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June 2016

June 25, 2016

イギリスのEU離脱

 イギリスのEU離脱が国民投票で決定された。

 先日、『帰ってきたヒトラー』の映画を観て、ドイツの移民問題はかなり深刻になっていると書いたが、その数日後、こうして今度はイギリスの移民問題の深刻さを見ることになるとは思わなかった。

 正直に言って、今回のイギリスの国民投票は、僅差で残留になるだろうと思っていた。そして、離脱と残留は今後も論議になり、将来的には離脱の選択なるだろうと考えていた。最終的には、イギリスはEUを離脱するにしても、もっと時間をかけて慎重に選択していくだろうと思っていた。なぜ離脱をするだろうと思っていたかというと、イギリスはEU加盟の時も、加盟に抵抗していたという背景があることと、EUのやり方はどちらかというと大陸的であり、イギリス本来のやり方に合わないことが多かったからだ。もちろん、そうした多少の無理があっても、EUに加盟してからはイギリス経済はEU市場の中で大きく発展してきた。

 ところが、今回の国民投票で即決とも言うべき姿で離脱になった。もちろん、僅差での離脱であり、国民の約半分は残留支持なのである。しかし、離脱決定となると、残留に戻ることはできない。

 この決定を受けて、イギリスの世論は大きく分断している。

 英下院のサイトには、投票やり直しを求める請願への署名が殺到して、サイトがダウンしたという。残留支持の筆頭都市とも言うべきロンドンでは、市民らを中心に約200人が市街地をデモ行進し、欧州の連帯を呼び掛けたという。デモの人々は、離脱派の勝利により、排外主義や極右思想が勢いづきかねないと訴えているそうだ。

 その一方で、EUに加盟しても、なんの利益はなかったと考えている人々も多い。EUに加盟したことで、イギリス経済は大きく成長したが、それが中間層以下も含めた国民全体の利益になっていない。むしろ東欧諸国の人々が、同じEU加盟国内ということでイギリスに移住し、低賃金労働に従事することで、イギリス人の労働を奪い、税金はほとんど納めないと思われている。そうした移民だちに、イギリスの手厚い社会保障が施されるということに、国民の不満は高まっていた。

 では、EU離脱で移民問題や格差問題が解決するのだろうかというと、そんなことはない。EU離脱を決定したということで、国内の外国移民者を強制送還させるとでもいうのであろうか。イギリスは、もはやイギリス人だけの社会ではない。実際のところ、イギリスはEU、さらに言えば世界経済全体の中にいるのに、気分だけの「イギリス独立」や「Britain First」は幻想以外のなにものでもない。

 だからこそ、移民問題や格差問題は重要な問題なのだ。私たちは、社会を社会としてたらしめているものに、常に向かい合わなくてはならない。貧困はその者たちの努力が足りないかのような考え方は、やがて社会を滅ぼすのである。

 今の時代は、政治の現状よりも、実際の社会のグローバリゼーションの方が動きが早い。移民問題にせよ、格差問題にせよ、急速な社会の動きに政治がついていけていない。EUの未来に、イギリスの未来があると思われていない。若い世代には、イギリス一国ではなく、ヨーロッパ全体が活躍の場となる、そうした国境のないヨーロッパの未来を信じている者が多いが、国民の大半にはそうした意識はない。英国女王も離脱派だったという。

 おそらくイギリス国民のほとんどが望むことは、EUに加盟し続けつつ、移民問題や格差問題を解決させるということであろう。しかしながら、政治は、本気で移民問題や格差問題を解決しようとしていないと国民は思っている。だからこそ、この国民投票の結果になったのであろう。イギリス経済が混乱し、ポンドの価値が下がり、株価が低迷してもいいから、とにかくEUから離脱したいということだ。政治も経済も、結局のところ、社会という枠の中にある。今回のイギリスの国民投票でのEU離脱は、この世には政治的判断や経済合理性ではない国民感情というものがあることを、まざまざと見せられた出来事であった。

 これで、EU残留派が多いスコットランドや北アイルランドは、独立の動きへさらに大きく傾くだろう。

 そして、このイギリスの出来事は、世界に波及していく。ヨーロッパでは、今後ますますドイツの影響力が高まっていくだろう。しかし、ドイツ国内も含め、ヨーロッパ各地の右派勢力は、イギリスのこの決定を歓迎し勢いづいている。

