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April 2016

April 29, 2016

自然のことはわからない

 まず、熊本に地震が起こるとは思っていなかった。元々、近い将来、大規模な地震が必ず起こるとされている地域は、関東と東海、南海のエリアであって、阪神・淡路も東日本大震災も想定外の場所だった。

 次に、こうした震度7クラスの地震が二回も起こり、その後、余震が続く状態になるという「地震」があるということがわかっていなかった。わかっていなかったからこそ、4月14日に、熊本県益城町で震度7を観測した地震が起きた時、気象庁はこれを本震としていた。

 ようするに、地震について、わかっていないことがあまりにも多いのである。熊本地震について、つくづく思うのはそのことだ。自然について、わからないことが多すぎる。数多くの人々が述べているように、今の日本の自然災害は、これまでになった現象が数多く起こっている。今の自然科学では、わかっていることより、わからないことの方が多いのだ。

 ここで、小松左京の小説『日本沈没』を思い出す。この物語の中で、田所博士が言っていたことは、われわれは地球についてわずかなことしかわかっていない。過去の経験則が、この先も通用するとは限らないということだ。

 田所博士はこう語っている。

「人類が、科学的に地震の研究観測をはじめてから、まだ百年もたっておらん。地球全体を科学的に調査し始めてから、これまた一世紀あまり、本格的な、地球大規模の観測が行われはじめたのは、わずかに1950年代以降だ」

「現世人類が生まれてからまだ数万年しかたっておらん。過去何千万年から何億年の間に、どんな突拍子もないことが起こったか----経験的には誰も知らんのだ。そのうえ地殻変動の痕跡だって、まだ全世界くまなく調べられたわけじゃない。地球の自転軸が動くことや、地球磁極が四十万年周期で逆転してしまうことや、現在地磁気が減少の一途をたどり、あと二千年ぐらいで、地磁気がまったくなくなって、地上生物は宇宙線---とくに太陽フレアから噴出する高エネルギーの荷電粒子の直接の被爆をうけるというようなことは、まったくここわずか十年そこそこの間に、地球の調査によってわかったのだ。---われわれは、まだ、この地球について、爪先でひっかいたぐらいのことしか知らんのだよ」

 この田所博士の言っていることがよくわかる。そういうことが、今の日本列島で起きているのだ。

 過去に一度も起こったことのないようなことが、はたして起こりえるんですかという問いに対して、田所博士はこう答える。

「歴史というものは、そういうものだ」「単なるくりかえしではない。まったく新しいパターンがあらわれる。----それは諸現象の進化相というやつだ」

 予測できないことを、先生は予測なさろうとしているんですかという問いに対して、田所博士はこう答えている。

「完全には予想できんが、可能性はある」「ただ----こういうことは、はっきりさせておかねばならん。われわれの、短い観測期間から得られた貧しく不完全な知識にもとづいて、これこれのことは、絶対に起こり得ないと断言することはできない、ということだ。これまでは、M8・6以上の地震は起こらなかったかもしれん。これまでの知識にもとづいた理論によるなら、それ以上の地震は、起こり得ない、と考えられるかもしれん。しかし----これから、過去において、一回も起こらなかったようなことが起こるかもしれない」

 4月14日の地震を、当初、気象庁はこれを本震としたのは、間違ったことではない。これまでの知識にもとづいた理論によるのなら、あれは「本震」だったのである。しかしながら、これまでの知識そのものが、地球史のタイムスパンで言えば、つい最近の出来事から得られたものでしかないのだ。

 4月23日のニュース専門ネット局ビデオニュース・ドットコムの「日本の地層に何が起きているのか」は、大変興味深かった。われわれは、地震について、よくわかっていないのである。

 阪神淡路大震災にせよ、東日本大震災の震源地にせよ、その時のハザードマップでは、それほど危険とはされていなかった。今回の熊本も、特に危険性が高い地域とは見られていなかった。しかし、地震が、それも、これまでの地球科学が初めて経験する地震が起きたのである。

 断層地図や地震ハザードナップは「これまでわかっていること」であり、断層地図や地震ハザードナップで示されていないから活断層は「ない」とか、震災の危険は「ない」ということではない。示されていないのは「まだわかっていない」「調査をしていない」だけのことなのである。

