「サンフランシスコ体制」の見直しが必要だ
太平洋戦争が終わった1945年の日本の、本来の有り様について考えてみたい。本来はどうであるべきだったのかという思考実験をしてみたい。
本来はどうであるべきだったのか。戦争が終わり、敗戦国となった日本は周囲の国々から信頼され、それらの国々と関係の強化していくことが最も必要なことであることは言うまでもないであろう。周囲の国々とは、中国であり、朝鮮であり、さらに言えばソ連である。アジア大陸の東端の島国である日本は、こうした国々との親密な関係なくしてありえない。ごく自然に考えて、これは常識的なことであり誰もが理解できることであろう。
ところが、である。
この70年間の日本の戦後史は、そうはならなかった。ならなかったどころか、戦後日本は中国、朝鮮(韓国・北朝鮮)、ソ連・ロシアを敵視し、これらの国々と険悪でぎくしゃくした関係を持ってきた。中国、朝鮮(韓国・北朝鮮)についていえば、もっかの日本国の総理大臣は会談すらできていない。向こうからすれば話したくもない相手が日本国の今の総理大臣なのである。
カンタンに言うと、今の我が国の様々な外交的諸問題の原因はここにある。つまりは、これらの国々と仲が良くないから起きている。
この70年間、日本はこれらの国々との関係改善に努め、戦争の責任と謝罪を明確にし、良好な関係を持つ努力をしていれば、今、尖閣諸島とか竹島とか北方領土とかの領土問題にもめることはなく、沖縄に米軍基地はなく、拉致問題もなく、ロシアの広大な大地の天然資源をふんだんに輸入し、世界経済第2位の中国の巨大な市場でビジネスをして、アジアの大中華圏の中で経済成長まっしぐら、隣国と仲良きことは美しきかな(笑)の世の中になっていたはずである。
しかしながら、そうはならなかった。なぜそうならなかったのか。
「サンフランシスコ講和条約」というものがあった。太平洋戦争で敗北し、アメリカの占領下にあった日本は、1951年(昭和26年)にサンフランシスコで日本と連合軍の間で講和条約を締結することによって、アメリカによる占領は終わり、日本は独立国に戻った。
この「サンフランシスコ講和条約」はかなりいびつで歪んだ講和条約であった。連合国と言っても米ソ冷戦が始まっており実質的にはアメリカ主導の西側自由主義陣営との講和であった。サンフランシスコ講和会議には中国は招待されず、ソ連は参加はしたが条約に署名をしなかった。アメリカの思惑は、日本を自由主義陣営の中に組み込むことであり、そのためには戦争の賠償や領土問題はあいまいなままとされた。敗戦国日本にとってみれば、この講和条約はかなり有利なものだった。沖縄はなおもアメリカの主権のままであり、在日米軍基地の大半は沖縄に置かれ続けた。
「サンフランシスコ講和条約」と同日署名された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(いわゆる「日米安保」)の二つの条約により、戦後の日本は隣国のアジア諸国ではなく、太平洋の向こうの遠く離れたアメリカという国の属国としてアメリカ側の一員になり、周辺の本来友好な関係を持つべき大陸中国やソ連・ロシアと敵対関係を持つというかなりいびつな体制に中に組み込まれた。戦後日本の国際的な位置はこの「サンフランシスコ体制」で作られたと言ってもいい。それは70年後の今日をもってもなおこの構造の中にある。
この講和条約に左派の知識人の多くは反対した。アメリカ主導の西側自由主義陣営だけとの調印ではなく、ソ連、中国も含めた全面講和をすべきであると彼らは主張した。それらの反対を押し切って、単独で講和することを押し進めたのが時の総理大臣の吉田茂である。
上に「本来はどうであるべきだったのか」と述べた。しかしながら、その「どうであるべきだったのか」という考えは、あの時代の日本と国際社会がおかれていた状況を、いわばないものとしての思考であり、各々の時代の枠の中で物事は考えなくてはならない。「ロシアの広大な大地の天然資源をふんだんに輸入し、世界経済第2位の中国の巨大な市場でビジネスをして、アジアの大中華圏の中で経済成長まっしぐら、隣国と仲良きことは美しきかな(笑)の世の中になっていたはず」と述べたが、これはソ連が崩壊し中国が経済大国になった21世紀の今だから言えることで、実際はそうはならなかったであろう。
単独講和も警察予備隊の創設も沖縄の米軍基地化も、あの時の日本人たちが望んで行ったものではなかったと思いたい。こんなものは本当の独立ではないということは吉田茂自身もよくわかっていただろう。しかし、日本人が望もうと望まないとに関わらず、日本は冷戦という時代の中で選択をしていかなければならなかった。
後の世の我々が「サンフランシスコ体制」を批判することはたやすい。しかしながら、あの時代の日本に他にどのような選択があったというのであろうか。左派の知識人たちが言っていたソ連や中国も含めた全面講和を行い、在日米軍は置かず、永世中立の国となるということは、冷戦下の国際社会でとてもではないが実現不可能の夢物語であった。この時、敗戦国である日本は占領軍であるアメリカの意向に従い、アメリカ側の一員として共産主義と戦うということ以外に選択はなかった。
ただし、吉田茂は日本が実際に戦争に出ることは避けた。アメリカからの再軍備化の要請を警察予備隊、保安隊、そして自衛隊の設立という最小限程度の軍備力の保有に留めた。そして、朝鮮戦争とベトナム戦争の軍需特需で日本経済は大いに潤い、その後の高度成長時代へとつながっていった。吉田茂は「サンフランシスコ体制」の中で、日本が経済復興を遂げる道を選択したのである。
そして70年後、この「サンフランシスコ体制」が残した中国やロシアとの領土問題や、なによりも沖縄を米軍基地化させたことが大きな障害となってこの国の前に立っている。
過去のことは過去のこととして、問題なのはこれからのことだ。これからはどうするのか。この先も「サンフランシスコ体制」を続けようというのであろうか。アメリカの軍事プレゼンスの低下、グローバル経済と交通と情報通信技術の発達による全地球的環境の出現、中国の台頭。この3つのポイントにより「サンフランシスコ体制」は現実の世界に合わなくなってきている。
現在の国際社会では、この70年間続いてきた「サンフランシスコ体制」が大きくきしみ始めている。今見直さなくてはならないことは日本国憲法の改正とか集団的自衛権とかではなく、日本と日本人の意識を縛りつけているもっと大きな枠組みである「サンフランシスコ体制」そのものの見直しが必要なのである。
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