この歪んで屈折した感情に押し流されてはいけない
昭和26年にGHQの占領が終わり日本が独立することについて、アメリカと日本にとって問題であったのは、日本国内に駐在している占領軍、つまりは在日米軍をどうするのかということであった。
もちろん、在日米軍の撤廃をすれば、国の防衛をどのようにするのかという問題が出てくる。憲法9条を保持し、国連の指示に従うこととするか、あるいは改憲をして再軍備をし、アメリカとの集団的自衛権をもって国の防衛とするか、様々な選択肢が考えられたが、いずれにせよ、日本国の国内、特に沖縄に、期限が定まっているわけでもなく半永久的に存在し、基地内では治外法権を持ち、基地上空は日本の航空機は入ることはできず、日本国の防衛を主たる任務としているわけではなく、日本の周囲だけではなく地球上のどこにでも軍事行動をとることができる在日米軍の基地というものの撤去こそ、GHQの占領が終わった直後の日本の政治家たちの思いであった。
今の日本国憲法は、アメリカが作った、アメリカからの押しつけであるという認識がある。しかしながら、GHQと日本国憲法の制定の交渉に関わった幣原喜重郎にも吉田茂にも、そうした意識はまったくなかった。その当時の国民世論もマスコミも「押しつけ」とはまったく思っていなかった。自由党は自分たちの憲法改正案と一致すると言い、帝国議会では、共産党を除き全員一致でGHQが作成した憲法修正案に賛成していたのである。もちろん、反対者はいた。憲法学者の美濃部達吉はGHQの憲法修正案に反対した。しかし、政治家全般、憲法学者全般は、憲法はGHQ案以外にはないと考え、反対することはなかった。
これが「押しつけ」だと言われるようになったのは、占領が終わり、アメリカの政策が「逆コース」、つまりソ連に対抗するために、日本を再軍備させようという方針に転換した1954の頃からであるという。言い始めたのは、鳩山一郎や岸信介らである。彼らは終戦直後は公職追放や戦犯として刑に服しており、幣原や吉田のように憲法制定の現場にはいなかった者たちである。アメリカの「押しつけ」だと言うのならば、日本側にもそれに対抗できるしっかりとした憲法案がなくてはならないが、とてもではないが日本側はそうした憲法案を提示できるレベルではなかったということを幣原や吉田は身をもって体験していたが、その当時、巣鴨プリズンにいた岸などにはそうしたことがまったくわからなかったのである。
マッカーサーの構想では、なによりもまず天皇制の存続が必要であった。しかしながら戦争に勝利した連合国の国々が戦争責任があるとしている天皇をそのままにしておくことはできることではなかった。そこで、マッカーサーは日本を完全な戦争放棄の国にし、封建的な制度は徹底的に廃止することとした。日本を戦争放棄の国にさせるので、連合国の国々は天皇制を存続することを受け入れるようにしたのである。
日本側は、天皇が存続されることをもって、GHQ案を承認したと言ってもいい。戦争放棄のことは、いわばどうでもよいことであった。しかしながら、アメリカ側はそうはいかなかった。日本に戦争を放棄させることで、世界の世論を天皇制の存続を認めさせるようにしたが、そうはいっても日本に米軍を駐留させることは、アメリカの対共産主義戦略にとって必要不可欠なのである。
マッカーサーの意思は、共産主義陣営への軍事行動とアメリカ合衆国の防衛のために沖縄を使うということである。当然のことながら吉田茂にはそうした考えはなかった。なかったどころか、吉田は未来永劫に日本にアメリカ軍が駐在して欲しいとも思っていなかった。しかしながら、今日の安保条約と沖縄の姿になぜなったのだろうか。いわば、日本本土の戦争放棄を可能とするために、沖縄を差し出すことに、日本側の誰が、あるいはなにが承認したのか。これらは、未だ明らかになっていない。ひとつの重要なポイントは、昭和天皇にはその意思があったということである。
