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August 2015

August 30, 2015

『南京!南京!』

 先日、ニコニコ動画で中国映画『南京! 南京!』を見た。

 この映画は2009年に中国で公開され大きな話題を呼んだ映画である。日本では、1日だけひとつの映画館で上映されたそうだ。日本語版DVDも発売されていない。私は香港版のDVDをネットで購入して持っていたが、まだ見ていなかった。今回、ニコニコ動画で、反日と呼ばれている作品を見てみようという企画のもとに公開されたものである。ネトウヨの牙城とも言うべきニコニコ動画でこの映画を公開するということの興味もあり、見てみた。

 映画の前半は、日本軍と中国軍の南京での市街戦である。この市街戦のシーンは、戦争映画として見た場合、見事なカメラワークの映像になっていて、見応えがある。帝国陸軍は本来、こうした大陸の市街戦や広大な平地での戦闘が主たる任務であったが、太平洋戦争は文字通り太平洋の島々での戦争であって、数多くの太平洋戦争の戦争映画での帝国陸軍は本来の姿ではない。映像で、市街戦で戦う日本陸軍はめったに見れるものではないのだ。この映画は、そのめったに見れない帝国陸軍の市街戦の戦闘シーンがある。

 見ていてつくづく思ったのは、やはり日本軍は装備が貧弱で、例えばヨーロッパ戦線でのドイツ陸軍や英米の陸軍とはとてもではないが比べものにならないなということだ。帝国陸軍は、中国の国民党軍を相手に戦うことはできても、ソ連の機甲師団と戦ったらまず勝てるとは思えない貧弱さである。日中戦争で日本軍が連戦連勝だったのは、国民党軍や八路軍が近代軍隊としては日本軍よりも遅れていたからである。

 映画の冒頭、南京を守備をしていた国民党軍が、日本軍の攻撃を前にして市民を見捨てて脱出してしまう。迫り来る日本軍を前にして南京の城門から逃亡しようとする兵士たちと、それを押し止めようとする兵士たちのぶつかり合いのシーンがある。このへん、南京を見捨てた蒋介石の国民党を批判する視点があるのが興味深い。根本的な話をすれば、国民党はなぜ南京を守らずに逃げたのかという話の一言につきる。

 蒋介石の考えは、日本軍と徹底抗戦することなく、退却をし続けることで日本軍の補給ラインを伸ばし、泥沼の状態の戦争に引きずり込むことであった。しかし、そうした戦略的な撤退であったとしても、一般市民を安全に撤退させることをしなかったのはなぜなのかという疑問が残る。ただし、しかなかったということについては、満州国が崩壊した時、関東軍は一般の日本人を避難させることはしなかった。軍は自分たちだけで撤退し、残された一般市民はソ連軍に蹂躙されるがままになった。沖縄戦で、日本軍は沖縄県民をどのようにしたのかということについては言うまでもない。ようするに、軍隊というのは、必ずしも一般市民を守るわけではないということだ。

 南京に残ったわずかな兵士たちは日本軍と戦うが、当然のことながら勝ち目はなく日本軍の勝利となる。この捕虜となった中国兵士たち、市内に残された一般市民たち、そして日本軍の追求から逃れ、市民の中に隠れた中国兵士たちという、この3者に対して、後に日本軍による「大虐殺」と呼ばれる出来事があったとされているのが、いわゆる南京大虐殺事件の背景である。

 映画の後半は、日本軍よる残虐行為が、これでもかというほど繰り返される。これらは、かなり惨いシーンになっている。中国人であろうが、何人であろうが、こうしたことをする日本に憎悪を感じるのは当然であろう。それほど、日本軍が行う陰惨なシーンが出てくる。とにかくひたすら延々と日本人による理不尽な暴力が繰り返されるだけのシーンが続く。かといって、そうした極悪非道の日本軍を倒して、溜飲を下げる出来事があるわけでもなく、日本人が見ても、中国人が見ていても気持ちのいいものではないだろう。

