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August 2016

August 27, 2016

海の魚を食べ尽くす

 26日、北太平洋の公海上の漁業資源保護を話し合う「北太平洋漁業委員会(NPFC)」にて、日本や中国など各国がマサバ漁船の増加を抑制することで合意したという。しかしながら、中国は、「資源量の実態がわかっていない」と強く反発し、結局、「委員会として資源量を把握するまで、増やさないことを推奨する」との文言で、各国が抑制努力をすることでようやく一致したという。合意内容に、強制力はない。つまりは、なにも定まっていないということだ。

 マサバとは、食卓でよく見る、いわゆるサバである。

 その昔、1980年代の頃であったろうか、将来、中国の人々が日本のように車やクーラーを使い、大量消費の生活をするようになれば地球の資源はすぐに枯渇すると言われていた。その当時、そうなんだろうなと漠然と思っていた。それが今、実際に起ころうとしている。

 太平洋のクロマグロは絶滅危惧種に指定されているという。もはや、大洋のマグロが絶滅の危険にさらされるようになるとは、これまでの人類は思ってもみなかったであろう。人類は海の魚を食べ尽くそうとしているのだ。あの無尽蔵にいると思ってきた海の魚をである。

 毎日新聞は、こう書いている。

「水産資源をめぐる争奪戦が激化しており、資源の減少や価格の高騰などで日本の食卓にも影響を及ぼす恐れがある。中国、台湾、韓国などが大型漁船の操業を本格化し、太平洋のクロマグロが絶滅危惧種に指定されるなど、生態系にも打撃となっている。」

「「食」をめぐる争いは、海だけの問題ではない。中国などの経済発展による所得の増加により、食生活のぜいたく化と多様化が進み、世界の食糧需要は急速に拡大している。米農務省の統計によると米やトウモロコシ、小麦といった穀物の世界消費量は1970年時点から2倍以上に増加した。人が食べる分に加え、世界的な肉食の広がりで家畜飼料需要も増大したためだ。農林水産政策研究所の推計ではアフリカなどの人口増加に伴い、2025年の世界消費量は穀物や食肉、乳製品など広範な分野で拡大すると見られている。 」

 20世紀のアジア諸国にとって「日本のような経済大国になること」が目標であった。しかしながら、毛沢東ら初期の中国共産党の者たちは「日本のような経済大国になりたい」とは思っていなかった。だが結局のところ、中国共産党政府は「日本のような経済大国になること」以外のことを構想することができなかった。そして、その通りの道を歩み、いまや中国は日本を追い抜き、第二位の経済大国になり、穀物を輸入する国になっている。

 誰がどう悪いというわけではない。人が増え、人の暮らしの生活水準が上がってきたからにすぎない。仮に海に1000匹のサバがいて、10人がサバを食べたいと思った時、おのおの好きなだけ食べることができるが、それが100人、1000人になった時、そうはいかなくなることは単純な理屈だ。たったそれだけのことなのであるが、それだけのことでも、規模があまりにも大きいのだ。

 我々は、これほどの大きな需要を、これまで抱えたことがなかった。地球の生態系には限りがあることを、人類が知ったのが20世紀後半であったのならば、その限りに直面せざる得なくなったがこの21世紀なのだろう。

 限りがあるのならば、これまでのやり方を改めるのが当然の対応だ。しかし、そうはならないであろう。限りがあるからといって、そうですかと方向転換ができるほど、この文明は柔軟ではない。乱獲をすれば、やがて自分たちの首をしめることになるのは明らかなことなのであるが、だから乱獲をしないという規則なり規範なり、制度なり伝統なりができたとしても、それをことごとく破って悲劇的な結末を迎えるのが、人の歴史の常である。

 かくて、資源をめぐる争奪が繰り広げられることになる。

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August 21, 2016

天皇の「生前退位」

 「天皇」をどう考えるのかということは、ややこしい。

 遠い昔、日本列島の西の九州地方にあった、とある王権の族長として考えるか、後の日本列島の本州全域にまでを支配下においた大和朝廷の王として考えるか、12世紀に鎌倉に武家の政権ができた以降、もうひとつの公家の権威の代表者として考えるか、あるいは明治以後の大日本帝国の国体そのものであり、国家神道の祭司として考えるかで大きく違ってくる。さらに言えば、戦後の日本国憲法での象徴天皇としての存在もある。

 今回の天皇の発言は、ご高齢により天皇の職務を果たすことができなくなったので、その職責から離れたいということである。我々日本国民の多くは臣下の日本国民は、天皇の発言をしごくもっともな話であると受け止め、退位することになんの異議を感じてはない。ところが、法律ではそうしたことは想定していないので、法律を変えなくてならないということでもめている。「生前退位」を認めたくない人々がいる。

