東京新聞の記事にあるように、3歳児以上は「保育所内外の行事で国旗に親しむ」「国歌、唱歌、わらべうたやわが国の伝統的な遊びに親しむ」ようになるそうだ。
これまで政府は、小中高校に国旗掲揚と国歌斉唱をするようにさせてきた。さらに安倍政権では、国立大にも国旗掲揚と国歌斉唱を要請した。それがついに幼稚園や保育所にも国旗を掲揚し国歌を歌うよう「指導」するようになったと言えるだろう。
しかしながら、伝統と言っても今の国旗にせよ国歌にせよ、100年前に明治政府が定めたものである。この国には、それ以前に2千年近くの年月がある。縄文期まで遡れば数万年のオーダーになる。「日の丸」や「君が代」がなくても、この列島の上で人々は営々と暮らし続けてきたのである。なにをもって、国の伝統というのであろうか。
もちろん、だからといって、国旗と国歌は「にせもの」であり「まがいもの」であると言うのではない。今の国旗や国歌には、それが成立した歴史的過程がある。その歴史的過程を踏まえずして、ただ単に盲信する対象であってはならないということだ。日本を含め、いかなる国の国旗や国歌にも敬意を払わなくてならない。これは、ヨーロッパに主権国家ができた時からの国際的な常識だ。近代国家の国際共通の通例・慣例と言ってもよい。
国旗や国歌を敬うというのは、愛国心がどうこうという前に、国際的なマナーであり、教養であり、知識であるのだ。だからこそ、国旗掲揚と国歌斉唱をするというのならば、そうした教育もなくてはならない。言うまでもなく保育所や幼稚園は、そうした教育の場ではない。であるのならば、ただ単に「やっている」だけであり、「やっている」ことで満足なのであろう。
戦後日本の教育の現場が、国旗掲揚と国歌斉唱を拒否してきたのは、戦前の日本の教育があまりにも理不尽なことをやり、国を滅ぼしたからである。大日本帝国は滅びて、その国旗と国歌は残るというのは、どう考えてもおかしい。教育勅語にもいいところがあると大臣が言う今の政府に、どこに戦前の教育への反省があるのであろうか。そして、国民に対して愛国を強制しながら、国の側には国家としての理念も倫理もないのである。
かつて、ベネディクト・アンダーソンが言った「想像の共同体」である国民国家とは、国家が国民に愛国であることを強制しなくても、国民の側から愛国心が自ずからわき上がるように国家は操作するのであるが、今のこの国の政府には、とてもではないがそんな高度なことはできない。
かくて、3歳児にも国旗を掲揚し国歌を歌うようにさせるしかないのであろう。何度も言うが、その光景を微笑ましく見ている夫妻が、この国の指導者夫妻なのである。
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