 ニコ動で見たので、流れ出てくるコメントは、ほとんどが「日本はこんなことはしない」「こんなことをしたら軍法会議ものだろ」という批判や否定が多い。この映画の監督によると、膨大な数の日本兵の日記を読み、そこにこうしたことが書かれていた、決して荒唐無稽な作り話ではないという。

 この映画は、一方的な中国側の視点ではなく、一日本兵の視点から描かれた話になっているという。確かに、良心的な一日本人兵士が登場し、日本軍が行う残虐行為に葛藤し苦悶する話にはなっている。しかしながら、この日本兵士の視点というものが、それほど深くは感じることができない。これはおそらく、この映画の中の「日本」にリアルさを感じることができなかったからだろう。私としては、この兵士に、感情移入がし難い。なぜもっと深く、重く、日本人が共感できるような、この日本人兵士の内面を描いてくれなかったのだろうか。

 むしろ、感情移入ができたのは、中国人女性が慰安婦の募集に対して、躊躇しながら手を挙げるシーンだ。自分が慰安婦になることで、他の女性たちの安全が確保されると考え、この女性は自ら手を挙げる。日本側からすれば「自発的」になるのだろうが、どう見てももこれは「強制」である。この女性の姿に感動を感じるとともに、いかに日本軍が醜悪な連中であることを感じるシーンになっている。慰安婦制度というものを置くことによって、(それら以外の)女性たちは安全が保証され、暴力の恐怖から逃れることができる(といっても、あくまでも表面的なものではあるが)ということがよくわかるシーンだった。

 この映画は、日本軍が行う残虐シーンは、かなり強烈なシーンとして映しているのであるが、良心的な一日本兵士の心情の葛藤があまり深く描けていないように思う。これで、この映画は「一日本兵の視点から描かれた話になっている」と言われても困るであろう。やはり、この映画の重点は戦場における残虐性であろう、ただし、戦場の残虐性がメインテーマであるのならば、どの国でも行われてきた戦争そのものの罪悪を映し出すということになるが、この映画では日本軍が行った戦争の罪悪という、「日本軍が行った」という点に焦点があてられている。

 戦場において、非人間的行為が行われることは事実である。おそらく、監督が読んだという日本軍兵士の膨大な数の日記には、そうした戦場での非人間的行為が書かれていたのであろう。便衣兵と一般市民の見分けがつかず、大量の捕虜の扱いにも困り、捕虜も一般市民も誰もかれも、とにかく全員まとめて建物の中に押し込めて、ドアに鍵をかけて火をつけて建物ごと焼き去るということや、子供を窓から放り投げて殺すということも、個々の場面でいうのならば、そうしたことがあったということは十分考えられる。もちろん、そうした行為は軍紀違反であり、軍法会議になるはずであるが、そういうタテマエの話にはならなかったことは数多くあったであろう。その意味においては、日中戦争のある側面をリアルに描写していると言える。

 この映画では、日本軍に30万人が殺戮されたとしている。今日よく言われているように、虐殺された数が30万人だったというのは考え難い。いわゆる南京で起きたという日本軍による30万人の大量虐殺は、いわば日本軍の非人道的行為を糾弾する政治的なサンプルとして作られた話であったというのが今日の常識的な判断と言われている。

 しかしながら、それでこの話は終わりなのではなく、こうした非人道的な行為を、南京だけではなく中国大陸の各地で、日本軍はやったということは紛れもない事実であり、その歴史は残る。この歴史を日本人はどのように考えるのかという話は、南京大虐殺と呼ばれるものはなかったとしても残り続ける。南京で殺戮されたのは何人だったのかとか、南京大虐殺はあったのか、なかったのかということは、いわば枝葉末節なことであり、こちらの方がずっと大きな課題である。戦前の時代、アジアの各地で、人々に尊敬される立派な日本人は数多くいた。しかし、その一方で、日本人は他のアジア人に対して過剰な攻撃性や残虐性を表してきた。このことをどのように考えればよいのだろうか。戦争だからこうだった、とは一概には言えないものがある。

