2014年の日本と世界
国が傾き始めると、国家は社会を統制しようとする。人々には過剰なナショナリズムが生まれ、国家に統制されたくなる。
今の世の中の右翼的な風潮は、この国が衰退していることの現れだ。昭和の高度成長の頃は、そんな風潮はなかった。ビルを建てたり、橋を架けたり、道路を通したり、家電や自動車を作って世界で売ったりして、給料は年々増えていく。そういう時代は「日本を取り戻す」とか、「この道しかない」とか言わない。ようするに、今の世の中はそういうことができなくなったので、他にやることがなくて「日本を取り戻す」とか言っているのである。
集団的自衛権の容認にしても、自国に関係がない他人の国の争いごとに自ら進んで関わっていく国はない。同盟という契約があって、国家は他国の戦争に関わる。日本とアメリカにはすでに日米安保という条約がある。この上さらに、なにを定めようというのだろうか。
安倍政権により、日本は自国の防衛に直接関係のない戦争に巻き込まれる可能性が現実のものといなった。昭和の自民党、吉田茂は当然として、岸信介も佐藤栄作もこんなことはしなかった。こんなことをしないように、ことさら在日米軍に手厚く在日米軍駐留経費負担金、いわゆる「おもいやり予算」を支払い、日米安保があるだけで十分としてきた。それだけでは不安になってきたので、さらに集団的自衛権なるものを持ち出してきて米軍の下請けを請け負うというわけである。政府は来春の国会で、自衛隊を随時海外に派遣できるようにする恒久法を制定しようとしているという。
来年、日本経済はさらに落ち込むだろう。ということは、株価と景気は別だということや、公共投資をいくらやっても経済は良くならないということを、国民は今度こそはっきりと知るだろう。日本では株の売買で利益を得る人の数は少ない。株価が上がることで購買力が高まることはない。公共投資は仮に意味があるものを政府のお金で建たとしても、それが国民の給料に直結するわけではない。また、今の日本では建設業に人が集まらない。今の政府の経済政策は、この20年間でわかりきったことを、またもや繰り返しているわけであるが、今度はいくらなんでも学習するのではないか。安倍晋三さんがさかんに喧伝しているアベノミクスがダメだということが明白になれば、さすがに世の人々はもうだまされることはないのではないか。
しかしその一方で、この先もまだ繰り返すかもしれない。国がとりあえずできる経済政策は、金融と公共投資しかないからである。アベノミクスとは、実際のところ統制経済に他ならない。国は規制緩和をしよう、経済をコントロールすることをやめようと思うことはない。今回の選挙で、賃金は増えていないという批判にこりたのか、政府は企業に賃上げを促す税制を新設・拡充するという。そこまでして国が国民の賃金を上げようというのは、もはや統制経済と言ってよい。経済に関わる一切合切のことを国がやろうとし、またできるものだと本気で考えているようだ。そうした社会主義的な思考が、逆に経済の発展を妨げていることがわからないのであろう。
かつて池田勇人は「みなさんの給料を倍にします」と言った。逆から言えば、「みなさんの給料を倍にします」としか言わなかった。政府がなにもしなくても、実体経済の上昇によって国民の給料は増えることは知っていたからである。かくてアベノミクスで経済は回復することはなく、国民には約1000兆円を超える膨大な国家債務が残るだけになる。
これだけの借金が返せるわけはない。従って、いつか必ず国債は暴落する。あとは、その時とはいつになるのかという問題だけである。来年かもしれないし、10年先なのかもしれない。しかし、その時は必ず来ることになる。そうした将来の話でなくても、来年、政府は集団的自衛権の法制化や憲法改正を試みるであろうから、国民の支持は下がる。今年の参院選挙での安倍自民党への支持がピークとし、来年以後は落ちるしかない。
思えば戦後日本の経済政策の大きな目的のひとつは、格差社会にしないということであった。戦争に敗北し、焦土の中から復興した日本社会には、「格差社会にしない」という仕組みなり、制度なり、社会意識なりがあった。その時代の人々には、戦前の日本のようにならないという反省と決意のようなものがあったのだろう。それが高度成長時代が終わり、経済成長の低下とともに、富める者が富んでなにが悪いのかと格差を是認する社会へとなっていった。経済の成長を妨げているものは、格差を認めない悪平等であり、そうしたものをなくして、富める者はますます富めるようにすることこそ経済を成長させるものであるという方向へと曲がっていった。この間違いに気がついて、もとの方向へ戻ることができるのかどうか。
