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April 2015

April 19, 2015

リー・クアンユーが亡くなった

 先月の23日、シンガポールの建国の父とも呼ばれるリー・クアンユー元首相が亡くなった。

 シンガポールは、言うまでもなく「島国」である。東南アジアに位置し、マレー半島の先端からジョホール海峡を超えたすぐ先にある。何度も言って恐縮だが、シンガポールは島である。天然資源もなんにもない、島なのである。

 このなにもない島の上に、一人あたりGDPで日本を上回る5万ドルを超える経済大国がある。それがシンガポールだ。フツーの感覚で言えば、こんなところでそんな国ができるわけがないと思うだろう。

 ここで日本の話になる。明治の話である。明治は良かったという声がある。しかしながら、明治時代の日本は、その前の江戸時代よりも強固な管理社会であり、権威主義であり、庶民にとっては過酷な社会だった。まだ江戸時代の方が気楽だったとも言えるところが数多くある社会だった。そういう社会にせざる得なかったということは言えるが、暗く陰惨なところがある時代だったとも言えることは否定できない。明治は有司専制だった。アジアの小国だった日本を、革命政府が強制的に近代国家にさせたのが明治時代だった。

 シンガポールにも、同じことが言えるだろう。19世紀からイギリスの植民地であったが、20世紀になり日本の占領を経て、第二次世界大戦以後は、イギリスの植民地から独立し、マレーシア連邦のひとつになる。1963年に、マレーシア連邦から分離独立してシンガポールになる。いわば、マレー半島の先端の島の上に、華人を中心とした人々が独立して国を創ったのである。しかしながら、天然資源もなにもない小さな島なのだ。この先、どうやって国を維持していくのか。

 リー・クアンユーがやったことは、シンガポールを徹底的な独裁国家にしたということだ。自由がどうこう、民主主義がどうことではなく、まず国を維持していくこと、経済を豊かにさせることが優先事項とした。専制的にやっていかなくては、とてもではないがやっていけないとしたのである。

 まず、リーは日本に学んだ。戦後日本の経済復興に学び、日本の製造業のやり方を積極的に導入した。次に、第二次産業が時代の主流ではなくなると、今度は規制を撤廃して、外国企業をシンガポールに誘致することでサービス業や金融業といった第三次産業をシンガポールの基幹産業した。シンガポールがやっていることは、アイルランドやフィンランドやアイスランドやエストニアなどがやっているIT立国の姿と同じだ。

 この人物の優れていたことは、この人はよくいる私利私欲にふける無能な独裁者ではなく、私欲にふけることなく、自国の発展のためにはどうしたらいいのかを考え抜き、それを徹底的に実行し、見事な成功へと導いた有能な独裁者だったということである。国に優れた政治家が出現すれば、これほどその国は発展するのかという例のお手本になるとも言って良いほど優れた政治家であった。、リー・クアンユーは、アジアの偉大な指導者であり、歴史に残る優れた人物であった。

 一党支配の独裁国家ということでは、大陸中国も同じであるが、中国とは国の規模が違う。有効に機能する独裁体制が維持できるのは、シンガポールが小国だからである。大陸中国で同じことをやると、国が大きいため、国家の意思を周知徹底させることができない。シンガポールでは、それができた。

 しかしながらその一方で、何度も言うが、リー・クアンユーは国権主義の人であった。シンガポールでは、道端にごみを捨てると即罰金である。マーライオン広場やオーチャードロードを歩いてみるとよくわかるが、市街地は見事な程きれいで清潔であり、ゴミひとつない。同じ東南アジアの台湾やタイやマレーシアにある、アジアの雑多さの感覚がこの国にはない。住みやすさの感覚で、シンガポールと香港のどちらを選ぶかと言えば、私は香港を選びたい。文化を創造するという点においても、シンガポールはどうなのかと思う。ただし、シンガポールは、なにもない小さな島なのである。その特殊さがある。なにもない小さな島が、日本以上の豊かを持つということもかなり特殊なことであり、そうした点を差し引く必要がある。小国の経済政策の観点、人が住む社会としての国のあり方についてなど、シンガポールから学ぶべきことは多い。

