『穹頂之下』
私は2009年に北京に行ったきり、その後、北京には行っていない。今の北京の大気汚染のことを思うと、行く気がおきないのだ。前回、北京に行った時は、今ほどの汚れた空ではなかった。その後、加速度的にひどくなったのだろう。ネットで今の北京の汚れた空の風景を見るたびに、これはどうも行きたくないなと思ってしまうのだ。
今年の全国人民代表会議では、政府は「大気汚染防止法」の施行状況調査を開始させ、環境保護相が記者会見し、「解決」にむけて取り組む姿勢をアピールしたという。
今回の全国人民代表会議の開催の前に、中国国内のネットに『穹頂之下』という題名の1本の環境問題告発動画が公開された。この動画を作ったのは、元CCTV(国営中央電子台)の人気キャスター柴静さんだ。この動画は公開されるやいなや、ものすごい数の視聴回数になり、その数は4億回に達したという。
柴静さんはCCTVのキャスターとして、中国各地の環境汚染の取材をしていて、北京に戻り妊娠していることがわかり、検査をしてみると、おなかの中の子供は腫瘍があることがわかる。出産時の手術は成功したが、子供が病気になったのは大気汚染と関連があるのではないかという疑問と子供の未来ことを思い、大気汚染について調べて動画を制作し、中国国内のネットに公開した。
『穹頂之下』は、ドキュメンタリ映画と言ってもいいほどの質の高い内容の動画である。この動画は、アル・ゴアのドキュメンタリ映画『不都合な事実』をそのまま真似たと言ってもいい作り方をしている。巨大なスクリーンの前に、ラフな格好で立ち、蕩々と語る柴静さんの姿にはカリスマ性があるとすら言える。
写真やアニメーションや自分がキャスターを務めたCCTVのニュース動画を交え、中国国内だけではなく、イギリスやアメリカなど世界の各地を歩きまわり、北京語や英語で様々な人々とインタビューをし、この大気汚染とはなんであるのか、なぜ発生したのか、どうすれば解決するのかを語る柴静さんの姿は見るものを引きつける。柴静さんは、台湾の有名な映画女優の桂綸鎂(グイ・ルンメイ)に似ていて、カメラ映りがいい。
一人の若い母親の子どもの健康への不安、子供の将来への不安から大気汚染の解決を考えるという、この出だしの流れが上手い。アル・ゴアの『不都合な事実』は、アポロ宇宙船が撮影した宇宙から見た地球の姿から始まるが、地球の姿を見て感情移入することよりも、我が子を心配する若い母親の姿の方がずっと感情移入しやすい。環境問題という日常では無関心になりがちなことが、身近で切実な問題として思えるようになってくる。小さな子供を持つ若い親であれば、誰もが、この汚れた空気のままでいいとは思わないだろう。
この動画を見てまず思ったことは、よくぞこのような告発もの動画を中国のネットに流す決心をしたなということである。
今、中国政府は、こうしたネットを使った社会的な情報の発信については最も警戒し監視をしている。この動画では、さすがに直接的な政府批判はないにせよ、役所や大企業への批判をしている。役所や企業が当然やるべきことをやっていないことを指摘するのは、我々の社会ではなんでもないことであるが、中国はそうした社会ではない。中国という国は、かりに役所が一度許可を出したとしても、平気でその後で禁止にすることをやる国である。中国には先進国の一般的な社会通念と違うところがあり、そのへんが先進国側から見て信用ができないものになっている。柴静さんは公開できる可能性があると判断したから公開したのであろう。身の安全も含めて、かなり慎重な判断だったはずだ。
ところが、この動画は、中国国内のネットからは公開後、数日で削除されてしまった。Youtubeに公開されたものは、Youtubeは国外のネットなので削除されていない。しかし、中国国内からは普通ではYoutubeを見ることはできない。動画の削除は、当局側の指示があったものと思われる。動画の影響力の大きさに不安を感じたのかもしれない。
