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February 2015

February 28, 2015

『アメリカン・スナイパー』

 クリント・イーストウッド監督の映画『アメリカン・スナイパー』を見た。

 テキサスに生まれ育ち、幼い時から父親から、この世には弱者と悪人と悪人を懲らしめ弱者を守る者しかないと教えられ、狩猟に連れられて射撃を学び、いじめられている弟を自ら乗り込んで助けて相手を殴りまくる体力と気概を持った少年が、長じて大学を中退し、カーボーイになってロデオ大会などに出て酒を飲む日々であったが、、アメリカ大使館爆破事件のニュースをテレビで見て、国を守らなくてならないと軍隊に入隊する。シールズの入隊試験と過酷な訓練を経て、射撃能力が高いことから専門のスナイパーになる。911が起こり、イラク戦争に4回従軍して戦場で活躍し、伝説的なスナイパーと呼ばれた男の物語である。実在した伝説のスナイパー、クリス・カイルの自伝をもとにした映画だ。

 国と家族を守る。これはまっとうな感覚であり、自然な感覚である。自国の大使館や貿易センタービルが破壊された、民間人に多数死傷者が出た。そうしたことをやる相手は敵であり、この世からなくさなければならない。そう考えるのは当然のことだろう。

 その一方で、例えば、カルフォルニア大学の国際政治学者チャルマーズ・ジョンソンの著作を読めば、こうしたテロ行為は、実はアメリカが世界各地で行った違法行為が相手の国の人々に極端な反米感情を生み出し、めぐりめぐってアメリカに対するテロ行為になった、いわゆる「ブローバック(blowback)」であることがわかる。

 しかしながら、クリス・カイルにとって、そうした知識が何になるというのであろうか。

 生まれ育った祖国と愛する家族を守り、敵を憎み、敵を倒すのは当然のことではないだろうか。これは、クリス・カイルだけではない。戦争に従軍する兵士が、そう思うことは当然のことなのである。だからこそ、半世紀以上前はハワイを奇襲攻撃したファシズム国家日本を叩きのめし、日本人を殺戮した。今は大使館や貿易センタービルを攻撃した中東の国を叩きのめし、殺戮するのである。これはアメリカの正義なのだ。そう心の底から信じている人々がいる。

 そう心の底から信じているからこそ、軍隊の過酷な訓練に耐え、悲惨な戦場で戦い、友人の死を乗り越えるのである。『アメリカン・スナイパー』の見事さは、そうした個人の意思を正面から描き、安易な反戦映画にしていないことだ。リバータリアンのイーストウッドは、反ブッシュ政権であり、イラク戦争には反対していた。イラク戦争は不必要な戦争であった。しかし、そうであることと、戦争で戦った兵士たちの人生は否定できないものであり、愛国者には十分な敬意を払うべきこととは別のことだ。

 伝説のスナイパー、英雄と呼ばれるクリス・カイルは心を病み、家族に犠牲を強いる。彼は軍隊を除隊し、それらを兵士としての心の強さで克服していこうとするが悲劇的な最後を遂げる。この映画は最後まで、イラク戦争を大きな枠組みではなく、個人の枠組みで扱っている。そして、イラク側のスナイパーにも家族がいる描写がある。彼はシリア人で元オリンピックの射撃の金メダリストだったという。クリス・カイルはイラクを蛮人と呼ぶが、イラク側から見れば、アメリカ軍は侵略者である。この映画はこうした描写をわずかしか出さないことで、逆に考えさせられる。こうしたことにも、リバータリアン保守の視点がある。アメリカにとって、イラク戦争は必要な戦争だったのか、と。

 ただし、何度も強調して申し訳ないが、だからといってリベラルがよく言う軍産複合体がどうとかこうとかという大きな枠組みは出さない。ただ淡々と静かにクリス・カイルの葬儀シーンが流れ、映画のエンドロールは無音である。この映画は愛国心を高揚する映画でもなければ、反戦の映画でもない。クリント・イーストウッド監督は、この映画を見る側に、この映画の意味の判断を委ねているのだろう。

