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June 08, 2014

戦争を防ぐには「戦争のできる国」にならない

 池田信夫センセイが書かれるものは、なるほどと納得できるものも多いが、時々、なにゆえこんなことを言うのかと思うものもある。NewsWeek日本版のサイトでの池田センセイのコラム「戦争を防ぐには「戦争のできる国」になる必要がある」はまったくもって理解し難い。

 ようするに、日本が「戦争ができない」国であると、中国は日本に戦争をしかけても報復してこないので先制攻撃をしかけることができる。だから、日本が「戦争のできる国」になることで、日本側が報復できるのだから中国側は先制攻撃をしかけることができないと判断し、戦争を防ぐことができるのだという。

 この手の話はよくあるもので、一番有名なのが核抑止力の話だろう。相互に核兵器を持つことで、相手は相手に対して核攻撃をしかけることができない。よって、核兵器を持つことが核戦争を防ぐ有効な方法であるとする理論だ。この理論の有効性については別の機会に論じたい。問題は、この話と同じリクツで現代の戦争を論じることができるのだろうかということだ。

 まず、「戦争のできる国」とは何であるのかということが挙げられる。どの程度の軍備を持つことで「戦争のできる国」というのだろうか。もっとはっきり言うと、どのくらいの国家予算を使うことで「戦争のできる国」になると言うのであろう。どのくらいの人数の常備兵員を持つことで「戦争のできる国」と言うのであろうか。言うまでもなく平時における軍事力は、どの程度の予算をそれに費やすことができるのかという算段があって、その上に成り立っている。国家予算という決められた枠の中でしか軍隊を持つことはできない。軍隊にカネを回せば、その分、他のカネがなくなる。こんなことは小学生でもわかる話だろう。

 戦前の帝国陸海軍は、この国家予算という決められた枠の中で、いかにより多くの予算を軍隊がぶんどるかの政略の連続だった。しかし、かりに日本国の国家予算のすべてを帝国陸海軍が使ったとしても、日本は対米戦争ができる国にはなれなかった。いくらカネをかけようとも工業力の彼我の差を埋めることはできなかった。20世紀になり第一次世界大戦によって戦争の内容と規模が大きく様変わりした。戦争はもはや人が人と戦うのではなく、機械と機械が戦うものになった。消費する砲弾の量もそれまでの戦争の概念を超えるものになった。カンタンにいうと、それなりに工業力のある国家でないと戦争ができない時代になったのである。

 鉄がなけば兵器は作れず、石油がなくては戦車や軍艦は動かないのである。つまり、いくらカネをかけようとも、日本の場合、外国資源の輸入がなければ戦争はできない。20世紀は、そういう時代になっていた。本来の常識で考えれば対米戦争なぞできないのであり、「アメリカと戦争はできません」というのが軍事常識的に「正しい」意見だった。しかしながら、あの時、軍人はそうは言えなかった。言えなかったということについて、いろいろ理由がある。そのことについては別の機会に論じたい。

 いずれにせよ、軍事というものは、目的に応じてカネがかかるということと、いくらカネをかけてもできないことがあるということである。このへんを池田センセイはどう考えて「「戦争のできる国」になる必要がある」と言われるのだろうか。日本が中国と「戦争のできる国」になるには、そうとうのカネをかけることになるのだが、その算段があって「「戦争のできる国」になる必要がある」と言われるのだろうか。

 なるほど確かに、大日本帝国が朝鮮と中国を侵略したのは、李氏朝鮮にも清朝崩壊後の中国にもまともな軍隊がいなかったからであろう。李氏朝鮮も清朝崩壊後の中国も「戦争ができない国」だった。だから日本は侵攻した。朝鮮や中国が「戦争ができる国」であれば日本は侵攻しなかった。

 しかしながら、この世の中にはA国とB国という二つの国しかないのではなく、その他大勢の国々がある。「戦争ができない国」中国は日本の侵攻に対して、広大な中国大陸を逃げ廻って戦線を拡張させ泥沼的状態にもっていくとともに、国際世論を見方につけてアメリカの援助を得ることをもくろんだ。中共も国民党もこの点について一致し、日本はこの戦略に乗っかっていったということが言える。特に、日中戦争下でコミンテルンが果たした役割は大きい。

 通常のマトモな国は、あの国はうちと戦争ができる国ではない。それじゃあ、あの国を攻めても問題ない。よし戦争をしよう、というそういった幼稚な思考で戦争はしない。かつて大日本帝国がそうした幼稚な思考で戦争を始めたとしても、当然のことながら現実はそうした思惑通りにはならなかった。

 池田センセイはこう書いている。

「20世紀は世界大戦が2度も起こったが、延べ人口に対する死亡率は1%程度で、石器時代よりはるかに低い。現代は、人類史上もっとも平和な時代なのだ。それは軍事力が均衡して、先手必勝の非対称性がなくなったからだ。ここでは核戦争のような「相互確証破壊」になるので、互いに先制攻撃しないことが合理的戦略になった。」

 この「延べ人口に対する死亡率は1%程度」の「述べ人口」ってなんですかという疑問はあるが、もし仮に20世紀以後が「人類史上もっとも平和な時代」であったのならば、それは「軍事力が均衡して、先手必勝の非対称性がなくなった」からではなく、地球規模で経済と交通と情報通信が発達したからである。戦争を防ぐには「戦争のできる国」になる必要はない。池田センセイはこれを「戦略論の初歩的な常識である」というが、こんなものは常識でもなんでもない。「戦争のできる国」になるというのは、それしか選択がない。しかも、莫大な予算が軍隊に費やされる。そうではなくて「攻撃されない国」になればいいのだ。