 リー・クアンユー亡き後の今、大国中国を前にして、これからのシンガポールがどうなっていくかについて注目していきたい。

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April 11, 2015

アジアインフラ投資銀行への参加について

 中国が提唱するAIIB(アジアインフラ投資銀行)に日本が参加しないことで、中国を過小評価していると各方面から批判の声が挙がっている。

 「深夜のNews」は、アンチ安倍で親中だから、きっと日本がAIIBに参加しないことを、これぞとばかりに批判するだろう。AIIBの設立はアメリカの影響力の低下を意味している、21世紀は中国の時代なのだ、等々と、きっと真魚さんはそう言うだろうと思うかもしれないが、そう思われた方は申し訳ありません。私は今の時点で、日本はAIIBに参加する必要はないと思う。

 理由は簡単だ、自国の企業(中国では公司になるが)をきちんと監督、管理できない中国が、どうして開発国での投資ファンドをうまく運営することができるのだろうか。投資というのは、カネがあれば誰でもできる。しかしながら、そこからきちんとした利益を上げることができるように運営していくのは、それ相応の「運営力」がいる。開発国での投資は、世銀のプロジェクトでさえうまくいっていないものが多く、成功させるにはかなりの高度な能力を必要とする。融資に失敗し、債務不履行になれば、その国が経済危機になることもある。

 80年代に、日本の金融もバブル期におカネをじゃんじゃんと入ってきたが、日本の銀行や証券会社は、投資で資金を運営していくノウハウが大きく劣っていて、結局のところ相当な額のカネをどぶに捨てたことになってしまった。いや、中国には、そうした運営力、金融力はある。巨額のチャイナマネーで、多いに利益を上げることができると言う意見もあるかもしれないが、私にはとてもそうは思えない。今の中国は、まだそこまでになっていない。

 20世紀に、アメリカが世界の覇権国になったのは、それ相応の実力をアメリカは生み出してきたからである。1971年に変動相場制になり、ブレトンウッズ体制が崩壊したが、基軸通貨としてのドルの地位を維持し、アメリカの金融業界は、80年代に金融工学を躍進させ、当時新興だったIT技術を取り込んで徹底的な自己革新を行ってきた。その道のりは並大抵なものではなかった。今のアメリカの金融のレベルには、まだまだ中国は及んでいない。

 アメリカや日本は、AIIBは公開性や透明性が十分ではないので参加を見合わせたとしているが、そもそもIMFや世銀も透明性が十分とは言いがたいところがあるので、透明性云々は参加しないことの理由にはならない。AIIBは中国が主導になる。いや、初期に参加すれば主導メンバーになると中国が言っているではないか、その初期メンバーになることを、日本は逃したではないかという意見があるかもしれないが、初期メンバーになったところでAIIBは中国主導である。カネを多く出した国が主導になることは当然のことであり、AIIBはチャイナマネーでやっていくのならば、初期メンバーがどうであろうと中国の主導になる。

 今の金持ち中国は、すぐ張子の虎を持ちたがる。今の中国海軍では使いこなすことができない旧ソ連製の空母を持ったり、南シナ海で船舶を増やしたり、とにかくに今の中国のやり方は、規模を大きくしたり、数を増やしたりすることばかりで、実質的な中身についてはお粗末なことが多い。シルクロード経済圏はともかくとして、今回のAIIBの創設はまさにそうした「大中国」のメンツを張ったようなものである。

 ただし、そうした分不相応なものでも、持ち続けていることで時間がたてば、それなりに使えるようになっていくものなのである。日本には国力的に絶対持てないようなものを、中国は持つことができる。あとは時間をかけて、それを使える、できるようになっていく。これが中国の強みだ。

