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April 2014

April 30, 2014

オバマの尖閣諸島は安保の対象になる発言を考える

 昨日述べたオバマの尖閣諸島は安保の対象になるという発言はなんら意味を持たないということについて、詳しく述べてみたい。というか、今回のオバマ合衆国大統領の訪日はなんであったのかについて述べたい。

 マスコミでは今回のオバマ合衆国大統領の訪日で最も意義あったことは、オバマ米大統領が共同記者会見で「日本の施政下にある領土、尖閣諸島を含め、日米安保条約第5条の適用対象になる」と明言したことだと言われている。尖閣諸島に中国が侵攻してきたらアメリカが阻止してくれることをアメリカの大統領が言ったんだぞと中国に対して示したということなのだろう。

 そもそも尖閣を日本の領土とするのならば、それを日本人の手で守ると言うのではなく、アメリカの兵隊さんに守ってもらうということを合衆国大統領が言ったと喜ぶのは独立国家としていかがなものか。本来は、アメリカがどうであろうと、日本は日本人の手で断固として尖閣諸島を守るという態度を見せるべきではないのか。こうした日本の姿が中国や韓国から見て日本はいかなる国であるのかを伝えていると思うのであるが、どうであろうか。

 とりあえずそれはそれとして、オバマの発言である。

 ここでポイントは二つある。ひとつは「日本の施政下にある」。「日本の施政下にある」というのは、尖閣諸島で言えば日本が実行支配している場所であり、その意味においてオバマが言うように尖閣諸島は日本の施政下にある。しかしながら、中国が実行支配してしまうと日本の施政下ではなくなる。つまり、中国軍が上陸して占領してしまったら日本の施政下ではなくなるので日米安保の対象にはならなくなる。沖縄とか九州とかは実効支配云々ではなく明確な日本の領土であるため、中国軍が上陸して占領した場合は明らかに侵略行為になり、そうなっても日本の施政下である。アメリカ軍は戦う義務がある。しかしながら実効支配でどうにでもなる領土問題の場所は、中国が占領すれば中国の施政下の場所になり日米安保の対象にはならないということなのだ。

 もうひとつのポイントは「日米安保条約第5条」である。この条文には「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処する」とある。「自国の憲法とは日本は日本国憲法であり、アメリカは言うまでもなく合衆国憲法になる。合衆国憲法では、宣戦布告権や軍隊の編成権、歳出権などは大統領にではなく連邦議会に属している。つまり、尖閣諸島で紛争が起きた時、連邦議会の承認がなくてはアメリカ軍は出てこれない。いまや財政危機のまっただ中にあり、国防予算を切り詰め、シリア攻撃を認めることがなかった連邦議会が遠い極東の洋上の岩っころのためにアメリカの兵士を戦場に送ることを承認するであろうか。常識的に考えればよくわかるであろう。

 このように今回のオバマの発言は、政府やマスコミや言っているような尖閣についてアメリカが対応してくれるという発言ではなく、尖閣についてはアメリカはこれまで通り淡々とやっていく(ようするに、なにもしない)と合衆国大統領が言ったということなのである。オバマの発言は中国にかなり配慮した発言だった。

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April 29, 2014

フィリピンの米軍再配備

 今回のオバマのアジア歴訪の最大の目的はフィリピンとの新軍事協定の調印だったのだろう。フィリピンでは1991年に火山の災害によって米軍基地の使用が不可能になり、さらに市民からの米軍の基地反対運動により米軍は撤退していた。それから約20年がたった今、アメリカは再びフィリピンに基地を置くことになった。

 ここで話を大ざっぱに広げたい。

 その昔、大文明帝国であった中国は海洋にはさほど関心は持たず大陸の内陸国家であった。その隣の日本列島にも高度な文明社会があったが、16世紀以後、この島国の政府(幕府)は鎖国政策をしていて、この国もまた海洋にはさほど関心を持っていなかった。そういうわけで、アジアの海洋はどこの国がどうということはなく、明確な国境線があるわけでもなく、複数の国々がおのおの独自のルールでやっていた分権的な場所だった。

 この海域に近代国家的な秩序をもたらしたのはイギリスである。19世紀にイギリス人のトーマス・ラッフルズがマレー半島南端の島に自由貿易港と植民地を創設した時から、アジアの海洋の近代史が始まったと言って良い。以来、アジアの海はイギリスが支配した。このインパクトから日本は明治維新を起こし近代国家への道を進み始める。20世紀のアジアにおける第二次世界大戦の発端の一つには、このイギリスの海洋覇権に対する日本の抵抗があった。その結果は日本の敗北に終わる。

