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February 2017

February 19, 2017

テロ等準備罪(共謀罪)

 「テロ等準備罪」(共謀罪)なるものが新設されようとしている。産経新聞によれば

「安倍晋三首相は17日の衆院予算委員会で、「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案に関し「団体が犯罪集団に一変した段階で(構成員が)一般人であるわけがない。組織的犯罪集団と認めることは当然で、取り締まりの対象となるのは明確だ」と強調した。」

 とのことである。

 犯罪の取り締まりが、一般人が対象であるわけがないのは当たり前のことだ。この「一般人が対象ではない」というのは、なにも説明していないコトバなのである。「一般人」と一般人ではない者」をどう区別するのかということが問題なのだ。この法案を危惧する人々は、なにをもって犯罪行為とするのか、それをきちんと明確にして欲しいと述べている。

 しかしながら、政府は相も変わらず「一般人が対象ではない」と言い続けている。なぜなら、そうとしか言いようがないからだ。この法案は、「一般人」と「一般人ではない者」の違いを「明確にしない」という法案だからである。

 ここに奇妙な弁論がある。犯罪者でないのならならば、この法案に反対するわけはない。組織的なテロや犯罪を防ぐために、この法律は必要なのだという弁論である。「一般人」と「一般人ではない者」の違いを「明確にしない」という法律であるのに、なぜ支持をするのかと言えば、政府が言う「一般人ではない者」には、自分は絶対にならないと思っているのであろう。政府は社会全体のためにやっている。政府が社会を悪くするわけはないではないか。だから、政府を信頼する、というわけである。

 例えば、政府による監視ひとつをとってみても、監視されたくないというのは、なにかやましいことがあるのであろう、やましいことがないのであるのならば、政府に監視されてもいいはずだ、という弁論である。

 この弁論は一見、正しく説得力があるように見える。

 しかしながら、なにが犯罪で、なにが犯罪ではないということが明確になっていない。時の政府の恣意的な判断でどうにでもできる、という世の中になると、人々は疑心暗鬼になり必要以上に自己規制、自粛するようになる。どこまで自己規制、自粛すればいいのかわからないため、どこまでも自己規制、自粛する世の中になる。結局のところ、国家権力に怯える世の中になるということである。

 「政府は社会全体のためにやっている。政府が社会を悪くするわけはないではないか。」と言っても、取り締まる側の現場では、そうしたキレイゴトは通らない。現場では、無制限に権力を行使することが許可されたと判断する。「疑わしきは罰する」ということが常態になる。そうした世の中を、誰が望むのであろうか。

 この法案への野党からの批判を受け、法務省は犯罪対象の枠を狭めた。NHKニュースよると、以下の通りである。

「法務省は、組織的なテロや犯罪を防ぐための「国際組織犯罪防止条約」の締結に向け、犯罪の実行前の段階での逮捕などを可能にする「共謀罪」の構成要件を厳しくして、「テロ等準備罪」を新設する法案を今の国会に提出する方針で、当初、対象犯罪を懲役・禁錮4年以上の刑が科せられる676とする案を示していました。

しかし、与野党双方から「対象が多すぎると国民の不安を招きかねない」といった指摘が出されたことから、公職選挙法違反や危険運転致死など組織的犯罪集団が行うとは考えにくい犯罪などを除外して、対象範囲の絞り込みを進めてきました。

その結果、対象犯罪を組織的な殺人やハイジャックなど、テロの実行に関連するおよそ110の犯罪や、覚醒剤や大麻の輸出入といった薬物に関する30程度の犯罪など、当初の想定のおよそ4割まで絞り込んだ270余りとする方針を固めました。」

 犯罪対象を少なくしました、というわけである。しかし、こうした新しい法律を作らなくても、今の法律で十分に対応できる。政府は、東京オリンピックのための国連越境組織犯罪防止条約に批准するために、「テロ等準備罪」(共謀罪)が必要であるとしているが、日弁連が述べているようにそうしたことはまったくない。

