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June 12, 2016

オバマの広島訪問

 5月27日、アメリカのオバマ大統領は広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花し、現職のアメリカ大統領が初めて被爆地・広島を訪問した。

 この広島でのオバマのスピーチが高く評価されているが、歴史に正面から向かい合うという観点から見れば、曖昧でぼかした内容だったと思う。この「曖昧でぼかした内容」にせざる得なかったということはよくわかるのであるが、この「せざる得なかった」というところに、結局、チェコの首都プラハで、核なき世界を提唱したオバマは、その政権下において、核兵器の削減なり廃絶なりの道を開くことができなかったということの原因がある。オバマ個人としては、原爆投下を謝罪すべきだと思っていたであろうし、今の世界の核兵器は即刻廃絶すべきだと思っているだろう。しかし、合衆国大統領としては、そうしたことはできなかったし、言えなかったのであろう。広島演説は、オバマの個人として、そして合衆国大統領としてのギリギリの妥協と葛藤の産物だったのだろうと思う。

 どこをどう考えても、二度に渡る日本への原爆投下は不必要なことだった。大日本帝国は、原爆投下があったから無条件降伏を受け入れたわけではない。アイゼンハワーもチェスター・ニミッツも、日本への原爆投下は必要なしと考えていた。もともと、原爆開発の目的は、ドイツが原子爆弾の開発に成功するかもしれないという間違った情報をもとに、ナチス・ドイツに対抗するためにアメリカは原爆開発に踏み切った。ドイツが降伏し、ヒトラーがいなくなったら、原子爆弾など無用になるはずであった。ところが、原子爆弾の開発に成功し、核兵器所有国になったアメリカは、国際社会、特にソ連に対して、その存在をアピールする政治的な意図があった。このために、広島と長崎に原爆が投下された。

 ただし、これも、その存在をアピールする政治的な意図があるとしたのも政治家の判断である。ルーズベルト大統領の副大統領がトルーマンではなくヘンリー・ウォレスであったならば、そのような判断することはなかったであろう。つまり、軍事作戦的な意味においても、政治的な意味においても、日本への原爆投下は不要なことであった。何度も強調するが、どこをどう考えても、二度に渡る日本への原爆投下は不必要なことだったのである。

 しかしながら、70年たった今日においても、アメリカの世論は原爆投下を間違っていたとは思っていない。原爆投下を間違っていたとは思っていないのは、アメリカ国内における教育がそのように教えているからであるが、その背景として、ふたつの理由があると思う。ひとつは核兵器を特別なものとは思わず、通常兵器のひとつ、もしくはその延長戦上のものとしてしか思っていないからだ。核兵器の破壊力の規模を認識することができていないのだ。このことは、被爆国の日本人ですら、核兵器の破壊力を「わかっている」わけではなく、「わかっている」のは、おそらくあの日の広島、長崎の人々や、戦後、第五福竜丸など核実験の被害を受けた人々なのだろう。さらに言えば、現在の核兵器の破壊力は、70年前のそれを遙かに超えるものになっている。核兵器は、その破壊力があまりにもすさまじいため、その破壊規模は人の想像力を超えるものがある。日本の場合、かろうじて「被爆国である」ということぐらいで、なんとか他の国とは受けとめ方が少し違うぐらいだ。しかも、日本国内でもそれも世代が変わり今日では薄れつつある。

 もうひとつの理由は、核兵器は、正しい意味での軍事兵器として扱われていないからである。今日、核兵器を最も多く所有しているのは、アメリカとロシアであるが、その数は双方とも5000発を超える。5000発を超える核兵器を持つ必要などどこにもなく、もはや軍事的合理性を欠いたものになっている。これはあまりにもバカバカしいことなので、双方とも例えば100発程度にしましょう。そういう会話すらなされないのは、もはや異常といってもいいだろう。この異常を異常と思わないようにしているのが軍産複合体だ。

 我々は核兵器という技術をもったことによって、正しい意味での軍事とはなにかということを考える能力を失ってしまった。核兵器があればなんとかなる、核兵器を使えば勝つことができる、相手が核兵器を持っているのだから、我々も核兵器を持つ必要がある、相手より数多くの核兵器を持たなくては自国の安全が保てない、等々の意識が、必要限度の軍事力を持つという判断での「限度」の枠をなくしてしまった。核兵器は、軍事合理性という論理の枠の中ではなく、人々の感情と資本主義の手の中にある。

 オバマの広島演説が語りかけた相手は「人類」であった。しかし、核兵器を所有しているのは人類ではなく、ある特定の国々である。具体的に言えば、ロシア、アメリカ、フランス、中国、イギリス、イスラエル、パキスタン、そしてインドであり、さらにここに北朝鮮が加わろうとしている。人類という規模の話ではない。核兵器は、いまだかつて一度も戦争の兵器としてではなく、その誕生の時から政治的意図で使われ、その後も政治と軍産複合体の手に委ねられてきた。この核兵器を人々の感情と軍産複合体の手から放し、軍事合理性の論理の枠に入れる必要がある。軍事合理性から考えて、これほどの数の核兵器を持つ必要があるのか、さらに言えば、そもそも、このグローバルな時代に我々は核戦争をするのか、核兵器を持つ必要があるのだろうかと考えていくことが必要なのだ。

 この先、核兵器の小型化は一段と進み、核兵器はさらに拡散するだろう。今後、テロ集団が核兵器を持つ可能性は高い。そうしたことについてどう対処するのか。こうしたことの方がもっと重要だ。

 かつてトルーマンは、核兵器を政治の愚かさもとに置き、そして使用した。オバマはそれを政治の理性のもとに置くべきだとしたのが広島演説だったのだと思う。

 もう1点、オバマの広島訪問について述べておきたいことがある。

 今回のオバマの広島訪問について、日本側が謝罪を求めなかったことが、今回の広島訪問の「成功」だったとする意見がある。謝罪を求めないことが、国家としての慎みと品格がある姿であり、謝罪を求めるのは、かたくなで意固地な態度をとっている連中なのであるとする風潮が、今のこの国にはある。ようするに、中国・韓国は品格卑しく疎ましいとする感情である。自国の歴史に正しく向き合わなくては、なにひとつ始まらないことはアメリカも日本も同じだ。

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