 イーストウッドには、硫黄島で日本軍と戦った兵士たちの戦場とその後の後日談を描いた『父親たちの星条旗』と、敵である日本軍の側を描いた『硫黄島からの手紙』の監督作品がある。硫黄島で星条旗を掲げたアメリカ兵士たちは英雄と讃えられたが、その後は政府のプロパガンダに利用される生涯だった。硫黄島の日本軍守備隊の総指揮官栗林中将は、日本がアメリカと戦争することには反対していたが、少しでも本土攻撃の時期を遅らせることに玉砕することの意義を見いだし、軍人としての努めを果たした人であった。その意味で、硫黄島2部作と『アメリカン・スナイパー』には同じものがある。

 イーストウッドは政治的には共和党支持であるが、共和党のジョン・マケイン上院議員らからは「中道」と見られている。イラク戦争やアフガン戦争を批判し、反ブッシュ政権であったイーストウッドは、オバマ政権にも批判の声を表明している。祖国と家族を守るために、敵と戦うことは悪いことでもなんでもない。愛国心は、間違った感情ではない。問題なのは、間違った戦争をする者たちがいるということだ。

February 15, 2015

世界はテロリストと交渉している

 ビデオジャーナリストの神保哲生さんがやっている「ビデオニュース・ドットコム」というインターネットのニュース専門の放送局がある。先日ここで「フォーリン・アフェアーズ」誌に掲載された論文で「身代金に関する4つの誤謬」というオーストラリアのウーロンゴン大学の国際テロ専門家アダム・ドルニック教授の論文が紹介されていた。

 「フォーリン・アフェアーズ」は値段が結構する雑誌で、オンライン版もそれなりの値段がする。それでもサマリーぐらいは読めるのではないかと、「フォーリン・アフェアーズ」のサイトを探してみると見つけた。また、ウーロンゴン大学のサイトにもあった。

 題名の「Four myths about ransoms: Why Governments Should Pay Up」の「ransoms」は身代金、「myths」は直接の訳は神話であるが、ここでは根拠のない社会的通念のことだ。つまり、日本語の題名にしてみると「身代金に関する4つの根拠のない考え方」とでも言えるだろう。

 最初の根拠のない考え方は、「テロに屈しない」ということはテロリストとは交渉をしないことであるということだ。欧米諸国はテロリストに身代金を支払わないことを表明しているが、デンマークやオランダのように、実際には政府が人質の家族や仲介者などを通じて、身代金の支払いには柔軟に応じていることがあるとドルニック教授は述べている。アメリカとイギリスはテロリストとの交渉を無条件で拒否する立場を掲げている国であるが、殺害にされた最初のアメリカ人人質事件の時、アメリカ政府は人質の家族に身代金を支払うのならば支払う方向で行くことを伝えていたという。またイギリスは政府のセキュリティ会社が身代金を支払う機会をつくることをしていた。ようするに、どの国でもテロリストと絶対にまったく交渉しないというわけではなく、ケースバイケースで柔軟にやっているのである。

 二つ目の根拠のない、間違った考え方は、身代金の支払いすると、さらにまたその国のものが人質にされて身代金を要求されるということだ。これは根拠のないことである。逆に、「テロに屈しない」で身代金を支払わなければ、その後、その国の人々が人質になることはないということも根拠のないことであるとドルニック教授は述べている。テロリストが人質を取るのは、場当たり的な行動でやっていることが多い。その場で、どの国が身代金を支払うから、どの国の人を人質にしようと国籍によって人質を選らんでいるわけではない。一度身代金を払うと、その国の国民はその後も誘拐の危険に晒される、だから身代金を払わないというのは根拠のない話なのだということである。

 さらに、人質事件の数多くのケースは身代金目当てではなく、政治的な威嚇やテロリストの宣伝のツールであることが多い。テロリストによる誘拐の大部分の初期の要求は、一般にグアンタナモ収容所からの仲間の解放や、イラクまたはアフガニスタンからの軍の撤退など政治的なものである。身代金の支払いは、それらの要求のプランBとして使われることが多い。身代金が目的である場合であっても、テロリストは政府が「テロに屈しない」ポリシーであることは知っていて、その上で政府は画策することも知っている。

