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December 2014

December 29, 2014

2014年の日本と世界

 国が傾き始めると、国家は社会を統制しようとする。人々には過剰なナショナリズムが生まれ、国家に統制されたくなる。

 今の世の中の右翼的な風潮は、この国が衰退していることの現れだ。昭和の高度成長の頃は、そんな風潮はなかった。ビルを建てたり、橋を架けたり、道路を通したり、家電や自動車を作って世界で売ったりして、給料は年々増えていく。そういう時代は「日本を取り戻す」とか、「この道しかない」とか言わない。ようするに、今の世の中はそういうことができなくなったので、他にやることがなくて「日本を取り戻す」とか言っているのである。

 集団的自衛権の容認にしても、自国に関係がない他人の国の争いごとに自ら進んで関わっていく国はない。同盟という契約があって、国家は他国の戦争に関わる。日本とアメリカにはすでに日米安保という条約がある。この上さらに、なにを定めようというのだろうか。

 安倍政権により、日本は自国の防衛に直接関係のない戦争に巻き込まれる可能性が現実のものといなった。昭和の自民党、吉田茂は当然として、岸信介も佐藤栄作もこんなことはしなかった。こんなことをしないように、ことさら在日米軍に手厚く在日米軍駐留経費負担金、いわゆる「おもいやり予算」を支払い、日米安保があるだけで十分としてきた。それだけでは不安になってきたので、さらに集団的自衛権なるものを持ち出してきて米軍の下請けを請け負うというわけである。政府は来春の国会で、自衛隊を随時海外に派遣できるようにする恒久法を制定しようとしているという。

 来年、日本経済はさらに落ち込むだろう。ということは、株価と景気は別だということや、公共投資をいくらやっても経済は良くならないということを、国民は今度こそはっきりと知るだろう。日本では株の売買で利益を得る人の数は少ない。株価が上がることで購買力が高まることはない。公共投資は仮に意味があるものを政府のお金で建たとしても、それが国民の給料に直結するわけではない。また、今の日本では建設業に人が集まらない。今の政府の経済政策は、この20年間でわかりきったことを、またもや繰り返しているわけであるが、今度はいくらなんでも学習するのではないか。安倍晋三さんがさかんに喧伝しているアベノミクスがダメだということが明白になれば、さすがに世の人々はもうだまされることはないのではないか。

 しかしその一方で、この先もまだ繰り返すかもしれない。国がとりあえずできる経済政策は、金融と公共投資しかないからである。アベノミクスとは、実際のところ統制経済に他ならない。国は規制緩和をしよう、経済をコントロールすることをやめようと思うことはない。今回の選挙で、賃金は増えていないという批判にこりたのか、政府は企業に賃上げを促す税制を新設・拡充するという。そこまでして国が国民の賃金を上げようというのは、もはや統制経済と言ってよい。経済に関わる一切合切のことを国がやろうとし、またできるものだと本気で考えているようだ。そうした社会主義的な思考が、逆に経済の発展を妨げていることがわからないのであろう。

 かつて池田勇人は「みなさんの給料を倍にします」と言った。逆から言えば、「みなさんの給料を倍にします」としか言わなかった。政府がなにもしなくても、実体経済の上昇によって国民の給料は増えることは知っていたからである。かくてアベノミクスで経済は回復することはなく、国民には約1000兆円を超える膨大な国家債務が残るだけになる。

 これだけの借金が返せるわけはない。従って、いつか必ず国債は暴落する。あとは、その時とはいつになるのかという問題だけである。来年かもしれないし、10年先なのかもしれない。しかし、その時は必ず来ることになる。そうした将来の話でなくても、来年、政府は集団的自衛権の法制化や憲法改正を試みるであろうから、国民の支持は下がる。今年の参院選挙での安倍自民党への支持がピークとし、来年以後は落ちるしかない。