 産経新聞の古森義久氏は、産経のコラムでアメリカの中国軍事戦略研究家のマイケル・ピルズベリーの最新の著書「100年のマラソン=米国と交代してグローバル超大国になろうとする中国の秘密戦略」を紹介している。マイケル・ピルズベリーは、アメリカはこれまで中国の発展を援助し、中国は経済的に豊かになれば、国際社会への参加や協力を強め、西側に同調すると考えてきたが、それは誤りである。中国は、「建国から100周年の2049年を目標に経済、政治、軍事の各面で米国を完全に追い抜く超大国となり、自国の価値観や思想に基づく国際秩序と覇権を確立しようとしている」というピルズベリーの考えを古森氏は書いている。

 中国は100年のタイムスパンで物事を考えているというのならば、AIIBもそういうものなのかもしれない。ただし、今の中国共産党政府が、このままであと100年続くのかどうかは疑問だ。もちろん、欧米主導ではない資金源を持ちたいというニーズはロシアや中央アジアやアフリカ、南米、東南アジア諸国などにはある。中国が、それらの要求に応えられる国になるのかどうかということは、これから見続けていかなくてはならない。AIIBにこれだけの数多くの国々が集まったのは、中国の金融がアメリカの金融より強くなったからではなく、アメリカの覇権国としてのイメージが落ちてきたからである。

 史記に「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉がある。昔、中国の戦国時代、秦が大国になり、他の周辺の国々を圧倒しつつある時に、蘇秦と言う人がの六国の韓の宣恵王に、秦に従って、その配下になってともに栄えるというのではなく、独立した一国の国として、連合して秦に立ち向かうべきだと唱えたという。日本とアメリカには、日米主導のアジア開発銀行がある。アジア開銀とAIIBの双方でプロジェクトを受注し、日本がプロジェクトの主導をとることもできる。

 必要なことは、アジアインフラ投資銀行に対して、どのような対応をとるのか明確な方針を持つことだ。アメリカはどうするのかと右往左往することが一番良くない。

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April 05, 2015

政府と沖縄知事との初会談

 菅義偉官房長官に続いて、どうやら安倍首相は翁長沖縄知事と月末の訪米前に会うことにしたようだ。いまさらの感が否めないが、アメリカからの意向があったのではないかと思う。アメリカは沖縄と政府の対立が、日米安保に影響を与えることを避けたいとしている。

 国際問題として沖縄の問題を考える際に必要なことは、アメリカと中国がどのように考えているかということだ。いや、アメリカと中国がどのように考えているかではなく、まず沖縄の人々がどのように思っているかを考えるべきだということは、ひとまずここでは横に置くこととする。

 アメリカの考えは、以下の通りである。

(1)アメリカは中国と戦争をする意思はない
(2)アメリカは北朝鮮と南シナ海の紛争に本格的に介入する意思はない
(3)普天間では地形的にオスプレイの十分な訓練ができない、普天間は基地として適切ではない
(4)普天間の海兵隊の駐屯はグアム、ダーウィン等との巡回になるので、普天間基地は縮小させる
(5)普天間を返還しても、アメリカのアジア戦略に影響はない
(6)アメリカ軍にとって必要なのは嘉手納基地である
(7)沖縄で対米感情が悪化し、嘉手納基地の返還要求にまで発展することは避けなくてはならない。

 中国の考えは、以下の通りである。

(1)中国はアメリカと戦争をする意思はない
(2)中国は日本の領土に侵攻する意思はない
(3)中国は軍事的な拡張政策をとっているかのように示す
(4)中国は日本およびアジア諸国に対して軍事的に優位であるかのように示す

 「示す」ということと、実際にそれを「やる」または「やろうとしている」あるいは「やることができる」ということは別である。今の中国の場合、実際には「やるつもりはない」し、そもそも「やることができない」。しかしながら、その態度を「示す」ことによって、中国国内及び日本も含めた周辺諸国への威圧になる。これは、大きなリスクと莫大なコストを伴う軍事行動を「実際に行う」よりも大きな利益を得ることができるのである。