 三つ目の根拠のない、間違った考え方は、金を払うことはテロリストを助けることになり、さらなるテロを蔓延させることになるので、身代金を払ってはいけないという考えだ。身代金の支払いは、テロリストを助けることにはならないとドルニック教授は述べている。もちろん、数百万ドルの支払いにならば、テロリストを潤わせることになるであろう。しかし実際のところ、最初は大金をふっかけて、交渉の最終段階で身代金はわずかな少額で手打ちになる。そして、身代金を支払い、人質を安全に帰還させたら、今度はこちら側はイスラム国がカネ目当ての不当な暴力集団であることを、全世界に向かってアラビア語で宣伝するのである。彼らには聖戦という大義があることで世界から若者が集まっている。そんな大義などまったくなく、ただのカネ目当ての犯罪者集団であることを世界に喧伝するのだ。イスラム国の大義名分をたたきつぶすのである。そうやって世界で行われているリクルートや、自爆テロの若者をなくさせるのである。それにはカネを受け取ったという事実がなくてはならない。このように身代金支払いは、結局、こちら側の有利になる。なるというか、「有利になる」ようにするのである。

 四つめの間違った考え方は、「テロに屈しない」というのは正しいという考え方だ。テロリストに人質をとられている場合、「テロに屈しない」「テロリストと交渉はしない」は人質を安全に帰還させることにはならない最悪の方法である。軍の特殊部隊による人質奪回作戦は成功する可能性は低く、ほとんどが失敗する。失敗した場合は、人質だけではなく、特殊部隊の兵士にまで犠牲が出る場合も少なくないとドルニック教授は述べている。交渉の余地があるのならば、交渉をするのが当然かつ合理的な対応なのである。相手が身代金を払えば解放すると言っているのだから、身代金を払うのが一番安全な対応であり、そうした交渉ができない場合の最終手段のひとつとして特殊部隊の投入がある。その場合であっても、成功のコスト計算がある。

 また、「テロに屈しない」は、ジャーナリストや医療従事者やNGOなどの活動にも、その活動を妨げ、危険を及ぼすことになるとドルニック教授は述べていることに注目したい。安倍総理は日本は人道支援を積極的に行うと言っているが、これは誘拐される危険のない安全な場所での「人道支援」を積極的に行いたいと言っているのであろう。しかし、人道支援を必要とする場所とは、まさに危険な地域なのであり、さらに言えばもはや安全な場所などどこにもない。

 もし仮に誘拐され人質になっても、政府は身代金を払います、安全に帰還できるようにします。だから、その点については安心してどんどん人道支援をしてくださいというのが政府の方針であるべきだ。政府がそうであって、初めて積極的な人道支援活動を日本は行いますと言うことができるのである。政府はあなたが人質になっても身代金は払いません、安全に帰還できるようにしません。テロリストとは交渉しません。日本国に迷惑をかけないでください。自分の意思で行ったのだから、自己責任でどうぞ死んでください。という対応で、誰が人道支援活動をしに行くであろうか。

 「テロに屈しない」という硬直的な政策は人質を安全に帰還させるものではない。背後に柔軟で巧みな対応のある交渉が、最も安全で短期間に人質を帰還させることなのである。身代金を払ったところで、それが一体なんだというのだろうか。身代金を払ったとしても、その影響はそれほど大きくはないとドルニック教授は述べている。

 ようするに、 「テロリストに過度な気配りをする必要はない」「テロに屈しない」「テロリストとは交渉をしない」と言って、実質的なことはなにもしない、なにできないのはわが国ぐらいで、他の国は裏でいろいろやっている。「テロに屈しない」と言うのは、うちはテロリストと交渉できるほどの交渉力がありませんと世界に公言しているようなものだ。

 本当の強い国は、テロリストとさえも交渉を行う。「テロに屈しない」国になるのではなく、テロリスト相手にも交渉ができる交渉力を持ち、人質を安全に帰還させることができる国が、本当の強い国なのである。身代金で解決するのならば、身代金を払う、人質を安全に帰還させる、つまり、自国民の生命・財産を守る。テロリストさえとも交渉ができる国であることを世界に示す。これが本当の強い国なのである。欧米諸国は「テロに屈しない」といいながら、実はそうしている。「フォーリン・アフェアーズ」誌のドルニック教授の論文を読むとそのことがよくわかる。

February 08, 2015

テロと戦うために必要なこと

 昨日7日の産経新聞の産経抄は、産経新聞はやはりこうだなと思わせてくれる、まことにもって産経新聞らしいものだった。

 日本人二人が殺害されたことへの「仇(かたき)をとってやらねばならぬ」というのである。で、どのようにして仇をとるのであろうか。ヨルダンと一緒に報復爆撃をせよと言うのであろうか。そして、いかにも産経らしく「現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。」「命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。」と述べている。ようするに、改憲をしなくてはならないと言っている。