 また、テロについて言えば、こうしたテロ犯罪への法律を新設したり、国民へのプライバシーや人権を無視した監視を強化しても、テロはなくならない。

 ようするに、どう考えてもこの「テロ等準備罪」(共謀罪)は必要あるものではなく、また施行された場合の社会への悪影響があまりにも大きなものなのである。

 そういう法律が生まれようとしている。

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February 18, 2017

金正男氏暗殺

「北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の異母兄で、マレーシアで死亡したとされる金正男(ジョンナム)氏(45)について、韓国統一省報道官は15日、「政府は殺害されたのは確実だと判断している」と記者会見で述べた。情報機関、国家情報院は、正恩政権発足直後の2012年にも北朝鮮当局が本格的に正男氏の暗殺を企てたと明らかにした。米韓当局は、北朝鮮工作員による暗殺との見方を強めている。」

 と産経新聞は書いている

 国家というものは、時に「国家のため」ということであればなんでもやる。その最たることが戦争であろう。

しかしながら、金正男氏に殺害しければならない程のなにものかがあったとはとても思えない。金正男氏が北朝鮮の体制を脅かしていたとか、金正恩の権力を奪うとかいった理由があったとは思えない。国家がある人物を計画的に殺害するということの国際社会の反発やイメージダウンのコストとリスクをかけても、やるべきことであったのかというと、とてもそのようには思えないのである。

 ということは、どういうことかというと、北朝鮮という国は合理的な判断をする国ではないということだ。実際のところ、恒例化しているミサイル実験を見ても、とても合理的判断でやっているとは見えないのであるが、今回の金正男氏殺害は、北朝鮮というのはこういう国なのであるということが、さらに露呈したということだ。

 このことで思い出すのが、全斗煥政権時代に起きた金大中の誘拐・暗殺未遂事件である。

 1973年8月8日、韓国の政治家、民主活動家で、のちに大統領になる金大中が、韓国中央情報部(KCIA)により東京のホテルから拉致されて、軟禁されて船で連れ去られ、5日後にソウル市内の金大中自宅前で解放された事件である。当初の計画では、殺害して海に沈める計画であったが、アメリカからの圧力により中止された。

 この時の全斗煥には、金大中をこの世から消したいという、いくばくかの理由があったと言えば言える。しかし、日経新聞によれば、今回の出来事は、朝鮮労働党委員長が「嫌いだ。除去しろ」と言うだけで殺害がなされたようである。

「北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長が、マレーシアで殺害されたとみられる異母兄、金正男(キム・ジョンナム)氏について「嫌いだ。除去しろ」と述べ、殺害の実行命令が下ったことが分かった。韓国の情報機関、国家情報院(国情院)の当局者が明らかにした。殺害の手段を巡っては今まで使われたことがない強力な毒劇物が使われたとされ、遺体の口元には泡がついていたとの見方が出ている。」

 日韓併合が終わった後、韓国にせよ北朝鮮にせよ、政権維持のために数多くの人々を殺害してきた。今の韓国は多少なりとも、そのことを客観的に振り返ることができるが、北朝鮮はそこまでになっていない。韓国がそうなってきたというのは、当然のことながら、そういう国では国際社会では通用しないということを、韓国は身をもって実感しているからである。

 北朝鮮の問題は、ミサイルと称するものの実験がドウコウということではなく、権力者の個人的な一言で殺害をする国であるということだ。国際社会の常識的感覚では、こうした非合理な行動をする国があっては困るので、周囲の国々は、この国を排除しようとする。

 しかし、北朝鮮の場合、あまりそうなっていない。北朝鮮の周囲の国々の中の最大の国が、中国であるからだ。中国もまた、北朝鮮以上に、権力維持のために、膨大な数の人々を殺害してきた。本来は、率先して北朝鮮を糾弾しなくてはならない国が、北朝鮮と似たようなタイプの国であるということに、今の東アジアの問題がある。

 北朝鮮の政治体制は、ソ連と大日本帝国の政治体制をまねている。戦前の日本にあったある面が、今の北朝鮮にはある。カンタンに言えば、昔のこの国は、ああいう国でもあったのである。

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February 12, 2017

日米首脳会談

 産経新聞によると、

「安倍晋三首相は10日午後(日本時間11日未明)、米ワシントンのホワイトハウスでトランプ米大統領と会談した。安倍首相は会談後の共同記者会見で「アジア太平洋地域の平和と繁栄の礎は強固な日米同盟だ」と強調し、「日米同盟の絆は揺るぎないもので、さらなる強化を進めていく決意を確認した」述べた。」