 上記の観点を踏まえれば、「中国の脅威を考えれば、沖縄には米軍が必要なのは当然だ」とか、「普天間が固定されてはならない」とか、「忘れてはならないのは、周囲を住宅や学校に囲まれた普天間飛行場の一日も早い危険除去だ」とかいったことは、まったくのばかげたデタラメであることがよくわかるであろう。沖縄の人々の心情がどうこうということではなく、アメリカはどうか、中国はどうかということを見るだけで、辺野古移転の問題は問題でもなんでもなくなる。問題解決、ザッツ、オールだ。

 以上のことを述べても、なおも、いや、アメリカの考えとか、中国の考えとか、沖縄の民意とか、そういうことではなく、日本の国防の話でしょう。日本の防衛として、沖縄には在日米軍が必要だし、辺野古基地は必要である、ということを言う人がいるだろう。そういうことを言う人には、辺野古はアメリカにとっても、日本の国防にとっても、まったく新しい基地は必要はないの一言で、これもザッツ、オールだ。

 そんなことより、海自の潜水艦隊や空自の防空体制はどのようになっているのかを考えなくてならない。日本の防衛を考えるのならば、そういう話になるはずであって、なぜ沖縄の辺野古が、日本の防衛に必要だみたいなデタラメな話になるのだろうか。目的を沖縄の島嶼防衛とするのならば、それ相応の話にならなくてはならない。なんかよくわからないけど、米軍を辺野古におけば日本は安全なんだろう、というわけではない。

 以上述べたように、普天間に基地が存続することもはなく、辺野古に基地が必要なわけでもないのならば、なぜ日本政府は沖縄に基地が必要だと言い続けているのであろうか。日本政府が辺野古移転に固執する理由は、外務省の米軍基地の利権とアメリカの一部のグループへの従属だろう。アメリカの一部の政治家、官僚、大学教授らの論壇の中には、必要以上に中国の脅威を煽り、ホワイトハウスや国防総省の政策とは異なり、在日米軍を増強しなくてはならないと考えている人々がいる。

 中国のことをよく知らないアメリカ人が、そういうことを言うのはわかるが、日本でそういうことを言っている人たちは、中国の張り子の虎作戦に上手くひっかかった人たちであるとしか言いようがない。彼らは、中共の策略に乗せられている人たちなのである。

 いずれにせよ、過去の自民党政権であれば、なんとかして沖縄を懐柔してきた。ところが、安倍政権はそうした高度な手腕を持っていない。沖縄の感情はますます悪化の一途を辿っている。とうとう、アメリカが動き出したのだろう。アメリカとしては、沖縄の問題が日米関係に悪影響を及ぼすことになっては困るのである。

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April 04, 2015

地下鉄サリン事件から20年がたった

 先月の3月20日、地下鉄サリン事件から20年がたった。もう20年もたってしまったのかと思う。

 オウム真理教は、確かに新しい宗教だった。オウム真理教の教義は、いわゆる後期密教である。日本に正式な密教が伝来したのは、9世紀の空海による。空海が大陸で学んだ密教は、その後、インドでさらに発展し、後期密教と呼ばれるものになる。日本の仏教は、これを取り込むことはなかった。これは後期密教は、中国よりもチベットやモンゴル、ロシアへと伝わり、中国の仏教は禅が主流になったためである。日本仏教は、鎌倉時代に大きく進展するが、ここで日本仏教が大陸から学んだものは禅であった。その後、日本仏教は大陸から学ぶことはなくなる。つまり後期密教は、日本に渡ってこなかった仏教なのである。