 そして第二次世界大戦以後、アジアの海の支配者はイギリスからアメリカに遷り今日に至る。イギリスにとってシンガポールがあったようにアメリカは日本を置き、アメリカと日本がこの海域の覇権国になった。

 このアメリカの覇権に対抗しようとしているのが、経済大国になった中国である。当然というか、あたりまえというか、アメリカが作った今の世界秩序は欧米や日本にとって都合が良いようにできている。これに対して中国が異を唱えることはしごくうなずけることだ。

 そこに他国が作った秩序がある場合、これを変えるには二つの方法しかない。武力で無理矢理変えるか、合理的な論旨をもって変えるかのどちらかである。今の習近平がやろうとしているのは前者だ。海軍の増強に力を入れ、軍事力をもってこの海域に影響力を持とうとしている。欧米が作った秩序にのっとって時間をかけて合理的な論旨で変えていくより、武力で威圧して変える方が手っ取り早いと思っているのだろう。

 これに対してオバマは今回、アジアの同盟国を歴訪し、中国の行動を牽制した。中国は南沙諸島などでフィリピンの船舶の航海を妨害し、南沙諸島を自国の領土と宣言している。今回のフィリピンの米軍再配備はそれに対するフィリピンとアメリカの対応だ。

 アメリカ本国には中国と全面的に軍事対立する財政がない。従ってアメリカとしては同盟国を有効活用して中国に対抗するしかない。シンガポール、マレーシア、ベトナム、フィリピンが共同して中国の前面に立ち、背後にオーストラリアと日本がいて、さらにその背後にアメリカがいるというのがアメリカのアジア戦略である。これはオバマ民主党政権の戦略というより、今後共和党の政権になったとしてもこの方向は変わらないであろう。

 さらにこのことは、もはや沖縄というか日本はフロントラインではないということを意味している。だから日本の在日米軍の実戦部隊は縮小、というかフィリピンやグアムやオーストラリアへ移動するのである。少数精鋭の部隊を配置して、全体的な規模は小さくしコストを下げるのがこれからのアメリカ軍の方向なのである。TPPでのアメリカとの交渉が決裂したことを見てもアメリカの日本離れは大きなものになっている。オバマの尖閣諸島は安保の対象になるという発言はなんら意味を持たない。むしろ中国側を重視した発言であった。オバマは結局、議会の承認がなくてはアメリカは出てきませんと言っていることになるのだ。

 ラッフルズがシンガポールを創設して以来、アジアの海洋の覇権を巡る争いは米中の争いになろうとしている。その一方で経済も科学技術も19世紀や20世紀とは違う世の中になっている。ボーダーレス・ワールドである今の時代は、もはや「覇権国」という概念自体が成り立たなくなっていることも事実だ。今の時代は一国でアジアの全域を支配することはできない。

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April 27, 2014

続・続・STAP細胞論文騒動

 理研が小保方晴子氏の論文を不正だとし捏造や改ざんがあったとしたのを見て、そこまで言うこともないだろうと思った。小保方氏が行ったことは不正や捏造、改ざんであると思われても仕方がないのだと教えるのは正しいが、オマエのやったことは不正や捏造、改ざんであったと言い切られてしまうと、そうした自覚はなくやった側はそうした事実はないと言うのは当然のことだろう。科学の研究の目的は「体裁的に正しい論文を書くこと」ではなく、「未知の現象を論理的に解明すること」であり、「自分が発見した事実を科学者共同体に正しく伝えること」である。「体裁的に正しい論文を書くこと」はその事務的手続きにすぎない。勿論、だからと言って論文の体裁がどうでもいいとは言わない。論文の体裁が正しくなければ「自分が発見した事実を科学者共同体に正しく伝えること」が効率的にできない。

 小保方氏が咎められるのは「体裁的に正しい論文を書くこと」ができていなかったことであり、であるのならば「体裁的に正しい論文を書くこと」をすればよいだけのことで、これを不正だとし捏造や改ざんがあったとするのは理研側の管理責任はどうなるのかということになる。

 理研は研究機関であり大学ではない。博士号を持っている30歳の研究者に教育責任などないと言うかもしれないが、研究機関とは教育機関でもある。研究者は大学院を卒業すればそれで学ぶことが終わりになるわけではなく、生涯、いち学生のようなものだ。研究の方法論について、年齢がいくつになろうと、職責がなにになろうと、これでいいのかと絶えず自問自答している。管理者側もまた、そうした研究者を育てる組織であることはどのようなことなのだろうと自問自答していく組織でなくてはならない。