 とのことである。さらに、

「尖閣諸島(沖縄県石垣市)について「(米国の日本防衛義務を定めた)日米安全保障条約5条の適用範囲であることを確認した」と明らかにした。また沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古移設については「普天間飛行場の全面返還を実現すべく、移設に向け日米で協力して取り組む」と述べた。」

 という。

 この、尖閣諸島と沖縄の辺野古を、ここで持ち出すというのがよくわからない。尖閣諸島と沖縄の辺野古の問題が解決すれば、日本の安全保障は完璧であると思っているのであろうか。日米関係の中で、尖閣諸島や沖縄の辺野古といったことは、些細なことであり、それよりもやらなくてはならないこと、日米の間で決めなくてはならないことは、山のようにあるのであるが、それらはどうでもいいのであろうか。

 わざわざ、ここで尖閣諸島の話を持ち出すことで、中国と台湾がどう感じるか考えたことあるのであろうか。わざわざ、ここで辺野古を持ち出すことで、沖縄の人々がどう感じるか考えたことがあるのであろうか。ここにあるのは、このことについて、相手と交渉しようという意思はまったくなく、ただ一方的に、高圧的に、アメリカの力を頼って、こちら側の主張を通すという意思の現れである。

 これを受けて、沖縄タイムズは社説にこう書いている。

「日米首脳会談では、米軍普天間飛行場の返還を巡り「辺野古移設が唯一の解決策」であることも確認された。恐らく日本側が主導し、国内向けに盛り込ませたものだろう。

 これまでも日米首脳会談、防衛相会談のたびに確かめ合ってきたことだが、それにしても「辺野古唯一」「辺野古唯一」と同じことを何度も確認し続ける、この異様さはいったい何なのだろうか。県民に対し、抵抗しても無駄だと言わんばかりである。」

 こうした国の側の態度が、沖縄との交渉をますます困難なものにしていることがわからないのであろうか。ここまで病的で虚弱な政権は、これまでなかった。

 日米安保の内容が実質的にどうこうとなったわけでもない。日本の首相は、ワシントンになにをしに行ったのであろうか。

 『ニューズウィーク日本版』(2017-2・14号)での編集長・横田孝氏の記事「トランプの「外圧」は理不尽か」は興味深い内容だった。こう書いている。

「しかし、そもそも大統領就任後のトランプの日本に関する主張は本当に過激なのか。
 大局的に過去のアメリカ政府や議会の主張と比較すると、実はトランプの主張はそこから大きく逸脱していない。日本の防衛費、為替、自動車市場-----どれもクリントン、ブッシュ、オバマ政権下のアメリカで不満がくすぶり続けた問題ばかりだ。」

「日本のメディアには総じて、トランプが「厳しい姿勢」で「対日批判を強める」ことが「日米摩擦の再燃」につながることを懸念する報道が多い。だが新政権の姿勢を並べてみると、どれも古くて新しい問題ばかりだ。」

「ブッシュやバラク・オバマが同じ発言を行ったとしたら、これほどの騒ぎになっていただろうか。現段階では、これまでアメリカ政府や議会内でくすぶっていた不満が頭をもたげている、と認識するのが妥当だろう。」

メディアが作り出した虚像に怯え、どうでもいいことを騒ぎ立て、自分から必要以上に譲歩して、結局のところ相手の有利で終わる、というのがこの国の外交の姿であることは今に始まったことではないが、病的な小心者である今の日本の首相には、この傾向が著しくある。

 NHKは、この日米首脳会談でトランプがなにを言うかに世界は注目していると言っていたが、外国のメディアはもっぱらトランプのイスラム圏7カ国からの入国制限のことばかりを報道していた。

 大局的、長期的に、論理的に、考えるということをしないのが日本の外交の特徴である。それでいて、やたらと親密な人間関係を築くと言う。親密な人間関係なるものを持てば、交渉がうまくいくと思っているのであろう。自国人どおしの方法論を、他国や他民族にも当てはめるというのも、この国の特徴のひとつだ。このことは逆に、相手はそれに応じるべきであるという思い込みを作っている。明治以後の日本人が、韓国・中国を嫌うのはこのことがある。

 しかしながら、日本の親密なる人間関係外交など通じない。それが外国であり、当然のことだ。つい最近も親密な人間関係がどうこうと言っていたロシアのプーチン大統領との日ロ交渉が、結局のところロシア側の有利で終わった。