 欧米で、1970年代頃からアジアの精神文化に関心が向けられることがブームになる。このブームは、80年代の日本にも伝わり、日本でも一種のブームが巻き起こった。バブル経済はピークに達し、日本社会はこれまでになかった経済繁栄を遂げるが、その一方で、若い世代はこの現状に嫌悪と喪失感を感じていた。そうした若者たちにとって、「新しい宗教」であるチベット密教は、自分たちの悩みを解決する真理の道であると感じたのであろう。ヨーガは、神秘体験をすることができる。ヨーガを知らない者が、少しのヨーガを体験をすることで神秘的な体験をして、これは本当だと信じたのだろう。この技法をさらに学ぶことで、さらなる体験をすることができると思ったのだろう。欧米文明では理解できないものを、アジアの精神文化は理解できると思ったのだろう。

 つまり、オウム真理教の持つ「新しさ」と、アジア精神文化ブームとムーブメントと、バブル期日本の拝金主義への不安感の3つが、オウム真理教の人気の高さと短期間での入信者の増加をもたらしたのだろう。

 オウム真理教の教団内部の日常については、森達也監督のドキュメンタリー映画『A』『A2』でわかるように、宗教の出家信者であるということはあるが、フツーな人々の集まりであった。オウムの内側から見ると、社会の側の過剰な反応が滑稽ですらあり、異質なものを排除しようとしているとしか見えないとさえ思えるものであった。ただし、個々の人々と、個々の人々が集まった「集団」「組織」は異なる。社会の側から見れば、オウムは殺人事件を起こしたカルト教団である。

 なぜオウムは、反社会的な行動をとるようになったのだろうか。オウムの犯罪は、1988年の修行中に精神錯乱状態になった信者を、頭を浴槽の水につけるなどさせて対処していた時に死亡させてしまったことを隠蔽したことから始まる。この時、オウムは東京都に対して宗教法人になるための手続きを行っており、この事件で法人申請が却下されることを恐れたという。よく89年、脱会を希望した信者から、昨年の信者死亡が発覚するかもしれないということでこの信者を殺害した。ここで教団内部では、一部の信者たちの過激な行動と、教義にあった殺人を正当化する解釈の教義を重ね合わせていったという。

 ここまでで言えば、起きてしまった事故を前にして、自分たちの組織を守ろうとする違法な組織防衛であったとも言える。世間一般の企業で、時折起こる不祥事、企業犯罪と同じとも言えるだろう。しかし、この後、オウムは自ら進んで犯罪行為を行うようになる。坂本弁護士一家殺害事件も組織防衛であったとも言えるかもしれないが、そうであったとしても過剰で不要な組織防衛であり、このことが逆に社会の側からの追及と排除を招くことになる。以後、教団はさらに様々な紛争や犯罪事件を犯し、1995年、地下鉄サリン事件に至る。

 およそ組織というものは、間違った行動、正しくない行動をする可能性を持つ。オウム真理教だからとかいったことではなく、どの組織でもそれは起こりうる。だからこそ、起こらないようにする仕組みなり、マネジメントなりが必要なのだ。そうは言っても、地下鉄サリン事件は前代未聞の残虐行為であったということが言えるかもしれないが、テロで使ったものが日本刀であったのか、銃であったのか、ダイナマイトであったのか、化学兵器サリンであったのかの違いにすぎない。実行犯には、高学歴者が多かった。高学歴者や恵まれた職業についていた者が、なぜこのようなカルト教団に入信しするのかという声が多かったが、高学歴やエリートであればこそ感じる、今の社会への嫌悪感があるのだろう。

 ようするに、この社会には価値がある、と思えるかどうかということなのだ。なんのための豊かさなのかということだ。そして、20年前、オウムの、というか、あの頃、若者だった者たちの多くが感じていた、この社会は終わってしまったという孤独感と喪失感と嫌悪感は、21世紀の今、グローバルに全世界に拡大している。911で自ら旅客機を乗っ取りニューヨークの貿易センタービルに突っ込んだ若者たちは、裕福な家庭に生まれ育ち、高等教育の学校を出た者たちだった。そうであっても、ヨーロッパには自分のいる場所がないと感じたのだろう。オウムと、911の実行犯と、今の世界中から「イスラム国」に集まる若者たちは同じだ。この20年間で起きたことは、テロリズムのグローバル化である。

