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June 26, 2014

「くるならきてみろ!」

 集団的自衛権について、さらに言えば戦争を防ぐということについて「手出しできない国」と思わせることが必要だとか、「戦争ができる国」になることが戦争を防ぐことなのであるとかいう話が徘徊している。

 戦争の話となるとすぐに軍事力の話になる。相手に手出しされないような強固な軍事力を持つという話は勇ましく結構であるが、ではどれほどの軍事力を持てば「相手に手出しされない」ようになるのであろうか。

 最も有効な軍事力は核兵器を持つことなのだろう。核兵器をずらりと並べて「くるならきてみろ!こっちには核兵器があるんだぞ!」と世界に向かって声高く威嚇することなのであろう。北朝鮮みたいな国になるということだ。核兵器を持つことが、まさしく「手出しできない国」になることであり「戦争ができる国」になることなだろう。

 ただし、そうした国になり、それを運用し維持していくには、それなりのおカネがかかることはいうまでもない。「手出しできない国」になることが必要、「戦争ができる国」になることが必要という人々は増税はオッケー、ええ、払いますいくらでも、国のためには税金をどんどん払いますという人たちなのであろう。国民の鑑と言わざるを得ない。

 しかしながら、膨大な国家予算を使い巨大な軍事力を持っていても戦争になる時は戦争になる。戦争というものは、相手が「手出しできない国」だから手出しするのをやめようとか、相手が「戦争ができる国」だから戦争するのはやめようと思うわけではない。相手は戦争をやるときはやるのである。

 かつて大日本帝国がアメリカと戦争をした時、アメリカはまぎれもなく「手出しできない国」であり「戦争ができる国」であった。しかしながら、わが父祖の人々はアメリカは「手出しできない国」で「戦争ができる国」なので戦争をすることはやめようと思ったのであろうか。そんなことはことはなかった。日本はアメリカが「手出しできない国」であり「戦争ができる国」であることはよくわかっていても、やむにやまれぬ大和ダマシイで真珠湾を攻撃したのではなかったのだろうか。

 何度も述べて申し訳ないが、相手が「手出しできない国」や「戦争ができる国」であろうとなかろうと、戦争をやるときはやる。核兵器をずらりと並べて「くるならきてみろ!こっちには核兵器があるんだぞ!」と世界に向かって声高く威嚇しても、相手の国は戦争をやるときはやってくるのである。それが戦争なのだ。

 では戦争をやる側は、どのようなときに戦争をやるのであろうか。どのような条件であれば国家は戦争を行うのだろうか。

 かつて戦争とは戦闘を職業とする人たちだけが、一般市民が住んでいる都市や村から遠く離れた場所で銃や刀で戦いあうものだった。この戦争の姿が一変したのは第一次世界大戦である。第一次世界大戦以後の戦争は、国家と国民の生活のすべてを巻き込む総力戦になってしまった。

 為政者の判断だけで開戦し、職業軍人だけが戦死する時代は、相手の軍事力が強いか弱いかで戦争をすることができた。しかしながら、総力戦の全面戦争をやるとなると国家全土が軍事統制下になり、国民生活はそうとう困窮することになることを覚悟しなくてはならない。

 (余談ながら事実、第一次世界大戦以後の第二次世界大戦はさらにそういう戦争だった。それをわかっていてなおかつ世界は第二次世界大戦をやったというところに、第二次世界大戦のさまざまな側面があるのであるが、ここではそのことに触れない。)(日本について言えば、陸軍はともかくとして帝国海軍はそのことを理解していて日米開戦を決断したのかどうかというと、いろいろあるが、やむにやまれぬ大和ダマシイだったということにここではしておきたい。)

 戦争をするとなると、世界経済は大きく混乱する。東日本大震災で東北地方や関東北部に工場が集中していた自動車部品や半導体・電子部品の生産がストップし、そのサプライチェーンに依存していた世界の数多くの企業に深刻な影響を及ぼしたことはまだ記憶に新しいであろう。地震や津波の被害ですらこうしたものであった。ましてや戦争になると世界経済に与える影響は計り知れない。

 今の時代、どこかの某国が日本に戦争をしかけるとなると世界経済はそうとう混乱する。その某国を中国だとすれば、日中が戦争するとなれば世界経済は崩壊すると言っても良いだろう。日本人が中国を好きであろうと嫌いであろうと、中国人が日本を好きであろうと嫌いであろうと、もはや日中はグローバル経済で切っても切れない関係にあり一蓮托生なのである。今の時代は戦争がしたくてもできない、ある意味、不幸な時代なのだ。

 戦争をやるときは大義名分が必要である。大義名分があれば戦争ができる。大義名分を掲げ、国家と国民をひとつにしなくては戦争はできない。大義名分があるから、相手が「手出しできない国」や「戦争ができる国」であろうとも戦争をするのだ。撃ちてし止まん。進め一億、火の玉だ。

 つまり戦争をする、しない、は軍事力がどうこうではなく、国民の生活と生命を犠牲にしても戦争をする大義があるか、ないかということなのである。だからこそ日本のような小国において戦争を防ぐ方法とは、相手より強い軍事力を持つことではなく、相手に日本と戦争をする大義名分を作らせないということである。そして日本と戦争をするとあなたの国は不利益になりますよという状態を作り、それを保っていくということなのである。

 日本と戦争をする国は、次のような大義名分が必要であろう。

「日本は平和に暮らしている我々に侵略をしてきた悪逆非道の国である。自国の国民の暮らしと世界経済を犠牲にしても日本人をたたっ殺す、日本を叩きのめさなくてはならない。」

 こうした大義名分がない限り日本と戦争はできない。しかも、その大義はその国の中だけではなく広く国際社会が認めうる大義でなくてはならない。そうでない場合、国連決議で中止を求められることなる。戦争の大義名分は国連が納得しうるものでなくてはならない。

 それでは上記の条件を満たす大義名分が、今の中国で果たして成り立ちうるのであろうか。

 戦争ができる国にならなければ中国が攻めてくるとか言う人は、中国に日本と戦争をする(国連も納得する)大義名分が成り立ちうると本気で思っているのであろうか。メイソウのぱちもん日本製品とかは買えなくなり、日本のアニメやマンガは見れなくなって中国の若者たちはガマンができるのであろうか。ただでさえ軍事費よりも国内の治安維持やネット監視にかかる予算の方が大きいもっかの中華人民共和国の、どこに日本と戦争をする余裕があるというのであろうか。

 いやあ、やっぱりシナ(by イシハラシンタロー)は信用できないですよ。やっぱ核兵器をずらりと並べてだなあ、「くるならきてみろ!こっちには核兵器があるんだぞ!」と手出しできないように声高く威嚇しなくては安心しておちおち眠ることもできないですわ、という人はもはやマトモな会話ができない人と思われてもしかたがないであろう。

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