 熊本地震の被害が大きいのは、熊本県は大規模地震が起こるとは思っていなかったからだ。現代社会の暮らしは、それなり量のモノとインフラを必要とする。そして、それらの「それなり量のモノとインフラ」がシステムになって機能していなければならない。

 大規模災害の被害とは、自然災害そのものが起こした被害以上に、都市機能のシステムへの被害の方が大きい。熊本県内には3万人以上の避難者がいるが、県が提供する仮設住宅などは4000とか5000の数である。これでは、とうてい間に合わない。3万人なり4万人なりの避難者が出るということは想定していなかった。

 今の時代は「想定していない」ことは、「ないこと」「存在しないこと」「起こらないこと」になる。しかし、その想定は、不完全な知識の上に成り立つ想定なのである。自然科学というものは、そういうものであり、そういうものである上での想定である、ということを理解する必要がある。

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April 24, 2016

「パナマ文書」

「通称「パナマ文書」で注目されている租税回避地(タックスヘイブン)、英領ケイマン諸島に対する日本の金融機関の投資や融資の残高が、2015年12月末時点で5220億ドル(約63兆円)に上ることが国際決済銀行(BIS)の公表資料で分かった。「節税」目当てに租税回避地を拠点とした金融取引が拡大しているようだ。 」(毎日新聞 2016年4月15日)

 実際のところ、富裕層の個人や企業がタックス・ヘブンを使って節税対策をするということは、よく知られたことであり、むしろ当然とも言っていいことであった。ようするに、金融の世界は「合法的」に富裕層に有利なようにできているのである。

 タックス・ヘブン(租税回避地)に財を置くということは、国家はその財に対しての税収ができないということだ。国家の税収は、軍事にも使われるが、教育や福祉・医療の財源である。本来であれば、その国に納められるべき税収が納められない、ということの被害を最も大きく受けるのが途上国である。なぜ貧しい国はいつまでも貧しいままであるのかの理由のひとつがここにある。もちろん、これは先進国も同様で、富裕層が払わない税金の負担は、富裕層ではない人々が大半を占める一般国民が負うことになる。かくて、社会格差というものはこうして拡大していくのである。

 何度も強調しなくてはならないことは、税金を払う側が税金として支払う額をなるべく低くしたいとする節税対策は間違ってないことであり、そのひとつとしてタックス・ヘブンを利用するということは法的にも間違っていないということである。しかしながら、「パナマ文書」で明らかにされたような、あまりにも大きな金額になると倫理的には間違っている。これが通るとなると、公共社会が成り立たなくなる。

 もう1点、重要なことは、こうしたタックス・ヘブンを使っている企業にも、他のそうでない企業同様に政府からの融資や財政援助を受けているということである。富裕層についても、もちろん「国民」としての扱いを、富裕層ではない人々同様に受けている。しかしながら、税金は支払わないということである。これは、どう考えてもおかしなことだ。

 資本主義には「公」という概念がない。その価値観には、基本的にはカネ目当て、カネ儲けしかない。このことは、産業資本主義が本格化し始めた19世紀から初期の社会主義思想家たちによって言われてきた。資本主義は社会格差を広げ、公共社会を崩壊させるということは、産業資本主義が誕生した時から言われ続けてきたことであった。ところが、この200年にわたって、先進国は資本主義をやめることはなく、むしろ資本主義が全世界を覆うようになった。

 ただし、この200年、特に20世紀を見ていると、単純な富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという構図だけでは理解できないことがある。大量消費社会ができたということだ。国家の中の中間層を富ませることによって、国全体が豊かになるという構図である。これを可能にしたのは、20世紀には世界規模の総力戦の戦争があったからである。

 総力戦の戦争では、一部の人々や階層だけが力をもって、それで戦争を行うのではなく、国民全員が戦争に参加し国家全体の国力をもって戦争を行う。この計画経済システムが、第二次世界大戦が終わってもそのまま続けられ、このことから20世紀後半の欧米や日本では国民全体が豊かになるという社会が成立した。

