世界記憶遺産に「南京大虐殺文書」が登録された
ユネスコの世界記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺の文書」が登録されたという。
産経新聞によると「中国が申請していた「南京大虐殺文書」が記憶遺産への登録が決まったことに対し、日本政府筋は「断固たる措置を取る」と述べ、ユネスコの分担金拠出などの一時凍結を検討する構えを見せている。」とのことである。
中国外務省の報道官は、「申請の目的について「日本人を含む世界の人々に戦争の残酷性を深く認識させ、歴史を銘記し、平和を大切にし、ともに人類の尊厳を守ることだ」」とのことであるが、「やった」側の当の日本はそう思うことはなく、ユネスコの分担金を払わないという措置をとるのだという。国際社会の世論から見れば、どう見ても日本は「悪」である。
歴史的に言えば、日本軍の残虐行為は南京だけではない。ところが「南京大虐殺」というものが、もっかの日本が決して認めることのない、極めて政治的に利用価値の高いものであるが故に、中国政府はユネスコに世界記憶遺産として「南京大虐殺」を持ち込んだのであろう。そして、それは登録となり、日本側は予想通り、抗議の声を高め、これを見る国際世論は、ますます日本はやはり先の戦争を反省していない、やっぱり大量虐殺をやったんだなという思いを強めるであろう。日本が「真実」なるものを主張すればするほど、国際社会の日本への悪感情が高まる、日本はそうした構造の中に組み込まれているのである。見事な程、日本は中国の戦略にはまっている。
ただし、この構造を作ったのは中国側ではない。日本側が自ら招いたものである。威嚇というのは、威嚇された側が、それが威嚇であると認識するから威嚇になるのであり、威嚇ではないとすれば威嚇にはならない。いわば、今の日本は自分たちが半世紀以上前に中国大陸で行った「歴史」に怖がっている。
産経新聞の社説では「登録取り消しを含めさらに強く抗議するとともに、歴史歪曲(わいきょく)への反論を重ねてゆかねばならない。」というが、なにかへの反論ではなく、自分からこれこれのことをやりましたとなぜ言えないのあろうか。安倍総理の70年談話でもそうであったように、半世紀以上前のアジア諸国への日本の行為を、主語のない文言で曖昧にしていることにそもそもの原因がある。
ユネスコになにがどう登録されようと、30万人という数が認め難いのならば、30万人ではなく、これこれの人数を日本軍は惨く虐殺しました、ということをなぜ言えないのであろうか。いや、今だ明確に定まっていないというのならば、戦後半世紀以上もたって、前の日本軍が行った戦争犯罪の調査ができていないということだ。大東亜戦争の功と罪、アジア諸国への日本の加害者としての行為の全貌を今だ明らかにしていないということになる。
ようするに、それをやりたくないとしか思えないのである。
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