 この映画を見て中国のみなさんはどう思うか。国が弱かったから、こうした外国の侵略を受けたのだ。国は強い軍事力を持たなくてはならないと思うであろう。現在の中国が行っている、外国の国々から見ると理解し難い程の異常な軍事力増加への傾斜、領土権の主張の背景には、この想いがある。欧米や日本は、中国に国際法の遵守を言うが、中国からすれば、お前たちはこれまでさんざん国際法を無視したことをやってきて、なにを言っているのだという感があるだろう。

 この映画はフィクションである。中国の映画は、検閲を通らなくては公開できない。そう考えてみると、この映画は過去にある国が自国に行ったことの反感と憎悪をかき立てると同時に、現在の軍備増強を正当化させるものになっていると思えなくもない。何れにせよ、今の中国の軍拡の意思の背後にあるものの一つは、近代史における侵略された側の想いがある。

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August 16, 2015

戦後70年談話

 安倍総理の戦後70年談話は、発表された内容を読むと、安倍晋三さん本人の言いたいことを言ったものではなく、周囲に配慮した総論的なものになっている。

 アメリカからの強い監視があり、また、なにを言っても中国、韓国、そして国内の左派から批判を受けることは確実であった状態で、よくもまあここまで「各方面からの指摘、批判、文句、いちゃもんを想定し、それらに対処して作りました」みたいな内容の作文をしたものだと思う。心に伝わるものがない。右派においても、左派においても、この談話を批判するものは、ワタシは安倍が嫌いであるということを言っているだけにすぎないと言っていい内容になっている。

 もちろん、「談話」は歴史エッセイの表明ではなく、政治的な妥協の作文である。70年談話は、安倍自公民政権の政治の文章でしかない。

 右派の主張は、村山談話を継承するのかどうかということであった。それならばということで、左派や安保法案反対勢力が喜ぶように「侵略」「謝罪」などといった村山談話のキーワードをすべて盛り込み、なおかつ右派からの批判を避けるために主語を省いた文体にしている。

 アメリカ及び戦勝国の意向を損なわないものとし、また、慰安婦問題には触れずに、女性の人権が傷つけられることがない世紀とするという文言を入れ、これもどこの国がどのようなことを行ったのかということは曖昧な、ぼかした表現になっている。安倍総理に再度、この談話の内容を言ってくださいと言ったらできないであろう。安倍総理自身の言葉ではないのである。

 右派のみなさんは、今回の安倍総理の談話について、以下の箇所を高く評価しているという。

「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」

 もうこれからは謝罪をする必要はないと談話の中で述べたことが、安倍総理はよくぞ言ってくれたと評価されている。しかしながら、上の文章に続いて、次のように書かれている。

「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」

 つまり、次の世代には謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりませんと述べてながら、しかし、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなくてはなりませんとも述べている。右派はここに、もはや謝罪をする必要はなしと読み。談話の文を注意深く読む人は、次の世代であろうと、次の次の世代であろうと、歴史に真正面から向き合い、謝罪すべきことには謝罪をしなくてはならないと読むであろう。

 このように、今回の安倍談話は、実によく練られた、どこから見ても文句のつけようがない官僚文章的な作文になっており、その点については、何度も言うが高度な政治的な操作がされている談話だと思う。この談話の作成は、そうとう苦労したと思う。ここまで周囲に配慮しなくてはならない安倍政権は、極めて不安的な政治基盤の上に成り立っているということだ。この不安的な政治状況は、戦後70年の日本そのものがもたらしたものであると考えるのならば、今回の安倍談話は、安倍談話というよりも、戦後70年の政治状況の上での日本の談話であったとも言えるだろう。

 実際のところ、今の安倍政権がやっていることは、この談話のとおりであるのか、国の指導者が世界に向かって発信する談話が、こうした曖昧で無色透明なものであっていいのか、などということは挙げられるが、それは別の話になる、というか、別の話にしたいということが、この作文の談話の意図なのであろう。

 安倍政権にとって、政治課題のひとつであった「70年談話問題」を、安倍自公民政権は、批判を受けることが十分予測できる安倍晋三トーンを抑え、高度に政治的に調整された官僚的な作文によって乗り越えたということなのであろう。これほど周囲に配慮し、入念な政治調整ができる政権が、なぜ安保法案を短期間で通そうとするのか理解に苦しむ。