 このシステムが崩れ始めるのが1970年代である。1970年代から、欧米や日本は、福祉・公共サービスなどを縮小し、公営事業を民営化し、国内経済に外資を導入し、政府による金融業界の監視を緩くし規制緩和をして競争を促進し、また労働者の保護などは廃止するなどの市場原理主義の経済政策へと大きく転換した。その流れの中で起きたのが、冒頭に述べたリーマン・ショックの世界金融危機である。そして、その流れは、リーマン・ショック後の21世紀初頭の今も変わってない。

 2011年の「ウォール街を占拠せよ」も、今年のアメリカの大統領選挙での民主党バーニー・サンダース上院議員の社会主義的な主張も、起こるべくして起きた出来事であり、出るべくして出たことなのだ。

 今後、多国籍企業や富裕層への監視強化やタックス・ヘブンへの情報公開を強制化させる動きが高まるだろう。しかしながら、多国籍企業や富裕層にそれ相応の税金を支払うようにさせた場合、彼らは国を出て行くという手段がとれる。今のグローバル化した経済に対して、ガバナンスは国家の枠組みの中にあるため有効な対策がとれない。

 それにしても、「パナマ文書」には国家主席習近平の親族などや政治局常務委員の親族などの名前もあるということについて、当然と言えば当然のことであるのだが、もはや中国もグローバル経済に組み込まれていることを実感する。今の中華人民共和国は、毛沢東と周恩来が作ろうとした国ではない。

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April 16, 2016

熊本地震

 熊本地震と書いたが、16日未明、熊本県阿蘇地方や大分県中部などで相次いで地震が起きている。熊本だけの地震ではなくなっているようだ。

 映像で震災の光景を見ると、その被害の大きさに驚くとともに、これが東京で起きたら被害はもっと大きいだろうと思う。

 今回の地震は、余震が多いのが気になる。最近の地震は、これまでの地震にはなかった現象が多い。震源地が東に移動していることも気になる。東には阿蘇山がある。これは始まりであり、これからさらに大きな震災が起こるのだろうか。

 大地は不動ではなく、動くものなのである。その動く物体の上に、我々は文明を作り、暮らしを営んでいる。九州では、今夜から大雨になるという。地震の被災の次に豪雨である。かつて、この列島の上に人が住んでいなかった時も、大地は揺れ、豪雨が降っていた。自然は、人の都合などに関わっていない。地球について、いわゆる最新の科学・技術でもわかっていないことが多い、わからない。

 地球は、人の都合には無関心である。人がいようがいまいが、文明があろうがあるまいが、地震は起こる時は起こる。人知を超えたなにものかであるとしかいいようがないというものが、この世にはあるということを、近代以後、人々はすぐに忘れるということを意識する必要がある。

 今朝の産経の産経抄が、相も変わらず愚かしい。

「一方、同党の夏の参院選公認候補は、九州電力に鹿児島県薩摩川内市の川内原発の稼働を止めるよう電話し、ツイッターでこう訴えた。「もう誰の故郷も電力会社や、原発利権に縛られた日本政府、与党議員などに、奪われたくない」。
 熊本の被災者は二の次で、己の政治的主張を優先したとの印象を受ける。公認候補はガイガー(放射線量計測器)による監視も勧めていたが、川内原発付近の揺れは震度4で原発はびくともしていない。
 共産党も負けてはいない。池内沙織衆院議員は、やはり「川内原発を今すぐ止めよ」「福島原発事故は収束しておらず、被災者の生活苦は終わっていない」などと書き込んだ。全く異なる事例をいたずらに同一視し、国民の不安をあおっている。」

 熊本の地震を見て、原発を心配するのは当然のことだ。日本は、地震が起きやすい列島なのである。こうした地震列島で原発を数多く建てるということが、そもそも間違っている、そう思うのは当然のことだ。

 今回のこれほどの地震に対して、川内原発が停止しないということが問題なのであって、「びくともしていない」ということは安全対策が十分ではないということの証拠である。原発は事故が起これば、その被害は計り知れないものになる、だからこそ原発付近の地震には注意しなければならないという危機意識がないのであろう。政府も九州電力も、311からなにも学んでいない。

