イルカ猟について
世界動物園水族館協会(WAZA)からの和歌山県太地町で捕獲されたイルカの入手をやめよという要求を、日本動物園水族館協会(JAZA)が受け入れたことについて考えてみたい。
大地町で捕獲されたイルカは、日本の水族館等だけではなく、中国や韓国、ロシアなどの施設にも販売されているが、世界動物園水族館協会(WAZA)は日本の水族館の太地町からのイルカ入手だけを問題視したことを見ても、バックにいる動物愛護団体からの日本への圧力だったことは言うまでもない。
欧米の動物愛護団体に大きな影響を与えたと言われている映画『コーブ』の追い込み漁のシーンは、違法撮影とか隠し撮りとか言われているが、確かに血に染まった殺戮光景であり、見ていて気持ちの良いものではない。この追い込み漁でのイルカの屠殺方法については、その後、和歌山県太地町はデンマークのフェロー諸島で行われている方法に変えている。このことにより、以前より(映画『コーブ』のシーンより)この方法では、屠殺時間は10秒程度に短縮され、イルカの傷口も小さく、出血も殆ど出なくなったという。
ただし、では、だから残酷ではなくなったとは言えないだろう。和歌山県太地町は、今はああした(映画『コーブ』のような)方法で行っていないと言っても、生き物を殺すのである。現在行われている追い込み漁も、撮影のしかたによって十分に残酷なシーンとして撮影することはできる。実際のところ、太地町は、現在の追い込み漁の姿を公開してないのはそうした理由によるのだろう。今の方法であっても、広く世の中に公開すれば、たとえ日本国内であっても世論は「残酷だ!」「イルカがかわいそう」になるのは明らかである。
なにしろ、生きている生き物を殺すのだ。「残酷」でないわけがないのである。イルカの追い込み漁は「残酷だ!」「いや、残酷ではない」の話になったら、実際のやっていることを見ると人々の声はどう転んでも「残酷だ!」の方に傾く。これはやむを得ないことなのである。それは牛や豚や鶏が、工場で屠殺されて食用肉となっていくシーンを見ても同じだろう。これを「残酷」と感じるのは人間の自然な感情であり、その「残酷」なことを行って、我々は生きている。
伝統文化だから云々、というのも説得力はない。日本の伝統文化で、今はもう失われてしまったものは山のようにある。時代の変わり、世の中が変わり、人々の意識が変わることでなくってしまうことは数多くあり、これを妨げることはできない。仮に、日本からイルカの追い込み漁がなくなったとしても、世界はもとより、日本国内の人々の大多数の生活はなんら困ることはない。イルカ猟は伝統文化だから守るべきだというのならば、これまで失っていった数多くの伝統文化や、今、衰退の一途を辿っている他の伝統文化はどうなのであろうか。
牛や豚や鶏の屠殺も決して気持ちの良いものではない。「残酷」である。しかしながら、では、「残酷」だからということで、牛や豚や鶏の屠殺をやめるとなった場合の食生活に与える影響と、イルカ猟をやめるとなった場合の食生活に与える影響の度合いは大きく違うものである。
イルカ漁がなくなることで、日本の伝統文化が失われるという理屈は外国には通じない。日本人は、すでにイルカ猟以外にも数多くの伝統文化を失っている。さらに、イルカ漁がなくなることで、世界はもとより、日本人の大多数も困るわけではない。この事実の上で、イルカ猟は生き物を殺戮するという「残酷」なことをやっているという前提をきちんと把握する必要がある。狩猟というのものは、本質的に「残酷」なものなのである。
本来、この前提を踏まえた上で、外国からの要求に議論をするべきものなのだ。
今のイルカ猟の問題は、いわゆる伝統文化なのか、産業としての漁なのかが中途半端になっているということだ。この問題には、たんにイルカのことだけではなく、牛や豚や鶏を食肉にするということはどういうことなのか。そもそも残酷な行為である狩猟の意味はなにか、などといった数多くの深いテーマがある。これらは、日本がとか、欧米がとかいったことではなく、私たち、人類の普遍的な問題だ。
イルカ猟が失ってはならない伝統文化であるのならば、しかるべき古来の方法で「伝統芸能」として行っていくべきだし、産業としての漁であるのならば需要やコストで判断する必要がある。ここが曖昧になっていて、(「残酷」なことをやっている)イルカ猟を今後どのようにするのかという明確な方針なり方向性がなく、ただ「日本の文化に欧米が文句をつけるのはおかしい」「どこが残酷だというのか」「世界からのいじめだ」「人間よりも動物が大事なのか」等々と言っているのが今の状態だ。
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