 それでも、親密な人間関がどうこうとか、ゴルフが、とかしか言えないのは、ようするに、それしかできないからであろう。

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February 11, 2017

安全保証と基礎研究

 今朝の毎日新聞の青野由利専門編集委員のコラム「土記」に、2月4日、日本学術会議主催で行われた学術フォーラム「安全保障と学術の関係:日本学術会議の立場」のことが書かれていた。

 どのようなフォーラムであったのかというと、日本学術会議のサイトにこのフォーラムのレジメが公開されているので、それを見てみると、次のように記載されている。

「開催趣旨:
日本学術会議は1950年、1967年に「戦争を目的とする科学研究」を行わないとの声明を発した。近年、軍事と学術が各方面で接近を見せる中、民生的な研究と軍事的な研究との関係をどうとらえるかや、軍事研究が学術の公開性・透明性に及ぼす影響などをめぐって審議すべく、「安全保障と学術に関する検討委員会」が設置された。同委員会の中間報告を受けて審議の状況等を紹介するとともに、内外から意見を聴取するため、学術フォーラムを開催する。」

 青野さんのコラムから引用すると、ことの背景は、「防衛省が一昨年から始めた研究公募制度だ。「防衛装備品への応用」を目的に大学などの基礎研究に資金提供する。」ということから、軍事目的の基礎研究は行っても良いのかという論議がでてきたことによる。もともと、先の戦争で科学者が動員されたことへの反省から、戦後の日本では、学術会議は戦争・軍事目的の研究はしないという声明を出している。

 ところが、国の大学への基礎研究への予算には限りがあり、研究者にとってより多くの資金の獲得が最近ではますます困難な状況になっている。これに対して、防衛省の研究公募制度の予算は「初年度は3億円。来年度の予算案は110億円。」になるという。

 当然のことながら、日本にも軍事産業はある。防衛予算は、陸海空の自衛隊が使うだけではなく、民間企業に支払っている資金である。企業は防衛省とビジネスをしているのであり、それについて倫理や道義を問われることはない。しかしながら、軍事目的で大学で研究が行われるということになると、話は違ってくる。

 戦後日本の、戦争・軍事目的の研究はしないという基本原則が、今、大きく揺れている。露骨に言うと、防衛省からお金をもらってもいいじゃないかという声が出ているという。このフォーラムの主旨も、そうした声に応え、はっきりとさせたいということなのであろう。防衛省の研究公募制度への参加を認めるのか、認めないのかということである。しかしながら、現在、学術会議ではこれが曖昧なままになっている。

 青木さんは、コラムでこう書く。

「もやもやをすっきりさせてくれたのが討論会で意見陳述した東大の理論物理学者、須藤靖さんだ。「物理学者は原理原則を大事にし、明快な論理を尊ぶ」。そんな前置きに続いてこんなふうに語った。

学術会議の大勢は軍事研究拒否の声明堅持だが、中には「防衛目的の研究は別」と注釈をつける人がいる(実は、学術会議の大西隆会長もその一人)。しかし、「基礎研究と軍事研究が分けられないことを思えば、防衛と軍事に明確な線引きができないことは自明」。防衛ならいい、などという議論は意味がない。

では、何をもって軍事研究と呼ぶか。「今は資金の出所で定義すればよい。」とすれば結論は簡単だ。「声明は堅持、防衛省の制度には応募しないと明記する。短期的に重要なのはこれ」。ただし軍事研究の善悪といった問題は問わず、議論を分ける。同じ定義に照らせば、米軍が日本の大学に投じている研究費も迷わず「×」と判定できる。

「国の安全保障や平和のために科学者も役割を」という意見も必ず出るが、「学術会議は国の安全保障のためにあるのではない。学術のためを優先することが平和につながる」とこれも明快だ。討論会で医学者の福島雅典さんが述べた「科学者の責任はその時代の要請に応えることではない」との主張とも重なる。」