 思えば戦後日本の経済政策の大きな目的のひとつは、格差社会にしないということであった。戦争に敗北し、焦土の中から復興した日本社会には、「格差社会にしない」という仕組みなり、制度なり、社会意識なりがあった。その時代の人々には、戦前の日本のようにならないという反省と決意のようなものがあったのだろう。それが高度成長時代が終わり、経済成長の低下とともに、富める者が富んでなにが悪いのかと格差を是認する社会へとなっていった。経済の成長を妨げているものは、格差を認めない悪平等であり、そうしたものをなくして、富める者はますます富めるようにすることこそ経済を成長させるものであるという方向へと曲がっていった。この間違いに気がついて、もとの方向へ戻ることができるのかどうか。

 かたや世界を見てみると、どうであったろうか。

 今年の国際社会で起きた最も重要なことは、アメリカの指導力が一段と低下したということである。エジプトやシリアやロシアや「イスラム国」などの諸問題に対して、オバマ政権のアメリカは指導力を持って前面に立つことをしなかった。今、我々は国際社会のリーダーの不在という状態にある。これはオバマ政権がレームダック化しているからではない。来年は次期の大統領選挙運動が本格的に始まるであろうが、オバマへの反感が、そのまま国際社会でのアメリカの指導力の回復に向かうかというと、そうはならない。

 今後、誰が大統領になろうとも、アメリカはかつてのような強大な影響力を持つことができなくなってきている。中国の台頭は、ある意味、当然の流れであるが、アメリカの影響力の低下は予想以上に早くなっている。アメリカの影響力の低下により、来年の国際社会も混乱が続くことになるだろう。

 紛争には原因がある。紛争を軍事力で押さえることができたとしても、その原因の解決は軍事力ではできない。軍事力以上に外交交渉や調整が必要になる。情報通信の発達により、人間のコミュニケーションの範囲は「ひとつの地球」という惑星規模へと広がったが、国の政治は国境で分かれているので、惑星規模の情報通信インフラを有効に活用する段階にまだなっていない。

 しかしながら、国としてはアメリカの影響力は低下しているが、企業の活動はめざましい。ところが、企業は多国籍化しているのでアメリカは国としての税金をとることができない。つまり、アメリカの財政は依然として問題を抱えているが、アメリカの経済は大きく伸びている。当然のことであるが、ボーダーレス経済の中で多国籍企業は惑星規模の情報通信インフラと交通網を十分に使いこなしている。国と多国籍企業の乖離はますます大きくなるばかりである。

 今年起きたもうひとつの重要なことは、国家の定義が問われたということだ。9月、イギリスのスコットランドは独立の是非を問う住民投票を実施した。反対票が55%を占め、独立は一応否決されたことになった。このスコットランドの独立投票の出来事は世界の各地に大きな影響を及ぼした。同じく9月にスペインのカタルーニャでは、スペインから独立を問う住民投票があった。これは賛成106票、反対28票の賛成多数で可決した。すぐに独立するというものではなく、将来の独立を目指してスペイン政府と交渉をしていくということの選挙であった。当然のことながら、スペイン政府はこの選挙を認めていない。

 中国内部のウイグル族やチベットの独立運動、ベルギーのフランドル地方、イタリアのロンバルディア地方、ハワイのポリネシア人社会など挙げていけばきりがない。ウクライナは親露派が分離独立して紛争となった。香港の雨傘運動や台湾の選挙で国民党が惨敗したことも独立への志向の現れだ。

 そして「イスラム国」である。「イスラム国」は国境が決まっていない。国境はその日、その日で違っている。憲法はイスラム法である。これからの中近東は、その昔、サイクス・ピコ協定で勝手に国境が定めれた以前の中近東の姿に戻る可能性が高い。「イスラム国」に対して、アメリカなどの近代国家側は従来の考え方を変えて対応する必要があるだろう。

 このように今年は近代国家が揺らぎ初めた年であった。「国家」という枠がなくても人々は、ボーダーレスな情報通信と経済があれば生活圏を作ることができる、そうした時代になりつつある。そんなことをして軍事はどうするのか、他国から侵略されるではないかという声があるかもしれないが、そうした考え方は時代遅れなのである。国際紛争はもはや軍事力では解決しない時代になった。