 こうした短絡で狭窄な考え方が日本を敗戦に落とし込めたということが、敗戦から70年という歳月をかけてまだわからないのだろうか。

 戦前の日本には、良きにせよ悪しきにせ国家の世界戦略のようなものがあったが、戦後日本には、「世界をこのようにしたい」という意思や考えはなかった。敗戦の復興から経済大国へと、とにかくひたすら世界中でビジネスをしてきた。なにしろ軍備をアメリカというよその国に丸投げして、経済大国になった国である。 

 今、中国や韓国ともめているのも、「世界をこのようにしたい」という意思があれば、こうしたことを放っておくことはなく、日本国家の威信をもって中国や韓国に圧力をかけて押しつぶし続けたか、きちんとした対応をとったか、いずれにせよ、なにもしないでただ放っておくことはしないであろう。イスラム国による日本人人質事件ついても、日本政府は中東に対してなにをすることもできず、実質的に交渉にあたったのはイギリスの民間の危機管理コンサルタント企業だったという。

 日本がこれまで、それなりになんとかなってきたのは、ようするに、日本は自分のアタマで考えることをせず、そういう外交的なモメゴトはアメリカに従ってきたからである。この仕組みを作った、アメリカの占領統治下の頃の日本の政治家たちは、いつの日か日本が復興を成し遂げた暁には、自分のアタマで考えることを取り戻したい。それまでの辛抱だと思っていたのであろう。

 しかしながら、この国は経済大国になっても、それを取り戻すどころか、安易で短絡な思考パターンになり、70年たってもまだその状態を続けられるものと思っている。だから、アメリカが介入しない日中や日韓の問題は日本はどうすることもできない。中東においては、これまでと同じく、いや、それ以上にアメリカに追従するということで、イスラエル支持とイスラム国への対立メッセージを表明した。その必然的帰結として、今回のイスラム国による日本人殺害事件がある。そして、これからどうやら政府はこの事件をもって、自衛隊の海外派兵の法制化と憲法改正の理由としようとしているようだ。

 政府は、安倍首相がイスラエル支持とイスラム国への対立メッセージを出したわけではないとしているが、そういうものであったとイスラム国に利用されたということで情報戦で負けたことになる。こうした政治的メッセージのすりかえ、でっち上げは明治の頃から大日本帝国がよくやってきたことであり、アメリカがやっていることであり、イギリスがやっていることであり、つまりはどの国でもやってきたし、今でもやっていることだ。

 だからこそ、より一層明確に、日本はテロリスト集団と戦争をする気はないし、国民の大多数はアメリカとイスラエルの側につくことを望んでいない。そのことを世界に向かって何度も何度も主張することがテロと戦うことになる。

 イスラム国の支配地域も含めて(何度も言うが、イスラム国の支配地域も含めて)、人道支援を積極的に行う。日本企業は、原発も含めて武器の販売は一切しない。アメリカの空爆やイスラエルの攻撃で民間人に死傷者が出た時は、その非道な行為をアメリカやイスラエルに抗議する。イスラム国は情報戦でやっているのならば、こちらはそれ以上の情報戦で対抗するのである。イスラム国の中で、日本にテロを行うことはおかしいのではないかという意識が出るようにイスラム国を「教育」するのである。アルジャジーラで、日本の番組を年に100本ぐらい制作して放送してもらうのもいいだろう。

 これは決して、できないことではない。もともと、中東には日本は良い国というか、とりあえずよくわからない国、良くもなければ悪くもないという透明無色のイメージがある。戦後の日本政府は、資源である石油の原産地の中東諸国との関係を良好に保とうとしてきた。日本は十字軍に参加したとか言っているのは、イスラム国ぐらいである。ただし、今回の出来事で中東諸国での日本のイメージは悪くなり始めている。

 例えば、日本は西欧列強のアジア侵略に対抗して、アジアでいち早く近代国家を樹立し、日露戦争でロシアと戦い、第二次世界大戦ではアメリカと戦ったというイメージを伝えることは大きな意味を持つだろう。首相がイスラエルの旗の前で、いかにもアメリカ・イスラエルの側に立ってイスラム国と戦うかのように思われる演説をすることは百害あって一利もない。アメリカは、別に日本のことをありがたく思うことはない。

