「ハンコ押し機関」
3日、元東京都知事の石原慎太郎氏の築地市場の豊洲への移転問題についての記者会見をニコニコ生放送で見た。石原氏の発言を聞きながら、あーようするに都知事というのものは、天皇機関説なのであると言っているんだなと思った。
当然のことながら、組織は役割分担で構成されている。
石原氏が専門家ではないからわからないというのは、確かにその通りである。担当が実質的な業務を行い、長はそれを決済するだけという仕組みになっていたというのであるのならば、それはその通りなのであろう。ましてや、東京都のような巨大規模の組織である場合、個々の担当が行っている内容の妥当性を判断することなど、とてもできない。この件はどうなのかという質問に対して、大丈夫ですという回答であるのならば、ハンコを押すしかなく、押さない理由がない。組織の大多数の物事は、そうして遂行されていくものなのである。
こうなると、巨大組織の「長」というのものは、ただハンコを押すだけの「機関」であると言えるだろう。少なくとも、この記者会見での石原氏の発言を要約すると、石原氏が知事であった東京都では、石原都知事は「ハンコ押し機関」でしたということである。ただの「機関」なので、責任を私に問われてもそれはスジ違いであるということだ。
東京都民である私は、都知事の選挙で石原氏に投票したことは一度もなかったが、都知事というものが、ただの「ハンコ押し機関」だったとは思ってはいなかった。石原氏は都庁に出勤していたのは週3日程度だったというから、実務は下に任せっきりで、自分は小説でも書いていたんだろうと思ってはいたが、よもや「ハンコ押し機関」であったことを悪びれもせず堂々を公言するとは思っていなかった。
実質的なことは、記憶ないのではなく、知らない、わからない、聞いていない、聞く必要があるとは思っていない、と言っている石原氏に対して、記者のみなさんの責任追及をする質問や具体的な事実確認の質問などは的外れであった。ようするに、石原さんというこの老人は、こういう人なのであるということがまったくわかっていない。なんども言うが、この人は、ただの「ハンコ押し機関」だったのである。
この国の組織は、責任の所在というものがどこにあるのかがわかり難い。コレコレをコレコレとすることに決めたのは、その組織の「みんな」であるのか、その組織の「長」であるのか、ということが極めて曖昧なものになる傾向がある。むしろ、これを曖昧とすることで、組織内部の権力のヒエラルキーを隠し、あたかも全員平等であるかのような雰囲気を醸し出すというのが、この国の組織文化であると言ってもよいだろう。
しかしながら、それで物事が問題なく遂行されていけば、それでよいが、その結果に問題が発生した場合、この方法では意思決定のプロセスが極めて不明快であり、組織としての意思決定、判断のどこに問題があったのか、どうすれば再発を防げるのかということがわからない。
こういう人が都知事であったことは、都民の不幸であったとしか言いようがない。
昭和天皇は、美濃部達吉の天皇機関説を支持したという。しかしながら、終戦後、マッカーサーの前で、すべての責任は自分にあると語ったという。この帝こそ、軍部は自分に知らせなかった。自分は知らなかった、聞いていない、自分には責任はないと言ってもおかしくない人物であったのだが、そうしたことを一切言われなかった。幼少の頃から「長」というものは、どうあるべきであるかということを教えられてきたのであろう。
そういう「長」は、もういなくなってしまった。
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