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September 2015

September 27, 2015

現実味ない「米軍支援論」

 今朝(9月27日)の産経新聞、古森義久特派員がコラム「あめりかノート」で、今回の新安保関連法の批判に頻繁に出てくる「日本は自国の安全に関係のない米国の戦争に巻き込まれる」という主張を否定している。

 古森氏がブッシュ前政権時代のNATOに国防総省主席代表として駐在したブルース・ワインロッド元国防次官補にこのことを尋ねてみたところ、ワインロッド氏はこう述べたという。

「たとえ米国独自の戦争や紛争への他国の支援が必要な場合でも米国の軍事能力は全世界的であり、その対象地域を主眼に米軍主体の態勢を組むため、その地域に直接関わりのない国の軍事支援を求める必要がありません。」

「もし米国が軍事的支援を要請しても、今回の日本の安保関連法では日本の安保利害を左右する、あるいは存立にかかわる事例でなければ、日本はなにもできない。さらには拒むことができる。実際に米国のその種の要請を同盟国が断ることは頻繁にあります。」

 つまり、アメリカは「その地域に直接関わりのない国の軍事支援を求める必要がありません」なのだということだ。元国防次官補はそのように言っている。

 ところが、安倍政権の言う集団的自衛権とは、「必要がありません」と言っていることを「援助したい」「援助できるようになりたい」としている。これはどう考えても理解に苦しむことではないだろうか。「巻き込まれ論」に現実味がないのではなく、「米軍支援論」に現実味がないのである。

 もうひとつおもしろい点は、「実際に米国のその種の要請を同盟国が断ることは頻繁にあります」ということだ。支援を断ることは頻繁にあることなのである。実際のところ、日本は朝鮮戦争とベトナム戦争への派兵を断っている。しかしながら、小泉政権は自衛隊をイラク戦争に派兵させた。これは一体、どういうことなのであろうか。

 さらに、ワインロッド氏はこう語る。

「米国側でも従来、米国自体のグローバルな安保上の責任を日本に支援してほしいという期待はまったくなかった。しかし日本の防衛に直接に資する米国の安保努力への日本の支援への期待はずっとありました。日本自体の国家安全保障が影響を受ける状況下での米国の防衛努力にも日本が集団的自衛権の禁止を理由に協力をしない状態がこのまま続けば、米国民や議会の多数派は自国が日本防衛のためになぜこれほどの軍事関連資産を投入し続けるのかという疑問を必ずや提起することになったでしょう。」

 「日本の防衛に直接に資する米国の安保努力への日本の支援への期待はずっとありました」とは、一体どういうことなのであろうか。日本国内に(特に、沖縄県に)治外法権の米軍基地を多数駐屯させ、思いやり予算を払い、それらの米軍基地は自衛隊が警備活動を行っているものもあり、この上、さらになにを支援せよと言うのであろうか。

 「日本自体の国家安全保障が影響を受ける状況下での米国の防衛努力にも日本が集団的自衛権の禁止を理由に協力をしない状態がこのまま続けば」というのもさっぱり理解できない。

 つまり、日本自体の国家安全保障が影響を受ける状況下での米国の防衛努力に、日本が集団的自衛権の禁止を理由に協力をしていないということなのであろう。しかし、日本自体の国家安全保障が影響を受ける状況下での米国の防衛努力にも日本が集団的自衛権の禁止を理由に協力をしていないとは、一体いかなることを言っているのであろうか。日本がいつ、日本自体の国家安全保障が影響を受ける状況下で、米国の防衛努力に協力をしないことをしたと言うのであろうか。

 しかも、日本自体の国家安全保障が影響を受ける状況下とは、個別的自衛権の適応範囲のことになり、集団的自衛圏のことではない。ワインロッド氏の言う「日本自体の国家安全保障が影響を受ける状況下での米国の防衛努力にも日本が集団的自衛権の禁止を理由に協力をしない状態」とはまったくもって意味不明だ。

 「米国民や議会の多数派は自国が日本防衛のためになぜこれほどの軍事関連資産を投入し続けるのかという疑問」についても、第二次世界大戦以後、アメリカが日本に軍事基地を置いてきたことで、これまでどれほど大きなアメリカの利益になってきたのか、理解ができていないように思える。

 古森氏は、このコラムの最後でこう書いている。

「だが奇妙なことに日本では同盟国相手の米側のこうした一枚岩とも言える反応は与党からもまず提起されないようなのだ」

 奇妙もなにも、これがアメリカ側の一枚岩の反応であるのならば、かなり問題だ。アメリカが論理矛盾の意味不明なことを言っているのならば、こちら側はそれを正さなくてはならない。日本は、中国・韓国に対してだけではなく、アメリカに対しても、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると指摘するという態度をとらなくてはならない。ところが、新安保関連法を支持する人々には、そうした態度がまったく見られないのである。