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August 14, 2015

戦後70年談話はどのようなものになるだろうか

 よく聞く言葉に「今の日本をとりまく安全保障の状況が変わった」というコトバがある。

 つまりは、中国の軍事的脅威なのだと言う。具体的には、中国の軍事費の拡大と、南シナ海の南沙諸島での岩礁埋め立てや施設建設など、さらには東シナ海の日中中間線付近にガス田開発の海洋プラットホームを増設しているということだ。中国は周囲の海洋に進出するため、日本やフィリピン、インドネシア、台湾、マレーシアなどの領域に入り込み、勢力を拡大させようとしているというのが、中国の軍事的脅威を煽る人々の意見である。

 しかしながら、例えば、東シナ海での中国のガス田開発は今に始まったことではなく、またそのガス田としての有効性が疑問視されている。カンタンに言うと、資源として使い物になるかどうかかなりあやしいということだ。欧米の石油メジャーの策略に中国が乗ってしまったとも言えるだろう。日中双方の海域についても確定しているわけではない。

 南シナ海での中国の活動も、実際のところ脅威でもなんでもない。アメリカが大きな対抗策をとらないのも、アメリカのヘゲモニーが衰退したからではなく、その必要がないからだ。もちろん、中国はこれまでの状態を変えようとしている。かつてはイギリスが、現在はアメリカと日本が覇権を持つアジアの海域に、中国といういわば新興勢力が入り込もうとしているのである。当然のことながら摩擦や対立はある。これに対して外交で対処しようとするアメリカの姿は、これもまた当然の姿である。対立や摩擦があるのが、国際関係の常態なのだ。中国の脅威などといった、特別なことではない。

 とにかく中国がなにかすると、すぐに「中国の脅威」になる。今の日本をとりまく安全保障の状況が変わったのは、確かにそうかもしれないが、その状況の変化を作ったのは日本側が原因だ。今の日中関係の悪化は、安倍政権による日本側の強硬的な対中認識の裏返しである。今の日本が中国や韓国とこじれている最大の原因は、安倍首相およびその取り巻きの言動である。日本側の不必要な言動や行動と、反中・嫌韓感情を高めることをするので、中国や韓国も強硬な態度を取らざるを得ないのである。

 今の中国では近平国家主席は、かなり危機的な状況にある。韓国の朴槿恵大統領も同様である。中国も韓国も、ここで経済が崩壊したら自分の政権どころか、国が引っくり返るという状況にある。

 とてもではないが中国は、日本と紛争をやるヒマはない。そうした状態である中国に対して、やりようはいくらでもあるのだが、その逆に火に油を注いでいるのが安倍首相であり、さらには首相の支持基盤やお友達やネトウヨのみなさんである。

 現在の日中関係の不和は、江沢民政権の抗日政策の頃の日中関係の不和とは異なるものだ。現在の日中関係の悪化は、石原晋太郎元東京都知事による尖閣諸島の国有化発言から始まっている。そして、さらに前政権の民主党政権が尖閣諸島の国有化を表明した頃から、日中関係は本格的にモメ始めた。民主党政権での尖閣諸島の国有化以前にも、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件等での対応のまずさなどが悪化路線を開くものであった。そして、安倍政権の今日に至る。

 韓国の朴槿恵大統領は、北京で9月3日に開催される抗日戦勝記念式典に出席する方向で検討を進めているという。出席するとなると、日本や米国との摩擦が高まるだろう。韓国を中国側に向かわせたのは、日本の失敗といってもいいだろう。

 今、必要なことは集団的自衛権ではない。日本の安全保障を考え、中国に対抗するのならば、韓国を日米側につけることが現実的で合理的な対応である。それができるのは、アメリカではなく日本だ。中国に対応するには、日米関係の強化以上に日韓関係の安定と強化が必要であるのだが、安倍政権にはそうした思考はないようである。「今の日本をとりまく安全保障の状況が変わったので、日韓関係の安定と強化をすることが必要と判断しました」という発言は安倍首相にはできないようだ。

