解釈でどうとでもなると思っている人々
大学生の時、砂川事件のことを知った。最高裁の判決を知って、ああこの国は憲法を守ろうという意志はないのだなと思った。この国の文化では「書かれているもの」は書かれているだけのものであって、実際のところはその場、その場の状況でどうとでも解釈するんだなと思った。以来、政治家の憲法を改憲すべきであるというコトバを見るにつれ、憲法を守ろうという意志もないのに何を言うのだろうかと思ってきた。今でもそう思っている。
この国は憲法がどうこう以前に、いわば超法規的なことが多い。本来、憲法上でいえばこうなる、ということがこうならないことが多々ある。まず、そうしたことは一切なくして欲しい。憲法でやるのならば、全部憲法でやって欲しい。ここが私は信用できない。
西洋における法の独立は、つきつめると神から与えられた法であるため、国が滅ぼうがどうなろうが法は法であるという意識があるように思える。国家あっての法ではなく、国家がなくても法なのである。実際のところ、欧米でもそれはタテマエであって、国家の介入で法の解釈が変えられることしばしばある。しかしながら、タテマエはあくまでもそうなっている、というところが欧米にはある。
幸か不幸か日本には、そうした唯一神の信仰のような社会意識はない。それでも西洋から近代法を学んだので、そうしたタテマエが若干ある。が、それがタテマエだと誰もが思っている社会ではない。
近代日本における最高の権威は国体であろう。太平洋戦争の終結が遅れたのは、国民がどうなろうと国体だけは護持しなくてはならないと政治家や軍人たちは思っていたからである。戦後半世紀以上たったが、このことが消え去ったとは思えない。いつまた「国民がどうなろうと国体だけは護持しなくてはならない」ということが起こるとも限らない。
この「国民がどうなろうと国体だけは護持しなくてはならない」というのは法律に書いてあることではなく、日本人の共同体意識のようなものである。日本人の共同体意識といっても、例えば江戸時代の日本人はそんなことを思うことはなかったであろう。この国では、法よりも世間が優先する。法が世間の中にあると言ってもいい。それが悪いとか間違っているとか言っているのではない。
集団的自衛権が必要だという人たちは、日本はアメリカに何もできないけど、アメリカは日本を守って下さいと言えるのか。一定の役割分担が必要だという。この話はおかしい。言えるのかと言っても、そうするのが日米安保条約だろと思う。それで良しで日本もアメリカも了解して条約が結ばれたのである。
70年前、吉田茂はサンフランシスコの第6軍司令部プレシディオで一人で日米安保条約に署名した。吉田はよもや未来のこの国で「日本はアメリカに何もできないけど、アメリカは日本を守って下さいと言えるのか」みたいな発言が出てくるとは思ってもいなかったであろう。何度も言うが、それで良しなのが日米安保なのである。もちろん、そうした考えがでてきたっていい。吉田茂だって、安保はあの時代の選択であって、未来永劫、日米安保条約があり続けるとは思ってはいなかったであろう。
しかしながらそうであるのならば、じゃあ日米安保を変えましょうという話になるはずだ。わからないのは日米安保はこのままで、「日本はアメリカに何もできないけど、アメリカは日本を守って下さいと言えるのか」と言うということだ。実際のところ、今の日米の同盟関係の中で米軍と自衛隊の役割分担はある。安保タダ乗りというが、現行憲法の中で自衛隊はやるべきことをやっている。
政府は、憲法9条を変えることはたいへんだから、憲法はこのままにして集団的自衛権を認めるという解釈はオッケーにしましょうという方向のようだ。認めるのは、放置すれば日本が武力攻撃を受ける事態に限定するとのことだ。
またもや解釈でどうにでもなる、である。集団的自衛権を行使できるということは、外交のカードになり抑止力になるのだという。外交や軍事が解釈でどうとでもなると思っているのだろう。
「やる」のならば、憲法改正、安保改正、自衛隊法等の関連法の改正、自衛隊組織の抜本的な変更までやらなくては、自衛隊(でも日本国軍でも名前はなんでもいいけど)はオーストリア、フィリピン、インドネシア、インドへと拡大解釈していく以前にハワイ沖ですら軍事活動などできない。そこまで「やる」意志と予算が今の日本にあるのですかと問いたい。「やる」のならば、そこまでやらなくてはなんの意味もないのである。
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