 今回の新安保関連法は、穴だらけで不完全で不十分なものだ。穴だらけで不完全で不十分な法律が通ることは危険なことである。そうした法律はない方が良い。

September 23, 2015

ランド研究所のレポート

 孫崎享さんがブログで「衝撃!米ランド研究所、今や台湾(尖閣も範疇)周辺の米中戦闘では中国優勢。中国、嘉手納米軍基地ミサイルで破壊能力」として、アメリカのランド研究所が出したレポート「アジアにおける米軍基地に対する中国の攻撃(Chinese Attacks on U.S. Air Bases in Asia、An Assessment of Relative Capabilities, 1996-2017)」について論じている。興味深かったので私もランド研究所のサイトにある原文を読んでみた。

 孫崎さんも述べているが、注目すべきは次の一文であろう。

"Moreover, the report finds that China does not need to catch up fully to the United States to challenge the U.S. ability to conduct effective military operations near the Chinese mainland."

 つまり、中国は中国本土周辺で効果的な軍事行動を行うことついて、米国の軍事力そのものに追いつく必要はないということだ。なぜか。台湾や日本などの米軍基地をミサイルで攻撃して壊滅させればいいからである。問題は、これまでの時代は、中国にはそうした米軍基地に到達できるミサイル技術がなかった。

 しかしながら、ランド研究所のレポートはこう書いている。

"Today, the PLA has the most active ballistic-missile program in the world and deploys more than 1,200 SRBMs, alongside medium-range ballistic missiles and ground-launched cruise missiles capable of targeting U.S. bases and other facilities in Japan."

今日、人民解放軍は、日本の在日米軍基地を攻撃することができる1200発のSRBM(短距離弾道ミサイル)と中距離弾道ミサイル、そして地上発射巡航ミサイルを有している。

 このランド研究所のレポートにある図を見てもわかるように、2017年頃にはこの1000発以上のミサイルの射程範囲が、沖縄を含めた日本列島の全域を覆うのである。いわば、日本は中国のミサイル攻撃圏にすっぽりと覆われているということである。

 兵器というのは、決まった時刻に決まった場所に命中しなくては兵器ではない。その意味で、北朝鮮の「ミサイル」などというものは、とてもではないが軍事兵器ではない。フォン・ブラウンがまだ若い頃、ドイツのペーネミュンデ陸軍兵器実験場で飛ばしていたロケットのようなものだ。しかし、中国の短距離、中距離ミサイルは近年、命中精度は向上し、十分、軍事兵器として脅威になりうるものである。

 通常、ミサイル防衛というものは、敵ミサイル攻撃の全発を全発とも防御することはできず、まず敵がミサイルを撃ったことがわかれば、こちらも即座にミサイルを撃つ。次に、発射された敵ミサイルは空中で破壊しようとするが、何割かは着弾することを想定している。何割か着弾して、その被害を受けながら、残りの場所が敵に報復攻撃をするのである。

 ところが、中国大陸と日本列島の間には日本海や東シナ海しかない。この距離で、中国がミサイルを撃ってきたら、日本側も即座にミサイルを撃つことが、現実的に可能かどうかということがある。さらに、巨大な大陸国家ならいざ知らず、日本のような小国の島国に、こちらのミサイル防衛網をかいくぐってしまった敵ミサイルが数発でも到達すれば、その被害は甚大であり、果たしてその後、国家として戦える状態であるのかどうか、かなり難しい事態になる。原発も攻撃目標になっていることは、十分想定できることだ。

 原発を攻撃して、その後の占領をどうするのか。原発攻撃などありえないという声があるが、大陸国家にとって、日本列島という小さな島々を汚染地域にしても困ることはないだろう。げんに70年前の戦争では、この国に対して、核攻撃が行われたのである。

 つまり、軍事的に言えば、もう日本は詰んでいるということなのだ。また、このことを思えば、今後、米軍が基地を日本ではなく、もっと後方のグアムへ分散させようとしているわけがよくわかるであろう。ランド研究所のこのレポートでも、こうした中国の拡大するミサイル攻撃圏に対して米軍基地を分散させることを提言している。日本に米軍基地を置くことのリスクが高まってきたのである。

 今回の新安保関連法の背景には、こうした「もう日本は詰んでいる」状態であるのを、なんとかしなければならないという考えがあることは確かである。

 しかしながら、だから集団的自衛権や外国での米軍の後方支援をやるという理解し難いことなのだ。対米従属であり続ければ、アメリカが日本を守ってくれるだろうという「方法」はもう捨てなくてはならない。日本の周辺を取り巻く安全保障の変化を踏まえると、よりいっそうの(対米従属ではなく)慎重な日中関係が求められるものと考えるのが当然のことであろう。中国にミサイルを撃たさせないようにしなくてはならない。外交は軍事と密接に関わっている。外交もまた軍事であり、軍事としての外交を行うことが必要なのである。