 その小保方晴子氏を糾弾する理研の側の調査委員長もまた過去の論文にデータ切り張りなどの「不正」があったことが発覚した。本人は「不正」ではないと言っているが、小保方氏を「不正」だとするのならば自分もまた「不正」と言われても仕方がないであろう。「不正」などというものではないと言えば、確かにその通りで、こうしたことを「不正」であると言い立てる必要は本来どこにもないはずであるのに、「不正」だと言い立てている以上、理研はひっこみがつかなくなってしまった。小保方氏の弁護士は「自身の論文の切り張りが不正でないなら、小保方氏の場合も同じではないか。調査委の調査は信用できないと感じた」と述べているという。当然、そうなる。

 天下の理化学研究所が、である。そのテイドのところだった、ということになる。その権威の失落は理研自らが招いた。コピペや切り貼りは不正どうこうではなく、「ワカイモンへの指導が至りませんでした。今後、きちんと指導していきます。ぺこり」で終わりにすれば、こうしたことにはならなかったはずだ。責任者というのは、ワカイモンの不祥事の後始末をするために責任者をやっているのである。

 STAP細胞論文騒動の根は深い。この騒動は、この国の教育や組織や報道の今の姿を映し出していると思わざるえない。なぜ話がどんどん本来の姿から離れていくのだろうか。つまりは、なにを軸とすべきなのか、何を考え、何を考えなくてよいのかという判断ができていないということだ。それは正義を声高に叫ぶのではなく、その場その場で立ち止まって考え、模索していく以外に方法はない。

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April 20, 2014

映画『パンドラの約束』を見た

 もととも反原発論者であったロバート・ストーン監督が撮影をしていくにつれ原発推進派になったという原発推進ドキュメンタリー映画『パンドラの約束』を見た。この映画は去年のサンダンス映画祭で上映され、かなりの論争を巻き起こしたということは知っていて、日本でも早く公開されないかなと思っていた。ようやく日本でも公開するということで、さっそく期待して見に行った。

 見てみると、この映画は原子力エンジニアリングの理想論の映画であった。この映画が言っていることを簡単に整理すると以下の5点だろう。

(1)地球温暖化を避けるためにはクリーンなエネルギーである原子力しかない。
(2)次世代の原発は全電源が喪失しても自動で停止する機能があるから安全である。
(3)廃棄物は100万年保存する必要はなく、次世代の原発は廃棄物を再利用し最終的には300年ぐらいの保管でよい。
(4)次世代の原発は核ミサイルの核弾頭を燃料にして稼働することができる。核兵器の拡散を防ぐことになる。
(5)太陽光や風力など再生可能エネルギーは今日の電力需要をまかなうことはできない。

 この映画を見ながら、これを福島の人々が見たらどう思うだろうかと思いながら見ていたが、きっとなぜこういうことにならなかったのかと思うのではないかと思う。この映画は原子力工学が描く輝かしい未来であり、この方向に向かって進んでいくのならば福島県だけではなく原発を誘致した各地の市や街や村は前途洋々たる未来が待っているはずだった。

 はずだった、ということがそうはならなかった、というところに原発の問題がある。カネと時間をかければいくらでも安全な原発を作ることは可能だ。ところが実際のところ、エンジニアの納得ができるまでカネと時間をいくらでもかけて良し、にはならなないではないか。こんなことは原発の話ではなく、世間の至るところである話だ。

 環境問題を解決する唯一の方法は、新しいテクノロジーに基づく原子力発電であるというのが、この映画の中心的な主張だ。この考え方が、そもそもオメデタイとしか言いようがない。電力発電だけ二酸化炭素をださないとして他はどうするのだろうか。この次世代原発の開発には、日本のメーカーも関わっている。日本が原発をやめることになれば、そうした日本の原子力工学の技術が消えてしまうということは事実だろうが、だからなんですかと言いたい。これまで消えた技術は他にも数多くある。

 かりに全電源が喪失しても安全を維持できるとか、廃棄物の処理に膨大な年月がかかることなどは工学的に解決可能であろう。311の原発事故は次世代原発の実用化を待つまでもなく、今の技術でも十分可能だった。しかしながら、工学的にそうなんだから、それですべてオッケーで、さあ原発を推進しましょうという話になるというわけではない。