 このように、日本国内を見ていると、もはや暗澹たる未来しかないが、世界に目を向けると2014年の世界は新しい局面へと進んでいる。大きな勉強になった1年だった。

December 27, 2014

STAP細胞騒動の結末について

 26日のSTAP細胞についての理化学研究所の外部の有識者による調査委員会の発表とその後で行われた理研の記者会見をニコニコ生放送のタイムシフトで見た。ネイチャーに発表した論文が論じたSTAP細胞は実験の過程でES細胞が混入されていた可能性がある。また、図表についても、ねつ造されたものが新たに発見された。

 この調査をもって、STAP細胞の論文はその内容を否定され、以後、再調査はないとのことだ。ようするに科学的にはこれで結論が出たということになる。なぜ、ES細胞が混入されていたのかについては調査委員会は解明できずとしている。

 STAP細胞はES細胞を見間違えていたのではないかという指摘は以前からあがっていた。その質問が出るたびに、小保方氏、笹井芳樹氏は否定していた。ES細胞ではないというのが彼らの考えだった。調査委員会の調査ではやっぱりES細胞だったということになる。今年の初め、大々的に報道で登場したSTAP細胞は、やっぱりES細胞だった、で終わった。

 ある学説を発表したが、その後の調査で間違いだった、ということは科学の世界ではよくあることだ。トライ・アンド・エラーを繰り返して真実の達するのが科学の方法論である。そうやって科学は前進していくものなのだ。生命科学の分野に限らずずさんな論文、不正確な内容の論文は数多くある。その中で真偽を確認してい作業もまた科学の世界で必要不可欠な作業である。

 今の時代は膨大な量の情報があるが、情報が増えるということは「正しい」情報が増えるということではない。現代は過去の時代以上に「真偽を確かめる」という作業が必要になっている。

 つまり、このSTAP細胞騒動は「よくある出来事」を「よくある出来事としてきちんと正すということ」をしていけば、なんら大騒ぎになることがない出来事だった。

 しかしながら、その当然のことができないのが今回の出来事だった。

 論文は発表したのならば、他の研究者が検証することもある、もっと詳細を知りたいと言ってくることもある。なによりも自分が再度調べる必要が出ることもある。そのために論文の内容の根拠となる実験などのデータを残しておくことは常識以前の当然のことだ。その当然のことがまったくなされていないため、常識的な論文検証作業ができなかったというのが、今回の出来事だった。

 そうしたことができなければ、なんのために論文を発表するのかさっぱりわからないということになる。論文作成は学術研究の作業のためという常識的な前提からはそうなる。これでは、ただ「論文を発表しました」という記録が残るだけだ。ただ「論文を発表しました」という記録を残すだけのために、費用と労力をかける研究とは一体いかなるものなのであろうか。

 しかしながら、まさしくその、ただ「論文を発表しました」という記録を残すだけの論文発表だったというわけだ。これは、この今回の出来事だけの話ではない。今の時代、特許や予算を獲得するため、ただ「論文を発表しました」という論文は膨大な数になっている。論文の粗製濫造である。だが、粗製濫造であっても、とにかく論文を出せばいいという世の中になっている。

 きちんとした正しい論文でも、データを都合良く修正してある論文でも、論文を出したという事実に変わりはない。きちんとした正しい論文には手間と時間がかかる。内容の質は問わず、短時間で数多くの論文を出した方が勝ちというゲームであれば、大多数の者たちは、学問的に意義のある質の高い正しい論文作成など、歳をとって功なり遂げた身分になってからやるものだと思うであろう。

 外部調査委員会の国立遺伝学研究所長の桂勲委員長は、こう述べた。

「生命科学の研究室は競争的資金(研究費)を取るために必死で、そこには同情するが、特許や競争に夢中になって科学の基本が忘れられるのはまずい。『有名になりたい』『ノーベル賞を取りたい』というのを非難したくはないが、大切なのは科学で自然の謎を解く喜び。そして、科学者としての社会的責任をどう果たすか。そこから目がそれると間違いが起こると思う」

 ニコニコ生放送でこれを聞いた時、この人は立派な学者だと思った。私もそう思う。科学の根本は自然の謎を解くことである。そして、科学者としての社会的責任をどう果たすか。科学者のあるべき姿は、この二つ以外のなにものもないと思う。