 アメリカは、かつての宗主国イギリスを通してヨーロッパへの発言力を持っていたが、これでその力も小さくなっていく。また、大統領選挙では、トランプが勝利する可能性が高くなったとも言える。ヒラリーが本気でサンダースが掲げた政策を取り込むことをしなければ、サンダース支持者はトランプに投票するか、あるいは投票を棄権する可能性は高い。しかしながら、体制側べったりのヒラリーにはそれはできないだろう。かくて、アメリカもまた政治的な混乱へと突き進んでいく行く。

June 19, 2016

『帰ってきたヒトラー』

 『帰ってきたヒトラー』という映画を観た。

 現代のドイツにヒトラーがタイムスリップするというこの映画は、コメディ映画だと思ってたが、産経新聞でこの映画の紹介を読むと「コメディーで始まった物語が風刺劇に変わり、最後は悲劇で終わる。」という。おや、これは、ただのコメディではないのかなと思い、ネットで少し調べてみると、原作の小説があって、ドイツではベストセラーになったという。コメディなのであるが、実はかなりシリアスな内容を持った作品のようだ。これは観なくてはと思い、早速観てきた。

 この映画は、実際の今のドイツの政治状況とか、映画『ヒトラー最後の12日間』のパロディとかもあって、ブラックジョーク満載でおもしろかった。アドルフ・ヒトラーは、1945年に地下壕で自殺し、その遺体はガソリンをかけて燃やされた。この映画は、そのヒトラーがベルリンのとある公園で目覚めるシーンから始まる。そこは、2014年のベルリンであった。

 なにしろ、ヒトラーその人、本人が、現代のドイツに現れるのである。ところが、人々は、この人物をヒトラーの物まねコメディアンとして扱い、当然のことながら本物とはまったく思わない。ヒットー本人が「私はヒトラーである」と言っているのに、周囲の人々は、この人物をただの芸人としてしか思わない。このへん、小松左京のSF小説で、ある日突然、宇宙人が日本にやってくる作品があるが、映画を観ていて、小松さんのこの作品を思い出した。現代人は、宇宙人が現れようが、ヒトラーが現れようが、まったく驚くこともせず気にしないのである。

 興味深いのは、このヒトラーは、ドイツの敗北が濃厚になり、重度のパラノイアと左手が震えるパーキンソン病になっていた第二次世界大戦末期のヒトラーではなく、ナチ党を結成し、1933年の選挙で首相に選ばれた当時のヒトラーだということだ。そもそもヒトラーその人なのだから、自分かつてやってきたことを、再び2014年のドイツでやろうとしても不思議ではない。

 ヒトラーはドイツ各地をめぐり、人々の抱えた不満に耳を傾け、聞き入る。民衆がなにを求めているのかを、実際に民衆と対話して知ろうと努める。このシーンは、ドキュメンタリータッチになっていて興味深い。人々が何を不満に感じているのか、その実体を素直に調べ、民衆の声に耳を傾け、そして巧みな演説で人々の心をつかむという政治を、ヒトラーという人物は持っていることがよくわかるシーンになっている。

 普通であれば、オレは総統なんだと偉ぶり、民衆を平気で「処分」することができる人物である。その男が、今自分が置かれている2014年という状況に見事に対応し、ここから再度、政治権力を手中にするために、民衆の心をつかむことを一からやり直す。それほど、この男は政治家として優れているということであり、この偏執狂的と言える程の前向きな思考と柔軟な発想の姿に、ヒトラーは人々を惹きつけるこういう人物だったんだろうなと思わせる説得力がある。

 テレビのバラエティ番組で、このヒトラーが演説をするシーンがある。ヒトラーがしゃべろうとしていても、テレビ局内の番組の聴衆は騒いでいる。この騒いでいる聴衆を前にして、彼は黙ってただ立っている。やがて、ヒトラーの沈黙に耐えかねるように聴衆が静まると、ヒトラーはゆっくりと話し始める。この演説の始まりのやり方は、ヒトラーの演説の方法だった。こういうシーンひとつをとっても、このヒトラーは、あのヒトラーなのだと思わせるようになっている。