 「戦争のできる国」になるというのは、「攻撃されない国」になることの選択のひとつでしかない。「攻撃されない国」になることには様々な選択があり他の国々との関係も必要になる。「戦争を防ぐには「戦争のできる国」になる」しかないと思うようになったら、それはもはや末期的な状況なのである。

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Comments

あなたの思う自主独立という意味が私には理解できません。
多分それは価値観の相違と思うのですが、貴方のそれが間違っているとか悪いとか私は思っていませんし、言うつもりもありません。
私と貴方との相違の部分を私のブログにUPしてみました。
それは単なる感想文です。
もしかしたら、貴方は私の疑問に答えてくれる・・・・
そんな淡い期待はしていますが、それを強要するものではありません。

【あるがままに・・・】
http://45946132.at.webry.info/201406/article_1.html

葵さん、

拙ブログに関心を持って頂きありがとうございます。

私の言う自主独立は難しいものではありません。「サンフランシスコ体制」からの独立です。「サンフランシスコ体制」という戦後レジームから脱却しなくてはなりません。すなわち、アメリカの属国にならない。国内に外国の軍隊を置かない。というたったこのふたつのことだけです。簡単です。

「これからはアメリカの言いなりになりません。」「自衛隊は米軍の下請けにはなりません。」「これからは沖縄も含めて日本国内に米軍基地はいっさい置きません。アメリカ軍はゴー・ホーム・クイックリー(かつて吉田茂がGHQという文字に対して言った言葉)である。」

と日本国の総理大臣が国際社会に向かって言う。簡単ですね。(^_^)

思いがけなく<自主独立>について御説明くださり、ありがとうございます。
>戦後レジームから脱却

安倍総理の支持者ですか?(笑)
そんなことはない・・・ですよね?
感謝の印として、あなたの記事を引用して私見を書きました。
喧嘩を売るなんてとんでもございません。
お邪魔でしたら削除してくださいね。

<解釈次第で・・・どうにでもなるものです。>
http://45946132.at.webry.info/201406/article_2.html

葵さん、

「戦後レジームから脱却」の「戦後レジーム」とは太平洋戦争後に出来上がった政府の体制や制度のことですが、国際的な環境でいえば昭和26年のサンフランシスコでの講和条約と日米安保、すなわち「サンフランシスコ体制」を意味するのが正しい理解だと思います。安倍晋三さんはそこまでの理解が及ばない、というか「サンフランシスコ体制」の上でしかものを考えられない人なのでしょう。

これは安倍総理だけではありません。「サンフランシスコ体制」から70年たった今日、日本人の多くがこの枠の中でしかものを考えなくなっています。

アメリカ自由主義陣営の側に立ってソ連・中国と敵対し、アメリカ軍の後方支援として国内、特に沖縄に米軍基地を置いて治外法権とする、在日米軍に財政支援をするということは、この時の状況下おいて決められたことであり、時代が変わればこの取り決めも変わります。

時代が変わったんだから憲法を変えよう、ではなく、時代が変わったんだから「サンフランシスコ体制」を変えようというのが本来の正しい「戦後レジームから脱却」なのです。対米従属と日米安保が終わってこそ、本当の意味での戦後が終わり、日本の主権回復、自主独立がなるのです。

占領期から70年代の「ベ平連」までの政治論議は、80年代以後少なくなり、2010年代の今、まったくなくなりました。その空白と忘却の中で憲法改正だ集団的自衛権だと日本の政治はどんどん変えられようとしています。日本は「サンフランシスコ体制」からの脱却どころか、ますます埋没していこうとしています。

小田実は代ゼミの夏期講習だったかで英文読解の授業を受けたことがあります。これが小田実かあと思いました。

僕は、また古い!と言われそうですが、今の日本にはもういなくなった「新左翼にちょっと傾いているオールド・リベラル」なのでしょう(笑)。僕のブログは70年代の『朝日ジャーナル』みたいな雰囲気を持ちたいと思っています。

真魚さん
とても誠実な御返信をいただきましてありがとうございます。
70年代、私は育児と家事そして仕事で世間を見るゆとりがありませんでした。ネットを見るようになってから、何だかおかしな世の中になっているようなので、好奇心旺盛という悪癖で質問しております。
何となくあなたの思う【自主独立】というものがわかるような気がしますが・・・今の政治家さんたちでは・・危なげです。

小田実の紀行文を読んで胸を躍らせた少女時代、ソ連崩壊後に資金提供を受けていたことが分かり複雑な気分になりましたが、あのおじさんは面白い人でしたね。今でも私は彼のことは嫌いではありません。

>今の日本にはもういなくなった「新左翼にちょっと傾いているオールド・リベラル」

セピア色の新左翼思想というのも面白いですね。
私の周囲は同じような思想、サンフランシスコ体制に甘んじてるヘタレばかりですので、興味深くこれからもあなたのブログ更新を楽しみにしています。


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寄る年波には勝てず、体力、気力、知力の衰えは感じているのに、好奇心だけは衰えを知らず困ったものです。 あれから私も真魚さんの言う自主独立とはどのようなものか考えながら、あなたのブログを拝見していましたが、理解できません。10年のネットライフで、あなたのブログは一番難解であり、私に考えることをさせてくれました。ボケ防止、感謝。... [Read More]

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