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June 2015

June 25, 2015

亡国の安保法案

 国の防衛ということを本当に考えるのならば、集団的自衛権という対米従属以外のなにものでもないことで国会を95日間延長するよりも、中国といかに信頼関係を作っていくかということについて95日間延長して討議した方が遥かに有意義だ。

 新しい産業の創生や教育改革など、この20年間どころか、1980年代以後のこの30年の間に政治がやるべきことであったのにやってことなかったことが山のようにある。そのへんのことがしっかりとわかっているのならば、戦後レジュームからの脱却だとか、アベノミクスとやらで株価が上がったとか、集団的自衛権とか言っている場合ではない。

 常識的に考えて、日本国の安全保障は従来の個別自衛権で十分対応可能であり、これ以上、これ以下は必要ない。個別的自衛権でできないのは、同盟国アメリカが攻撃されている時、日本の自衛隊がこれを援助する(戦闘に参加する)(ちなみに、後方支援も兵站という「戦争参加」である)ということだ。これが「イヤだ」というのが、集団的自衛権を主張する人々の意見であるが、私にはなにが「イヤ」なのかさっぱりわからない。

 もちろん、これまでの専守防衛をやめ、積極的に世界の平和に軍事的に貢献したいという考えはあってしかるべきだと思う。その場合は、まず憲法を改正し、次に自衛隊関係法案を改正し、自衛隊の装備や組織の抜本的な変革が必要である。自衛隊を、そうした「積極的に世界の平和に軍事的に貢献する」ことができる軍隊にしなければならない。例えば、アメリカ軍をしっかりと支援し、日本近海と日本国の安全を守るためには航空母艦も必要だ。その費用は安くはない。「正しい」軍隊を作り、維持していくのならば、しかるべき額の国家予算を投入する必要があるのである。

 しかしながら、今の政府はそこまでする気はなく、憲法解釈という小手先のことだけで済ませようとしている。

 ようするに、安倍晋三さんは、アメリカのご機嫌取りをしたいだけのである。アメリカの心ある人々は、アメリカ軍の危機に対して自衛隊がなにもしなくても、なんとも思わない。というか、そもそも、アメリカは日本の自衛隊が世界最強のアメリカ軍を「助ける」ことができるとも思っていないし、日本の自衛隊に「助け」を求めようという意思すらない。今の装備の自衛隊ができることは、アメリカ軍の下請け作業のような程度のものである。

 自衛隊にアメリカ軍を「助ける」ことができる装備と権限と予算を与えるという実質的な話が、安倍晋三さん及びその周囲の人々からひとつも出てきていないのは、つまりは、自衛隊をアメリカ軍の下請け業者として差出し、アメリカのご機嫌取りをしたいだけなのである。中国の脅威を喧伝していながら、やっていることは憲法解釈だけで、これをもって安全保障体制の確立なのだというのはさっぱり理解できない。むしろ、今の憲法9条に固執することの方が、相手の国は日本に戦争をしかける、国際社会が納得できる大義名分を立てることが困難になるということで、よっぽど「抑止力」になる。

 さらに言えば、このテロの時代に、集団的自衛権がどこまで国の安全保障になるのか、そうした議論もさっぱりない。テロ筆頭とも言うべき「イスラム国」に対して、日本はイスラエルについては一定の距離を持ち、中近東諸国への一番の支援国であり、イスラム教を十分に理解し、世界のイスラム教国の友好国であるというイメージを世界に確立させることが必要だ。なにが国の安全保障になるのかということについて、軍事一辺倒だったこれまでの考え方の根本を変えなくてはならなくなってきているのだが、そうした話は例によって安倍晋三さん及びその周囲の人々からひとつも出てきていない。

 彼らにとって、日本の国家存亡の危機とは、とにもかくも日米関係が悪化すること、ただそれだけである。日本が攻撃される可能性があるとか、日本国民が危機に直面するというのは国民に向けてのごまかしであり、本音は日本が自らアメリカ軍の下請けになってアメリカのご機嫌取りをすることで、日米関係を不動のものとすること、それが日本国にとっての最大の安全保障なのであると彼らは考えているのである。