 そして、青木さんは、このコラムの最後を「日本は米国型の軍産複合体に踏み出すべきではない」と締めくくっている。

 まったくその通りである。そもそも、軍事目的をもって基礎研究への研究費配分を行う、その方法そのものを再検討する必要があるのではないだろうかと思う。

 世の中には、時代や社会の要請に応えなくてはならないものと、応えてはならないものがある。久しぶりに、そのことを思い出させてくれたコラムだった。

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February 10, 2017

『すべての政府は嘘をつく』

 NHKオンデマンドで『BS世界のドキュメンタリー シリーズ トランプ大統領 誕生の深層 「すべての政府はウソをつく」』を観た。

 今から思うと、私が学んだアメリカは、ウォータゲート事件やベトナム戦争以後のアメリカだったのだと思う。メディアには、政府を監視する役割がある。このことを最も体現しているのが、アメリカのメディアであるというのは私の信念であったと言ってもいい。だからこそ、アメリカのメディアは、世界最高のジャーナリズムであると信じていた。

 そのアメリカのメディアは、911以後、少しおかしくなった。政権への批判をしなくなった。あのニューヨーク・タイムズやワシントンポストまでもが、ブッシュのアフガニスタン空爆やイラク侵攻に賛成したのである。しかし、これだけの大規模なテロが起きたのだから、しかたがないと私は思った。メディアが政権に迎合するのは、この時期なのだからだろうと思っていた。

 ところが、その後、さらにアメリカのメディアはおかしくなっていった。

 この理由として、政権のメディア操作が著しく進歩したということが言える。ニクソン政権の頃とは比較にならない程、今の時代は政府によるメディア操作の技術が進歩している。もうひとつの理由は、メディアの側にある。メディアが産業として大きくなり、大手の新聞社やテレビ局は、巨大資本へ買収、合併されていった。このため、今やマスコミは大企業であり、体制側であり、そうカンタンに政府にたてつくことができなくなった。社会正義よりも、利益を優先しなくては会社が成り立たないようになったのである。さらに言えば、消費者が良質なジャーナリズムにお金を払うことはせず、メディアにエンターテインメントを求めるようになったということが挙げられるであろう。

 アメリカは第二次世界大戦以後も、世界各地で戦争をしてきたが、一般市民が直接関わる戦争は、ベトナム戦争を最後とし、1991年の湾岸戦争ではテレビにアメリカ兵の死体が映っただけで、国民は拒否感を持つようになった。このため、これ以後の戦争では、国民にとって完全にメディアの向こう側での戦争になった。というか、政府がそのようにした。国民に実感が伴わない戦争になったのである。

 このことに、心ある人々は危機感を感じ、大手のメディアがやらないことを独立系のメディアが報道している。情報通信技術の進歩により、個人や小さな組織でも世界に向かって発信することができるようになった。

 「すべての政府は嘘をつく」(All Governments Lie )とは、冷戦時代に個人で雑誌を発行し、政府を批判し続けたジャーナリスト・I.F.ストーンの言葉である。先に述べたように、ブッシュ政権以後、アメリカのメディアは大きく劣化した。しかしながら、アメリカのジャーナリズムには、政府を監視するという役割を、今やタテマエにおいてであっても持ち続けているところがあり、独立系メディアへの支持も高い。なによりも、こうしたドキュメンタリー番組が作られる(この番組自体はカナダの制作である)ことに、アメリカのジャーナリズムの、アメリカたるところがあると言えるだろう。意味は多少違うが、銃の所持規制ができないということもこれに関連していることである。

 トランプ支持者も「政府を疑う」人々である。しかし、この番組での「政府を疑う」とは、リベラルな意味での「政府を疑う」だ。政府への不信、マスコミへの不信が、一方ではトランプ大統領を生み出し、一方でこの番組で取り上げられている独立系メディアを生み出したのだ。それが今のアメリカなのであろう。

 アメリカ以上に劣化しているのが、この国のメディアだ。

 アメリカも日本も、いまやメディアは営利企業になったが、そうであっても、アメリカのジャーナリズムには営利企業であることへの反発と抗いが多少なりともあるが、日本にはそれがまったくと言っていいほどない。日本において、志ある良質のメディアは数少ない。

 以下、多少、大げさであるが、そもそもから考えてみたい。

 今のこの国には、この「政府を疑う」という考え方そのものが、典型的左翼の思考であり、政府を批判することは、自分たちが知的であるかのような衒いでしかないという意見がある。特に、ネット界隈でよく見かける。