重要なのは、このように最新の情報機器を使って「告発動画」を制作してネットに流すことできるのだということを、人々が知ったということだ。個人がネットを通して人々に語りかけ、人々の意思が社会を変える。これは政府側にとって望ましいことではない。今後も第二、第三の柴静さんのような者が出てくる可能性は十分にある。政府は、こうしたネットの使い方が広まることを危惧したのだろう。
環境保護運動は、どうしても個人の政治意識を覚醒させ、個人の政治参加を促すことにつながる。アル・ゴアの『不都合な事実』も、最後はアメリカン・デモクラシーの伝統を持つアメリカ人は、この事態を乗り越えることができるというメッセージで終わっている。こうした社会意識が盛り上がることは、中国政府が最も恐れることであろう。
中国の大気汚染については、解決手段はむずかしいことではない。こうした公害は、多かれ少なかれ先進国の多くが過去、体験してきたことだ。ヨーロッパにせよアメリカにせよ日本にせよ、かつては工業化による大気汚染に悩まされてきた。どの国でも、法律や制度や技術を改良して大気汚染を解決してきた。同じことを中国もやればいいだけの話なのである。
逆から言えば、政府や企業が「やるべきことをやれば」解決することなのであり、大気が汚染されているのは、政府や企業が「やるべきことをやっていない」だけの話なのである。これが例えば、世界各地の異常気象をどうしたらいいのかという話になると、今だ科学的に解明されてないことも数多くあり、そう簡単に解決する話ではない。中国の大気汚染は、政府や企業がやるべきことをやれば改善される問題なのである。柴静さんの動画が言っているのは、つまりはそういうことだ。
ところが、中国の場合、この「政府や企業がやるべきことをやる」ということが、そう簡単にできることではない。中国は、簡単に国内全土を統制管理できる国ではない。乱立した石油化学企業を整理し、政府が統制的に管理ができるようする必要がある。アメリカや日本からクリーンエネルギーの技術を積極的に導入する必要がある。そして、規制を徹底して行うことができる権限を与える必要がある。中央政府がこうした方向で行こうと決めても、地方政府はボイコットする。不正や賄賂が横行する。国営企業には規制が甘くなる、など。そういう国だ。
日本やアメリカには、中国軍が攻めてくるかのような脅威を煽る人々がいるが、今の中国にはそんなことをするゆとりはないのが実情だ。人々が求めているのは安全で健康な生活である。それは中国の人々だけではなく、世界の誰もの要求である。中国の公害問題は、大気汚染だけではない。食品や水など危険なものが無数にある。人々は安全な空気、安全な水、安全な食品の提供が可能な社会であることを求めている。つまり、人々に健康で安全な生活を提供できるかどうかに、共産党政権が今後も存続できるかどうかがかかっているのである。
人々の「自由」への意思が政府を倒すでのはない。ただ普通のごくあたりまえの安全な暮らしを政府が提供できるかどうかが政権の存続を決める。それほど中国は、日本やアメリカやヨーロッパと比べて、まだまだ遅れているところがある。
中国政府はそうした人々の不満を、反日に向けさせ、政府に向かわせないようにさせているという声が日本国内にはあるが、そんなことができたのは江沢民の時代である。今の中国の若い世代は、そんなものでごまかせるほど愚かではない。今の中国の人々を結びつけるものは反日ではない。ごくあたりまえの、健康で安全な生活をしたいという要求なのである。正しい法律を作り、きちんと施行して欲しいだけだ。それすらもできていないのが、今の中国の現状なのである。
なんども述べて申し訳ないが、北京の青い空は、政府や企業がやるべきことをやれば戻ってくる。その「やるべきことをやっていない」だけなのである。そしてこの「やるべきことをやらない」というところに、今の中国の社会体制につながる本質的な問題がある。この動画を見ると、それがよくわかる。当局にすぐに削除されたのもうなずけるほど、この動画が語っていることは深い。それほど、この動画作品のインパクトは強い。
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