 国の安全保障が憲法学者の解釈で左右されるのはおかしいという声があるが、国家存亡の危機に直面したのであるのならば憲法にかまっているわけにはいかないのは当然のことだ。今、論じていることは、国家存亡の危機が目の前にあるわけでもない平時のあり方を論じているのであり、そのあり方において憲法が基盤にはなるのは当然のことだ。ここの区別がつかず、国の安全保障に憲法学者が口をはさむな的な意見は、戦前の日本で軍部が増長していった時の姿と同じだ。これが国を滅ぼした。

 今の安倍政権がやみくもに通そうとしている集団的自衛権は、平成11年の周辺事態法が拡大発展したものだ。周辺事態法の背後には、戦後の日本のあるひとつの基本理念がある。ひたすら対米従属の日本であること、そして戦前の大日本帝国の国体を復活させようという意思は、太平洋戦争に敗北し、アメリカの占領下になった時からの日本の政治の基本理念のひとつであった。吉田茂にはこうした意識はなかったが、こうした考え方を持つ政治家たちの代表が岸信介や佐藤栄作であった。今、この流れの中に安倍晋三総理大臣もいる。

 安倍晋三さんは、対米依存べったりだった母方の祖父の岸信介やその実弟の佐藤栄作のような人である。しかしながら、今、必要なのは、独自の対米ビジョンを持っていてアメリカ受けのよくなかった、吉田茂や石橋湛山や池田勇人や田中角栄のような政治家である。

June 21, 2015

日韓基本条約から50年がたった

 日本と韓国の間で1965年に日韓基本条約が結ばれ、日韓国交正常化が達成してから、22日で50年になるという。本来であれば、大々的な催しが行われるのだろうが、日韓両政府は22日、双方の大使館が東京、ソウルで国交正常化を記念する式典を開くだけであるという。安倍晋三首相と朴槿恵大統領は出席はしない。双方、日韓基本条約などというものはなかったことにしたいようだ。

 新聞やテレビは、依然として日韓関係の悪さを風潮しているが、それは政治の話であって、経済やサブカルやメディアなどいった政治以外では、日本と韓国は「ひとつの経済圏」になっている。歴史認識で隣国どおしが政治的にもめているというのは、世界の国々の至る所にある「よくあること」であって、日本と韓国だけの出来事ではない。今の日本と韓国のような不和は、いわばあたまえの正常な状態なのだと言えるだろう。

 韓国が日本を恨むのは当然のことであり、恨まれて当然のことを日本はやった。恨まれて当然のことを日本はやったのであるが、日本側からすれば、あの時代の時代背景を考えれば、これも当然と言えば当然のことをやったという言い分はあるだろう。

 そもそもの話をするのであるのならば、大清帝国が西欧列強のアジア侵略をはねのけることができる強国であったのならば、その後のアジア史は変わっていた。日本は、明治維新をやることもなかった。

 しかしながら、そうはならなかった。西欧列強の軍事力の前にさらされた日本にしてみれば、なりふり構わずの富国強兵をする以外に方法はなかった。朝鮮は近代国家として独立し、日本とともにヨーロッパのアジア侵略に対抗することをなぜしないのか。日本列島から朝鮮半島を眺めると、そうした思いがあったのであろう。だから他国を侵略して良いという話しにはならないが。

 なぜ朝鮮は、清朝中国にもロシアにも依存しない、自ら独立した近代国家になれなかったのか。なぜ日本は朝鮮の独立を最後まで助けることをせず、最終的に日韓併合に至ったのか。日本と韓国の国レベルの間で、このへんの本質的な歴史認識の対話は未だ行われたことがない。従軍慰安婦という、いわば末端の出来事だけが持ち出されて、日本と韓国は、自国の歴史について本当に議論すべきことを議論していない。

 今現在の国の政治がどうであろうと、日本と韓国はこの先も存在し続ける。たとえ、この先「日本国」や「大韓民国」という国がなくなっても、日本列島と朝鮮半島に住む人々は存在し続ける。この日本列島と朝鮮半島に住む人々は、数千年のタイムスケールで、お互いがお互いに関わってきたのである。

 そうした本質的な議論を、政治家やマスコミも含めて、日韓双方の人々が対話できるようにならなくてはならない。従軍慰安婦で歴史認識がどうこうと言っている現状では、とても話にならない。

June 07, 2015

イルカ猟について

 世界動物園水族館協会(WAZA)からの和歌山県太地町で捕獲されたイルカの入手をやめよという要求を、日本動物園水族館協会(JAZA)が受け入れたことについて考えてみたい。