 「政府を疑う」というのは左派だけではなく、右派の思想にもあるが、なぜか「政府を疑う」のは左翼の典型的な思考になるらしい。ネトウヨは、今の政府を疑わないのであろう。「政府を疑う」というのは間違っているという思考そのものが、かなり幼稚で低レベルなものだ。今のこの国では、こうしたことを言う人が数多い。そういう世の中になってしまった。

 なぜ、こうなってしまったのであろうか。

 明治は有司専制であった。明治政府は国家が民間企業も含め無知蒙昧な一般大衆を、指導し撫育するというものであった。この構図は、基本的に江戸時代と変わらない。江戸時代もまた、統治階級である武士が、それ以外の者たちを管理するという基本構図をもって、この国は成り立っていた。明治になり階級制度は廃止され、四民平等の世の中になったが、お侍様が我々を導いてくれるという意識が、政治家の先生や偉いお役人様が我々を導いてくれるという意識に変わったにすぎない。

 事実で言えば、確かにそうであったのであろう。国家が権力をもって、無理にでもこの国を欧米のような国にする、そうしたないと日本は欧米の植民地になる、というのが明治維新の目的であり、意図であった。

 しかしながら、近代社会というのはそういうものではないと考える人々がいた。自由民権運動の人々である。彼らはフランス革命の思想的背景のひとつであったルソーの思想からそれを学んだ。主権は、王権にあるのではなく民衆にあるという思想である。ところが、この自由民権運動は、明治23年に施行された大日本帝国憲法の発布と帝国議会の設置を経て、次第に小さなものになっていき、やがて歴史の表舞台から消えてしまった。有司専制であっても、とりあえず国民国家になったということで、それで良しとしたのであろうか。自由民権運動には、薩長だけがいい思いをしていることへの士族たちの憤りがあったとも言える。

 日本人が主権在民という考え方を持つようになったのは、太平洋戦争の敗戦によるGHQの占領下においてであった。ここでようやく、かつて明治の時代に自由民権運動の人々が主張した民権というものが、アメリカを経由してこの国にもたらされることになった。

 国権により与えられる、国権により保証される「自由」と、市民社会本来が持つ「自由」は別のものである。この「別ものである」というのが、戦後日本ではあいまいになって今日に至っている。戦前の大日本国憲法での国民の持つ「自由」とは、国権により与えられ、国権により保証される「自由」であった。これに対して、戦後、GHQが草案した日本国憲法での国民の持つ「自由」とは、国権によって与えられり、保証されたりするものでない。人間本来が自明で持つ「自由」であり、これが欧米の市民社会の「自由」である。ところが、いわば占領軍であるアメリカから「与えられた」ようなものであるが故に、戦後の日本の主権在民とは、国権によって与えられるものではないということが正しく理解されていない。

 「国民主権」というものと、「政府を疑う」ということは、実は密接に関連している。国民主権であるから「政府を客観的に見る」のであり「政府を疑う」という行為がある。「政府を疑わない」というのは、国民主権ではないと言っていることに等しい。

 いや、主権をもって「政府を疑わない」のだと言うかもしれない。しかしながら、政府は国民を統治し、権力を維持するためにウソをつく。政府はウソをつくという前提があって、主権をもって「政府を疑わない」というのならば、それは主権放棄になるのではないだろうか。いわば、主権をもって主権を放棄するということだ。つまりは、国民主権ではなくなるということなのである。

 なぜ、「すべての政府はウソをつく」という当たり前のことを前提としないのだろうか。政府が国民のためを思ってしっかりやっているのだから、批判するのはおかしいと言う人が今でもいるということは、戦後70年たっても、「国民主権」を正しく理解していないのである。憲法についていうのならば、憲法を改正するどころか、まず戦後の日本国憲法すら正しく理解していないということが言えるだろう。それで憲法改正がどうのこうのと言っているのが、今のこの国なのである。

 何度も書いて恐縮であるが、今やアメリカでも日本でも、メディアが「すべての政府はウソをつく。だから、政府を疑わなくてならない」という意識を持つということはタテマエになってしまった。しかし、タテマエであったとしても、アメリカのメディアには、それを掲げようとする者たちを讃え、今の現状を嘆かわしく思う良心の呵責がある。これに対して、そうした意識をタテマエとしてすら持とうとしないのが、この国の姿なのだ。この違いは大きい。

 NHKのBSで放送したドキュメンタリー番組『すべての政府は嘘をつく』は、3月にアップリンク渋谷にて劇場公開するという。


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