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April 10, 2016

日本の王朝時代劇ドラマはなぜないのか

 このところ、韓国時代劇ドラマ『イ・サン』を見ている。

 10年くらい前のテレビ番組である。私は、この名作時代劇ドラマを見ていなかったのだ。『イ・サン』という韓国歴史ドラマがあることは知っていた。知っていたが、全77話をレンタルDVDで借りて見るのは、それなりに手間とお金がかかるなあと思い、見ることがなかった。dTVで『ホジュン』のリメイク版を全話見終わって、さて次に何を見るかと思い、作品リストの中に名作の誉れ高い『イ・サン』があることに気がついて見ることにした。

 『イ・サン』は、李氏朝鮮の第22代国王の正祖を主人公とした時代劇ドラマである。監督はイ・ビョンフンで、この人は名作時代劇ドラマ『ホジュン 宮廷医官への道』の監督さんで、『ホジュン』のリメイク版を見て、以前見た旧作『ホジュン』のことをついて調べていたら、監督が『宮廷女官チャングムの誓い』の人で、この人の作品に『イ・サン』や『トンイ』や『馬医』があることを知ったのだった。そこで、これは(dTVで全話見れるのだし)『イ・サン』を見なければと思ったのだ。しかし、こんな韓国ドラマの基礎知識は、昨今の寒流ドラマ愛好者には当然のことであり、誰もが知っていることだ。私は韓国映画はそれなりに見ているのだが、テレビドラマの方はさっぱり知らないのだ。

 韓国の歴史ドラマは映画にせよテレビにせよ、学ぶことが多い。基本的に、朝鮮の文化や歴史について活字を通してしか知らない者にとって、映像ドラマで見るのは大変勉強になる。しかしながら、韓国歴史ドラマの話は別の機会に書くこととして、今回考えてみたいのは我が国、日本のことだ。

 日本の王朝である天皇家にも、その長い歴史の中で、様々なドラマがあったはずである。しかしながら、そうしたことが映画やテレビの時代劇ドラマで扱われることが極めて少ない。なぜなのであろうか。

 ひとつ言えることは、韓国では王政は完全に廃止され、遠い歴史の出来事になっているにの対して、日本では天皇制は今だ続いているということだ。このへんに、そう簡単にはテレビドラマにできない理由があるのかもしれない。仮に天皇家の時代劇ドラマ番組を作ろうということになっても、そもそもスポンサーがつくのかどうかという問題もあるだろう。

 もう一つの点として、日本の天皇と朝鮮の国王の意味や役割の違いがある。日本史の中で、歴史に大きな影響を及ぼす劇的な生涯を送った天皇は、古代の大和時代から14世紀の南北朝時代の後醍醐天皇を最後として、その後、歴史の表舞台には姿が見えなくなる。次に、天皇が表舞台に出てくるのは幕末の孝明天皇である。しかし、どうも、これら日本の王朝史劇は、韓国と比べて劇的要素が低い。日本は、12世紀に鎌倉幕府が成立し、以後、武家による支配統治と天皇の権威の二重構造の社会であり、大王としての天皇が最高権力者であることはなかった。こうしたことに、王朝ドラマに成りにくい点があるのかもしれない。

 天皇には祭司のとしての役割が濃厚にあるが、それと比較して、朝鮮の国王には、為政者としての役割が大きい。朝鮮は儒教の国である。儒教における優れた為政者とは、どのようなものであるのかという意識がある。朝鮮の国王は、都から出て、各地を巡り、民衆の生活の姿や奴婢たちの声をじかに聞くことを行うが、日本の天皇の行幸にはそうしたものがない。朝鮮には、民衆の声を聞くのが儒教における徳の体現者としての国王の役割であるという思想があるからである。もちろん、これは為政者としての役割は武家が努め、天皇にはその役割がなかったということも言えるが、そのためもあって、天皇は民衆よりも神道の神々の方が近い。これは、なかなかドラマには成りにくいとは思う。