 大地町で捕獲されたイルカは、日本の水族館等だけではなく、中国や韓国、ロシアなどの施設にも販売されているが、世界動物園水族館協会(WAZA)は日本の水族館の太地町からのイルカ入手だけを問題視したことを見ても、バックにいる動物愛護団体からの日本への圧力だったことは言うまでもない。

 欧米の動物愛護団体に大きな影響を与えたと言われている映画『コーブ』の追い込み漁のシーンは、違法撮影とか隠し撮りとか言われているが、確かに血に染まった殺戮光景であり、見ていて気持ちの良いものではない。この追い込み漁でのイルカの屠殺方法については、その後、和歌山県太地町はデンマークのフェロー諸島で行われている方法に変えている。このことにより、以前より(映画『コーブ』のシーンより)この方法では、屠殺時間は10秒程度に短縮され、イルカの傷口も小さく、出血も殆ど出なくなったという。

 ただし、では、だから残酷ではなくなったとは言えないだろう。和歌山県太地町は、今はああした(映画『コーブ』のような)方法で行っていないと言っても、生き物を殺すのである。現在行われている追い込み漁も、撮影のしかたによって十分に残酷なシーンとして撮影することはできる。実際のところ、太地町は、現在の追い込み漁の姿を公開してないのはそうした理由によるのだろう。今の方法であっても、広く世の中に公開すれば、たとえ日本国内であっても世論は「残酷だ!」「イルカがかわいそう」になるのは明らかである。

 なにしろ、生きている生き物を殺すのだ。「残酷」でないわけがないのである。イルカの追い込み漁は「残酷だ!」「いや、残酷ではない」の話になったら、実際のやっていることを見ると人々の声はどう転んでも「残酷だ!」の方に傾く。これはやむを得ないことなのである。それは牛や豚や鶏が、工場で屠殺されて食用肉となっていくシーンを見ても同じだろう。これを「残酷」と感じるのは人間の自然な感情であり、その「残酷」なことを行って、我々は生きている。

 伝統文化だから云々、というのも説得力はない。日本の伝統文化で、今はもう失われてしまったものは山のようにある。時代の変わり、世の中が変わり、人々の意識が変わることでなくってしまうことは数多くあり、これを妨げることはできない。仮に、日本からイルカの追い込み漁がなくなったとしても、世界はもとより、日本国内の人々の大多数の生活はなんら困ることはない。イルカ猟は伝統文化だから守るべきだというのならば、これまで失っていった数多くの伝統文化や、今、衰退の一途を辿っている他の伝統文化はどうなのであろうか。

 牛や豚や鶏の屠殺も決して気持ちの良いものではない。「残酷」である。しかしながら、では、「残酷」だからということで、牛や豚や鶏の屠殺をやめるとなった場合の食生活に与える影響と、イルカ猟をやめるとなった場合の食生活に与える影響の度合いは大きく違うものである。

 イルカ漁がなくなることで、日本の伝統文化が失われるという理屈は外国には通じない。日本人は、すでにイルカ猟以外にも数多くの伝統文化を失っている。さらに、イルカ漁がなくなることで、世界はもとより、日本人の大多数も困るわけではない。この事実の上で、イルカ猟は生き物を殺戮するという「残酷」なことをやっているという前提をきちんと把握する必要がある。狩猟というのものは、本質的に「残酷」なものなのである。

 本来、この前提を踏まえた上で、外国からの要求に議論をするべきものなのだ。

 今のイルカ猟の問題は、いわゆる伝統文化なのか、産業としての漁なのかが中途半端になっているということだ。この問題には、たんにイルカのことだけではなく、牛や豚や鶏を食肉にするということはどういうことなのか。そもそも残酷な行為である狩猟の意味はなにか、などといった数多くの深いテーマがある。これらは、日本がとか、欧米がとかいったことではなく、私たち、人類の普遍的な問題だ。

 イルカ猟が失ってはならない伝統文化であるのならば、しかるべき古来の方法で「伝統芸能」として行っていくべきだし、産業としての漁であるのならば需要やコストで判断する必要がある。ここが曖昧になっていて、(「残酷」なことをやっている)イルカ猟を今後どのようにするのかという明確な方針なり方向性がなく、ただ「日本の文化に欧米が文句をつけるのはおかしい」「どこが残酷だというのか」「世界からのいじめだ」「人間よりも動物が大事なのか」等々と言っているのが今の状態だ。

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