 日米安保の成立の過程、その内容および周辺事情についてなにも知らないから、アメリカは日本の防衛をしているけど、日本はなにもしていないじゃあないかと言われると、その通りですとカンタンに納得してしまうように、実は日本は財政的に多大な国際貢献をしていることが日本国内でも広く知られていない。

 安倍首相は「積極的平和主義」というわけのわからないコトバを言っているが、もし仮にそのコトバを用いるのであるのならば、戦後の日本はずっと「積極的平和主義」であった。国連供託金やIMF(国際通貨基金)や世界銀行などの国際機関に対する資金提供、さらに国別のODA(政府開発援助)その他もろもろ、日本は世界のためにそうとうな額の資金を出しているのである。

 しかしながら、そうした膨大なお金を出していながら、きちんとしたまとまったビジョンなり、戦略になりに基づいたアピールをしていないので、日本はその経済規模に見合った国際貢献をしていないと外国から言われると、そうした実感もなんにもないので、そうだよなとカンタンに納得してしまうのだ。

 「安保法案にはアメリカも周辺のアジア諸国も賛成している、反対しているのは韓国・北朝鮮と中国ぐらいだ」という声があるが、アメリカも周辺のアジア諸国も自分たちの利益になるから賛成しているだけだ。世界の心ある人々は、そんな日本に賛成はしないし、そんな日本を求めてはいない。また、軍事大国に二度となるつもりはありませんということを世界の人々は聴きたいのでのはない。

 日本は、この国際社会をどのようなものにしたいのか。環境問題や温暖化問題、難民問題や各地の紛争、貧困、疾病などの問題について、世界経済第三位の国である日本はどのように考えているのかを聴きたいのである。

 本日発表されるという戦後70年談話はどのようなものになるだろうか。

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August 10, 2015

『日本のいちばん長い日』

 原田眞人監督の映画『日本のいちばん長い日』(以下、原田版と呼ぶ)を見た。

 この映画は、1967年公開の岡本喜八監督の映画作品(以下、岡本版と呼ぶ)のリメイクである。実際のところ、「いちばん長い日」としての昭和20年8月14日から15日正午にかけてをきちんと描いているのが岡本版であり、原田版の方はその「いちばん長い日」に至ったその以前からの経過的な部分もある。いわば岡本版は、天皇による終戦の聖断という状況におかれた人々の群像劇であり、原田版はその状況に至った人々の話とも言えるだろう。

 重要な点は、その人々の中に岡本版では単なる役割でしかなかった昭和天皇を、原田版では登場人物としてはっきりと出しているということである。原田版は、英語タイトルが「THE EMPEROR IN AUGUST」になっている。終戦決定時の昭和天皇の姿を出したかったのであろう。その意味では原田版では、『日本のいちばん長い日』という邦題は正しくない。原田版は岡本版のリメイクでありながら、正しくは『8月の天皇』なのである。

 もともと『日本のいちばん長い日』は、ポツダム宣言を受けて日本政府が降伏を決定した時から、8月15日の玉音放送が行われた時までの、その間の陸軍大臣の姿と陸軍省と近衛師団の若手参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件も含めてなにがあったのかという話だ。岡本版のは、そのへんの動向が緊迫感と暑苦しさをもって描かれていたが、今回の原田版では、終戦を求める昭和天皇の意向と、本土決戦をもって最後まで戦う陸軍の間に立って苦悩する陸軍大臣と、敗戦を認めず決起する若手将校たちと、さらにもう一人、この戦争を終わらせる意思を最後まで貫く昭和天皇の四者の視点になっている。

 さらに言えば、原田版は状況が主軸だった岡本版から人を主軸としている。その人を陸軍大臣阿南惟幾と首相鈴木貫太郎、そして内閣書記官長迫水久常の3人を選らんだことは上手いと思った。そして、ここにもう一人、新たな主軸として、67年当はできなかった昭和天皇を置いたのである。このへん、原田版は上手い。堤真一の内閣書記官長迫水久常は、どことなく『クライマーズ・ハイ』の日航機事故担当全権デスクっぽさがあっていい感じだった。