 しかし、今の時代は、科学の研究をやりたい者だけが、きちんとした科学教育を受け、きちんとした研究職に就き、しかるべき給料をもらい、その職務を全うして人生を送っていくという時代ではなくなってしまった。

 今、生命科学の現場は、限られた予算の中からいかに獲得するか、少ないポストをいかに獲得するか、という競争的な状態の中にある。そうした状態の中にある現場の者たちは桂勲委員長の言葉をどう受けとめたのだろうか。桂勲委員長の言葉は理想論なのであろう。限られた予算と決められた時間しかない中で成果を出すことを要求される場にいる者たちに、科学の根本は自然の謎を解くことであるということと、科学者としての社会的責任をどう果たすかということを考える精神的ゆとりはないのではないかと思う。

 ただし、では、競争的な状態ではない、潤沢な予算と時間的余裕があれば良い研究ができるのかというと、それは別の話になる。科学の根本は自然の謎を解くことである。そして、科学者としての社会的責任をどう果たすか。こうした意識を軸として持つ研究者ではなくては良い研究はできない。そういう人材はまた、そうした意識を当然のこととして持つ教育と環境からでないと育たない。

December 23, 2014

衆院選の結果を考える

 沖縄の復興費について政府は選挙前は「知事選の結果がどうあれ、振興策や予算に変化はない」と言っていたのに、知事選挙や衆院選挙で辺野古移転反対が沖縄の民意であることが表明されると振興費を減額するという。こういうことをやるところが、いかにも安倍晋三政権であると思う。ようするに、そういう政府であるということだ。

 衆院選の結果は自公民の圧勝と言われている。しかし、投票数で言えば非自公民への投票数の方が多い。前回の衆院選よりも低い投票率で自公民の票数は減っている。つまり、票数そのもので言えば、自公民への支持は下がっている。今回、共産党の議席が大きく増えたことは、自公民には入れる気はないし、だからといって民主党にも入れる気はないという票が共産党へ流れたのだ。票数で見る限り、とてもではないが日本国民は安倍自民党を信任したとは言えない状態になっている。

 しかしながら、その一方で一番多く票数を獲得した政党はどこかと言えば自民党であり、よって自民党が政権政党になるということは紛れもない事実である。投票率が低かったから、その選挙は無効になるということはない。仮に投票率が1パーセントになろうとも、一番多く票集を獲得した政党が政権政党になる。

 自民党に対抗できる強力な政党がないため、日本の政治が低迷している。もちろん、そうした政党が一朝一夕で出現するものではない。有権者が、そうした政党ができることを望み、そうした政党を育てることをしなくては生まれない。投票は選択ではなく、政党を育てることなのだという意識が必要だ。結局のところ、対抗軸がなくなっている。対抗軸ということでは、自民党の政策と明確に対抗しているのは共産党ぐらいであって、他はどこも似たり寄ったりのものだった。これは今に始まったことではなく、以前から言われていることであるが、政党のコンテンツの不足がある。

 日本の政治は政策においても、ショーマンシップにおいても不足している。これはそうした能力を持った人材が政治に集まらないからだ。アメリカの選挙運動はこのへんが大変充実している。なんとなく土着的に人々が集まる日本の社会風土と、理念やスローガンでしか人と人が結びつくことがないアメリカの社会風土との違いはあるが、日本でも大都市圏はアメリカ型の選挙運動が合う時代になってきたのではないかと思う。

 かつて大前研一さんが都知事選挙に出た時、政策を説明しようとしても誰もそうしたことには興味を持たなかったと書いていたが、今の都心部の都民は変わってきているのではないかと思う。安倍自民党の選挙演説のように、日の丸掲げて感情が高揚すればそれでいいという有権者だけではない。

 選挙の結果がどうであろうと、そもそも投票に行こうか行かまいが、変わらない日常生活というものがある。この「日常生活」に支障がでない限り、選挙でどの政党を選ぶか、投票所で投票するかということは変わることがない人々が大多数である。そうした人々が大多数であるということは、ある意味において、政治的におだやかな安穏とした社会なのであるかもしれない。本来、人々にとって、政治というものは万事うまく、滞りなく進んでいてくれればそれでいいものなのだ。戦争の敗戦から高度成長を遂げた頃のこの国はそうだったのだろう。