 最新の原発は絶対に安全な仕組みになっていることが事実であったとしても、事故の可能性を排除することはできない。311以後、原発の事故は起こりえるという前提で考えなくてはならなくなった。事故が起きた場合の住民の避難計画や汚染対策や環境に与える短期的、長期的な影響への対応も必要になる。そうした事故が起きた場合のコストを、この映画は扱っていない。

 技術イノベーションによって原発の安全性は高まり、廃棄物の処理が簡単になったということはよくわかった。では事故が起きた場合のコストは少なくなったのだろうか。半分になったのだろうか。三分の一になったのだろうか。ゼロになったのだろうか。そうしたことについて、この映画はなにも語らない。風力や水力、地熱などでは十分な電力の供給ができないというのも、それこそ今後の技術革新でどうとでもなる話しだ。原発の未来のテクノロジーを信じろと言うのなら、なぜ再生可能エネルギーの未来のテクノロジーを信じろとは言わないのか。

 上記の5点で「私は原発には反対だったけど、よく考えたら原発は正しい、原発推進派に転向しました」と考える人は短絡的思考であるとしか思えない。

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April 06, 2014

集団的自衛権のバカバカしさ

 政府は集団的自衛権の行使容認の方向へ進んでいるようだ。集団的自衛権とはなんであるのか、よくわからないのであるが、どうも米軍が有事の際に自衛隊が援助することのようだ。しかし、アメリカ海軍が日本の海上自衛隊に援助を頼むことが、そもそもあるのだろうか。あるとしたら、かなり下請け的な作業になるのではないか。つまり、集団的自衛権の行使容認とは自衛隊の下請け化なのだろう。

 そんなことは納得がいかないと言っても、事実、アメリカ海軍と比べて今の海上自衛隊の内容ではその程度の援助になる。そうではなく、しっかりとアメリカ海軍をサポートするというのならば、防衛省にそれ相応の予算をつけてもらわなくてはならない。しかし、そんなカネがどこにあるのだろうか。

 集団的自衛権の行使を容認して、米軍の支援、シーレーン防衛での他国軍との共同作戦、朝鮮半島有事の際の対応など自衛隊が担うべき役割は大きい。では、そうしたことを行う軍隊とはどのような組織や設備や装備、人員が必要なのか。それが決まれば、それを実現するためにカネがいくらかかるかはわかる。さて、ではそのカネはどうするんですか、という話になる。

 しかしながら、そうした話はいっこうに出てこず、集団的自衛権を容認して自衛権の活動範囲を拡大し、世界規模で自衛隊の戦力行使を可能にしたいという希望というか願望だけが一人歩きをしている。実質的な話がなにもないのは、自衛隊を今の装備で紛争地帯に送りだそうとしているのだろう。そうしたことは、これまで何度もあった。

 軍隊にはカネがかかる。戦後の日本が軍事をまともに考えてこなかったのも、戦後復興の日本には軍隊にまわすカネがなかったということから始まった。とりあえず対面的に警察予備隊を作り、実質的な国土防衛は米軍に依存する。それが戦後日本の選択であった。

 その路線は、戦後復興が終わり経済大国になってもそのままであった。軍隊などというものに、カネをかけずにすむのならばそれにこしたことはなく、軍備にカネをかけずひたすら経済成長を走ってきたのが戦後の日本であった。ここにきてそれはどうも宜しくないことなのではないか、日本もまた他国と共に軍隊を派遣すべきではないかという声がでてきて、憲法改正しようとか集団的自衛権の行使容認しようとかということなのだろう。

 そうであるのならば、それはそれでいい。軍隊にはカネがかかるという、最初の話に戻るだけである。ところが、その点について政治家のみなさんは戻る気があるとは思えない。これまで本土の専守防衛を目的として作られた軍隊を、世界規模で活動ができる軍隊にするには、どれだけの予算が必要か考えてものを言っているようには思えない。

 集団的自衛権の行使容認は、自衛隊の抜本的改革が前提になる。そうした話が出てこないのはなぜか。そうしたリアルで実質的なものごとを踏まえた上で、専守防衛でなぜ悪いのか、海外に派兵をしなくてはならないのかという話になっているとはとても思えない。この国では自衛隊はいつも政治や外交の道具でしかなく、軍事が上っ面だけの底の浅い論議になるのはなぜなのか。自民党の石破茂幹事長は地球的規模で自衛隊が活動できるようにすると述べているが、これを見ても自民党の集団的自衛権の行使容認はまとまりがなく枠組みも目的もあいまいな願望でしかないことがよくわかる。