 おおざっぱに言えば、明治以前の二千年近くの年月の時代の天皇と、明治以後の百数十年の年月の時代の天皇は根本的に違っていると言えるだろう。明治以前であれば、天皇は退位しようと思えば、退位ができ、上皇になるのが当然のことであった。しかしながら、明治以後の天皇はそうしたことがカンタンに通る存在ではなくなった。存在ではなくなったというか、そういう存在にしたのが明治政府であった。

 徳川幕府を天皇の権威をもって滅ばした者たちは、政治が天皇の権威を利用することの威力を十分過ぎる程良く理解していた。徳川幕府を創設した徳川家康も、このことは知っており、幕藩体制の中に天皇を置いてきたのであるが、明治政府はそれ以上に、天皇を完全に政府の管理下に置くシステムを作った。天皇を徹頭徹尾、政治的、かつ宗教的な「記号」とし「機関」としたのである。その意味で、美濃部達吉の天皇機関説は正しかったと言えるだろう。

 戦後の日本もまた、基本的に明治政府が作った天皇のあり方を継承している。GHQの占領下にあった昭和21年に、昭和天皇はいわゆる「人間宣言」を行ったが、日本国民にとって、天皇が実際のカミではないことは、ある種当たり前のことであったので、これはなんの意味もなかった。GHQは天皇が自分はカミではないと言えば、天皇をカミとすることはなくなると思ったのであろう。これは唯一神の文化では正しいが、日本のカミ観念はそうしたものではない。GHQは、この本質を理解していかなった。

 しかしこのことは、つまり、天皇その人の自由意思では、天皇であることも、天皇でなくなることも、どうにもならないということを表している。今回の天皇のご発言は、天皇は自由意思を持つことができるのかということを政府と国民に問いかけたという、日本史上、かつてなかった初めてのことなのだ。

 今回のご発言では、摂政をおくことはしないと言われた。天皇を退位したいと言われたのである。今上天皇の退位とは、皇太子の天皇即位を意味する。そして、次の皇位継承者は、現在の内親王になるということになる。つまり、女性天皇になるということである。この女性天皇に親王ができたとしても、この親王は女系天皇になるということになる。今回のご発言があってもなくても、これは直面する問題であったが、ご発言により、この問題がいっそうの現実さをもって現れることになった。

 歴史上、天皇は男系が継承してきた。もちろん、女性天皇はあったが、その子が天皇になることはなかった。ただし、一部例外はある。飛鳥から奈良時代にかけて、女性天皇の娘が天皇になったことはあった。しかし、これは中継ぎのようなものとして考えることができるだろう。基本、男系が可能であったのは、いうまでもなく子供の数が多かったからであり、つまりは一夫一妻制ではなかったからである。しかしながら、だからといって皇室に複数の皇后や中宮をおくことは、今の時代では不可能である。

 では、宮家の男子から皇位継承者をつれてくるとどうなるであろうか。皇室においては、公開される情報は統制されているが、宮家は一般市民となんら変わりはない。今の世の中は、大衆ネット社会である。宮家から誰それという男性皇位継承者をつれてきても、その者のこれまでの素行や言動が調べられて、その情報はネットですぐに広がるであろう。そうなると、天皇の権威は成り立たなくなる。

 江戸時代、日本人の大多数は、京の天皇というものをあまり知らなかった。知らなくても、別に困ることでもなんでもなかった。天皇制を日本全国、津々浦々、植民地である台湾、朝鮮に至るまで普及させたのは明治政府である。さらに、天皇その人と国体を同一のものとしたのは、昭和戦前期の政府であり軍部である。もともと、鎌倉に武家の政権ができて以来、天皇は京都の、あるいは西日本の権威であり、それ以上のものでなかった。尊皇思想が日本全体を覆うものになったのは、ある歴史的な過程がある。その時代は過ぎ去った。

 上皇もあり得るように皇室典範を改正するのが、自然の流れであると思う。

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August 12, 2016

『太陽の蓋』

 先日、『太陽の蓋』という311原発事故のセミドキュメンタリー映画を観た。福島原発事故の時、官邸の対応をセミドキュメンタリードラマにした映画だ。

 官邸担当の新聞記者を主人公とし、震災発生の時のシーンと、2012年や2013年などの後日の取材のシーンを挟み、あの時、官邸ではなにがどうなっていたのかを描き出すストーリーになっている。311の時の政府の対応の内幕については、いくつかのノンフィクション本が出ているが、映画では始めてのことではないかと思う。

 福島原発事故は有事であった。有事であるということは、めったにない出来事であったということだ。基本的に、政治システムや法律体制は「めったにない出来事」に即応できるようになっていない。なんていったって、「めったにない出来事」なのだから。