 少なくとも、明治時代から今日至る近現代の天皇を扱うのは、かなり困難であろう。李氏朝鮮の最後の国王高宗とその后閔妃の時代劇ドラマ番組があるが、どうも見たいとは思わない内容のようなので見ていない。日本による日韓併合はもちろん間違った出来事であったが、あの時代の朝鮮と高宗をどのように歴史的に解釈するのかは難しい。同様に、明治・大正・昭和の天皇をどのように解釈するのかは難しい。また、古代の天皇を扱うのも難しい。三韓征伐を行ったとされる神功皇后のドラマをやるとなると、日韓関係はもめるだろう。しかし、大化改新や壬申の乱前後の頃から持統天皇に続く時代も劇的な時代だった。

 このような韓国のような絢爛豪華で、権力への野望と政治抗争劇の歴史ドラマが、日本でもできないものかと思う。日本史上、最も劇的な時代のひとつといえるのが、平安末期の保元・平治の乱による武家の台頭から鎌倉幕府の創世と滅亡、南北朝の騒乱に至る時代である。この時代の天皇家の物語を韓国時代劇ドラマに負けない程の内容でドラマ番組にしてくれないものかと思う。

 歴史の表舞台には一切出ることはなく、何事もなかったのような江戸時代でも、天皇家には実はこのようなことがあったという新発見はないものだろうか。

 天皇家の物語だけではない、今の歴史ドラマは内容は固定化して、新しい物語がない。国が歴史研究にもっと予算を出し、歴史家が隠れた物語を発見し、ドラマ作家がそれらをドラマにし、テレビ局がドラマ番組を作成し放送する。番組は日本だけではなく、大陸中国、香港、台湾、韓国、その他の国々でも放送し、その収益を得るというビジネスモデルができないものだろうか。

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April 03, 2016

3.11にもっとこだわらなくてはならない

 先日、NHKオンデマンドで、NHKスペシャルの震災5年目の関連番組をまとめて見た。

 改めて、あの震災を見てみると、ものすごい出来事であったと思う。あの震災とは、地震と地震による津波被害と福島第一原発の事故である。そして、これらの出来事の後の避難体制の不手際が、より一層の被害をもたらした。

 今でも原発の稼働を主張している人々は、これら一連のNHKの番組をしっかりと見るべきであろう。これらの番組からわかることは、国とか東電本社とかはあてにならないということである。国や東電本社が信用できない状態で、どうして原発を稼働することができるのであろうか。

 地震は起こりえる自然現象であり、これへの対策は可能だ。原発事故は、工学的に防ぎ得る。しかしながら、事故が起きた際の国や地方自治体の対応が、今もって十分な対策がとられていない。産経新聞などが、原発の安全性を司法が判断し得るのかと言っているが、大津地裁が高浜原発の運転差し止めの仮処分を認めたのは、もし仮に事故が起きた場合、住民避難の体制が十分にできていない現状を指摘しているのである。

 実際のところ、この国の行政組織について言えば、突発的な状況になると、まともに機能しなくなる。その昔、勝海舟は米国から帰ってきて、幕閣からアメリカはどのような国であったのかを問われた際、あの国は上に行くほど有能な人材になるという意味のことを言ったそうであるが、この国の行政のそうした体質は、江戸時代から変わっていないのではないかと思う。

 もともと、官尊民卑が日本の行政の本質である。このへんの本質が、今の社会保障制度の薄さやパブリック・サービスとしての情報公開をほとんどしない姿にも表れている。人権という概念は、程度の差はあれ、アジア諸国には歴史的になじみがないものであった。日本もまた、アメリカが占領期に作った日本国憲法で広く知られるようになった概念である。昔から日本の行政組織は、一般国民の生命・財産を守るというものではなかった。

 だからこそ、震災時や原発事故時などについては、そうとうな考え方の転換をもって、住民避難のあり方や情報公開の姿を定めなくてはならないのであるが、このへんができない、できていないのが現状である。

 3.11は、この国が、国家的な危機的状況に陥った事態であった。そして、それらの状況は、いまでも続いているものがある。その後の調査でわかったことが数多くある。年月を経て、あの時の出来事をようやく語ることができるようになった被災者の方々、当事者の方々がいる。むしろ、5年たったこれからが、あの出来事はなんであったのかを考えることができるようになった。我々は、この出来事から学ぶべきことは多い。