 そして、このヒトラーは、現代の人々の声を聞いていくと、この時代にも、移民や失業、貧困、格差問題があることを知っていく。戦前のドイツと今のドイツで、ヒトラーが主張していることが重なるのだ。この映画は、それを難民排斥デモのニューズ映像などを交えて表現している。ここで、この映画の本当の意味を知る。

 ヒトラーはネットで爆発的な支持を得て、やがて政治家たちも、彼が人気者になるにつれ、彼に接近してくるようになる。

 このヒトラーの本性を見抜くのは、かつて家族が収容所へ送られ殺された、今は痴呆症になっているユダヤ人の老婆である。老婆は言う。あの頃も人々は最初はヒトラーを笑っていた、と。

 ヒトラーは遠い歴史の忘却の彼方に消え去ったが、民族主義や排他主義の意識は今でもなくなっていない。今も人々の心の中にある民族主義は、巧みな政治指導者が現れれば簡単に表に出てくる。大衆扇動やポピュリズムに対して民主主義はまったくの無力であるように、ファシズムに対しても民主主義は無力なのだ。ヒトラーをなくしても、またヒトラー的なるものが現れる。ヒトラーは何度でも帰ってくる。ヒトラーがいたからドイツがああなったのではなく、人々がヒトラーを登場させたのだと、この映画はパロディで娯楽映画でありながら、そのことを正面から堂々と言っている。

 ドイツでは、ヒトラーやナチズムについて、おおっぴらに語ることができない雰囲気が今もあるという。この映画、(というか原作の小説は)、そうした今のドイツで、しかも、あれはナチスの戦争犯罪であったという歴史認識が一般化しているドイツで、こうしたことを言っているということに意味がある。

 この物語の中で歴史学者は出てこなかった。歴史学者ならば、ヒトラーの第三帝国が結局どうなったのかを論じることができる。極端な民族主義の末路がどうなるかを語ることができる。ただし、それはヒトラーに語ることはできても、人々に語り得るかどうかということなる。

 日本では政策として移民を受け入れることをしていない。そのためもあって、日本ではヨーロッパの移民問題をなかなか理解できないところがある。しかしながら、今のヨーロッパの移民問題はかなり大きい。自分たちの生活圏に、イスラム教徒の集団が「はいりこんでくる」という感覚はかなり深刻なものになっている。この映画のラストは、この帰ってきたヒトラーを支持し、極右傾化していくドイツである。

 この映画は、もちろんフィクションである。フィクションであるからこそ表現し得ないものを表現し、そして実は、それが最も真実を現しているという文芸の持つ重要な力を現している。おそらく、帰ってきたヒトラーに対抗し得るものは、こうした文芸の力なのだろう。

 このような作品を日本で作るとなると、どうなるだろうか。「帰ってきた東條英機」であろうか。しかし、東條英機は、演説は上手くなくカリスマ性も能力もない、ただの軍事官僚だった。戦前、戦中を通して、日本国民は東條英機を支持したわけではない。では、誰だろう。帝国陸軍そのものだろうか。しかし「帰ってきた大日本帝国陸軍」では、これもまた支持する人は少ないだろう。国家総動員体制の確立と大陸に侵攻し資源を獲得することは、陸軍軍務局長の永田鉄山が考えていたことであったが、今のグローバル経済の時代ではこんな考えは通用しない。

 日本が戦争に突き進んでいった背景のひとつに、世論があり、国民の気分があったことは事実である。それを煽ったのは、軍部というよりもメディアであったことも事実である。それでは、誰が、あるいはなにが、その中心的な指導的役割を果たしていたのかということになると、具体的な人物が挙げられない。大東亜戦争は、一人のカリスマ的指導者が現れ、国民がそれを支持して始まった戦争ではなかった。そして、この状態は、ドイツがそうであるように、日本もまた戦後70年たっても変わっていない。だからこそ、日本の状況は、ドイツ以上に複雑でより深刻なのだ。

June 17, 2016

人工元素「ニホニウム」

 理化学研究所(理研)が、113番の新しい元素「ニホニウム」を発見したという。

 これのなにが凄いのか、さっぱりわからない。

 これは自然界に存在する元素ではない。この新元素は、加速器で83番の元素「ビスマス」に、30番の元素「亜鉛」を高速で衝突させて核融合反応で作る人工元素であるという。しかも、その存在時間は0・002秒だという。これが宇宙生成から今日に至るまで、自然界に存在した可能性は著しく低い。

