安全保証と基礎研究
今朝の毎日新聞の青野由利専門編集委員のコラム「土記」に、2月4日、日本学術会議主催で行われた学術フォーラム「安全保障と学術の関係:日本学術会議の立場」のことが書かれていた。
どのようなフォーラムであったのかというと、日本学術会議のサイトにこのフォーラムのレジメが公開されているので、それを見てみると、次のように記載されている。
「開催趣旨:
日本学術会議は1950年、1967年に「戦争を目的とする科学研究」を行わないとの声明を発した。近年、軍事と学術が各方面で接近を見せる中、民生的な研究と軍事的な研究との関係をどうとらえるかや、軍事研究が学術の公開性・透明性に及ぼす影響などをめぐって審議すべく、「安全保障と学術に関する検討委員会」が設置された。同委員会の中間報告を受けて審議の状況等を紹介するとともに、内外から意見を聴取するため、学術フォーラムを開催する。」
青野さんのコラムから引用すると、ことの背景は、「防衛省が一昨年から始めた研究公募制度だ。「防衛装備品への応用」を目的に大学などの基礎研究に資金提供する。」ということから、軍事目的の基礎研究は行っても良いのかという論議がでてきたことによる。もともと、先の戦争で科学者が動員されたことへの反省から、戦後の日本では、学術会議は戦争・軍事目的の研究はしないという声明を出している。
ところが、国の大学への基礎研究への予算には限りがあり、研究者にとってより多くの資金の獲得が最近ではますます困難な状況になっている。これに対して、防衛省の研究公募制度の予算は「初年度は3億円。来年度の予算案は110億円。」になるという。
当然のことながら、日本にも軍事産業はある。防衛予算は、陸海空の自衛隊が使うだけではなく、民間企業に支払っている資金である。企業は防衛省とビジネスをしているのであり、それについて倫理や道義を問われることはない。しかしながら、軍事目的で大学で研究が行われるということになると、話は違ってくる。
戦後日本の、戦争・軍事目的の研究はしないという基本原則が、今、大きく揺れている。露骨に言うと、防衛省からお金をもらってもいいじゃないかという声が出ているという。このフォーラムの主旨も、そうした声に応え、はっきりとさせたいということなのであろう。防衛省の研究公募制度への参加を認めるのか、認めないのかということである。しかしながら、現在、学術会議ではこれが曖昧なままになっている。
青木さんは、コラムでこう書く。
「もやもやをすっきりさせてくれたのが討論会で意見陳述した東大の理論物理学者、須藤靖さんだ。「物理学者は原理原則を大事にし、明快な論理を尊ぶ」。そんな前置きに続いてこんなふうに語った。
学術会議の大勢は軍事研究拒否の声明堅持だが、中には「防衛目的の研究は別」と注釈をつける人がいる(実は、学術会議の大西隆会長もその一人)。しかし、「基礎研究と軍事研究が分けられないことを思えば、防衛と軍事に明確な線引きができないことは自明」。防衛ならいい、などという議論は意味がない。
では、何をもって軍事研究と呼ぶか。「今は資金の出所で定義すればよい。」とすれば結論は簡単だ。「声明は堅持、防衛省の制度には応募しないと明記する。短期的に重要なのはこれ」。ただし軍事研究の善悪といった問題は問わず、議論を分ける。同じ定義に照らせば、米軍が日本の大学に投じている研究費も迷わず「×」と判定できる。
「国の安全保障や平和のために科学者も役割を」という意見も必ず出るが、「学術会議は国の安全保障のためにあるのではない。学術のためを優先することが平和につながる」とこれも明快だ。討論会で医学者の福島雅典さんが述べた「科学者の責任はその時代の要請に応えることではない」との主張とも重なる。」
そして、青木さんは、このコラムの最後を「日本は米国型の軍産複合体に踏み出すべきではない」と締めくくっている。
まったくその通りである。そもそも、軍事目的をもって基礎研究への研究費配分を行う、その方法そのものを再検討する必要があるのではないだろうかと思う。
世の中には、時代や社会の要請に応えなくてはならないものと、応えてはならないものがある。久しぶりに、そのことを思い出させてくれたコラムだった。
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