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April 27, 2014

続・続・STAP細胞論文騒動

 理研が小保方晴子氏の論文を不正だとし捏造や改ざんがあったとしたのを見て、そこまで言うこともないだろうと思った。小保方氏が行ったことは不正や捏造、改ざんであると思われても仕方がないのだと教えるのは正しいが、オマエのやったことは不正や捏造、改ざんであったと言い切られてしまうと、そうした自覚はなくやった側はそうした事実はないと言うのは当然のことだろう。科学の研究の目的は「体裁的に正しい論文を書くこと」ではなく、「未知の現象を論理的に解明すること」であり、「自分が発見した事実を科学者共同体に正しく伝えること」である。「体裁的に正しい論文を書くこと」はその事務的手続きにすぎない。勿論、だからと言って論文の体裁がどうでもいいとは言わない。論文の体裁が正しくなければ「自分が発見した事実を科学者共同体に正しく伝えること」が効率的にできない。

 小保方氏が咎められるのは「体裁的に正しい論文を書くこと」ができていなかったことであり、であるのならば「体裁的に正しい論文を書くこと」をすればよいだけのことで、これを不正だとし捏造や改ざんがあったとするのは理研側の管理責任はどうなるのかということになる。

 理研は研究機関であり大学ではない。博士号を持っている30歳の研究者に教育責任などないと言うかもしれないが、研究機関とは教育機関でもある。研究者は大学院を卒業すればそれで学ぶことが終わりになるわけではなく、生涯、いち学生のようなものだ。研究の方法論について、年齢がいくつになろうと、職責がなにになろうと、これでいいのかと絶えず自問自答している。管理者側もまた、そうした研究者を育てる組織であることはどのようなことなのだろうと自問自答していく組織でなくてはならない。

 その小保方晴子氏を糾弾する理研の側の調査委員長もまた過去の論文にデータ切り張りなどの「不正」があったことが発覚した。本人は「不正」ではないと言っているが、小保方氏を「不正」だとするのならば自分もまた「不正」と言われても仕方がないであろう。「不正」などというものではないと言えば、確かにその通りで、こうしたことを「不正」であると言い立てる必要は本来どこにもないはずであるのに、「不正」だと言い立てている以上、理研はひっこみがつかなくなってしまった。小保方氏の弁護士は「自身の論文の切り張りが不正でないなら、小保方氏の場合も同じではないか。調査委の調査は信用できないと感じた」と述べているという。当然、そうなる。

 天下の理化学研究所が、である。そのテイドのところだった、ということになる。その権威の失落は理研自らが招いた。コピペや切り貼りは不正どうこうではなく、「ワカイモンへの指導が至りませんでした。今後、きちんと指導していきます。ぺこり」で終わりにすれば、こうしたことにはならなかったはずだ。責任者というのは、ワカイモンの不祥事の後始末をするために責任者をやっているのである。

 STAP細胞論文騒動の根は深い。この騒動は、この国の教育や組織や報道の今の姿を映し出していると思わざるえない。なぜ話がどんどん本来の姿から離れていくのだろうか。つまりは、なにを軸とすべきなのか、何を考え、何を考えなくてよいのかという判断ができていないということだ。それは正義を声高に叫ぶのではなく、その場その場で立ち止まって考え、模索していく以外に方法はない。

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