 この発見が、物質の謎や宇宙の解明につながるわけではなく、ましてや新エネルギーや新素材などといった工学的な応用につながるものでもない。この人工元素の発見に理研が費やした費用は、東京新聞によると「実験で使った費用は、機器の開発費が約三億円、延べ五百五十日間の実験費用が約三億円、消耗品に一億円弱の計七億円弱だった。新元素の検出に使う半導体は一枚約百万円」とのことだ。

 これはなにも理研がどうこうというものではなく、今の科学研究はこういうものになっている。本来、科学は自然界を相手にするものであった。ところが、今の科学は、高価なお金がかかる実験環境の中で、人工的な操作を行って「発見」をするものになっている。新元素の「発見」は、こうしたやり方で、世界各国で競い合っているのが現状である。理研は、次の新元素の「発見」のために、そのための次期装置に約40億円かかることを文科省に申請しているという。

 もちろん、こうした人工的に元素を作ることが、自然界のさらなる解明につながることがあるかもしれない。しかし、その一方で国の科学研究予算には限りがある。どんな研究であっても、ふんだんにカネが使えるほどの予算はこの国にはない。

 国がある目的と意図をもって、高額の資金を投入し、そして成果を上げるという構想と計画をもって遂行されるのが現代のビックサイエンスである。この新元素に「ニホニウム」という名前がついたのは、日本人が日本国家の事業で「発見」したものであるという意識があるのであろう。これだけのカネと人材を投入しなければ「発見」できないものであるのだから、それは当然のことなのかもしれない。

 しかしながら、本来、自然には国家などといった人の区分けはない。物理現象の仕組みは、全宇宙で共通である(もちろん、細かく言うといろいろあるが)。国が巨額の資金を投入しなければできない研究であり、その成果に国の名前をつけるということと、自然科学の本来のあり方とはどうも合わないように思う。理研は、これを基礎研究と言っているが、これは古典的な意味での基礎研究や基礎科学ではない。

 もちろん、そうしたひと昔もふた昔も前の科学観では、今の時代はやっていけないのであろう。

 しかし、私の個人的意見で言えば、これは自然科学や工学とは別の次元の話なのだろうと思う。国の予算配分について言えば、初等教育から大学に至るまでの理科教育、科学教育の充実や、社会人への科学知識の普及など、国が予算を使ってやるべきことは他に数多くある。

June 12, 2016

オバマの広島訪問

 5月27日、アメリカのオバマ大統領は広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花し、現職のアメリカ大統領が初めて被爆地・広島を訪問した。

 この広島でのオバマのスピーチが高く評価されているが、歴史に正面から向かい合うという観点から見れば、曖昧でぼかした内容だったと思う。この「曖昧でぼかした内容」にせざる得なかったということはよくわかるのであるが、この「せざる得なかった」というところに、結局、チェコの首都プラハで、核なき世界を提唱したオバマは、その政権下において、核兵器の削減なり廃絶なりの道を開くことができなかったということの原因がある。オバマ個人としては、原爆投下を謝罪すべきだと思っていたであろうし、今の世界の核兵器は即刻廃絶すべきだと思っているだろう。しかし、合衆国大統領としては、そうしたことはできなかったし、言えなかったのであろう。広島演説は、オバマの個人として、そして合衆国大統領としてのギリギリの妥協と葛藤の産物だったのだろうと思う。

 どこをどう考えても、二度に渡る日本への原爆投下は不必要なことだった。大日本帝国は、原爆投下があったから無条件降伏を受け入れたわけではない。アイゼンハワーもチェスター・ニミッツも、日本への原爆投下は必要なしと考えていた。もともと、原爆開発の目的は、ドイツが原子爆弾の開発に成功するかもしれないという間違った情報をもとに、ナチス・ドイツに対抗するためにアメリカは原爆開発に踏み切った。ドイツが降伏し、ヒトラーがいなくなったら、原子爆弾など無用になるはずであった。ところが、原子爆弾の開発に成功し、核兵器所有国になったアメリカは、国際社会、特にソ連に対して、その存在をアピールする政治的な意図があった。このために、広島と長崎に原爆が投下された。

