続・河野談話を見直してどうしようというのか
政府の慰安婦問題に関する河野談話の検証報告書が公表された。この報告書は「慰安婦問題の歴史的事実そのものを把握するための調査・検討は行っていない」。ではなにを検討したのかというと「河野談話作成過程等に関する検討」を行ったものである。
興味深いのは、この報告の冒頭で「検討チームとして、今回の検討作業を通じて閲覧した文書等に基づく限り、その内容が妥当なものであると判断した。」と述べられていることだ。つまり、河野談話の内容は妥当なものであると結論している。国のおカネ、つまり税金を使って自分たちの国の政府が21年前に発表した談話について改めて検証を行い、その結論が「妥当なものである」というものだった。
結論が「妥当なものである」であるにもかかわらず、河野談話があたかも信頼がおけないものであるかのようなものになっている。河野談話を否定する産経新聞は「談話は歴史の厳密な事実関係よりも、強制性の認定を求める韓国側への政治的配慮に基づき、日韓両国がすり合わせて合作していた。」として河野談話がいかに間違ったものであったかがこれで立証されたと報じている。
なにゆえ、このようなことになるのであろうか。
河野談話では「募集、移送、管理等も甘言、強圧によるなど、総じて本人たちの意思に反して行われた」と述べられている。私はこの文言のどこがどう悪いのかわらないのであるが、どうも河野談話を批判する人々は河野談話ではいわゆる「従軍慰安婦」の人々全部が全部、軍の強制のもとで行われたと韓国側は解釈している。だから宜しくないのであると主張しているようだ。言うまでもなく、河野談話は「従軍慰安婦」の全部が全部、軍の強制のもとで行われたとは言っていない。
この構図はいわゆる「南京大虐殺」をなかったとする人々の主張と同じだ。彼らは中国側が言う30万人もの数の人間を殺害したわけではないと言っている。であるのならば、では「(30万人の)南京大虐殺」についてはやった憶えはないので謝罪なんてものはしないが、10万人なり20万人なり「南京小虐殺」あるいは「南京中虐殺」については謝罪しますとでも言うのだろうか。こうしたことは、外国から見ると日本人は虐殺行為を「した」ということを、虐殺した人間の「数の話」にすり替えているように見える。ここで糾弾されているのは虐殺という行為であって、何人の中国人を虐殺したのかという数の話しではない。にもかかわらず、数の大小を挙げつらうのは、そもそも悪いことをしたとは思っておらず、謝罪するつもりもなければ、その気もまったくないように見えるのである。
同様に、河野談話を非難する人々は、では河野洋平氏がどのように言えば良かったというのであろうか。よもや「従軍慰安婦」の人々全部が全部、自発的にやっていました。強制連行の証拠はありませんので強制的なことなどなにひとつやっておりません、と言うのであろうか。朝鮮のみなさんに悪いことは何ひとつやっていません。朝鮮の皆様に愛される日本皇軍でしたとでもいいたいのであろうか。
軍の関与した証拠がないというが、戦前の軍のやったことすべてが公式書類として残され現存しているという確証はない。終戦時に軍は大量の書類を処分している。またそもそも公式書類に残ることなのかどうかも疑問である。「軍による強制連行の証拠書類がない」という言うことは、外国から見ると日本は逆に事実を隠蔽しようとしていると見えるのである。むしろ、「軍による強制連行の証拠書類がない」。しかしながら「募集、移送、管理等も甘言、強圧によるなど、総じて本人たちの意思に反して行われた」人もいたであろうとするのが常識的な判断だ。
自発の人もいたし、強制の人もいた。全部が全部、自発ではなったし、全部が全部、強制ではなかった。であったとして、「従軍慰安婦」についての責任がまったくないとは言えない。
いや、「従軍慰安婦」についての責任は認めるが、 自発の人もいたし、強制の人もいた。全部が全部、自発ではなったし、全部が全部、強制ではなかったという事実をはっきりとさせたいとでも言うのであろうか。こうしたことは外国から見ると、これもまた日本は言い逃れをしようとしていると見えるのだ。自発の人もいたし強制の人もいたとし、これを謝罪する河野談話はしごくまっとうなものであり、これが外国から見て十分受け入れることができるものである。
日韓両国のすり合わせの合作で、なにが悪いのであろうか。むしろ、これで河野談話は韓国政府も承認した日本国からの公式な謝罪であることが立証されたと言えるだろう。日本国の謝罪は河野談話であって、それ以上、それ以下はない。謝罪は河野談話で終わりであって、韓国側がさらに謝罪を要求してくるのならば、再度河野談話を送るしかないであろう。100回謝罪を要求してくるのならば、100回河野談話を送る。1000回謝罪を要求してくるのならば、1000回河野談話を送りつけるしかない。
日韓両国のすり合わせは悪いことではない。外交というものは、本来そうしたものだ。また、そうした非公式なすり合わせをしたことを日本側から韓国側にマスコミには出さないものとして欲しいと申し入れ、韓国が了解したという。これを河野氏をはじめ政府はその後、すり合わせの事実を否定し国民を欺いていたとしているが、外交交渉というのは本来、機密に行うものであり、それをこのように表に出すのは逆に日本政府への信頼を損ねることになってしまったことになる。
韓国の朝鮮日報は社説「河野談話検証は韓日関係の破たんが狙いなのか」でこう書いている。
「韓日間の外交交渉について、安倍政権は何か「取り引き」でも行われたかのように事実を歪曲(わいきょく)している。安倍政権が今になって「外交交渉を経て日本政府はやむなく河野談話を発表した」という印象を持たせようとしているのなら、これは日本による外交の独自性を自ら否定することにほかならない。」
今回の河野談話見直しにより、韓国以外の他の国々にも日本の政府は(政府がだ)外交交渉の機密を平気で公表する国なのだと思われることになってしまった。
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