『日本人はどこから来たのか?』
海部陽介著『日本人はどこから来たのか?』(文藝春秋)を読んだ。
我々、現生人類、ホモ・サピエンスは、約10万年前に、その発生の地であるアフリカを出た。その後、4万8000年前に、我々の祖先は、ユーラシア大陸でヒマラヤ山脈をはさんで南北に別れて拡散し、約1万年後、東アジアでその双方は再会することになる。この祖先たちの中の一群が、対馬、沖縄、北海道の3つのルートから日本列島にやってきた。この本は、その壮大な人類史の物語を、最新の人類学研究に基づき、世界各地の遺跡の年代比較やDNA分析、石器の比較研究などを通して明らかにしたものである。
アフリカを出た猿人の末裔は、現生人類だけではない。現生人類がアフリカを出る前に、ホモ・エレクトスやホモ・ハビリスらの原人とネアンデルタール人などの旧人がアフリカを出て、世界各地に生存していた。ただし、これは今現在わかっている限りにおいてであり、世界の各地で原人でも旧人でも現生人類にも属さない者たちの人骨化石が発見されている。ようするに、まだよくわかっていない。
また、原人や旧人がアフリカを出て、世界各地で進化を遂げて現生人類になったとする説があるが、今日では、遺伝学や化石形態学、考古学の観点から、この説は否定されている。我々の祖先は、アフリカを出た後、先にアフリカを出た原人や旧人と遭遇し、ネアンデルタール人と交わり、世界の各地へと広がっていったのである。
では、我々の祖先は、どのようにして世界各地へと広がっていったのであろうか。アジアへの拡散については、欧米の学説では、ユーラシア大陸の南側のインド洋に面した海岸ぞいに移動していったということになっているという。これに対する反論として、インド洋沿岸域に、初期の海岸移住を裏付ける遺跡が見つかっていないということが挙げられる。しかしこれは、その当時より現在は海面が上昇しているため、それらの遺跡は海の中に沈んでしまい、だから発見されないのであるとしている。
この本の著者は、そうなのかもしれないとしながら、一方で、海岸沿いの移動が始まったのが7万年前で、現生人類の内陸部での遺跡は5万年前のものである、であるのならば、この2万年間、海岸から内陸へ移動することがなかったということになる、はたしてそんなことがあり得たのであろうかと疑問を感じ、年代測定や解釈がしっかりしている大陸各地の遺跡を改めてマッピングしていった。
すると、その調査から、7万年前に一度目の海岸沿い移動があり、その後、5万年前に内陸での移動があったという従来の説とは異なり、ユーラシア大陸各地への移動は、一度に行われたのではないかという仮説が浮かび上がってきた。アジア全域、ヨーロッパも含めて、祖先たちのユーラシア大陸全体への拡散は、爆発的な一度のイベントだったのである。
その祖先たちの中で、ユーラシア大陸のヒマラヤ山脈を北方へ進んだ一派は、極寒の地域で生きる文化を発達させ、ヒマラヤ山脈を南方へ進んだ一派は、海洋を渡る航海術を発達させた。この二つのグループが日本列島で融合したのであると著者は論じている。
日本列島にやってきた順番は、最初が対馬ルート、次が沖縄ルート、最後が(当時、大陸と地続きであった)北海道ルートであるという。ところが、最初のルートであった対馬ルートは、この時代においても海があった、つまり、彼らは対馬海峡を渡ってきたということであり、ということは航海技術をもった集団だったということだ。それでは、彼らは航海技術を持っている、ヒマラヤ山脈を南方へと進んだ一派の人々なのかというと、石器技術等からすると、北方へ進んだ一派の人々の文化を持っていたという。
ここで著者が出した結論は、かつてヒマラヤ山脈を北方へ進んだ一派と南方に進んだ一派は、それから一万年後に東アジアのどこかで再会し、その人々が海を越えて日本列島にやってきた最初のヒトであったということである。この列島には、原人も旧人もおらず、現生人類がヒトで最初の居住者であった。