 ただし、これも、その存在をアピールする政治的な意図があるとしたのも政治家の判断である。ルーズベルト大統領の副大統領がトルーマンではなくヘンリー・ウォレスであったならば、そのような判断することはなかったであろう。つまり、軍事作戦的な意味においても、政治的な意味においても、日本への原爆投下は不要なことであった。何度も強調するが、どこをどう考えても、二度に渡る日本への原爆投下は不必要なことだったのである。

 しかしながら、70年たった今日においても、アメリカの世論は原爆投下を間違っていたとは思っていない。原爆投下を間違っていたとは思っていないのは、アメリカ国内における教育がそのように教えているからであるが、その背景として、ふたつの理由があると思う。ひとつは核兵器を特別なものとは思わず、通常兵器のひとつ、もしくはその延長戦上のものとしてしか思っていないからだ。核兵器の破壊力の規模を認識することができていないのだ。このことは、被爆国の日本人ですら、核兵器の破壊力を「わかっている」わけではなく、「わかっている」のは、おそらくあの日の広島、長崎の人々や、戦後、第五福竜丸など核実験の被害を受けた人々なのだろう。さらに言えば、現在の核兵器の破壊力は、70年前のそれを遙かに超えるものになっている。核兵器は、その破壊力があまりにもすさまじいため、その破壊規模は人の想像力を超えるものがある。日本の場合、かろうじて「被爆国である」ということぐらいで、なんとか他の国とは受けとめ方が少し違うぐらいだ。しかも、日本国内でもそれも世代が変わり今日では薄れつつある。

 もうひとつの理由は、核兵器は、正しい意味での軍事兵器として扱われていないからである。今日、核兵器を最も多く所有しているのは、アメリカとロシアであるが、その数は双方とも5000発を超える。5000発を超える核兵器を持つ必要などどこにもなく、もはや軍事的合理性を欠いたものになっている。これはあまりにもバカバカしいことなので、双方とも例えば100発程度にしましょう。そういう会話すらなされないのは、もはや異常といってもいいだろう。この異常を異常と思わないようにしているのが軍産複合体だ。

 我々は核兵器という技術をもったことによって、正しい意味での軍事とはなにかということを考える能力を失ってしまった。核兵器があればなんとかなる、核兵器を使えば勝つことができる、相手が核兵器を持っているのだから、我々も核兵器を持つ必要がある、相手より数多くの核兵器を持たなくては自国の安全が保てない、等々の意識が、必要限度の軍事力を持つという判断での「限度」の枠をなくしてしまった。核兵器は、軍事合理性という論理の枠の中ではなく、人々の感情と資本主義の手の中にある。

 オバマの広島演説が語りかけた相手は「人類」であった。しかし、核兵器を所有しているのは人類ではなく、ある特定の国々である。具体的に言えば、ロシア、アメリカ、フランス、中国、イギリス、イスラエル、パキスタン、そしてインドであり、さらにここに北朝鮮が加わろうとしている。人類という規模の話ではない。核兵器は、いまだかつて一度も戦争の兵器としてではなく、その誕生の時から政治的意図で使われ、その後も政治と軍産複合体の手に委ねられてきた。この核兵器を人々の感情と軍産複合体の手から放し、軍事合理性の論理の枠に入れる必要がある。軍事合理性から考えて、これほどの数の核兵器を持つ必要があるのか、さらに言えば、そもそも、このグローバルな時代に我々は核戦争をするのか、核兵器を持つ必要があるのだろうかと考えていくことが必要なのだ。

 この先、核兵器の小型化は一段と進み、核兵器はさらに拡散するだろう。今後、テロ集団が核兵器を持つ可能性は高い。そうしたことについてどう対処するのか。こうしたことの方がもっと重要だ。

 かつてトルーマンは、核兵器を政治の愚かさもとに置き、そして使用した。オバマはそれを政治の理性のもとに置くべきだとしたのが広島演説だったのだと思う。

 もう1点、オバマの広島訪問について述べておきたいことがある。

 今回のオバマの広島訪問について、日本側が謝罪を求めなかったことが、今回の広島訪問の「成功」だったとする意見がある。謝罪を求めないことが、国家としての慎みと品格がある姿であり、謝罪を求めるのは、かたくなで意固地な態度をとっている連中なのであるとする風潮が、今のこの国にはある。ようするに、中国・韓国は品格卑しく疎ましいとする感情である。自国の歴史に正しく向き合わなくては、なにひとつ始まらないことはアメリカも日本も同じだ。

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