 テロと戦うために必要なのは軍事力ではなく、知識・情報・技術の力である。中東について、それそうとうの知識と情報がなくてはならない。しかしながら、今の日本にイスラム国を「教育」することができる人がどれだけいるのだろうか。満足な中東研究機関があるであろうか。大学で中東についての研究なり教育なりが十分なものになっているだろうか。政府にはアラビア語での情報発信力があるのだろううか。

 そもそも、日本も参加したイラク戦争とは何だったのか。なぜ、いまイスラム国が台頭しているのか、そうしたことをきちんと検証し考えることを行っているだろうか。

February 07, 2015

イスラム国がネットを使うということ

 イスラム国は、インターネットの扱いに長けている。

 かつてこの世に、インターネットがなかった頃、中東のテロリスト集団が日本人を人質にして、世界のどこでも見ることが可能なメディアで、そのことを全世界に表明することによって、それを日本政府に伝える、ということを行うには、それそうとうの困難さがあった。

 どのようにすれば、そうしたことが可能になるのか。まず、日本人を暴力で拉致することはできるであろう。しかし、その後、その拉致したことをどうやって、伝えるべき相手に伝えたらいいのか。「拉致した」という示す証拠は、とりあえず写真であろう。では、まず写真を撮る。テープで音声を録音するのもいいかもしれない。では、テープレコーダーで音声を録音する。次に、それらの写真やテープをどうするのか。メディアのインフラを持っているのは、テレビとかラジオとか新聞とか通信社である。そうした場所に手で持っていくとか、郵送で送るしかない。

 ところが情報テクノロジーの発展が、これら諸々のことを極めて短時間でカンタンにできるようにしてしまった。外国にも通じているメディアのインフラを持っているのは、テレビとかラジオとか新聞とか通信社だけではなく、個人でも持つことができるようになった。写真を撮ったり、動画を撮影したり、文章を書いたり、音声を録音したりして、それらを世界の人々に向かって伝えることは、今の時代、スマートフォンが1台あれば誰でも可能だ。

 誰でも可能だ、の「誰でも」というのは、犯罪者やテロリストも含まれる。犯罪者やテロリストも、そうした技術があれば可能になった、という世の中になった。その昔、冷戦時代、インターネットがアメリカの国防総省といくつかの大学との共同研究から生まれたアーパネットと呼ばれていた時代、まさかこんな世の中になるとは思いもよらなかったであろう。インターネットの技術を生み出し、これを地球全体を覆う規模に広げた人々の意思は、こうしたことにネットが使われることではなかった。本来、インターネットはこうした犯罪者やテロリストに使われるべきものではなかった。インターネットは、こんなもののために生まれてきた技術ではない。

 しかし、「使われるべきものではなかった」と言っても、誰でも使えるものであるのだから、犯罪者やテロリストも使うのは当然のことだろう。中東のテロリストが日本人を標的にする。トーマス・フリードマンは『The World Is Flat』で、経済がフラット化するということは、これからの時代はテロもまた同じようにフラット化するという意味のことを書いていたが、その「これからの時代は」の時代になった。テロのボーダレス化である。

 20世紀の後半、アメリカの西海岸で生まれたパーソナル・コンピュータの思想、個人が表現のパワーを持つということが、めぐりめぐって21世紀の中東のテロリスト集団にもパワーを与えたと考えることができる。その技術が生み出された意図とは大きく異なり、その使い方によって、技術は人々に大きな不幸をもたらす。これはネットだけではなく、そもそも近代の科学技術が本質的に持っている問題だ。もちろん、ネットが人を殺害したわけではない。人が人を殺害する。しかし、イスラム国の影響力の基盤のひとつはネットである。現代の情報通信テクノロジーがなければ、今日のイスラム国の姿は違っていたであろう。

 1995年のアニメ映画『攻殻機動隊』の冒頭は、次の言葉で始まる。「企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても、 国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来」。そして、国家や民族や人々の「遺恨」や「怨嗟」がネットを通して拡散され増大化される世界。2015年の今、我々はそうした世界にいる。

February 01, 2015

「イスラム国」人質事件の結末について

 イスラム国の日本人記者殺害脅迫は、最悪の結末になってしまった。

 昨年8月に湯川遥菜さんが人質になり、10月に後藤健二さんが人質になっていることを政府はわかっていた。わかっていたのに、なぜ安倍首相はイスラエルを訪問し、エジプトのカイロでの演説ではイスラム国への敵対行為と思われることを言ったのだろうか。人質救出のことなど、まったく考えていなかったと非難されてもしかたがないであろう。