 ようするに、今の自衛隊でやれということなのだろう。それがどれほどバカバカしいことか、わかっているのだろうか。

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April 05, 2014

「韓国が不法に占拠している」

 4月5日の産経新聞によると

「文部科学省は4日、平成27年度から小学校で使われる教科書の検定結果を公表した。領土教育の充実が求められる中、島根県の竹島や沖縄県の尖閣諸島について、5、6年生用の社会の教科書が初めて「日本固有の領土」と明記したほか、「(竹島を)韓国が不法に占拠している」と説明するなど、政府見解を踏まえた記述が全社の教科書に登場した。」

という。

 自分が小学生の頃の社会の授業で、領土についての話があったのかどうかさっぱり憶えていない。小学校に限らず、中学、高校でも社会科など教科書に何がどう書いてあろうとも試験が終わったらきれいさっぱり忘れるものだ。その意味において教科書の記述がどうであろうとも、どうでもいいと言えばどうでもいいと言える。どうでもいいことなのであるが、教科書には国の検定というものがあり、社会科の教科書はコレコレの記述でなくてはならないという声がある。かくて、教科書の出版社や現場の教師は右往左往する。

 「竹島は日本固有の領土です」だけではなく「韓国が不法に占拠している」という文言がつく。この文言は、小学校の教科書に記載すべきものなのだろうか。

 事実そうであろうというのならば、日本側の見解ではそうであろうが、韓国側の見解ではそうではない。国によって見解が異なるのが領土問題である。日本国の小学校なのだから、日本国の見解で教えてなにが悪いという意見もあるだろうが、であるのならば、領土問題は国よって見解が異なるという事実も教えなくてはならないのではないかと思う。しかしながら、小学生にそれを教えてもわかるとも思えない。だからこそ、教科書には「竹島は日本固有の領土です」で十分であり、それ以上、それ以下の文言は不用だと思う。

 「韓国が不法に占拠している」というのは日本政府から韓国政府への抗議であり、それは正しいことであるが、外交の場で言うべきことであって、小学校で言うべきことではない。小学校の授業に政治や外交を持ち込むべきではない。クラスに韓国人の子がいたら、その子はどんな気持ちになるか。友達に韓国人がいたら、その子はどんな気持ちになるか。そうしたことを政府は考えたことがあるのだろうか。

 小学校の先生は授業で「韓国が不法に占拠している」と言わなくてならないのだろうか。言う側もイヤだろうが、聴く子供の側もなんのことかさっぱりわからないだろう。

 小学校の教科書に「不法に占拠している」と書かれるとなると、韓国政府としても抗議せざる得ない。 韓国の中央日報によると

「韓国政府が4日、日本の小学校の教科書検定発表と関連し、別所浩郎・駐韓日本大使を外交部に呼んで強い抗議の意を伝えた。外交部は、日本が過去の歴史に関する不適切な行動を中断することを強力に促す方針だ。」

とのことだ。

 日韓や日中の紛争の原因になっている洋上の岩っころと言えば、竹島ほど洋上の岩っころ以外の何者でもなく、このブログで何度も述べているように、私は暴論ではあるが竹島は爆破して海に沈めてしまえばいいと思っている。こんなものがあるから日韓関係がもめるのだ。

 いや、竹島が重要なのではなく、ここを日本の領海とし、その周辺の海底の資源が云々という声もあるが、海底資源の話は別の話だろう。海底資源が欲しいのならば、はじめからそう言えばいいのであって、竹島が日本の領土だ、韓国の領土だと言い合うことはない。しかし、げんに言い合っているのは竹島の話だ。

 さらに言えば、領土問題は日本と韓国や中国との間だけではなく世界の数多くの国々にある、いわば「当然のこと」「常識的なこと」であって、とりたてて大騒ぎするものではない。大騒ぎするものではないのだが、大騒ぎをしているのが韓国であり、そうなると日本も黙ってはいられなくなり、日本の右派は「韓国は不法に占拠している」と言わざるを得なくなる。右派がそうしたことを言うのは当然と言えば当然である。しかしながら、今の日本は政府もそうしたことを声高にいい、小学校の教科書に記載せよということになった。ここまでになると、いかがなものだろうかと思う。

 子供に教えるべきことは「韓国が不法に占拠している」ということではなく、洋上の岩っころことで日本と韓国が争い合うことの愚かしさではないのか。できることならば、GoogleEarthでの日本列島と朝鮮半島と竹島の映像をプロジェクターに映しながら、1千年前からのタイムスケールでこの海域で暮らしてきた人々の営みや、やがで近代になって国境線ができて現在に至る歴史を教えるような授業ができないものだろうか。

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