 この安定はある前提条件下での安定であり、そうした前提条件は次々となくなっている。半世紀前の敗戦から政治によって復興したこの国は、これから政治によって衰退していく。今回の選挙の結果、戦後のサンフランシスコ体制、すなわちアメリカへ従属依存は続き、日本経済は停滞し、311はなかったことになる体制が続くことになる。

 ただし、沖縄の選挙結果だけには希望がある。今、政治で最も最先端なのは沖縄だ。

December 21, 2014

香港の雨傘革命が残したもの

 12月15日、香港警察により最後の砦であった銅鑼湾の占領区が強制排除され、かくて9月末に始まった道路占拠は79日目に完全に終結した。梁振英行政長官は、民主化要求デモが終わったと宣言したという。香港政府からの進展のある回答を得ることなく、香港の雨傘革命は終わった。

 香港政府および大陸の中国政府がいわば「勝利」したような形で終わったわけであるが、世界はこの出来頃を見ていた。特に、この出来事が台湾に与えた影響は大きい。台湾は、明日の我が身と思って香港を見ていたことだろう。今回の出来頃は、大陸とひとつになるとロクなことにならないということを世界に向けて証明したようなものである。

 台湾の統一地方選で与党の国民党が歴史的大敗をきし、その責任を取り馬英九総統が国民党の主席を辞任したわけであるが、今後、大陸と「ひとつ」になっても台湾の地位は保証されるという統一派の言葉には誰も耳を向けなくなるだろう。馬総統は習近平との会談を目指すなど、親中的に平和な統一の方向へ台湾を向かわせようとしていた。それが台湾の民意ではねのけられたのである。統一派が信頼を得るのはもはや不可能と言ってもいい。今回の出来事で、大陸中国が失ったものは大きい。

 その一方で、学生側も時期尚早だった感がある。行政長官選挙は2017年なのだから、この時に「誰でも立候補できるべきだ」と占領運動をした方がインパクトが大きかったように思う。もちろん、2017年の選挙の時にも抗議運動はあるだろう。香港は普通の選挙すらできないところなのであるというイメージが世界に広がることは、香港のビジネスに大きなマイナスになるということを香港市民の意識に深く浸透させる必要があったように思う。そのためには、それなりの時間がかかる。

 デモあるいは抗議運動は、当然のことながら市民生活の妨げになる。やる側は、市民生活を妨げることで意思を表明しているのである。しかしながら、市民生活を妨げることは、市民社会からの反発を受けることになる。台湾の抗議運動が成功したひとつの理由は、抗議活動場所を立法院という政治家だけにめいわくがかかる場所に限定したことだ。その意味で次回の大規模な抵抗運動をやる時は、今回の出来事は大きな事例になるであろう。

 ただし、「普通選挙」があれば香港の様々な問題が解決するわけではない。 「普通選挙」だけで世の中が良くなるわけではないことは、先日、衆院選挙があったばかりの日本を見ればよくわかるだろう。大陸の息のかかった候補者だけの中での選挙など民主主義の選挙ではない、という気持ちはよくわかるが、今の香港がやらなくてはならないことは他にも山のようにある。そう考えると、今回の雨傘革命が警官隊による撤去で終わったとしても、香港の若者たちが述べなくてならないことは数多くある。オキュパイ・セントラルは、その中のひとつであったにすぎないと考えるべきだろう。

 習近平国家主席は、20日のマカオ返還15年の記念式典で「『1国2制度』を維持する自信と決意は絶対に揺るがない。中央の権力を維持しながら高度な自治権を保障しなければならない」と述べたという。マカオは大陸の富裕層相手のカジノ産業で発展してきたが、中国の景気後退により顧客が減っている。マカオでも香港のような民主化要求運動が起きないように愛国教育を普及させるという。