 今回の出来事で明らかになったように、安易にアメリカとイスラエルの側に立つことを表明するのは危険である。世の中にはやたらと「正義」を標榜し、アメリカやイスラエルに「正義」があることを言い立てる人々がいるが、自国でイスラム国に対抗できる軍事力を持ってない日本の首相が、イスラムテロ集団を敵とすることを不必要に主張することは、日本国民に大きな危険を招くことになる。

 本来、戦後日本の基本的な外交方針は国連中心であった。中近東に対しては、パレスチナ・イスラエルのどちら側につくことはなく、非軍事的な支援を行うのが日本であった。それがイラク戦争に日本も参加し、自衛隊が派兵された小泉政権時代から対米従属による中近東への軍事的な介入をするようになってきた。対米従属ということでは、サンフランシスコ体制下にある戦後日本はいつの時代も対米従属であったと言えば確かにそうなのであるが、そうであっても独立国家として、できるだけアメリカとは距離をもって独自外交をしようとする意思が戦後日本にはあった。

 ところがいつの間にか、この意思はなくなり、ただひたすら、とにかくすべて対米従属であれば日本国は安泰であるかのように思う状態になってしまった。これまでも日本はアメリカとイスラエルの側に立つことを表明してきたが、中近東と日本は地理的に近いわけでもなく、テロの矛先が日本に向けられることはほとんどなく、大きな被害もなかった(ただし、日本人人質事件はあった。日本人が殺害されたこともあった)。だからこそ、自分たちは「悪」のパレスチナやイスラム国と戦う「正義」の側であるかのような気分に酔うことができたのであろう。

 しかしながら、それはまったくの空虚な幻想であったことが明らかになったのが、今回の出来事であると言えるだろう。日本経済は、いやでも中近東に関わらざるを得ない。しかしそれには、それ相応のリスクが伴うということである。今後、テロリストの矛先が日本人に向けらるようになると、中近東やイスラムについてそう深く知っているわけでもなく、外交交渉に有効な人物とのコネクションがあるわけでもなく、ましてやテロと戦う軍事力を持っているわけでもないという日本の無力さがますます露呈される。政治家が安易にアメリカとイスラエルの側に立つことを表明するのは、リアルな国際社会を知らないからだ。

 では、テロと戦うことができる軍事力を持てばいいのだろうか。安倍総理は今回の事件を使って集団的自衛権の必要だとか邦人救出ができる自衛隊にするようにするかもしれないが、根本的に国家ではないイスラム国と戦争をしたとして、なにをもって勝利とするのであろうか。テロと戦うということと、どこどこ国家と戦うということは次元が違うのだ。

 空爆では、イスラム国をなくすことはできないことは証明済みである。むしろ、アメリカの空爆はテロとは無関係な一般市民に被害を及ぼしている。必要なことは、テロリストの一掃だけであり、一般市民に被害を与えることではない。ところが、このテロリストの一掃だけを行うということが、もはや不可能になっている。イスラム国にさらなる空爆をしたり、この先、アメリカ軍の地上部隊を投入したとしてもテロリストをなくすことはできない。世界中からムスリムの若者たちを引きつける「力」がイスラム国にはある。この「力」そのものをなくさなくては、イスラム国なるものはなくならない。

 何度も強調して恐縮であるが、テロリストは廃絶させなくてはならない。しかしながら、その方法は一般市民を巻き込み、新たなる混乱と恨みをもたらすものであってはならない。例えば、イスラム国に核ミサイルを打ち込んだとして、Islamic Stateというものはこの地球上からなくすことはできるが、また同じようなテロ集団組織が出てくるだろう。この方法では、この世からテロリストをなくすことはできない。そもそも軍事力で押さえつけることは、テロとの戦いで有効な方法ではないのである。

 日本人であった湯川さんと後藤さんは、日本人であるというただそれだけの理由で殺害された。これからの世界は、日本人が日本人であるというただそれだけの理由で殺害される可能性があるという世界になってしまった。

 泥沼のようになった中近東の混乱と恨みの連鎖を終わらせることで、唯一確かなことは、それは軍事力ではないということだ。

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