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April 02, 2016

トランプの日本核武装発言

 トランプ氏は大統領に就任した場合、日本の核兵器保有を容認する考えを示したという。アメリカの日本核武装容認は、なにもトランプが初めてではない。これまでも、共和党の一部や保守系の論者の中には、こうしたことを主張する人々がいた。

 もともと、第二次世界大戦の後、アメリカは日本の核武装を禁止していた。実際のところでは、日本自身が被爆国として核兵器を自ら持つなどということは考えもしていなかった。吉田ドクトリンでは、日本はアメリカの核の傘の下に入ることで自国の安全を守ることを選択したのである。

 しかしながら、そうであってもアメリカは警戒の態度を崩すことはなかった。日本の保守派政治家の中には、積極的な原発政策の推進の理由のひとつに、いざとなったらプルトニウムを核兵器に転用することも考えていた者たちもいたのである。アメリカは、そうした日本の核武装への動きを監視してきた。

 このアメリカの態度が変わってきたのが、ジョージ・W・ブッシュ政権からである。2003年当時、チェニー副大統領や共和党のジョン・マケイン上院議員らは、中国・北朝鮮に対する対抗として、日本が核武装することを望むことを発言している。ただし、この頃はまだアメリカが世界を管理できると思い込んでいた時代である。今のアメリカの本音は、軍備にお金をかけたくないということだ。日本防衛というリスクとコストがかかることはもうやめて、日本は日本で自国を防衛して欲しという考えと、中国・北朝鮮に直接対応するのは日本・韓国であって、アメリカはそんなことはやりたくない考えが、今の日本の核武装容認発言になっている。

 戦後の東アジアを混乱させたのは、アメリカとソ連と中国であった。その混乱から、ソ連が自国が崩壊してフェイド・アウトし、次にアメリカが自国の経済事情により撤退しようとしている。今、その混乱の中に残るのは、中国とその周辺諸国である。このへん、今の中東の状況とよく似ている。大国たちがやりたい放題のことをやってきて、その後始末ができなくなって自分たちは去っていき、あとは混乱だけが残されるという構図だ。アメリカは、東アジアのごたごたを日本を押しつけて去って行こうとしている。

 では、日本が核武装することは意味があるのであろうか。北朝鮮が仮に核兵器を持ったとしても、脅威でもなんでもないのは、朝鮮半島の北半分の規模の国では、世界と戦争をすることなどとてもできないからである。例えば、北朝鮮が日本やアメリカに1発の核ミサイルを打ち込んだとした場合、アメリカは10発の核ミサイルを北朝鮮に撃ち込むことが可能だ。これでは、戦争にはならない。かつて、米ソが核兵器をお互いの抑止力とすることができたのは、米ソという大国どうしであったからこそできたことで、小国の核武装は大国に対しての抑止力にはならない。

 ちなみに、小国が核兵器を持つことよりも、テロリストが核兵器を持つことの方がずっと脅威である。いや、小国であっても、核兵器を持てば十分大国に対抗できるでしょうという考えは、もはや国家間の戦争ではなく、テロリストの戦争である。国家がテロリスト集団になるというのならば、小国が核兵器を持つことも意味があるだろう。

 核兵器が国家間の抑止力になるためには、それ相応の数の核ミサイルを持つ必要がある。中国に対抗するためには、数百発クラスの規模は必要になる。また、ミサイルは、ミサイルそのものがあればいいわけではない。それをメンテし、運搬し、発射し、目標に命中させるための様々な周辺システムが必要になる。

 しかしながら、そうしたことを、現実に可能とする財政余裕が、今のこの国にあるとはとても思えない。軍事に予算を使うゆとりなど、もはやないのだ。少子化によって、戦闘の現場に立つ若い自衛官の数もまた減っていくのである。さらに、日本が核武装をすれば、北朝鮮がどうにかなるのであろうか。北朝鮮の独裁体制がなくなり、米中によって分断された韓民族の統一ができるのであろうか。核武装では、実質的な問題はなにひとつ解決しないのだ。

 核があれば、なんとかなるという発想は、捨てるべきである。

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