 大ざっぱに言えば、終戦の決定は各人各様まったくバラバラでまとまることがない政府閣僚に対して、昭和天皇の聖断によってようやく決まったものだった。この政府閣僚のダメダメさは岡本版ではそうでもなかったが原田版ではダメダメ度合いが高い。閣議のシーンを見ていて、こりゃあ天皇をもってこなければ、まとまることはできなかっただろうなと思った。

 本来、大日本帝国は立憲君主制であり、天皇は政府の決定に介入することはできない。ただし、これはタテマエであって、その実体にはかなり曖昧なところがあった。しかしながら、そうであったとしても、原田版の中で少し語られていたが、天皇の意思で戦争が終結したとなると、天皇の戦争責任が成り立つことになる。このことは、後の東京裁判でメモる一件になる。そうなることは十分に予測できることではあったが、山崎努が扮する鈴木貫太郎首相が言っていたように、このかなりきわどいことをやらざる得なかった。とにかく、天皇の聖断でなければまとまらないのある。

 この矛盾というか、構造的な欠陥のようなものは、大日本帝国の政体そのものにあったとも言えるだろう。鈴木貫太郎首相は、そうした矛盾があることを知りながら、あえて天皇の聖断で戦争を終わらせようとしたのである。

 岡本版の笠智衆の鈴木は、いかにも笠智衆らしく飄々としたジイさんであったが、原田版の山崎努の鈴木は飄々としていながら、老練で優れた手腕を持つ人物という感じがしていた。山崎の鈴木と役所の阿南の双方が「みず」とコップを差し出すシーンはおもしろかった。原田版には、こーゆーアソビのシーンがある。

 ちなみに、この閣僚たちのバラバラさは、後の東京裁判での誰がこの戦争を始めたのかという責任者さがしの無意味さにつがっていく。正論で言えば本木昭和天皇が言ったように、昭和天皇の名でこの戦争始まり、昭和天皇の名でこの戦争は終わったのであって、昭和天皇その人に責任があると言えば確かにその通りで、それで話は終わってしまうのであるが、日本人側にもGHQ側にもそういうわけにはいかなかったということがあって、この処理の曖昧さが、その後の戦後日本にずーと引きずり続け、今日に至る。

 岡本版の天本英世が扮する横浜警備隊の大尉はとにかく狂気以外のなにものでなく、あの時、こういう人はいただろうなと思わせるものであったが、松山ケンイチの横浜警備隊の大尉は小もの感がはんぱなく、これもまたあの時、こういう人はいただろうなと思わせるものであった。松山ケンイチはいい役者だわあ。堤真一の迫水久常にせよ、原田版には岡本版への小ネタが多く、逆に物語としての構成が岡本版と比べると散漫なものになっている欠点はある。

 戦争は、始めるより終わらせるのが難しいと言われる。日露戦争の時はかろうじて持ちこたえた奉天会戦と、バルチック艦隊を殲滅させた日本海海戦での勝利があり、軍部は停戦交渉をする意思があった。太平洋戦争はただ一方的に敗北し続けた末の状態での、しかも停戦交渉ではなく無条件降伏である。心情としては、そうカンタンに終わりできるものではない。

 岡本版でも原田版でも、畑中少佐であったか、陛下が戦争をやめよといって、はいそうですかとやめることは死んでいったものたちに対してどうなのかみたいなことを言うシーンがある。これはこれで正論だと思う(この言い分が、戦争をずるずると長引かせたとも言える)。

 しかしながら、その一方で、この先も戦争を続けていくことは、さらに戦死者を増やすだけであり、ここで戦争を終わらせる必要はあると昭和天皇がいうのも正論である。結局、こっちの正論を言うことができるのは昭和天皇ただ一人であった。しかし、それじゃあ、日本の勝利を信じて死んでいったものたちはどうなるのか、という堂々巡りの循環はある。皆、この循環を背負って生きていくしかない。