かたや世界を見てみると、どうであったろうか。
今年の国際社会で起きた最も重要なことは、アメリカの指導力が一段と低下したということである。エジプトやシリアやロシアや「イスラム国」などの諸問題に対して、オバマ政権のアメリカは指導力を持って前面に立つことをしなかった。今、我々は国際社会のリーダーの不在という状態にある。これはオバマ政権がレームダック化しているからではない。来年は次期の大統領選挙運動が本格的に始まるであろうが、オバマへの反感が、そのまま国際社会でのアメリカの指導力の回復に向かうかというと、そうはならない。
今後、誰が大統領になろうとも、アメリカはかつてのような強大な影響力を持つことができなくなってきている。中国の台頭は、ある意味、当然の流れであるが、アメリカの影響力の低下は予想以上に早くなっている。アメリカの影響力の低下により、来年の国際社会も混乱が続くことになるだろう。
紛争には原因がある。紛争を軍事力で押さえることができたとしても、その原因の解決は軍事力ではできない。軍事力以上に外交交渉や調整が必要になる。情報通信の発達により、人間のコミュニケーションの範囲は「ひとつの地球」という惑星規模へと広がったが、国の政治は国境で分かれているので、惑星規模の情報通信インフラを有効に活用する段階にまだなっていない。
しかしながら、国としてはアメリカの影響力は低下しているが、企業の活動はめざましい。ところが、企業は多国籍化しているのでアメリカは国としての税金をとることができない。つまり、アメリカの財政は依然として問題を抱えているが、アメリカの経済は大きく伸びている。当然のことであるが、ボーダーレス経済の中で多国籍企業は惑星規模の情報通信インフラと交通網を十分に使いこなしている。国と多国籍企業の乖離はますます大きくなるばかりである。
今年起きたもうひとつの重要なことは、国家の定義が問われたということだ。9月、イギリスのスコットランドは独立の是非を問う住民投票を実施した。反対票が55%を占め、独立は一応否決されたことになった。このスコットランドの独立投票の出来事は世界の各地に大きな影響を及ぼした。同じく9月にスペインのカタルーニャでは、スペインから独立を問う住民投票があった。これは賛成106票、反対28票の賛成多数で可決した。すぐに独立するというものではなく、将来の独立を目指してスペイン政府と交渉をしていくということの選挙であった。当然のことながら、スペイン政府はこの選挙を認めていない。
中国内部のウイグル族やチベットの独立運動、ベルギーのフランドル地方、イタリアのロンバルディア地方、ハワイのポリネシア人社会など挙げていけばきりがない。ウクライナは親露派が分離独立して紛争となった。香港の雨傘運動や台湾の選挙で国民党が惨敗したことも独立への志向の現れだ。
そして「イスラム国」である。「イスラム国」は国境が決まっていない。国境はその日、その日で違っている。憲法はイスラム法である。これからの中近東は、その昔、サイクス・ピコ協定で勝手に国境が定めれた以前の中近東の姿に戻る可能性が高い。「イスラム国」に対して、アメリカなどの近代国家側は従来の考え方を変えて対応する必要があるだろう。
このように今年は近代国家が揺らぎ初めた年であった。「国家」という枠がなくても人々は、ボーダーレスな情報通信と経済があれば生活圏を作ることができる、そうした時代になりつつある。そんなことをして軍事はどうするのか、他国から侵略されるではないかという声があるかもしれないが、そうした考え方は時代遅れなのである。国際紛争はもはや軍事力では解決しない時代になった。
このように、日本国内を見ていると、もはや暗澹たる未来しかないが、世界に目を向けると2014年の世界は新しい局面へと進んでいる。大きな勉強になった1年だった。
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