September 22, 2015

新安保関連法が可決した

 16日に行われた横浜地方公聴会を見ても、安全保障をめぐる本格的な論議がようやく始まりかけていた。その矢先で、新安保関連法はああしたカタチで「可決」した。

 今の安全保障制度を変えようというのならば、憲法を改正を日米安保を改定するということを目的として、そこに至る様々な問題をクリアし、国民全体を踏まえた討議を何度も繰り返して、時間をかけて目的に至るべきであることは、ここで何度も述べてきた。

 しかしながら、そうはならなかった。なぜああいう騒動の中での「可決」になるのだろうか。ああいう騒動の中でしか「可決」できないであることを法案を出した側はよく知っているからである。なぜ国の防衛を、この程度のもので良しとするのだろうか。ようするに、この程度のものとしてしか思っていないのであろう。もちろん、改憲には相当なハードルがある。自民党の改憲案はとてもではないが受け入れらるものではない。では、どのような憲法であるべきなのか。ここから始めるには、そうとうな抵抗があるであろうが、だからといってやらないわけにはいかない。

国際政治学者の人々は、日本を取り巻く今の状況は以前と違うと言う。そうだとして、だからあるべき姿の安全保障にしなければならないのであり、それが何故、この新安保法になるのかさっぱりわからなかった。ようするに、彼らも日本の安全保障は、この程度のもので良いと思っているのであろう。

 今回の新安保関連法の可決は様々な悪しき先例を作った。

 憲法は、政府の解釈しだいでどうにでもなるということになった。

 今の政治は、上記で述べた「そこに至る様々な問題をクリアし、国民全体を踏まえた討議を何度も繰り返して、時間をかけて目的に至る」ということをしないということことになった。

 新安保関連法の内容そのものについてとは別に、その成立の過程についても理解し難いことが数多くある。これらのことについては、今後、数多くの反対運動が出てくる。安保法案の「採決」は手続きとして認められるものであるのだろうか。法案審議の再開を求める声が高まっている。

 これまで何度も言われてきたことであるが、やはり大手メディアは信用できない。今回の新安保関連法について「可決」前は集団的自衛権だけが大きく取り扱われ、集団的自衛権には制限があるという政府見解から、なぜこれが「戦争法案」なのか、これは「戦争をしない法案だ」と思っていたネトウヨは言っていた。

 ところが、法案が「可決」されると新聞・テレビは、この「可決」でこうした数々のことが可能になりましたと大々的に報じ始めた。これだけの、今回の安保法案の全体像をきちんと報じたことが「可決」前にあったであろうか。自衛隊の南スーダンでの「駆けつけ警護」の話など聞いていないというのが、新聞やテレビだけで、この新安保の審議を見ていた人々の気持ちだろう。今春からを予定しているという自衛隊の南スーダンでの武器使用可能を、今後、世論はどのように受けとめるのであろうか。

地理的制限はなく、地球上のどこへでも自衛隊は派兵できるということが「戦争法案」」でなくてなんなのであろうか。もちろん、「戦争法案」そのものが悪いわけではない。国家にとって、戦争をどうするのかということは必要であろう。「戦争法案」であるからこそ、憲法のレベルからしっかりとしたものを作らなくてはならない。

 産経新聞は、20日の社説で「日本や日本国民を、真の意味で戦争の危険から遠ざける法的な基盤が整った。」と書いていたが、その「法的な基盤」がほとんどすべての法律専門家たちが違法と言っているものなのである。今回の「可決」をもって「法的な基盤が整った」と言える、その根拠はいかなるものなのであろうか。成立の過程において「可決」と認められない法律では、「法的な基盤」が整ったとは言えない。

 残る最後の道は、選挙ということになる。来年の夏の参議院選挙でまた自民圧勝にならないようするということだ。ただし、国民もメディアもすぐに忘れる。311ですら、もはやなかったかのようになっている。来年の参議院選挙がアテになるものになるのかどうかにかかっている。

 選択とは、存在する選択肢の中での選択である。国民は、これまで自民党に変わりうる政権運営可能政党を育てることをしてこなかった。また、非自民党の政党の側も政権運営が可能な政党になることをしてこなかった。

 これまでの政治は、政治家に任せておけばそれで良かった。政治はある種どうでもよくても、経済がしっかりしていればそれで良いのが戦後のこの国のあり方であった。それが、そうはいかなくなったということだ。かつて、自民党は内部に多様で奥が深い派閥があり、それが政権運営にうまく機能していた。そうした質の高い派閥の多様さが今の自民党にはなく、薄っぺらな一枚板の政党になっている。国民が政治を監視しなければ、為政者は憲法や法の手続きを無視し、勝手なことをやるのだということがよくわかったというのが、今回の一連の出来事の教訓である。

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