沖縄ルートの人々は、対馬ルートの人々よりも、よりヒマラヤ山脈南方派に近い人々であったであろう。最後の北海道ルートの人々は、これはヒマラヤ山脈北方派であったに違いない。つまり、様々な人々と文化が、日本列島で融合したということである。
また、我々の祖先たちは、それまでもそうであったように、この列島に来る時も、居住を目的とした移住であった。つまり、男女のある一定の人数での集団移動であったということだ。まず探検家のような者たちが、この列島を探索し、住むのに適した場所であることを確認した上で、集団「移民」を行ってきたのだろう。
ただし、これもまた現生人類とひとことで言っても様々な一派があり、例えば北海道には後にアイヌと呼ばれる人々以外にも、オホーツク人などといったアイヌとは違う文化の人々もやってきており、この列島にやってきた人々を詳細に見ていくと、縄文文化とは異なる様々なグループがあったのである。
沖縄ルートでは、3万年前頃から台湾島から沖縄列島に人々が渡っていたという。この本の著者は、国立科学博物館の研究員である。現在、国立科学博物館では、この本の著者たちが中心になって「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」というプロジェクトが行われている。3万年前の舟を再現して、台湾から沖縄列島へ実際に航海を行ってみるというプロジェクトだ。
国立科学博物館のWEBページによると、現在、クラウドファンディングによる資金集めは完了して、実際に実験航海を行う準備中のようだ。沖縄列島の向こうに九州がある。3万年前に台湾から沖縄列島に行った人々が、やがて九州へと渡り、本州へと進んでいった人々である。国立科学博物館のプロジェクトは、それを明らかにするものだ。
さらに時代が下り、日本列島に朝鮮半島や大陸から幾度も人々が(これもまた集団「移民」レベルの数の規模で)やってきて、彼らが先に日本列島にやってきた人々と交わることにより、ここからやがて「日本人」が誕生する。
大和盆地にヤマト王権が出てくる以前から、この日本列島には人々は暮らしていたのだ。この列島に現生人類が住み始めてから、本州島の近畿地方の大和盆地にヤマト王権が出てくるまで、ざっと4万年以上の時間がある。大和盆地にヤマト王権が出て、今日の今に至るまで約2千年の時しかない。つまり、約20倍以上もの時間が、大和時代以前にあったということになる。彼らもまた「日本人」であり、彼らの歴史もまた「日本の歴史」なのである。
そして、こうした視点を持つことは、単に「日本」や「日本人」についてだけではなく、広く「人類」についての認識を持ち、深めることへとつながっている。
この本の著者は、あとがきの中でこう書いている。
「本文では、最初に日本列島にやってきた人々の血が、部分的に私たちに受け継がれているとも書いた。その裏には別な意味があることも、述べておかねばならない。それは人類史の中では集団の移動と混血、文化の伝播と相互作用が繰り返されているため、事実上"純粋な民族"や"純粋な文化"は存在しないということだ。アイヌ、大和民族、琉球民族、そして朝鮮民族や漢民族などの区分があるが、これらも長い歴史の中で互いに混血しあっており、その間はゆるやかに連続している。同じホモ・サピエンスの集団どうしなのだから、それはそういうものだろう。
だが現実社会の中では、個々の民族は明確に独立した単位で、時代的に不変で固定的と誤解されることがあるし、その上で特定の民族の優越性を唱える声や政治的意図も根強くある。そうした行為は不必要な軋轢を生むだけで、人類にとって利益のあるものではない。
だから私は、より多くの一般市民が、人類史を学ぶことを通じて"民族"というものが、政治や言語そして人々の認識といったもので人工的に規定されている仮の線引きにすぎないということを理解することが重要だと思う。それによって優劣という意識が薄まり、他の人々を尊重する空気が国際的に醸成されることを願っている。」
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