 しかしながら、「めったにない出来事」とは「絶対に起こらない出来事」ではない。「絶対に起こらない出来事」ではない以上、起こり得るのであり、実際に起きたのが311であった。だからこそ、政府は混乱した。混乱するのが当然だ。問題は、どのように混乱したのかということである。

 この時の政府の対応の不手際を、民主党政権だったからとか、菅直人総理大臣であったからとかいう見方がある。しかし、どの政党の政権であろうと、誰が総理大臣であったであろうと、政府の対応はこうしたことになっていたであろう。政府にせよ、東京電力にせよ、この出来事に対して十分に対応できるようになっていなかったのである。何度も言うが、これは「めったにない出来事」を「絶対に起こらない出来事」としてきたが故の当然の姿であった。

 菅総理がヘリで現地を視察したことや東電本店に乗り込んでいったことについて、今でも批判の声が多いが、この時の状況を考えれば、総理大臣がああしたことをせざる得なかったと言えるだろう。たまたま、この時、民主党政権であり、総理大臣が菅直人であったにすぎない。

 この映画は、あの時、官邸でなにがあったのかを伝えようとしているだけではなく、あの時、マスコミの大多数はいかに「正しく」報道をしていなかったということを伝えている。あの時の民主党政権の対応を十分なものであったとは言っていない。この映画は、あの時、こうしたことがあったということを伝えているだけである。そして、この対応が良かったのかどうかの判断は、この映画を観る側に委ねている。

 福島原発事故については、今でもわからないことが多い。なぜ最終的に大惨事になることはなかったのかということは今だに解明されていない。この映画でも、なにがどう明らかになることはなく、とにかくあの時、政府は混乱し、情報は錯綜していたということしかわからない。

 しかし、実際そうだったのであり、これが事実であったのだろう。必要なのは、この出来事を振り返り、なにがどうであったのかという筋道を明らかにするということだ。未確認な情報、伝えられていない情報が錯綜していたあの時から5年がたった今、俯瞰した場所から振り返ることは重要なことであり、必要なことだ。本来は、この映画だけではなく、もっと多くの映画や本がこのことを扱うべきことなのである。

 私も含め、あの出来事を実際に体験していない者たちにとって、311はテレビの向こう側の出来事でしかない。だからこそ、映像や活字を通して、あの出来事を「体験」し続けていく以外に方法がない。

 また、政府の対応についても、数々の証言があり、この映画で描かれた内容が「真実」なのかというと、必ずしもそうではない箇所もあるようであり、このへんはさらなる調査が必要なのであろう。

 原発とは、戦後日本の国策であり、その背後にはアメリカの存在がある。いち首相、いち政権でどうこうできるものではなく、実際に民主党政権で脱原発に転身することが試みられたが、その後、自民党政権でまたもとに戻ってしまった。それほど、原発政策は、与党がどうこう、野党がどうこうということを超えた、この国の根幹の一部になっていると言えるほど大きく深いものなのであろう。だからこそ、原発について考えるには、多面的な視点が必要だ。

 この『太陽の蓋』が興味深いのは、その多面的な視点を持っているということだ。この映画の外伝とも言うべきスピンオフドラマ映像がYoutubeに挙げられている。

 この映像は、今日の時点で3本挙げられている。

 スピンオフ映像1は、ある記者が、自らの取材によって注水を止めたのは官邸の指示ではなかったという結果を、マスコミはなぜ広く伝えようとしないのかを問うものになっている。

 注水を止めよというのは、官邸の指示ではなかった、では、誰がそれを指示したのは藪の中になっている。しかし、結局、「注水を止めたのは官邸の指示だった」というデマが広がり、世論の民主党政権退陣の雰囲気の後押しのひとつになっていった。そして、マスコミは後にあの時の官邸の状況を知ったとしても、それを報道することはなかった。

 スピンオフ映像2は、原発を誘致した側には、誘致をした理由があるということである。たんなる反原発では、原発をやめることはできないということだ。

 このスピンオフ映像2を見て、『太陽の蓋』はこれまで観てきた様々な反原発映画とは違うものを感じた。原発を誘致する側にも切実な理由があるというであり、それに対して「正しい」異議を唱えても伝わらない。原発による地域の経済安定と、原発の持つ危険性を知る作業員の複雑な心情が出ている。

 スピンオフ映像3は、原発事故が起こると、その被害規模は想像を超える程大きいということだ。原発は、これだけの大きな被害コストに見合うものなのかという根本的な議論を、我々はしてこなかった。政府と電力会社がいう安全神話により、本来の考えるべき原発の本当のコストを正面から考えることをしてこなかった。

 『太陽の蓋』は、本編である映画と、この3本のスピンオフ映像でできていると言ってもいいだろう。映画館で映画を観て、それで終わりなのではなく、何度も考えなくてはならない。そのことを、映画本編とこの3本のスピンオフ映像は教えてくれるのである。

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