 昭和20年に8月14日から15日かけて、こうしたクーデター未遂事件があったということは、戦後史の本の記述ではあまり見ることはなかったように思う。私は初めて岡本版映画を見た時、本当にこんな出来事があったのかと思ったものである。戦後日本の文脈で言えば、終戦に抵抗した若手将校たちの行動は狂気以外のなにものでもなく、絶対的に否定しなくてはならないものであったのだろう。このへん、岡本版にはそうした戦後日本の風潮に向かって、あの日、決起した若手将校たちの狂気さを見せつけるかのような気迫と緊張感がある。岡本版が公開された67年は、こうしたモロモロとゴタゴタがあって、今の日本があるという意識と雰囲気が濃厚にまだ残っている時代であったのだろう。

 これに対して戦後70年の年月がたった原田版では、岡本版のような最初から最後まで激烈な情感と、モノクロ画面から感じられる役者の汗が感じられることはない。しかしながら、決起という状況の中で、だんだんと狂気になっていく松坂桃李の畑中少佐は、これはこれで見応えのあるものだった。軍人というもの、特に帝国陸軍の陸軍省や参謀本部の参謀将校には、(もちろん、帝国海軍の軍令部もそうであったが)極端な狭窄さ、狭量さがあった。このへんが、原田版ではよく出ていたと思う。

 本木雅弘の昭和天皇は、見事の一言につきる。「あっそう」という言葉を出したのは驚いた。そこでまで出したのかという感じである。役所演じる阿南の前になにか人が立って、阿南が自分から敬礼をする。陸軍大将が敬礼する相手って誰だろって思ったら本木雅弘の昭和天皇だった。それりゃあ阿南は畏まるよなと思った。

 御前会議が終わり陛下は出て行く、閣僚たちもバラバラと席を立とうとしている。そこへ侍従の人らしき人が阿南に耳打ちをする。阿南は部屋を出る。はああ、これは天皇からのお呼び出しか。陛下は阿南になにを言うのか、と思っていたら、昭和天皇は阿南に、娘の結婚式は無事に済んだのかと訪ねられる。なんだい、そんな話かよと思ったと同時に、これは本当にあった会話なのかと思った。あの日の宮城内御文庫地下の防空壕の中で、昭和天皇は阿南陸軍大臣にこんな話をしたのだろうか。

 原田版での昭和天皇は、どの程度まで史実に基づいているのだろうか。原田版での昭和天皇は、こうしたことがあっただろうと納得ができる箇所もあれば、そうでない箇所もある。昭和天皇は、西欧的リベラルな教育を受けた人であったが、国民がどうこうというよりも、天皇として皇祖皇宗への思いが強い人であったという。原田版の昭和天皇は、どう見ても、軍を抑えることができず戦争に至ることになった昭和天皇と、終戦後の昭和天皇の姿に合わないところがある。

 偏った見方の記述が多いように感じられるとは言え、その内容を無視することはできないアメリカの歴史学者Herbert P. Bixの歴史書『Hirohito And The Making Of Modern Japan』の昭和天皇像は、どちらかと言えば国民のことを思っていた天皇ではない。原田版の昭和天皇は、あくまでも映画としての昭和天皇であり、史実の昭和天皇とは別のものと考えなくてはならない。

 陸軍大将阿南惟幾の「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」のは、誰に対しての「大罪ヲ謝シ奉ル」であったのかといえば、それは言うまでも天皇である。良くも悪くも大日本帝国陸軍は、国民の軍隊ではなく天皇の軍隊であった。幕末の戊辰戦争の官軍として始まった帝国陸軍は、8月14日から15日のかけての陸軍大臣の自決と将校たちの狂気の決起とその失敗をもって終わった。

 政治家たちはまとまらずバラバラで、内実は国際水準から著しく遅れたレベルで、「中国があ」と言うネトウヨが跋扈する今の時代とあの頃となにが違うのであろうか。この映画について小林よりのりは、再び天皇陛下に決めてもらわないといけないような時代にしてはならない、と言ったという。つまりは、この国はこの時となんら変わっていないということを言いたいのであろう。その通りである。

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August 01, 2015

『タイズ・ザット・バインド ~ジャパン・アンド・コリア~』を見た

 ニコニコ動画で、イギリスの番組制作会社 Blakeway Productions が制作した『タイズ・ザット・バインド ~ジャパン・アンド・コリア~』を見た。日本と韓国の双方の嫌韓・嫌日感情を扱ったドキュメンタリー番組である。8月7日に後編をやるようだ。