 ますます、台湾は大陸から遠ざかる。

December 14, 2014

衆院選

 安倍首相は十三日夜、東京・秋葉原での演説で「企業の生産性や競争力を強くし、雇用を増やして賃金を上げ、消費を拡大、景気を回復させていく政策だ」と述べたという。一国の首相が経営コンサルタントのようなことを言うのだなと思ったが、そういうこともあるだろう。しかしながら、アベノミクスとやらが「企業の生産性や競争力を強くし、雇用を増やして賃金を上げ、消費を拡大、景気を回復させていく政策とはまったく思えず、この20年間、政府がやってきて、なんの効果も上げず、結局、国の借金を増やすだけの結果に終わったということを、この人はなにも学んでいない。この人がどうこうというよりも、自民党政権そのものが、なにも学んでない。

 当然のことながら、選挙で投票する。これだけでは世の中は変わらない。政策は1年、2年で結果がでるものではなく、ものによっては10年、20年かかるものもある。例えば、今、どの政党が政権党になっても、今すぐに景気が良くなるわけではない。来年も日本経済は再生しそうにない。日韓関係も日中関係も良くはならない。少子高齢化が止まることもなければ、地方から大都市への人口の流動が止まるわけではない。

 昭和30年に自由党と日本民主党が「保守合同」により結成された自民党の、その当時の目標は戦後日本の復興だった。それがかりに高度成長と昭和39年の東京オリンピックによって達成できたものとするのならば、自民党の政策の結果が出るまで10年はかかったということになる。

 ただし、なにをどうするれば日本は復興するのかということが明らかな時代だった。国際社会は冷戦という単純な構造だったし、西側陣営の一員になり、安保で軍備にカネをかけることなく、外国から資源を輸入し、国内でテレビや冷蔵庫や自動車を製造して、それを世界の市場で売って外貨をかせぐということをやればいいだけだったと言えば、そうだったと言えるだろう。朝鮮戦争やベトナム戦争といった近隣諸国で戦争が起こり、その戦争には派兵することなく、軍需景気で儲かる一方だけの時代だった。

 そうしたいわば日本にとって恵まれた時代が終わりつつあったのが1980年代である。これまでのことを、ただやっているだけではすまない時代になってきた。この頃から政治は大きく不安定になった。逆に言えば、この頃から政党は「これまでとは違うことをやる」ことを考える政党になるはずだった。それがそうしたことをすることなく、かくて今に至る。

 2000年に入り、メディアは自民党と民主党という二つの政党の対立の構図を作っていた。そして、2010年代に入ると、メディアは結果として民主党がダメな政党であったという「事実」を作り、自民党以外にはマシな政党はないなという構図にもっていった。かくて今に至る。

 実際のところは、民主党以外の非自民党政党のおのおのに、それぞれの主張があるのであるが、そうした複数の政党の主張を詳細に見て、総合的に考えるという構図にはしてこなかった。かくて今に至る。

 今日の選挙は投票率は低く、自民圧勝になると言われている。現状を鑑みると、どの政党も話にならない状態なのであるが、そうであっても投票するとなると、どこかの政党に投票せざる得ない。自民党の政権であることが、確実に自分たちの利益になる人々は自民党に投票するであろうが、そうでない人々の方が数は多い。そうした大多数の人々は、自民党以外の政党を支持する理由がなければ、「とりあえずは自民党だな」ということで自民党に投票する人々も多いだろう。その程度の選挙になってしまったのは今に始まったことではないが、とにかくに、この国の選挙はその程度のものになってしまった。そして、それに憤る若者が数多くいるということで香港の方が優れている。

 香港の若者たちから見れば、まっとうな普通の選挙ができる日本は恵まれているのだろう。しかしながら、その日本国の住人たちにすれば、この国はまっとうな普通の選挙ができる国なのであるが、まっとうなことをやる政党がないという不幸におかれている。日本の見事な点のひとつは、国の政策が話しにならないものであっても、現場レベルで対応していくということである。ただし、これは長続きするものでもなく、また、できることにも限りがある。

 先に選挙で投票しても、世の中はすぐに変わらないと述べた。しかしながら、低投票率と自民圧勝の次に起こることは容易に予想できる。311はなかったことにされ原発の再稼働が進む。労働者派遣法が変更される。集団的自衛権の法整備が進む、秘密保護法も問題なしということになる。政府は 「この道しかない」という。「この道しかない」という世の中になる。「この道」の閉塞感しかない世の中になる。

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