 テクノロジーの進歩により、本来は国家の軍隊でしか持つことができなかった武器なり、軍事技術なりが、今の時代は個人や集団で持つことが可能になった。そのことの是非は別として、圧倒的な軍事力を持つ世界覇権国アメリカに対して、政治的なアピールをするためにテロを行い、ネットで自分たちの政治目的を国際社会に広く主張することができる時代になった。

 反体制のイデオロギーとしてのマルクス主義は、ソビエトの崩壊とともに終わった。マルクス主義思想は、労働者を引きつける以前に、知識人を心情的に引きつけてきたものであったが、今日、そうした心情はもはや消滅してしまった。また経済的に搾取される側だったアジアの諸国は、中国にせよインドにせよ工業化に成功し、経済成長に突き進んでいる。従って、今やアンチ・ヘゲモニーのシンボルになるのは中東であるということになった。

 中東は欧米キリスト教国から虐げられてきたということでは、アジアと同様なのであるが、アジアは欧米を凌駕する経済力を持ち、国家として経済で対抗できるようになっている。だが、中東は石油産出国とは言え、いまだそうした力を持つに至っていない。だとすると、小集団組織でテロを行う以外に方法はないということになる。親米であり世俗であったモハンマド・レザー・シャー(日本のメディアでは、パーレビ国王と呼ばれている)政権の反動としての、反米でイスラム原理主義のホメイニ師のイラン革命がある。また、世俗政権であったフセインのパース党がいなくなると、その反対のベクトルとしての「イスラム国」が出てくる。世俗化の先には、原理主義への回帰がある。

 以上を考えれば、今の中東にイスラム教の原点回帰の教義が生まれ、一部の過激派が欧米キリスト教国(そして、欧米キリスト教国側についている日本も含む)にテロを行うことは必然的なことであることがわかるだろう。

 自分探しや生きがいの追及で、テロをやられてはたまったものではないが、少なくともそうしたことが可能な世の中になってしまった。「イスラム国」へ行って洗脳と軍事訓練を受けた若者たちが、ヨーロッパに帰ってきてテロを起こす。今後、こうしたことが起こる可能性は非常に高い。

 最近では先日、チュニジアのバルドー博物館で起きたテロ事件もそうしたものであった。また、2日、NYでテロ攻撃を計画した疑いで、若い女性2人が逮捕されたという。彼女たちは、オサマ・ビンラディンを英雄視し、「イスラム国」の「国民」を自称していたという。さらに、ケニアのガリッサで大学が武装集団に襲撃されたテロ事件も、ソマリアから来たイスラム過激派によるものであった。

 これからの時代、テロの問題はたいへん深刻な事態になる。中国の脅威がどうこう、ロシアの脅威がどうこうといった、国家間で大規模な戦争が起こる可能性よりも、テロの危険性の方がもっと高い。

 テロで世の中は変わらない。テロリストがより大きな犯罪事件をおこそうとも、社会はそれを上回る弾圧をテロリストに行使する。しかしながら、武力でテロを抑えても、テロはなくならない。かりに「イスラム国」を武力で消滅させたとしても、また同じようなものが現れるであろう。

 人をテロに駆り立てるものは、思想であり、観念である。これを防ぐのも、思想であり、観念である。かつて、コミュニズムが人類の前衛思想であると考えた人々がいた。しかし、ソビエトは経済のリアリズムの前に崩れ去った。マオイズムが、資本主義ではない新しい社会を建設すると考える人々がいた。しかし、いまや中国も資本主義に飲み込まれてしまった。アジアの神秘主義は、西洋のモダニズムを終わらせるものではなかった。イスラム教原理主義のジハードは、テロリズムしかもたらさない。未だ世界は、新しい光を見出していない。

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