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December 27, 2014

STAP細胞騒動の結末について

 26日のSTAP細胞についての理化学研究所の外部の有識者による調査委員会の発表とその後で行われた理研の記者会見をニコニコ生放送のタイムシフトで見た。ネイチャーに発表した論文が論じたSTAP細胞は実験の過程でES細胞が混入されていた可能性がある。また、図表についても、ねつ造されたものが新たに発見された。

 この調査をもって、STAP細胞の論文はその内容を否定され、以後、再調査はないとのことだ。ようするに科学的にはこれで結論が出たということになる。なぜ、ES細胞が混入されていたのかについては調査委員会は解明できずとしている。

 STAP細胞はES細胞を見間違えていたのではないかという指摘は以前からあがっていた。その質問が出るたびに、小保方氏、笹井芳樹氏は否定していた。ES細胞ではないというのが彼らの考えだった。調査委員会の調査ではやっぱりES細胞だったということになる。今年の初め、大々的に報道で登場したSTAP細胞は、やっぱりES細胞だった、で終わった。

 ある学説を発表したが、その後の調査で間違いだった、ということは科学の世界ではよくあることだ。トライ・アンド・エラーを繰り返して真実の達するのが科学の方法論である。そうやって科学は前進していくものなのだ。生命科学の分野に限らずずさんな論文、不正確な内容の論文は数多くある。その中で真偽を確認してい作業もまた科学の世界で必要不可欠な作業である。

 今の時代は膨大な量の情報があるが、情報が増えるということは「正しい」情報が増えるということではない。現代は過去の時代以上に「真偽を確かめる」という作業が必要になっている。

 つまり、このSTAP細胞騒動は「よくある出来事」を「よくある出来事としてきちんと正すということ」をしていけば、なんら大騒ぎになることがない出来事だった。

 しかしながら、その当然のことができないのが今回の出来事だった。

 論文は発表したのならば、他の研究者が検証することもある、もっと詳細を知りたいと言ってくることもある。なによりも自分が再度調べる必要が出ることもある。そのために論文の内容の根拠となる実験などのデータを残しておくことは常識以前の当然のことだ。その当然のことがまったくなされていないため、常識的な論文検証作業ができなかったというのが、今回の出来事だった。

 そうしたことができなければ、なんのために論文を発表するのかさっぱりわからないということになる。論文作成は学術研究の作業のためという常識的な前提からはそうなる。これでは、ただ「論文を発表しました」という記録が残るだけだ。ただ「論文を発表しました」という記録を残すだけのために、費用と労力をかける研究とは一体いかなるものなのであろうか。

 しかしながら、まさしくその、ただ「論文を発表しました」という記録を残すだけの論文発表だったというわけだ。これは、この今回の出来事だけの話ではない。今の時代、特許や予算を獲得するため、ただ「論文を発表しました」という論文は膨大な数になっている。論文の粗製濫造である。だが、粗製濫造であっても、とにかく論文を出せばいいという世の中になっている。

 きちんとした正しい論文でも、データを都合良く修正してある論文でも、論文を出したという事実に変わりはない。きちんとした正しい論文には手間と時間がかかる。内容の質は問わず、短時間で数多くの論文を出した方が勝ちというゲームであれば、大多数の者たちは、学問的に意義のある質の高い正しい論文作成など、歳をとって功なり遂げた身分になってからやるものだと思うであろう。

 外部調査委員会の国立遺伝学研究所長の桂勲委員長は、こう述べた。

「生命科学の研究室は競争的資金(研究費)を取るために必死で、そこには同情するが、特許や競争に夢中になって科学の基本が忘れられるのはまずい。『有名になりたい』『ノーベル賞を取りたい』というのを非難したくはないが、大切なのは科学で自然の謎を解く喜び。そして、科学者としての社会的責任をどう果たすか。そこから目がそれると間違いが起こると思う」

 ニコニコ生放送でこれを聞いた時、この人は立派な学者だと思った。私もそう思う。科学の根本は自然の謎を解くことである。そして、科学者としての社会的責任をどう果たすか。科学者のあるべき姿は、この二つ以外のなにものもないと思う。

 しかし、今の時代は、科学の研究をやりたい者だけが、きちんとした科学教育を受け、きちんとした研究職に就き、しかるべき給料をもらい、その職務を全うして人生を送っていくという時代ではなくなってしまった。

 今、生命科学の現場は、限られた予算の中からいかに獲得するか、少ないポストをいかに獲得するか、という競争的な状態の中にある。そうした状態の中にある現場の者たちは桂勲委員長の言葉をどう受けとめたのだろうか。桂勲委員長の言葉は理想論なのであろう。限られた予算と決められた時間しかない中で成果を出すことを要求される場にいる者たちに、科学の根本は自然の謎を解くことであるということと、科学者としての社会的責任をどう果たすかということを考える精神的ゆとりはないのではないかと思う。

 ただし、では、競争的な状態ではない、潤沢な予算と時間的余裕があれば良い研究ができるのかというと、それは別の話になる。科学の根本は自然の謎を解くことである。そして、科学者としての社会的責任をどう果たすか。こうした意識を軸として持つ研究者ではなくては良い研究はできない。そういう人材はまた、そうした意識を当然のこととして持つ教育と環境からでないと育たない。

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