「美味しんぼ」騒動
「美味しんぼ」騒動は、「週刊ビッグコミックスピリッツ」誌上での自治体や有識者による賛否両論を並べた特集と「美味しんぼ」をしばらく休載することで幕が閉じられるようだ。出版社的には作者の問題提起を世に問う意義があるとした一方で双方の意見を掲載し、どちらに偏っているわけでもないことを示し、作者的にはこうした事実もあることをいち表現者として述べたということなのだろう。今回、これほどの大騒ぎになったことを見ると、今の福島の放射能被害に言及することは人々が隠しておきたいことに関わることであることがよくわかる出来事であった。
「美味しんぼ」は、誰もが触れようとしないその静かな水面に一石を投じてさざ波を起こし、そして去って行くというわけなのだろう。「美味しんぼ」の休載が事前から決まっていたとのことであるが、その真偽はわからない。事前に休載することを決めていて、こうした思い切った描写をして世論が喚起する(かもしれない)ことを考えていたのならば見事な作戦勝ちと言わざる得ない。実際、世論は喚起した。
今、被災地は安全な方向に向かっているという「気分」「空気」「雰囲気」「流れ」「世論」のようなものができつつある。もちろん、それはそこに住む人々にとって必要なことだ。それは別にウソや間違ったことではなく、ごく普通の自然な心情だろう。数多くの人々が復興に向かって活躍している。
しかしながら、それは被災地の人々が健康への不安、除染の不安、政府と東電への不信感を公言することをしてはいけないということではない。汚染除去に不安感、不信感を持つ人がいるのならば、国は安全対策の検討や住民への説明をさらに進めていかなくてならないはずであるのに、汚染対策は万全であり疑問を持つ者は風評被害を助著させていると批判するのはおかしい。事故によって放出された(そして今なおされている)放射能による生態系全体への影響は解明されていない。科学的に言えば「まだわからない」が事実であり、なにをもって汚染対策は万全だと言うのだろうか。
「絶対」安全というものはなく、国であろうと誰であろうと、コレコレの観点において安全であるとしか言えない。その「コレコレの観点」とはなんであるのか、「コレコレの観点」ではない事態が起きた時はどうするのかといったことを考えることがあって「安全です」が成り立っている。だからこそ、様々な視点からの意見が必要なのだ。
見方を広げれば東京だって「危険」なのであり、関東にもそれなりの放射能による健康被害がある可能性は否定できない。そもそも、放射能被害以外にも震災被害全般において東京は非安全な都市である。やがて起こるであろう関東地域の大規模な地震が起これば、東京は崩壊するであろう。しかしながら、東京都民である私は東京が絶対安全だと思って住んでいるわけではない。もし仮に美味しんぼが東京の危険性を述べたとしても、風評被害を助長させているとは思わない。
これで福島の放射能対策への安全性について否定的なことを言うと風評被害を助長するという批判を受ける世の中であることがはっきりした。安全か危険かには絶対安全か絶対危険かのふたつしかなく、コレコレの観点において安全である、コレコレの観点において危険である、といった言い方が通じない世の中のようだ。ある一つの方向の「気分」「空気」「雰囲気」「流れ」「世論」のようなものができると、それに対する否定的なことは「言わない」「言うことは間違っている」ということになる。
かつての事故以前の原発の安全神話のように、事故後の今度は放射能対策の安全神話が生まれつつあるようだ。国が言う絶対安全ということにおいて事故前も事故後も同じであり、そうした絶対安全は当てにならない、安全はある観点の上でしか成り立たない、そのリスクテイクの上に安全はある、そしてそれは福島であろうとどこであろうと同じである、ということを学んだのが福島原発事故だったのではないのだろうか。
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