福島原発事故から5年がたった
5年がたった今でも、この国は原発をやめようとしていないのは、一体どういうことなのであろうか。
原発などという、事故が起きた場合、これほどまでに大規模な危険とコストをともなうものは、即刻やめるべきであり、より安全なエネルギーへと転換する、ということは当然のことだと思うのであるが、それを当然とは思わない人々がいるということなのだろう。
もともと原子力発電は、実用できるのかどうか、使い物になるのかどうかもわからない状態で、まったく手探りで始められたものであった。それを思えば、原子力とは別の代替エネルギー生産技術に取り組むことは、おかしくもなんともない。日本の戦後の焼け跡には、原子爆弾の被災があったが、原子力電力はなかったのである。それをここまでやってきたのだ。また、ゼロから出発するということだ。
バケツでウランを運んでいた東海村JCO臨界事故の時も思ったが、この国では原発はオーバーテクノロジーであって、とてもではないが原発を扱う技術力、組織力、マネジメント力、政治力がそもそもない。事故の際は言うまでもないが、仮に事故が起きなくても、耐久年数を過ぎて廃炉する原発の廃炉方法についても確立されていない。核廃棄物をどうするのかということは、誰にもわからないのである。
東電の隠蔽体質はまったく変わっていない。汚染水の処理もできておらず、さらに増え続ける汚染水をこの先どうするのかもきまっていない。安全な汚染基準すら定まっていないのに、汚染除去は完了したとして避難指示を解除し、帰宅しないのはその人が悪いとする行政の対応など、挙げていけばきりがない程、話にならないことが多い。
この5年間で、原発についてさまざまなことがわかった。結論はもはやはっきりしている。原発はダメだということだ。
にもかかわらず、政府は原発を推進しようとしている。
関西電力の高浜原子力発電所3、4号機に対して、滋賀県の住民が求めていた運転差し止めの仮処分を大津地裁が認めたことについて、産経新聞は、例によって例のごとく「常軌を逸した地裁判断だ」と騒いでいるが、福島原発事故後、東電の対応を取材しているフリージャーナリストの木野龍逸のブログを読むと、今回の裁判所の処分の正しさがよくわかる。
事故の際の避難計画はいい加減であり、そもそも福島第一の事故原因が明確になっていないので、安全基準の根拠がない。またもや電力会社の隠蔽体質、情報の非公開さなど、どう見ても原発稼働が認められるものではない。そして、こうしたことを「高浜原発の強制停止がもたらす電力不足や電気料金上昇など社会的なリスクの増大にも、目をつむるべきではない」と言ってごまかすのが産経メンタリティである。
産経は「高度に専門的な科学技術の集合体である原子力発電の理工学体系に対し、司法が理解しきったかのごとく判断するのは、大いに疑問である」と言うが、司法は、原子力発電の理工学体系を理解する必要はなく、また理解しようともしていない。一般の国民が理解できる内容の安全性、非難計画を出してくださいと言っているだけだ。それらが、一般人が理解でき、納得できる内容になっていないから司法は稼働を認めなかっただけなのだ。
東電や政府の福島原発の事故対応は、あまりにもおそまつなものが多い。国のエネルギー政策どうこうよりも、もっと低レベルで理解し難いことが多すぎる。
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