 番組は秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役から始まっている。このへん、なぜ秀吉の朝鮮出兵から始まるのかというと、今の韓国では日本の朝鮮侵略は秀吉の時代から始まっているとされているからだろう。

 しかしながら、日本の朝鮮半島への出兵は6世紀あたりから何度も行われていた。通常、日本と朝鮮の関係史は、日本が倭国と呼ばれていた時代から始まる。それをいきなり日本への恨みは、秀吉の朝鮮出兵から始まるとされても、日本人の常識的な感覚と合わない。そういうことを言うから、それじゃあ、元寇でモンゴルに命じられて一緒に日本に侵攻したのはどういうことなのだという不毛な会話になるのだ。

 実際のところ、秀吉の朝鮮出兵がどうこうではなく、朝鮮の壬午事変や甲申政変を考えないと、なぜ日韓併合に至ったのかということはわからない。逆から言えば、今の日本と韓国の双方の嫌韓・嫌日感情には、きちんと物事を考えようという意識はないということだ。

 もうひとつ思ったのは、台湾の対日感情との比較の視点がなかったということだ。日本の台湾統治は朝鮮統治より期間は長かった。今日の台湾での対日感情と韓国での対日感情を比較してみると、台湾では日治時代のその功と罪の双方を素直に見る視座があるのに対して、韓国では台湾のような視座が今だ現れてこない。この違いがあるのはなぜなのだろうか。もちろん、台湾統治と朝鮮統治は、その背景や過程は大きく異なるものであるが、この違いがあることは大きい。

 この番組を見てつくづく思うことは、今日の日本と韓国に、お互い嫌韓・嫌日感情があるという奇妙さである。この東アジアの島国と半島国の人々は、なにゆえ今もなお、お互いがお互いを嫌うのだろうか。

 その理由は、無能な政治家による国内の社会問題の不満をそらすための都合のいい手段としての「排他的ナショナリズム」があることと、さらにメディアにあふれる断片的な情報が、人々に陰湿な憎悪を植えつけ、増長させているからだ。今の日韓関係の異常さは、これを放置している双方の無能な政治家たちとメディアによって作られたものである。

 よく言われる意見に、アジアはヨーロッパのEUのような「ひとつの集合体」にはなれない。中国と韓国と日本が「ひとつ」のまとまりになることはありえない、という意見があるが、今のそうした国民感情を作ったのは政治であって、本来は、そうではない国民感情をおのおのの国が持つことは可能であった。少なくとも日本と韓国においては、今とは違った対日感情、対韓感情がある可能性があったと思う。番組の中で、独島(竹島)ツアーに行く韓国の人々のシーンがあったが「独島は韓国領だ!」と言う人々よりも、例えばソウルの本屋さんで日本の雑誌やコミックを手にとっている人々の方が自然に思える。

 日本人が、韓国の嫌日感情にまともなものを感じないように、今の安倍政権の姿もまた韓国からみると、まともなものに見えない。靖国神社参拝にしても、戦争で亡くなった英霊を追悼するのがなにが悪いのかという論理は、侵略された側には通じないのは当たり前のことだ。首相が靖国参拝をする姿を見て、どうも日本人は謝罪しているとは思えないと思うのが人間の当然の心理である。この番組を見てもわかるように、もはや日本と韓国のお互いの「排他的ナショナリズム」は、どちらもカルト宗教のようなものになっている。

 大陸中国、香港、台湾、シンガポールに「ひとつの中華文化圏」があるように、日本も含めた東アジアにはボーダーレスな「ひとつの経済圏」があり、そこでは日本のアニメやコミックや音楽や出版や映画の「商品」や「情報」が流通している。そうしたもの潮流の方が、今やカルトと言ってもいい「排他的ナショナリズム」よりも強いし、かつ自然なものだ。この自然な流れの上に成り立つボーダーレスな世界を、無能な政治家と「排他的ナショナリズム」が妨げているのである。

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