日米安保は、アメリカは日本国内に米軍基地を置き、日本国の安全に寄与するために使用することができるが、それは義務ではない。アメリカ側の意向ひとつで、これは日本防衛の範疇に入る、入らないと決めることができるものである。米軍の基地内及び基地の外部であっても、米軍人の犯した犯罪を取り締まることは日本側はできない。米軍基地の維持費は日本が負担する等々、日米安保条約は植民地的とも言える条約になっている。日本政府は、この不平等条約をなぜ承認したのだろうか。吉田茂ほどの国際感覚と外交センスを持つ政治家がこれを承認したとは思えない。このへんは、未だ明らかになっていない。
日米安保条約は、沖縄のことも含め、この時代の冷戦下のアジア諸国のリアルな状況を踏まえ、日米双方が相応の「負担」と「義務」を背負うきちんとした軍事同盟であれば、その後の半世紀以上になってもまだ問題を抱え続けることはなかった。しかしながら、これがこの時代の人々のできる精一杯のことであった。
吉田は、サンフランシスコ講和会議の全権になるのを最初は拒否したが、最終的には昭和天皇への拝謁後、それを引き受けることなる。サンフランシスコの講和会議の舞台となったオペラハウスとは別の、プレシディオ国立公園の下士官用クラブハウスの一室で行われた日米安保の調印式に、吉田は他の随行を認めず、たった一人で署名をする。この時、吉田の心中にあったものはなんであったのだろうか。
せめてもの考え方をするのならば、この時に日本側が最後まで守り切ったのは、安保の「外部」のことに、日本が軍事的に関わることはアメリカから求められない、つまり日本は憲法9条を保持し続け、個別的自衛権に留まるということであろう。このことをもって、日本は再軍備をせず、冷戦下のアジアの戦争に派兵せよというアメリカの指示を拒否することができた。日本は、朝鮮戦争にもベトナム戦争にも派兵することはなかったのである。
いわゆる「安保タダ乗り論」というものがある。アメリカは日本の防衛のために戦うのに、日本はなにもしないのはおかしい、という俗論である。実際のところ、日本防衛の任務活動を行っているのは自衛隊であり、在日米軍の主な任務は日本国の防衛ではないのだが、それは別としても、日本はなにもしてこなかったわけではない。他の国々での駐留している米軍基地と比較しても植民地的条件とも言える日本の在日米軍への基地の提供、「思いやり予算」の支払いがある。特に「差し出された」沖縄が受けてきた「負担」については、「政府から多額のカネをもらってきただろう」という恫喝では、とても清算にはできないものがある。
むしろ「安保タダ乗り」「沖縄タダ乗り」しているのはアメリカ側であり、事実、ジョン・フォスター・ダレスの思惑は「望む数の兵力を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を確保」しようとしたものであったし、その通りになった。その後、自民党政権は安保条約の持つ様々な不平等なことについて、そうしたことを政治課題としてまともに挙げることはしなかった。
そして、ついにというか、とうとうというか、日本は安保に「タダ乗り」しているから集団的自衛権を持たなくてはならないのだという、およそ理解し難いことを総理大臣が言う世の中になってしまった。本来であるのならば、アメリカは安保に「タダ乗り」しているから、沖縄の過度な負担や不公平な様々なことをなくさなくてはならないと言うべきなのであるが、そうしたことは言わないのである。
「60年や70年の安保闘争で大規模な反対運動が起きたが、その後、なにも問題はなかったじゃあないか」と言う声があるが、この不平等関係と沖縄問題をそのままにして、なにも問題はなかったというのは無知としか言い様がなく、知っていてそう言うのであるのならば無恥であるとしか言い様がない。日本国憲法は「押しつけ」とか、安保条約が「タダ乗り」になるとは、それらの制定に関わったあの当時の日本人の誰一人として思ってもいなかったことであろう。今の憲法は「押しつけ」憲法であり、日本は安保に「タダ乗り」しているというのは歪んで屈折した感情でしかない。
この歪んで屈折した感情に押し流されてはいけない。
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